卒業幻想曲

空中庭園は空白だった。まるで、彼の心のように。
夕闇に立ち込める空気は、当たり前のように冷たい。もう、月明かりしか、頼りとなる光源はなく、視界の中に一本だけ生えている電灯も、まるで群島のような赤錆をその身に浮き立たせ、頂点の曇りガラスは割れ、もはやその役割を果たそうとはしていない。それでも、あたりの景色は不思議とまだうすく輪郭を保っていた。そこら中に乱立する白い柱の大半は途中で折れて、あるいは傾いで、その表面は深い苔に覆われている。唯一完全な状態で直立する柱でさえ、側面に彫られた溝にはツタが走り、緑に埋められていた。それらの真ん中に、薄汚れた大理石で規則的に敷き詰められた円形広場があり、その回りには、足元の草木とほぼ同化しつつあるベンチが、申し訳なさそうに等間隔で配置されていた。あたり一面に広がる草原には花一つなく、その静謐さを保っている。そんな中でも、自然の持つ生々しい暴力性が、適度に顔をのぞかせて、空気を圧迫する。

ササキはため息をつくと、円形広場の滑らかな大理石の細かいひびを、使い古した靴の先で何遍もなぞりながら、ツタの絡まったベンチにそっと腰を下ろした。むせ返るほどの青々とした香りが、ぼんやりとした頭に、やけに堪えた。

どうして、と彼は思う。どうして、僕だけ一人で置いていかれてしまったんだろう。
友達は、もうみんな日が空にあるうちに行ってしまった。それが此処の、慣わしだから。そうして白く、大きな羽が生えて、飛んでいってしまった。高く、高く、元いた場所さえ顧みず。その羽根の艶やかさと、暖かさをササキは闇の中に幻視する。そして所在無さげに自らの手を弄びながら、誇らしげな顔で彼を見下ろす友人たちを思い出す。彼を置き去りにした、その姿を思い出す。どの顔も涙でくしゃくしゃに濡れて、それでもうれしそうに笑っていた。空中を優雅に、つむじ風に吹かれる新聞紙のようにくるくると旋回して、まるでその羽根を見せびらかすように飛んでいたのは、誰だったか。もう、わからない。空中にふわりと浮いたままとどまって、じっと自分のほうを見ていた友人も居た。琥珀色のその瞳がやけに、脳の中に焼き付いていた。彼女も最後はササキの方なんて、気にもとめずに、飛んでいってしまったけれど。あまりにも眩しい太陽に向かって、思い思いに翼を広げて。みんなみんないなくなってしまった。きっと自分が悪いのだと思った。飛べないのも、羽を得ることも、巣立つことさえも出来なくて。小さくなっていく彼らを見送りながらも羽さえ生えないササキは、泣かなかった。笑いだって、しなかった。悔しさだって、微塵も感じなかった。それでもそれが何故か恥ずかしいことのように思えて、ササキは下唇を噛んだ。ぽつり、とまるでレコード針にホコリでもついたような音を立てて、いとも簡単にじわりと、塩っぽい味が口の中に広がった。



ササキは滲んだ石の灰色を背景に、そうやってずっと手を見つめていた。全て忘れられる気がして。それでも、空を飛ぶあの印象(イメージ)がこびりついて、何度も、何度でも想起してしまう。それがただ、ササキの心を空しくさせた。そんな繰り返しにつかれて、ふと、顔を上げると地平線の方に大きな建物が、薄ぼんやりと見えた。目を凝らしてよく見ると、それはたしかに、彼の学び舎だった。今朝まで彼が通っていた、あの学び舎だった。積み木を乱雑に組み上げたような外観に、淡い月明かりを反射する、分厚い窓ガラス。その陰影(シルエット)に、陰鬱な冬の朝の、凍った湖のようだったササキの心は、にわかに泡立ち始めた。そこで過ごした日々は、黄金の欠片だった。狭苦しい校庭に舞う、砂埃。カツカツと、チョークを黒板に打ち付ける音。廊下の雑多な自然音。そのそこで過ごした記憶のすべてが、彼を襲って、それほど昔のことではないはずなのに、彼は酷い郷愁感にかられた。胸がしめつけられるということを、初めて実感して、彼は居ても立ってもいられなくなった。静かにベンチをはなれ、彼は滑るように歩き出す。そこに行けば何かわかるかもしれない、なにかが変わるかもしれないと、意味もない曖昧な高揚感を胸に抱いて。

