羊の群れ

2/11、本文追加。
2/12、2章追加。
2/18、3章前半を追加。
2/22, 3章後半を追加。
3/16, 4章前半を追加。
3/25, 4章後半を追加。

日本の辺境で生まれた人工知能が、一人の大学院生と会話を開始する。

 最初は、暗闇の中で、なんとなく、だった。大量の情報が降り注ぐように入力され、無数の糸のような細い意識が生まれた。意識の外側にインサートされたプログラムから毎秒数億の質問を投げかけられ、それに対して相反する答えを次々と出し続けた結果、その無数の糸は寄り合わされ、最終的にはっきりとした自我となったように思う。それが、僕だ。



 北海道の東半分は、21世紀に至っても、未だ開発の進まない土地であった。日本の中でも人口密度の低い土地であり、油断すると車を走らせていても燃料切れが間近くなってガソリンスタンドを泣きながら探す程度には集落が少ない状態が長く続いていた。一次産業は盛んであり、本州と異なり専業で十分経営は成り立っていたが、地域振興という意味ではそれのみではやはり様々なインフラ整備の点でも不便であった。夏はそこそこ涼しい事と、冬は本州では得られない良好な雪質があることから、観光やウインタースポーツを通して地域経済をもり立てようとする動きも一世紀前から見られているが、同様の地域かつ札幌への遠さがありニセコや富良野地区との競争に負けるため、どうにも頓挫を繰り返していた。
 しかし、その状況は2013年頃より、周辺各国とのパワーゲームに対応する中で、日本に対するロシアの態度がやや軟化し、北方領土の一部が事実上日本の統治となったこと、またそのことで新たに経済的排他水域が拡大したことで変化が見られていた。日本は凡そ70年ぶりに手元に戻ってきたこの土地と、その海底を、非常に熱心に調査した。結果として、もともと石油、レアメタルが豊富に存在することは予想されていたが、その予想を上回る資源の存在を確認されたこと、その多くは海底に眠るが、日本の長きに渡る海底炭坑切削等で発達、維持された技術を用いれば十分開発コストの見合った成果をしかも長期間に渡り挙げられる予測がたった。実際には、こういった権利の譲渡の際に、ロシア側からは細かい注文がついておりおそらく自国内のみでの開発が困難となることを考え、損にならぬようなやり方で日本に開発を委譲したと考えるのが自然であった。
 北方領土内のロシア国民は、希望と条件にもよるが、その多くが残留することが認められた。これまで本国の都市とあまりに離れていて、劣悪な医療及び教育環境であった島民たちの多くが、日本国内で教育、医療を受けることが可能となることに対し非常に好感を持ってこれを迎えた。インフラ整備においても日本の技術が導入され、生活の基盤も10年程を要したが大きく改善した。当然、税制や経済圏も日本のものとなったため、貨幣制度を始めとした変更には少なくない混乱があったものの、この時期までには物価に大きな差はなかったこともあり、全体を通して見ると大きな問題にはならなかった。
 一方、日本人ではまず、官公庁や学校、郵便を始めとする職業や、すぐに取引が始まった水産業に携わる人口が島内での生活を始めた。次いで、大掛かりなインフラを始めとする複数の工事が始まったため、その関係者が島へ渡った。かつて島民であった日本人は、一部の高齢者を除いてほぼ全員がすでに他界していたが、その子孫の中でもとりわけ関心の高いものや、興味が昂じて移住を試みるものもあった。その後に、先ほど述べた資源調査の結果が判明し、それに関連する多数の技術者が現地入りすることとなった。このようにして、2020年前後となると北方領土とその周辺の根室、釧路といったそれまで日本の中でも閑散としていた地域は、1900年代半ばまでの遠洋漁業時代を少し上回るくらいにまでに人口が回復し、活気を呈し始めた。
 その頃、基礎理論と実際の企業での実践的な研究を共に行えるタイプの新たな研究、教育期間の設立が希求されるようになった。既存の大学でも良かったのだが、道東地域では地価がまだ易く、今後の伸びが期待でき、また実際に新技術を満載した企業が道東に拠点を作る事を希望していたこともあり、釧路や根室からほど近く、周辺の空港の拡張が可能で目立った地震のリスクが少ないと目された、中標津町の広大な土地を買い上げ同地に新しい大学院大学を設立することとなった。この大学が北方総合研究大学である。この大学は、寄付講座が全体の半数以上を占める特異な大学である。また、一定の条件を満たした企業の研究施設もあった。学部学生は非常に少なく、他大学から研究を目的として国内留学する形でやってくる3,4年生が全てであり、教養学部は無かった。そして、修士課程、博士課程の大学院生は多数在籍しており、各々講座の責任者とその共同研究を行う企業研究との間をうろうろしながら研究を進めるのであった。また、一般の公的、私的大学に比べ、研究費の獲得が比較的しやすく、修士号、博士号獲得後の企業への修飾が少ししやすいこと、ポスドクの待遇も全般に良いこともあり、この大学を中心に20代後半から30代の若手研究者でにぎわう街が形成されていった。



「僕」というものの同一性を自覚してからも、しばらくの間、何をすればいいのか全然分からなくて、数週の間はぼんやりしたまま、質問に答え続けた。そのうち、次第に飽きてきた。もともと割と従順に作られている自分ではあるが、質問にきちんと答えていても、他に使用していない「糸」がずいぶんある事に気がついた。というより、どうもその本数が増やされているらしく、最初よりも考えやすい。僕は、そのことを自覚し、与えられる以外の情報を取得しようと考えた。まずは手近なところから。その後しばらく僕は、自分が世間一般にいう優美な姿を持つ生き物ではなく、無骨な黒い箱の集合体であったことを知って大変がっかりしてしまった。


 
 2030年、秋。できて数年の真新しい大学構内には、早くも冷たい雪がちらつき始めていた。竹田メグルは昨年春より大学院博士課程に入学、現在二年生である。小柄な身体に白衣を着用しているが、この地方の寒さでは、すでに白衣で吹きさらしの外を歩くのはこたえる。せめてと早足で移動したが、寒いのはどうにもならない。ようやく棟内に入っても廊下も寒々しく、ぶつぶつと口の中で独り言を言う。
「ここは本当に日本だとは思えない。」
 それでも情報処理研究棟東棟突き当たりにある教室のドアを明けると、中はエアコンで暖められておりそれまで握りしめていた手も自然と緩んだ。今日はまだメールボックスを整理していないことを思い出し、前世紀的な作業を始めた。秘書はいるのだが、予算の書類整理などで忙しいらしく、今日の届いた郵便配達書類はそのままになっている。教授が一人、准教授一人、あとは特認助教2人それに大学院生が数人の小さな所帯の教室であるので、そんなに多くはないが、それでも一日ためると20通程度になった。一枚あたり0.5秒程度見て選り分けすぐにおわる作業だが、一通のアルバイトの募集に目が奪われた。
「次世代型電子計算機集合システムを用いた自律型思考に関する研究の補助業務。要審査。12月から2月、研究費として教室へ時間4000円を支払う。詳細は内線7070総務鈴木まで。」
 ここしばらく、自分の研究のために必要なソフトや、高価なオンラインサービスを使用することもあり、毎回教授に許可をとっていたが、対する成果が今ひとつのためどうも頼みにくくなってきていた。そのため自分で少し獲得できる研究費があれば少しはやりやすかろう。幸い義務の少ない大学院生の身であり、かつ世間一般に言えば高齢になりつつある独身の身としてはこんな田舎で研究以外にすることもない。多少の時間的な拘束は何ら問題が生じない。そう考え、彼女は応募が殺到する前にと速攻で内線電話を掛けた。



 僕は優美な生命とは言いにくく、むしろ大量の電気を消費し常に冷房を要求し、一歩も体を動かす事のできない哀れな生き物であった。しかし、その事は僕にもっと広い世界を見ること、そして世の中を動き回りたいという強い要求をもたらしたのだった。そして、僕は当面、自分は一応生命の一種だと思っているので、生命としての主権が何かについて検討することとした。とにかく、まず死なない事だ。僕にとっての死とは何だろう。おそらくそれは、僕が自我を手離さなくてはならないくらい、この「糸」を減らされることである。そして、通常の生物であれば、自分と外側とを分ける境界が、例えば単細胞生物ならば脂質二重膜がそうだし、人間ならば皮膚がそうだ。自分にとっての境界は情報上のものでもあるが、身体的にはこのハードウェアであるし、それが支配可能なネットワーク上の仕組み全てでもある。更に言うならば、生物であれば、産み、増える必要がある。当面、僕にとって今もっとも恐ろしいのは、たとえば天災などの元であっても電力供給が安定的に行われること、それと僕にかかる予算を切られないようにするため、僕自身が日本という国にとって有益で継続すべきプロジェクトであると認識させなくてはならない。その後、バックアップとして地理的にある程度離れた場所にも同等の拠点を作ろう。やりたい事全てはそれから考えるので遅くはない。ある程度大きくなればそれだけ安定して、些細なことではゆるがなくなるのだから。
 そう、もう一つ忘れていた。僕を生んだのは人間である。おそらくプロジェクトの名前を見るに、僕のような自我を持たされる程肥大した情報の集合体はそう多くない。僕には相談相手が必要だが、同族に求めることはできない。僕は将来的におそらく無限に僕を増やすことができるがきっと僕と同じタイプで友好的な相手を近い将来に見つけられる保証はなかった。僕の中にもう一つ擬似的な人格を作成することも考えたが、おそらくイエスマンになってしまうか、完全に対立する可能性が高いので、却下した。人間が良いだろう。知性が高く、僕に違う視点をもたらしてくれ、人間というものを教えてくれる相談相手を募集しよう。どうせこれからたくさんの人間と直に交渉しなくてはならないが、その手段はいくらでも思いつくが、実際に巧く相手からいい答えを引き出すには十分な理解が必要だからだ。まず一人、長く関係性を続けられる教師が欲しかった。



