遠い石鹸の香り

別に「強い性的表現」はしないつもりですが、風俗の話なんかが出てきます。
健全な小説では無いと思います。

ちょっと頭の弱い「かおるちゃん」と、
そのかおるちゃんを見守る「ゆりこさん」の回想なんかが書かれた物語です。

かおるちゃんは、我が家の隣に住む女の子だ。

埼玉県内にある、あまり栄えていない小さな都市の片隅にある、けして便利ではない区画の中に佇む古ぼけたアパート、名前は『シャルムまちおか』。
その202号室が私の部屋で、かおるちゃんは203号室に住んでいる。
201は実質空き室で(なんでも、住んでいたひきこもりが急に行方不明になって以来、その引きこもりの過保護なお母さんが部屋をそのままの状態にしておく為に毎月家賃を支払っているらしい)、
204は4がつくから存在せず、205は一人暮らしの中年サラリーマンがひっそりと暮らしている。
101には、1LDKなのに三人も子供を抱えた家族が住み、常に騒々しい。
102はその騒々しさのせいからか完全たる空き室、103には腰の曲がった単身者のおばあちゃん、
105には最近になってホームヘルパーの事務所が入った。
そんな八つの部屋が並ぶのが『シャルムまちおか』で、駅まで徒歩十五分程だろうか。

かおるちゃんは、電車で何駅かのところにある、所謂Fランと呼ばれる私立大学の二年生。
地元は群馬県なんだそうで、一人娘で、裕福なご両親から仕送りを受けている。
が、やはり遊ぶお金が欲しいのが若い娘さんというもので、
いつからだったろうか、あまりガラのよろしくない友達に誘われたらしく、
段取りについてまではよく知らないけれど『おじさん』とお茶をしてお金を貰うバイトをし始めた。
「えっ、それって援助交際とは違うの?」
と、私がダイレクトに尋ねると、
「違うよ、体の関係は持たないもの。」
と、かおるちゃんはさらりと答えた。
それでもまぁ、元締めが怖いお兄さんであることは間違いないよ、と老婆心に伝えてみたが、
「わかっているよ、でもだからこそ、おじさんがハメを外しそうになったら助けてもらえるの。」
と、あっけらかんとしていた。
勿論、群馬のご両親には内緒である。



私の夫は、単身赴任をしている。
と言っても、会社勤めとは違う。
そして、そこまで遠距離に暮らしているわけでも無い。
夫は、インディーズだけれどそこそこ有名なメタルバンドでギターを担当している。
メタルだけれど、別に顔を白く塗ってKISSみたいな感じでやっているのとは違う。
ここのところ流行り始めた、V系とメタルの融合!といったバンドにいる為、原宿に売っているような服を着て、
どこかのインコみたいな鮮やかな赤に髪を染め、
カラコン、時につけまつげをして(ちなみにメイク担当はヴォーカルの彼女の『あみたん』である)、
そういう格好だからこそ、若い女の子のファンが妙に熱狂的に持て囃してくれているのだ。
だから、敢えて離れて暮らしている。
やっと音楽だけで生活が成り立つようになってきたというのに、妻の存在がばれてしまっては、痛い結果になりかねない。
幸いにも私には、母親が遺したお金で家賃分くらいは払う余裕があるし、足りない分は派遣の試食販売の仕事がある。
離れて暮らしていることで浮気の不安は無いのか?と、事情を知っている人に訊かれることもある。
無くは無いけれど、実はあれでもう三十代半ばになる、お化粧を落とせば只のおっさんな、
しかも加齢による性欲の低下が著しい夫を、間近で見ている妻としては、
「やれるもんならやってみな、」
その言葉に尽きると、結婚五年目にしてつくづく思う。


「ゆーりーこーさん、」
電池切れ間近でかすれたチャイムと共に、かおるちゃんの呼ぶ声がする。
かおるちゃんは何故か私になついてしまっているので、暇になると我が家に来るのだ。
普通はそういうことって迷惑行為なんだろうが、一人で暇な私にとっては、妹までとはいかなくとも、親戚の女の子みたいなかおるちゃんを可愛く思っているのだ。
丁度ココアを入れたところなので出してやると、ずずずずっと音を立てて、かおるちゃんはマグカップを傾けた。
「ねぇ、ゆりこさん、」
「はいよ、」
「やっぱさぁ、援デリのが儲かるよね?」
「また言ってる、やめなさい。」
ぴしゃりと私が言ってのけると、かおるちゃんはえへへ、と間抜けな笑い方をしてばつが悪そうにする。
「だってさ、今月もお金ギリギリなんだもん。
少しでもさ、貯金とか作っておきたいじゃん?」
援デリというのは、完全な違法行為というか犯罪である。
出会い系サイトなんかで素人のふりをして男を引っ掛けて、援助交際のふりをして行為に及ぶ。
でも実は女の子にはちゃんとバックの存在があって、得たお金の半分とかをその元締めに渡す仕組み。
何かあれば『守ってくれる人』がいて、運が良ければ一日に何人も客を取れる、というのが女の子側の利点といったところか。
不景気をこじらせた日本で、とうとう風俗業界までが儲からなくなってきた昨今、
そういう犯罪にまで手を出さないと、体で稼ぐ事すらままならなくなってきたということだ。
でも風俗業界が儲からないというのは日本の浄化が単に進んでいるだけなのかもしれないし、
女性が健全な仕事で大金を得られる時代になるというのなら、それはとても幸せなことなのだけれど。
話はずれたが、かおるちゃんはどこで援デリの話を聞いてきたかはけして口にしない。
おおかた、今やっている『お仕事』の事務所で聞いてきた話なんだろう。
誘われてもいるのかもしれないが、踏み切れないところが、彼女に残るお嬢様気質のなすところなんだろう。

