苦しみの向こう側

初めまして! 桜、亜麻色。です。
中2なので、言葉のレパートリーも少ないし、文章的にもおかしいところがあるかとは思いますが、
どうか温かい目で見守ってやってください。
おかしいな、と思ったところや、こうした方がいいと思う、といった意見がある方は、
いつでもどこでもいいので言ってくれたらうれしいです。

では!
「苦しみの向こう側」、どうぞお楽しみください^^

序章

彼女は今、どんなことを思っているのだろうか。
知らない。否……知りたくはない。
知ったことではないのだ。彼女が言った事など。彼女がどんな想いを抱いていたかなど。

そのはずなのに。何故、こんなにも胸が苦しい?
痛い。どこもかしこも、痛くて仕方がない。

「ゴメン。ゴメンね……」

何故謝る? 何故そんな悲しそうな顔をする?
悪いのは……俺だろう?

涙を一筋流し、彼女は瞼を閉じた。そして二度と、開くことはなかった。
彼女の頬に伝うのは、涙と鮮血が混じった悲しい液体。

「……ああああああ!!」

第一章 遭遇

彼女と出会ったのは、暗い路地裏だった。
まるで捨て猫のように、悲しそうに泣き崩れる彼女を見たとき、胸が強く締め付けられたように感じた。

「……大丈夫ですか」

声をかけると、彼女は顔を上げた。
その時、胸が高く跳ね上がったのをよく覚えている。

長い栗色の髪はごく自然に背中に流され、少々はねている。しかし、艶やかで、とても美しい。
大きく丸い瞳は琥珀色をしていて、まるで何もかもを引き付ける磁石のようだ。目が離せない。
そんな瞳を包むのは、長い睫。くるんと可愛らしく巻かれていて、大きな瞳をより強調させている。
鼻はつんと高く、まるで外国人のようだ。泣いているからか、赤く染まっている。
薄い唇は深紅に染まっている。しかし、口紅を使ったというわけではなさそうだ。きっとこれが、彼女の素の色なのだろう。
肌は透き通るように白く、深紅のような赤い頬は美しいというよりも、可愛らしいのそれに近い。
長い手足を折りたたみ、背中にもたれかかっている、ただそれだけのはずなのに。
目が離せない。……彼女が、美しすぎて。

まるで、時間が止まったかのように、俺と彼女は見つめあっていた。
そんな沈黙に耐え切れなくなったのか、それとも泣いている姿を見られたという羞恥心からなのか、彼女から先に口を開いた。

「変な姿を見せてしまいましたねっ……すみません! えっと、私なら大丈夫ですよ」

無理して笑っている、という事が見え見えなその笑顔。
急いで涙を腕で拭うその姿は、今にも壊れそうなほどに儚い。
俺は思わず、手を差し伸べてしまった。
罪に穢れた、汚い手を。

「え? ……あの」

困ったように眉をひそめる彼女。それもそうだろう。
名も、姿も知らぬ男に、手を差し伸べられているのだ。困るのは当然だろう。
しかし、意外だったのは、拒絶も何もせずに、彼女が微笑んだこと。

「……ありがとう、優しい人」

その微笑は、俗にいう天使や天女の笑みというのに似ていて。
俺も思わず、微笑んでしまった。

――……優しい人? 俺が?

心の奥底で、もう一人の誰かが叫ぶ。
罪に溺れた、汚い俺が、優しいなど。
何て愚かで無知な女なんだ、と。もう一人の俺が叫んでいる。
叫んでいるのはきっと、警告なのだろう。これ以上、彼女と関わってはならないと。
もう一人の俺が、言ってくれているのだろう。

分かっていた。分かっていながらも、俺は俺の手を掴んだ彼女を振り払う事が出来なかった。

これが、彼女との「出会い」。
そして、運命の始まり。

第二章 想い

彼女が少し休みたい、と言うので、俺は公園のベンチに彼女を座らせた。
そして、近くの自動販売機で買ってきた安い缶コーヒーを手渡すと、彼女はふっと笑みを零した。

「ありがとうございます。缶コーヒーなんて、久しぶり」

大きな瞳を細めてそう言うので、俺は何故だか嬉しさがこみあげてくる。
彼女は缶コーヒーにその妖艶な唇をつけ、少しずつ喉に通していく。
気温がかなり寒いので、缶コーヒーの温かさを感じているのか、彼女は缶コーヒーを包み込むように持っていた。

「貴方は何て言うお方なの? お名前を教えてくれませんか」

そう言われた時は、何て答えればいいのか正直戸惑った。
本名を名乗るべきなのだろうか?
それとも……「あの名」を名乗るべきなのだろうか……。

「……柏木。柏木裕」

悩んだ挙句、結局本名を名乗るという事に至った。
「あの名」をわざわざ言う事もないだろう。まあ、こんな小娘が知っているとは思えないが。
本名なら、別に誰しもが知っている、と言う訳ではないし、
同姓同名なんてこの世の中腐るほどにいるだろう。

彼女はそうですか、と微笑むと、また缶コーヒーを喉に通した。
それにしても、と俺は思う。

何て美しいのだろう。下心なく、そう思う。
ただ美しいだけの女なら、探せばいくらでもいるだろうが、彼女はそんな女どもとは似ても似つかない。
心の奥底から美しいのだ。綺麗な心と綺麗な容姿を、彼女は持っていた。
純粋なその心。穢れないその姿。
嫉妬や僻み、欲……全てが複雑に絡み合い、全てを支配しているこの世界。
しかし彼女は、そのすべてを持っていない。自分、と言うものを持っている。

――……羨ましい。

俺は素直にそう思う。自分、と言うものを持っていない俺にとって、彼女は光だと、そう思った。
純粋な心が欲しかった。しかし俺にはもう、そんなものはない。
捨ててしまったのだ。いつの日かは、忘れてしまったが。

「私は優衣。公咲優衣と言います」

「公咲優衣? まさか貴女……あの公咲グループの一人娘ですか?」

公咲グループ。
日本、いや、世界最大とも言われている、巨大会社だ。
薬品、食料品、さらには工業製品、楽器まで。幅広い分野で活躍している会社である。
楽器の約八十パーセントは公咲グループの物であるとされているし、海外に輸出されている車は公咲グループが約九十パーセントも占めている。
公咲グループが破産する時、日本が滅ぶとも言われているほどだ。

まだ社長が若いから、と言うものが大きいと思うが、跡取りがまだ決まっていない。
その為か、今一人娘である「公咲優衣」に注目が集まっているのだ。
しかし、彼女はマスコミなどに決して姿を現しはしなかった。
名だけは有名人。しかし誰しもが、彼女の容姿を見たことがない。
まるで籠の鳥のようなので、世間は彼女の事を「籠の鳥姫」と呼んでいる。

まさか、こんな真夜中に彼女に会えるとは思いもしなかった。
と言うか、真夜中にそんな少女が、こんな所にいてもいいのだろうか?