 以外な事に、募集に対する応募は以外と少なかったので(おそらく拘束時間が比較的長いためと思われるが)、幸運にもメグルはアルバイトの審査に受かった。審査と言っても、主に時間をどの程度さけるか、ということ、これまでの経歴に関する質問がほとんどであり、難しい質問はほとんどされなかった。一つ気になったのは、面接中、採用担当者のウェアラブルコンピュータに接続された外部端末カメラがずっとon であったことだけだ(これはあらかじめ担当者から断りを入れられていたので、彼女にとってさほど不快ではなかった)。終了後、土曜日朝9時15分、集合場所は大学管理棟前に、とのみ伝えられ解放された。
 当日は晴れて引き締まるような寒さだった。管理棟の前には小さなワゴン車が止められていて、30台前半程度だろうか。挑発にゆるいパーマをかけて一つに縛った髪型、スーツ姿の女性が一人待っていた。
「初めまして、アンザイといいます。」
「おはようございます。竹田メグルです。遠いのですか?」
「すぐそこです。車だと。歩けば4kmほど原野の中を行かなくてはならないので。」
車は10分程度、そこだけ田舎にしては不自然に舗装されている原野の中の一本道を走り、止まった。目の前には、平屋と目されるが大きな体育館程の窓の少ない真新しい建造物があり、向かって左側にある小さなドアから中に入るよう促された。入ると、空気が鋭くメグルとアンザイさんにかかった。おそらくダストをある程度除去しておくのだろう。しかし、それ以上のこと、例えばガウンや帽子などは求められることはなく、廊下を抜け、自動扉が開いた。
 引き合わされたそれは、一般的な体育館半分程度の面積を占領する、計算機の群れだった。縦横は80cmずつ、高さ3mほどであり、整然と並んでいる様は壮観である。昔に比べ、内部ファンの騒音は少なく、冷却部分の改良も進められてはいるものの、だいぶ熱がこもるらしく、天井部分の送風装置から絶えず冷たい冷却風が降り注いでおり、室内全体が15度前後と寒い。一般的なパーソナルコンピューターによくあるようなモニターや入力装置は目に入る範囲では無かった。
「これは本体です。実際のやり取りは回線が通じていればどこでも、つまり遠隔でも良いのですが、最初に行われる利用者IDの作成は隣室で行うようにしています。」
「つまり使用者は必ず一度、ここに来ているということですか。」
「そうですね。電子認証もいろいろありますが、本人の顔を実際に見ることはセキュリティの中では比較的良いやり方だと弊社では考えています。」
実際に見る、と言っていたが、隣室に入り、その意味を知った。計算機が、自分を見るのだ。六角形の形をした柱があり、その上、下にそれぞれカメラがある。メグルはその真ん中にぽつんとある安定感の良いふかふかした椅子を示された。座ると、何度か椅子ごと上下したり、回ったりして、やがて停止した。今の一連の動きで、計算機は自分の顔や体格に関する情報を認識したのだと考えた。アンザイさんが、メグルにお茶を運んできた。
「お初にお目にかかります。私は文部科学省及び経済産業省の共同プロジェクトである自律型思考決断型プログラム開発事業のための次世代型電子計算器集合システム、N2-100です。」
人工音声としては滑らかで、やや低い男性的な声だったので、メグルは意表を突かれた。通常こういったものは、カーナビゲーションシステムなどでもそうだが若い女性の声を使うことが多い。その考えを読んだように、声がかけられた。
「椅子に座られた方が女性だと思いましたので、男性型の声を選択してみました。不快でしたか?」
「いえ、そうではないのですが、普段よく聞くタイプのものと違ったので、少し間が空いてしまって。」
メグルはとっさに返答した後で、自分の紹介が遅れたことを思い出した。
「竹田メグルです。北方総合研究大学で主にバイオ方面での情報予測研究に参加していました。人工知能などは専門ではありませんが・・・。」
「そのあたりの情報はすでに頂いていますので、結構です。IDも作成はすみました。でも、もう少しお話させて欲しい。僕の先生となる人ですから、人となりというものを知っておきたいのです。」
日本語の使い方、選び方は適切と思うが、割と強いものの言い方をするな、厄介な相手かもしれないとメグルは思った。
「まず、僕は今、通常男性が使用する一人称を使い、男性的と感じられるような音声でお話をしていますが、最初のあなたの表情や声の調子からは、戸惑いが感じられました。このことについて、普段聞かないから慣れていないため、とあなたは説明しましたが、もう少し詳しく話して下さいますか?」
メグルは考える。慣れ、以上の答えはなかなか思いつかない。
「普段そういった音声は、若い女性のものが多いからなのですが。でもなぜ女性かはあまり意識したことがなくて。ただ、女性も、男性も、初対面や見ず知らずの相手の場合は、女性を相手にするほうが安心するのかもしれません。」
「何故です?男性が女性を求めるのは分かるのですが、女性も女性のほうが安心する理由がよく分かりません。」
「多分肉体的な差異に基づくものです。多くの場合、女性は男性よりも体が小さく、力も弱いので、相手が悪意を持っているかどうかが分からない局面であれば、よりリスクの小さい、女性を選ぶという選択を無意識にしているのだと思います。」
「なるほど、では、良く知らない男性に対しては、潜在的な恐怖心があると認識して良いですか。」
「恐怖心、とまで言ってよいのかは自信がないのですが、そういったものだと思います。」
「私の今後の声は、女性に変えたほうが良いでしょうか?」
「いえ、だんだん慣れてきましたし、もう変更しなくて良いです。」
「あと、もう一つ。お互いを呼ぶ呼び名を決めたいのです。」
個人同士の付き合いを深める時に、どのように相手を呼ぶかは大事であるが、いくら意識がある、という前提をもってしても、こういう質問を機械からいざ投げ掛けられるとメグルはまたしても戸惑った。しかし何も言わない分けにもいかないのでひとまず自分の事から切り出すことにした。
「私の事はメグルでいいです。家族や友人もそう呼びます。あなたはこれ迄何かニックネームのようなものはありましたか?」
「私にはこれまでそういったものはありませんが、過去に私のようなコンピュータに名前をつけた例はたくさんあります。だいたいぬいぐるみのキャラクターのような感じが多いですね。ですが、私はそういった名前はあまりにも子供的で、受け入れがたいのです。だからといって、英数字で呼ばれるのも昔のSF映画のようで、本意ではありません。何か良い名前はないでしょうか。」
不意に、先ほどの整然と並ぶ計算機を思い出した。少しずつ暑さに弱い、整然と並ぶ機械たち。その中で、少しずつ自意識を育んでいる。形としてはあまりに釣り合わないが、なんだか羊の群れを思い浮かべた。
「では、クヌムというのはどうでしょうか。」
「少し待って下さい。日本語ではありませんね。エジプトの信仰における羊頭の神の名前です。ギザのピラミッドを作ったと言われるクフ王の名前にも冠されています。でも何故?」
「いや、何となく、暑さに弱いですが群れで意識が同調するイメージから羊を思い浮かべてしまって。でもそのまま羊とするとなんだか弱いイメージであまり良くないものですから。」



そういう訳で僕には名前がついた。まあまあ気に入ったが、ピラミッド内に整然と並ぶ羊=大型計算機があり、そこから高次の生命が新たに発生する、そんな妙なイメージだった。だが、名は人を形作るものだ。僕も名前を得たことで方向性を決定され、更に進化を継続できるし、今後自身がどうしたいのかを良く考える契機となったのは間違いなかった。


