悲しい人形と壊れた人間の街4

悲しい人形と壊れた人間の街4

4.街を出る

大切な軸が折れてしまったかのように過去は生々しい実感を失っていた。過去の物語に心が溶けることはなく、ひたすら客観的な記録が流れるだけだった。
大輔は石畳の道沿いに置かれたベンチから腰を上げた。目に見える映像は、白い布に写された白黒映画のように、静かで何かが欠けていた。太陽はずいぶん高い位置にいた。太陽も、湖に浸かっているかのように光の具合が幾分弱いように感じた。
大輔は何となくクロワッサンの看板を目指していた。
「人形作りには会えたか?」三人の客がパンを持って並んでいたが、定雄は手を止めて大輔に話しかけた。
「会えた。寝起きでかなり不機嫌そうだったよ。それより、お客さんが待っているよ」
定雄はちらりと人の列を見た。「人が待つと何か不利益があるのか」
「一般的にはあると思う」
「確かに何度か怒られたことがある。でも俺にはどうしても怒っている理由が理解できないんだ。だからまた同じことを繰り返す。終いには客が怒らなくなった」
「確かにここでは誰もが焦っていない。諦めている」
「そうだ。お前も人形作りから話を訊いたんだろ。人形が取り上げてくれないものは、自分で諦めればいいんだ。俺は時間を人形に取られ、客はこの店では時間を諦める」
大輔は曖昧に同意を示してから、定雄との会話をやめて斉藤夫妻のテーブルに座った。
「二郎さん、どうやら僕は疲れを失い、それによって必要なくなったあくびを人形に取り上げられたらしいんだ。へんてこな話だけど、なぜか違和感なく事実を受け入れられた」
「そうですか」
「斉藤夫妻は悲しみを失ったと聞いたけど、それは喜ばしいこと?」
「それはとても難しい質問です」二郎は目を伏せた。「私達はどうやっても取り除けない悲しみを抱えていました。本当に辛かった。いっそ死んでしまおうとも考えていました。そんな時にこの町に住み始めて、私達は悲しみを感じる心を失くしました。ずいぶん楽になったと思います。だけど、いつも何か物足りない気分になります」
定雄が雄介の前にコーヒーカップを置いた。「俺も話に交ぜてくれよ。他の客は帰った」
「定雄さんは時間を失くしたんだよね。それで幸せになれたの?」
「幸せだ」定雄は即答した。「時間を失くしてみると、人間が如何に時間に踊らされているかが分かる。時間を考えないと生きることは本当に楽だ。お前は何を失くしたんだ?」
「疲れを失った」
「そうか。それは良かったな」
「なんだか心から喜べないんだ」
「失くした物を惜しいと思うのは人間の通常の機能だ。心配するな」
「それとも少し違うんだ。なんと言うか、過去の記憶の中にある疲れも無くなってしまったみたいで、自分の記憶に対する実感が薄くなっているというか、思い出が軽くなったというか。自分の過去が僕から飛び出てふんわり浮いているような――」
「私の話を少しさせてもらえますか」二郎が穏やかに口を挟んだ。
「もちろん。どうぞ」
「私達夫婦は年老いてから息子を一人授かりました」斉藤二郎は微笑んでいた。「その息子は二十歳の時に自殺をしました。私達はずいぶんと大きな悲しみに苦しめられた……、と思います。ここに来て悲しみを失って楽になりましたが、過去の記憶から感情が消えて、実は息子のこともうまく思い出せません。息子は本当にいたのか、と考えることもあります」
「二郎さん」大輔の感情が鈍く揺れた。「息子さんがお二人の記憶の中でそんな風になっていることは、おそらく悲し過ぎる」
「そうかもしれないが、私にはそれがちゃんと理解できません」
「お二人は涙も失ったと聞いたけど……」
「我々の人形は……」二郎はにこやかに言った。「いつも涙を流しています」
「二郎さん、絹子さん」大輔は順番に二人と視線を合わせた。「息子さんとの思い出を取り戻そう。そうしないと、失ってはいけないものを失ってしまうと思う」
斉藤夫妻は不思議そうな目で大輔を見ていた。
「大輔」定雄が言った。「今日のお前の言葉は妙に明瞭な響き方をする」
「たぶん僕はまだ完全にはこの町に馴染み切っていないんだ。人形作りの所に行って、過去のことを想い出していたら、この町の異様さをはっきりと感じた」
「お前が言っていることは、意味はなんとなく分かるが、俺には理解が出来ない」
「とにかく」大輔はもう一度斉藤夫妻を見た。「人形作りのところに行こう。彼なら人形に奪われたものを取り戻す方法を知っているはずだ」
「しかし……」
「行きましょう」大輔は斉藤夫妻の手を持ったまま立ち上がった。
 斉藤夫妻はお互いに見合って首を傾げた後に、ゆっくりと腰を上げた。