公咲優衣は悲しそうに微笑んだ。

「はい。やはりご存知でしたか。どうぞ……マスコミにでもなんでも、言いつけてください。
 そうすれば多額の金が入るのでしょう? 私はいいですから」

そう言われたと同時に、彼女のその悲しい微笑の意味が分かる。

彼女は……孤独なのだろう。一人ぼっちなのだ。
……俺と同じで。

まあ、それも仕方がないだろう。
親は忙しいから構ってなどくれないだろうし、容姿を公表していないので友達と呼べるものもいないだろう。
常に一人で、人が楽しそうに過ごしているのをただ見つめる事しかできない……。
その悲しみは、誰よりも分かっている。
分かっているからこそ、彼女を一人にすることだけは気が引けた。
同じ過ちを、繰り返したくはなかった。
このまま放っておけば、きっと彼女は俺と同じ道を辿ることになるだろうから……

「優衣さん。俺の事は裕、と呼んでください。また会いましょう。……二人で」

そう言うと、彼女は驚いたように目を見開いた。
しかしすぐに、たっぷりの涙で瞳を潤していく。

「……ありがとう、裕さん」

そして彼女は、ありったけの笑顔を俺に向けてくれた。

第三章 現実

彼女を仮住まいしているという高級マンションまで送ると、俺は煙草を口に咥え、先端に火を灯した。
煙が肺まで伝わる感覚。何とも言えないその感覚が、何もかもをリセットさせる。
コートのポケットに冷えた手を突っ込み、俺は暗闇に染まる街を歩き始めた。

彼女と出会った事で忘れてしまっていたが、俺には会わなければならない人物がいる。
まあ、約束の時間よりも多少早く待ち合わせ場所に向かっていたという事もあってか、そんなに遅れてはいないようだ。
俺は路地裏にまるで暗闇に溶け込むように入り、パイプに腰かけている男に向かって声をかける。

「おい、来てやったぞ」

すると、男は俺に気が付いたようで、ニッと口角を上げ立ち上がった。
華奢な体つき。長い手足と所々はねた自然な髪型。少々釣り目気味の目は強い光を宿している。
彼はかなりの美形だ。俺と同類とは、とても思えないほどに。
どこかのホストに所属していそうな彼は、俺を見つめにやりと不気味に微笑む。

「こんばんは、裕さん。ああ……今は赤さん、と呼んだ方がいいですか?」

まるで見世物を見ているかのように、笑いながら言う。……気分が悪い。
俺は短くなった煙草を口から放し、地面に叩きつけると、ブーツの先端でぐりぐりと潰した。

「裕でいい。いちいち面倒な奴だ。で、今日は何の用だ?」

「そんなに怒らないでくださいよ裕さん。俺はあんたを尊敬してるんだ。心の底から、あんた追いつき追い越したいと思ってる。
 ああ……そう言えば、用件でしたね。
 ボスからの命令が下りました。この男を、始末しろと」

そう言いながら、内ポケットから長細い茶封筒を手渡す。
俺はそれを奪い取るようにして取ると、糊で接着された部分を破り捨て、中を取り出す。
そして……絶句した。

「この男……」

「ご存じなんですかい? ハハ、まあそうですよね。有名ですもんね、そいつ。
 まあ、頼みましたよ。ボスの命令は絶対なんだ。……ま、赤さんなら簡単っスよね。俺が尊敬する男なら大丈夫ですよ」

「……ボスから直々に命令が聞けるお前の方が凄いと思うが?」

あえて冷静を装い、茶封筒をコートの内ポケットに突っ込む。
手が震えているのは……気のせいだと信じたい。
俺が、この俺が。最強だと謳われた、この俺が。
こんな事で動揺するなど、あってはならない。これごときのことで……。

「ハハハ、それは俺がボスの息子だからってだけですって。
 ボスは完全に俺より赤さんの方を信頼してますよ。まああの人は、血縁関係で動く人間ではありませんからねえ。
 強いか、信頼できるか。それしか考えてませんから」

それもそうだな、と、余裕そうに笑って見せる。
それしかできなかった。

俺は彼と別れを告げると、体を支配する不安と怒りで狂ったように空き缶を蹴りあげた。
空き缶は潰され、遠くへと飛ばされる。
苛々する。胸の中で、何かが疼いているのが分かる。
これが、現実なのか。これが、俺が選ばなくてはならない未来なのか。
嗚呼、何て神は残酷なのだろうと、俺は心の中で精いっぱいに叫ぶ。



常に鮮血に身を染め上げ、いかなる人間もターゲットとなれば確実に仕留める、裏社会屈指の最強の殺し屋、柏木裕。
返り血で服が真っ赤の染まっている姿から、彼は「柏木赤」という二つ名を持っている。

そして次の彼のターゲットは。


――……公咲グループ会長、公咲和。
   公咲優衣の、たった一人の父親。

第四章 歪み

何週間か経ったある日の事。
あろうことか、俺は彼女と会う約束をしてしまっていた。
何故こんな事になってしまったのだろう? ……分からない。何だか時の流れに任せていたら、いつの間にかこんなことになってしまっていたのだ。

「ごめんなさい裕さん。待たせてしまいましたね」

困ったように眉を顰め、心から謝罪する彼女。
それにしても……彼女には、汚れと言うものが存在しないのだろうか。今日も今日で、美しい。
今日の服装は、どうやら動きやすさを重視したらしかった。
英語か何かがプリントされたオシャレなTシャツに、フリルがふんだんに使われているフワフワとしたミニスカート。茶色のロングブーツ。
上からコートを羽織っている。フードがついている物らしく、彼女はそのフードで顔をすっぽり隠していた。
それでやっと、彼女がこれまで見つからなかった原因を知る。
彼女は外出する時、常にフードを被って過ごしているのだ。だから、他人の目に映る事がない。
まあ確かに、彼女が公咲グループの令嬢だとは知らなくても、スカウトする輩くらいはいるだろう。それを防ぐためなのだと理解する。

「いや、別に……そんな事よりも、何故俺なんかを呼び出したんですか? 別に構いませんが、優衣様には失礼なのでは……」

そう言うと、彼女はぷくっと頬を膨らませた。
その姿は、あどけなさがまだ残る少女のようだった。ここでまた、心惹かれる。

「優衣様、何て呼び方はやめてください。優衣、でいいです。それに、敬語はやめていただけませんか? 聞いていてこちらが遠慮してしまいます。
 それと……裕さん、約束してくださったじゃないですか。また二人で会おうって。まさか忘れた、なんて言わせませんよ」