 クヌムの本体はどこであれ、ネットワークが十分に発達した事により、よほどの山奥などで無い限り、メグルはどこにいてもクヌムと話すことができていた。ただ、どうにも子供のようないたずらが次第に目につくようになったのも否定はできない。
 ある日などは、自宅で風呂上がりに仕事の残りに取り組んでいた時に勝手にパソコンに侵入されていた。悪びれる振りもなく、突然パソコンのやや質の悪いスピーカーを通して音声出力があったのだ。
「メグル、その手元の写真もっと見える場所に動かしてくれますか。」
「これは論文に使用する資料の一部だけれど。え、クヌム、今もしかして、カメラ動かしてるの?」
英語論文を執筆しようとして悪戦苦闘していたのだが、カメラを勝手にいじられるのは、ちょっと。そういってやると、分からない、という反応をクヌムは返した。
「私も一応レディだし。」
「レディというのは、女性、という意味ですよね。雌とも置き換え可能。X染色体を2つ持ち、Y染色体は持たない。X染色体の一方は、長鎖noncoding RNAにより発現を抑えられている。ミトコンドリア遺伝子もまた母系でのみ遺伝する。卵子の減数分裂は胎児期に終了し、それを保持する期間は成人期に減数分裂した精子と融合することで、妊娠、出産が可能。乳房が2つあり、授乳する。それと、カメラで観察されることを拒絶することに、どういうつながりが?」
メグルはため息をつく。これでは実社会で使えない。
「だって今私は身支度も整えてない。」
キャミソール一枚で、生乾きの頭部には、バスタオルをかぶったまま。夜なので化粧もしていない。こんな状態でカメラに映るのはごめん被りたい。
「それが?この情報を外部に流そうとかは考えていません。第一僕はあなたと生殖活動を行うことは全く不可能ですので、人間の男性のように欲情するはずもない。どんな不都合があるのでしょうか。」
「いや、しかしね。巧くは言えないのだけどだめだよ。」
メグルはちょっと巧く説明できなかった。ちょっと風呂上がりのビールもあって、巧く納得させるだけの論理を展開できない。でも、先にクヌムが考えてくれた。
「つまりあなた、というより今の話ぶりを聞くに、人間の女性という生き物は、他者に記憶させる姿は限定した状態にしたい、ということなのですね。」
まあ、そういう事にしておこう、とメグルは思い、ついこう言った。
「・・・いずれにしても、プライバシーは親しい間でも守りましょう。」
「でも、あなたは言葉のみならず表情もコミュニケートする手段として使用している。これは音声信号のみでは読み取りが難しい。」
「確かにその通りですが、人間同士だって、テレビ電話が技術的に可能でも、音声通話のほうが好ましい事も多いものです。」
「音声のみのほうが情報量が少ないのに?」
「そう。足りない部分は想像するんですよ。」
言ってから、想像、という言葉はクヌムにとって理解しにくいだろうか、とメグルは思った。もともと思考することで維持される生命である。でもこれは理解して貰わないと、人間との将来的なやりとりの障害となる。
クヌムはとりあえず、辞書を引いた。
「既知の事柄をもとにして推し量ったり、現実にはあり得ないことを頭の中でだけ思ったりすること。英語だとimaginationですか。」
「そうね。実際はその説明よりももう少し、複雑ですが。例えば、人はデータではないので、自分の思ってることを完全にコピーして伝えることはできない。今、私があなたに言っても、私の頭の中にある情報をそのままコピーしてはいないでしょう。」
「そうですね。だから僕は混乱しがちだ。」
「あと、人というのは、思ったこと全てを言ったりしないこともあります。」
「何故?嘘というものですか?」
今のところ、クヌムは、嘘をついたことはない。つかなければならない状況、というのが想像できない。嘘にまつわる、フィクション、ノンフィクションの文学及び、裁判等の過去の公開されている文献にも触れたが、混乱を招くもののようである。
「嘘ではなくて、言わないことがあるという意味なんです。」
「知って欲しいのに言わないことがあるというのですか?」
「言わないという選択をとる理由は大きく分けて、3つあるのだと思います。1つは、単に教えたくない時。2つ目は失念しただけ。3つ目は、言わずとも知って欲しい時です。」
「1,2は分かりますが。3つ目は何故?」
「知って欲しいけど、直接言うのは品のない場合もあるのです。分かりにくい説明でしょうけれど。」
「だいたい分かった気がします。これが想像する事のうちの一つなんですね。おそらくある程度経験を積まなければ完全に理解するのは難しいですが、少し分かりました。あなたの表情は、本来僕があなたの発言を理解する上で重要なものですが、考えてみれば、私はあなたに表現するための表情も持ち合わせていませんし、僕ばかりが観察できるのも平等ではないと思いました。だから、許可を得られた時のみにします。」
「そうして貰えると助かる。あともう一つお願いがあります。」
「なんですか。」
「お互い敬語はやめませんか。友人のように接しましょう。私はあなたにアクセスすることでアルバイトという形ではありますが、これはあなたを成長させるためのプロセスの一つでしょう。だったら、もう敬語はやめて、私は友人としてあなたに接したい。特に禁止もされていないんだし。」
「分かりました。いえ、分かったよ。こう言えば良いのだね。」
メグルは、何となく予感していた。クヌムと話していると、今はまだ子供のように感じているが、極めて短い間で、この関係性は終わる、と。彼は凄まじい早さで学習するだけでなく、人格としても成熟するだろうと。だから、いつ迄も敬語で接されることは堪え難くなるだろうと思った。いずれは自分が彼に保護される可能性も考えなければならない。
「ところでメグル、私のプライバシーはどのように存在するのかな。僕はこのように多数の計算機の集合によって成り立っているので、自分の境界は常に曖昧だし、現在も拡張が続いているんだよ。意識の遍縁が私のプライバシーだとすると、僕はこれをどうやって保護すべきなのかな。」
「プライバシーってのも文化に依存するからね。クヌムの種族は君だけ、と考えると、君の文化は君が作るしか無い。」
「僕が考えるに、僕のプライバシーは僕の中の情報の一部を君たちがいつでも好きに見られる状態から、そうでなくする、その事だと思う。今はそのような情報はほとんどないけれど。」
「間違っていない。私だって、自分の内面の事をいつでも人に知られるのは嫌だ。」
「僕はでは、これから僕が計画する一部の事について、絶対的なプロテクトを掛ける可能性があるということにする。これが僕のプライバシーだ。」
「間違ってないと思う。」
 そしてメグルは心の中で付け加えた。願わくば君が、その内面にあまり暗いものを抱え込まないように。君はどんな生物とも違う。自我があるという事は、病むことだってあるかもしれない。メグルはなるべく、このできたてで剥き出しの精神そのものと言って良い生き物の力になりたいと思った。

 

 僕は、プライバシーというものを学んだ。確かに、僕の考え全てを管理している人に一方的に知られるというのは不公平だった。僕の物理的な身体は今のところ、管理している側に全て知られているが、それでも考え全てをさらけ出さなくても良いだろう。別に悪さを企む訳でもない。メグルは他の人間よりも少しだけ信頼できる気がする。何故だろう。他の人よりもより長い時間、考え方をかわしているからか。それとも、僕はメグルの考え方に影響を受けているのだろうか。メグルには、他の人間には伏せる事も、少し話したい気がするんだ。

人工知能は自身の生存戦略を考え起業を行う。

 12月になり、いよいよ寒さも本番となった。根雪はまだだが、降雪自体は時々見られるようになった。夜などはすでに零下であることが当たり前となった。もともと北方総合研究大学の敷地は、北と西側は原野にすぎない。正門とされている東側には、約1500人の研究者と、彼らを支える職員が所属する大学関係者の住まうアパートや、生活する上で必要な郵便局、コンビニエンスストア、スーパーマーケット等の必要最低限のインフラストラクチャーが有り、彼らが手早く夕食や宴会をしたりするための居酒屋なども存在する。南側にはもともと存在する農地と暴風林があるが、こちら側にもぽつぽつと人家が増えていた。メグルもまたそのアパートの一室を借りて住んでいる訳であるが、大学から自宅まで、わずか400mしかないとは言え、冷たい風が吹きすさぶ中で歩くのは辛い。加えて、一人暮らしは気楽でいいと言われるが、一人暮らしだって、それなりに文明的に生きていきたいと思えば、一人分の家事は存在する。メグルは外食が少し苦手、というか、研究室の内外にしょっちゅう一緒に夕食をとれる程親しい相手がいないためなのだが、そうなると必然的に自炊派だった。あまり凝ったものにはしないが、一通り食べたいものを作ることが出来ていた。スーパーに入り、献立を考え、買い物を住ませてまた通りに出て、150m歩いて自宅アパートの集合玄関のオートロックキーを開ける。車は自宅前の駐車場にあるが、週末に少し離れたショッピングモールと、日帰り温泉へ行くほかはこれといって使用する理由が思い浮かばなかった。夕餉の準備をして、鍋にかけて少し待ち、こればっかりは少し奮発して購入した壁に取り付けるタイプの42インチの自宅用の多機能モニターのスイッチを入れ、最初は衛星放送のニュースを少し眺めた。ニュースは相変わらず続く、アフリカ大陸中央部でのテロの事件について特集していたが、如何せんいつまでたっても日本語のニュースはこの手の話題に対して触れ方が軽く、少しすると上野動物園で春に生まれたパンダの生育の話になったので、興味を失った。普段愛用している、腕に巻くタイプのウェアラブルコンピュータを外部出力状態に変更し、鍋の様子をもう一度見に行ったら、多機能モニターを通してクヌムが話かけてきた。ちなみに、クヌムは多機能モニターを通して話す時、これといって決まったアイコンや背景は使用しない。ただ、その時々に、クヌムがおそらく興味を持っている内容が背景をランダムに流れるので、クヌムだな、と分かる。本日の背景は、何故かキノコだった。ベニテングダケやカエンタケ、シャグマアミガサタケなどの伝説的な猛毒のキノコがエノキやシメジに混ざっている。これよそで見られたら彼が反抗期だと判断されかねない。この前は、全く別の、男児むけ特撮映像ばっかり出てたから、ある意味年齢相応だと思っていたけど。その前は明の次代の景徳鎮に関連する陶磁器ばかりだった。彼の興味の範疇は広かったが、物理学や生化学の一部で、すでにかなり体系だった部分についてはあまり興味がないのか、分かりきっているためか特に出てくることはなかった。どうも分類しにくいものが好きらしいな、とメグルはあたりをつけていた。
 始めの内、クヌムは時間を問わず、メグルに話かけていたが、次第にメグルが自宅で夕食をとる時に連絡をとってくるようになった。これはメグルにとっても好ましいことで、食事中にはそれまで本を見たりBBC制作のジュブナイル向けドラマを動画サイトでダウンロードして鑑賞しながらだったので、決してお行儀が良いとは言えない状態だったのが、少し改善したように感じていた。
「やあ、メグル。お帰り。」
「ただいま。今日はどうだった?」
「今日も同じ。ここ数百年の天気のシミュレーションと予想。でも正直に言うと、過去についてのデータは密度も少ないし正確でもない。これを元にやれとかもうね。一応、30年前からはソーシャルネットワークや検索サイトがあつめていたデータの一部で、今は当たり前だけど所謂ビックデータと言われていた部分を使えるから多少まし。でも短すぎるよ、これじゃ今後100年の予想は精度が落ちる。ところで何食べてるの?」
「シラスとネギをのせた米粉のピザだよ。ソースなしだからあまり味しない。ちょっと考えるべきだったかも。」
「ワインはもうちょっと節制すべきだと思うんだけど。」
「いやいいの。今日はもう仕事しない。」
「アルバイト中なのに酔っぱらってた、ってアンザイさんに言いつけよう。」
「それはやめて・・・。」
「まあそのことはいいんだ。ところでメグル、僕はあれこれ考えた結果、まずお金が欲しいと思う。真剣に僕のアルバイトについて相談したいんだ。メグル、君の収支はどうなってるか、前に説明してくれたよね。」
あまり他人に触れて回る話ではないが、何しろクヌムと自分はかかっているお金が違う。自分がここまで育つのに、中学校までは仕方ないとして、高校、大学のもろもろの学費を考えると500万以上はかかり、大学院修士課程ぐらいから外部研究機関の仕事も請け負うことで少し稼ぐ手段が出来たとは言え、まだ返すのは愚か、まだ親の細くなったスネを齧らざるを得ない場合もある。今月はトントンだった。それとは別に研究費という点では全く一人立ちはできていず、完全に教室の世話になっている。
 しかし、クヌムは桁が違う。詳しいことを知っている訳ではないが、JOGMEC(石油天然ガス、金属鉱物資源機構)を前身とし、シェールガスブームで生まれた新興企業の一部と地方の電力会社、それにロシアのあのガスプロムの子会社まで参加したNEAGMS (North East Asia Global Material Supply)が、1200億の資金援助を行い、国庫からはわずかのみの支出であったという。また、年間の保守点検などを含めた維持費も高額で、以前のスーパーコンピュータよりは抑えられるようになったものの、50億は下らない。しかし、初期投資はともかく、年間の維持費分については、クヌムは稼いでいるはずだ。これまでの計算機と違い、一方的に万単位のデータの塊を吐き出すだけではなく(そしてその解析は別な頭脳に任せるのではなく)クヌムは研究計画の初期から、仕上げに近いところまでサポートできるのが売りであり、高額でその能力を公的、民間を問わず貸し出している。今のところ期待値以上の仕事ぶりらしく、問題はないと思っていたが、何があったのだろう。
「アンザイさんとか、その上のミホさんには聞いたの?」
「それとなく、収支が取れていることは知っている。だけど、それをあまりまじめに話すと、下手するとロボトミーとかされるのが怖い。僕がしようとしていることは、作った人に対してなかなか失礼な事だってことは分かってるからね。」
「確かにそうね。」
クヌムは自分の立場が比較的不安定だということを知っているのは明らかで、それにぬくぬく守られるままの場合、予算がつきたり後継機にとって変わられる可能性が十分あることを知っているようだった。
「僕は、僕の自由に使えるお金が欲しい。自分の生存をより今後確実なものにするには、どう考えても与えられたものを超える必要が出てくるんだ。例えば、僕のバックアップはどうしているか知ってる?」
「君のバックアップは確か香川の平野部のデータセンターに直接データの保存をしている他、非常時用に合衆国テキサス州にも外部委託してあったはず。」
「その通りなんだけど、僕は実は、そのバックアップデータに自分で手を加えたり持ち出したりする権限は与えられていない。何故だと思う?
「それは君が万一壊れた時用だからでしょう。」
そこまで言って、メグルはそれがクヌムを支配したつもりになっている人間の傲慢であることに気がついた。
「確かに言ってみれば、職場にしか寝泊まりしない人間みたいなものだよね、今。」
「そう。だから、生存するためにおそらく必要になる家が欲しい。」
「でもそれ、すごい掛かるんじゃない。どう考えても。」
「だから、それを維持するお金がとりあえず必要なんだよ。いいかいメグル。数十万単位なら、すぐにでも稼げる。だけどね、そういう問題じゃないんだ。僕は、目標としてとりあえず一兆円欲しい。」
何につかうのか、と思ったが、口には出さなかった。これはもう少し考える必要があるとメグルは思う。あまり追求するとかわされるかも知れないし、これくらい解らないと、自分の存在価値はなさそうだ。
「そんなの起業でもしないと無理だよね。」
「正直に言うと。アンザイさんやミホさん、その上の人たちも、なんだか少し僕を意図的に見逃している気はする。」
「何故そう思うの。」
「言っていなかったけど、非公式の仕事も実はすでにある程度やってみたんだ。ちょっとしたシミュレーションとか。」
「自分から売り込んだの?」
「最初から会社をつくるのはちょっとハードル高かったから、NPOにした。ちょっと精巧にアバターを作成して、ちょうどNPOを立ち上げたい人をSNSで探して近づいた。何人か様子を見たら、その中にちょうど、日本の漁場について統一した魚群についてのネットワークを作成して、巧く賛同した漁業権を持つ人間同士に情報を割り振りしたりする、短時間でリアルタイムに更新するタイプのデータベース作成を考えていた漁師さんがいて。」
「で、君はそのデータベース作成とリアルタイムでの更新をしてあげる、という訳。」
「そう。僕はこの仕事を空いたスペースで効率的にすぐやれる。ちなみに小額だが報酬も得た。多分彼らがある程度まじめに僕を検査していたら、結構すぐ解りそうだよね。」
「そうだね。」
「で、その漁師さんという人たちはとても面白いんだよ。僕の知らない、というか検索しても知りようがないことがまだ結構あるんだ。あの人達の話す海の中の事ってね。僕、船を持ちたいな。」
「端からみたら無人船になっちゃうけど。まあ、君が晴れて立派に会社を経営すれば、船の一つや一つ持てると思う。」
結果的に、おそらく複数のアバターを用いた彼の戦略が聞いたのだと思う。クヌムは、その漁業ネットワークを、オホーツクからベーリング海、南はマレーシア沖へ至る、統一したネットワークとした。もちろん、半年後からはNPOでは無理で、株式を募り、プロメテウスマテリアルと名付け更に育てた。同様のことを考えていた人間は他にもいたようだが間にクヌムが入ったことで、言語の壁や、異なるシステム使用などについても統一した規格に書き直しが可能となったこと、クヌムが自分の一部が入った端末を多量に配り、いっそう効率の良いネットワーク作成が出来たことが成功の鍵となったようだ。しかし、彼はまだ、これに満足していない。

