花は揺れ花は微笑み
歩き続ける…それでも
1
「本当?」
明(あきら)は机に手をついて立ち上がった。
未夜(みや)は頷いて彼女を見上げる。
明の白いセーターから覗く制服の水色のリボンや、清潔なワイシャツ。その上のアーモンド目をした明を。
セントブル高等女学校。
二年で転入してきた明はそれなりに可愛がられていた。
黒いスカートからにゅっと出る脚に黒いハイソックスとローファーでいつも肩にカバンを担ぎ廊下を走って現れる。
いつでもシスターに窘められてすまなそうに頭を上目で下げるけれど、翌日には急いで走って現れた。
声が大きいためにいつでも数人が驚いて顔を上げたり、外の世界に彼氏がいるような子は冷たい目で一目をくれて彼女達の話題に戻っていった。
未夜は柔らかな手に手を重ねて落ち込む明を座らせる。
「まだクラスで報せたのは明だけ。だから、他の子たちにはまだ内緒ね」
未夜は黒のブレザーをしっかり着込んでいて身体のラインが引き立った。ゆるやかなウェーブの彼女はふっくらした唇が魅力的だ。
「あたし、未夜のこと応援したいけど、正直複雑なんだけど……。歌のことでまさか外国にいっちゃうなんて」
未夜は小さく微笑んで明の顔を覗き見た。
「あ、また」
未夜は仰ぎ見て、明の横にすっと座って腕を手で包んだ真貴(まき)を見た。頬に丸いチークを入れた子で、未夜と同じく合唱倶楽部に入っている。明は運動部だ。のびやかな声を持つ真貴は声に張りのある明を合唱部に誘いたがっているが、明は動き回っていたいのだった。
「なにが? 真貴」
多少意地悪っぽく伏せ目で微笑んで頬杖をつき真貴を見て、真貴も上目で微笑んで未夜に言った。
「知ってるのよ。明をまた誘ったんでしょう。この前だってマンションの部屋の前で見たわ」
未夜は高等部にあがるとマンション暮らしを始めていた。毎日新幹線での通勤は大変だったからだ。それならまだゆったりと起きて少しの時間を横の公園の緑を散策していたかった。その横には二年時からよく明もいた。明の親子も未夜のマンションに越してきたのだ。
「あたしが明を独占したがってるからまた先取りしたんでしょう?」
明は困って横の真貴を見た。
「もしかしたら……あなたがこれからは優勢かもね」
未夜が言い、椅子の背もたれによりかかって校庭を見た。
白く西洋建築の校舎の両側に緑の庭が見える。その木々を透かす太陽が今は寂しげに思えた。
どちらを選ぶか散々迷った。歌を取るか、明といたいのか。
真貴は首をかしげて未夜の綺麗な横顔を見る。
「未夜?」
「……ううん。なんでもない」
未夜が二人を安心させる微笑みで見て、にこっと笑った。
2
公園のベンチは緑の揺れる先に小鳥達が囀っていた。
明はいつでもモノトーンの私服だ。
白い大き目のシャツに黒い十字架のネックレス。黒に白い十字架がドットプリントされたスパッツと、黒のフラットシューズ。
腕に銀のブレスレットをたくさんつけている。黒いアイラインを下にだけ引いて下まつげだけをボリュームもたせていた。
未夜は群青が好きで、その色の柔らかな素材のワンピースを上品に着込んでいる。
金の繊細なネックレスと、ボレロ袖から覗く真っ白い腕がいつでも明の目を奪った。潤んだ瑞々しい大きな唇も。
黒のバレエシューズの足を上下させていて、横顔は舞う蝶を見ていた。
明は言葉が見つからなくて髪をいじった。どういえばいいのだろう。
付き合い始めて3ヶ月。彼女の旅立ちには痛いほど実感がめぐる。自分も転校を繰り返してきた人種だ。親の仕事で父親についてきて六回目の転校 。恋も何度かしてきたし、それごとに別れが辛かった。でも、慣れなければという諦めも彼女にはいついていた。
これまで言われてきた転校前の言葉はどれも明のなかで浮遊する。
「ね。明」
「ん?」
明はポカリスウェットの入った水筒を弄んでいたが、ぐるりと未夜を見た。
「明のお父様はなんて言うかしら」
「……将来のこと?」
未夜がいつになく真剣な顔で明を見た。
「三年待ってくれる?」
「………」
明はまっすぐ未夜の顔を見た。瞳がうるうるとしている。なめらかな額にそっと唇を寄せて、目を見た。
「三年もあったら、高校出ていて自分で会いにいけるよ」
「明」
未夜を受け止めた。
群青のワンピースの背は大きく開きシルクのリボンが交差して、優しく撫でる。
本当は、何度でもこの狭い背中をこの手で撫でてあげていたい。不安全てをかき消す様に。髪に頬を寄せて目を閉じた。
「ずっと心は通じ合ってるから……」
微かな未夜の頷きが、愛しい……。
3
「明」
明は朝食のテーブルにつき、珍しくぼうっとしていた。
父親の樫山空也(かしやま くうや)は新聞を片手に椅子に座り、また娘に呼びかけた。