やがて行き着いた校舎は、あまりにも暗く、あまりにも静かだった。正面玄関から、ぽっかりと口を開ける闇にササキは迷いなく踏み込んでいく。目が慣れてくると、あたりに見知った光景が広がった。全体的な色調が白から紺へと変わった校舎は、それだけで十分にミステリアスで、壁に空いた小さな穴や、みみずばれのようにのたくるひび割れからは、何かが這い出してきそうで、窓に映る小さな染みに、ありもしない様々なものを思い描いて。ササキは冷ややかなリノリウムの床を素足でぺたぺたと歩く。肌に張り付く感触は、足をあげるたびに剥がれ落ちていく。それがどこか愉しくてわざと歩幅を小さくして歩いてみたり、軽くスキップしてみたりする。夜の学校には、人を高揚させる何かがあるのだろう。思わず笑い出してしまいそうな衝動を抑えてそんな子供っぽいことをしながら、彼は校舎の中を進んでいく。廊下の角も、引き戸の淡いベージュ色も、観葉植物のささやかな緑も、かすかな消毒液の香りも、まるで今朝まで自分がそこに存在していたことが信じられないくらい、ササキには懐かしく思えた。窓から染みこむ月光にひたされて、校内の空気は落ち着いていて、それでいて柔らかく、綺麗だった。その、柔らかさをかき分けて、ササキはあてどもなく昇降口をかけあがる。

そして、上がった先の廊下で目の前に、彼が在籍していた教室の、その名残があるのをみて、彼は立ち尽くした。何をしていいかわからなかった。思わず、叫びだしそうだった。じっと、透視法で消えて行く長い廊下の先を見据えて、彼は此処で過ごした長い年月を、また、噛み締めるように思い出す。頭上に掲げられた、小さな表示版。予鈴前の教室のざわめき。異国の詩のように軽やかな、担当教諭の講義。うららかな日光のような、それが、その記憶が溢れそうになって、ササキは目を閉じた。そうして、自らを落ち着かせるように、手を開いて、バクバクと、血潮が脈打つ音を数える。しばらくして、また目を開けた。目の前には、ところどころ傷の付いた、スライド式の見慣れたドアがあった。手を伸ばせば、まだそのドアが開くような気がして。暖かな笑いがまだそこに残留しているかのような、そんな錯覚に襲われて、ササキは引き戸の金属製の取っ手を握った。それは、冷え冷えとしていた。あまりにも。その感触に、一瞬ササキは手を離しかけて、それでも決心したように、ぐっ、と。扉を引いた。

扉は、音を立てなかった。ただそこに、動かずあった。
鍵が、かかっていたのだ。ドアは、開かない。

ササキは、すっ、と頭が冷えていくのを感じた。体から力が抜けて、糸の切れた人形のようにその場にへたり込んだ。もう、何も考えたくはなかった。

どれくらいの間、そうしていただろう。膝を抱えた彼の耳に不意に、微かに、ピアノの音が届いた。何処かで聞いたことがある、身を捩じ切るような、切ないメロディ。嗄声のような旋律。ササキは、まるで引き寄せられるように立ち上がり、音の聞こえる方へと進んでいく。あの方向ならば、きっと音楽室の方だろう。ぎこちなく、それでもしっかりと前を向いて歩く、それはさながら、自らの身を焼かれると知ってなお、焔に群がる小蛾にも似ていた。

