九月の蝉
彼女。
六月の空はやけに重く厚い雲に覆われて今にも泣き出しそうで、開け放った教室の窓から微かに雨の匂いがした。
茶色のジャケットを着たバーコードハゲが訳のわからない数式をカツカツとチョークで書き連ねていた。
高校に入学したら素敵な彼氏ができて、少女漫画みたいな恋をするんだ!と割と本気で信じていた中三の自分を説教したい。
高校に入学して早二ヶ月。中学の頃の私が夢見ていた高校生活とは程遠い生活を私は淡々と送っていた。
クラスを見渡してみる。中学生に毛が生えただけの冴えない男子、高校デビューの方向性を完全に間違えヤンキーみたいなブリーチ頭の男子。この中の誰かと素敵な恋愛なんてできるわけがない。そう思うと私の心は窓から覗く空と同じように重く沈むのであった。
まあ、そんな私も人のこと言えない冴えない女子高生なのだけれども。
クルクルとペンを回していると、さっきまで黒板に向かっていたバーコードは私の横に立ち、
「わからないことがあれば聞けよ」
と優しい口調でこちらを伺っていた。
「だいじょーぶでーす」
そう返事をしてノートに向かうフリをする。
本当は何もわからない。どこがわからないのかさえ、わからない。
数学だけはダメだ。というか算数のころから苦手だった。
こんなもん、人生のどこで役に立つっていうんだよ…
数学嫌いな人はみんなこう考えていると思うのだけれどどうだろう。
そんなことを考えているうちに終業のチャイムが鳴って、教室がざわめき出す。
「さち、お昼どうするー?また音楽室行ってもいいー?」
明るい栗色のツインテールをゆらゆら揺らしながら駆け寄ってきたのは中学の頃から仲が良かった愛実だった。
私と愛実はお昼になると時折、音楽室を尋ねる。
その理由は、愛実の彼氏がそこにいるからだ。
愛実の彼氏は軽音部に所属しており、軽音部の面々はお昼には音楽室で昼食を摂り、そしてギターを弾いたりして昼休みを過ごしている。私たちはそれを少し離れたところから見学しお昼休みを過ごしていた。
人間を勝ち組と負け組に分けるのはあまり好きではないが、あえて分けるなら愛実は勝ち組だと思う。
私から見れば、中学の頃から可愛くてモテていたが、高校に入り更に垢抜けた彼女は、私が憧れた『夢の高校生活』を送っているように思えた。
愛実の彼氏は一つ年上で、背はそんなに高くないけれど、顔はカッコイイし、人懐っこく社交的で後輩にも先輩にも好かれていた。
「いいなぁ…」
私がボソっと漏らす。
「え?やだ!取らないでよ!?」
間髪入れずに愛実がそう言ったので私は思わず吹き出した。
「違う違う!大丈夫だよ!優先輩、かっこいいとは思うけどタイプじゃないもん。略奪愛の魅力は理解できないし。」
私がそう言うと愛実はホッとした顔をしていた。
「ちーっす」
昼休みも残り20分位になったとき、彼が現れたのだった。
黒いTシャツの上に制服のシャツを羽織り、肩に通学バッグをさっと担いで音楽室に入ってきた。
鼻筋がスっと通っていて、少し眠そうにも見える優しい二重の目、ゆるくパーマのかかった茶髪はいつの間にか降り出したのであろう雨で少し濡れていた。
私は人生で初めて一目惚れというものを知った。
「おー!タカ、おっせーよ!」
「悪ぃ。ってかバス降りたら雨降り出して最悪。ちょっと濡れたし。」
そんな会話をしながら軽音部の輪の中に入っていったその人を先輩たちは『タカ』と呼んでいた。
タカと呼ばれたその人は、すぐにカバンを下ろし、音楽室の隅に置かれたドラムセットに腰掛け、ドラムを鳴らし始めた。
そこからのことはあまりよく覚えていない。
目を奪われぼーっとしているうちにお昼休みは終わり、愛実に引きずられるように教室に戻った。
愛実はそんな私を面白そうにケタケタ笑っていた。
「タカ先輩って言ってたね。優くんに詳しく聞いてあげようか?」
ニッと笑った愛実に私は顔を赤くしながら頷いた。
次の日の朝、学校に向かう途中、いつも明るい愛実は何だか俯いていた。
「優先輩とケンカでもした?」
私の問いに無言のまま首を横に振り、愛実は言い出しにくそうに静かに口を開いた。
「あのね…タカ先輩なんだけどさ…3年生の先輩と付き合ってるらしくて…」
なぁんだ。愛実があまりに深刻そうな顔をしているもんだからもっと大事件かと思ったのにな。
「へー。そりゃそうだよねぇ。あのイケメンに彼女がいないって言われた方が衝撃的だったかも」
