practice(44)





四十四







 ブルーのシートに手を置いて,親指に引っ掛けた胡桃の袋がぶつかる。前の席の背もたれの,そこの硬さ。元の状態を見たことないのに,色を古くしたのは陽当たりだと右の方向に曲がる角を,曲がって,指を指した運転手さんが言ってくれた。丁度そこでは矢印が白い,日よけと残すベンチだけのバス停が誰を待たせたりしていなくて,その前を瓶を乗せた荷台と走る麦わら帽子のお姉さんが片手運転で自転車を走らせていた。それがよく見える,後ろを向いて,麦わら帽子を押さえていた手と交わす,お姉さんとの挨拶はそのまま短いさよならになった。
「出会いと別れ,ってね。あれ,何の歌だっけな?」
 そういう運転手さん。雪を残す山々にぶつかるまで,ずっと続くことが分かるまっすぐの道に手を抜いてバックミラーでこっちを見てる。
「知らない。だってそんなの,いっぱいありそうだもん。」
 と冷たく答えと見つめ返す,きょとんとした運転手さんは取り返すように「がははっ」と笑って,「そりゃそうだ。」と言った。それから広々としたバスの,汚れを水と洗剤とワイパーでキュッキュと落として満足していた。
「まだ着かない?」
 と切って聞く。運転手さんはすぐに言った。
「まだだね,まだまだ。」
 それからサイドミラーを見る,私は暇をしてる対向車線に書かれていることを反対から読もうとした。『50』,ということが書いてある,それがまたゆっくりと読めたから私たちの速さはそれより遅いかもしれない。私たちが進む車線の『50』もゆっくりと踏んで,動かないでサボっているような信号機が赤に近づく前にある『とまれ』という文字もきちんと止まっているのだった。
 運転手さんが運転する,私たちも勿論停まった。だけど誰も通らない横断歩道の上で,エンジンの音だけが響いた。
 がらんとした車内も,めいいっぱい広い。
「バス停に,止まったりすることある?」
 久し振りに舞い込んだ仕事を逃すものかと,赤信号はなかなか変わらないから私はただ聞いた。バックミラーで運転手さんは,きょとんを顔で表現してる。
「そりゃ,あるさ。勿論。それも仕事だ,お前さんを乗せた時もそうだったろ?」
 確かにそうだった。運転手さんが止まったところで,待っていた私は乗り込んだのだった。
「そうだけど,あっちじゃなくて,私以外で。」
 と私は質問をし直す。運転手さんは考えたいからとばかりに,ほとんどそのままに聞き返してきた。
「あっちじゃなくて,お前さん以外でか?」
「そう,あっちじゃない,私以外。」
 うーん,と唸って変わった青信号の道路の上に走らせて,もう一回「うーん,」と言って唸った。そしてそんなに居ないの,と思うぐらいの深さに聞こえる驚きがだんだんと浮かんできて,唸り声も消える。そこからまだまだまっすぐの道を真っ直ぐに見つめる運転手さんの『沈思黙考』というものには胡桃を鳴らして,思わず右の窓の外を見てしまった。黄色く咲いている花の一面に,翔んでいるチョウチョは数も目立って優雅に見えて,名指しされない雲もまたとどまる。左の窓のずっと向こうでは同じ景色の中で,姿を見せない何かが一箇所の花々を動かして低い土遊びをしていることをとてもアピールしていた。
 車が全体で少し跳ねたのはそういうところに,小石もあったみたいだった。
「あ,そうそう。あったあった,思い出した。」
 小石のおかげだった。
 思い出した,に掛かる時間はきっと長いものでそれはそれで数値として聞いてみたかったけれど,今はその中身。「どこで,誰を?」のことが知りたかった。だから,
「どこどこ,だれだれ?」
 と前のめりで聞いたのだった。
「どこか,は忘れたんだけどさ,」
「いいよ,そこは。」
 と言いつつ半分の興味が削がれたことをきちんと残念がって,でも諦めない。だったらなおさら,と思って「誰を」に興味は注がれていくから。
「雀だよ,雀。乗せたのは。」
 という答えに「えー…。」,とすごくがっかりしたのだった。
「いやいや,実際に乗せたからね。雀は。これは確かだからね。」
 と焦る運転手さん。
「えー,何で?」
 とイントネーションに残念らしさを引きずって聞く私。
「それは知らないよ,なんせ運転手だし。」
 と運転手さんは口を尖らせる素振りをみせても可笑しくない口調だったから,思いっきり背中を叩いた。「いてっ!」というその声,それでも乱れないその進路。だからもう一発はたき込んで私の期待と興味の仇を討ってから,話をすっかり戻した。
「で,どこから?」
 どこからでも届かない背中の痛みを,片手でさすろうと努力している運転手さんはバックミラーをちらちらと見ながら私に答える。
「え,だから覚えてないって。」
「違います,場所じゃなくて箇所。雀が入って来た箇所のことです。」
 ああ,それね,と納得顏の運転手さんにはバックミラー越しに睨みを効かせて,話を促す。運転手さんは右手の,特に親指を立てて強調しながらその箇所を示した。
「そこの窓から,ちゅちゅんって。」
 そこは私が座る運転席の真後ろの,今は閉めてるここだった。
 私は言った。
「それってさ,入り込んだって言わないの?」
 聞いて,運転手さんは言う。
「黙って入れば,そうだろうね。何の合図もなしに。」
 合図もなしに,というのは例えばバス停で待つ人が手でしたりする, 乗りたい意思を見せたりせうに,ということ。
「じゃあ,ちゅちゅんといった鳴き声が合図だったってこと?」
 とすぐさま私は聞く。運転手さんは「ああ,」という声を納得と漏らして訂正する。