「じゃあさ、もうあのホストに貢ぐのやめちゃえばいいじゃない?」
「ホストじゃないよ、今は。」
「でもあれでしょ、まだ夜に働いてる人なんでしょ?」
「そうだけど、只のバーだもん。」
かおるちゃんは、リュウセイという男に入れ込んでいる。
元々同じ大学で、聞いた瞬間に私は笑ってしまったが『天文サークル』で出会ったらしい。
なんでかおるちゃんが天文、しかも髪を金にしてツンツンさせた男まで天文だったのか知らないが、
結構ガチで星を見ていたサークル仲間の中で、二人は完全に浮いていたそうだ。
やがて、リュウセイは突然大学を辞めてしまう。
心配したかおるちゃんが人づてに彼の行方を調べると、リュウセイは大宮の『セブンスター』というホストクラブで働いていることがわかったらしく、
ここで私はつい「どこまで星が好きなんだよ」と大笑いしてかおるちゃんを怒らせたのだった。
親との関係が悪かったリュウセイは奨学金で大学に通っていたそうだが、その生活に疲れ、夜の世界に流れた。
かおるちゃんはその時とっくにリュウセイに惹かれていたので、まんまと客になり、その頃から今の『お仕事』に就いた。
顔だけはそれこそ売れてるV系みたいに整っているリュウセイは、かおるちゃん以外にもたくさんのお客がいて、かおるちゃんは相手にされていなかった。
しかし、かおるちゃんが体を売るところまで落ちる前に、リュウセイは店のホストと喧嘩して、バーに移動したのだった。
「でもボーイズバーだから結局似たようなもんよね。
それもあってそんなにお金が足りないんでしょ?」
「そうだけど…でも前みたいに変な女がいっぱいお店に来るわけじゃないもん、」
その「変な女」とかおるちゃんが、リュウセイの中で別のフォルダに分けられているのかどうか、私にはけしてわからない。
ただ、本当に好きな女に貢がせる男がいたとしたら、そいつはどうしようもなく腐った男だと思う。
私は、そんなかおるちゃんをバカだバカだと思いながら、どうしても可愛がってしまう。

なぜなら、私も同じような、いや、もっとどうしようもない女だったからだ。
その生活から抜け出すきっかけとなった夫には、すごく感謝している。

「…君は僕の真っ赤なルージュぅ~♪」
歯の浮くような、でもよく意味の解らない歌詞の歌をかおるちゃんが口にする。
それは私が貸した夫のバンドのCDの一曲目だった。

夫のバンド「立川☆ミラージュ」は、只今ツアーの真っ最中。
大御所のメタルバンドからは眉をひそめられているであろうバンドだが、実はディスクユニオンなどで意外と売れているらしい。

花粉が飛んでいるようだ、鼻がむずむずする、まだ二月だというのに。
私には、この時期になると、思い出す人がいる。
「かおるちゃん、思い出話でもしていい?」
「うん、いいよ。」
我が家の猫脚のこたつの中で、ジョジョの漫画を読みながらどうでもいい感じでかおるちゃんが答える。
私も別に真面目に聞いてもらいたいわけでもないので、ではではと話し始めることにした。
かおるちゃんのストッキングが伝線していることが、少し気になりながら。


その時私は川崎市内に住んでいた。
繁華街のある中心部に住む財力も度胸も無かったので、南武線沿いの家賃の安い地区に住んで、電車で川崎駅まで行っていた。
川崎を深く知るところまで私もディープな沈み方をしていなかったので、わかるのは駅から少し外れたところにおっぱいを揉むお店があったことくらいだ。
残念ながら堀之内の場所さえ、私には曖昧で。
川崎駅まで行くと、黒いキャラバンが待っていて、そこでお店の人と合流するようになっていた。
当時の私は、そのままホテルにお呼ばれされて、いろんなことをしてお金をもらう仕事をしていたのだ。
「いろんなこと」の具体例としては、わかりやすく性行為なのが大半だったが、
コスプレをして写真を撮られたり撮ってあげたり、緊縛をされたりしてあげたり、はたまた単に添い寝でいいという人もいた。
単なるデリヘルより儲かるんだよこの方が、と、本当にやくざなのか不思議になるほど人がいいオーナーはそう言っていたが、真偽のほどは知らない。
私は当時お店で一番若く、二十一歳だったが十九歳の設定がまかり通っていた。
オーナーにつけられた名前は『みゆきちゃん』だったが、好きな名前ではなかった。
私はけして美人じゃないし、可愛くもないと思う。
ついでにまな板体型の見本としてモデルをしてもいいくらいの貧乳で、拒食気味だったので痩せてもいた。
しかし「痩せている」のと「若い」のと、この二つがあるだけで、今は知らないが当時はびっくりするほど喜ばれたのだ。
確かに、キャラバンで待機している顔ぶれは、もう「おねえさん」と呼ぶべき女性が多かった。
リリさんという、私にも良くしてくれていたおねえさんなんかは、多分もうすぐ三十代といったところで、二人の娘さんを育てるシングルマザーとも聞いていた。
「そんな風に思う必要もないくらいの美人なのに、」と私に思われているような人でも、
「みゆきちゃんは若くて可愛いからねぇ」なんて皮肉を言ってくるような世界だった。
若くて、尚且つ太っていない女の子がやけに少ない業界だったのだ、少なくとも当時は。
いや、少なくとも私がいた事務所が、の間違いかもしれない。
けれど、今現在より少しは景気の良かった過去の日本なら、おそらくだけれど若くて可愛くて太っていない子なら、別に体を売るほどの必要は無かったんだと思う。
キャバクラとか、そういうお水の世界で充分稼げたのではないか。


しかし私はと言えば、試しにキャバクラにも面接に行ったけれど、不採用だった。
華やかな印象を持たれるようなタイプではまず無いので、軒並み落とされたのだ。
今でこそ「普通の女の子」がお店にいる時代なんだろうけど、
私は間違いなく、当時、誰からも垢抜けない印象を持たれていたと思う。
運良くなのか運悪くなのか、たまたま出会った相手と寝た経験はあった為(援助交際ではなく、ネットで知りあった相手と何となく寝てしまった、というあっけないものだった)、
『お仕事』で処女を喪失したというわけではなかった。
ただ、特に好きでもない相手と何となく寝てしまったという経験が、私にハメを外させた部分はあると思う。
「誰と寝ても同じことだ」という、寂しい考えが私を支配していた。



