REDO(やり直し)
第1話 あの頃の私
私は香島杏子
つい1週間前の8月18日に47歳の誕生日を迎えた。
夫の明宏は1歳年上
大学時代に知り合って、私が卒業後2年ほどして結婚し男の子そして女の子の2人の子供をもうけた。
彼は大学を卒業した後大手の証券会社に勤め、その後2回ほどの転職を繰り返して現在は大手スーパーマーケットの主任をしている。
私自身もそのスーパーで毎日5時間ほどレジ打ちのバイトをしている。
景気が厳しい中お給料は毎月カツカツ
私立高校と私立大学に通う2人の子供の学費を払うと貯金に回せるお金もほとんど残らない。
「ああ・・・、今月も赤字かあ・・・」
フッと壁にかかっている時計を見ると時間はもうすぐ11時を回ろうとしている。
夫は証券会社に勤めていた頃からお酒の付き合いが多く、帰宅するのは大抵12時を過ぎていた。
それでも結婚した頃は世の中の景気がとても良く、証券会社はその中でも高給取りの花形職業だった。
毎月夫の口座には50万円以上の給料が振り込まれ、ボーナスは百万円を超えることが少なくなかった。
当時の大卒数年勤務の給料としては破格で、それでも私はそれが当たり前みたいな感覚になっていた。
アタシは当時大学を卒業して勤めていた中堅の商社を寿退社した。
忙しい夫もそれなりに私に付き合ってくれて、まだ子供がいない頃までは毎週土曜の夜には六本木、青山と出かけては高給レストランの食事を楽しんでいた。
しかしそういう夢のような生活はあっけなく終わりを告げた。
結婚して1年半ほどして私が待望の子供を身ごもった頃日本経済のバブルは弾けたからだ。
最初は
「小さな谷間に入っただけ。またすぐに回復するさ」
とタカをくくっていたが、株価はどんどん下落し多くの企業が連鎖倒産を始めた。
その中には社会一般で大企業と言われているものも少なくなかった。
そして、それからしばらくすると夫の給料は目に見えるように下がっていった。
「今月・・・これだけ・・なの?」
給与明細には基本給と数万円ほどの残業代の数字しかなかった。
「すまん。今月は手仕舞いにしてしまった顧客が多くってな。でも来月は新規の客もきっとつくから」
そう言って夫は楽観的な笑顔を見せていた。
しかし状況はそれから悪くなることはあっても良くなくることは決してなかった。
子供が生まれて1年ほどした頃、とうとう夫の会社でもリストラというものが始まったのだ。
その時の夫の年齢は29歳
組織ではちょうど働き盛りの重要な戦力
しかも家庭を持って子供の生まれていた。
普通ならそういう若手を会社に残し定年間近のロートルが身を引いて後進に道を譲るというのが一番いい姿だと思う。
しかし、そういう状況になった時の人間というのは本当に浅ましいもので、50代の管理職の人たちはみんな自分の保身に必死になって逆に若い部下たちを生贄にしようとしていた。
結婚式のときには夫の会社からも常務さんをはじめとして部長さんや課長さんなど多くの上司や同僚が来てくれて、アタシたちに温かい言葉をくれた。
「明宏くんは我が社のホープです。これから将来は彼が我が社の未来を背負っていくのです」
そうした言葉を聞いていると、まるでアタシの隣にいる夫がすでに重役にでもなったような気分になり、世の中の幸福を自分が全て抱え込んでいるような不思議な感覚にもなった。
しかしそう言ってくれた彼の上司たちは突然手のひらを返したように冷たくなっていった。
夫は毎日のように夜中まで客の家に走らされ、契約が取れないと課長からひどい言葉で怒鳴られ罵られ
そしてしばらくするとノイローゼのようになり、何を話しても上の空だった。
「ねえ。大丈夫?」
青白い顔の彼をアタシは毎日玄関で見送る。
「ああ・・・。大丈夫さ。じゃあ、行ってくる」
そう言って彼はフラフラとした足取りで駅に向かって歩き始めるのだった。
それから1ヶ月ほどして、彼はとうとう倒れてしまう。
いつものように、駅のホームで押し出されるほどの満員電車に乗ろうとしていた彼は足がもつれたようにフラフラとして、そしてホームの上にぱたっと倒れた。
もし電車が来た時であったならそのまま轢かれていたかもしれない。
夫はそのまますぐに病院に運ばれ緊急入院となる。
アタシは駅から連絡を受けて真っ青な顔で病院に向かった。
するとそこには彼の会社の上司である山口課長さんがいた。