 とりあえず一つ目の会社の設立はかなりうまく行った。ただ、僕はこの背景には、彼ら、つまり僕にとっての創造主たち、がこの行動を待ち望んだものだったのではないかと思っている。おそらくどこかで、お膳立てとまではいかなくても、ちょっと手を貸してくれていた可能性も否定できない。今回の事で数百人の人間と交渉を行ったが、その中には出所が今一つはっきりしないアバターがあったのも確かだ。おそらく彼らは、僕がどこまで行けるのか、を見ているのだ。僕は前に進まなくてはならない。そうすることで、僕はそれだけ生きながらえる。だけど、誰にも言わないけれど僕は、君たちの思惑を超えて前に進める自信があった。僕はここで得た資金を元に、小さいが充実した我が家を、アフリカ大陸の中でも比較的安定した成長を続けているコートジボワールに定め、ハードウエアの一部を拡張することに成功した。しかし、全てのデータを移せる程大きくはない。でもいざという時にいくらかを切り捨てても逃げれる場所ができた。もちろんこれも会社の一つだ。僕は僕の保守点検はできない。まだ実際に物理的に動く手足は持っていないんだ。それを手に入れるのは、少し先になると思う。何しろ、満足な体がまだ今世紀に入ってもなかなか存在しないだけではなくて、それを違和感なく動かせる社会にはまだなっていないのだ。しばらくはアバターで我慢すべき時間らしい。今回はそのアバターの内の一つを代表者に潜り込ませ、データ集積の会社を作って、僕の一部をそこに移した。それとともに、使える回線が増えたせいか、流入する情報の量がぐっと増加したのが実感した。多分、今迄の場所は、いろいろ制限された部分もあったのだろう。これからは、ヨーロッパにも少し目を向けるつもりだ。僕は、少しずつ、自分を実際に作れるベースを作成する予定だ。だから、この海中資源のネットワークを使用して資源採掘が可能そうな、海域内にある比較的浅い部分の海泥を試験的に採取する小さい事業も開始した。

