4.救世主の二重奏
1
中学二年生の俺はいじめられていた。
いじめの主犯格はクラスの中心人物とその周辺の人間だった。
机にらくがきなどはもちろんのこと。弁当をゴミ箱に捨てられていることも、通学カバンを水浸しにされていることも、男子たちのサンドバックになることもあった。
休み時間はトイレに連れ込まれ、金をせびられたりする。
校舎裏を"闘技場"と称して、喧嘩の強いいじめっ子と喧嘩をさせられることは日常茶飯事である。
当然、俺の力は弱いので負ける。なすすべも無く負け、ボコボコに殴られるのだった。
しかし、奴らは殴るにしても、顔などの見える箇所は極力狙わない。なぜなら、怪我をされると大人たちに見つかる恐れがあるからだ。
実に巧妙。実に狡猾。俺の"敵"は変なところで技巧派なのであった。
もし、これらの行為で俺が怪我をしたらば、"敵"は俺を脅す。
「遊んでただけだろ? そうだよな?」
「こんなことで怪我するとかマジ受ける、冗談だから大事にはすんなよダッセーから」
「おう、怪我大丈夫か? 俺たち友達だよな? 同じクラスの仲間だよな? だったらこのことは誰にも言うんじゃねえぞ? な?」
だから俺は、体育で怪我をしたと言って家族へ言い訳をし、家でちょっと転んで怪我をしたと先生へ言い訳をする。
いじめにあうきっかけはなんだったのだろう。わからない。
顔? 性格? 態度? 言動? 成績? タイミング? わからない。
わからないが、女子も男子も関係なく俺をいじめていく。
クラス内のいじめはすべて俺が一心に背負っている。
俺の敵はとんでもないクズだったのだ。
いじめをしたいという意志を持たないクラスメイトに向け、俺へのいじめを強要させていた。
歯向かうと俺と同じ目に合うことは、口に出して脅されるまでもなくわかっているのだろうか、しぶしぶと、恐る恐るといった形でいじめを実行した。
そのいじめは、主犯格に比べればまだ優しく、初々しかった。
殴る力も緩かったし、弁当をゴミ箱へ叩きつける際も目を瞑っていたり、髪を引っ張って「邪魔だ」と意味もなく退けられたときも、その声は一様に震えていた。
だが。だが、今は違う。今はもはや、あいつらも俺の敵だ。初々しさなど今はもう無い。見る影も無い。
主犯格の連中と同じく俺をいびり、殴り、痛めつける。あいつらは主犯格の連中と同じく完全に俺をストレス解消の道具にしているのだった。
クラス三十一人中、俺を抜いた三十人が俺をいじめていた。
いや、一人は中学一年の終わり頃から入院しているから、三十一人中二十九人か。
クラスの二十九人が俺をいじめていた。
精神も肉体ももうボロボロだ。だが、義務教育なので行かねばならない。
そんな毎日だ。
俺はなるべく心配はかけたくなかった。
当然親にもいじめられてるとは言わないし、先生にも言わない。
らくがきの机は俺が自らしたと言い消す。
水浸しのかばんはドジを踏んだということで済ませる。
苦し紛れの言い訳だっただろうが、俺自らがそう言っているので、大人は信じるものなのだ。
そんな毎日だ。
************
十月。秋ごろ。
一人の女子が転校してきた。
「はい、今日は転校生を紹介するから静かにな」
担任の野太い声の後ろから教室へ入ってきたのは、黒髪のポニーテールの女の子だった。
顔から察するに一目見た彼女は。彼女は知的でクールなイメージだった。
白い肌に、深く深く黒い瞳。無表情なのがまた整った顔を際立たせ、髪はつややかな黒色で、束ねていた。
俺は思った。美しい。俺は少し見とれていたのかもしれない。
――だからなんだと言うのだろう、か。
「関西から越してきた伊藤舞子です。趣味は読書、好きな色は水色です。よろしくおねがいします」
伊藤さんは簡潔に丁寧に名乗り終わると優雅にお辞儀をした。
そして、教室にはたくさんの拍手の音と笑顔が立ち込めた。
「席はあっちだ。座ってくれ」
担任が教室の一番後ろの窓際の席であった俺の隣の席を指さす。が、
「えっと……?」
伊藤さんは困惑していた。当然だろう。
彼女が座るはずである席のすぐ前も空席だったからに他ならない。
空席の主は"伊東未来"という、茶髪のショートカットに、笑顔が眩しい女の子だ。