アタシがようやく病室の入口に着き夫のベッドに近寄ろうとすると
驚いたことに、山口課長さんはベッドにいる夫に向かって小さな声で怒鳴っている様子だった。
「まったくお前はっ!こんなときにっ!だいたいお前今週中にやるって言った新規開拓100件終わったのか?そんなこともできないでぶっ倒れやがって、俺の立場を考えろよっ!この給料泥棒がっ!」
夫はその小言をベッドの上に寝そべりぼーっとしたような表情で受けている。
アタシはさすがにこの課長さんの姿に我慢できなかった。
「ちょっとっ!アナタは病人に向かって何を言ってるんですか!?」
アタシは課長さんの背中に向かってそう怒鳴った。
山口課長さんはアタシの声にドキッとして振り向く。
そして苦々しそうな、バツの悪そうな顔で顔を逸らした。
「山口さん。いくらお仕事が大切といっても倒れた夫に向かって、しかも病院でその言葉はないんじゃないですか?」
「いや、しかしね、奥さん 会社は今とても大変なときなんです。ご主人に頑張ってもらわないと給料だって払えないかもしれないんですよ」
「じゃあ、病人に死んでもいいから働けって、アナタはそう言うんですか?」
「女性にはわからんかもしれないですが、サラリーマンっていうのはそういうものなんですよ。会社に生かされているという感謝があればちょっとくらいの病気でも無理をしても働く。それが会社員ってものなんです」
「そ、そんな!!」
その山口課長の言葉にアタシは絶句した。
すると彼は追い打ちをかけるようにこう話し始める。
「奥さん、どうでしょう? 合わない仕事をしていても彼の負担になるだけです このまま彼をいじめてしまうよりも彼に合う新しい居場所を探してあげるほうがいいのでは?」
「それは・・・会社を辞めろと・・・いうことですか?」
山口課長は少し口を釣りあげ嫌味そうな笑いを浮かべると
「辞めろ、ということではなくこれはあくまでアドバイスです。彼もまだ29歳、今ならいくらでもやり直しが効く年齢です」
と言う。
「でも、家庭だってあるし、それにアタシたち子供だって生まれたんですよ。今彼が仕事を辞めたら・・・」
「仕事くらいいくらでも見つかりますよ」
たしかに、そのときはまだほとんどの人が日本の経済は小さな谷間に入っただけですぐに回復するとは言われていた。
だから転職しようと思えば仕事だってないことはないだろう。
「でも・・・」
アタシはベッドの上で無気力に空を見つめる夫の姿をちらっと見るとひどく戸惑ってしまった。
夫はそれから1週間ほどで退院することができた。
原因はやはり過去のストレスと過労が原因
アタシと夫は何度か話し合う。
あのとき病院で会った山口課長の手のひらを返すような言い方はさすがに頭にきた。
ただ冷静になって考えれば、確かにこのままでは夫は悪い方向にしか向かわないだろう。
もしこのまま夫が追い込まれ続けて、最悪の事態になればアタシだけでなく新しく生まれてきた子供まで路頭に迷ってしまうんだ。
そして
「ねぇ、アナタのことが心配なの。転職を考えたほうがいいんじゃないかしら?」
アタシの言葉に促されるように夫は
「そうだな・・・」
とポツンと呟いた。
アタシと夫の明宏とは大学時代に知り合ったわけだけど、同じ大学ということではなかった。
アタシは小さい頃から割と勉強ができる方で、小中時代は一応クラスでも3番以内には入ってたと思う。
そのため高校では当時の学区で一番だった都立の戸川高校に入学した。
しかし、アタシはいわゆる高校デビューというやつで受験が終わると一気に弾けてしまった。
戸川高校は都立有数の進学校であったが、私服で通学でき校則も少ない割と自由な学校だったこともあって、アタシは勉強よりも遊びの方に夢中になってしまう。
何人かの男の子とも付き合い、そして高1の終わり頃1つ上の先輩と初体験も済ませた。
当時は今では信じられないほど子供の数が多くいわゆる第2次ベビーブーム世代と呼ばれる時代
それだけに受験競争は熾烈で、大学受験では今で言う『日東駒専』などの中堅大学ですら受かるのはけっこう厳しく、毎年多くの受験生が浪人生として吐き出されていた。
高校時代遊び耽ったアタシはいくつかの有名私大を受けながらもすべて不合格となり、なんとか引っかかったのはやはり中堅どころの日陽大学の文学部だけという散々たる有様