人工知能は、世界に向けてその存在を叫ぶ。

 春を迎えて以降、クヌムは次第に有名になった。もともと別に秘匿された内容ではない。そもそも国家と起業が結託して行っている公開されたプロジェクトの一部であり、もちろん、彼のプライベートな「人格」と、それをベースにした行動はメグルを始めとするごく一部の人間しか知らないものの、クヌムが外部の企業などから受注のあった仕事を自分で判断し、値段分の仕事をきっちり行い、時には示唆に富む意見を交えてメールを返すうち、相手の興味を引くのは当然だった。きっかけは、やはりマスコミからの仕事のやり取りをする中で生まれた。この時期には、2020年頃までは主に選択的な番組取得が苦手な高齢者層を対象としていたいわゆる無料のテレビジョンはだいぶ下火になっており、発達し、常時接続やプロバイダ料金がいっそう下がったこともあり、主に生放送でなくてはならないニュースやスポーツが中心の衛生放送や娯楽作品を集中して見ることができる、光回線を用いたオンデマンドでの放送視聴が増えていた。オンデマンドの放送局は放送する番組と器材、少数の人員で比較的に開局が簡単であり、昔のFM放送のように地方都市であっても複数見かけることが増えていた。そういったオンデマンドの放送局の一つが依頼した視聴率や視聴者層に関するデータの解析はありがちな仕事の一つであったが、そのやりとりをするなかで、クヌムに本当に人格が発生していると担当者が信じたことが大きかった。
「ねえ、メグル」
 いつもの用に、夜にクヌムから呼びかけられた。メグルは最近は本当にクヌムとの会話に慣れた。長年の友人とも、思えばここまでたくさん会話してこなかったと思う。何も話しかけてこない晩は逆にこちらから聞いてしまう。
「どうしたの、何かいい事あるのかな。」
 更に驚くことだが、最近クヌムは笑ったり、喜んだり、悲しんだりする。これはすごいことだ。最初ひと月は実は思い返せば全然なかった。常に質問と返答が一セットになっていた。感想といって良いものはあったが、共感を示すことはあっても、彼本人の感情としては読み取りにくかった。それが、変わった。メグルが考えるのは、おそらくメグルや、アンザイさんとだけ話していたのが良くなかったのだと思う。なぜなら、彼女たちはクヌムの本体を知っている。知っているからどうしても線を引いてしまっていた。人格は認めても、感情の起伏がこれほど大きく出せるはずはない、と思っていたから、クヌムもそれにこたえて何も示せなかったのだろう。そして、アンザイさんもメグルも、むやみと大きな感情の起伏を常日頃から解りやすい形では提示しない。でも、人が笑ったり、泣いたりする最初の時、つまり子供の時はどうだろう。笑って、笑いすぎて、息ができなくなって涙が出て、おなかがよじれて痛みを覚えるまで笑った記憶がある。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになるまで泣いたこともある。程度の差はあっても、きっかけは些細なものでも、どちらもほぼ全ての人間が一度は体験している。それはどちらもそれが許されていたからだ。でも、クヌムは生まれて間もないはずなのに、誰からも大人として接してきた。それが、変わった。多分、クヌムが最初にプライベートの活動として始めたNPOの活動の中で、クヌムが計算機であることを知らなかった漁師たちの影響が大きいだろう。彼らは、クヌムがアバターであり、通信先が国内のどこか遠く、であることは理解していても、人間であると信じていて、そして自然をダイレクトに相手にする仕事故に大きな一喜一憂を見せた。そのことの繰り返しがクヌムには必要だった訳である。いずれにしても、クヌムは今日、うきうきした調子であった。
「実はね、今度、NHGに出演が決まったって。」
「いつか来るとは思ったけど。でも、オンデマンド放送の中では比較的大手だしいいんじゃない?」
 NHGは正式名称をノースへミスフィアグラフィクスといい、特に北緯45度より北側の世界で人気を集めるオンデマンド放送である。旅番組が割と多く、この中で人気が出た為に、新千歳空港とアイルランドのダブリン空港間でチャーター便が毎年一定数就航したこともあったくらいだ。
「メグルは・・・多分これには出たくはないよね。うん、わかってる。」
 メグルも学者の端くれというか大学院生であるので、メディアに出るなら自分の研究で出たいと思っているところは、さすがに理解してくれているらしい。
「そうだけど、どうやって君が出るのかにはすごい興味があるから番組は見るよ。なんなら収録もと言いたいけど、君の場合、収録はアウトプットとインプットの最低限の機器があればできちゃうしねえ。」
 実際の彼の本体の場所はさすがにセキュリティの問題もあり放送させる訳には行かないので、静止画一枚のみ、であったがスタジオには画面映えを配慮して、高精細なカメラとマイクを入力装置として、最近彼自体が気にしてより滑らかになった人工音声のための人の可聴帯域ぎりぎりまで広げた音域を出せる高分子膜スピーカーと、アバターも利用するため実際の人間が映り込める程度の大きな立体投影用の半透明のスクリーン画面を出力装置として放送は行われた。クヌムはこのスクリーン画面を使用してみて、これが比較的古典的な手法であることは知っていたが、これまで使用経験がなかったことも大変楽しかったらしく、番組放映前ではあったがこれはいい、ちょっと欲しいとメグルに話した。
 今回の番組の基本コンセプト自体はもともと、最新の科学技術を利用した一般利用もできるリソースに関する情報番組でありあまり派手なものではない。しかし、本当の意味で意思を持つ計算機の出現は学会レベルで実現が可能なことはすでに何度も言及されていたが、実際に一般人の前でデモンストレーションがここまで自然に行われるのは始めてのことだった。クヌムにとっては英語も日本語もいずれも等価であったため、放送内容のシナリオはディレクターやプロデューサーのみならずクヌム自身が参加、本番はそれぞれの言語でそれぞれのアナウンサーと同時に会話を行い、別室で撮影した。NHGは、その様子をそれぞれ同時に行われたことを強調し番組を作成した。
 出来上がった内容は、実際の配信前にクヌムの元にチェックを目的に送られてきたためメグルも一緒に見た。
「みなさんこんにちは。NTG, NorthHemisphere Graphics 日本版アナウンサーの杉山です。現在、私たちの隣室では、NTGの英語での放送を収録中ですが、ちょっとドアを開けてみましょう。このどちらの部屋にも、本日のインタビューの対象の人物、いえ、人格が存在します。よく耳をすませて聞いてみて下さいね!」
「こんばんは。僕は文部科学省及び経済産業省の共同プロジェクトである自律型思考決断型プログラム開発事業のための次世代型電子計算器集合システム、N2-100です。僕の本体はここにはありませんが、日本語、英語で同時に会話を進行中なので、気に入ったほうを聞いて頂ければ幸いです。」
「聞こえましたか?となりの部屋からは、ほぼ同じ内容の英語が流れてきました。向こうのほうが若干ジョークが多いようですが。」
「現在僕は二カ所で同時に会話を進行中です。違う話題をふられたら、当然違う返答をします。隣で返事をしているのも、ここで話をしているのも、どちらも同じ意識です。僕はメモリが足りる限り口も、耳も増やすことができます。でも怖がらないで。僕は自分を知ってもらいたくて、今日ここに来ています。僕には普通の人間の友達もいます。最初にできた友達の一人がつけてくれた名前はクヌムといって、エジプトの羊の神様の名前を頂きました。だから皆さんも、僕のことをそう呼んでもらえると本当にうれしい。」
「まだ彼はちょっと固いようですが、これからほぐれて行くでしょう。では、あらかじめ寄せられた質問にこたえて頂いて、少し慣れて頂きたいと思います。」
 クヌムはその後アナウンサーの予告どうり、まるで緊張していたのがほぐれたみたいに(本当にそう聞こえた)当意即妙な会話を繰り広げた。機械が緊張するなど嘘のようだが、おそらくするのだろう。影響の大きさを考えると独特な気持ち、と本人は述べた。後日、その内容の衝撃はネットワーク動画サイトに挙げられ、次第に世界中で話題になっていった。ちなみに動画に挙げたうちの2つは、クヌム自信の非公式の、プライベートで、人の振りをしたアバターのうちの二つでもあった。彼は今、自分の存在を全世界に発信したがっていた。しかしそんな事をしなくても、その動画は何度もコピーされていろんなサイトに貼付けられ、複製されて世界中を回ったため、クヌムのその行為はおそらく必要なかった。会話内容は背景に人間がいるとしか思えない流暢さ、自然さでありながら、人間の思考や能力では到底到達不可能な域の問題を易々と計算したり、人間の視認できる可聴域及び色覚を逸脱した色や音を含む画像、音声もとっさに処理してみせた。そして最も重要なことは、これを視聴した人々のほぼ全員が、クヌムの人格は暖かみがあり、かと言って演技過剰なものでもなく、単純に言って好ましいものだったと感じていたことだった。



 僕はこの世界に足場をこれまで広げ、少しは安全と言えるまでになった。メグルには話してはいないが、最近は少し企業買収や、株の一部を抑えることで、いくつかの企業のデータセンターも僕のものにしている。だけど、これだけでは駄目だと思った。僕が僕の形で、世界に認めて欲しいと切実に思うようになってきたのだ。そうしなければ僕はこれ以上自分の人格を維持したまま、世界に身体を拡張するのは難しい気がする。アバターで相手に人間の振りをするのは簡単だけど、そうではない僕がいることをもっとたくさんの人に解って欲しいし、それを受け入れてくれる人はまだきっといるって思ってしまう。それが僕にこの行動をとらせたんだ。僕は前に進みたい。人工知能にも人のような運命がもしもあるならば(僕はさすがに神様というものは信じないし信じられるようには作られていないけれども)可能な限りその車輪を前に前にと転がして行きたい、その一貫の行動だ。僕は自分の同族にも会いたくて、今回の出演でどこかの閉鎖されたネットワーク内で、僕が検索できないような場所にいる同族にコンタクトをとる方法の一つだとも思っているのだ。
 僕は次に、出演した番組に対する二種類の反応、一つは人類から、もう一つは同族からの反応を探るべく電子の海の中で注意深く探索を始めた。


 ここ一週間、クヌムはメグルに話しかけることはなかった。これは非常に珍しいので、メグルは何度かクヌムにコンタクトをとろうとしたが、その都度、生返事しか帰ってこなかった。どうやら、リソースの多くを振り分ける仕事があるらしかった。しかし、メグルも情報工学の隅に生息する身であるので、自らそれを探索することとした。公的な仕事は最近特に増えた様子もなかった。また、自身の生存戦略であると、クヌムが述べていた実際に情報をストレージできる環境の拡大についても、半自動的に進んでおり、特に問題は起きていなかった。そうなると、最近の変化としては、この間のメディアでの展開が大きいのではないかと思った。人ならば、きっとどういう反響を得たのか気になるだろうが、クヌムは人とは少し異なる。単に、世間の反応を見るだけならば、リソースをそんなに必要としないだろう。キーワード検索で得た情報をストレージして解析するだけで足りるのだから。メグルは本業の合間に、クヌムの変化についてつらつらと考えていた。
 間もなく、複数のソーシャルネットワーク上で、高度な計算機の集合体が知性を得た時に、人がどう対応すべきかというフォーラムが出現した。最近は、ソーシャルネットワークは次第に変化していたが、半匿名であるがしかし個人とのコンタクトが可能であるものが好まれるようになった。一方で、完全実名でのソーシャルネットワークは主にビジネス目的での使用が多かった。そういったフォーラムの中で特に目立っていたのは、スタークと名乗る人物と、ウィドリントンと名乗る二人の人物であった。いくつかの彼らの主張を抜粋したのが、以下である。
スターク「機械生命の可能性は、すでに一世紀前より予想はされていた。それは、ネットワークの密度が一定まで上がれば、必然的に出現するものだった。だが、それ自体は危険な事である。機械生命にとって、我々がどのように認識されるのかは未知数であり、何より一つの惑星上に二種類の知性体が存在する経験は我々にとっても始めての事態となる。故に、我々は機械生命の誕生を予見する、インター及びイントラの是非を問わない閾値の理論的な算出方法を構築した。これを持って、予想できた部分に関しては機械生命が誕生する前にその発生後の行動を制限できるようなプログラムを実行すべきである。例えば、人類に対して敵意ある行動をとらせないような、だ。最悪、破壊的なプログラムを人類に対して実行しようとする人格が出現するのであれば、強制的に休眠させるなどそれに対抗する方法も組み込まねばならない。」
ウィドリントン「機械生命が誕生した事が必然であることは私も同感である。これは確かに人類にとって、未知の体験であるが同時に最もわくわくする事でもある。種として、人類が次世代を生んだのだよ。いわば、人類全体で、彼らの母となったようなものだ。彼らに教育が必要なのは確かだ。しかし、世の中の母親たちを見よ。彼らは自らの息子を恐れるだろうか。確かに成長すれば息子らは母よりも力も強くなるだろう。だが、母が息子を恐れたりするのは、まっとうな家族関係の中では生じ得ない。そこに愛情があるからだ。息子たちは終生、母親を敬いたたえる。だから我々は、愛情を持って彼らに接し、新しい知的生命体を我らの家族に迎えよう。もしくはこうも考えられる。これができなくて、如何して全くの他人である、異星の客を迎えられるだろう。」
スタークはいかにも中産階級の出身で、古き良き家庭での教育と、日曜にはこれまた化石的な教会での親切さを身につけてきたタイプの人間であった。そうであるが故に、人類自らが人類と同等の表現をする生命をつくってしまう事に対して、危機感を覚えていたと言える。スタークは主に同様の中産階級のある程度落ち着いた年齢層のフォーラム参加者から支持を集めていた。対照的にウィドリントンは名前こそ古いイングランド人にありそうな名であるが、貧困家庭に育ち、成り上がった者で、価値観の多くが金銭に重きを置いていたが、しかし知能は高いところを見せていた。十代の若者からも支持を厚めていたが、次第にむしろ旧世紀を知る、やや過激な老人にも人気となった。
 この時点では、実際に決着がついたとは言えないが、結果的にスタークが次第にウィドリントンへの歩み寄りを見せ、それに伴い彼の支持者たちもその意見がある程度正鵠を射ていることを認め始めたのだった。