今は心臓の病気で入院していて、出席は途絶えている。お見舞いに行こうにも、入院先を公表していない為に誰もお見舞いに行けていないのだが。
「あぁ、すまんすまん。一番後ろだぞ。その泉という男子の隣だ。愉快なやつだからよろしくしてやってくれ」
担任が具体的に席を教える。泉とは俺のことだ。ちなみにこの担任は俺がいじめられていることを全く知らない。なので恐らく本当に"愉快な奴"と思っているのだろう。ありがたい。ありがたいのかこれ。どうなんだ。
「はい、わかりました」
伊藤さんは席に向かう。あちこちから一斉に話し声が聞こえいつも以上にざわめく教室。
「おいおい、静かにしろよー!」
担任が一言笑顔でそう言うと渋々静まり返る。
「ふつつかものですが」
という謎の発言と共に伊藤さんは俺にお辞儀し、静かに席に座った。
「よーし、じゃあ今から朝礼を始める」
朝礼が始まった。そして同時に始まるのだ。
いつもどおりの時間が。
しかし、この時、俺も、クラスメイトも、担任も、誰も知る由がない。
この出来事が後に起こる大事件の静かなプロローグになるということを。
2
いつもどおりの朝礼が終わり、しばしの時間。
さぁて、今日はどんないじめが起こるのか、と諦めモードでそう思ってぼんやりとしている俺には目もくれずに、クラスメイトはアニメやドラマでよくある転校生への質問タイムに入った。
「どこからきたの?」だの、「何が好きなの?」だの、「SNSはやってるの?」だの、様々な質問を伊藤さんへと投げかけた。
お調子者の中心人物の男子は、「俺の第一印象は?」「彼氏いるの?」などと聞いていた。
この調子で、転校してきたその日の休み時間は、すべて質問攻めにあっていたので、俺はその間、いじめどころか、触れさえもされなかった。
たくさんの質問攻めにあっていたが、彼女は律儀なことに、質問すべてを漏らすことなく答えていた。
その質問内容から軽く彼女のことがわかった。
彼女は、幼少の頃は親の転勤でこっちから大阪へ越したが、また今になり親の転勤で大阪からこっちに引っ越して。つまりはこの地に戻ってきたようだ。
好きなものは甘いものと読書で、好きな食べ物はブドウで、SNSはやっていないようだった。お調子者の第一印象については「表情豊かで元気そうな人だね」「彼氏は居ないよ」と当り障りのないコメントをしていた。
他の質問についてはあまりにも長いので割愛する。
そして、彼女が転入してきた日の、初の昼休みのことである。
質問攻めや転入生への話題がある程度続いたあと、主に俺をいじめている主犯格のグループの一人であり、そのグループのリーダー、箕面一弥がこのクラスを紹介した。
一致団結していて仲がいいだのなんだのの、くだらない綺麗事や、クラスメイトたちの紹介と言う名の自慢から始まった。
当然のように俺を除く全員の紹介が終わったところで、
「良いクラスなんだね」
と、伊藤さんは無表情にお上品な笑顔を作りながらそう言った。横顔を見るに、…なんとなくだが作り笑顔な気がするのは気のせいだろうか。
「いいね、いいねいいねいいね。まいこちゃん! なかなかわかる子だ! 可愛いしな!」
と、主犯格のグループの一人、枚方直人が言うと教室が、しばし沸き立つ。
口々に話し盛り上がる彼らを
「まぁまぁまぁまぁ、まて! まてまてまて皆の衆! おちつけーい!」
なだめるのは箕面であった。そして先ほどとは打って変わって静まる教室。
「このクラスには一つ特殊な部分があるんだけど、今から説明するからよく覚えててくれよ」
と箕面は軽い口調で前置きをする。特殊な部分って、認めちゃってるのか。
「まず、このクラスにはストレス解消のための道具があるんだ」
そう言った。多分おそらく、まちがいなく俺のことだ。まちがいなくまちがいない。十中八九、いや、これは絶対俺のことだ。
「…ストレス解消のための道具?」
そう言って伊藤さんは静かに席を立ち、教室を見回す。まぁ周りの人だかりでろくに見えないだろうがな。俺からも周りあんまり見えないし。
「んー、わからない」
見回すのを諦めたのか着席。しばし考え込んだあとにそう言った。
「はいはい! 答えはー、こいつでーーす!」