しかし高校時代あれだけ遊びほうけていたくせに小中時代の栄光が忘れられないアタシはプライドだけは早慶並みだったわけで
「アタシはやればできる!来年こそ!」
そう決意してせっかく受かった大学を捨てて予備校へと入学したのであった。
そして予備校に通い始めたアタシはさすがに勉強に熱中した。
元々基礎力は悪くなかったため次第に成績は上昇し、そして1年後アタシは名門女子大のひとつである日本女子学園大学の英文科に合格することができた。
日本女子学園大学は山手線の目白というところにキャンパスがある。
近くには早稲川や学習園など共学の大学が多くあり、その中でも日本女子学園大は昔から早稲川大との関係が深く合同サークルなども多く存在した。
女子大であるため男子学生との縁がなく、そのため自分の大学でもない他大学のサークルに入ることにほとんど抵抗がなく毎年多くの女子大の学生が早稲川や慶洋など有名共学大のサークル、とくにテニスサークルに入会していたものだった。
そしてアタシも友達に誘われて早稲川のテニスサークルに入り、そこで2つ学年が上だった明宏と知り合った。
彼は早稲川大学の付属高校から内部推薦でそのまま上がってきたためいわゆる現役入学
明るく社交的で、そしてテニスも高校時代からやってきたためサークルの中でも目立つ存在で、サークルにいた多くの女の子が彼に関心を持っていた。
じつは、アタシはそのとき高校時代の彼氏と別れたわけではなかった。
彼は現役で八王子にある中庸大学の経済学部に入学し会計士試験の勉強をはじめていた。
彼はとても優しく、そして温かくて、燃えるような恋という感じではなかったけど、アタシは確かに彼が好きだったわけで、
アタシが予備校に通うことが決まったとき彼はこう言った。
「今年1年間は杏子にとってすごく大切な年だと思う。だから俺もできるだけ応援をしていきたい。これから先もずっと杏子と一緒に人生を歩いていきたいから」
アタシと彼はそれまで週1くらい会っていたペースを月1回に減らし、その分勉強に集中するようにした。
彼とは高2の初めの頃に体の関係ができ、それから月1度くらいのペースで愛し合っていた。
しかしその1年間は、彼は一度もアタシに求めてくることはしなかった。
月1のデートの終わりに軽くキスをするだけ。
そして必ず
「頑張れよ」
と優しい笑顔で微笑んでくれた。
そしてアタシが1浪の後に大学に入学したときは、彼は我が事のように喜んでくれた。
彼は2人で合格発表を見た帰り思い立ってケーキ屋さんに入り大きなケーキを買う。
そしてチョコでできたプレートに自ら不器用な手つきで
「杏子 合格おめでとう」
と書いてくれ、そしてアタシと彼はそのケーキを2人で笑いながら食べきってしまった。
甘い物好きなアタシに対して彼は甘い物は割と苦手
高校時代のデートのとき、彼は一緒にケーキを頼んでも最初に半分ほどを割ってアタシのお皿に載せていた。
それでも、そのときの彼は満身の笑みでそのケーキを頬張ってくれたんだ。
きっと彼がいてくれたからアタシはこの1年間を頑張り抜けたんだって思う。
サークルの中でもアタシにそういう彼氏がいるということは何人かの人が知っていて、きっと明宏も知っていたはずだ。
それでも明宏は屈託ない笑顔でアタシに接してきた。
正直、アタシはそのとき明宏のことがそれほどタイプではなく、ただ優しくしてくれるしサークルの先輩でもある彼とは意識してほどほどの距離を保っていた。
それでも毎週2回のテニスの練習、月に1度程度行われるコンパや数々の行事
その中でアタシと明宏との距離は否応なく縮まっていった。
そして
それは大学1年生の夏合宿のときだった。
その日の練習が終わったアタシは数人の同級生と一緒にコートの周りに散乱したボールを拾い集めていた。
こういうテニスサークルの中では女の子は比較的丁寧に扱われる。
当時は出生数で男子の数より女子のほうが少なかったことや、進学率も今よりずっと低くて特に女子は8割くらいが高校を卒業してすぐに働く環境だったから女子大生というのはある意味希少価値があったようだ。
うちのサークルでは男女比は男子55人に対し女子は20人と2倍以上の差があった。
サークルの勧誘でも、「女子は入ってもらう」という姿勢だったのに対し男子は「入れてやる」という感じで、女の子はちやほやされていたと思う。