これは強がりでもなんでもなくありのままの感想だ。私は至って冷静だった。
「え?ショックじゃないの!?彼女さん、美人らしいよ?」
愛実は呆気にとられたような顔で私の顔を覗き込んできたけれど私は微笑み返すのみだった。
そもそも一目惚れしたと言ったけれど、本当にまだ顔しか知らない相手なのだ。私の中でタカ先輩は憧れの対象でしかない。何より、私の様な地味で目立たなくて可愛くもない女がタカ先輩と付き合いたいだとか、そういうのを人は高望みだとかそんな風にいうのである。
もしも、これで先輩の彼女という人が私以上に冴えないブサイクちゃんならば、略奪愛もまたオツなものよなー、などと考えてみたが、愛実が言うには美人さんなようだから私の出る幕はない。
美人な年上彼女か。こりゃ敵うわけないな。参った参った。
しかし、タカ先輩は困ってしまうほど私の好みの顔をしているもんだから、恋愛感情はないにしろ少しはお近づきになりたいのだ。
まずは『可愛い後輩ポジション』くらいは確保しようと愛実の音楽室通いに今日もまた付き合うことにした。
英語、日本史、現代文…と今日の午前中は見事に私の得意分野でみるみるうちお昼休みになった。
私はいつもより軽い足取りで愛実のあとに続き音楽室へ向かう。
「タカ先輩いるかなー?」
なぜか愛美の方がそわそわしていた。
「あれー?優の彼女ちゃんだー!なんで俺の話ししてるのー?」
突然後ろから降ってきた声に私も愛実もびっくりしてバッと振り返る。するとそこにはにこやかに笑うタカ先輩がいた。
「お、お、おはようございます!!」
愛美が慌てて挨拶をする横で私はまだ心臓がバクバクして絶句していた。
その時だった。
彼の後ろからタカ先輩を呼ぶ甘い声がした。
「タカァー!待ってよー」
それが誰の声なのか私にはすぐに分かったし、少し離れたところから走ってくる小柄でイマドキっぽい見た目の美人な女子高生を見た瞬間に身体中の細胞がゾワゾワと騒ぎ出したのが分かった。
「うるせーな。ももちゃん、もっと早く歩けないの?」
発した文句とは裏腹にニコニコと笑うタカ先輩は、"ももちゃん"と呼ばれた彼女を大好きだという雰囲気が痛いほど伝わってきた。
「あっれー?1年?軽音部の子?」
「んー、優ちゃんの彼女の愛実ちゃんとその友だちちゃん」
胸が痛んだ。愛実は名前を覚えてもらってるのに、と少し愛実に対して嫉妬した。
「友達ちゃんって…」
彼女が呆れてタカ先輩の足を踏んだ。
「痛っ…」
「ごめんねー。こいつまじ失礼だよねー!!名前なんていうの?」
彼女が私の顔を見上げた。
「えっ、あ、さちです。桜井さち」
「さちちゃん♪タカ、覚えた!?女の子の名前はちゃんと覚えてあげないとダメだよ!?」
彼女はぷくっと頬を膨らめる動きをしたあと、タカ先輩の腕を掴んで「じゃーねー」と手をひらひらさせて去っていった。
圧倒されてその場に立ち尽くした私を愛実がさっきの彼女と同じように腕を引っ張り音楽室へ連れていってくれた。
そこでは、タカ先輩や優先輩にまじって、彼女が楽しげに菓子パンを頬張っていた。
愛実と私も優先輩に呼ばれてその輪に入り、なんてことは無い会話を繰り広げ、午後の予鈴が鳴るとパラパラとそれぞれの教室に帰っていく。
「優ちゃん、俺とももちゃんサボるから、部室の鍵かけてって。5限終わったら開けてよ」
タカ先輩が彼女と腕を組んで、音楽室から出る私たちを見送る。
優先輩が溜息をつきながらも了承すると、音楽室の隣にある軽音部の部室で楽器や機材の倉庫みたいなところに、タカ先輩と彼女が2人で入っていき、その扉を優先輩は外側から施錠した。
「ほーんと。ふしだらで困るねぇ。高校生たるもの健全なお付き合いをしてくれないとなぁ」
優先輩のその独り言のような呟きを私は苦笑いで聞いていた。
まあ、そういうことになるよね。年頃の男女が二人きりなんだもの。
先輩
いつものようにダラダラと授業を受けて昼休みに愛実と音楽室へ向かった時のことだった。
音楽室へ続く渡り廊下で愛実の彼氏である優先輩が私たちを呼び止めた。
「愛実、さっちゃん!ごめん、今、音楽室使えないんだよ。音響機材の工事入ってて」
それを聞いた愛実がすぐさま優先輩に尋ね返した。
「じゃあどこでご飯食べてるの?今日は集まんない感じ?」
「ああ、てか皆サボりで午前中来てねーんだわ」
九月の蝉