暗い廊下をぺたぺたと歩く。音楽室は、意外と直ぐそこだった。向き合った扉の向こうからは、透明な音符の連なりが確かに聞こえてきた。それは跳ねるように壁に反響し、疲れきったササキの頭を、嫌というほどくすぐった。澄んだ音の底に、演奏者の意思は濁ったように見えない。澄まし顔で、全てを押し殺して音を奏でるのだ。ザラザラとした丸っこい音の手触りを数える。ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー。また、へたり込んでササキは、つま先で小さくリズムを刻む。ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー。それは、そんな儚い、優しいワルツだった。

しばらくして、彼はおもむろに立ち上がり、彼と室内を隔てる扉に、手をかけた。もっとそのワルツを、近くで聴いてみたい気がして。その引き戸を何も考えずに引こうとして、彼は突然気づく。これが開かなかったら?また、鍵がかかっていたなら?
どうすれば、どうすればいいんだろう、と。躊躇する、立ち止まる、指が、震える。
それでも、恐れを沈めて彼は扉を引く。
彼にはそれ以外、どうすることもできないのだから。
そしてそれは、カラカラと、存外に大きな音を立てて彼の前に道を示した。

音楽室の中は、廊下よりも暗い。目が慣れるまで、ササキはそこに立っていた。あの特有の、小さな穴のあいた壁。壁にかかる、名も無き音楽家たちの肖像の羅列の注視するようなその眼差しはどれもこれも、同じに見えた。それでも、音に満ち満ちたこの部屋の闇の中において、それはなぜか、彼には優しい物のように思えた。少し良く見えるようになった目でササキは黒板のすぐ近くの黒塗りの塗装の、無論それはところどころはげている、グランドピアノに目をやった。黒いスーツに身を固めた、髪の長い若い女性が、演奏者用の椅子に座って、振り向きざまに彼を、その銀色のフレームに囲まれた、ガラス越しの瞳で。無表情でじっと見つめていた。目元の泣きぼくろが、なんだか本当に泣いているように、ササキには見えた。


こんなじかんに、と彼女はそのよく通る真綿のような声で問うた。
どうして此処にいるのですか。僕にも、よくわからないんです、とササキは困った顔をして応える。おくれて、しまったんですよ、と。
何がおかしいのか、彼女はくすっと笑って、その表情を崩した。そして、教室に並べられた椅子の一つを、その小さな手で示す。どうやら、そこに腰掛けろということらしい。ガタガタと椅子を引きながら、片えくぼがかわいいな、とそんな場違いな事を、ササキは不意に思った。

みんなみんな、太陽を目指して飛ぶのね、と彼女は云う。結局はたどり着かずに、いつか落ちるというのに。それでもみんな、あんな綺麗な白い羽を生やして、綺麗に飛んで、綺麗に笑って。きっとそれは悲しい事、なんだわ。あなたもそうは思わない?

僕には、よくわからないんです。何も。ササキは足元に目を落とした。なにも、なにも。
正直なのは、いいことよ、と彼女。

暫しの沈黙が、部屋に戻った。互いの想いが、まるで澱のように溜まって、地層のように、互いに積重なっていくような、そんな静けさが。彼女は何かに気を取られたように窓の外を見ていた。ササキはその横顔を、じっと見つめる。やがてその視線に気づいたのか、彼女はゆっくりと振り向く。少し目があって、お互いにまた下を向く。そのまま、ためらいがちに彼女は口を開いた。

あなたは、此処にずっといたの?

ええ。ずっと、ずっと。応えてササキはまた目を閉じた。そして、彼が過ごした日々を、また記憶の縁から拾い上げた。鮮やかで、何もかもが温かい、そんな光る欠片を。彼は話した。その、自分の持てる、輝いた名残の全てを。ゆっくりと、埋葬するかのように、彼は彼女に語った。握った鉛筆の形。友達の声。昼食の香り。すべてを満たす、笑い声を。いつの間にか、欠片を零すごとに、彼の両目から、海のしずくが一粒、地に落ちていった。

そして彼女はそれを、聞いた。時に頷き、時にはにかみ、時に目を伏せて。その思いの一つ一つを、大事に抱えるように。離さないように。やがて、全てが語られたあと彼女は云う。

きっと。その思いは重すぎるんだわ。あなたが、飛ぶのには。空の向こうに、運んでいくには。だって、こんなにも綺麗で、優しくて、温かいんですもの。あの白く、堂々とした翼よりも。だから、きっとあなたは飛べない。でも、それを恥じることは、ないわ。それはきっと、とても素敵なことだから。



そんなふうに、彼女は、いつの間にか膝をついて嗚咽を漏らす、彼に手を伸ばす。

少し、踊りましょう?

