幻想プロミス
「幻想だよ、ミサト」
彼の言葉は、いまだってまるで耳元で囁かれているみたいに、ひどく残酷に、生々しく蘇る。
朝日のそれよりも眩しいほどの笑顔をこちらに向け、天使のような顔で放った鋭利な言葉。
「だから、さよならしよう」
私はうなずけなかった。
泣き叫んで、すがることもできなかった。
*
問1 彼にいわれて嬉しかった言葉は?
──特になし。何をいわれても嬉しかった時期もあったようななかったような。
問2 結婚するなら、想いたい? 想われたい?
──うーん。想われなきゃやってけないよねえ(笑)。
問3 どこからが浮気?
──そういう質問が頭をよぎった瞬間なんじゃないの。
問4 ズバリどんな恋愛が理想?
「……それ知ってどうしたいの」
事務用のイスに体重をあずけて、私は天井を仰いだ。
吐き出した息が白い。初めて、終業から随分時間経ってしまったのだと気づく。それにしても、真面目に残業するかもしれないんだから、定時にエアコン切ることもないだろうに。早く帰れってことですね、ハイハイ。
体勢を持ち直して、ディスプレイとにらめっこ。ブログ編集画面をバッテンクリックで閉じて、本体の電源もオフにした。
五年前、暇つぶしに始めたウェブログ。日常のなんでもないことを、ほとんど毎日つづっている。これだけ続けていれば、ネット上のお友達もたくさんできて、質問満載の『バトン』なるものも回ってくるようになった。
ネタになるから、それ自体は嫌いじゃないけど。でも、このテのバトンは返答に困るのだ。
「あっきれた、あんたまたオタクしてんの。早く帰らないと、電気代がどーのって、上がうるさいよ」
からかうような時恵の声。顔を向けると、隣でおとなしくキーボードを叩いている昼間とは別人みたいな時恵がいた。夜仕様、対合コン向けの濃いメイクに、甘いフリルのミニスカート。どう見ても気合い入れすぎだ。
「呆れるのはこっちだよ。また合コン? おとなしく帰って大掃除でもしたら」
「ちょっと、こっちは真剣なんだから。クリスマスはムリだったけど、せめて新年はオトコと迎えたいじゃない。そのあとはバレンタインにホワイトデー、誕生日だって控えてて、行事だらけなんだから!」
時恵は頬を膨らまして抗議したが、化粧が崩れるとばかりに瞬く間に笑顔を取り戻した。両手を組み、うっとりと目を閉じる。どうせ、まだ見ぬ恋人に思いを馳せているのだろう。三十路手前にしてこの乙女チック回路、正直尊敬する。
実際、飽きもせず、よくやるものだ。私の知る限りじゃ、ほとんど毎週のように週末は合コン。学生時代からモテる女だったけど、誰と付き合っても長続きしない。とっかえひっかえというやつだ。出会いを重ねるたびに理想が高くなるのだと、時恵自身うそぶいている。
「でもちょうど良かった。実は欠員一名で困っております、ミサトどの! ねー、親友を助けると思ってさ、合コン参加しちゃわない?」
こうやって、声をかけられることも珍しくない。親友だっていうなら、答えなんてわかってるでしょ。私は膝掛けを乱雑に四つ折りにして、デスク下のペーパーバッグに突っ込んだ。
「私は帰るよ、見たいテレビあるし。吉名さんとか木下さん、さっき帰ったところだから、声かけてみたら? いまなら捕まるかも」
「ジョーダン、なんで若いの呼ばなきゃなんないの。メインはあくまであたしなの」
「あ、そうですか」
私ならメインの邪魔にはならないってことね。相変わらずはっきりしていらっしゃる。
時恵はため息を吐き出して、デスクの上からカードケースを取ると、そこにいったい何が入るのっていうぐらい小さなハンドバッグに丁寧にしまった。忘れ物を取りに来たということらしい。
これ以上残る理由もないので、私もコートを着込む。マフラーを巻いて、時恵の後を追うようにしてオフィスを出た。
四桁の番号を押して、ロック。大学を卒業して、事務員として働き始めて七年も経ってしまった。最後までなんとなく残ってしまうのも、いまではまるであたりまえみたいだ。予定の詰まった若い子たちは、定時にさっさと帰っていってしまうから。
「余計なお世話かもしれないけどさ」
唇を尖らせるようにして、時恵が私の顔をのぞき込んできた。
「まだミツヒコ、待ってるの」
私は苦笑した。
さすが、親友だ。
この時期になると、未だにその名前が飛び出してくる。
石谷ミツヒコ。学生時代、私の彼氏だったひと。