「あー……そう言えば、したような気がする。じゃあ、こっちも要求があるな。敬語はやめて、呼び捨てでいい。
 こっちだって遠慮するだろ? 相手はかの有名な公咲グループのお嬢様なんだから。まあ、あんたはそれを気にしてほしくないようだけど?」

俺が少し笑みを含ませながら言うと、彼女はパッと明るい表情を見せた。
本当に可愛らしい。まるで子供だ。純粋で、無知で、愚かだ。
こんな可愛らしい、こんな美しい女性を、俺は裏切ることが果たしてできるのだろうか?
そうだ。俺はずっと悩み続けていた。だから、彼女との約束も忘れてしまっていた。

「そうだね、裕! これからよろしくね!」

――……これから、よろしくだと?

これから裏切られる相手によく言うな、と思う。
そう。俺は彼女を裏切らなくてはならないのだ。
彼女の居場所を奪い、彼女の生きがいを奪い、彼女の大切な物を奪うのだ。
彼女のなにもかもを奪う。それが、俺の決められた未来。……なんて悲しいのだろう。

いっそ、彼女を連れて逃げてしまおうか、と思う。
彼女を傷つけないために。そして何より、俺のために。
そしたら、何もかもうまくいくのではないか? そうだ、そうしよう。

そう思ったところで、一気に空虚感に襲われる。
そんな事、できるわけないのだ。「ボス」は俺の命の恩人であり、育ての親なのだから。
両親を失い、居場所を失い、生きる意味を失い、何もかもを投げ捨てようとした俺を助けたのは他の誰でもない。「ボス」だ。
俺は一生の忠誠心を彼に誓い、一生彼のために生きることを誓った。
その誓いは神への誓い。一生解けることのない鎖。

俺は、愚かだと思う。
一日、たった一日しか関わったことのない人間と、一生の世話を焼いてくれる人間とを天秤にかけようなど。
どちらが重いかなど、決まっているはずなのに。
何故、こんなにも俺は、悩んでいる? 苦しんでいる?
何故こんなにも俺は、悲しいのだろうか……?

「……裕?」

心配そうに顔を覗き込む彼女。 本当に可愛らしい。
嗚呼、これが恋なのか、と理解する。
恋なんて、一生出来ないものだと思っていた。……否、しないと思っていた。
まさか、こんなに簡単に恋に落ちることができるとは。……笑わせる。
人間とは単純だな、と心の中で細く微笑んだ。
もし誰かがその微笑を見ていたとすれば、その人はきっと「悲しい」と嘆くのだろう。

「……ゴメンな、優衣」

こんな無力な男を、君は知らないだろう。
こんな頼りにならない男、君は知らなくてもいい。

彼女は一瞬戸惑ったように顔を歪めたが、すぐに「変な人」と優しく微笑んだ。


彼女と俺には、溝がある。
そしてその溝は、決して消えることはないのだろう。

その溝は、いずれ歪みとなり、俺たちの運命を狂わせるのだろう……。

第五章 迷い

彼女がカフェテリアに行きたいと言うので、俺は近くにあったお洒落なカフェテリアに案内した。
それにしても、カフェテリアなんて何年振りか。お洒落に優雅に茶を啜るなど、俺の世界には程遠い話だ。

「このお茶、美味しいね! えっと……蜂蜜レモンティー?」

メニューを見ながら、嬉しそうに茶を啜る彼女。本当に、可愛らしい。まるで子犬のようだ。
もし俺が一般人で、もし彼女が公咲グループの娘でなければ、すぐにでも抱き締めていたところだろう。
優しく、それでいて強く抱き締めて、彼女の美しい髪にキスをする。
彼女の反応が面白そうだ。一回やってみたいと思うが、そんな事をすればただの変態野郎なのでやめておく。

「裕は、飲まないの? 美味しいよ、ここのお茶?」

不思議そうに顔を覗き込んで、首を少し傾げながら尋ねる。
俺は思わず生唾を呑んだ。……あんなことを考えていた最中だったので、変な目でしか彼女を見ることができなかったのだ。

「俺は……お茶、あんまり好きじゃないから」

「え? そうなの? ごめんね、無理矢理……最初に言ってくれたらよかったのに……」

本当に申し訳ないと思っているのだろう。しゅんと首をすくめる彼女は、本当に子犬のようだ。
俺は笑顔で「いいや」と、彼女を宥めると、彼女は「良かった」と微笑んだ。
そんな彼女の姿を見て、また心が揺らぐ。彼女を連れて逃げてしまいたいと、本気で思ってしまう。

彼女の父親を彼女が見ていない所で消すのは難しい。
公咲和を消すには、彼女の協力……いや、利用が必須となる。
彼女の目の前で父親を殺す。……そうなってしまうのは目に見えていた。そう言うシチュエーションになってしまうという事は分かっていた。
だからこそ、迷う。
彼女の目の前で殺すという事は、彼女に俺が殺しているということを見せつけるという事になる。
そうなれば、俺の顔が世界に公表されることになってしまう。
……つまり、公咲和を殺すという事は、公咲優衣を殺すことにつながるという事だ。

俺が、彼女を殺す?
目の前で天女のように微笑んで、茶を啜る彼女を?
……出来るか。
俺は心の中でそう吐き捨てる。しかし、誰もその声を拾ってはくれない。

「裕、携帯鳴ってない? さっきからブーブーしてるよ」

彼女がそう言ってくれなければ、俺はそのことに気が付かなかっただろう。
俺は「ありがとう」と言いながら、携帯を手に取る。
表示は……「松木葎」。ボスの唯一の息子。
俺は苛々しながら、それに応じる。

「なんだ、こんな時間に。緊急要請か?」

「ハハッ、何を言いだすかと思えば。緊急要請なんて、あるわけないじゃないですか。
 そんな事よりも、おめでとうございます。それが言いたくて」

「……何が言いたい」

「いやあ、だから。今一緒にいるのって、公咲優衣ですよね?」

思わず、その場で立ち上がってしまう。奴は……何を言っている?
目の前では、彼女が驚いたように俺を見ていた。
ここで、声を張り上げるわけにはいかない。俺は聞こえないように舌打ちしてから、その場にまた座りなおす。

「籠の鳥姫との接触、おめでとうございます。さすが赤さんだ、手が速い。俺ならそんなことできませんよ。
 これから聞き出すんですか? パーティーの日にちとか? 公咲和を呼び出す方法とか?
 まあ、それはまだ早いか。それにしても、美男美女同士、なかなかお似合いじゃないですか。
 あ、俺なんかって思ってません? そうでもないですよ、赤さん。あんた、実は目茶苦茶格好良かったりするんですからね」

何も言い返せない。
そうだ……奴の言う通りだ。俺は、彼女を思う存分利用しなくてはならない。
そして利用し終えたら、消さなくてはならないのだ。
彼女は俺たちにしてみれば、それだけの存在。それだけしか利用価値のない、ただの小娘。
それにしても、奴は一体何故彼女と俺が接触していることを知っている?