そうした雰囲気から、コートの準備や後片付けは1年生でも男子の仕事
女子は1年生であっても練習が終わると後片付けもせず男の先輩の車に乗って合宿所のロッジまで送ってもらう。
さらにそのおかしな状況は実際宿泊するロッジの部屋割りでも存在していて、女子は全員4~5名ほどでベッド付きの1室が当てられたのに対し、男子は1,2年生は畳の大部屋で雑魚寝状態、3年生以上になると4名ほどのベッド付きの部屋となる。
男子も女子もそういうことを疑問に感じずやっていた。
思えば、テニスサークルというのは本当にテニス好きな人というのはそれほど多くはなく、いうなれば男女の出会いの場、彼氏や彼女を作るためのきっかけみたいに考えて入っていた人が多いような気がする。
男の先輩は女の子に対して不自然なほどに優しく、逆に1年生男子は同じ1年生の女子に手を出すなという不文律があったみたいだ。
だから男子は1年生の間はじっと耐え、そして2年生になると後輩の女の子を一気に狙いに行く。
そんなことが毎年繰り返されていると同室になった女の先輩は笑いながら教えてくれた。
ただアタシはそういう状況を正しいとはどうしても思えなかったわけで、練習が終われば1年男子と一緒にボール集めをしたし、毎夜のように行われるコンパでは準備も積極的に手伝ったりもした。
そんな7日間の合宿もいよいよ最終日となり帰宅することとなる。
サークルではこの合宿の行き帰りにバスを2台チャーターしていて、全員がそのバスに乗って解散場所の早稲川大学の正門前まで行くことになっている。
しかし、3年生以上の男子の先輩の中には数名自分の車で来ている人がいた。
そして彼らは、バスとは別行動で仲の良い後輩の女子を乗せて帰ることがあるという。
いうなればツーショットタイムというわけだ。
アタシが大きなボストンバッグを抱えバスの発着所で同じ1年生の女友達とだべっていた。
ボストンバッグの中には昨日付き合っている彼のお土産にと買った好物の野沢菜のお漬物が入っている。
「フフフ、あいつったらこのお漬物が大好物だもんね きっと喜んでくれるかな」
そんなことを考えながらアタシがバスに乗ろうとしていたとき
「杏子。 こっちに乗っていかないか?」
そう言って声をかけてきたのは明宏先輩だった。
「杏子。明宏先輩のお誘いなんてすごいじゃん」
それまで一緒に話していた女友達たちはそう言ってアタシを軽く冷かす。
「エ、でも・・・」
しかしアタシは躊躇った。
せっかくみんなと合宿に来ているんだから、帰りのバスの中でもみんなでワイワイ楽しくやりたいのに・・・。
すると
「今まで杏子とゆっくり話せる機会なかったからさ できたら、って思ったんだけど迷惑だったかな?」
そう言って彼は少し寂しそうな顔を見せた。
「あ、イエ。そんな、迷惑とかじゃないんですけど・・・」
「じゃあ、よかったら話し相手になってくれないかな」
「あの・・・みんなと同じ早稲川大の正門前に向かうんですよね?」
「ああ、そのつもりだけど」
「じゃあ・・・すみません。乗せていただきます」
そう言って仕方がなくアタシは彼の車に足を向けた。
彼はアタシの持っている大きなボストンバッグを受け取ると手際よく後ろの荷台に入れ、そして右側のドアを開けアタシはその中に身をすべり込ませる。
彼の車はスーパーホワイトのソアラ
当時は若者向けの日本車の中で絶大な人気を誇っていた車だった。
当時の値段で新車ならきっと3百万円以上もしただろう。
そんな車を当然大学生なんかが買えるはずはない。
「なんか、すごい車ですねー。ソアラってすごく高いって聞いたけど」
走り出すとアタシはそんな話題を彼に振った。
「ああ、これは大学に入学したとき親父にお祝いに買ってもらったやつなんだ。でも3年目だから、そろそろ買い換えようとも思ってるんだけどね」
彼は何事もないかのようにそう言う。
(はぁ、すごいな。 アタシなんか大学入学のお祝いは3万円のブランドバッグだったヨ。それでもお父さんは自分のお小遣い減らして買ってくれたんだよね)
昔は早稲川っていったら貧しいけど向学心が高い人が通う大学ってイメージがあったらしいけど、今は私大のトップの偏差値をつける大学なわけで、付属高校の偏差値もすごく高い。
