黒い星

黒い星

黒い星

黒い星

助けてください、わたしは、今となっては元来からと言っても語弊ではない、亡霊にとりつかれているのです、彼方の地平の涯からぬっと白いたなごころをこちらにちらちらと表した亡霊が、そのうち地平線をくぐりぬけてかの四肢を振り回しながらわたしに迫ってきたのも、既に長い時間のアイラインに巻き込まれてしまって、それを指し示す時間一点の座標が、久遠の地を駆け逃げ回り服が汗になり肩で息をしているわたしにとって、もはや出発点との分別がつきません。かねてからの亡霊は、わたしの体力を奪うばかりか彼方遠景にしずんだわたしの記憶まで刈り取ってしまっていたのです。亡霊の手の先には蛇の牙のようにするどく彎曲した爪がそろっていて、耕すようにわたしの背中にいきおいよく振り下ろすのです。それをよけきると瞬間、代わりに引き裂かれた空気がうずを巻いてごうごうと冷える北風のようにわたしの背中に打ち付け、冷や汗をあぶりだしては一瞬で乾かしてしまうのです。わたしは半狂乱になって逃げ回りました、後ろは一度も振り返らず、足を絶え間無く前に運び出すことに一心賭けていました。亡霊のことばです、――オウオウ、忘れないで……忘れないでエ……オウオウ――と、唸るように、ですが静かに無声音でしゃべるのです。しかしはっと気がつくと亡霊の気配がなくなりました、今までさんざんにわたしを追い詰めていた恐怖が、泡でもはじけたかのようにすうっと、始めっから無かったことのように消え入ると、それを見計らって一斉にわたしの眼球にありふれた日常を映し出すこととなれば、一層の恐怖心をわたしの心臓に重しを積み重ねるように高まらせたのでした。まるで彼らはわたしが恐ろしい悪魔にとりつかれていることが公然の承知のようで、こう態度をとっているのかしらん。狂人を観察するような、好奇心やゲテモノ好きの連中のからかいの視線、眉をひそめて汚物同様の反応しかしない無関係でありたいという心情、そしてほんの少しの同情や哀れみ――もっとも持ち主を突き動かすほどの動力を備わったものではなく、すりきれた輪ゴム仕掛けの自惚れ機関でしかないが――たちが同時に、わたしの胴体をつきぬけたのです。わたしは心中で唱えました、シンボウするんだ、ここでバクハツしたらそれこそあわれなキ印だ……。それよりも、もっと安全な場所に逃げた方がいい……。またいつ亡霊に襲われるかしったもんじゃない。わたしはまた走り出しました。とてつもないビル風がわたしの汗を吹き飛ばしてくれたおかげで、かえって寒いくらいでした。わたしはかくまうことのできそうな場所を探し回りました。しかし、日は焦るわたしをなぶるかのようにゆっくりと沈んでゆき、気づけばあたりはすっかり暗くなったのです。おそろしい北風がごうごうと現代の蟻塚の壁を殴る音をたてながらわたしに迫る様子が、かの亡霊そっくりで、わたしは慌てて近くの公園の雑木林に逃げ込みました。冬はきらいだ、そうですわたしは冬がとてもきらいなんです。むしゃむしゃと歩くと聴こえるはっぱの死骸を踏む音や、さっきみたいなびゅうと満腔をせつなにこごえさせる北風や、ぶあつい獣みたいな外套を背負ってあるくひとびとも長い夜もかわいた空気もきらいです。しわすのやけにみんなソワソワした雰囲気も大嫌いです。それはなぜでしょう、やっぱり今になればあの亡霊とおなじ、生得のものと思えるのです、まるで一億の時間も越えて遺伝子に刻み込まれたかのような、それは深く深くわたしの心臓の底いに根を張ってじゅるじゅると鮮血をすすっているのが、たとえば睡魔におそわれてそれに屈した瞬間などにまぶたの裏側の黒い紫色をした組織の小宇宙の幾何学模様のうちに垣間見えるのです。それはかげおくりのように眼球にこびりついておちないのです。これも亡霊も、顔の真ン中に鼻がついてるのとおなじようにに思えたくらいわたしはすっかり疲弊しきっていたところに、悪魔はとっさにそいつを根こそぎぶち抜いて軍艦がひんぱんに遊弋している黒い海水が溜まった大陸棚にぶちまけ、かれはしたり顔、英雄気取りの視線でわたしを岡の上から見下すのです。なにをするんだ、と憤慨するわたしを見て意外におもったのでしょうか、枯れた風がごうごうと吹く岡の頂点まで一気に駆け上がったわたしに対してかれは何も出来ずにあわてて逃げ出し、かまいたち舞う虚空とわたしだけが取り残されました。そこからは都会がよく見えて、かの亡霊をうまく巻いてくれているようでした。