俺が辺りを見回すと、一人のパーカーを羽織った男が横を通り過ぎた。
たった一瞬だったが、その男の顔が見えた。……奴だ。
奴は携帯を見せつけるように振ってから、店を出て行った。
……たったそれだけの出来事だったのに、まるで心臓を握りしめられているような恐怖が、俺を襲う。

「まさか恋なんてしていませんよね? 赤さんらしくもない……。
 よろしくお願いしますよ。あんたは俺の先輩なんだから」

「……大丈夫だ、心配ない」

ただ、唇を噛み締める事しかできない自分に腹が立つ。
俺が彼女にできることなど、何一つない。
それを思い知らされた、一瞬だった。

第六章 覚悟

「今日は本当にごめんなさい、でも楽しかったわ。ありがとう」

そう言って微笑む彼女の背後には、温かく光る夕日。
あれから、俺たちは奴から逃げるために電車に乗って見知らぬ街へと降りた。
よく分からない街だったが、彼女と二人で歩いているだけで、全て温かな何かに思えていた。
彼女は、魔法でも使えるのだろうか。
こんな汚れた俺でも、幸せにさせる、そんな魔法が。

「いや……謝りたいのは俺の方だよ。ごめん、振り回して。でも俺も楽しかった」

そんな事、と、彼女は優しく笑む。
彼女の笑顔を見ていると、心が溶かされていくかのようだ。
俺はたまらず、彼女をきつく抱き締めた。

「裕?」

驚いている彼女を放って、俺は彼女を抱き締め続ける。
彼女と優しく接することができるのはきっと……今日限りなのだ。
奴……葎に俺たちのこの関係がばれてしまった以上、俺は素早く行動に移さなくてはならない。
葎がボスにこのことを伝えたら、ボスが直々に動いてしまうかもしれない。
そうすれば、彼女は苦しみもがいて死ぬことになるだろう。

……そうなる前に、俺が。出来る限り安らかに、眠らせてやらなくてはならない。

「……好きだよ」

でも。彼女は標的だと、ターゲットだと思うほどに。
彼女への想いは、何故かとめどなく溢れ出てしまう。
こんな事、あってはならないのに。
標的に深く関わると、滅ぶのは己の身だという事は、分かっているはずなのに……。

「……ありがとう」

彼女は驚いたことに、俺を抱き締め返してくれた。
そんな事をされては、困る。俺が、君が、苦しむだけなのに。
しかし、心の奥底では喜びが隠しきれない。
彼女が、好きだから。

「ありがとう。本当に……ありがとう。でも、駄目。お父様が貴方の存在を知ったら、きっとお許しにはならないわ。
 それに私にはきっと、婚約者がいる。顔は知らないけど、そんな存在がいるのは確かなの。だから……ごめんなさい」

悲しそうに言う彼女。
しかし俺には、その言葉が深く俺の心を貫いたように思えた。

これは、きっかけ。これは、チャンス。
そう分かれば分かるほど、胸の痛みが増していく。
怖い。彼女を傷つけることが、怖い。
しかし、やらなくてはならない。神は俺たちの敵なのだから。
いや……神は俺の、敵なのだから。

「なら、会わせてくれないか。君の父親に」

出来る限り、自然に。出来る限り、ばれないように。
完璧なシナリオ。完璧すぎる口実。
彼女は、悪役。俺が、主役。
なんて悲しい物語。なんて無様な俺。……笑えてくる。

彼女は少し考えてから、すぐに思いついたという風に俺から少し離れた。
そして、まるで好奇心で溢れかえった少年のように、無邪気に告げた。

「数日後に、パーティーが開かれるの。私の誕生日パーティー。その日には、きっとお父様も仕事を早めに切り上げてこちらに来ていただけるはずだわ。
 その日であれば、お父様に会えるかもしれない。いえ……きっと会えるわ。
 正式な交際とまでは行かなくとも、友人までならば了承していただけるかもしれない。そうしましょう。
 それに私も、早めに貴方の存在をお父様に知って頂きたいと思っていたの。いい機会だわ」

嗚呼。壊れていく。彼女と俺の関係が、音を立てて壊れていく。
無邪気に、嬉しそうに、君は微笑む。
そんな笑みが、俺にとってはまるで刃のように俺に突き刺さっていく。

いい機会? 嗚呼、そうだな。君の父親を暗殺するには、いい機会かもしれない。
何も知らない無知な君にとっては、待ち遠しい日になるのかもしれない。

何度謝っても、気が済まない。
何が、好きだ。何が、恋だ。
俺にとっては、ただの痛みじゃないか。ただの報いじゃないか。
苦しい。痛い。何もかもが、壊れていっている。

どうすればいいのか……何がしたいのか。
もう、全く分からなくなってしまっていた。
自分の事なのに、何もかもが無になってしまっていっているような気がして。
……ただ、怖かった。

「……でも、俺は芸能人とか、そんな大した人間ではない。君のような人間の誕生パーティーに参加できるほどの人材じゃない」

そうね、と悲しそうに笑ってほしい。
そして、残念だけど、と、話を続けて欲しかった。
そうすれば、何もかもを壊さなくても済む。少なくとも、壊すまでに時間をかけることができる。
少しの間だけでも、幸せを見ておきたかった。

しかし、神は俺を嘲笑う。

「参加者を決める権限は私にある。誰を誘おうが、誰を誘わないが、私の勝手なの。
 だから、裕。心配することはないよ。あ、でも正装はしてきてよ? 追い出されちゃうから」

天女のような微笑み。俺は、そうだなと笑う事しかできなかった。

彼女の父親と会う日が決まった。
彼女の父親を殺す日が決まった。
そして。

彼女を殺す日が、決まった。

第七章 前日

最近、彼女と常に共にいる。
気が付けば、パーティーと言う名の暗殺日は明日に迫っていた。
俺ができることは何がある?
何度も考えてみたが、やはり何も思い浮かびはしない。
俺は、彼女の幸せを奪う。幸せどころか、命さえ奪うのだ。
そんな俺が、彼女のためにできることなど、何一つない。……見当たりはしない。

