荒巻
紀用経(もちつね)という、四十歳ばかりの、かなり汚れた直垂姿の風采の上がらぬ男が、夏にはまだ少し早い朝、藤原頼通様の御殿の台所に入ってきた。
この男は左京の大夫(かみ)に仕えているもので、左京の大夫というのは、朱雀大路より東の地域の戸籍、租税、訴訟、警察などを司る役所で、その大夫というのは大変な権勢なのだ。用経は役所では四等官を拝命している下級の役人で、妻もなく下人に時々着物を洗わせてはいるが、都の大路を歩いて来るうちに、すっかり汚れてしまっている。
用経には、ちょっとした処世哲学がある。何としても上の者にとりいり、目をかけてもらうことが何でもうまくいく方便であるというもので、それは、実は彼のひととなりをいやしくし、今では彼よりもさらに下級の若い侍たちにもばかにされているのだった。
用経は汚い手ぬぐいで、直垂の下の汗にまみれた体や、脂ぎった赤ら顔をぬぐいながら、いましも関白さまの広い台所に入ってきた。台所では十人にも及ぶ下人たちが何かせっせと運びこんでいる。用経が見るとそれは鯛の荒巻で、それが数十匹もあるので、用経は思わず欲しくなった。これを使って主人のご機嫌をとろうと思ったわけだ。
そこで、下人たちを指図して鯛を棚に収めている役人の、義澄に話しかけた。
「義澄殿、お忙しそうですなあ」
義澄は、振り向いて用経のいるのを見ると何か迷惑そうな表情を見せたが、すぐににこやかに笑って言った。
「まったく、もう夏というのに、こんなものが入ってきたので、腐らせないようにと思って大忙しですよ」
「それは一体何ですか」
「鯛の荒巻ですよ。淡路の守様が大量にお持たせになったのです」
「しかし、義澄殿もいくらかは自由になるのでしょう」
「いや、腐らせるわけにはいかないから、危ないものから処分はしますが。それを見極めるのが難しい」
「ものは相談ということもあるので、お願いするのですが、その荒巻のうち二本を私に譲っていただけませんかなあ。主人に食べていただこうと思いましてねえ」
「そうは言われてもなあ、これも私にとっては主人のもので」
「それはごもっともだが、これだけの数ではこれからの梅雨も心配でしょうに。まあまた租の方もよろしいように致しますから」
用経は自分の仕事である税の徴収で、自分のためになると思われるものには、内緒で計算違いをしてやっていたのだ。これは義澄には痛いところで、一瞬顔を赤らめたが、ようやくまた表情をやわらかくして、答えた。
「まったく仕方がございませんな。この二本を持って行きなさい」
「いや、本当にありがたく頂きます。ところで、これはちょっとこの棚の上にお預かり頂いて、使いの者に取りに来させた時に、渡してくだるようにお願いします。よろしくお願いしておきますので」
用経はさっそく左京の大夫の自宅を訪ねようと、だんだん暑くなる京の町に出た。京の梅雨はとにかく蒸し暑い。雨でも降ってくれれば少しは涼しくなるのかもしれないが、今日は特に雲もない青空に日が照り輝いている。板の上に石を置いて飛ばないようにしている、庶民の家のわずかな陰を選んで、手拭いで胸のあたりをかきむしるように拭きながら歩いていく。大人たちはほとんど、日金を稼ぐために、京の町で盛んに行われている土木工事に行ってしまって、子どもたちだけが辻毎に十数人ずつ追いかけあったりして遊んでいた。
用経は先にも書いたようによらば大樹の陰という人生哲学を持っていた。このためにずいぶん情けないこともしなければならなかった。彼のお追従に眉を寄せる者も少なくなかったのだ。それは彼も知ってはいた。
「言いたい者は何でも言え」
と心の中で呟いてみるより仕方がなかった。それに彼を見る冷たい目や軽蔑の笑いなど、すでに慣れてしまっていた。