「幻想だよ、そんなの」
決まった答えを、私は口にした。
*
あのころの私はひどく幼くて、初めての恋愛らしい恋愛に舞い上がり、甘い言葉ぜんぶを鵜呑みにしていた。
ミツヒコとは、学部が同じだったってだけだ。
まるで日本人じゃないみたいに、地毛だっていう髪の色はほとんど茶色で、肌の色だって白かった。見た目はいいのに服装に頓着がなくて、そのくせ好きなことにはどこまでもこだわって。こどもみたいに屈託なく笑う、その笑顔が大好きだったのを覚えている。
お互いに、こどもだった。
何も知らない幼子が遊ぶみたいに、身体を触り合った。
すぐに永遠とか、絶対とか、儚い言葉を口にした。
大好き、なんて、呪文みたいに唱え合って。結婚式は六月だよね、とか、新婚旅行はヨーロッパかな、とか、こどもは男の子と女の子と二人欲しいよね、とか。
現実の話を虚構の鏡に映して、他人事みたいに語り合った。
本当に意識したのは、大学を卒業してからだったろうか。
そのころから、何かがおかしくなった。
働く場所が違ったから、なかなか会えなくなった。一年と経たずにミツヒコが会社を辞めて、口論になった。
将来どうするつもりなの──ほとんど泣きながらいった私に、ミツヒコが返した言葉を覚えてる。おまえはオレのなんなんだ、って。
言葉に詰まった。
恋人でしょう。
いつか結婚するんでしょう。
共に歩いて行くんでしょう?
──答えられなかった私を置いて、ミツヒコが海外に行ってしまったのは、それからすぐだ。
着の身着のままで、放浪するみたいにふらりと。
お別れの前の日、久しぶりのデートで、日の出を見に海岸に行った。寒くて寒くて、繋いだ手だけあったかくて、けれど冷たい冬の日だった。彼のあれほど爽やかな笑顔を見たのは初めてだ。あんなに切なかったのも、一度きり。
思うよりも早く、口にしていた。帰ってくるまで待ってるから、ずっとずっと大好きだから──と。その言葉を、後悔したわけではない。それは、いまだって。
けれど、あれからの私は、空っぽだ。
与えた分だけ欲しがった愚かな私は、あのころのまま。
一歩も、動けないでいる。
止まったままの時計が、いつの間に動いていたのだろう。
もう何年も鳴っていなかったのに、けたたましくベルが鳴り響いた。
埃のかぶった時計は六時半を指している。信用できず、枕元の携帯電話を開く。まぶしさに目がくらんだ。やっぱり六時半だ。
カーテンの色は黒ずんでいて、空がまだ暗いことがわかる。日の出はあとほんの少し先だ。
私は天井を睨みつけた。
期待をするな、夢を見るな──呪文が虚しく溶けていく。
五年前のあの日と同じ、十二月の晦日。
初日の出の代わりにね、とおどけて肩をすくめた、ミツヒコの顔が脳裏をよぎる。
何度もやりすごしたはずの、この日なのに。なぜ、いまになって私を呼ぶの。
「バカみたい」
それでも、私は冷たいジーンズに足を通していた。
ジャケットを羽織り、家を出る。冷たい風に逆らって、決められた道を進むように、海岸へ向かう。
確信めいたものが、心の片隅でうずくまっていた。
現実を生きて培ってきたすべてを総動員して、想いを押さえ込もうとした。けれど、もう遅い。足が、もう、向かってしまっている。
水平線に、ひと筋の光。
堤防にすわって、海を眺める後ろ姿。
息が止まりそうになった。
「ミ……──」
呼びかけそうになる。言葉を飲み込んで、唇を噛んだ。
涙は出ない。
後ろ姿が振り返る。五年前と同じ姿で。差し込む光よりも眩しい笑顔で。
そうして、溶けた。
あたりまえだ。
期待などしていなかった。
私は現実を知っている。
もう終わったことだ。
ずっとずっと昔に、終わってしまったこと。
「幻想だね」
声が、冷たい風に責められるみたいに、震えて落ちる。
やっと返すことのできた言葉。
未練じゃない。
愛じゃない。
それは、甘えのような何か。
進めない理由が欲しかっただけ。すがる何かが欲しかっただけ。
だれかのせいにしたかっただけ。
ここにいるのは私なのに、消えた私にすべてを押しつけた。
「さよならしよう」
五年の時を経て、決意はやっと言葉になる。
私を癒してくれた愛しい月日たちに手を振って、儚い幻想を光に溶かす。
ずっとそこにあったはずの道に、そっと足を踏み出して。
──いっしょに空を見上げて、なんでもない雲を思い出にしたい。
止まっていた問4に、そう答えを付け加えた。
了
幻想プロミス