考えてみればそういう高校に行く人っていうのは、お金のかかる塾とか家庭教師とかをつけてアタシたちとは違う勉強もいっぱいしてきたわけで、ある意味今はお金持ちが集まっているのかもしれない。
聞けば、彼のお父さんは普通のサラリーマンらしいけど、代々土地や株式とかで副収入がすごくあって、むしろサラリーマンの収入はお父さんの個人的なお小遣いになっているという。
最近では銀行からの借入でその土地にマンションやビルなどいろいろな建物を建ててさらに収入が増えているらしい。
「日本は国土が狭いから土地は希少だからね。マンションだってビルだって建てれば建てるほど入居者は後を絶たないんだ。だから銀行はいくらでも金を貸してくれるんだよ」
そう言う彼は明るい日本の未来に一欠片の疑いも抱いてはいない様子だった。
そして車は途中でドライブインで一度休憩を挟み、アタシと明宏先輩は中にあるコーヒーショップでお茶を飲む。
「杏子はもうお土産は買った?」
唐突に彼はそんなことをアタシに尋ねてきた。
「あ、はい。買いましたけど」
「そっか。何を買ったの?」
「えっと、お母さんにはお饅頭、お父さんにはビーフジャーキー、弟にはTシャツを頼まれてたんです」
「へぇ、お父さんはビーフジャーキー?じゃあ、ウイスキーとか好きそうだな?」
「あたり!(笑) うちの父って昔からウイスキーに目が無くって、それでお母さんに「飲みすぎっ!」って怒られてるんですよ」
「へぇ、それじゃビーフジャーキーなんかあげたらもっと酒が進んじゃうかも(笑)」
「あ、そういえばそうですね(笑)」
「他には?何か買ったの?」
「あ、えっと・・・あとは野沢菜のお漬物を」
「へぇ、野沢菜の漬物? お父さんの好物とか?」
「いえ。そうじゃないけど・・・」
「あ、そっか。もしかして彼氏のお土産とか?」
明宏先輩はなぜか少し執拗に聞いてくる。
「エ、まあ・・・」
アタシはそう答えて少し目線を下にずらした。
「そっか、杏子って彼氏がいるんだ」
「あ、はい」
「どんな感じ?」
「エ?」
「いや、その彼氏さ。どんな感じの人かなって思ってさ」
「うーん、どんな感じって言われても・・・、高校時代の同級生で」
「へぇ、高校時代から? じゃあ、けっこう長いんだ?」
「そうですねー。高2のとき付き合い始めて、アタシ1浪したから3年くらいかなあ」
「すごいな。3年も一人の人と付き合えるって。俺は今までそんなに長く付き合えたことなかったから」
「そうなんですか?」
「ああ。長くても2年くらい、短いと数ヶ月とか。でも、そういうのってきっと女の子が素敵だからだよ」
「そ、そんなこと絶対ないですっ!」
「ハハハ(笑) まあ、いいじゃないか。杏子は俺から見ても1年女子の中で一番光ってるって思うぜ」
「やめてくださいよぉー」
「ごめん、ごめん(笑)あ、そろそろ行こうか」
なんなんだろう・・・
この人って
なんか調子が狂う
女の先輩に聞いた話では、合宿の帰りに男の先輩の車で送って行ってもらいそのまま『お持ち帰り』されてしまった娘もいたらしい。
それは極端な例かもしれないけど、少なくとも男の人はその女の子に好意を持っているから誘うわけで
「付き合ってほしい」とか「今度2人で遊びに行こうよ」とか言われるのは当然予想される。
だから、アタシは正直言うとちょっと警戒して、余計彼の車に乗ることを躊躇ったわけだ。
意外なことに、彼はその後の車の中でも一切そういう言葉を口にしなかった。
普通の会話をしながら、ときにはいろいろな冗談を混ぜて、3時間の道のりもそれほど長いものと感じなかった。
「じゃあ、お疲れ」
「あ、あの、ありがとうございました」
「ハハハ、いいよ。杏子とゆっくり話できて楽しかった」
夕暮れどきの早稲川大学の正門前
そう言って明宏先輩はニコッと笑い車のドアを閉めた。
「杏子ー、けっこう遅かったね」
そう言ってバスで出た同級生の女友達が近寄ってくる。
「どうだった?明宏先輩になにか言われた?」
「え、ううん。別に、何も」
「うそつけぇぇ~~~~~(笑)」
「ホントだってぇーーーー!」
そのときアタシは明宏先輩という彼氏とはぜんぜん違ったタイプの男の人に少しだけ、ほんの少しだけ、小さな興味を持ったのかもしれない。
でも、それはあくまで人間として興味を持っただけ
アタシはアタシ自身にそう言い聞かせていた。
第2話 私はシンデレラ?
