心から誰かを憎んだことはありますか?

殺せなかった。
喫茶店で支払いを済ませ、店を出て行くあの女の後姿を見て、漠然と思った。

殺せなかった。

私はあの女を心から憎んでいた。あの女を殺すために生きてきたと言ってもいい。殺意も十分にあった。今まであの女が死ぬところを何度も想像してきた。なのに、なぜ?なぜ、私は殺せなかったのか。同情した訳でもない。憐れんだわけでもない。あの女のしたことを許したわけでも、水に流したわけでもない。
なのに、なぜ?
何度自分に問うても答えは出ない。そのことに私はいらだち、戸惑い、自分の手を握った。握った右手の親指の付け根には小さなホクロがある。あの女の右手にも私と同じ位置に小さなホクロがあった。
私はそのホクロの真ん中に爪を立てた。ホクロを真っ二つに切り裂くように。

あの女は私の母親だ。


虐待を受けた子どもは自分を責めるらしい。親が自分に暴力を振るうのは自分がいい子じゃないからだ、自分が悪いからだ、いい子にならないと…。そう思って自分を追い込んでしまうらしい。
けど、私は違った。
私はあの女が振るう暴力の理不尽さも、私が悪くないことも理解していた。そして、いつか絶対立場を逆転させてやると思っていた。今はこの女に屈するしかないけれど、いつか絶対に立場を逆転させて、思い知らせてやると。
憎んでいた。心の底から。憎しみという感情があることすら分からないときから、私のあの女に対する憎しみはあった。
それがいつ殺意に変わったのかは分からない。けれど、市役所の人が近所の人から通報があったと言って家に来たとき、これはチャンスだと思った。こいつを貶めるチャンスだと。これはしつけの一貫だと言い張る女をしり目に私はされてきた暴力を全て話した。市役所の人は私の話を録音し、あざを確認した。そして、その日のうちに児童養護施設に入ることが決められ、女は私に会うことを禁止された。
施設に入ることであの女からは逃げ出すことができた。施設の職員たちはとても優しく、そして、私を憐れんでくれた。施設で一緒に暮らしていた子の中には私と同じで虐待を受けた子もいた。みんな不器用で何かを不安に思っていて、みんな優しかった。
その子たちの中に、殺意はなかった。殺意があったのは、私だけだった。施設に入ることで私は自分の本性が分かった気がした。他の子にはあり、私には欠落しているものがある。それは“優しさ”だ。私には優しさがない。思いやり、慈しみ、それらは全て私には欠けているものだ。それが虐待を受けたせいではないことは十分に理解していた。もともと“私”という器の中には優しさは入っていないのだ。
だから私は、優しいふりをした。
いつも笑顔で、何事も人を優先させ、小さい子の面倒をよくみるようにした。そうすることで、施設では「優しい子」というレッテルをもらえた。学校でも同じようにしたが、唯一違ったのはどのグループにも入らなかったことだ。ひとつのグループに入れば必ず別のグループと対立する。人と対立した時に、私は自分の本性が表に出てしまうかもしれないと思ったからだ。私は自分の本性がとても冷酷であることが分かっていたし、それが万が一、誰かに見破られてしまった場合、今の場所にはいられなくなるだろうということも分かっていた。だから私はどのグループにも入らず、どのグループの子とも仲良くした。施設での生活も、学校での生活もすべては順調だった。私の殺意を除いては。