「スーツもあるし、ダンスの心得もある。なんだ、心配して損した。全然大丈夫だね」

彼女は安心したように微笑む。本当に不思議なものだ。彼女の微笑みは、人を幸せな気分にさせる。
凍てついた俺の心を、ゆっくりと溶かしてくれる。
険しい表情を浮かべていた俺は、思わず表情を和らげた。
それに気が付いたのだろう。彼女はこの上なく嬉しそうに笑った。

そう言えば、と、俺はコートの内ポケットに手を伸ばす。
冷たくなった指先が、小さな箱に触れた。

「明日、優衣の誕生日なんだろ? ちょっと早いかもしれないけど……これ、プレゼント」

そう言って、彼女の掌に小さな箱を置く。
黄色の箱に、赤いリボンがラッピングされた、可愛らしい箱だ。
彼女のために、と、昨日最近若者に人気だという店に立ち寄って買った。

「あ、ありがとう! 嘘、買ってもらえるなんて思ってなかったよ! 嬉しい」

彼女は本当に嬉しそうに、箱を手に包んだ。
可愛らしい。本当に、彼女は幼子のようだ。無邪気で無垢で、無知で純粋だ。
もし彼女が、公咲グループの令嬢などではなかったら。俺になど、会わなければ。
きっと、幸せな日々を送れたのだろう。俺なんかよりももっといい男を見つけて、幸せな家庭を築いていたのだろう。
頭の中で、心の中で、何度も謝る。ごめんな、と。
そして、何度も後悔する。何故俺は、こんなに弱いのか。何故俺は、こんなにも無力なのか。

「ねえ、中開けてもいいかな……?」

俺の顔を覗き込むようにして、首を傾げながら尋ねてくる。
心配そうに眉を顰めているので、きっと俺の表情がまた険しくなってしまっていたのだろう。
俺はもちろん、と、無理に笑顔を作って答えた。
彼女には、無理しているというのが察せられていたのだろう。しかし彼女は、あえて何も言わずにリボンに手を掛けた。
細く長い指が、リボンをするりと外す。

「わあ! 可愛い……ネックレス? 小っちゃなハートがついてる……可愛い」

俺が彼女に渡したのは、小さなハートがつけられた銀のネックレス。
あの店に、ひっそりとまるで忘れ去られたように置かれていたものだ。
何故か、一目見たときに目が離せなくなった。
可愛らしいそのネックレスが、彼女の面影に似ていたように思えたのだ。
小さく、それでいて慎ましく、ひっそりと咲いている可愛らしい華のように。

「俺の気持ちだよ。ありがとう優衣。君に出会えてよかった。……ごめんな」

何度謝ればいいのだろう。もう何も分からない。
彼女の思いを踏みにじって、彼女の人生すら目茶苦茶にして。
もう、俺にできることは何一つ無い。
彼女の笑みが、明日にはこの世から消えるのだ。なんと悲しいことか……。

嗚呼、神よ。俺は、一体どうすればいい?
彼女の幸せを奪う俺は、どんな報いを受ければいい?
なんでもしよう。彼女が許してくれるのなら。俺の罪が消えるのなら。
いや……消えることは、二度とないのだろう。
俺は罪に溺れた、罪に穢れた、汚い人間だ。

「……謝らないで。裕、私も貴方に会えて本当に良かったよ。世界が変わった。全部貴方のおかげだよ」

悲しそうに微笑んで、彼女はネックレスを俺に手渡した。
そして、長い栗色の髪を持ち上げて、俺に背を向ける。

「ねえ、貴方がつけてくれない? 裕。貴方につけて欲しい」

何故、彼女がそんな事を言ったのか。
俺には、どう考えても理解できなかった。
しかし、彼女の願いだ。彼女の望みだ。叶えてやらない理由はない。
俺は彼女の細いうなじに手を伸ばし、ネックレスを付けた。
それを確認して、彼女が手を放し、柔らかな髪を下ろす。

「……ごめんね、裕」

小さく呟いた彼女の言葉が、上手く聞き取れない。
俺が問いかけようと口を開いたその時、彼女の指が俺の唇に触れた。

「ありがとうね、裕」

何も言うな。無言でそう言われているような気がして。
俺はただ、微笑み返すことしかできなかった。

第八章 決行

運命の日がやって来た。俺は何をすることもなく、パーティー会場に足を運んでいた。

「……凄いな」

思わず一言漏らす。俺が立っているこの地が、まるで違う世界のようだ。
美しい旋律を奏でるオーケストラの演奏。弦楽器特有の、まるで何もかもを溶かしてしまうかのような流れるようなそのメロディーが、会場を包んでいる。
会場はかなり広く、きっとテニスコート五面くらいは余裕であるだろう。
そんな会場に、まるで敷き詰められているかのように人間が立っている。何人参加しているのだろうか。百人くらいはいるかもしれない。
全員が全員美しい服で身を包んでいた。男は皺ひとつないスーツ、女は煌びやかなドレス。どちらも見るからに高そうだ。
きっと、会社の一人息子や一人娘など、金持ちが多いのだろう。
男はみんな、目の色を変えて彼女の事を捜している。婚約でも狙っているのだろうか。
確かに彼女と婚約すれば、今以上のものを手にすることができる。世界を手にしたといっても過言ではないのだ。
まあそれも、彼女が生きていれば、の話だ。
奴らは何も知らない。何も知らないまま、欲のために愛想笑いを振りまいている。
気分が悪い。なんだあいつらは。吐き気がする。何も知らないくせに、彼女の苦しみも知らないくせに、彼女を手に入れようとするなど。
彼女の気持ちなどあいつらにとっては無意味なのだ。奴らが欲しいのは権力であって愛ではない。
腐っている。何が権力だ。権力や金よりも大切なものがあることが、分からないのか。

……まあ、そんな事も俺が言えた義理はない。

俺は、近くにあった赤ワインに手を伸ばし、一口口に含んだ。
なるほど、美味い。これは確かに高級品だ。深いコク、芳醇な香り、程よい苦みがそれを物語っている。
こんなものが何百も置いてあるのだ。並べられている食事もフランス料理と見受けられるが、かなり高そうなものばかり。
何千万、いや、何億とかかっているのかもしれない。
一人の娘の誕生日パーティーのために、ここまで金をかけるものなのか。
公咲グループの大きさを、今思い知らされたような気がした。