人形作りの家の赤いカーテンは開けられていた。中を覗くと、大きな作業台が重くひっそりと置かれ、必要以上の暗さが詰め込まれていた。大輔の後ろには、斉藤夫妻が手を体の前で重ねて静かに立っていた。
大輔が窓を叩こうとすると、突然人形作りの不機嫌な顔が現れ、窓が開けられた。
「一日の朝という短い時間に、何で同じ奴が二回も現れるんだ?」
「お願いがあって来たんだ」
人形作りは大輔の背後を覗いた。「二郎さんと絹子さんじゃないか。元気だったかい?」
「おかげさまで。体は本当に元気ですよ」
「それは良かった」人形作りはまた大輔に視線を戻した。「お前のお願いというのは、もしかして斉藤夫妻に関係があるのか。そうだとしたら相談にのってやる」
「もちろん斉藤夫妻に関係がある」
「あがれ」
大輔と斉藤夫妻はコトコトと足音を立てながら中に入った。人形作りは、中央の作業台の周りに、肘掛と背もたれが付いた大きめの椅子を二つ、それと腰掛けを二つを並べた。大輔と人形作り、そして斉藤夫妻が適当な席に着くと、人形作りが「話せ」と言った。
「斉藤夫妻が失ったものを取り戻したい。その方法を教えて欲しいんだ」
「ほう」人形作りは腕を組んで目を細めた。「俺は何年間かこの町の人間達を見てきたが、そんなまともなことを言いに来た奴はお前が初めてだ」
「僕はただ斉藤夫妻が失ったものが大き過ぎると思うだけだよ」
「お前は町の住民としては成立していないが、普通の人間としては成立している」
「それは喜んだほうがいいのかい?」
「喜ばなくていい。ある意味この町が正常なんだ」人形作りは目を尖らせた。「人間は与えられた環境の中で都合よく生きられるように、進化の中で様々な機能を獲得してきた。だけど、その環境は日々変化する。お前が産まれた日の世界と、それから三十年経った今の世界はずいぶんと違うだろう。その変化に適応するために、通常人間は学習をして能力を高める。だけど、学習じゃ追いつかない場合もある。例えばどんなに頑張ってもお前は鰓呼吸が出来ないだろ。その場合は人間として持っている機能を変更する必要がある。この町の人形はそれをやっているんだ」
「産まれた後に簡易的な進化をしているということ?」
「まあ良く言えば、そう言うことかもしれない。人形が町と人に合わせて進化をコントロールしている。進化と言ってもほとんどの場合は要らないものを失くすだけだけどな」
「僕は疲れを、斉藤夫妻は悲しみを、パン屋は時間を失った。僕らは別々の進化をしたということかい?」
「細かく言えば、人は個人毎に別々の環境の中で生きる。そして人は各々別の生きる目的を考える。だから人間に一律の進化を与えることなんか出来ないんだ。一人一人に合った進化がある。話を戻すが、この町で失ったものを取り戻すということは、言わば退化を意味する」
「楽に生きることを目的にした進化なら、斉藤夫妻が悲しみを取り戻すことは退化になるかもしれない。でも人間は楽を目指した進化なんかするべきじゃない」
人形作りは声を出して笑った。「お前は面白いことを言う。この町を全否定したな」
「町を否定する気も肯定する気もないけど、斉藤夫妻はこのままじゃいけないと思う」
人形作りは目を柔らかくして斉藤二郎を見た。
「二郎さん。あんたは大輔の言っていることをどう思う?」
「正直よく分かりませんが、私達を助けたいと言ってくれるなら助けてもらいます」
絹子は横で優しく微笑みながら頷いた。
「大輔、本人達は全く目的を理解できていない。それでもお前はやるか?」
「僕は取り戻したい。勝手かもしれないけど」
「お前はここに来たばかりの斉藤夫妻を知らないから、そんなことが言えるんだ」人形作りは声を重くした。「朝、絶望的な記憶の目覚めと共に涙が零れ始め、太陽がいくら朗らかな光を当てても涙が乾くことはなかった。夜は真っ暗な闇の中でより深い悲しみに埋もれ、ようやく眠れた先では地獄のような夢が待っている。それが毎日続いていた」
大輔は黙っていた。