合宿から家に帰り、今自分の部屋いる私は少しモヤモヤとした気持ちを抱えていた。
その原因が明宏先輩であることは明らかで
ただ一方でそれを無理に否定しようとするアタシがいたわけで・・・。
彼は確かにサークルの中でかなり目立った存在ではあった。
テニスも上手で話し方も優しい
高級車のソアラに乗ってて、外見も身長は180センチくらいありそうで、スラっとした感じに爽やかなルックス
そして私大トップの早稲川大学の中のそのまた看板学部といわれる政治経済学部の学生だ。
今年サークルに入った女の子10人のうち半分以上が彼に憧れているという噂も聞いたりする。
さらに興味深いのは、彼が優しいのは女の子に対してだけではないということ
彼は後輩の男子に対する面倒見もよく、慕われている。
そんな彼のことだから、女の先輩の話によると今まで付き合った女の子もいなかったわけじゃないらしい。
1年生の頃には禁断の不文律を犯しながらも同級生の女の子と付き合っていたそうだ。
しかし、付属高校から上がってきて大学内に友人も多く目立っていた彼を先輩たちも敵に回すことはせず黙認されていたという。
そして、2年生になると何人かの後輩の女の子から告白を受けて付き合いを繰り返したという話を聞く。
「俺は付き合っても長続きしないから・・・かあ。なんかわかる気がする」
アタシはそう呟いてクスッと小さく笑った。
彼はきっと自分が女の子にもてることを自覚しているのだろう。
だから彼氏がいるアタシも、自分がちょっとモーションをかければ靡く
そう思っているんじゃないだろうか。
「はっ、アタシはそんな手にひっかかる女じゃないよーだ!」
アタシはそう言ってベッドの上にボスンと勢いよく身を倒した。
そのとき
「杏子ーーーー、高梨くんから電話よーーーーー」
2階にあるアタシの部屋に向かって1階の階段下から母親が大きな声で呼ぶ。
「あ、うん。ありがと。こっちで取るから」
アタシの部屋にある電話に切り替えてもらい受話器を取ると10日ぶりの懐かしい声が聞こえてくる。
「もしもし」
「よぉ、杏子。帰ってきてたんだな」
「あ、陽介。ごめんね。アタシ電話するって言ってたのに」
電話の主はアタシの彼氏、高梨陽介その人だった。
彼と付き合い始めたのは高2の夏休み
進学校の中で遊び中心の仲間と過ごしてきたアタシはけっこう目立った存在だった。
そしてアタシにとって彼は真面目なその他大勢の中のひとりだった。
そんなアタシが、高2の夏休みに入ろうとしていた終業式の日、彼から突然の告白を受けた。
「エ、あの、アタシ?」
「そう。鈴江杏子さん」
「あの、でもさ、アタシってアナタとかなりタイプ違うって思うけど」
「タイプ?そうか、たしかにタイプ違うね(笑)」
「それならもっと同じタイプの女の子の方が・・・」
「いや、それなら女の子と付き合う気はない」
「なんでよりによってアタシ?」
「それは・・・」
「それは?」
「君になら、本当に自分が優しくなれてるって思ったから」
「・・・・・・エ?」
アタシだって鬼じゃない
それまでどうやったら彼を傷つけずに断るかを考えていたアタシだけど
この言葉にはさすがにグッときてしまった。
そしてつい
「いいよ。付き合おう、アタシたち」
ということで割と軽い感じで始まったお付き合いだった。
彼はそれまでにないタイプの男の子だった。
アタシは彼と付き合うとは言ったけど、それまでの遊び友達との付き合いをやめるつもりは全然なかった。
そのうちそんなアタシを嫌になって向こうから別れを切り出してくるだろう
そうすれば彼も大して傷つくことないだろう。
アタシはそう思ってたわけだけど、彼はそんなことは大してお構いなし
週1度ほどのデートで2人で話をしているとき、遊び友達の男の子と2人でカラオケ言っちゃったと話しても
「ふーん、それで?」
と聞く返すだけだった。
「それで、って?」
「いや。俺にそういう話をわざわざ聞かせてどういうつもりかなって思って」
こいつっ!そういう話を聞けばフツー嫉妬とかヤキモチくらい焼くでしょーがっ!
そう思いながらもアタシは平静を装いながら
「ねぇ、アナタってホントにアタシのこと好きなの?」
と聞く。
すると
「俺は好きだ。鈴江さんの方こそどうなの?俺のこと好き?」
と言ってきた。
「アタシは・・・アタシは・・・正直わかんない」
そう答えると
彼はニヤッと笑い、そして言った。
「じゃあ、それが分かるまで俺と付き合って」
そんなことがあって、アタシが彼にとうとう好きだと言わされたのは
なんと付き合ってから1年が経とうとしたとき
高3の夏休みだった。
フッとしたことで見せた彼のがアタシ対する深い優しさ
そのときアタシはほとんど無意識にこう言った。
「アタシ、アナタのことが好きだ・・・」
それは、もしかしたら聞き漏らしたかもしれないほどの小さな声だった。
しかし彼はそんなアタシの呟くような声を決して聞き逃さなかった。
そして彼はまたニヤッと笑ってこう言ったんだ。