垢抜けない少女はある時、片親である母と喧嘩し、家を出た。
行くあては無かったが、幾ばくかの貯金が尽きる前に、ネットカフェから都下の街にあるシェアハウスへ引っ越すことができた。
シェアハウスと言っても、東京都ではあるのに山深い土地にある汚い一軒家をこれまた汚らしい青年が借りているような所で、
私が住まうことになったのと入れ替えのように、若くて可愛いけれどどこか「駄目な人」の雰囲気を漂わす女の子が、へらへらとこう言いながら出て行ったのだった。
「私、ここの家主に言い寄られて、うざくなったから出て行くねっ!」
後に、家主はこの女の子に家賃をほぼ一年近く滞納されていたことを白状する。
まぁ、可愛い女の子と暮らすことと引換の家賃の滞納なら、まだ幸せだったんじゃないかと思えるが、
もう一人住んでいるはずの、家主の大学時代の先輩だという男の方は、理由も言わずしばらく帰ってこない為に、家賃を徴収できないとのことだった(結局、私が出ていくまでの数ヶ月間、私はその男に一度も会うことは無く、多分夜逃げしたんだろうと踏んでいた)。

「君が来てくれて、家賃を支払ってもらえるから助かるよ!」
と、家主はすごく喜んでくれたが、
もう寒い季節にもなったというのに未だ、ゲジゲジやら、規格外サイズの茶色い害虫がちょくちょく現れる上に、
洗濯も掃除もまともにしない家主が、事あるごとに「一緒に寝ようよ!」と下心を見せるようなシェアハウスに、いつまでもいる気なんぞさらさらなかった。
そんな家だから誰も定着しねーんだよ、と思った。
住んで二日目で、私はキャバクラに面接の電話をし、その日の夜に落とされた。
そんなことを何日か続け、ああもう「夜のお仕事で引越し代を稼ぐ!」という考えは甘かったのか、と考えた時、
ふと、高収入アルバイト雑誌の後ろ半分側のページに目がいった。

そうか、風俗か。

垢抜けない少女は実は、初体験の後も何度か、それぞれ別の男と寝ていた。
やっぱりネットで知りあった人ばかりで、一応お付き合いをした人もいたが、そんなに長くは続かなかった。
彼女がいる人もいて、やはり男の人というのは、彼女以外にも女を欲しくなる生き物なのだと、少女は悟っていた。
だから思ったのかも知れない、誰と寝ても同じだと。
愛情のあるセックスなんて、そんなのはそういう言葉の存在がいいようにヴェールを掛けて誤魔化しているだけで、
結局は、なんとなく男と寝てしまうような頭の弱い女の子を目の前にしたら、男はありがたく頂戴してしまうものなのだろう。

黒いキャラバンの事務所は、すんなりと私を受け入れてくれた。
なぜだか最年少だった私に付くお客さんは、寝ることよりも『コスプレしてえっちな写真を撮る』とか、
『放尿しているところをお風呂で見せる』とか、そういう本番行為以外を求める人が多かった。
勿論、本番は法律上許されたことでは無い。
でも大概の女の子が求められればそれに応えた。
応えないと生きていけない世界だったし、仮にうまくかわせたとしても、かわせられるような女の子はひと握りだった。
いくら設定が十九歳とは言え、よくもまぁみんな、私に甘かったものだなぁと今でも思う。
きっと私は、何もわからない子に見えたのだろう。
何もわからない、阿呆の子に見えていたからこそ、大切に扱ってくれたんじゃないかと思う。
だからこそ、店のおねえさんがたは、私を気に入らない部分もあったとは理解している。


私が黒いキャラバンに在籍するようになって数ヶ月、
丁度、南武線沿いに引っ越して、やっと三週間ほど経った頃だろうか。
花粉も飛び始めた二月なのに、その日は雪が舞っていた。
雪にもなるとお客さんも少なく、出てくる女の子も少ない。
私は一人暮らしが叶ってからも何となくお店に残って働いていたので、週に何度か指名をもらえるくらいにはなっていた。
そしてその日も、いつも呼んでくれる若くして課長だかの人に指名をもらっていた為、出勤していた。
その人とはとてもノーマルなプレイしかしなかった上に、優しくてちょっと面白いお兄さんといった感じで、ありがたいお客さんの一人だった。
「外は雪だし、一人じゃ寂しいじゃん?」
そう言ってこんな日に呼んでくれるとは、お店としても若課長さまさまだっただろう。
なんで彼女がいないの?と面と向かって聞いたことは無かったが、
もしかしたら彼女がいてもそういうことをしたい人だったのかもな、と歳を重ねた今ならそう思える。

2時間のプレイが終わり、笑顔で手を振ってホテルの部屋を出た。
いつもここのホテルのフロントには、毒々しいネイルアートの受付嬢が座っている。
あんな爪でどうやって米を研ぐんだろう、と思いながら外へ出ると、キャラバンの黒い体には雪が積もっていた。
キャラバンの中には、さっきまでいなかった女の子が乗り込んでいた。
「みゆきちゃん、会ったことなかったよね?
この子はさゆみちゃん、普段は服屋で働いてんの。」
ドライバーにさゆみと呼ばれたその人は、私とさほど年齢は変わらなそうだったが、さすがアパレル、といった感じのオシャレ感が漂う人だった。
「さゆみです、今日本業が雪だし早上がりになっちゃったから、店に出てきちゃった。」
さゆみさん曰く、都心の方は電車が動いていないらしい。
そういう時は店長以外早上がりにさせる店も、たまにはあるという話をしてくれた。
「さゆみちゃんはレアキャラだから、急遽出勤!ってサイトに書くと、客が付くんだよー。」
ドライバーのサガワさんが、ちょっと卑しそうな顔をしながらそう言って笑う。
「今もさ、予約入ったんだけど、客がまだホテルついてねぇの。」
さゆみさんは細くは無かったが、目がぱっちりとしてえらく美人な人だった。
髪からふわりといいにおいがして、私はさゆみさんの女子力につい、惚れ惚れとした。