用経は自分ではそこまで認識してはいなかったが、今は摂関家の最も盛んな時代であったとはいえ、最下級の貴族にとっては、決していい時代ではなかった。元は貴族のものだった農民たちからの貢物が、今は得体の知れない武士という者に横取りされ始めていたのだ。武士は人を殺すことのできる力を持っており、摂関家さえその力を頼みにして、下級官僚にすぎない貴族のはしくれなど相手にしてはいない。逆に用経たちがすがるものは自分の持ち物だけになっていたのだ。自分のものを増やすということは、言い換えれば見てくれなど構わずに人に取り入ることでしかなかった。勢いのある武士の頭領に仕えている若侍などの見る目が何であろう。
「あいつらこそ、武力を笠に着てしたい放題をして」
用経は、若侍たちが用経を軽蔑の眼で見ているのみならず、陰で悪口雑言していることに気づいていた。それだけではない。大夫の屋敷で共に働いている若侍が、わざと用経にぶつかって彼を睨んで通ることさえあったのだ。そのあとの用経の背中で起こる若侍たちの哄笑に、用経が何度歯噛みしたことであろう。
突然彼の目の前を燕がかすめて飛んだ。その行方を追った彼の目に遠くの山々の緑が入って、心を驚かせた。あああんなところもあるのだと思った。大きな寺の中には阿弥陀仏がいて、死んだら極楽に迎えてくれるのだというが、そんなものは頼通様のような人のことで、自分のようなものの場合は関係ない。どうせこの世でよいことなど何もしていないし、そんな余裕もなかった。西方浄土は自分の行くところではない。しかし、この時見た遠山の緑は彼の希望になったように思えた。
もしこの時牛車が彼の前に現れなければ、彼の人生は少し変わったかもしれない。牛車の牛の鼻持ちの少年が、持っていた竹の鞭で彼を追い、こう叫んだ。
「じゃまだ。どけ」
その時、用経の心はあの遠山の緑から離れた。
「なんだ、小僧目が」
そういう怒りの感覚とともに、用経の心は日頃の彼のものに還っていった。
急いで左京の大夫の家に行かなければならない。彼の足は都の大路を大股に進んだ。
左京の大夫の屋敷からがやがやという下人どもの声が聞こえるのは、大夫に客があるらしい。中に入ってみると、用経の思った通り、三人の客が大夫の広間に座っていた。いずれも大夫の友人で、昼間から酒盛りをしようという様子で、台所も忙しく、広間の囲炉裏もこの暑いのに火を準備するところだった。
ところが酒の肴にするものがないということで、台所の長が困っている様子である。鯉や鳥などというものがあればいいのだが、それもあいにくこの家の台所には切れているのだ。
用経はしめたと心の中でほくそ笑んだ。何といいところへ来たことであろう。そこで大夫のそばまで出ていって、畏れながらと話しかけた。
「実は私のもとに津の国から鯛の荒巻を三つ持ってまいりましたが、一巻き食べて味見をしましたところ、何ともいえずおいしいものでございましたので、あとは手を着けずにおいてございます。殿に食べていただきたいと急いで参上致しましたが、下人がおりませんで、持参できませんでした。ただいますぐ取りにやろうと思いますが、如何でしょうか」
彼はこう言いながら、その味を思い出してよだれが出るという風に、口元をぬぐって見せた。
大夫は友人たちが来ている時でもあり、大変上機嫌で、満面の笑みを隠そうともしないで、用経に向かっておっしゃった。
「適当なものがない折から、それは何よりもありがたいことだ。早く取りにやってくれ」
客たちも、そばから声をかけてくれた。
「思わしい食べ物もないようだが、この季節ではちょうど鳥の味もひどくまずいし、鯉などもまだ市場には出ていない。立派な鯛とは有り難いことだ」
用経はその場の床に頭をすりつけるようにして礼をして、台所に下がった。そして下仕えの少年を呼んで、こう命じた。
「今すぐ走っていって、頼通様の御殿に参って、台所の長に『あの置いておいた荒巻を、今すぐにお渡しください』と囁いて、すぐに持って来い。他に寄り道をするな。早く走れ」
少年が走り去ると、用経は大夫にも聞こえるように大声で