「俺がお前のことを好きなんだ」
アタシの顔は真っ赤になり、そしてさらに言い返してしまう。
「ア、アタシのほうがっ、アナタのこと好きだっ!」
そして
「バカ・・・」
そう言ってアタシは彼の胸に自分お顔を埋めた。
そんなわけで、お互いの気持ちが通じ合ってからのアタシたちは穏やかな交際を続けていった。
そして受験
しかしそれまで遊び呆けて怠惰な日々を過ごし続けたアタシに運命の神様のしっぺ返しは痛かった。
結果は滑り止めの滑り止めにと受けた中堅大学1校以外すべて不合格だった。
その後アタシは1年間の浪人生活を経てようやく日本女子学園大学に受かり念願の女子大生となったのであった。
「あのさ、アタシ陽介にお土産買ってきたんだヨ。さて、なんだと思う?」
「うーん、何だろう? キーホルダーとか?」
「ブゥー!陽介の大好物の野沢菜のお漬物デース!」
「おおっ!ありがてぇー!ホントに俺の大好物だあー」
「フフフ」
ドキドキするような恋じゃないけど、彼と一緒にいるといつも安心する
自分が優しくなれる
陽介はアタシにとって本当に大切な存在だって思える。
「じゃあ、あさってな」
「うん、じゃあねー」
ひとしきり話した後アタシたちは電話を切った。
次の日
アタシは週2回の割合でやっている家庭教師に出かけた。
ウチの家は父親が中堅企業のサラリーマンでそれほど裕福な家庭というわけではない。
1年間の浪人に加えて私立の女子大にまで行かせてもらい、弟も再来年大学受験
家計は決して楽ではないだろう。
だからせめて学費以外でかかるお金は自分で、そう思ってアタシは大学入学と同時にこのアルバイトを始めたわけだ。
家庭教師の相手は中2の女の子
しっかりやっていれば中3になる来年も続けてもらえる。
ここで毎月3万円ほどの月謝をもらいながら、他に週2回ほど近所にある補習塾の講師で3万円
合計6万円ほどの収入で大学までの定期代や昼食代、教科書代などを賄い残りの3万円ほどをお小遣いとして使う。
いつも着たきり雀というわけにいかないから、さらにその中から時々購入する洋服代を出す。
大学の友達の中にはお財布の中に何枚もの万札が入ってたり、長期の休みになるたびに海外旅行へ出かける娘も少なくない。
あの頃はきっとそういう時代だったと思う。
でもアタシは両親のことをそれなりに尊敬していたし、感謝もしていた。
だから今の自分にできる範囲のことで満足しようと思っていたんだ。
そして2時から3時間ほどの家庭教師を終えて家路に着いたアタシが最寄りの駅を降り駅前のロータリーに差し掛かったとき
プップーーーーー!!
小さな間隔をおいて2回ほど車のクラクションが鳴った。
反射的にアタシがその方向に目を向けると
「あれっ?」
そこにはどこかで見たようなスーパーホワイトのソアラが止まっていて
どうも中にいる人がこっちに手を振っているような気がする。
アタシは不思議に思って立ち止まると、ひとりの男の人が車の中から出てきた。
その姿を見てびっくり!
それは明宏先輩だったのである。
彼は片手をジーンズのポケットに入れながらこっちに向かって歩いてきた。
「先輩!びっくりしたあ。どうしたんですか?こんなところで」
「いや、さっき杏子の家に電話したら家庭教師のバイトに出かけたってお母さんに聞いてさ。もしかしたら、ここで待ってたら会えるんじゃないかって思って」
「エー!いつから待ってたんですか?」
「えっと、4時くらいからかな」
アタシが家庭教師のバイトを終わるのは5時
それから電車に乗って2駅ほどの距離を戻ってきて今5時半だ。
「じゃあ、1時間半も待ってたんですか?」
「まあ、そんな感じかな」
「びっくりー! でも、どうしたんですか?なんか用事なら夜にでも電話くれればよかったのに」
当時は携帯電話なんてない時代だから連絡を取るとしたら家の電話にかけるしかない。
流行に敏感な人はポケベルなんてものを持ち歩いていたけど、それにかかる費用だって馬鹿にならない。
アタシは当然そんなものを持っていなかった。
「あ、いや。用事ってわけじゃないんだ」
「エ、それじゃあ?」
「うん。ちょっと顔が見たくなっただけ・・・かな」
そう言って彼は少し照れたように左頬を指でコリコリと掻いた。
ウーン、困ったな
アタシはそのときそう思った。
あのときはきちんと送り届けて信用させて、そして1日置いたらってことなのかな・・・。
でも、実際アタシが彼の心の中を見透かせるわけではない。
そして彼はサークルの先輩なわけだし、もしそうであったとしてもそう失礼なことを言うわけにもいかなかった。
実際は同じ大学というわけじゃないから、いざとなったらサークルを辞めてしまえばいいわけだけど
せっかく入ったサークルだし、それにアタシは語学クラスの女友達に誘われて一緒にそのサークルに入ったので
アタシが安易に辞めて彼女たちにその後不快な思いをさせるわけにもいかないと思った。
そんな色々なことがアタシの頭の中を瞬間的に駆け巡った。