箕面がその声を発した途端、道が開け、視界が広がる。うん、そうだ。そうだよ。俺だよ。そして予想通り、俺を指差した。
「こいつこいつ、この泉双太郎でぇーす!」
俺の近くに主犯格グループの女の一人、豊中美代子がやって来る。
「おりゃー! そりゃー!」
豊中に顔面を軽く左手で二発ビンタされた。じんわり広がる俺の痛みとは裏腹に歓声があがる教室。
ああ、不気味だ。異様だ。人がビンタされてるのにこの歓声。だから他のクラスから人が来ないんだよ、この教室は。
ビンタされた箇所からひりひりとした痛みが広がる。あー寒いときじゃなくてよかった。悲しいことにもうそんな感想しか出てこない。怖いね、慣れって。
「ほらー! どうよこれ! いいだろコレ! もっとむちゃくちゃしてもいいんだぜ」
箕面が、座りながら無表情でこっちを見ている伊藤さんのすぐ近くで自慢した。
「…………」
伊藤さんは黙っている。口を開かない。しかし彼女は最初からずっと無表情なので何を考えているのやらわからない。これを見ておかしいと思うのか、それとも奴らに迎合し、同じように敵に回るのか、わからない。
「あららー、固まっちゃって。どうしたのまいこちゃーん? こんなことしても大丈夫なんだよほら」
と、主犯格グループの一人、阪南土弘が俺の通学カバンから母手作りの弁当を取り出した。そして綺麗なフォームと一切の無駄も迷いも介在しない動きですぐ後ろのゴミ箱に投げ入れられる。
ガコンという音と共に、俺の弁当は綺麗にゴミ箱に収納されてしまったようだった。
「イェェーイ! ゴォォォール!」
「フゥウーーー!!」
「今日の運勢は良いね!」
「おみごとッ!!」
「まじウケるわー!」
「土弘調子いいなあ!」
「これで4回連続ゴールじゃね? すげぇよツチやん!! マジエース!」
と、湧き上がる歓声。盛り上がる教室。
お弁当は恐らくシェイクされるどころか、中身が飛び出し、もう食べられない状態になっていることだろう。ま、いつものことだ。あとで弁当箱だけは回収しよう。
…いつもながら、いいと言っているのに、遠慮も聞かずお弁当を作ってくる母には本当に悪い。悪いがどうしようもない。俺は見ていることしかしないしできない。
最初のうちは怒りも湧いたが多勢に無勢。つっかかったところでいいように遊ばれるだけである。というかいいように遊ばれたことがあるので、触らないのが一番だ。されるがまま、平和に俺は中学三年まで耐えるとするんだ。
これが俺の戦い方だ。これが俺の反抗だ。
「あァー! ツチやんいいねいいね! ほらァ、なんか言ってみろよ泉。感想だよ、早く言えよ」
箕面がやかましく興奮して俺に問う。そんなこと言われても、本当の事を言えばお前ら普通にキレるのに聞くのか。よくわからないな。
「は、はははは……、よ! お見事! こ、こんな感じで愉快なクラスだけど、よろしくね…。伊藤さん」
俺は笑顔だ。心の底からなんとか絞り出した苦笑いで、ベストオブ無難な返事をする。
「ふっはー。どうよ! どうよ! 文句ひとつ言わねーだろ! 見たかよあの笑顔! 最高だろあのストレス解消ロボ! どう? まいこちゃんも景気づけに一発やっとく?」
箕面がニヤニヤと気色悪い笑みを浮かべながら伊藤さんに勧める。しかしロボとは失礼だな。俺は人間だというのに。
「うん、確かに最高だね」
伊藤さんは無表情で言う。あーこいつもか、まぁいい。俺の敵が三十人に増えるだけだ。一人増えようがなんの問題もない。三十分の一、つまりは誤差。なんの問題もないから安心しろ、泉双太郎。と、自分を奮い立たせた。
「フゥウー! わかってるね! まいこちゃん!」
「ノリいいわー!」
「かわいい! 付きあおう!」
「メアドおしえて!」
「空気読めるねぇ!」
どっと、沸き立ち歓声で埋まる教室。
新しい仲間が出来たことに対して、歓喜で立ち上がる者もいれば、拍手をする者もいる。そのやかましさ極まりない様相はまるでどこぞのお祭りのようでも、動物園でエサを喜ぶ獣のようでもあった。
阪南が笑いながら俺の頭を叩く。痛いが、まぁそれだけさ。痛いだけ。問題はない。おめでとう伊藤さん、君も今日からこの狂ったクラスの一員だ。おめでとう。
時間と共にさらに奇声と歓声で沸き立つ教室。
それを切り裂く打撃音。
