歩くにこにこ

【野菜・犬・雪】

 どのくらいの時間が経っただろう。出発した時には東の山の稜線から太陽が顔を出したばかりだったのに、今はもうすっかり西の水平線に溶けるように太陽が落ちていく。生まれて初めての疲労感、というよりは、歩くために足を交互に動かすという、同じ動作の繰り返しに飽きたような感覚だ。それも、疲労感というのだろうか。
 それでも、「籠の中の鳥」よりはずっとマシだ。俺は飾られて、見世物にされるためにこの世に生まれたんじゃない。自分の果たすべき使命は初めから弁えていた。たとえこの命を懸けることになっても、それが、それだけが俺の唯一の存在意義なのだから。
 陽が暮れてきた。辺りが薄闇に包まれていくほど、体が冷たくなっていくのがわかる。柔らかかった両足も、寒さで硬くなってきた。俺は道路の隅に座り込んですっかり重たくなった両足を見下ろした。
 異変に気付いたのは、暗闇に目が慣れてきた頃だった。
 聞こえる。規則的な荒い息遣い。聞こえる。確かに聞こえる。
 心臓が激しく鳴り始めた。俺はこの息遣いの主を知っている。まだ俺が目を覚ます前、音だけで世界を感じていた頃。あいつらは鋭い眼光と牙で仲間の命を奪っていった。夜の度に俺たちは奴らの息遣いに怯え、仲間の命が奪われる音に体を震わせた。
 その、奴が、いる。それもかなり近い。
 俺はそのまま後ろに倒れこみ、体を硬くした。所謂、死んだフリというやつだ。そのまま目を閉じてじっとしていると、奴の息遣いがゆっくりと近づいてきた。ぬるくて臭い息が体にかけられて、思わず声が出そうになる。俺はここで終わりなのだろうか。
 奴ら、犬、という生き物は本当に何でも食らう。人間の食い物や肉だけでなく、果物や野菜まで食うのだ。俺がここで無事でいられる保証はない。
 俺は早鐘のような自分の鼓動を聞きながら、神を讃え、祈り、呪いもした。
 そのどれが功を奏したのかはわからないが、しばらくすると犬は興味を無くしたように去って行った。遠ざかる足音を聞きながら、静かな夜空を見た。今夜は星がない。雨でも降るのだろうか。
 冷え切った体を起こして、再び歩き始めた。遠くに街の明かりが見える。俺は、あそこに行かなければならない。自分の使命を果たさなければならない。うつむいたまま立ち尽くしてアスファルトを照らす街灯が、俺の影を作り出す。
 不意に、視界を白いものが横切った。上から下に向かっていくものを、横切る、と表現するのかは定かではないが、重力に従って落ちてきたのは雪だった。空中をあまり舞うことなく、静かに降りしきるわた雪。
 これは積もるな。俺はほんの少し早足に街を目指した。
 窓際に飾られるためじゃなく、写真を撮って近所の人に披露されるためじゃなく。
 俺は、食べられるためにこの世に生まれてきた。仲間たちと、ほんの少し見た目が違っただけ。体の下の方が、二つに、そう、人間の足のような形に分かれていただけ。しかし、俺を土から引き抜いた人間はそれを面白がって俺を見世物にした。やがて俺の体は二つに分かれた足元からシワシワと柔らかくなり、ある日それを動かせることに気が付いた。
 俺は歩ける。そして今日、朝日が昇り始めたころ、家を出た。
 俺は人参だった。それも、人参が苦手な子供たちが食べやすいように、甘く遺伝子操作された「にこにこニンジン」だった。子供たちに食べられることが俺の存在意義であり、そうなって初めて俺は人生、否、(人)参生を全うしたことになるのだ。
 遠くに見える街の明かりが、しだいに少なくなっていた。人間たちは眠る時間だ。
 俺はなお、歩き続けた。時折、わた雪を降らす星のない空を見上げては、そこに子供たちの笑顔を思い浮かべながら。

歩くにこにこ

歩くにこにこ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-05

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