でも、あの彼女の微笑みを思い出し、思わず唇を噛み締める。
彼女は、こんな大きな舞台に立つべき娘ではない。彼女は、何の変哲もない街で、何の変哲もない格好をして、あの微笑を浮かべてさえいればいいのだ。
彼女には、人を幸せにする力がある。そんな大切な力を、こんな泥沼の世界で無くしてほしくない。

そう思った途端、思わず笑みが零れた。
何を言っているのだ、自分は。力を無くそうが無くさまいが、俺は彼女の存在すらを消し去るのだ。
力がある、無いは、もう関係のない話。彼女の全ては、俺にとって関係のない話に変わっていくのだ。

「裕?」

背後から聞こえてくる、可愛らしい声。振り返ってみると、そこには美しすぎる彼女がいた。
彼女の雰囲気に合った、ふんわりとした淡い空色のドレス。フリルやレースが至る所に装飾されている。
栗色の髪は高く結い上げられており、純白の花の髪飾りでまとめられている。
顔は珍しく化粧されており、いつもの彼女の美しさを倍増させていた。

「誕生日おめでとう、優衣。今日は一段と美しいな」

「もう、やめてよ。来てくれてありがとう。ほら、見て? 我儘言って、このネックレスつけてきたんだ」

そう言って、彼女は昨日俺が渡したネックレスを見せつけてきた。
こうやって見ると、かなり安っぽい。正直、ドレスには全く合っていなかった。
可愛らしいは可愛らしいのだが、やはり値段はものを言う。

「やっぱり安物は駄目だな、ごめん」

「何言ってるの? 私が気に入ってるからいいんだよ! それにしても、皆酷いわ。
 私がこうやって混ざっているのに、誰も見向きもしない。知らないくせに無理して祝わなくてもいいのに。
 でも私が今から挨拶したら、きっと皆私に群れ始めるわ。……だから嫌いなのよ、お金持ちって」

悲しそうに言う彼女。……守ってやりたいと、抱き締めてやりたいと、そう強く思った。
しかし、その衝動を必死に抑える。
いま彼女の抱き着いたら、挨拶をし終えたとき色々と面倒だ。

……それにしても。今から彼女が挨拶をするという事は、全員彼女に注目するだろう。
籠の鳥姫、とも言われている人間が、自分たちの前にだけ姿を現すのだ。
それだけで特別な気分になるし、何より初めて公咲グループ主催のパーティーに来た人間は「公咲優衣に会いに来た」と言っても過言ではない。

――……今しか、チャンスはない。

「……優衣。君が挨拶をしている間に、君の父親に会いたいな。さっさと終わらせて、君と話がしたい」

そう言うと、彼女は少しだけ目を見開いて俺を見た。
何故彼女はこんな顔をするのだろう? 昨日の事と言い、最近どこかおかしい気がする。
彼女は切なげに、悲しそうに、俺を見て言った。

「本当に、行かないと駄目なの? 私の挨拶を聞いてからでもいいじゃない。最後に回せない?」

「何言ってるんだよ、俺たちの本当の目的は、君の父親に挨拶する事だろう? すぐ帰ってくるから、安心して君は自分のやらなければいけないことを全うしてくれ。
 ……じゃ、教えてくれないか。君の父親がいるところへ」

もう、後戻りはできない。
俺は、今からすべてを消す。すべてを壊す。幸せも、希望も、何もかもを。
今から俺は、「柏木赤」だ。俺の本職に戻るんだ。
恋愛ごっこは、もうおしまいなんだ……。

第九章 破壊

彼女はしばらく粘って俺を引き留めようとしたが、意志が揺らがない俺を見て諦めたのか、渋々俺を奥の部屋に通してくれた。
何故こんなにも彼女は俺を止めようとするのだろうか?
きっと、彼女は自分の挨拶を聞いてほしいのだろう。父親にも聞いてもらえない、自分の見知らぬ人ばかりの前で挨拶するのが恥ずかしいのだ。
だから、俺と言う知り合いを視界に入れておくことで安心しておきたいのだろう。
そして、こんなにも自分はすごい人間なのだという事をしっかり主張しておきたいのだ。
その気持ちはよく分かる。しかし、それに付き合っている暇など、俺にはない。

「お父様への挨拶が終わったら、すぐに来てね? 待ってるから」

彼女はそう言い残し、警備員に俺の紹介をしてから急いでその場を去って行った。
挨拶まであと何分もない。急げよ、と心の中で呟く。

さあ、俺のステージが来た。
血塗られたステージの、俺の番がやって来た。
俺はノックしてから扉を開き、公咲和の前に姿を現した。

若い。かなり、若い。こんな歳で公咲グループの頂点に立っているのか。
俺と変わらないくらいじゃないか。二十歳後半か、三十代前半。ざっと見ればそんな感じだった。

「こんにちは、公咲和さん。わたくし、柏木裕と申します。公咲優衣さんの知り合いでして」

「知っているよ。優衣が世話になっているようじゃないか。まあしかし、君も知っているかとは思うが、あの子は公咲グループの一人娘と言う地位なのだよ。
 失礼かとは思うが、君のような人間に渡すわけにはいかない。まあ、友人とまでなら許してやっても構わないが」

早口で、まるで捲し立てているかのような口調。何故だか、腹が立った。
こいつは、優衣の事を「公咲グループの一人娘」としか見てない。そう強く思った。
俺は、スーツの内ポケットに潜ませておいた拳銃に手を伸ばす。
俺は、ナイフは嫌いだった。手にそのまま、殺した時の感触が伝わってくるからだ。
今日拳銃にセットしてある弾は三発分のみ。補充を忘れたというわけではなく、ただ残りがなかったからだ。
一応ナイフも忍ばせてあるが、今回は使用しないだろう。

「和さん、その心配は無用ですよ。貴方の大切な娘は、俺がきっちり幸せにしてあげますから」

ひっそりと、弾をセットする。人差し指を引き金に置き、力を込める。

「何を言っているんだね、君。だから何度も言っているだろう。優衣を渡すわけには……え?」

俺は、銃口を公咲和に向けていた。
公咲和の体が、まるで石化したかのように硬直する。
口を開け閉めしている姿は、まるで魚のようだ。思わず吹き出してしまう。

公咲和が何かを叫ぼうとした。
誰かを呼ばれたらまずい。俺はすかさず公咲和に向かって引き金を引いた。

肉を引き裂く破裂音が、部屋の中にこだまする。
その音に過敏に反応し、警備員二人が部屋に入ってきた。
俺を捕らえようと、拳銃を手に襲い掛かってくる。
先ほどまでは一名だったはずだ。いつの間に一人増えたのだと一瞬焦ったが、すぐに俺は体勢を低くした。
迷っている暇はない。捕らえられたらすべてが終わる。触れられるだけでも、証拠が残ってしまう。
俺は一瞬にして拳銃に弾をセットし、まず一人を撃ち抜く。
そして体を流れに任せ、もう一人を背後から撃ち抜いた。