私の殺意は私が成長するごとに確信へと変わっていった。“あの女を殺す”ということはほとんど義務のようなものになっていた。殺す方法を探すために刑事ものの小説をたくさん読むようになった。「優しい子」という役割を維持したまま殺す方法を探すのはこれが一番好都合だった。インターネットで探すことも考えたが、万が一、そんなことを調べていると知れ渡ってしまったら、と考えると自然とその方法は避けられた。そして、直接手を下す方法よりも力を使わないで、しかも残酷な毒殺を選び、使う毒を探し始めた。有毒なもとしてよく知られているものは青酸カリがあったが、入手手段が難しく水に溶けたときに有毒なシアン水素を発生させるので、あの女が一人でいるときでないと周りに被害が出るからやめた。他人に迷惑をかけず、なおかつ、入手が容易なもの。ずいぶん探すのに苦労した。そして、たどり着いたのは血糖値下降剤だった。血糖値下降剤はその名の通り血糖値を下げる薬だ。糖尿病患者が飲む薬で健康な人には毒と同じくらいのものらしい。殺す時にあの女が糖尿病だったら意味がないが、これしか方法はなかった。たまたまボランティアで施設の手伝いに来てくれるおばさんが糖尿病で、鞄の中にその薬を常備していたから盗むことが出来た。白い錠剤だった。私はそれを粉にしてカプセルに入れ、いつも持ち歩いた。もし、街中で出会ったら後をつけて家の場所を確認し、忍び込んで冷蔵庫の中の飲み物の中にでも入れようと考えていたし、もしかしたら急にチャンスが訪れるかもしれないとも思っていたからだ。
あの女の事は何一つとして忘れていなかった。顔、手、声、殴るときの表情、殴られた時の痛さ、その時の空気。すべてを正確に思い出すことができた。街中ですれ違ったとしてもすぐに分かる自信はあった。私は必ずあの女を殺すつもりだった。

残念ながらあの女と街中で出会うことはなかった。だけど、施設に入って10年がたった高2の秋にあの女から「会いたい」という申し出があった。裁判所はあの女を審査し、私と会うことを認めた。私はそのことを園長から聞いたときやっとあの女を殺せるチャンスが来たと思った。これで私の義務が果たせる。すぐに「会います。」と言った私に園長は心配そうな顔をして「一緒に行こうか?」と尋ねてきたが、私はそれを丁寧に断った。せっかくのチャンスを無駄にするわけにはいかなかった。

待ち合わせの場所は幸運にも喫茶店だった。飲み物でも注文すればその中に薬を入れることが出来るし、何も注文しなくても水は必ず出てくる。あの女は私に殺されるなんて考えてもいないだろう。きっと、私の身の回りのことを訪ねてくるに違いない。私はそこで、今まで通り「優しい子」のふりをして明るく話す。あの女に隙を作らせ、私が飲み物に薬を入れる。いける。私はポケットの中でカプセルを握りしめた。
溢れんばかりの殺意を抱きながら、私は小さな喫茶店の扉をあけた。
店の中は甘い香りと静かな音楽で満ちていた。客はほとんどいなくて、カウンターの真ん中に若い男性が1人と老夫婦が手前の席に1組、奥の席におばさんが一人いただけだった。あの女はまだ来てなかった。店の時計を見ると約束の時間までまだあと5分だった。カウンターの隅にでも座って待っておこうと一歩踏み出したとき、奥の席にいたおばさんがガタンと椅子の音をたてて立ち上がった。椅子の音に驚いた若い男性がおばさんの方を見たがすくに視線をそらした。私もすぐにそらそうとした。だけど、できなかった。そのおばさんは私を食い入るように見つめていた。目をそらすことが出来ないぐらいの真剣さで。おばさんはゆっくりと私の方に近づいてくる。私はその人が誰だか分からなかった。なんでこっちに来るのだろうと思っていた。その理由が分かったときはすでにおばさんは私の1m手前まで来て止まっていた。私は声を上げそうになった。
「奥の席でいい?」
目の前に立っているおばさんが問うてくる。私は頷くので精一杯だった。
目の前にいるおばさんは、あの女、つまり、私の母親だった。
そう、今まさに私がこれから殺そうとしている女だった。
信じられなかった。私はこの女が分からなかったのだ。
席に着いて改めて女と向き合うと、確かに顔はあの女だった。ただ、何かが違う。私がずっと殺そうと心に決めていた女と決定的に何かが違う。
「10年ぶりぐらいね・・・。あのときは本当にごめんね。」
弱々しい声で、まるで独り言のように私に謝った。
そう、弱々しい声で。私に謝ったのだ。
信じられなかった。私の記憶ではこんな弱々しい声を出す女ではなかった。あの女が謝るなんて考えもしなかった。よく見ると髪の毛には白髪が目立っていた。顔にはしわやシミが出来ていた。まるで、街中によくいるただのおばさんのようだった。
そう、ただのおばさんだった。
私はただのおばさんを殺そうとしていたのか?
私はただのおばさんに屈していたのか?
違う。
絶対に違う。
違うと誰かに言ってほしかった。けれど、目の前の現実は私の否定してほしいことを肯定していた。
あの女はただのおばさんだ。
私はただのおばさんに虐待を受け、ただのおばさんから逃げ、ただのおばさんに殺意をずっと抱き、ただのおばさんを殺そうとしていたのだ。
そう思うと急に殺意が萎れてきた。10年間抱き続けた殺意がこの数分の出来事で萎れていくことに対して、自分で驚き、そして、その驚きがより一層、私の殺意を萎れさせた。
目の前のおばさんが何か言っている。
私はほとんど聞いていなかった。頷くので精一杯だった。そのうち、目の前のおばさんが立ち上がって、「じゃあ、お支払いは済ませておくからね。」と言って去って行った。
どういう話の流れでそうなったかさえも分からなかった。ただ、私の中にあったのは“殺せなかった”という漠然とした思いだけだった。
殺せなかった。
殺せなかった。
殺せなかった。
私はあの女を殺せなかった。