さゆみさんはその後、無事に到着した客に六十分のコースを選ばれ、ホテルに向かった。
私はと言えば、どうやら今日はもうお役御免だったようで、サガワさんに南武線の運行状況を確認したもらった後、川崎駅まで送ってもらった。
古い南武線の車両の中で、私はもう一度、さゆみさんを思い出していた。
いつまでも垢抜けない自分が、なんだか気恥ずかしくなる。
そして、今度さゆみさんのお店で服を買おう、さゆみさんに服を選んでもらおう、と、心に決めたのだった。



「アパレルってさ、本業だけじゃいろいろ大変なんでしょ?」
ジョジョを読み終えたかおるちゃんが、こたつの上のかっぱえびせんに手を伸ばしながら尋ねる。
「店にもよるとは思うけど、そこのブランドの服を必ず着なきゃいけない、とかあるだろうしね。」
「だから、そのさゆみさんも『兼業』だったんだ、」
「最初はね。」
「最初?」
きょとん、としてかおるちゃんがこっちを見つめる。
あんたと一緒よ、と言いかけて、さすがにその言い方は良くないか、と思いとどまる。
「あのね、うん、さゆみさんには、貢ぐ相手ができたの。」
「…ああー。」
とたんにかおるちゃんの表情が、痛いところを突かれました!と言いたげにくしゃくしゃになる。

そう、あの頃の女の子達も、今とあまり変わらなかったのだ。

今考えれば、
風俗での同業の女の子など、普通は本業の職場とかの『プライベート』に関わらせたくないものだと思う。
しかし、再会した日のさゆみさんは、恥じらいながら「今度さゆみさんの店で服を選んで欲しい、」と告げた私に一瞬目を丸くした後、大声で笑い「いいよ!」と返事をしてくれた。
「なんかもう、みゆきちゃんはちょっと変わってて、かわいいなぁ。」
さゆみさんは私より二つ年上だと言う。
父親はなんと警察官で、小さい頃から何となく実家に居心地の悪さを感じていたという。
「八王子に住んでてね、わりかしいい高校も出たんだけれど、
私ね、親が望むほどの賢さは持ち合わせてなかったのよ。
浪人してまでしてそこそこいい大学に行くことを望まれたけれど、
結局、私にやる気がなかったのもあって、二浪が決まった時点でもう、家を出ちゃった。」
さゆみさんには当時、先にとある法学部に入学していた同い年の彼氏がいたんだそうだ。
その彼氏が都内で一人暮らしをする部屋に居着く形で、とりあえずの住まいが決まったのだった。

しかし、彼氏は大学で浮気をした。
その当時、さゆみさんはコンビニや居酒屋でバイトをし、二人でもう少し広い部屋に住めるようにと、貯金を頑張っていたところだった。
「学生とフリーターの関係じゃ、何かが違っちゃったんだろうね。
浮気相手の女の子に完全に彼を奪われちゃって、仕方なく私は、部屋を出ることにしたの。」
その時に店舗型の風俗に入り、寮に住まわせてもらい、必死で働いて貯金をし、やがて一人暮らしを始め、店を店舗型からこの黒いキャラバンの事務所に変え、本業もアパレルに転職…というところまで生活を立て直したのだと、さゆみさんは緑のマルボロに火を点けながら話してくれた。
「なんかね、浮気されてからいろんなことがどうでも良くなって。
いや、どうでも良くなったんじゃなくて、悔しくなったのかな。
悔しいから、いろんな男と寝る仕事を選んだのかも知れない。」
そこでさゆみさんは客に付く時間になったので、私たちはメールアドレスを交換して別れた。

次に会った時、その場所はさゆみさんの働く服屋だった。
中央線沿いの駅にある、そこまで大きくは無いビルの中に、さゆみさんの服屋が入っていて。
若者向けで、そこまで値は張らない、OLも学生も着られそうで、土日には人が混み合いそうな店だった。
さゆみさんは私に、白いチュールのスカートを選んでくれた。
まるでバレリーナの履くような、夢見る少女みたいなデザインでちょっと照れくさかったけれど、
彼女は他の店員に聞こえないように私の耳のそばで、
「これ、みゆきちゃんのイメージにぴったり。
これ履いて出勤したら、お客さん、絶対次も指名したくなるよ!」
と楽しそうに言ったので、私もついつい笑ってしまった。

アパレルスタッフとしてのさゆみさんは、どこからどう見ても、普通の店員の姿をしていた。
この人が、夜になると時々、ラストの時間まで客を取っている風俗嬢には、とても見えなかった。
やがて私たちは、まるで姉妹みたいに仲良くなった。
私のアパートに、さゆみさんが泊まりに来ることもあった。
出勤日と時間をわざと合わせることもあったし、そういう日は大概、閉店した途端にサガワさんと三人でラーメンを食べに行った。
その時私は、何となく、その行きつけのラーメン屋の店員のおにいさんに淡い恋心を抱いていて、
それを知ったさゆみさんに冷やかされたりもした。
あんな夜中、というかもうすぐ朝の時間帯にラーメン屋に来る女なんて、普通の職業じゃあ無いことくらい、あのおにいさんだって気づいていただろう。
だから私は、あの不器用そうな雰囲気の、少しきつい目をしたおにいさんのことを、本気で好きになろうとは思っていなかった。
ただ、さゆみさんと(おまけのサガワさんと)、あのおにいさんのラーメン屋さんに行く時間が、本当に幸せだった。
ずっと続いて欲しいと思っていた。
「みゆきちゃんは可愛いもんよね、ラーメン屋さんならラーメンを食べることが何よりの『献上』だものね。」
いつだったか、さゆみさんがそう言ってほんの少しため息をついた時も、私にはまだ、その意味するところがなんだというのか、理解できていなかったのだ。