破裂音と銃声が部屋に響き、それと同時に鮮血が壁や俺の服に付着する。
三人ともなんとか急所を突くことができ、一瞬にして殺すことができたようだ。
とりあえず安堵の溜息をつく。連絡させる暇も与えなかったので、誰かが来ることもないだろう。
いまだに銃口から細い煙が上がっているが、俺は気にせず内ポケットに拳銃をしまった。
ミッションは、クリア。しかし俺には、まだ仕事が残っている。
しかしいつ、その仕事を終わらせるのか。消すのは、今日中の方がいいのは分かっている。

とりあえずおれは、頬に付着してしまった血液を腕で拭き取った。
この部屋にはもう用はない。用がないのに、長居するのは命取りだ。
そっと、倒れている公咲和の力なき肉体を見てみる。

胸からとくとくと流れ続ける鮮血。だらしなく開いた口からも、血液は流れ続けている。
半開きの目。色を失ったその眼は、一体何を見つめているのだろうか。
それにしても。やはり、優衣の父親。どこか面影がある。
彼女がこの光景を見たとき、どんな反応をするのだろうか。悲しいと言って泣くのだろうか。
俺を見たら、どんな顔をするのだろうか……。

「……次は優衣か」

力なく呟いて、俺は扉に手を掛けた。
と、一瞬人の気配が感じられた。……誰だ?

俺はポケットに入っている小型ナイフを握る。
今日はもうこれしかない。今から拳銃を取りに帰ろうと思っていたが、仕方がないだろう。
思い切り扉を開ける。そして、ナイフを振り上げた。

「声を出すな、出したら殺す」

威圧感のあるその声で、俺は言う。
と、暗闇の奥から空色のドレスの裾が見えた。
まさか。心臓が高く跳ね上がる。なんだ、このどうしようもない不安は。

俺は思わず電気をつけた。パッと明るくなる小部屋。
目の前にいたのは、小柄な少女。悲しみと驚き、恐怖に怯えたその瞳を揺らして、俺を見つめている。
空色のドレスに、似合っていない安物のネックレス。
お気に入りなのよ、と、微笑む姿が頭をよぎる。

「……裕」

絞り出したようなその声。何度愛おしいと感じたのだろう。
今すぐにでも抱き締めてやりたい。小刻みに震えている、その弱々しい体を。
しかし、それはもう叶わない夢物語。過ぎてしまった、夢。

「優衣」

目の前に、立っている彼女。
時間が止まってしまったかのように、張り付いた時が流れていく。
心が痛い。なんだ、この感覚は。味わった事のない複雑な感情が、ふつふつと湧き上がってくる。

彼女は、俺を見て悲しそうに微笑んだ。
儚い、まるで触れたら壊れてしまうような、繊細なその微笑で。
俺を見ていた。しっかりと、俺の目を見つめていた。

「……やっぱり貴方が、柏木赤だったのね」

一言。彼女の妖艶な唇から、零れた。

第十章 惜別

何故彼女が、こんな所にいるのか。彼女は今、挨拶をしているはずなのではないのか。
いいや、今はそれを考えるべきではない。
彼女は今、何と言った? 柏木赤? 何故彼女が、その名を知っている?

彼女はただ、微笑んでいた。しかしそれは、俺が恋した優しげな笑みではなく。
まるで壊れてしまいそうな、そんな儚い笑み。脆く崩れ去ってしまいそうな、そんな笑みだ。
俺が望んだ笑みではない。俺が欲しかったのは、まるですべてを包んでくれるような、そんな柔らかで優しくて、温かな笑みだったはずだ。

「早く貴方を止めたかったのだけれど……手遅れだったのね」

目を伏せながら、しかし口元には笑みを浮かばせて、彼女はそう言う。
何を言っているのか、理解できなかった。思わず、振り上げていたナイフを下ろす。
殺気を出す、出さないの問題ではもう無くなっていた。何がどうなっているのか、まったく理解できなかった。
何が起こっている? 彼女は何を言っている? 理解できない。否、理解などしたくない。
理解したその時点で、築き上げてきた世界が崩壊していくような気がして。

「俺が何者なのか分かっているのか?」

震える声を必死に抑え、何とか絞り出したような声で、そう問う。
彼女の顔が直視できなかった。彼女の顔を見れば、心の中にある柱が壊れてしまうだろうという事は、目に見えて分かっていたからだ。
しばらくして、彼女の唇がゆっくりと開いた。

「柏木裕。柏木赤と言う二つ名を持つほどの、裏社会屈指の最強の殺し屋。……そうよね?」

息が止まるかと思った。何を言ってるのは、彼女は。全く分からなかった。
黙りこくっている俺に、彼女は優しく、まるで幼子に言い聞かせるかのような口調で語りかけた。

「貴方と初めて会った時、貴方のその眼を見てなんとなく分かってたの。暗く荒んだその眼。お父様を狙っていた幾人の殺し屋にそっくりだったわ。
 でも、貴方は他の人と違っていたから。信じてみたくなったの。裏切られるという事は、分かっていても。
 使用人に頼んで調べて貰ったら、柏木赤の情報など簡単に入ったわ。……貴方が私のお父様を狙っているという事は、もう目に見えて分かった。
 ……でも愛してしまったのだから仕方ないでしょう!? 私は貴方の事が……好きだから」

彼女は、全てを知っていながら俺と二人きりで会っていたというのか? 殺されるかもしれないという、不安を常に抱えながら?
そんな状態であっても、あの天女のような微笑みを俺に向けていたというのか?

