島田女

江戸から明治を生きる元遊女の話。

今年の暮れに邸を買った
東京の本郷ら辺の静かな一角にある。

家は夏に勤めをしていた夫が熱射病で死に、コツコツと貯めていた金を叩いて買ったものであった。
幸いにも私達には子供がいなかったので、良人の死によって余計に苦しむことはなかった。


小さな和室と洋間、風呂、台所有。一人住まいには十分すぎるほど小奇麗な家だった。
埃一ツ無い様な家だったので、変な息苦しさを覚えた。

そしてあえて箒でばたばたとして埃を散らした。
昼下がりになって荷物が片付いてきた頃に、新しいとも古いとも云えないようなノオト一冊を開いた。

八月中旬
病院ニテ良人ヲ看取ル。


これは私がこっそりと書いていた日記であった。
句読の部分が滲んでいるという事は、不覚にも涙を流したという事であろう。

少し、胸の奥が痛んだ


良い人だった。
真面目で物静かな、そういう感じの人であった。

煙草は吸うが酒は飲まなかった。
喧嘩も数えるほどしかしたことが無かった。


ノオトに煙草の匂いが染み付いてしまっている
あの人に繋がる、そういう匂いだ。


台所でポコンと一ツ、何とも間抜けな音がした。
そうだ、そういえば餡饅頭を蒸していたというのをすっかり忘れていた


「冷えるだらうから、良かったら食べて頂戴」なんて、近くの店で買い物をした折に、店主の婦人から頂いたものだった。


慌てて台所へ行くと、締めておいた引き窓が開いていた
鍵を閉め忘れていたのか知ら、と思った。


「あら、まあ。」
「あいすいません、奥さん」

なんと年若い男が、窓枠から蒸籠の蓋の上に腕を伸ばしたまま、はまってしまっていたのだった。

「蒸籠を、蒸籠をどけてください」

熱い蒸気をたっぷりと浴びた腕は、痛々しいほどに腫れあがってしまっていた。

「少しお待ちを」


急いで火を止め、蒸籠を退けてやった。

「今そちらに行きますから」
布を水に潜らせたものを当ててやって、和子(よりこ)は羽織をもって表へ出ていった。

「大丈夫ですか」

和子は男に羽織を掛けてやって、上手く抜けるように身体をずらしてやった。


「ありがとうございます、奥さん」
あんまり甘くて良い匂いがしたものだから、こそっと窓を開けて蒸籠の蓋を開けてみたらこんな様になってしまって
恥ずかしい限りです。

男は深く頭を下げて礼を言った。

「良いんですよ、それくらい。泥棒じゃないのですから」
和子は笑って見せた


「それから、餡饅頭、召し上がっていってくださいな」

うっかり多く蒸してしまったの
だから、良かったら召し上がっていって頂戴。

「奥さん」


今日は本当に冷える日だった
まだ如月なものだから、一日々が終わるごとに冷え込んでいくような気がしてならなかった。


「狭い家だけれど、くつろいでいってくださいね」

和子は餡饅頭に加えて熱燗を出してやった。
この餡饅頭には酒粕がたっぷり入っているそうで、酒にも合うのだという事を聞いていた。

「奥さん、本当に忝い」
「いいのよ。気にしなくても。誰かとお酒を飲むなんて、久しぶりですもの」


男は名を榊原献一と言った。年は二十四。
新聞社に勤めていて、まだ記者の見習いをしているということだった。

美味そうに頬張る姿を見ていると、自分にも息子がいたらという思いに駆られた。


「時代は随分変わってしまいんしたなあ」
「えっ」


あっ、と思った
その一瞬間、シャラン、と云うような懐かしい音が耳の中に響いたような気がした。


「今のは」
「奥さん。花魁言葉、ですね」


和子は一ツ縦に首を振った。
徐に、その音の聞こえた耳の朶に触れた。

まだ私の中に、“篠”が生きていたとは


「私の過去を、知りたいと思う、」
「ええ、是非」


献一は懐からペンと小さなノオトを出すと、下がっていた眼鏡を上げ、だらしなくなっていた足を正して和子の話に耳を傾けた。

「この話は、内証にしておこうと思ったの」
まさかあなたのような人に、話すことになるなんてね。思ってもみなかったわ


今から四十、五十年前くらいか知ら
江戸時代も終わりくらいになった頃、吉原の近くで私は生まれた。

家はもともとそんなに裕福じゃなかったのだけれど、父の女遊びの性が激しく、間にできた子を母の元に残して、父はその女と心中した。

ちょうど時代も時代であったから、毎日の生活をするにも命がけ。
親子水入らず、ゆっくり過ごす時間なんてなかった。

その時母が病気になってしまって、もう生きていくのがいよいよ駄目になった時
私は自分で身売りをしたの。


大門へ入ってすぐの所にある「みね家」って所に、私は禿として売られた。

「あんた、島田の篠は几帳の内の玉鬘って聞いたことないかい」
「ああ、それなら。なんとなくですが」

江戸の仕舞いに現われた、まるで天女の様な女郎。
そう爺さんから聞いた記憶があった。


ありゃあ私さ。