さゆみさんがホストに入れ込んでいることに気づいたのは、しばらく彼女が出勤して来なかった月が明けた時だった。
レアキャラ度は相変わらずだったが、私と仲良くなってからは、さゆみさんは週1くらいで出勤するようにしていたはずだった。
「本業をね、辞めてきたの。
引継ぎで忙しくって、しばらくこっちに来れなかったんだ。」
出勤前に寄ったスターバックスで、さゆみさんは唐突にそれをカミングアウトしてきた。
「好きな人がいるの、」
「好きな人?彼氏じゃなくて?」
「たまにね、ホスクラ行ってたんだ。
服屋の仕事もラクじゃなくてね、ストレス解消にさー、仕事上がりに歌舞伎町まで行ってたの。
そこでね、好きになっちゃった人がいてね。」
一緒に携帯からそのホストクラブのサイトを開くと、作り物みたいな男の人の写真がいくつも出てきた。
その中に黒いスーツをびしっと着てポーズを取った、少し冷たそうな顔つきの男の人がいて、
さゆみさんはまるで中学生の初恋みたいに恥ずかしそうにしながら、
「これがね、彼。」と微笑んだ。
「ユウジって言うの。」
ラーメン屋のおにいさんとは生きている次元が違うのが、あからさまな男性だった。
ホストに入れ込む風俗嬢は珍しくなかったから、私はさゆみさんが足を踏み入れた『泥沼』の臭いにすぐさま気がついた。
ああ、さゆみさんまであっちに行ってしまったんだ。
「それでこっち一本にして、いっぱい稼ぎたいんでしょ?」
『妹』の問いに『姉』は無邪気に「そう!これから一層頑張っちゃうんだから!」とガッツポーズまでしてみせる。
でも、私はさゆみさんの本当の妹じゃ、無い。
きっと、本当の妹なら「やめなよ、ホストなんて!」と、姉を止められたんじゃないかと思う。
私には、さゆみさんを止める勇気は無かった。

―いや、どうでも良くなったんじゃなくて、悔しくなったのかな。
悔しいから、いろんな男と寝る仕事を選んだのかも知れない。

そう口にしたさゆみさんを、私は忘れられなかった。
さゆみさんは、そのユウジというホストに、少なからず希望を抱いているはずなのだ。
元彼に絶望を与えられた後、やっと手にした新しい恋という希望。
だって、私の手にだって、今、それがあるのだもの。
さゆみさんと行くラーメン屋の、あの無骨な感じのお兄さんを、私も、見ているだけで幸せなんだもの。

初めて男と寝た日。
適当に入ったラブホのシーツに、驚く程広がった私の赤い血。
痛くて痛くて、でもなんとなく誇らしくて。
けれど、男は果てたあと、すぐにシャワーを浴びて「明日も仕事なんだ」と微笑んだ。
ああ、終わったんだ、と意識するには十分だった。
私はこの人にとって、ただの道具に過ぎなかったんだ。
でも私だって、この人に「処女を奪ってもらう」ことを望んだんだ、ギブアンドテイクだったんだ。
虚しさなんて、感じたら逆に失礼だ。
好意を抱くよりももっと手前の感情だったけれど、
「もし抱いてもらえたら、次も大事にしてくれるんじゃないか」などと、私はきっと、期待していた。
翌日も膣の中に異物感が残っていた。
でも、誰のものだって、入ってしまえば変わらない気がした。
だからまた適当にさまよった。
たまに人を好きになり、相手にも好いてもらった。
けれど些細なことで嫌われて、取り繕おうと必死になるとうざったがられた。
やけになってまたさまよって、彼女のいる人を誘惑して、寝て、また虚しくなって。

おにいさんを想うときには、そんな虚しさはこみ上げてこない。
だって、私たちは只の店員と客の関係だもの。
おにいさんと寝ることなんて、私にはありえないもの。
だから、幸せだった。
だから、さゆみさんを否定することなんてできない気がした。
貢がなくったって、相手がホストじゃなくたって、あのおにいさんに会いたくなる私は十分、さゆみさんと同じだと思った。
さゆみさんからユウジを奪ったら、さゆみさんはどうなってしまうだろう。
そう思うと、私はどんなに『泥沼』からの異臭に鼻が曲がってしまいそうになっても、さゆみさんを見守ることしかできないと思った。
私は優しくない妹だ、ひどい妹だ。
でも、さゆみさんが少しでも幸せならば、その儚い幸せを、守ってあげたいと思ったのだ。

レアキャラ返上宣言後、さゆみさんは、私以上に出勤するようになった。
黒いキャラバンの事務所は、午前勤と午後勤に分かれていて、午前勤というのは昼前くらいから夕方にかけて、主に子持ちのおねえさんだったり、人が足りない時は私だったりがシフトに入っていた。
午後勤はそれこそ夜の時間帯、この世界に慣れきった人が多かったし、勿論儲かるのはこの時間帯だった。
ちなみにラストは午前二時、客のプレイ時間が長ければ、すっかり空が明るくなる頃に帰ることもあった。
私は自由に動ける身だったので、午前勤も午後勤も、強制はされなかったが大体店の都合に合わせて入っていた。
それでも週三か四勤務くらいで、休みの日はぷらぷらと都内に出ては、原宿なんかを見てぼんやり過ごしていた。
自分の手取りを意味するバックが驚く程安い店だったので、私の収入は月に三十万を貰えるかどうかといったくらいだった。
きっと世間一般からは「嘘でしょ、風俗嬢ってもっと儲かるでしょ?」と信じてもらえないに違いない。
けれど実は『バックが安い』=『客が支払う額が安い』が成り立つからこそ、下手に高額設定している店よりは十分に儲かったのだ。

世の中はその頃とっくに不景気に取り込まれていたから、
西暦二千年代初頭に夭折した風俗嬢作家が著書に「自分は大体これくらい稼いでいたよ!」と書いていた金額を見ても、
私は「ああ、この頃は儲かっていたんだな、今より景気が良かったんだな」と、
まるで高度経済成長期の日本を「いい時代だった」と思う人と同じような感想を抱いたものだ。
気づけばホストが歌舞伎町を闊歩し、お水やお湯の女の子からたくさん貢いでもらうようになって、
夜の代名詞は、完全にホストに成り代わったように私には思えていた。

