チェイス

振り返る度に、同じ車が後続についていた。何かイヤな予感がする。

　ミラーに映る車に、宮崎は首を傾げ、眉を寄せていた。
　青になった信号に気付かず、慌ててサイドブレーキを外す羽目になったもそのせいだ。
　しかし走り始めてじきにピンときた。
　何の事はない、もやもやの正体は実にくだらない物だった。
　確かに、振り返る度に後続は同じ車だった。いや、形が一緒なだけで同じ車とは限らないが、不自然な偶然に違和感を覚えたのは間違いない。
　黄色と緑に塗り分けられた角ばった車輛。社名を模した白猫がボンネットの真ん中に描かれている。それは宅配最大手、シロネコ急便の専用車だった。
　当然、需要の多い大都市では同じ型の車が走り回っているに違いなく、宮崎は早とちりした自分に思わず苦笑する思いだった。
　しかし神奈川へ下る幹線道路に入ってから四度目の偶然を知った時、さすがの宮崎も確率論とやらを思い浮かべた。しかもフロントガラスごしに揺れるマスコットは、さっきの車にぶら下がっていた物と同じに見える。
　まさかずっと一緒だったとか？　いや、そんなはずはないか……。当然配達には担当区域があるはずで、一人でこんなに広い範囲を受け持つとは思えない。
　しかしスピードを上げると、相手も遅れまいとついて来る。しかも赤信号でブレーキを引いた時、なぜかハイビームのライトが二回フラッシュし、宮崎の気を引こうとした。いや、勝手にそう思っただけだが、意味のない行動が気にならないはずがない。
　何かイヤな予感がする。
　信号が青になったのを見て、宮崎はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
　この道は片側二車線で、交通量も多い。じきにウィンカーを出した宮崎は、少し強引に右車線へと移動した。もちろん相手の出方を窺おうと考えた小細工だった。
　単なる自意識過剰なのか確かめたい。
　流れに乗りながらスピードを上げ、再び左に戻って様子をみる。
　さあ、どうだ？　
　正直、自分でもバカげた行動だとは思ったが、見間違えようもない白猫マークが背後に現れた時、宮崎の顔面から血の気が引いた。
　これはおかしい。どう考えてもおかしい。
　宮崎は本来安全重視の、心優しきゴールド免許ドライバーだ。当然無闇な車線変更などしないし、スピードも流れを滞らせないように気を配ってきた。
　そんな彼が右へ左へ、車を縫うように走り出したのは、免許を取って以来の暴挙かもしれない。
　鬼気迫る荒い運転を嫌ってか、急に前方が開けると、迷わず速度を上げて突っ走る。この辺りの取り締まり事情は知らないが、最早そんな事はどうでもよかった。
　もう大丈夫だろう。優に五キロは移動したはずだった。車はそこそこ詰まっているし、おいそれとは追いつけまい。　
　ようやくひと息ついたはずの宮崎はしかし、僅か数十秒で自分の甘さを思い知る事になる。
　タイヤを軋ませてお尻に張り付いたのは、やはり白猫。敵は自分を見失いもせず、しっかりと跡をついて来た。
　パニックにならなかったのは幸いだった。ハンドルを力いっぱい握り締めながらも、宮崎の頭はまだ考える力を保っていた。
　一体何が目的なのか？、どこにでもいる一介のサラリーマンである自分に、付け狙われる覚えなどない。どこかで宅配業者の恨みでも買ったのか？
　あまりに露骨で執拗な追跡に、いやが上にも不安が増した。
　宮崎は前方を睨み付けながら、前後左右を確認し、同時に頭をフル回転させるという離れ業をやってのけた。
　そもそも宮崎が向かう先は自社製品の製造を委託している工場だったが、今日は近くのビジネスホテルに一泊し、明日から仕事という予定になっている。
　しかもいつも利用しているホテルの予約が取れず、会社に寄った際に、庶務の女の子から、ちょっといい部屋を奮発したと告げられたばかりだった。
　つまり会社の連中を除けば、真の行き先を知る人物は誰もいない。まだ妻にさえ電話していなかった。
　まあ、いい。取り敢えず理由は置いておこう。
　問題はどう対処するかだった。立ち向かうべきか、それとも逃げて逃げて撒くべきか？　
　横道に逸れて住宅街に入ろうかとも考えたが、この辺りの地理は詳しくない。もし行き止まりにでも追い詰められたら、万事休すだった。
　間違いなく相手の方が運転に長けている。下手な作戦は、却って自分の身を危うくしかねない。
　しかし長くない熟慮の末、ついに宮崎は心を決めた。
　例えうまく撒いたとしても、このままでは気持ちが悪い。こちらは向こうを知らないが、向こうは自分を知っている可能性が高かった。今後の憂いをなくす為にも話しをつけた方がいいだろう。
　ただ対決場所には人目が必要だ。身の安全を図るには、おいそれとは手を出せない環境が欲しい。