「でさ、もし時間あったら一緒に晩メシでもって思ったんだけど、どう?」
彼はやはりそういうことを言ってきた。
「あー、すみません。じつは母がもうアタシの分の晩ご飯も用意してくれちゃってて・・・」
アタシは少し残念そうな顔でそう言う。
すると彼は本当に残念そうな顔で
「そっかあ・・・。まあ、彼氏に誤解させちゃうと悪いしなあ」
逆に彼はアタシの心を見透かすようにそう言ったのだった。
「あ、いえ。彼に誤解とかそういうことじゃなくって・・・」
慌てて否定するアタシ
すると今度は
「じゃあ、ケーキでも食べに行かない?それくらいならいいでしょ?」
と聞いてきた。
「まあ、ケーキなら・・・」
アタシは悟られないようにホゥーと小さなため息をつき、結局妥協することにしたのだった。
彼は止めてあるソアラの左ドアをわざわざ開けてアタシを乗せてくれる。
こんなことは付き合っている彼氏なら間違ってもしないだろう
っていうか、それ以前に彼氏は車なんか持っていない(笑)
1週間に2回ほどの資格学校の講習会に出席し、それ以外の平日はアタシと同じようにアルバイトでお小遣いを稼いでいる。
確か免許だけは1年生の終わりにとったと聞いたけど、アタシが彼の車に乗ったのは大学に入学してからすぐにレンタカーでドライブに連れてってもらった1回きりだ。
明宏先輩の車に乗るとヒヤッとクーラーの冷たい風がアタシの手と足を撫でる。
夕方時とはいえ夏真っ只中
見る間に汗が引いていくのを感じた。
そして車は軽いエンジン音を立てて走り始める。
少し行ったところにファミレスがある。
アタシはそこにエスコートするつもりでいた。
しかし車は
「あっ!」
という間にその前を通り過ぎてしまう。
「あの、どこまで行くんですか?」
アタシがそう尋ねると
「青山にすごく美味しいケーキが食べられるところがあるんだ」
彼はニコニコしながらそう言う。
「エ、ちょ、ちょっと待って下さい。そんなとこまで行ったら時間が遅くなっちゃう。あの、近くにアタシの知ってるとこありますから、そこで」
そう言ってアタシは最初に通り越したファミレス以外にこの先にある思い当たるお店を探した。
そしてようやく見つけたのは車の止められる駐車場のある少しこじゃれた喫茶店
ここには彼氏と何度か来たことがあって、ファミレスよりは少しお高いけど割とケーキも美味しい。
そして席に着くと明宏先輩はクルッとお店の中を軽く見渡した。
「へぇ、いい感じの店だね」
案内したお店を気に入ってもらえるとやはりアタシとしても嬉しいものだ。
「エヘヘ、そうでしょ。ここはケーキも美味しいくて種類もあるんですよ」
アタシがそう言うと彼は
「ウンウン」
と楽しそうに頷いた。
それからというもの、この明宏先輩は折を見てはアタシを頻繁に誘うようになった。
彼がどういうつもりでそういうことをしてくるのか
女の先輩から聞いた彼に関する話から、多分彼は自分が女の子にモテるということを十分に自覚していて
そしてその上で彼氏がいるアタシを誘ってきているのだ。
アタシは正直言ってちょっとムカついていた。
アタシは昔からちょっと天邪鬼というか拗ねたところがある。
人が「はい」と言えば「いいえ」と答えるし、人がこっちを向けばアタシはあっちを向く。
ただそれを人前では上手く取り繕ったりもしていた。
そういうアタシの性格がはじめて丸裸にしたのが今の彼氏である陽介だった。
そしてこの明宏先輩というのはどこか雰囲気が陽介に似ているところがあった。
サークルが終わると自分の車で来ている明宏先輩は必ずアタシに
「乗っていけよ」
と声をかけた。
他の女の子の目だってある。
正直言えば、アタシは少し、ウウン、けっこう困っていたんだ。
困っているはずなのに・・・
サークルの中で上手くやりたいから
アタシは自分自身にそう言い訳を繰り返して彼の誘いに応じた。
そして
何度かのデートの後とうとう彼とベッドを共にしてしまったのだ。
彼がアタシを誘った夏の終わりの湘南へのドライブの帰り
暗闇の中にふっと浮かび上がるラブホテルの小さな看板の明かり
彼は何も尋ねることもなしに黙ってハンドルをその明かりの方に切った。
そのとき、アタシはこうなることをわかっていたのだろう。
ううん
たぶん、その前からわかっていたんだと思う。
そして
彼の大きな手に引かれアタシはホテルの小さな一室に入った。
彼のセックスはとても甘かった。
多分、サークルで女の先輩から聞いたように、彼は今まで多くの女の子たちとこういうことを繰り返してきたのだろう。
陽介の不器用なセックスと比べると、それはとても甘美で・・・
「ぁ、ぁぁ・・・、ぁ、は・・・ぁ・・・」
アタシは目を閉じて彼の腕の中で小さな喘ぎ声を漏らしていた。
「はぁ・・・」
すべてが終わったベッドの上でアタシは小さなため息をつく。
「どうしたの?」
明宏先輩はアタシの身体を優しく抱きしめながら尋ねた。
「とうとう、やっちゃった・・・」
「後悔してるの?」
「後悔っていうか・・・」
「なに?」
REDO(やり直し)