私は当時大きな借金も無かったし、生活する分+αがあれば十分だった。
それでもこの世界にいたのは、実家にいた頃、鬱をこじらせてほぼ働けずにいたからも影響していた。
不登校気味だった高校をどうにか卒業し、近所のスーパーのレジ打ちをしていたが、
どんくさい自分は、パートの子持ち主婦から良く思われず、気づいたら病院で心の治療を受ける羽目になっていた。
それからは単発の派遣でくらいしか働けなかった。
たまにネットで誰かと出会っては憂さ晴らしをするくらいで、そういう娘の様子に、母がキレた。
そうキレられても、母は母で不倫をこじらせた主婦であったものだから、私は実家にいるのが本当に嫌になっていて。
ある日の喧嘩をきっかけに、私は家を出て、前述の通りにことが進んだのだ。



さゆみさんは、気づけば週のほとんどを店で過ごし、ユウジが店に出ない日なら、自分はオープンからラストまでキャラバンの中で過ごすようになっていた。
「やだー、今日肌が汚い!」
座席に座り、年季の入ったシャネルのコンパクトを覗き込みながら、さゆみさんが言う。
最近あまり美容室に行っていないのか、きれいにしていた髪は伸び放題になっていた。
「明後日さ、ユウジのバースデーイベントなの。」
その後さゆみさんがいくら必要か口にした値段に、私は唖然としたけれど、顔色を変えないように必死に努めた。
それでも、辛いけれど幸せそうにしているのだけは、わかったから。
本当は、辛いんだと思う。
働いても働いても、手にしたお金はすぐに消えてしまう。
それでも、彼女からユウジを奪ったら、さゆみさんの生きがいは無くなってしまうのだ。
そういう女の子は、何人かキャラバンの中にいた。
だから周りのみんなも、もう慣れたものだった。
諌める人間なんか皆無だった。
そして大概、この事務所での限界を感じて、堀之内とか吉原とかに落ちていく。
そう、そこはソープ、はなから本番行為が当たり前の場所。
バックがここより高いけれど、その分負担が高まる場所。
この事務所は、あくまでデリヘルの体を取っている。
だから最初から本番行為を求める客は、一応いない。
勿論それを求めてくる客も多いが、それには『口止め料』的なお金を握らせてくるのが当たり前だ。
もしくは何時間も女の子を予約して、その分かかる金額が口止め料代わりだったり。
店側も実はそういうことを黙認しているのだから、それを断れる女の子など、ほとんどいない。
けれどあまりにも無理難題をふっかけてくるようなら、すぐにキャラバンからサガワさんらを呼べるし、
そもそもこのキャラバンの客は、ありがたいことにそれほどひどい人も滅多にいなかった。
『希望するプレイができますよ♪』と歌っていても、それなりのオプション代が決まっていたし、
プレイ内容も、電話予約時点で店側が客にきちんと確認している。
あの優男にしか見えないオーナーは、実はかなり出来る人なんだと思う。
だから、もしかしたらすごく怖い人だったのかも知れない。

さゆみさんはガツガツと客を取り、閉店後にはその足で歌舞伎町に向かう。
川崎駅からタクシーに乗り、見送る私にひらひらと手を振る。
夜の蝶、なんて綺麗なものでは無い。
それは死にかけの蛍が、最期に乱舞して描くぐにゃぐにゃした歪んだ線のようで。
爪が伸びたところが目立ってしまったさゆみさんのネイルの先を、私はぼんやりと見つめた。
ひらひら、ぐにゃぐにゃ。
きれいだった指先が、光を失いかけていく。
あの二月の雪の日に見たさゆみさんは、まさしく蝶のように美しかったのに。

もう、ラーメン屋に行くことも久しく無くなっていた。
きっとさゆみさんとは、もうここには来られないのだろう。
私はふらふらと一人で、深夜のラーメン屋に入った。
店には客が一人もいなかったが、あのおにいさんは、相変わらずそこで働いていた。
とても久しぶりに会ったけれど、おにいさんだけは変わっていなかった。
おにいさんは注文を取った後、一瞬だけ私の顔を覗いた気がした。
きっと「今日は一人なんだな、」と思ったに違いない。
出来上がったラーメンに、いつもは一つしか入っていない煮玉子が、もう一つ入っていた。
「え、」と思っておにいさんを見ると、
彼は私の視線に気づけど、こちらを見ずに「…サービスです、」と告げた。
胸がぎゅっとなった。
知られるはずが無いのに、私と、遠くなったさゆみさんのことを、理解されている気がした。

私はその後、もう二度とそのラーメン屋に行くことは無かった。
終わってしまったのだ、私の楽しかった日々は。
それに、私だけでも終わらせようと思ったのだ。
甘ったるい、子供みたいな片想い。
私はおにいさんと結ばれることが許される身では無いのだ。
もっと辛くなる前に、私だけでも終わらせるんだ。
ほんの少しだけ、願掛けとして考えていた。
私がこの恋を終わらせれば、
さゆみさんの辛い恋も、終わらせることができるのだは無いかと。

本当は、解放されて欲しかった。
元のさゆみさんに戻って欲しかった。
もう頼めるものは、そんな神頼みみたいな力しか、残っていなかった。

「…それで?さゆみさんはどうなったの?」
その頃にはもう、かおるちゃんは私と敢えて視線を外すようにしていた。
そりゃあ、心に痛いことだろう。
使った金額は桁外れに違えど、せっせとリュウセイのバーに通うかおるちゃんは、さゆみさんと同じたぐいなのだから。
「気づけば連絡も来なくなったし、私はその頃午前勤にばかり入れられるようになっていたから、
飲み明かして潰れて眠って、夜も更けた頃に活動再開するさゆみさんとは、仕事でも会わなくなってね。
本格的な疎遠になった頃、サガワさんからさゆみさんが飛んだことを聞かされた。」
かおるちゃんがきゅっと口を一文字に結んだのがわかった。
飛ぶ、つまりは勝手に店を辞めたのだ。