教室が水を打ったように静まり返る。
そして、みんながみんな、物音一つ立てずに音の先を凝視する。
強烈で鮮烈な打撃音の先にいたのは、握った右拳を机に置き、行儀よく美しく席に座っている伊藤さんだ。
「勘違いしないでね」
無表情で彼女は静かに言う。
「最高なのは君たちだよ」
無表情の彼女は穏やかに言う。
「君たちのその歪んだ精神。最高だね」
無表情の彼女は寂然たる口調で言う。
「君たちさ」
ただ静かに、穏やかに、彼女は続ける。
「寄ってたかって一人の子にそんなひどいことをして、恥ずかしくないの?」
そして彼女は続けざまに鋭い言葉を言い放つ。
「"ストレス解消のための道具"だっけ? 」
「もしかして君たち、そんなことでしかストレスを解消できないのかな?」
無表情で、淡々と。この異常なクラスに爪をたてるが如く、彼女は。
「そのストレス解消はね、実は世間ではいじめって言うんだよ。知ってた?」
彼女は核心をついた。そして、クラスは少し冷たい空気になった。
「……なにあんた、新参者の転入生のくせに。もしかしてこのクラスのルールに文句あるわけ?」
主犯格グループの女の一人。箕面の彼女である女、貝塚愛子が下品にも、伊藤さんに顔を近づけ、少し怒った様子で睨みつける。
「近付かないでくれる?」
伊藤さんは無表情で淡々と、目の前の貝塚へと言い放った。
「は?」
あまり聞こえなかったようで、いや、正しくは貝塚の脳みそでは理解することすら叶わないのだろうか。理解不能とばかりに眉をひそめ困惑する貝塚へ堂々と伊藤さんは顔を向ける。
「クズが伝染るから、近付かないで?」
彼女はお上品な笑みを浮かべて、目の前の下品なクズに、堂々と、しっかりと、ハッキリとそう言い放った。
直後、響く肉を打つ軽快な音が響いた。
「……」
伊藤さんは白く綺麗な左頬を赤くしていた。
貝塚に平手打ちを見舞われたのだ。
「あーあ。マージで空気よめねーなーお前」
貝塚の声が静かな教室に響く。
「どうもありがとう」
平手打ちされた箇所なんて気にも止めず、尚もお上品な笑顔で返す伊藤さん。
「こ、い……、……つ…………!!」
怒りが頂点に達し、右手で拳を握り振りかぶる貝塚。
「やめとけ、やめとけ」
その今にも降りかかりそうな拳、それに連なる腕を握って止めたのは箕面だった。
「なんでだよ」
「今ぶん殴ったりするより、じわじわいこうぜ。空気の読めない奴は、俺達に、俺達の仲間に歯向かう奴はどうなるか、たっぷりとその身に思い知らせてやろう」
箕面がなだめると、貝塚は力を抜いたのか、箕面は掴んでいた手を離した。
「オマエ、まともな学校生活を送れると思うなよ」
かつて無いほどに怒り狂った貝塚が、低く唸るような声で言った。
すぐに昼休みの終わりを告げる軽快なチャイムが、重苦しい空気の教室に容赦なく鳴り響いた。
3
伊藤さんが転校してきて三日目、月曜日の朝。
突然俺の前に現れたのは箕面一弥だった。
箕面は、「お前を人間として扱ってやるから、人間なら人間らしく働け。あの女を新しいストレス解消ロボとして徹底的に率先して教育しろ」と俺へ向けて言葉を投げた。
「お前を人間として扱ってやる」と、強く言った。言い放った。
つまり箕面は俺を解放すると言ったのだ。
俺は揺らいだ。このいじめから解放されるのだ。俺が。長きに渡る辛酸と屈辱から解放されるというのだ。
なんだこれは。夢のようだ。信じられない。ありえない。
達観して、悟った風にしていた俺だが、動揺した。
すぐ先に見えた。目と鼻の先の安寧と平和が見えた。
強く思ってしまった。安寧、平和、それが欲しい。
母の一生懸命作ったお弁当を、そして俺の平穏を学校生活を守れるのだ。
会ったばかりの他人を痛めつけるだけ。それだけで俺はなくしたものを取り戻せる。これほど良いことはない。
俺は快諾した。俺は救いが欲しい。この生活をやめたい。俺は平和を手に入れるのだ。
そこに迷いなど、介在する余地はない。
その日のお昼休み。
「やぁ伊藤さん、美味しそうなお弁当だね」
俺はお昼休みに伊藤さんの席の前にいた。
立派な黄色いお弁当箱の中にはエビや玉子焼きや、肉じゃがが入っている。
彼女の好物であるブドウもだ。