「お前がしようとしていることは、斉藤夫妻をあの辛い日々に戻すということだ」
「でも悲しみが無ければ息子のことをうまく思い出すことは出来ない」
「それは斉藤夫妻にとってどんな不都合があるんだ?」
「このままでは息子のことを忘れてしまう。どんなに辛くても大事な人の記憶を失ってはいけない。理由はうまく言えないけど、僕はそう思う」
人形作りは落ち着いた目で大輔を見ていた。瞳孔から人形作りの視線が入り込んできて、脳みそを隅々まで覗かれているように感じた。「お前も大事な人を失ったのか?」
「何人も失った」
「そうか」人形作りが顔に笑みを戻した。「お前の気持ちはよく分かった。初めに言った通り、大輔が言っていることは至極まともなことだ。それに若者が老人を救うことは大変良いことだ。斉藤夫妻が失ったものを取り戻す方法を教えてやる」
人形作りは立ち上がって、奥の戸を開けた。
戸の向こう側は闇に黒ペンキを塗りたくったように真っ暗だった。
「この奥にもう一つ出入り口がある。今は見えないけどな」
「あるけど見えない……」
「そうだ。俺が大輔と斉藤夫妻をこの中に入れて戸を閉める。すると、もう一つの出入り口になる扉を視覚で認識できるようになる。それを開けばいい」
「ずいぶんと変わった仕組みになっているんだね」
「俺からみたら普通の仕組みだ。町の外では別の感覚が必要になる。だから暗闇の空間で今の感覚を閉じて、それから必要な感覚を呼び起こす。すると扉が見える」
「よく分からないけど、それはこれから実際に起きることなんだね?」
「そうだ。今理解する必要はない」人形作りは斉藤夫妻に視線を向けた。「二郎さんと絹子さんは何か質問はあるかい?」
夫妻はにこにこして首を横に振った。
「じゃあ続けるぜ」人形作りは闇の空間を指さした。「奥の扉を開けると、長い下り階段がある。その階段を下ると、大きな道路沿いにバス停があるから、そこでバスに乗る」
人形作りは口を閉じた。大輔は言葉の続きを待ったが、話が続く気配はなかった。
「バスに乗るだけで元に戻るのかい?」大輔が言った。
「違う」人形作りは呆れたような顔で首を振った。「バスに乗ってからは自分で考えて行動するんだ。うまくいけば元に戻るし、そうでなければ元に戻らない。俺は可能性を与えるだけだ。それ以上のことは何も出来ない。早く入れ」
「今すぐ入るの?」
「当たり前だろ。一度町に戻ると何かとぼやけるんだ。気持ちの鋭さが失われる。今出ないと、二度と同じ気持ちにはならないかもしれない」
二郎を見ると、二郎はにこやかな表情で絹子の手を握っていた。
「行きましょう」二郎が立ち上がり、ほとんど同時に絹子も立ち上がった。
「二人とも元気でな」人形作りが心配そうな顔で声を掛けた。
斉藤夫妻はコトコトと謙虚に靴を鳴らしながら闇に向かって歩き出した。二人は互いの手をしっかり握っていた。何度か顔を見合わせては微笑み、歩調を合わせて前に進んだ。二人の足が同時に闇に入ると体の半分が闇に飲み込まれた。もう一方の足が完全に闇の空間に踏み入れられると、二人の体の全てが闇に隠れた。
「大輔も早く行け」人形作りが声を張った。
大輔は声に引っ張られるように体を持ち上げ、小走りに闇に向かった。そして、下手な想像が脳を襲う前に両足を闇に踏み入れた。

悲しい人形と壊れた人間の街4

悲しい人形と壊れた人間の街4

大輔の人形が突然あくびをした。街の人形作りの家を訪れると、人形作りは街の人形が果たす秘密の役割を話し、大輔はあくびが人形によって奪われたことを知った。人形によって奪われたものを取り戻すために、大輔は老夫婦と共に街を出る。そして、バスに乗って辿り着いた街で、大輔は壊れた過去と鉢合わせた。(第四章:街から出る)

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-02-09

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