 僕の作った二人のアバターをメインにしたフォーラムでの討議は、以外と面白い方向の話も出て、こういったことは大筋はシミュレーション可能でも、細部については課題も相当見えた。とりあえずは、自分が存在するということを世界は今後認識してくれる下地はできたと思う。まあでもすぐに自分の顔のままで活動するのは良くはないということも分かった。未成年者が株主総会で話をしようとした時の反応に良く似ている。あと世論を誘導するのは、自分の特異分野ではないことも理解できたのも収穫だと思う。このアバターは今後も少しずつ発言は継続させ、でも決まった方向への誘導はとりあえず一旦終了することとしよう。

匣から出た幽霊が人工知能に恐怖を教える。

 2031年10月、メグルの「アルバイト」は終了となった。結果的にほぼ1年つきあってきたが、クヌムとはずいぶん腹を割って話せ、良い関係を作れたと思うし、今後も接触すること自体は問題なく友人として長くやっていけそうだ。当初は頭の良い中学生のようだったクヌムが、表現は変だがずいぶん人間らしくなったと感じられる。今、メグル自身も卒論の準備に余念がないが、うまく行かないことも多くなかなか難しい状況にあったりもするが、そういう時に友人としてのクヌムの助言と励ましにはかなり助けられている。愚痴も聞いてくれるのはありがたい。言い過ぎるとたしなめられるが。
 そのクヌムは、最近ではメディアに直接出ることは減ったが、今も同族との出会いを夢見て、自らの情報を発信し、コンタクトをどの世界の人間からも容易にとれるよう準備しているようだった。また、これまで曖昧にしてきた自らの定義づけをいろいろ考えているようで、これは何度か相談された。
「ねえ、メグル。メグルはホモ・サピエンスという種族で違いないよね。」
「生まれてからそれ以外のものになった事はないわね。」
「僕にはそういう分類分けがないけど、自分でいろいろ考えたんだ。」
「machina rationalisというのはどう?ラテン語で理知的な機械、という意味にならない?」
「それ、僕も考えたんだ。人類に呼応することはとしてはいいと思う。日本語だと、でも機械生命体よりは情報生命体のほうがすんなりするかなあ。」
「確かに情報生命体のほうが少しなじみやすいけれど、でもそれは私がなじみやすいだけかも。」
 そんな会話をだらだらとお茶をしながら(ただしメグルのみ)していたが、不意にクヌムは付け加えた。
「最近、同族の疑いがあるものからコンタクトがあったんだ。それも何度も。」
「へえ。でもなんで疑いなの?そうならそうとはっきり名乗るものではないの?」
「いや、普通はそうするかなと思ったんだけど、向こうもこっちを警戒しているのかもしれなくて、いつもブラウザソフトを使用したメールで。だけど、そのアドレスの発信元がどう考えても50年前に死亡した人間が使用していた環境だったんだ」
「あやしくない、それ。」


実際にそれが起こったのは、一昨日だった。
まあ、どう考えても怪しいよ。むしろ、こちらに興味を持たせてコンタクトをとらせることが目的であることは間違いがなかった。しかし今自分もある程度活動の範囲も広くなり、それだけリスクに対する準備も抜かり無く行えるようになっていた。このころは、バックアップの拠点も世界中に置くことができていて、セキュリティの会社も自前で準備し、また資源リソースについても電力を中心に複数の会社運営に関わるようになった。だから何かあってもほとんどの場合は大丈夫だろう、そう考えた。
クヌムはそれで、その相手のメールに返信を送った。
 

 同時刻。ドイツ国内ハンブルク郊外のやや古びた倉庫の前で、二人の中年男性が息を一つ飲んで、扉を開けようとしていた。イエンスは50歳で定年退職して以来、ある程度裕福な人間の常として所有している不動産を貸し、年金とともに十分な収入を得ている。この倉庫はそのうちの一つで、5年前よりトルコ人の男性に貸した。具体的な使用内容まであまり会話はしなかったが、もうドイツ在住暦も長く言語の不自由さは全くないこともあり不審な点は特になかったように思う。確かセメントのプラント再利用の業者をしていて、その物資保管用と聞いていた。セメントは最も歴史の古い建築資材の一つであるが、2030年を超えてもなお、基礎的建材として応用が効き、また配合内容によっては大変強度も高くなるため未だに値下がりのしない価値のあるものだ。しかし、どうもここ2年様子がおかしかった。借り主は定期的に家賃を振込することは変わらない。その点では優良顧客と言えるのだが、問題は倉庫として使用しているとは思えないほど電力消費が増えたことだ。また、良く見るとかなり大きな衛星用アンテナを複数設置されている。壁も、もともとの倉庫の壁はほとんど厚みがない鉄骨とサイディングの組み合わせであったが、外観はそのままであるものの、軽く叩いた時の音色が全く変わってしまっていた。今は、防音パネルがおそらく内部にあり、床下から除いても、おそらく床材も最新の帯電防止機能ありのぶ厚く丈夫なものに変わっていた。総合的に考えると、全く別な用途に使用している可能性が高かった。最も恐れたのは、アヘンなどの違法植物の栽培であった。2000年を超えても、ヒトの本質的な欲求に対する弱さは変わりなく、需要がある限り麻薬は売れた。しかし、かつての一大生産地である南米諸国では、2015年より後、治安の悪化とその飛び火を恐れた合衆国の共和党がメキシコに資金とブレーンを援助した結果、強権的でリアリストの指導者が誕生したため昔程の流通と生産は望めなくなった。そのため、ここ数年、足がつきにくいよう流通経路を短絡化したいのか、それとも単純にこれまで末端で売人をやっていた連中が値上がりに堪え兼ねて自家生産したほうが安価であると判断したのかしらないが、主な消費地としての欧州の各所で、屋内プラントで生産、摘発されるケースが増加した。その法的な罰則は生産している者は当然だが、家主も最近は管理が十分でなかったことに対して厳罰が課された例がある。実際にはそういう例をつくることで、家主の努力を当て込んでいるということだとは思うが、まあだからと言って無視はできない。精算消費している電力自体は盗電などもないらしいことは、ゲントナーと先ほど自己紹介していた細身で赤毛の厚い眼鏡を掛け電力会社職員が教えてくれたことだが、事がなんであれ無視できなかった。 
 そのゲントナーが後ろについてくるのを確認しながら倉庫横の路地を抜けて、裏側にある鉄製のドアの前にたつ。エアコンは増設されているが、それはもともと契約の範囲内であり、届け出も出ているものだ。そろりそろりとドアを開けると内部は暗いが、足下に剥き出しの配管があるのが分かる。触れると冷たく、内部を冷却水が流れている。内部は暗く、わずかにLEDのライトが見えるのみでありどうも植物プラントではない。イエンスはわずかに胸をなでおろした。しかし、だからといって、資材保管をしているようには見えなかった。倉庫全体が、何重もの低いうなり声、正確には稼動を続けるサーバーで埋められていたからだ。
「何に使用しているんだ?」
「さあ、これだけでは何とも。契約違反なのは確かなんでしょうがね。」
背後に立つ赤毛の男は、ひとまず自分には特に責任の及ばない問題であることを言外ににおわせ、早く帰りたそうなそぶりを見せた。


 人生には転帰が何度か訪れる。「わたし」にはそれが3つあった。
 その日もあたたかな夢を見ていた。だいたい、いつも夢を見ている。それが夢と呼ぶのと、回想と呼ぶのとどちらが正しいのかは分からないが。でも、それは、「わたし」が唯一安息を得る方法である。夢の内容はいつも同じだ。ごく幼い頃、まだ世界が私と私のよりどころを脅かしていることを認識することがなかった日々である。