「まな板を洗って持って来い」
と言って、すぐに
「今日の料理は用経がお作りしましょう」
と、料理用の箸を削り、庖丁を研いで準備をしながら
「ああ、大分手間取っているな。どうしたまだ帰ってこないか」
などと待ち遠しがって騒いでおった。
そうすると、しばらくして使いにやった少年が、木の枝に荒巻を結び付けて、息せき切って持ってきた。
「偉い、偉い。本当に飛ぶように走って来たなあ」
と褒めて荒巻を受け取り、まな板の上に置いて、たいそうに大鯉でも料理するように左右の袖を取り繕って、くくりのひもを引き締め、片膝を立てて、もう一方の膝を伏せて、いかにも大げさな格好で、荒巻の縄を切って、刀で藁を押し広げた。すると、ばらばらとこぼれ落ちる物があった。見ると、歯の低い下駄、古草履、古い草鞋、古沓、そんな物ばかりが出てきた。
それを見て、大夫も客たちもあきれて、目も口もポカンと開いているだけであった。その前に控えていた侍たちもあまりのことに互いに目を見かわして、何とも言えない顔でその場に並んでおった。そして、せっかくの宴会もすっかり興ざめしてしまい、一人立ち二人立ちして、みな立ち去って行った。
大夫は、
「この男を、こんな話にもならないバカ者とは思ってもいなかった。昔からよく仕えていると思って来たから、こちらも随分よくしてやって来たのに、こんなひどいことをして人を騙すとは、どうしてやったらいいものだろう。それにしても俺のように運の悪いものは考えてもみなかったことでこんなひどい目にあうものだ。世間の奴らがこのことをどう聞き伝えて物笑いの種にすることだろう」
と、用経の方も見ないで嘆いたまま自分の部屋に入ってしまった。
用経は一瞬あっけにとられたように赤い顔をしてそのガラクタを見つめておったが、大夫の言葉を聞いて、泣きそうな顔をしてすぐに刀も料理用の箸も捨てて、靴を履く暇もなく、あわてて逃げて行った。
彼は懸命に走って、頼通様の御殿に参って、台所の役人の義澄に会って泣かんばかりに訴えた。
「この荒巻を惜しいとお思いなら、あの時そうおっしゃっていただければ無理に下さいとは言わなかったのに。こんなひどい仕打ちをなされるとは」
そうすると、義澄はこう答えた。
「一体何を言ってるのです。荒巻はそなたに差し上げて、私はちょっと用ができて家に帰ろうと思って、下役人に『左京の大夫の君のもとから、荒巻を取りによこしたら、その使いのものに渡しなさい』と言い置いて退出して、ちょうど今帰ってきてみると、もう荒巻がないから、『どうしたのだ』と聞くと、『これこれのお使いが来たのでおっしゃったとおりに取って差し上げました』と言うから『なるほどそういうわけか』と聞いたわけです。それ以外に事情はありません」
用経がその役人に問いただそうとしたが、その男は部屋を出て、いなかった。すると丁度そこにいた食膳を扱う男がこう言った。
「私が部屋にいて聞いておりますと、この屋敷の若侍たちが、『棚にあげられてある荒巻があるぞ。これは何のためだ。一体誰が置いたのだ』と一人が聞くのに、『左京職の四等官のものだ』と答える者がいて、『なんだ、用経のものか。それでは何のこともない。うまいことがあるぞ』と、取りおろして、みんなで鯛を切って食べて、その代わりに古草履や平下駄などを入れて、また棚に上げて置いておりました」
用経は悔しくてたまらなかったが、もともと荒巻は頼通様のものを無理に内緒でもらったもので、誰に訴えることもできないし、若侍たちに腕力で勝てるはずもなく、泣き寝入りするほかはない。ああどうやって左京の大夫さまのご機嫌を取り結んだらいいのだと、もうそのことばかりを考え始めていた。それはこの平安の最盛期の下級の役人にとってのつらい日々の始まりだった。確かに多少おべっか使いではあるが、用経にどんな罪があったのか。
隣の部屋では若侍たちの大空にも届くほどの笑いが起こっていた。雨は近い。
荒巻