「ええ、なんと」
「驚いたかい、こんな婆さんになっちまってよ」


ほほほ、と和子は笑った。
儚げに笑う彼女は、どうしようもなく美しかった。

「さて、熱燗、もう一つ作るかね」
「そんな、忝い」

泊ってお行きなさいよ、寒いからさ。風呂も沸いてるよ

「それでは、お言葉に甘えても」
「ええ、ええ。そうなさいな」

台所から、鍋の湯の煮える音が絶え間なくコポコポと聞こえていた。

立派な風呂で湯につかりながら、献一はふと溜息をついた。

今日出会った女が、江戸最後の女郎
それだけで何となく気が高揚した。

上司はこの話を気に入ってくれるだろうか、まさか文化欄一面の記事になるんじゃあるまいか、などと考えていた。

早く続きが訊きたくて、また、火傷が痛むといけないと思って、長風呂などしていられなかった。


「和子さん」
良い風呂でした、有難うございました。


熱燗を作っていた手が、一瞬止まった。
和子は献一の方へと振り向いた。

「今、なんと仰いました」
「はあ、良い風呂でしたと」

その前よ、

「和子さん、と」


どくん、と一ツ胸が痛いほどに強く打った。
思わず口を手で押さえたので、手に持っていたものを落っことしてしまった。

「どうしました、大丈夫ですか」

耳の中で反響する。
献一はあの人にどうしようもなく似ていたのだった。

「清太郎さん、」


死んでしまった良人に。

床に膝から崩れ落ち、物を拾おうとする手も震えてしまった。

今まで暗くてよく見えなかったが、今になって見えると、本当によく似ていた。

「和子さん、しっかりしてください」
「ごめんなさい。私は大丈夫ですよ」

それに湯冷めしないうちに肩かけを掛けておきなさい、今、熱燗をそちらへ持っていきますから。

「いいえ、熱燗は私が持っていきますから、和子さんが休んでいてください」


そう言って献一は座布団に和子を座らせた。

「あちち、」
「ほら、また。」
「平気です、これくらい」


また、和子は笑った。
熱燗の湯気で、献一の眼鏡が曇ってしまったからであった。


「あの、先ほどの清太郎というのは」
「最近死んだ私の旦那さ」
「ああ、」

成程、と思った。それであんなに取り乱して

「若い頃の旦那にあんまり似ていたから、びっくりしてしまって」
「ああ、そうでしたか」

隙間風が和子の髪を撫でる。
傍に置いてあったノオトも、ぱらぱらと音を立ててめくれた。

そして香ってくる。煙草の匂いが。

「この写真は、旦那さんのものですか」
「そうさ、そうとも。」


高い身分の出身で、時代が変わった時もそれなりの職に就くことができていた。

風に流されて、チリリと簪の飾りが鳴った。

「あの夏は大変だった、暑くてね。それでくたばっちまったのさ。」
「はあ」

また、鳴る。

「清太郎さんはねえ、まだ若かったあたしを買ってくれてねえ、懐かしい」
「和子さん」


あちきは安くありんせん、
そんな声が、ゆらゆらと耳に響いて行った。


徐に目を閉じると、吉原の匂いがした。

「買っておくれよ」と色を売る女たちの声、女たちを買おうと値踏みをする男達。

桜の大木の横に、みね家は店を構えていた。
女たちの飾ってある部屋の格子戸の所に、或る一人の男が立っていた

「いよう、若いの」

きちんとした身なりの人物。武家の出身なのだろう、腰に刀をさしている。
わきまえない下郎の男たちは彼の細身の肩を叩いた。

「私に触るな、下郎」

男は舌打ちすると、「おまえも女を買いにきたのだろう、ここに入っちまったらみんな同じだ。」
「若造、名前は」と男が訊くと「平岡清太郎」と答えた。

「ほうかい。俺は三根与野介っつうんだ。清太郎さんよ、どんな女が好みだ、え?」

清太郎はひきつった顔を繕うのが精いっぱいであった。

「女はなあ、しょせん俺達の精が欲しいだけだ。そんなに真剣に選ぶこったねえよ」
「そんな、」


「そこの三根与野介さま、」

一人の女郎がスックと立ち上がり、着物を擦らせてこちらにやってきた。

「お、お前は篠じゃねえか」
「あい。」
「おまえから来るたあ俺に抱かれてえのか」

にやにやと薄気味悪く与野介は笑った。
周囲はざわざわと騒ぎ始める

「あちき等は、」
「あん?」

「あちき等は安くありんせん」
「なに、」


「あちき等は安くないといったでありんす」

篠は吹かした煙管の煙を与野介に向かって吹きかけてやった。

「抱かれたきゃ、日に10両(120万程)。10両持ってきておくんなんし」
「じ、10両!」

与野介はすっかり吃驚してしまって、遠くに行ってしまった。

島田女

島田女

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-11

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