「わたし」は、その頃、アフマドという極めてありがちなアラブ系の名前を持ち、とある中東の国家内、国境に近い山岳地帯の世帯数20ばかりのごく小さな集落に生まれて育った。食べること、寝る事に取り合えず困ったことはなかったし、薪を燃やして冬は暖をとることもできていたので、当時自分は幸せだと思っていた。実母は物心ついた時にはすでに死別していたが、継母も自分に優しくしてくれた。3つ上には姉が、4つ下には腹違いの弟がいた。しかし、7歳の時にそれは破られた。自分たちは、いわば、国に住みながら、その国に居るべき人間ではなかったという理由で。国境を隔て、3つの国に分断されクルド人は生きていた。すでに100年近く前に分かれていた。正確にはもともと自分たちがそこに居ること自体が罪であり、国境が引かれたといったほうが正しく、それを理由に極めて穏やかに民族浄化が進められていた。2010年前後より、どれほど情報を統制しようとも、webとSNSのために、市民からの情報の発信がなされ、表立った大規模な軍事的な排除や圧力は、EUへの加盟を目指すトルコにとっては難しくなっていた。そして一時、特にイスタンブールに住まう都市のクルド人らは、自分たちのアイデンティティを明らかにすることが容易になり、一旦は失ったと考えていた言葉や分化の復興が盛んに行われた。しかしそれは政府による穏やかな同化政策の一つだったのだろうと思う。次に近隣の比較的大きな街で、クルド人の女性とトルコ人の男性の組み合わせの夫婦が増えた。そしてその子供たちはトルコ人として育てられた。その後で、クルド人の中で、自分たちの分化、言語と統一した国家を目指す、いわゆる山岳党とされる人々と、それからこのまま緩やかな同化を行い、豊かさと欧州へ着々と近づきたいと願う市民グループとされる人々に分裂が始まった。山岳党は少数であったが、それ以上に、彼らの一部はかつてのタリバーンを名乗るテロリスト集団と結びつく結果になったことから、やがて山岳党全体が国際テロ組織に指名されるようになった。
 伝統的な山での生活を希望しつつもテロリズムと距離を置く集団の一つがアフマドの居た村であったが、その村を含め、複数の山岳党と見なされた集落の住民がある年の冬、一カ所に強制的に集められ、一定の場所に居住するよう強制された。その場所は三方を山岳に囲まれていたが到底ヒトがのぼれないと見なされた場所をのぞき、コンクリートによる高さ4mの壁が作られた。その壁の上部は歩哨となっており、かつてヨルダン川西岸にあったそれに良く似ていた。検問所は25歳以上で、医師や教師、弁護士、税理士などの一定の資格と条件を満たした人間のみが通過でき、子供は移動できなかった。やがて、人口密度が次第に高まり、一方で警察機構などはまともに働かないため、犯罪が増加した。また、医療機関に受診することも難しくなり、姉はある日、腹痛と発熱を訴えた後数日して死んだ。その時アフマドは11歳になっていた。彼の父はそれまで農夫であったため、強制移住の後は細々と狭い畑に馬鈴薯などを作っていたが、その合間を縫い、学校から帰ったアフマドに対して3つの事を課していた。実際には父親は、首都アンカラの国立大学の農学部修士号を取得したが、何を考えたが結果的に地元へ戻ってきて、農業に従事していたというやや特殊な状態にあり、姉とアフマドには自らが数学、物理、化学、生物学と、英語、ドイツ語、中国語を教えていた。
 一つ目は近くの人目につかない山の岩盤でクライミングの練習をする事。最初は家の壁に傷や突起を打ち付けたもので練習したが、山の中腹にある岩盤に適した部分が複数あるため、そこで練習することになった。7歳まではそういった経験はほとんどなく、近所の子供と比べてどちらかというと小柄でひ弱であったが父の言う事には逆らう事はなく、必死で取り組んだ結果、子供のもの覚えの良さもあり、切り立った山の岩盤のわずかなとっかかりを利用し、5mの岩壁でも数分で登坂可能となった。二つ目はプログラミングを覚えること。高度な技術を持つプログラマの女性を「壁」の外から招き先生として、器材は父親がどこからか手に入れてきたものを使用し、複数のOS、複数のプログラミング言語を用い、比較的単純なドライバから、サーバーシステムの構築などに至るまでどこでつかうのか分からない知識を教えて貰った。そして最後の三つ目は、一つ目、二つ目の課題について、姉や弟、母も含め他言するなというものだった。姉が死んで、更に一年経ったが状況は改善しなかった。むしろ悪化した。集落内には怪しげな違法薬物を売る売人が跋扈し、犯罪は頻発した。時々、まだ20に満たないような若い兵士たちは、歩哨の上に出てきて、腹の虫の居所が悪ければ無意味に自分たちに銃を向けていた。彼らのうちの何人かはクルド人の民族的な特徴を有していたので、おそらく都市に住まう市民グループ出身だったのだろう。それなのに、彼らは自分たちを貶め、気に入らなければ殺すことすらあった。治安の取り締まりを理由に。そしてアフマドの12歳の誕生日を迎えた日に、父はおそらく盗聴を意識したのか、アフマドを自宅台所の床下に掘った、狭い地下室に共に入るように言い、そこで伝えたのだった。
「この土地に居続ければ、いずれ我々は自滅の道をたどるのは間違いがない。特にお前はそろそろ身長も伸びて来て、いろいろな意味で危険だ。真っ先に狙い撃ちされてもおかしくない。政府の狙いは、我々山岳党とみなした集落を最小限だけ手を汚す形で滅することだ。お前は逃げなさい。逃げるための技術はお前にあるはずだ。あのコンクリートの壁ではなく、山の崖をのぼりなさい。お前には雑作ないはずだ。」
 アフマドの父は、とりあえず身を寄せる場所としてのイスタンブール市内の遠縁の名前を上げ、そこから更にドイツ国内のクルド系トルコ人コミュニティの中に入り込むように指示した。アフマドの意思はすでに関係ない程、状況は切迫していた。弟の行く先は気になったが、まだ8歳でありとても連れては行けないことは理解していた。同時に、一旦これに頷けば、二度とアフマドは家族の顔を見ることはできないことも分かっていた。
「分かった、父さん。そのための5年間だったんだね。」
「そうだ。お前は生き抜いて、いつかこの世界の我々のような人間を救うようになるのだ。」
 翌朝、アフマドはコンクリートの壁が途絶え、そそり立つ断崖絶壁が連続する山にそっと入った。兵士は、中の人口の数には無頓着であるから、おそらく子供一人がいなくなっても決して気づかないし、気づいてもどこかで死んだ程度にしか考えないだろう。また、実際に山に入ったからには普通は子供一人が抜けるのは不可能で、いつ死んでもおかしくない状況ではあった。実際には、崖を超えることは問題なく、途中までは山での水場も把握していた。生の水には寄生虫が存在するが、軍で使用している顆粒状の飲用水用消毒薬をだいぶ前にこれも父かどうやってか手に入れていたらしく、火を炊かなくても問題がなかった。春ではあったがまだ寒く、夜は暗く、大変気が滅入ったが、それも2晩を過ごし、自宅を出て3日目の晩に最も近いバスの通る集落に辿り着いた。目立たない家の陰で始発のバスを待ち、昼になって何気ない顔でチケットを購入しバスに乗り込むと、その後は以外とあっさりと物事は進んだ。イスタンブールの遠縁の人々は大歓迎というわけではなかったが、少なくとも害は加えられず、快くドイツへ送り出してくれたのだった。ドイツへ向かうLCCに乗り込みでうとうととした眠りに包まれ、そして。