どれも見事な出来で、作り手の思いが視覚から、嗅覚から熱いほどに伝わってくる。
伊藤さんは玉子焼きを口へ運びほおばりながら、無表情で整った顔に調和した深く黒い瞳をこちらに向ける。
完全に咀嚼し、飲み込んだあと、
「いいでしょ、お母さんが早起きして作ってくれているんだよ」
優雅な所作で行儀よく、そして相も変わらず淡々と返した。
そうか、君のお母さんががんばって作ったんだね。
真心を込めて、娘である伊藤さんのために腕によりをこめて作ったのか。
心の中でそう、人知れず返事をする。
真心を込めて作ってくれてたのはわかるが、俺の平和のためだ。
俺もあの頃には戻りたくない。あんな地獄にはもう戻りたくないんだ。
だから。だからどうか悪く思わないでくれ。
俺はそうやって言い訳をした。許してくれとは言わない。
ただ俺は言い訳をした。そうでもないととてもやっていられないからだ。
そして一度深呼吸。二度。三度。
心は決まった。
スイッチが入った、切り替えらた。
俺は、俺は心を鬼にした。
「それはそれは、さぞおいしいんだろう、ね!」
右手を大きく振りかぶり、伊藤さんの綺麗なお弁当を机から強引に弾き飛ばした。
黄色いお弁当箱がひっくり返り、中のエビやら白ご飯やら卵やら肉やらが汚い床へと無残にもちらばる。
そして、それらの残骸を踏みつぶす。プチッと何かを潰した感触がした。おそらくブドウだろう。
同時に俺の心の中の何かが潰れた感触がした。
「あ、手が滑った、ごめんね?」
俺の背後でクラスメイト共の笑い声が聞こえる。
「……」
伊藤さんは沈黙のあと、二秒ほど目を閉じる。何を思ったかすぐに椅子を引いて席を立つ。
「なるほどね」
俺の後ろの何かを見てどこか納得したようにつぶやいた。
そして、ポケットからティッシュを取り出し、お弁当の残骸をかき集め、丁寧に包んでゴミ箱へと捨てる。
「ごめんね、ごめんね」
俺にしか聞こえない小さな声でつぶやいたその顔は、相変わらず無表情だった。
この日から毎日毎日、伊藤さんにたくさんの教育をした。
最初は教育するのは俺だけだったが、伊藤さんが誰にもこれを言ってないことを察したのか、徐々に教育に加担する人数が増え、今では俺を含めた三十人全員が彼女に教育を行っていた。
二十九人の敵に囲まれていた俺は一転、実に二十九人の味方を得た。人生とは何があるかわからないものだ。
放課後は一人で教室を掃除させ、体育が始まる前の体操服に泥をだらけにし、彼女が立ち上がった隙に、教科書にはみんなで落書きをし、机には虫や土を入れ、女子はつばを吐きつけ、体育館で使うシューズには画鋲を入れた。
豊中いわく、トイレの掃除中に伊藤さんへ向けホースで水をかけるのが楽しいという。
実際に目の当たりにすると、自分でも感じる。この教育の数々は俺がされていた事よりも酷いと。
それは当然だ。俺が立案し、計画し、より効率良く伊藤さんの精神をすりつぶすためにこの半年すべてを詰め込んでいるのだから。
被害者側のノウハウや心構えなら俺が一番知り尽くしている。
なぜなら俺は被害者のスペシャリストだったのだ。
なので、誰よりも効率良く、誰よりも上手く、誰よりも順調に彼女の心を折ることができるはずなのだ。
箕面一弥の人選は確かだった。この教育係にふさわしいのはこのクラスには俺において他に居ない。
だが、彼女の顔はいつまでたっても曇らない。
彼女の心はいつまでたっても折れる素振りを見せない。
彼女はいつも同じ顔をしていた。あの日、初めて会った日と同じ顔をしていた。
まるで動じていないように。精神などすり減っていないかのように。同じ顔をしていた。
教育を受けている最中でさえも、かつての俺のような諦め腐った眼をしていなかった。
黒く深い瞳には屈服の意思など微塵も感じられなかった。彼女はその黒く深い瞳に強く強く自分を持っていたのだ。
彼女は来る日も来る日も、どんな教育を受けても、無表情で淡々としていた。
そして、どんな暴言も皮肉で返すので、その度に貝塚からは平手打ちをされていた。
俺はそれをずっと見ていた。
その光景は不気味だった。ただただ不気味だった。
教育の内容がではない。彼女のその態度だった。心だった。精神だった。
なぜ心が折れない? なぜ喚かない?