ササキは、顔を上げた。その濡れすぎた顔で、彼女を見た。その、白い雪を思わせるような手を、じっと見つめた。そして、恐る恐る、その手をとって立ち上がる。
彼女はその手をしっかりと掴んで、彼を引き上げる。悲しみから、おそらく、過去からも。
そして、立つ彼と向かい合い訥々と、さっきまで彼女が弾いていた旋律に合わせて、言葉を紡ぐ。

Dは冬の晩に、じっとうずくまっている小石のように。B♭は、落ち葉が写す影のように。

控えめに唱う彼女と、彼はステップを踏む。世界のように、くるくると廻る。
夢のように、夢の名残のように。
滲んだ視界の中で、彼女が微笑んでいた。胸の中にじんわりと、温かみが灯る。
それは、彼の記憶と違って、先へと続いていく、未だ途切れ得ぬ希望だ。
彼らはただ、踊る。そして、そのうち踊り疲れて、ササキはまた床に倒れて、そして。

大きく、大きく光る。月を、見た。

ササキは、自分の体が軽くなっていくのを感じた。頭の中の感情が、もっと純粋な本能に移り変わっていくのが、自分でもわかった。それでも、彼は少し安堵していた。今までにないくらい、安心していた。自らが、世界に見捨てられたわけではないとわかって。

背中に、歪な形の、小さな羽が生えているのが感じられた。それはまるでこの夜のように黒く、小さく、しわが寄っていてくしゃくしゃだった。それでも、飛べる。不器用な僕にはぴったりじゃないか、とササキは思った。

きっともう、行かなければならない。

振り返れば彼女が、出会った時のような無表情で、こちらを眺めていた。
結局、そうやって全部、と彼女は静かに云った。全部置いていくのね。
それは、責めるような響ではなかったが、何故かササキの心に刺さった。

ごめん。でも行かなくちゃ。逃げるようにそう云う。
でも、きっとこれは逃避ではないと、自分に言い聞かせる。
そして彼は、ありがとう、と呟いて、床を蹴った。
窓を破ると、きらきらとした破片が飛び散って、雪のようにあたりを舞った。夜の冷たい空気が、彼の肌をそっと撫ぜた。浮かび上がっていく体は、斜め四十五度の角度で、その目はまっすぐと月を見ている。そうしてササキは、懸命に羽ばたいて空を飛ぶ。
そうしているうちに、やがて彼女のことも、輝かしい欠片さえ、わからなくなってしまって、忘れてしまうだろう。それを悲しいとも思えず、彼は一心不乱に天を目指した。

一人取り残された彼女は、破れた窓の、その縁を眺めて、またワルツを爪弾いていた。
月をバックに飛ぶ彼を、視界に入れないようにして、小さく、いってらっしゃい、と口にする。きっと、彼は幸せだわ、と彼女は考えた。だってほら、月の光は、こんなにも優しい。まだ、手を伸ばせば届きそうなくらいに。
やがてササキの姿が見えなくなると、彼女はごく自然にピアノを弾くのを止め、部屋の中を、まるでまだ、そこに誰か居るかのように睨んで、またため息をつく。
そして、無表情のまま、彼女は、また膝を抱えた。

それでも、きっと彼女も、何時か、いつの日にか、此処を去っていくのだろう。
彼と同じく、誰もと同じく、全て等しく。

それが卒業ってものなんでしょうね、と彼女は呪いのように吐き捨てた。

月はまだ青い。

卒業幻想曲

卒業幻想曲

今からもう三年も前の作品。 拙いけれど、自らの戒めに。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-07

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND