雪の薔薇

プロローグ


 美しい、道化師の、人形が、黒ビロードの、衣装の、彼が
 手に持つ、純白の、薔薇……
 まぶたは、静かに、その薔薇を見つめているのです

 モノクロームの写真を見ていた小夜月(さよづき)は紅の唇を閉ざしたまま、しばらくは佇んでいた。
 黒いアンゴラセーターからはしなやかな首筋が覗き、艶のある黒髪をおろしている。どこか、もの寂しげな写真の世界は今の小夜月を引き込む。
 雪景色の風景に一脚の椅子が置かれた上に座る人形は、透き通った瞳をしていた。その奥には凍った池でもあるのか、木立が円形に並んでいる。
「この場所……行ってみたい」
 小夜月は一歩下がり、壁から離れた。
 ハープ曲の流れる室内は今彼女がいるのみ。
 目を閉じる。一瞬で取り込まれる。雪世界に踊るあの少年の姿が浮かんで。


 レトロなホームで電車を待っていた。
 小夜月は静かに雪の降る景色を眺めている。レールは白い世界を二本の線でカーブを描かせ、無言のたいで横たわる。
 白い舞う雪花の先からやってきた電車がホームになだれ込み、彼女はトランクを手に乗り込んだ。ビリジアンビロードの座席に座り、黒いビロードカーテンの先に雪に縁取られたホームを見る。
 ゆっくりと移動をはじめ、車窓は時計台を孤島のように映し始める。まるで音のない映画を見ている感覚で、通り過ぎていく。
 時折、視界は激しい吹雪でホワイトアウトしては夢の世界へ一瞬だけ、刹那にして連れ込むようだ。そして霧のように真っ白の森に迷い込んだかと錯覚させて、ふと風景を再びうつす。電車はそれでものろのろと走り、夕方には完全に全駅停車するとも思われた。
 小夜月はハープ曲の鼻歌を歌いながら頭を背もたれに預けた。
「お飲み物はいかが」
 顔を向け、笑顔の売り娘にチョコレートドリンクを頼んだ。彼女はポットからココアを注ぎ、カップを笑顔で受け取る。
 甘い薫りが心を満たすと、少しだけ寂しい心を癒してくれた。
「どちらへ向かわれるのですか」
 視線を前に向けると、優しげな老婆が微笑んでいた。
「はい。〈エメデレアーテ〉へ」
「まあ素敵。今の季節は、雪原ね」
「ええ」
「あの村には、白い言い伝えがあるから……注意をなさってね」
 小夜月は小首をかしげ、再びゆるやかに瞳を閉じた老婆を見つめた。
「ありがとうございます……」
 橋を進み始めて、大きな河は今にも凍てつくと思われる。
 その上で、少年の道化師が笑顔で踊る幻想。

 小夜月が雪に包まれ白くなった木々の梢を見上げていると、背後から声がした。
「お待たせ。こちらへどうぞ」
 かわいらしい家のドアが開いて女性が彼女を促した。
「ありがとうございます」
 彼女はもう一度氷の張った上に雪がさらさらと波のように流れ吹き付けていくきらきらする池を見渡してから、歩いていった。
「お寒かったでしょう」
 彼女は小さく微笑み、雪の上を歩く。ドアの横には精巧な妖精の雪だるまがあり、優雅な顔つきをしていた。白馬の雪だるまも隣にいる。
「このあたりまでは大変でしたでしょう? 山を越えるとき、夜を進むから。冬場は速度 も落ちるから一日かかりよ」
「寝台から星を見ていたんです。とてもそれも美しくて、魅せられました」
「ふふ。それなら良かった」
 梢のシルエットから、白い山陰から望む満天の星空はそれも彼女の心を癒したものだ。
 村について馬車に乗り、ここへ来るまでに雪兎や狼の遠吠えが彼女を出迎えた。
「そちらの写真の道化師はね、この子よ」
 小夜月は少し驚いて彼を見た。
 つい、あまりにも静謐なものを感じて人形なのだとばかり思っていたのだ。
 その少年は横笛を持ってダイニングの椅子に座っていて、こちらを見て透き通る水色の瞳でにっこりと笑った。
「はじめまして」
「はじめまして」
 彼はくるりと立ち上がると一度回転してみせ、小首をかしげた。
「僕はシルク・ド・レドールの道化、モレット」
 サーカス団員。
「わたしは大地 小夜月(だいち さよづき)。あなたが雪原で白い薔薇を持つ姿に魅せられて」
「あの雪の薔薇の。言い伝えを知って?」
 少年は小さな窓の外を見て、凍った池を見た。
 小夜月もそちらを見て、そこには先ほどはいなかった白鳥がいる。どうやら、横の林にいたらしい。

 宵のまだ明るい時間帯、雪は蒼に染まっていた。
 彼等と共に林を歩く。これから、とある広場まで行くのだという。
 白鳥の声が遠くから聴こえる。林を仰ぎ見ても空が続いて、向こうの池にいるらしかった。
 しばらくするとサーカステントが見え始め、そこには少年の仲間たち団員がいる。ランタンがところどころの木々の枝に吊るされていた。星の形をしたもので、今に本物の天体と重なる時間帯に突入すると思われる。
 狼の遠吠えが響いた。小夜月は心にずしんとくる声にあたりを見回す。
「重なる狼と白鳥の声は、この村の言い伝えでは白い薔薇の乙女の現れる前兆とも言うわ」
「白薔薇乙女」
 彼等はサーカステントへと入っていった。
 暗闇のステージは一箇所明かりが灯され、そこにはアンティークの古い時計が置かれている。少年が走って行き、ほかの黒いビロード一色の衣装をした子供たちが変わった形に折り重なったオルゴールのレバーを回転しはじめた。
 何かのからくりか、横のメリーゴーラウンドの白馬が回転し始める。
 スチームパンク衣装の女道化師が箱の硝子ふたを開け、何かを取り出した。群青色のチュチュを着て黒い愛マスクのバレリーナ3人が微笑をたたえてそれらを受け取り、薔薇の造花なのだと分かった。血の様な色の薔薇と、雪の様な色の薔薇と、黒い生薔薇。
 まるで儀式かの様にバレリーナたちは踊りながら薔薇をたむけていき、子供道化師たちは大きなオルゴールを鳴らす。
 上を見ると、ハープを構え鳴らす少女が花で飾られた空中ブランコで下がってきた。
 それに重なるのは白鳥の高い鳴き声と狼の凛とした遠吠えだった。
 寂しい心を癒した声。そして透き通った瞳。ハープの音色。それらが小夜月を回転して包んだ。
 小夜月は涙が閉ざされた目から流れていた。
「あなたが涙を流して、白い薔薇の写真に惹かれてここへとやってきたのは、心が通じていたからなのです。透明な場所と」
 心に響くような声がする。
「ええ……」
 小夜月が手に手を置かれて目を開けると、少年と少女の道化師が微笑んで彼女を見ていた。
「外へ行こうよ」
 彼等に促されて林の木々に囲まれたこのサーカステントの広場へと来る。
「………」
 彼女は驚き夜の空を見上げた。
 真っ白い雪の薔薇が……舞い降ってくる。

 闇色の夜空は星は見えずに、恐いぐらいに巨大な月がそこにはあった。
 木々は不動の態であり、小夜月は手を少年少女に引かれて進んだ。
「きっと、あなたは白薔薇乙女に会えるかもしれない」
 雪の薔薇が空間を踊り舞っている。
「………」
 その先に、姿鏡が置かれていた。雪の上に。
「僕も数年前にね、悲しい出来事があったときに池の横で白い薔薇を見たんだ」
 雪の上に落ちる薔薇は月光で陰影ついて彫刻のようで、そして凛としていた。
 狼の遠吠えに彼女は振り向いた。
 姿鏡にはサーカステントと、林と、それでも彼等は映ってはいない。不思議に思って姿鏡に近づいた。
「!」
 鏡には、自分ではなく、今会いたい人が佇んでいた。
 小夜月と同じしぐさで。白の薔薇が鏡の世界でも降っていて、その彼女の背後に白い女性が現れた。肩に触れられひやりとして小夜月は肩越しに見上げた。
 白薔薇の乙女が青い目をして長い髪を風に吹かれ、闇に浮くようにいた。
 白鳥の声が高く響く。
 小夜月は雪で出来上がった薔薇をそっと手渡され、視線に促され再び鏡を見た。
「……さよづき……」
「………」
 待ち望んだ声。それが、今この耳に聞こえた。
 涙に埋もれて視野が埋まり、こぼれた瞬間目の前の彼女に手を差し伸べた。
 だが、笑顔の彼女は鏡ごと幻となって見えなくなり、闇から降る雪薔薇はさらさらと粉になっていった。月光にきらきらときらめいて。
 狼と白鳥の声。
 心を落ち着かせて、そして心に来る。
 林から吹き込んでくる美しい雪。 こちらへと向かって。
 夢でもあいたいと願い続けた、写真すら残らない彼女が、幻だろうと今、現れた。
 手には白薔薇乙女に手渡された雪の薔薇が残っていた。
 安堵としていた。小夜月はあの懐かしい、二人の思い出のハープの曲をまた口ずさんだ。吹雪がまぶたをかすめる。
「………」
 でも、はっとして目を開く。
 老婆の言葉を思い出した。

エピローグ

 小夜月はサーカステントで白馬のメリーゴーラウンドに揺られていた。
 ハープ曲がオルゴールと共に流れて、道化師やバレリーナたちが踊っている。
 観客のいないサーカス団。
 極まれに、一人の客が現れる。寂しさの心に重ね合わせて誘き寄せられこの白い世界へと来る。
 仲間に加わるために。
 今でも、姿鏡のまえ、白い薔薇を持った小夜月の幻の写真をふと見てどこかの誰かがやってくるのかもしれない。
 寂しい心は魔物だ。心境の奥底に眠る夢。
 微かに、新しい曲調が旋律となって響く。
「誰かが今、悲しくて泣いている。その曲が聞こえる……」
 サーカステントに切なく響く、誰かがこの場所へ一瞬だけでももう会えない愛する人に会いに来る。
 冬の間だけ幕開かれる。
 それごとに、記憶の箱には白い薔薇がたまっていく。バレリーナは楽しげにそれらを弄び舞わせ、ラララ歌った。
 どこかの壁に飾られた鏡のなかで、白い雪の薔薇が回転してその先でサーカステントが佇んでいる。
 思い出に生きているほうがいいと薔薇の檻に囲われたものたちがいるその場所が。

雪の薔薇

白い格子の先に見えるのは、記憶という箱のサーカステント。

雪の薔薇

一枚の写真に引き寄せられるように列車に揺られて訪れたのは……

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-08

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  1. プロローグ
  2. エピローグ