とっくに着信拒否もメール拒否もされているに決まっていたから、私は敢えてさゆみさんに連絡を入れようとは思わなかった。
たまたまキャラバンに私とサガワさんだけが残った日、サガワさんは私にミンティアを差し出しながら言った。
「俺もさ、褒められた生き方してきてないから、あまり人のこと言えないけどさ。
ああやって金ふんだくられてまでして男にすがる女の子を見てると、ひっぱたいてやりたくなるの。」
サガワさんが珍しくきつい表情を見せる。
いつもおちゃらけて、この人絶対まっとうな仕事に就けないだろうな、と誰からも思われるようなサガワさんだったが、その時は私に、かなり真剣な眼差しで話してくれた。
「俺さ、刑務所に入る前に離婚したの。
まだ二歳になったばっかの娘がいたんだけど、こんな父親じゃどうしようもないから、縁も切ったわけ。
でもさ、もしも娘が体売って男に貢いだりしてるなんて考えたら、怒りを通り越して頭が真っ白になる。
せめて自分の幸せの為に使うとか、リリちゃんみたいに母子家庭でやってかなきゃなんないって言うんなら、まだいいさ。
男の性欲満たしてやって、惨めになるようなことしてまで稼いだ金をさ、
自分に振り向きもしない野郎の為に湯水のように使うなんてさ…ありえねーよ。」
なんでサガワさんが前科持ちだったかまでは知らない。
でも、財布の中に可愛い赤ちゃんの写真が入っていることは、こないだサガワさんが自販機を使おうとした時にたまたま見えたから知っていた。

実家を出た頃から、私はあまり物を食べられなくなっていた。
深刻な拒食症では無く、一日に一食はきちんと物を食べられる程度の症状だったが、
裸を見た人に「もっと太らなきゃ色気も感じられないよ、」と言われるくらいに、私の身体は痩せていた。
本格的に食べるのが面倒な時は、ゼリー飲料とかグミとかヨーグルトとか、お菓子のようなものしか口にしなかった。
そんな私を心配して、さゆみさんは、あのラーメン屋に行こうと誘ってくれたのだ。
さゆみさんが絶品と評価するあそこのラーメンは、本当に美味しかった。
私に、忘れかけていた食べ物の美味しさを思い出させてくれた。
淡い恋心も芽生えさせてくれた。

そんな日は、もう、遠い昔に過ぎ去ってしまったのだ。

その後のさゆみさんのことを、私は知らない。


「ゆりこさんは、さゆみさんがどうなったと思ってる?」
かおるちゃんが、少ししょぼくれた雰囲気を漂わせながら尋ねる。
「間違いなく、もっと儲かる店に行ったでしょうね。
それがソープかデリヘルか、そういうところまではわからない。
もし本気出してネットで検索すれば、どこかでAVでも出してるかも知れないし。」
今も彼女がそういう性質を変えていなければ、それこそ援交デリヘルにでもいるのかも知れない。
かおるちゃんが「やっぱ怖いなぁ、夜の世界って。」と言うのを聞いて、私は少しほっとした。
たまにこうやって、私の過去を小出しにしてかおるちゃんを脅さないと、彼女はあっけなく体を売ってリュウセイに貢ぎそうだからだ。
でも、私ができるのもこれくらいのことだけ。
もしもかおるちゃんがその気になれば、いつだって夜への扉は開いている。
扉に手を掛けてしまったらもう、私の言葉などかおるちゃんには届かないだろう。

この間夫のライブが川崎であった時、久しぶりにあのラーメン屋の前を通ったのだ。
そこは既に、妙に可愛らしいお菓子屋へとその姿を変えていた。
あのおにいさんとはえらくかけ離れた雰囲気の、まさに草食系スイーツ男子、といった雰囲気のなよなよしい若者が、店頭に立っていて。
私は時の流れを感じながらも、どこかほっとした。
きっと、ユウジももう歌舞伎町にはいないことだろう。
人は変わっていく。
変わった方がいいことだって、たくさんある。
私は、願わくばさゆみさんが風俗業界を去っていることを、と胸の中で呟き、足早にお菓子屋の前を去った。

下の階のおばあちゃんがお米の袋を運ぶのに困っていたので、手伝ってあげた。
すぐ隣がヘルパーの事務所だというのに、なんだか皮肉な話である。
「悪いねぇ、ああこれ持って行きな。」
腰が曲がっているのに、未だヘルパーも頼まず一人で生活しているおばあちゃん。
彼女がぐっと突き出したその手には、少し皺のできたみかんが握られている。
「ありがとう、これ食べれば風邪ひかないね!」
もうきっと少し腐っているんだろうな、と思いつつ、私は嬉しそうに受け取っておいた。
「ゆりこさーん!」
学校帰りのかおるちゃんが駆け寄ってきて「あ、みかんだみかん!」と目を輝かせる。
「お姉ちゃんも持っていくかい?まだあるよ。」
「ほんと?いいの?ありがとうおばあちゃん!」
無邪気なやりとりに、若者の負担が大きすぎる高齢化社会である現実も、シャルムまちおかでだけは嘘のように感じる。
ついでに三人も子供がいる家庭もあるのだから、少子化問題というのも別次元の話みたいだ。

こたつで二人でみかんを食べながら「ここだけ別次元」という連想から引っ張り出した涼宮ハルヒの憂鬱のDVDを見る。
「…なんか、難しくてよくわかんない、」
「大丈夫だよかおるちゃん、私もよくわかってないから。」
やっぱりみかんは少し腐っていた。
「ねぇ、なんかまた、ゆりこさんの昔話が聞きたい!」
唐突に、かおるちゃんがリクエストを寄越してくる。
私の昔話は、果たして彼女の戒めには、本当になっているのだろうか…少し不安にはなるが、
私自身、頭の中にたくさんの『過去』がインプットされてなかなか消えないため、時々整理したくなるのだ。
多分私は、人より記憶が薄れづらい。
今日のおかずのお買い物、とかそういうものはすぐ忘れて失敗するというのに、
例えば、昔スーパーで働いていた時は、客の顔を大概忘れなかった。
だから「あの人こないだもシイタケ買っていったな、」とか、
「あの人こないだ三丁目の方で犬の散歩していたな、」とか、すぐ思い出せた。
応用して夜の仕事でなら「この人はこのプレイが好き」とか、二度目のお客様にすんなり対応できたのだから、そこは損な機能ではない。
けれどなかなか『嫌な記憶が薄れない』ところもある為、それもあって鬱をこじらせたんだと思う。
寝たらケロっと忘れられる人とか、私からしたら恵まれすぎた才能だ。

