短編:貴志とこのは
貴志とこのはが初めて会ったのは、貴志が二十七歳、このはが二十二歳の時。
貴志の勤める会社にこのはが新入社員として入ってきたのだった。
二十人ほどの新入社員の中で何故か貴志はこのはだけが特別に見えた。どうしてなのかわからないけれどこのはもまた、大勢の先輩社員の中でふっと貴志に眼がいったのだった。
その後、会社でイベントや懇親会がある都度に二人の距離は、近づいていった。
あれから二年、二人はいつ「結婚」の二文字を切り出されてもいい、誰もが認める恋人の仲になっていたはずだった。だが、半年前から貴志の仕事が忙しくなった頃から、二人の間に小さなすれ違いが生じ始め、少しづつ小さな溝が出来て行くのを貴志とこのはは心の隅で感じ始めていたのだった。
ある日、いつものお店でお昼を共にした日曜日。
無口な貴志がついに先に口を開いた。「充電期間を置かないか?」
このはもまた、このままだといつかは聞くことになるだろうと感じていた言葉だった。
いつもはおしゃべりで明るいこのはも「そうだね。」って言うのが精一杯だった。
二人は、黙ったまま店を出て、黙ったまま山手線の駅へと歩いた。
心の中では、何か言わなければと思うのに言葉が出て来ない。
貴志は、どちらかと言うと無口な性格だった。いつも明るくておしゃべりなこのはが話を切り出し、貴志がうなづいて話が広がって行く、そんな二人だった。
でも、今日はこのはも言葉が出て来ない。 「あの時の野球の試合面白かったね。」とか、「あの店のスパゲティが美味しかったね。」とか、そんなどうでもいいいつもはすんなりと出てくる全ての言葉が、行き先を失ったように胸の奥に沈んでいく。何か言わなければと思いながらも言葉にすることは出来なかった。
いつもは話を切り出すことが少ない貴志が久しぶりに切り出した言葉が、別れの言葉になるとは、一年前は想像もつかなかった。
充電期間が、一ヶ月なのか半年なのか一年なのか。もしかしたら永遠に充電完了のアラームは二人の胸には響かないのかもしれない。
二人は黙って駅のホームに立っていた。
近過ぎることも無く遠すぎることも無い目に見えない距離が二人の間にあるように見えた。
この駅から三つ目の駅で貴志は降りて、別の路線へ乗り換えて行く。そこから二人は別々の道を歩き始めるのだろう。
構内アナウンスが響き、電車の警笛が聞こえる。
貴志は言葉を失ったように、ただただ入って来る電車を見つめていた。このはもまた、貴志の横顔を見つめ、その視線を今度はわずかに見える空に移しながら、何度も波のように押し寄せる様々な言葉を深く胸に飲みこんでは、電車の音を遠くに聞いていた。
その時だった。
一人の中年の男性が、何も言わずにホームに飛び降りた。
それは貴志とこのはの目の前で起きた一瞬の出来事だった。
そこへ電車が鋭い警笛と激しいブレーキ音を響かせながら入ってきた。
男性の姿は見えない。電車は男性が飛び下りた所より、ずっと先で止まった。
人々の叫び声が響き、駅員が叫びながら駆け寄って来る。
貴志は自分が震えているのがわかった。そして、何故かこのはの手をしっかりと握っている自分に気がついた。このはの手は貴志よりも震えていた。
二人は、釘づけにされたように動けない。
しばらくして、遠くに救急車のサイレンの音が聞こえた時、やっと貴志は何かに憑かれたように走り出した。手はしっかりとこのはの手を握りしめたまま。
人の波がなくなるまで、貴志はこのはの手を握りしめたまま走った。
ホームの階段を駆け下り、駅員が無人になった改札口を無理やり出たところで貴志はやっと走るのを止めた。
可哀そうなこのはは、青ざめたまま、まだ震え続けている。
貴志は、このはを握りしめたいた手を外すとそのままこのはをきつく抱きしめた。
いつも明るくて元気なこのはは、本当は僕が守ってやらないとこんなにも小さくて弱弱しい存在だったのだと貴志は、初めて知った。
抱きしめられながらこのはまだ震えていた。怖かった。ただ怖かった。
でも、貴志が居る。私には、守ってくれる貴志が居る。
このはは、震える体をただずっと貴志にゆだね続けた。
それから二人がどうなったのかは、私は知らない。
次の日、その事件は新聞の片隅に小さく載ったけど、それを貴志とこのはは見ただろうか。
2011/1/20
短編:貴志とこのは