亡霊はいまどこだろう、もしかしてあの迷宮で迷ってしまっているのではないか、ざまあみろと喜ぶのか、それとも心の奥底でもぴゅうとからからと落ち葉が転がる音を耳にしたのは空耳でしょうか、それに気がつこうとする自分もいて、結局耳を持たない自分ととっくみあいのケンカがはじまってしまって、ごろごろとつめたい土の上をころがるうちに袈裟固、えりもとをがっちりとつかんだのははたしてどちらでしょう、そいつはこいつの運動でほてった頬をきっとにらみつけ古代戦士のように耳を引きちぎるのか、いや逆だろう、それは以前にもまして明白の事実なのかもしれない、立ち上がり首を締め上げるかのひとの目じりは裂けてまるで鬼のようだ、そしてこう言う、――見ろ、町を見ろ――それが耳にはいった瞬間、かれはぱっとそれこそ空気と化して北風と一緒にあの人のほうへ駆けて行ったのだろう、じぶんはどさりと冬の地面に倒れこむ、そして土ぼこりにまみれた顔をはらいながら、細目をだんだんと開けていくと、そこからはさっきとは異なった様相が見えてきたのであります、たしかに一辺倒な町々の壁もひとも同じですが、何かが全く変わって見えてくるのです、それはトロンプルイユのキャンバスを張って釘を打つときからその製作を傍観してきたじぶんが、サア完成したぞと画家が得意げに画廊に飾り、そしてそれを指定された角度からしかのぞき見ることの出来ない鑑賞客を画家とともににやにやしながら観察しているようなものでした。わたしはいままでだまされる方だったのです、しかし、あいつに首を絞められた酸素のたまゆらの途絶えが脳に敏感な縮小をもらたし、そして手が首から離された瞬間ものすごい勢いで入り込んでくるそれをちぢこまった脳にぶわっとおくりつけられるとき、それまでの記憶や知識がいっせいにそれらとともにむくむくとポップコーンのように膨れ上がりなかの微粒子の微粒子それぞれのそれぞれまでがきゅうっとなにかに縛り付けられた磔ののち釘を四肢から抜かれたときの開放をともなった一種の感動がオーロラの早送りみたいにぶわっと空にせわしなくたなびいてその姿を誇張したのです、それがほんの一秒でわたしの頭のなかで起こりました。眼球がくみとる外界の情報の吟味の形式をまるっきし変えてしまいわたしは菩提樹の許にいるような気がしました。それで町をにらみつけたとき、それはまぎれもなく大嫌いな冬の空で、そして夜でした、みな好き勝手に部屋に明かりをともし一億無限に数えるその姿は、地平にすわってそれに沿いながら煌々と爛々とかがやくそのすがたは銀河でありました、そうだ東京は銀河だったんだな、とふとした実感がわたしのこころを暖めました。あのころ、じぶんにニヒル的思考をつきつけ、それに従うしかできなかった無能無力なじぶんはかつてとなって遠い星の空の一点の光源となったのでした。そうだ、きっとあの人と一緒に見た風景はこれなんだとがてんがいくと、ふいに背後がさびしくなっておーいとわたしは岡の上から叫びました。宇宙の恒星たちはどうでしょう、ちらちらとする光はモールス信号、わたしがつきはなした亡霊は火星と木星のあいだの小惑星群にいたのでした、シリウス並みのと考えていたおくびょうなじぶんがばかばかしくなって笑いが出ました。アザートスにことごとく破壊された亡霊はほんとうに、みじめで、かわいそうなものでした。わたしはその寥々とした惑星の表面におりたちました。ここには黒く枯れ切ってしまったはだかの木がずらっと涯まではえていて、あの人はその黒い森のひらけた丘にある、薄汚れた時計台の前にいたのでした。彼女が見ているのは、その時計台の数字か、はたまたその背後にある真っ白に曇りきった空か。彼女の視線に、勘違いでも応えるように、時計台はゴーンと鐘打ち鳴らし、十二時を告げました。わたしは丘の粗末な石階段をゆっくりと登ってゆきました。かの人は虚空に夢中で気づきません。慎重に、透き通った水の上を歩くように、わたしは背後に近づき、そして彼女のかたをたたいて、彼女の顔がこちらに振り返るとき、それは至上で最期のエピファニーとなりました。彼女がまだ空を見上げる亡霊の視線をこちらに送っても、じぶんは気落ちしませんでした。枯れた茶色の芝生を踏みしめて、じぶんは彼女の瞳孔をつかみ取ってこう言いました。
「もう過去の永劫にとらわれて薄汚れた灰色のコンクリートでしか、ぼくたちは会えないのかい。この星や、あの燃えたぎる火の星の眷族じゃダメなのかい。」
彼女は亡霊を確認しました。そしてほんのすこしの笑みをたくわえながら、わたしに暗送秋波しました。
「そんなことないわ。」
時計台がゴーンと一時をさしました。やっぱり、時はせっかちなもんだな、とわたしは思いました。じぶんは彼女から離れ、石階段をすこし降りたところで彼女に振り向き、言いました。
「ぼくの国が北にある、来ないか。」
彼女はうなずきました。配慮がきかない石階段に足をとられないように、じぶんは手をとって支えてやりました。ふたりは延々とつづく、深い深い、森の中へおちてゆくのでした。誰も居なくなった丘の上で、悲しげに時計台がゴーンと二時を知らせました。爾来時計台は、時をつげることはいっさいしなくなりました。

黒い星

黒い星

黒い星に降り立った180の人間が一億彼方の惑星に誘われて森に入った

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-07

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