長い夜。
【紅葉・花魁・悲恋】
夜が長く感じるのは何故なんだろう。教室で将来何の役に立つのか見当もつかない知識を付けさせられている退屈な昼間よりも、夜はずっとずっと長く感じる。俺は母さんが作ったチャーハンを黙々と口に運びながら、賑やかすぎる店内を見回した。間接照明だけの薄闇をミラーボールのカラフルでチープな光が、縦横無尽に切り裂いていく店内には中年以上の男の客が8人。
母さんが、爺さんの喫茶店を改築して始めた、この小さなスナック「紅葉」では、母さんと数人の若いホステスが接客をする。俺の父さんは、母さんがこの店を始めてすぐに家を出て行った。
当たり前だ。自分の好きな相手が、それも妻が、水商売をする姿なんて見たくない。
「お茶、持ってきてあげようか。」
通りかかったバイトのミホが見え見えの愛想笑いで話しかけてきた。濃い化粧と、食べ物や酒の匂いに交じって凶悪さを増した香水の匂いが鼻に着く。俺は皿に残ったチャーハンを口の中に掻き込んで無愛想に「いらない。」と答えた。よくこんな店で働くな、と思う。おっさんに媚びて、年下の、客でもない俺にまで媚びて、虚しくならないのだろうか。
「マオ、ご飯終わったら手伝ってね。」
カウンターの奥のキッチンから、母さんが顔を覗かせて言う。俺は小遣い稼ぎに皿洗いの手伝いをする。
「マオ君これもお願い。」
カウンターからリサが皿を持ってきた。腕まくりしたエンジ色のニットから見える肌が、白く浮き上がっているように見えてハッとする。細い腕だ。俺は目をそらして皿を受け取った。
リサは2年くらい前からバイトしている大学生で、卒業したら東京に行くらしい。そのために、お金を貯めていると言っていた。バイトの中では最も古株で、母さんも気に入ってなにかと世話を焼きたがる。俺の高校受験の時には家庭教師をしてくれたり、一緒に合格祈願に行ってくれたりした。
時々、俺とリサは店の買い出しや個人的な買い物で一緒に出掛けた。照れくさい反面、どうしようもなく浮かれてしまうのは、リサが美人だからだろう。色白で細身で、切れ長の目と薄い唇は厚かましくない。それでいて、化粧映えする顔。花魁みたいな派手さはないが、ミホや同年代の女子たちがするような安っぽさもない。
「東京のお店で一流のホステスになるのが夢なの。」
ハニカミながらも、迷いのない笑顔でそう言ったリサに、俺は笑い返せなかった。
たぶん、俺はリサが好きだった。
たぶん、これが初恋だった。
恋をしたことはなかったが、リサを見ているときや一緒にいるときに泡みたいに湧き上がっては弾けて消えていく感情を「恋」だと思うとなんだか妙に腑に落ちた。
しかし、だとしたらこれはきっと「悲恋」だ。リサが客のおっさんに笑いかけるとき、隣に座って楽しそうに話しているとき、肩に手を置かれているとき、俺は叫び出したいみたいな、泣き出したいみたいな、わけのわからない気持ちになる。怒りと悲しみが一気に押し寄せるみたいな気持ち。家を出た父さんも、こんなどうしようもない気持ちだったのだろうか。
母さんの一際甲高い笑い声が耳の奥までビリビリと響いて、夢を語ったリサの顔が脳裏で蜃気楼のように揺れた。
今日も夜は長い。
長い夜。