全てを理解した瞬間、何もかもが俺に襲い掛かってきた。
俺は、ずっと裏切っていたのだ。それを彼女は知っていた。知っていながら、俺を信じようとした。
しかし、俺は結局彼女の信用をすべて壊した。信じてくれていたのに。それすら気づけずに。
俺の苦しみなど、彼女の苦しみに比べたらどうと言う事もないのだろう。
なんだ。なんだ、この悲劇の物語は。愛し合っているのに。結ばれることもできないのか。
俺たちは、一体何なのだ。神のただの暇つぶしか? 幸せなど、微塵もないではないか。
狂っている。壊れている。俺たちに、いや、彼女に何の罪があるというのか。
俺はともかくとして、彼女には何の罪もないではないか……。

「俺も、愛してる。愛してる! 君の事だけを、愛してる!!
 なあ、優衣、一緒に逃げないか? 俺と一緒に、この狂った世界から逃げ出さないか? 俺が絶対守って見せるから!」

必死になって叫ぶ。ただ、叫ぶ。彼女の心に届くように。
しかし、彼女は全てを振り払うかのように、ゆっくりと首を横に振った。
言い返そうとした口を、思わず閉ざす。彼女の悲しみに揺れた瞳を見て、何も言い返すことなどできなかった。
彼女は、全てを受け入れて、理解しようとしている。
そんな彼女を引き留めることなど、俺にはできるはずがなかった。

「逃げても無駄。きっとすぐ捕まって、殺されてしまうわ。私は、貴方以外の人には殺されたくない」

悲しそうに、微笑んで。彼女はそう言った。
辛かった。今にも壊れそうな彼女を、抱きしめてやる事すら出来ないのだから。
俺が守らなくてはやらなかったのだ。それなのに、それができなかった。
どんなに悔やんでも、もう時間は戻りはしない。戻ってほしいと、どれだけ強く願っても……。

何て残酷なのだ。この世の中は。

「俺は優衣を殺すことなんて出来ない。優衣を殺すことなんて……」

そう言いかけた時、優衣が動き出した。
ゆっくりと、柔らかな空色のドレスを揺らしながら、俺に向かって歩き出す。
駄目だ、来ては駄目だ。分かっているはずなのに、何も言う事が出来ない。それどころか、足元が震えて動くことすら出来ない。
優衣は俺の近くまで来ると、俺の頬に手を伸ばした。
細く長い指が、俺の頬を撫でる。その手はとても冷たくて、震えていて。

「愛してる、裕。ありがとう。助けてあげられなくて、ごめんね……」

彼女の頬に、一筋の涙が伝った。その涙は美しく、儚げで、温かだ。
思わず、彼女を抱き締めようと手を伸ばす。
その手を、彼女が包み込んだ。

「……優衣」

名を、呼ぶ。愛おしくて愛おしくてたまらない、彼女の名を。
彼女は、思い切り可愛らしい微笑を俺に向けてくれた。
それは、俺が恋した微笑そのもので。優しくて温かくて、全てを溶かしてくれるような、そんな微笑で。
思わず俺も、笑みを零した。
どんなものでも幸せにしてくれるような、そんな微笑を浮かべながら。

彼女は、勢いよくナイフを自分の腹部に突き立てた。

「――っ……!!」

指先に、肉体を貫いたときに感じる、独特な柔らかい感触が伝わってきた。
鮮血が俺の服にべっとりと付着する。そしてそれは俺の服だけでなく、彼女の頬や服、床にも飛び散っていく。
慌ててナイフを引き抜こうとするのだが、彼女がそれを許さない。
力など入らないであろうその指先で、その体全身で、俺のその行為を拒絶している。

「優衣! 優衣!!」

「……ありがとう。ありがとう、裕。大好きだよ……」

指先の力が抜けていく。命の灯が、残酷にも消えていく。
どうすることもできない俺は、ただ彼女を見る事しかできなかった。
こんな時にも、俺は何もすることができない。
悔しい。悔しくて悔しくて仕方がない。無力さにここまで腹が立ったのは初めてだ。

「ゴメン、ゴメンね……」

彼女の頬に伝う涙が、鮮血と混じって床に落ちていった。
悲しそうに顔を歪め……彼女は、瞼を閉じた。

「優衣? 優衣!」

二度と開くことのない瞼。息途絶えた悲しい肉体。命の灯が、消え去った。
俺は、彼女の唇に無我夢中で唇を付ける。
柔らかな感触。しかし、体温は全く感じられない。反応も、無い。
涙が、とめどなく溢れ出る。俺は、いつの間にか叫んでいた。

「あああああああ!!」


最愛の彼女は、俺の手で、死んだ。

終章

彼女の墓石の前で、俺は笑みを零す。
彼女の死から、もう一か月も経つ。最愛の人を失ってからの俺は、本当に抜け殻のようだった。

そして俺は、一つの決断をした。

もう揺らぐことはない。それを伝えに、俺は今日彼女の前に立っているのだ。
この決意を聞いたら、彼女は馬鹿だと必死に止めるだろう。
しかし、俺はもう揺らがない。絶対に。これが、俺の懺悔の方法と言うやつだ。

なあ、優衣。
君は今、幸せか? 俺を憎んでいるか? それとも、赦してくれるか?
きっと優しい君だ。赦してくれるのだろう。
俺の罪も、何もかもを受け入れて、微笑んでくれるんだろう。

君の微笑みが、また見たいよ。

「……!!」

背後から、銃声が鳴り響いた。墓石に飛び散る、赤い鮮血。
嗚呼、この鮮血は俺の物なのだろうな。鋭い痛みが、胸に広がる。
体の力が一気に抜け、俺は墓石にもたれかかった。

胸が苦しい。息継ぎが全くできない。
霞んだ視界に映るは、一人の男。

「俺を恨まないでくれよ、赤さん。これはあんたの依頼なんだから」

ああ、分かっているよ、葎。
お前は何も悪くない。いや、お前には感謝しているよ。だから、そんな辛そうな顔をするな。

そう。これが、俺の決意。

嗚呼……痛みが遠のいていく。それと同時に、意識も遠くへと飛んでいく。
死ぬのか。そう思うと、何故か笑みが零れた。
やっと。やっと、死ねる。ずっと待ち望んでいた、死だ。

優衣。すぐに、君の元へ逝く。
だから、待っていてくれないか。こんな俺でよければ。
二人で、幸せになろう。この世では手に出来なかった幸せを、二人で見つけよう。


愛してる、優衣。

苦しみの向こう側

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!!

本当に、訳の分からない小説になってしまって申し訳ないです;;
もう少しちゃんとした小説が書けるように頑張ります!!

本当に応援、ありがとうございました!!

苦しみの向こう側

罪に手を染め続ける柏木裕が出会ったのは、絶世の美女公咲優衣。 彼女は世界最大と呼ばれる公咲グループの一人娘だった。 優しい心を持つ優衣に、自然と心惹かれていく裕だったが、ある日とんでもない現実を突きつけられてしまう。 悩んだ末、彼が選んだ結末は――……

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-10-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第一章 遭遇
  3. 第二章 想い
  4. 第三章 現実
  5. 第四章 歪み
  6. 第五章 迷い
  7. 第六章 覚悟
  8. 第七章 前日
  9. 第八章 決行
  10. 第九章 破壊
  11. 第十章 惜別
  12. 終章