　そして遠目に現れたファミレスの看板。宮崎にはそこが条件を満たす場所に思えた。
　ハンドルを切ってファミレスの敷地に車を入れると、中途半端な時間のせいか、広い駐車場には空きが目立つ。
　それでも一段高い所にある建物には窓際の客の目があり、地続きで見通せる場所にはコンビニもある。むしろこちらの方が人が頻繁に出入りする分、抑止効果は高そうに思えた。
　宮崎は両者の中程に、しかも目立たせる為にわざと斜めに車を止めた。
　すると宅配業者のひと回り大きな車体が、悪びれもせず、寄り添うように滑り込んで来る。
　荷物室のスライドドアが音と共に開かれると、運転席から中を通って、一人の男が降り立った。
　残念ながら武器になるような物は見当たらず、命綱の携帯電話だけをポケットに入た宮崎も後を追うように車の外に出た。
　手を出すのは家族を守る時だけだ。それが宮崎の口癖だったが、実は喧嘩などからっきし。
　それでもすぐに動けるように、両手はだらりと脇に垂らして顔を上げた。ノーガード戦法。子供の頃読んだコミックに、そんなのがあった気がする。
　自分より明らかに若く、がっちりとした体格。しかも右手にはデパートの紙袋をぶら下げていた。
　チクショウ、武器まで持参かよ……。一瞬、妻と娘の顔が脳裏に浮かび、そして消えた。
　それでも尻込みしそうな自分を叱咤して、精一杯の虚勢を張って、宮崎は対峙する。
　一陣の風が二人の間を吹き抜けた。
　男の顔には笑顔があった。慣れた営業スマイルか？　余裕の証か？
　一歩先じようと口を開けた時、あろうことか男は自分の名前を確かめた。
「宮崎健一さんですよね？」
「そう……ですけど？」
「お届け物です。こちら娘さんから、……みたいですよ」
「…………」
　差し出された紙袋。「あんた、何の目的で……」そう続けようとした言葉は声にならずに呑み込んだ。
　おとどけもの……。その意味を理解した瞬間、軟体動物にでもなったように全身の力が抜けた。
　なるほど彼は荷物を届けるのが仕事だった。
　しかし娘はこんな離れ業を使ってまで何を送ってきたんだろう？
　いつまでも彼を待たせる訳にもいかず、宮崎は荷物を受け取った。
　貼り付けられた伝票の送り元は確かに娘の名前になっている。そして届け先の住所欄には、車のナンバーのみが記されていた。
　これだけで、どうにかなるものなのか？　しかし宮崎の目は内容欄を見て点になった。そこには”お弁当”と書かれていた。
　宮崎は紙袋の取っ手を開いて、中を確かめた。
　慌てて家を出たせいで、せっかく作ってくれた手作り弁当を忘れたのは確かだった。
　しかし……。しかし、ここまでする必要があるんだろうか？
　顔を上げると、男は笑顔を絶やさず、「受領欄にサインを下さい」と指差した。
「君ってすごいね。　どうして僕の車が分かったの？」宮崎は素直に疑問を口にする。
「プロですからね。これくらいは何でありませんよ」
「ホントかよ？」思わず言葉の語尾が砕けていた。
「いえ、冗談です。実は依頼主から携帯の位置情報の提供を受けてました」
「あ、そう……」種を明かせば何という事もない。
　ボールペンで名前を書き込むと、業者控えを破った彼は、そのまま、「ありがとうございました」と一礼してから背を向けた。
　冷蔵室に入ってたらしく、少しひんやりとした弁当を抱えたまま、宮崎は男が車に乗り込む様子を見詰めていた。
　今の宅配はすごいな。
　ウィンカーを出して、国道の流れに消える車を見送りながら、宮崎は感心半分、情報社会の恐怖半分の面持ちで立ち尽くしていた。
　携帯メールの着信に気付いたのは、それからしばらくしての事だった。

　＊＊＊

「もしもしカナちゃん？　ちゃんと届けたよ。嘘じゃないって。本当に届けたんだ。さすがに緊張したよ」
「……そこまでしなくていいって言ったじゃない」
　携帯を耳に押し当てた男には、彼女の呆れ顔が見えるようだった。
「でもお義母さんが行けって言うし……」
　初めて面と向かった義父の顔。
　もちろんこれは仕事じゃない。仕事ならこんな無茶など出来るはずがなかった。

　宮崎の妻は、娘に結婚したいと打ち明けられた彼をいたく気に入り、ならば夫への対策こそが肝要だととうとうと語った。
　ひとり娘を溺愛する夫は結婚を阻む難攻不落の要塞だ。
　宮崎の出張を狙うように自宅を訪れた彼。懐柔を狙って娘がこしらえたお弁当。その弁当が家に残されているのに気付いた時、妻の頭にある作戦が閃いた。
　顔見せを済ませつつ、仕事がデキる男だと印象付けようという無謀な作戦だ。
　
　宮崎は知らなかった。そんな彼が近々ある目的で自宅を訪れる予定だという事を。
　宮崎一人だけが知らずにいた。