「明」
「あ。なに?」
未夜のことをずっと考えていた明は父親の顔を見て半熟の玉子焼きを食べた。
「いや。何でも」
「なによお」
明は頬を膨らめてパンにバターとジャムを塗り、ミルクに浸して食べ始めた。
「最近学校はどうだ?」
「うん。いいよ」
「良かった。何かあれば相談に乗る」
「うん。ありがとう」
にかっと笑い、サラダを口に運んだ。
未夜のことをいずれ打ち明けたいと思っていた。付き合っていることも、自分のことも。
仕事に忙しい父に何かを言って煩わせたくないから、迷っている。
未夜は親元から離れて一人暮らしをしていて、まだ彼女の両親の顔を知らない。
もしも娘のことを知ればどう思うだろうか。
父のアイロンの掛けられた白いシャツと、それにきっちりはめられたネクタイを見る。時計のはまる手にもたれるコーヒーカップや細身のメガネで新聞の内容を流し見ている顔を。いつでも仕事を頑張ってくれていて、学費や食事代を払ってくれていて、きっと、将来の結婚のことも夢見ていることだろう。
明はうつむいてパンをミルクに浸した。自分がいずれ報告しようとしていることも今は静かに沈めておくかのように。
「じゃ、行ってくるね」
「ああ」
明は早めに出るために食器を洗ってドアに走った。
その扉の前で肩越しに振り返って父の背中を見た。
コーヒーをことんと置き、新聞を見ている。振り返って明に気づいて微笑んだ。
「いってらっしゃい」
「うん。行って来ます」
明ははにかんでカバンを持って出て行った。
何故だろう。涙が出た。走っているさなかにも。腕でぬぐって走っていく。外の風が頬を撫でる。自転車で走り、緑も疾走する。
涙が溢れて止まらなくなって、公園横の道で止まって空を見上げた。嗚咽がもれて、熱い目を閉じた。
「あたし、どうなるんだろ……」
将来のことなんて何も分からないから、人は何かを見つけようって必死になるんだろう。
シンプルにありのまま、生きられる場所を探すために。
4
「樫山さん」
廊下の途中で立ち止まり、背後を振り返って伏せ気味の目のシスターを見た。
「あなたね、毎日駄目でしょう。子女たるもの、落ち着きを持って行動に移さなければ次期を見逃します。福音書のキリストを待つ乙女達が菜種油を」
また説教が始まり、明は今に聖書の全てを暗記できるのではないかと思った。
「万事を行うには小さなことから備えなければならないのです。廊下を走ることもそれは将来の大きなことに変われば、飛行機の乗り遅れで走ってきたらあまりのあわてように止められて不必要な検問を受けて乗り遅れに繋がることで」
続くらしいので時計をちらちらみていると咳払いをされてシスターを見た。
「早めに出ているんですけど、心が急いてしまうんです」
「それは何のために」
愛する人がいるからです。それは言えない話だった。
「急いては事を仕損じる話は先ほどからしていますね」
「はい」
視線をシスターの背後に向けると、くすくすと遠くを歩いてくる真貴とカレンがまた怒られている明にウインクをして手をひらつかせた。
「いいですね。いつかはあなたが余裕を持って登校してくれることを祈っているのですが」
シスターは首をゆるく振ってから静かに歩いていった。
もしかしたら、少ししたら廊下を走る目的さえなくなっているかもしれません。そんなこと、思いたくも無かった。
真貴が来ると腕にいつもと同様手を絡めてきて、カレンが明の髪を撫でた。
「慰めてくれてるんだね。うれしい」
「売店でチョコレートアイス、食べに行きましょうよ」
「うん。すっごい慰め」
三人は廊下を歩いていった。
「最近、未夜が一人でいるけど何かあったの?」
カレンが言った。彼女はアルトを担当していて、未夜と真貴はソプラノだ。落ち着き払った声のカレンはどこかお姉さんという感じで、いつでもいろいろな相談に乗ってくれる。このカレンにも未夜はまだ言っていないらしい。
「中庭で小鳥にエサをあげていたり、花に話しかけてるわ」
「初めて聴いた」
明は売店につくとチョコレートアイスを4つ頼んだ。
中庭で、何を植物達に語りかけているんだろう……? 自分のこと、だろうか……。
5
「未夜!」
がばっと起きて、白いシーツを見た。
「夢……?」
部屋を見回す。本当に嫌な夢をみた。いつもみたいに走って登校したら、未夜が教室にいなくて、運動場の先に揺れる陽炎は幻想的で、それで未夜が見知らぬ外国の町で新しい白人の女の子と腕を組んで歩いていた。届かなくて、教室に足は固定されたみたいだった。その子は未夜の頬にキスをして微笑んで歩いていく。
「夢だよね」
時計を見たらまだ三時だった。また枕に頬を乗せて手を見る。この手にいつも未夜は手を重ねてくる。