親指の付け根のほくろ、あの女と同じ位置に合ったほくろに爪を立てた。

相当、茫然としていたのだろうか。店員が「大丈夫?」と声をかけて来た。私はゆっくりと「大丈夫です。」と答え、やっと店を出た。
もう何も考えたくなかった。
誰にも会いたくなかった。
ただ、足が動くままにこの町を歩いた。何を思って歩いたか分からないが、気が付くと小さな公園の前にいた。そう言えば、昔暇なときはよくここで、ボーっと時間を過ごしていた。公園のベンチに座ると、ちょうど、小学2年生ぐらいの男の子と母親が帰るところだった。男の子はまだ遊びたがっているが、母親がもうすぐ雨が降ってくるから駄目だと諭している。そう言えばそんなことを朝の天気予報で言っていたような気がする。母親と男の子が公園で手を繋いで出て行く。男の子はまだ不機嫌そうな顔だった。すると母親が男の子の耳元で何かを囁いた。その瞬間、さっきまで不機嫌そうだった男の子の顔がたちまち笑顔になった。男の子が笑顔になると、つられてその母親も笑顔になった。笑顔で見つめあっている親子。その笑顔のまま手をつないで公園を出ていく。後姿からでもその親子が笑顔なのが分かるぐらい2人は幸せそうだった。
そのとき、私はすべてを悟った気がした。私はここでボーっと時間を過ごしていたわけじゃない。ずっとここで遊ぶ親子を眺めていたのだ。自分に手が届かないような時間をたくさんの小さな子どもたちがここで過ごしていく。私にとって羨ましいとか憧れとかそういうものを全て通り越したものがここにたくさんあった。決して手に入れることが出来ないからこそ、私はここでずっと眺めていたのだ。私はそれをずっと手に入れたいと思っていたのだろうか。それを欲していたのだろうか。分からない。今は?何も分からない。何度自分に問うても答えは出ない。ただ分かっているのは、あの女を殺すために用意したカプセルがまだ私のポケットの中にあるということだけだった。私はポケットの中からカプセルを取り出した。これがまだ私の手元にあるなんて考えもしなかった。憎んでいたのは確かだ。殺意があったのも、殺すつもりであったのも自信を持って言える。でも、現実は違う。カプセルは私の手の中にある。

急に頭に水滴が落ちてくるのを感じた。雨が降ってきたのだ。あの男の子の母親が言った通り、天気予報は当たったのだ。最初は小降りだったのがだんだん強くなってきた。けど、私はベンチから動かなかった。“動けなかった”の方が正しいかもしれない。雨に濡れるなんてどうでもよくなっていた。あっという間にびしょびしょになり、そのうち自分の頬が熱くなっているのに気付いた。私は泣いていたのだった。どうしてだろう。なんで私は泣いているのだろう。そう思うと急に嗚咽がこみ上げてきた。抑えきれなった。咳き込むと、次々と涙があふれてくる。
涙はとまらなかった。
次々とあふれ出て、雨と一緒に地面へ流れていく。
周りは誰もいない。
人の声も鳥の声すら聞こえなかった。
聞こえてくるのは雨の音だけだった。
 

私は心から憎んでいた。本当にずっと憎んでいた。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-13

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