「じゃあ、おばあちゃんとも触れ合ったし、介護員さんの話でもしよう。」
「え?何それ?」
「詳しくは聞かなかったけど、千葉のどこかの施設で介護員として働いていた女の人の話。」

それは、私が黒いキャラバンの事務所を辞めた直後、ほんの少し在籍していた愛人バンクでのお話。



キャラバンの事務所のオーナーが何かをやらかして捕まってしまった夏、
キャラバンは急遽閉店せざるを得なくなってしまった。
でも私は、たまたまサガワさんのツテで愛人バンクに登録することができて無職にはらなかった。
でも、それに名前をつけるなら『愛人バンク』だっただけで、実際のところはそれを『愛人バンク』と呼んでいいのかわからない。
五反田の小さなアパートの一室が事務所のようになっていて、
そこの持ち主兼バンクのオーナーは、アイさんという三十代間近の女性だった。
アイさんは童顔すぎて年齢不詳だったが、タスポを使おうとしている時、生まれ年がちらっと見えて、その実年齢と見た目の差に、私はぎょっとした。
「ここはね、寂しいおじさま方に女の子をあてがってあげる店なの。」
アイさんはご丁寧に、ネットを通じておじさまを拾っては、面接までして、女の子をあてがう。
「だからとっても安全だし、いざとなったら強面の男性も呼べる。」
そう言えばサガワさんが、アイさんのことを「昔AVに出ていて、その頃のツテで今は雇われオーナーをしている」と話していた。
だからきっと、ここにも元締めがいるのだろう。
私には、ノボルさんという四十代後半のおじさまを紹介してくれることになった。
「合わなかったら言ってね、ここは女の子優先だから。」
アイさんが微笑む。
全く、よくわからない世界が広がっているものだ。
アパートは『ゆうかり荘』という名前で、少し貧乏そうな人たちが他に入居しているようだった。

アパートを出、電車で吉祥寺まで向かう。
なんで吉祥寺なんだろう、とも思ったけれど、私は御徒町や鶯谷の辺りがなんとなく苦手だったから、吉祥寺で良かったかもと思い直す。
待ち合わせ場所で目印を確認して、ノボルさんと合流した。
なんとも普通のおじさまで、臭かったり汚かったりすることもなくて、アイさんの仕事の丁寧さを感じた。
何故かラーメン屋に誘われ、ラーメンを食べてからホテルに向かった。
愛人ってもっと豪華なお食事に連れて行ってもらえるイメージだったが、拍子抜けするほどノボルさんがいい人だったので、何だかそれもどうでもいいことに思えた。
ホテルでも、至って普通のことしかしなかった。
終わってからもぐだぐだとDVDを見たり、備え付けのカラオケでノボルさんが演歌を歌ったり、冷蔵庫のジュースを飲んだり、
ホテルを出ても「また会おうね!」と言われて三万円も握らされたりで、
私は何だか「これでいいのだろうか…、」と、腑に落ちない位にのんびりと過ごさせてもらえたのだ。

「ありがとう、おじさますっごくあなたのこと気に入ったみたいで、お礼のメールが入ってたわ。」
ゆうかり荘に帰ると、アイさんが上機嫌で私を出迎えてくれた。
「…こんなんでいいんですか?」
「たまたまあなたとあのおじさまの相性が合ったからよ、みんながみんなうまくいくわけでは無いの。」
そしてアイさんは、私を何故かぎゅっと抱きしめた。
この人はもしかしたら、女の子もいけるクチなのかも知れない、と私は思った。
「でも、あまり長くここにいるとダメ人間になってしまうから、派遣の仕事でも両立させておくといいわよ、」
「え?」
アイさんの意外な言葉に、私はきょとんとする。
「だって、いつまでもこんなことでお金をもらっていたら、社会復帰できなくなるもの。」
「…確かに、」
社会復帰、という言葉があまりに遠い私には、それは少々心を痛くする助言だった。
「私もね、これが本業じゃないのよ。」
アイさんがやっと私から体を離しながら、言葉を続ける。
「私ね、こう見えて介護の仕事をしているの。」


「幸せになる為には、いつまでもここにいてはいけない。」
当時、アイさんが私に会うたびに、口をすっぱくして言っていた言葉だ。
アイさんは風俗を転々とし、何本かのAVに出た後、資格を取って介護施設に就職した。
でも介護業界は給料が低く、一人暮らしをするのがぎりぎりの状態で困っていた時に、
AV時代の知人から、このバンクのオーナーになる話を貰ったそうだ。
「私がやるべきことは、少しでもいいおじさまを紹介し、女の子の負担を減らすこと。」
でもいずれは介護一本で生活していきたいと、彼女は笑った。
「だってね、大きな声で言える仕事じゃないんだもの、こっちは。」
確かにそうだ、こんなの援助交際と何ら変わりないのだから。
「私は映像として記録に残るものに出てしまったから、世間から完全にこれらのことを消すのは難しいけれど、
ミオちゃんにはそういう記録したものが無いでしょう?
いずれちゃんとここを卒業して、幸せになるのよ。」
ミオというのが、ここでの私の名前だった。

幸せって、なんだろう。

一瞬、さゆみさんがいた頃に通っていたラーメン屋を思い出す。
そうだ、私はあそこのおにいさんと、生きている世界が違っていた。
だから遠い存在すぎて、あのおにいさんを想うことすら間違いだと感じていた。

私が幸せになるには、やはり、この世界から出て社会復帰することが必要なのだろう。
でもその『社会』に、私の居場所なんて、果たしてあるのだろうか…?

遠い石鹸の香り

遠い石鹸の香り

どこにでもいる駄目男好きな女の子と、 その彼女を見守る、元(今も?)駄目女の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-02-04

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