今、彼女の部屋に行きたいけどやめておく。きっと眠っているか、もしかしたら泣いているかもしれない。今だからそれなら行ってあげたいけど、自分の弱さに気づいた気がした。今、行けないっていうこと。一緒に泣きたい。
でも、それをしたら彼女がとどまってしまう。それも恐かった。
「可愛い子には旅をさせをかあー」
呟いて、目を閉じた。
辛いとき、一緒に今まで共にいた。一緒に笑ったし、一緒に泣いた。それで一緒に笑って、それで……。
今日は朝になってもきっと走る気力も無いのかも。
きっと、毎日歩き続ける。彼女がいなくなったって。それでも……それでも、心だけは走ってるんだ。
暗闇に目を閉じる。
寂しいよ。
それを心で呟いてしまっては、涙が溢れてきてしまった。
気がついたら走っていた。
気がついたら、ドアが目の前にあった。
「未夜」
気がついたら、抱きしめていた。夢じゃない。今はまだ。
「明! 明!」
未夜も泣いていた。ネグリジェの肌があつい。未夜の部屋のドアを背に抱きしめて、夜は静かに更けているのに夜が明けることが、明日を迎えて日に日に二人で過ごす時間が減っていくことが恐かった。
「一緒に……眠ろう。これから毎日、その日まで、一緒に目覚めて、あいさつ交わそう」
「……おはようって、」
未夜が嗚咽をもらして言い、学校では絶対に弱音をはかない未夜なのに、悪戯に微笑む未夜なのに二人でいるときの未夜は不安げで、明も切なくなって強く抱きしめてあげた。
背中を優しく撫でる。
「うん。だから……おやすみ」
優しく撫で続けて、頬を髪に優しく寄せる。
6
初夏の薔薇が咲き乱れている。
未夜は夜、薔薇の薫りに包まれていた。宵はまだまだ浅く群青は明るい。
マンションの窓を開け放つと、マンションの中庭空中庭園にある薔薇がここまで薫ってくるのだ。その風景が見える。
愛する明は静かに眠っていた。
未夜は彼女の髪を撫でながら、寝顔を見つめた。
カメラを取り出し、愛する人の寝顔を、静かに撮影した。
「………」
未夜が美しく笑って、涙が月光に光って落ちた。
「絶対に、プロになってみせるわ。あたし、あなたの一番の歌声の天使になる……」
未夜は彼女の頬にキスを寄せて、頭を抱き寄せた。
明が静かな寝息を吐き出し、未夜を安堵とさせる……。
7
シスターが目の前の廊下を歩いていた。
明は会釈とともに挨拶をして、歩いていった。
「樫山さん」
明は振り向き、シスターを見た。
彼女はどこか、慈愛のある目でまっすぐと明を見た。
「こちらへ、いらっしゃい」
「はい……」
明は歩いていき、廊下から校庭に出た。
シスターの背を見ながら歩いていき、マリア像のあるところについた。
「彼女は若くして息子を失いました」
「……はい」
「その悲しみや耐え難い苦しみは、誰にでも違った形で現れるものです」
明は頷いた。
「あたしは……思います。シスター。キリストが多くの従える人や両親がいながらも、もう少し方法を考えて途中で消えることもなく最後まで生涯を全うしなかったのかを、無責任に思えて」
「もしも、それがキリスト様の分かっていたことならばどうかしら」
明はシスターを見た。
「彼は確かに母を悲しませました。従えるものたちをも。しかし、人を従える神はこの地上に長く居ることはできなかったのかもしれません。神と人はことなるもの。それを知っていたからこそ、キリストは生きているうちに多くの弟子を従え考えを説き続けた。毎日をただ一所懸命に取り組んだ。生きているということは、大変なことだけれど、彼は彼自身の志を必死に生きていたのだと思いますよ。樫山さん」
「……ずるいです……」
明は顔を歪めてうつむき涙を地面に落とした。
「彼の教えを学び取った彼等は悲しみを糧に新鮮なうちに一番新鮮なままの教えを説き始めた。乗り越えるためでもあって、希望を忘れないため」
明が腕で涙をぬぐって顔を上げた。
「あなたが最近元気に走ってこないから、変ね。ちょっとあなたの焦ったようなお茶目な笑顔が懐かしいわ」
シスターが微笑んで、明は差し出されたハンカチを見た。明はその真っ白にユリの刺繍が小さく入ったハンカチを見て、涙が頬を伝った。
「あたし……星野未夜さんに恋していたんです」
シスターは静かに明のうつむく瞼を見た。
「彼女がいるから教室に向かうことがうれしくて、心が急いてしまって、それで……、」
震える手にシスターはハンカチを持たせて肩を引き寄せた。
明の背を真貴が向こうから見ている。真貴は泣いている明を見て、立ち尽くしたまま風に吹かれた。
明も、マリア様も、シスターも、みんな、優しく微笑んだ顔さえも泣いて思えた。
優しい風が彼女達の背を撫でる。
花は揺れ花は微笑み
歩き続ける…それでも