涙ノ融点

涙ノ融点

雨が雪に変わったその日の夕暮れ時、仕事帰りの真里は公園のブランコに座って降る雪を眺めている悪魔の様な容姿の男に出会った。

男の背中には大きな黒い翼が生えており、降る雪の白さと合間ってその黒さが際立っていた。
コスプレ趣味の若者だろうと無視して通り過ぎようとした時。

「雪が降ると目立って仕方無いな。いつも通りの灰色の空、灰色の景色なら気付かない人間も多いんだけどな」
悪魔の様な男はそう言って真里を見てニヤリと笑った。
「あなた悪魔なの?」
無視するつもりが真里はつい話しかけてしまった。
「お前がそう思うのなら、そうなんだろうな」
「別にそうは思わない。ただのコスプレ趣味でしょ」
真里がそう言うと悪魔の様な男はケタケタ笑った。頭がおかしいのだろうと真里は思い、家路を急ごうと歩き始めた。

「何か願いはないのか?」真里の背後から悪魔の様な男の声が追いかけてきた。
真里は振り返らずにしばらく考えてから、こう答えた。
「この雪をもっと降らせて。たくさん降らせて積もらせて」
「了解」
悪魔の様な男はニヤリと微笑んだ。

独り暮らしの部屋に帰り夕食を済ませた真里は、窓の外が気になり何度もカーテンを開け閉めした。雪は本格的に降り出し、テレビでは雪に関する緊急情報が流れ始めていた。まさかね…と真里は思いながら独りテレビを見続けた。

この部屋には半年程前にはタケルという男と暮らしていた。学生の頃からの付き合いで、タケルは優しい男だった。優しすぎて全てに不器用で、勝ち気な真里をイラつかる事も多かった。優しいとは裏を返せばただ弱いだけなのだと真里は分かっていた。けれど真里はタケルのそんな優しさが好きで、このままずっと一緒にいるんだろうな…とぼんやり思っていたが、半年程前にタケルから別れを切り出された。

原因は真里の学生時代の後輩のあずさだった。恋人と別れたあずさがタケルに接近。タケルはあっさり落城。何年も一緒に時間を過ごした真里と別れて、放って置けないから、とあずさの元へ行ってしまった。

傷付いたあずさがタケルに泣き縋る姿が真里には容易に想像出来た。勝ち気な真里は別れを切り出されてもタケルの前で泣く事が出来なかった。独りの時にだけ、泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて、涙が雨になり今日雪に変わった。そしてついには氷になった。

ズルイあずさは逐一タケルとの事を報告してきた。タケルとどこへ出掛けた、とか何をプレゼントしてもらった、とか。報告の後には必ず、真里さんごめんね。と締め括られた。勝ち気な真里はなんでもない事の無いように振舞った。そう振る舞いながら心は涙で濡れていた。
そして明日の日曜日に二人はあずさの実家に結婚の挨拶に行くのだという。明日雪の影響で交通機関が麻痺すれば、二人はあずさの実家に行く事が出来ないのだ。

雪の行く末が心配で真里はその夜眠れなかった。
停電や交通機関への影響がニュースで伝えられ、あの男は本物の悪魔なのかもしれないと感じ始めていた。すると願いが叶えば私は命を奪われるのか、と真里は苦笑いした。
それでも構わなかった。平凡な人生には不似合いな位に劇的な幕切れだ。

うつらうつらしていた真里が朝目覚めて窓を開けると、雪は止んでいたが辺り一面真っ白で、数十センチは積もっていると思われる雪が眩しく光り輝いていた。

向かいの家の屋根に悪魔がいた。真っ白な世界に真っ黒な羽が不釣り合いで美しかった。

「私の命を奪うの?」
白い息を吐き出しながら真里は呟いた。
「そんな平凡な命なんかごめんだ。平凡なまま行き続ければいい」
悪魔はそう言って真っ黒な翼を広げて去って行く。

その瞬間、真里の心の氷にピシリとヒビが入った。そして氷は砕け始めた。砕けて溶けた氷は優しい水となり、真里の細胞を駆け巡る。スマートフォンを取り出し、真里はタケルの番号を押した。泣いて縋る事が出来るか?きっと出来ない。雪が積もって大変だから雪かき手伝って、と素っ気なく言う事位しか出来ないだろう。
けれど優しいタケルはきっとこう言うはずだ。困りながらもそれでも、もちろん、と。

涙ノ融点

涙ノ融点

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-11