「いや違う。鳴き声は,どっちかというと宜しくお願いしますって感じだった。」
 寧ろ,と速度に関するものと分かる,操作で言葉を切りながら運転手さんは言った。
「合図はきちんと別にあったんだよ。明るい最中,信号機の前で停車しているとき。」
 それから続かないおしゃべり,興味はじんわりとまた湧く。
「ふうん,どんな?」
 と聞いたけど,運転手さんは答えない。どうしたんだろう,を確かめようと見ればバックミラーのやんわりとしたことばが待っていた。
「横断歩道を渡る,お婆さんが居たんだよ。目が合えばお辞儀をされた。こっちもお辞儀をしちゃったんだけど,何だろうを考える前にさっきの雀,ちゅちゅんとね,入って来たというわけだ。まるでお出掛けを見送る,親類みたいだった。」
 「えー,」はまたしても残念という気持ちと,疑いを乗せて口を出る。私はその疑いを「偶然じゃないの,それ?」,と口に出して聞いた。バックミラーはまだまだと思いながら,不思議と見ていた。
 運転手さんはやんわりと,まだしていた。
「勿論そうかもしれないな。」
 それから,「ただ並べれば,というお話だな。」と言って運転手さんは運転に戻っていった。
 胡桃は重なり,袋の中でからっという,鳴らない『停車』のチャイムには私でも手が届く。温かいストールは少し邪魔かもしれない,お下げ髪は気になるかもしれない。けれど鳴らし方は教わった。押せばきっと,それで合図になるからと。
「ねえ,運転手さん。」
 聞く私。
「うん,何だ?」
 と聞く運転手さん。
「聞きたいんだけど,」
 と私は切りながら返事を待った。
「構わんよ。」
 と言って待つ,それも運転手さんだった。
「その雀は,目的地にきちんと降りた?」
 目的地,私にとってのそこは知ってる。雀のそこは,分からないけれど。
「うん,降りたな。」
 と運転手さん。前方を確認しながら,
「勝手に飛び立つかもしれないと思っていたけど,きちんとそこで,これまた停っているときに,ちゅちゅんってね。降りていった。」
 と言う。口を挟んだ私は
「飛んでった?」
 と聞いて,バックミラーは見なかった。運転手さんは
「いや,降りていった。律儀にね。短い間隔で,降りていったよ。」
 と言って指をさす,前方の乗降口は開いたりすることが得意そうに見えた。
「そこからね,面白いもんだよ。」
 そう聞いて私は見る。よく眼で笑う,運転手さんはそういう人かもしれないと思った。
「お金は?どうしたの?」
「やっぱそこは取らなかった,というより取れなかったな。」
 と頭を掻く仕草。気になっているのは運転手さんも同じみたいだった。
「無賃乗車?」
「そう言えるかもしれないな。まあ,内規をみたら,やっぱり乗せるお客は人を前提にしてるようだからこの際,お客様扱いにはしなくていいだろうよ,雀は。」
「じゃあ,同乗者?」
「『者』でもないからな,この場合。まあ,単に同乗してたってことで,いいんだろうな。」
 それから指示器を出す,『左』を示すそれは交差点を曲がるためのもので私たち以外に知るものがいない。正面の山々は近いような大きさを変えず,左右を彩る黄色は花として相変わらずに咲いている。
「ここを曲がる,でいいよな?」
 運転手さんはそう聞く。私は首を振って,
「私は知らないから。」
と言った。あ,そうだそうだ,という手の音。叩いた膝は私からも見える,乗降口に近いところ。
「行きたいところは,知ってるけど。」
 殻が軽い,胡桃の数は減っていない。袋ごとお腹の辺りで抱いて膨らみを割らないようにする。耳を澄ます。ゴリっと感じる。
「海が見えて,また海が見えるな,ここからは。それから登って,今度は山だな。違う景色に見える,違う山だ。それから真っ直ぐに戻って,あとは,曲がって少し,ああまた真っ直ぐだな。その時はもう日も暮れているだろうから,空が綺麗だぞ。そこも周りに街灯らしいものもないから。数でも数えて,若しくは寝てればいい。それから,」
「運転手さんは?」
 と話し続けてくれる運転手さんに言う。停車するまで速さを落として,それから曲がって,指示器が消えたら速さが戻って,私たちは走っていった。
「運転手さんは?」
 ともう一度聞く。バックミラーを見ないで,運転手さんは答えた。
「もちろん眠る,短い時間に切りながらだけどな。だから大丈夫。安心してろ。着いたら起こす。きちんと起こす。」
 だから,と続ける運転手さんの言葉は長々としたものとなっていって,細かく,一度に全部を覚えることは無理だった。それはよく曲がるし,またよく真っ直ぐに走る,運転手さんの前でその通りに再現できそうなのは迎える海の綺麗さ,立ち上がってこうして聞く事ばかりになりそうだった。
「ねえ,運転手さん。」
 と,だから呼びかける。
「何だ?」
 と話すことを途中で止めて,だから運転手さんが聞き返す。シートに手を掛けて,立ち上がったら立ち上がったらで胡桃はかたんと袋の中で嬉しく鳴って,大人しくなるのだ。丸くきちんと重なって,前の席の,何処かにぶつかって。
 指を差す,好奇心で。
「あれが海?」
「おう,あれが海だ。」
「じゃあ,あれは?」
「あれはな,」
 と聞く,あれはね,と。





 

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-04

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