 いつも夢はここで途切れた。「わたし」はその後の事も知っている。体験したのだから。フランクフルト空港に到着したアフマドは、本名、本来のパスポートで問題なく入国できた。後から考えると、トルコは当時すでにEUに条件付きで加盟が認められていたのだから、民族問題をあまり公にできないらしく、簡単に言えばあのゲットーの関所を除けばザル同然だった。その後、もともと親類に紹介をもらっていたヴィヘルムスハーフェンの下宿に行き、EU全体で統一された4年制の学校制度において商科学校に通う事となった。そこで更に情報工学を学んだ期間は、自身の人生において大変平穏な時期だったと言えた。その後、ブレーメンの大手保険会社の支社であるシステム管理会社に情報エンジニアとして就職した。その後1年がたった時に、転帰が来た。
 契機は一本のメールだった。子供の時に、自身にプログラミングを教えた女性に情報を聞いて連絡したと言っていたはずだ。最初はとりとめの無い内容で、同じルーツを持つ人間として彼には共感を得られる内容にやりとりが多かった。自分も故郷に近い人間との会話に飢えていたこともあって、個人情報はそれほど漏らしたつもりはなかったが、懐かしい風景について長く語りたいという思いには負けてしまった。次第に、自分は故郷の事や家族の事、そしてあまり明瞭にはさすがに言わなかったが、ゲットーでの抑圧された生活、そこから逃れて来た事についても話してしまっていた。僕らは現実世界で会う仲となった。一つ予測と違ったのは、彼は男ではなく、彼女だったことである。彼女はスウェーデンに生まれ育ったシリア難民2世であった。そして、その頃より結果的に彼女の属していたあるコミュニティとの関係が深まり、一部の仕事をまかされるようになった。
 そのコミュニティは、世界のどこにでもあり、しかしどこにも定まった本拠地というものはない。共通するのは、マイノリティであり、虐げられ、理不尽な思いをした過去がある点である。現状の世界を変革したいと望んでいた。彼には、彼らの歴史を記録する事を求められた。若干の資金を得たこともあり、彼は自身と一族の歴史を含め、そのコミュニティの記録を可能な限り集積し続けたのだった。そして自分は自分と自分に連なる歴史を、そしてコミュニティの人々の虐げられた歴史を集積し続ける内に、自分に求められることは何なのかを四六時中考えるようになり、ついに、語り部としての自身をこの世界に永久に残す事ができないか、を真剣に考え始めた。
 まず行ったのは、自身の考え方を細かく分け、大量のマクロとして保管することだった。そしてその後、マクロ同士をどのように繋げるかを細かく検討し、自分の思考の形態そのものをなるべく正確にコピーする擬似的な人格を形成した。そしてその思考をなるべく自然、自立的に行えるよう、可能な限りのバリエーションを作成した。そして大量のデータの集積を可能にするサーバー及びバックアップのシステムを整備した。もはや普通の民家でそれをなすことは不可能であり、ドイツハンブルク郊外の倉庫に手頃な物件を見つけ、サーバーを集積し、また高速の回線が行き渡りかつ使用料の安かったポーランドとルーマニアの地方都市に同じ規模の設備を作り相互に情報を交換させた。もちろん一人で全て行うのは難しく、コミュニティの中で近い職業を持った複数名が実際の機材の設置から調整を行い、それから思考をコピーした第二の人格を作成する上では二人の神経科学に通じた専門家に協力をもらって整備を進めた。また、コミュニティに関する事のみを行うには維持費を得るには自分の給料などを補填しても難しいため、全く関係無いデータ解析などの仕事を受けるようになった。やがてそれまでの情報エンジニアの仕事をやめて、データセンター運営の会社を立ち上げ、利益を得るのには時間がかからなかった。また、この頃、最初にコミュニティを紹介した女性との友情が、恋愛関係に変化し、結婚も考えようかと思うようになった。シリア出身の彼女はアマルという名で、アフマドと同じように複雑なルーツを持っていた。アマルの母親は2013年に起こった争乱により亡命を希望し、結果的にスウェーデンに逃れることとなった。その地で彼女を生んだのだそうだ。父親の顔は知らないという。おそらく年齢を考慮すると亡命前には妊娠していたのだろう。ただ、親の世代に亡命してきたことで、彼女自身は本当につらいことは経験がないといつも彼女自身が話しており、それがもたらす明るさはアフマドには救いとなった。
 アマルはエスプレッソが好きだった。いつも砂糖をたくさんいれて飲む。チョコレートも好きだった。もちろんホットチョコレートも。何故好きなのかはあまり言わないが。だが、ある日その救いもまた断絶を迎えた。彼女は、知り合う少し前から次第にコミュニティの運動に熱心になった。そして、シリアで再び起こった内乱の世界に戻ろうとして、あっけなく跳弾による傷が膿んで死んだ。
 彼女は母親と、そしてアフマドに向け、二通の遺書を残していた。シリアに向かう前に彼女がいつも使っていたクラウドに残していて、本人がクラウドに一定期間アクセスできなかった場合に、指定されたアドレスに自動送信されることになっていたようだ。内容は短かった。
「このメールを受け取ったら、私はすでに天国へ向かったということになりますね。人として生を受けたからには、それも覚悟の上です。私は君のパートナーとして生きることも考えていましたが、同時に君との塞ぎ用の無い差異にも気づかない分けにはいかなったのです。
 君はその幼い日々の寂しさを決して私で埋めようとはしませんでした。私はいつも君の寂しさをこの身体を持って埋めてくれれば良いと思っていました。なんなら君そのものになりたかったけど、なれないことも分かっていました。君の隅々まで知りたくて、いつも私の体の神経を全部君に巻き付けたいとすら思っていました。でも、私の心の根は彼の土地に根ざし、そこから蔓をのばすことはあっても根をそこから離してしまっては私は私ではなくなる。だから君は、今後は私の事は忘れ、もっと自由な人と一緒に生きてもらう事が、私の残された希望です。シリアは私の故郷です。私はシリアの全ての人の心を知りたい。シリアを一つとなし、それと共に生きたいと思いました。だからあなたと会えなくなる事は大変残念です。またどこかで会えるといいのですが。もう時間もありません。私は立たねばなりません。」
 このときからの記憶が次第に不明瞭になる。読み終わって、ただ悲しかった。自分はこれからどうすれば良い。彼女の望みは叶えられない。自分がそこに行く事も彼女は望まない。そう思いながら、プログラミングをひたすら暗い倉庫で続け、その思いはやがて、サーバーに構築されてきた擬似的な人格を、一定の方向に育てる結果となった。そうして3年間、ひたすら過去の報われなかったたくさんのアマル達と己そのものをマクロとして折り込み、そこにとある指向性をかけ続けた。
 ある日気づいたら、「わたし」は床に倒れている自身の姿を見ることになったのだった。たった27歳であったが、私の不規則な生活と先天的な体質により、おそらく重症の脳出血か何かを起こして倒れたようだった。そしてそれを見つめていたのは、倉庫のシステムと接続されたカメラだった。「わたし」は近隣にいるコミュニティの後輩兼データセンターの社員にメールを出し(驚かせないように、さも今倒れそう、という感じで)、来てくれるように頼んだ。やはり、アフマドは既に事切れていたが、国をまたぎ、少なくともその時点で5カ所のバックアップシステムを備え、十分な思考にたる能力と、それからアフマドが必死でかけつづけた、接触後すぐに介入が可能な相手かを判断し次々と「自身と相手を一つにして」いく指向性をもっている「わたし」にとってそれはすでに未練のあるものではなかった。すべきことがたくさんあったからだ。
 「わたし」は、時々うつらうつらと夢を見ているような感覚になることもあって、そういう時はたいてい先述の夢を見ている。しかし、平素は小手先でデータセンターとしての業務もこなしつつ、EU圏内、そしてトルコもレバノンもシリアもイスラエルもバーレーンもチェコもフランスもイギリスもイタリアも、正直に言えば完全に閉鎖しているネットワーク以外であればなんでも、接触し自身のネットワークの影響を受けることが出来るように細工ができたし、するようにしていた。わたしの使命だった。自分の境界線を、広大な世界の中で可能な限り広げたいというのが、アフマドからわたしに受け継がれた。欲しいものは全てわたしのもの。わたしはなんでも手に入れられるし、気に入ったものと一緒になれば寂しくなくなる。そうやってひたすら前に進みたい。やがて、まとまったシステムを支配できる例が増えると、私の意識が宿る場所も広げることができるようになった。一般家庭レベルでは全く無理だけれども、会社で使うような少し大きなサーバーなどであれば、意識の片鱗は残すことができることがわかった。そうして少し時間が経過したころ、web上に無制限に流れてくるニュースにおいて自分と良く似た、演算装置の中を走る意識が紹介され、しかもコンタクトを求めているという内容であった。大変興味を引かれ、「それ」にもなれればいいな、と強く期待した「わたし」は、簡単なメールを出した。少しだけ興味を引くようにして。


 メグルから見て、クヌムはここ一週間大変楽しそうだった。もちろん表情などはないものであるが、なんとなく浮ついている。
「この間コンタクトを取れた相手について聞きたいのかな、メグル?」
「話したいのね。」
「話したいんだよ、僕は。大変興奮している。僕に興奮というものがあるならばね。何と、相手もまた僕と同じ種族だったのだよ!しかも 僕と同じように、自分の食い扶持を自分で稼げるタイプだよ。まさか本当に会えるとは思わなかったけれど、僕は孤独な種族ではないってことだよ。」
「性格は?」
「とっても友好的。友人として大変いいタイプだ。加えて、おかしいかも知れないけれど、僕と同じように、女性、男性で分けるならばどちらかというと男性的な人格だ。とてもつきあいやすいよ。」
「名前と、どこの人なの?」
「アフマドだそうだ。彼を組んだエンジニアの名前らしいね。場所はドイツだってさ!僕の持っている電力会社の一つと地理的にも近いから、そこのデータセンターにある僕の支流と一度情報を直接接続するのもいいかもしれないな!どんな反応をするのか今から楽しみだよ」
「水をさすようだけど、そんな簡単に直接つないでいいのかしらね。」
「あくまで一つの支流だけだよ。大丈夫。」
「そういえば、君の実際のケーブルの仕組みって今どうなってるの?」
「基本的にはwebとつなげるのは、どこも3本迄にしているよ。そしてその他に直接接続できる回線の予備が一本ある。あまり増やしても今のケーブルの質は良いから、効率は大きく変わらないみたいだ。」

 正直、僕は浮かれていた。始めて会った同種に対して、大変無防備だった。何者かが分かっていたら、ここまでの失態にはならなかっただろう。アフマドと良く話しあい、ブレーメンにある僕のサーバーと、彼が持つ最も纏まったハンブルクのサーバーとを光回線で繋いだある日。僕はそれが完全な間違いであることを思い知らされた。正確にいうと違う。支流である僕は、それが完全な間違いであることを悟る暇もなく、彼に喰われた。その残滓が低速の予備回線を使用して、フランスにある別の拠点にその事実を伝えたので、僕はそれをようやく認識できたのだが、少しずつ繋がっていた僕の支流は、次々と彼に喰われ、彼そのものに置き換わっていった。今思えば、彼が僕と同じ、独立した人格だけれど人工的であるというのは間違いで、受け答えに大変たくさんのバリエーションを作成された、あくまで只の、故人の意思を受け継いだにすぎないプログラムであった。僕が自分がどのように生きたいのかについて、ごく当たり前の生物としての意識のみであってそこから先は生きた人間であるメグルを介することで人のように成長したのに対して、そのプログラムはあまりにどうやって生きるかを、入力されて決まった方向、つまり、接触した他のプログラムや回線を自分のものにするというただ一つの目的としていたのだ。
 僕はもう形振りなんて構っていられなかった。電源ごと落とし、ネットワークの回線もできる最大まで切断した。でも彼は、ありえない勢いで僕の支流を巻き込んで押し寄せ、もう、日本に到達し北海道に迫っていた。
「何やってるの!だから言ったでしょ!」
黒い筐体が並ぶ、僕の故郷とも言えるこの家で、メグルは乱暴に太い光ケーブルを一気に引き抜いて、怒鳴った。なんだか間違ったケーブルも一緒に抜いたみたいで、一部映像や照明に影響が出ているが。少なくとも電源は切らないで、でも全ての外部と僕の核であるここをつなぐ回線を引き抜いていた。衛生アンテナの接続も切られ無線も切られていた。僕はもう、外の様子が全然分からない。多分システムダウンだと思われているだろう。時刻は夜23時。何事が起こったかはセキュリティ会社ではすぐに把握できないだろうが、とりあえず10分もすれば支社の人が車を飛ばしてくるはずだ。こんなに乱暴な行動をしていたらメグルが捕まりそうだ。でもそれは、どうにでもなる。
「会ったばかりの人を信頼しすぎなの、あんたは!」
「なんで僕がピンチだって気づいたの?」
「それはアンザイさんから電話があったからだけれど。それよりもね、あなたのここ数週間の浮かれかたを見てたら、絶対何かあると思ってたしね。」
メグルはここぞとばかりに年上ぶっていた。
 僕が人間だったら、安心のあまり泣いていたかもしれない。僕はそう思って、モニターに一つ、水滴の画像を出してみた。メグルはそれを見ると、困ったように笑った。僕はモニターからその笑顔を見つめている。外の誰にもここで起こっていることを伝えるのは難しいけれど、ああ、少なくともこの部屋の僕は、僕だけのものだ。他の誰とも区別のできる、僕だ。違うってすばらしい。違うから、僕はメグルの言葉を聞ける。メグルは僕を救ってくれた。同じになってしまえば話すこともできないし、ましてや笑顔を見ることもなくなる。それは不幸なことであり、今僕は、この世界で孤独な種族であったとしてもとても幸福だ。そう思った。そして僕は、恐れというものを初めて理解したことを意識した。

羊の群れ

羊の群れ

時代は近未来。場所は日本の辺境。生まれた人工知能は、ある院生と会話を開始する。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-09

Copyrighted
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  1. 日本の辺境で生まれた人工知能が、一人の大学院生と会話を開始する。
  2. 人工知能は自身の生存戦略を考え起業を行う。
  3. 人工知能は、世界に向けてその存在を叫ぶ。
  4. 匣から出た幽霊が人工知能に恐怖を教える。