なぜ泣かない? なぜ悲鳴を上げない?
なぜ屈しない? なぜ頭をたれない?
何を考えている? こいつは人間じゃないのか?
わからない、正直俺はこいつが。俺は伊藤さんが怖い。とにかく怖い。
俺がいじめ、いや、教育を受けていた頃抱いていた、敵への恐怖をさらに上回る恐怖だ。
この恐怖、間違いない。彼女は人間ではなく、得体のしれない何かだ。こいつは人間じゃない。バケモノだ。
この恐怖を上回る恐怖を、更に彼女へと刻みつける事柄がある。こいつは不気味なことに、ここまでむちゃくちゃにされながらも、テストの成績のすべてがぶっちぎりで学年一位という脅威のスペックを誇っていたのだ。
それに、揺るがないこのメンタル。決して崩れることのない鉄壁の無表情。
……狂っている。
こいつが異常者であることはほぼまちがいなく、もはや疑いようもない事実だ。
俺の中の危険信号が激しく鳴り響いた。杞憂だと思ったので見て見ぬふりをしたがその実、俺は彼女を伊藤さんを得体のしれない生物だと認識することで、己の良心を傷めずに教育を行っていた。
*********
十二月の中頃の終業式。
とうとう彼女は転校してきてから一日も休まず二か月間。そう、二学期間を耐え抜いた。
俺が今年の締めくくりに、いっちょ教育をするか。と、クラスメイトと計画を練っていた。
寒い冬なので帰り際に、彼女の頭から水をぶっかけることにした。
この時期になるともう俺の中にはなんの抵抗も躊躇もなかった。
なぜならこいつは人間じゃない。バケモノだ。
なぜならこいつは俺じゃない。他人だ。
だから、俺は何をしても許される。
4
雪が降っていたので、終業式は体育館で行われた。
小太りの校長の長い長い話が繰り広げられる。
ふと周りを見渡すと伊藤さんが目に入った。
相変わらず無表情だった。相変わらず何を考えているのかわからない女だ。
足元に目をやると、体育館用の靴は当然はいていない。なぜなら俺がさっき水浸しにしておいたから。
だから靴をはいてないどころか素足なのは当然であると言える。
寒いだろう。冷たいだろう。まぁ許してくれ。俺も俺の平和がかかっているのだ。
そして、終業式は昼前に滞りなく終了し教室。
担任の適当な話が終わり、あっさりと解散された。
今日の日直は箕面なので、担任から箕面へ教室の鍵を手渡される。
クラス内は、教室から去る者、残って友達と話す者、様々だった。
廊下は騒がしい。他のクラスの連中が帰っているのだろう。
他のクラスの連中はあまりこのクラスによってこない。
まぁどこか不気味な雰囲気でも出ているのだろうか。
異様というか、異質。関わってはいけないモノのような気がしているのだろうか、わからないが。伊藤さんは一生懸命に何かを書いていた。
この期に及んで勉強か? つくづく何を考えてるかわからない奴だ。しかし好都合、帰る素振りを見せたら妨害して引きとめようと思ったが妨害する必要はなさそうだ。
午後一時。廊下が静まり返る。
どうやら他のクラスの奴らはだいたい帰ったようだ。
残っているのは、リーダー箕面一弥。その彼女の貝塚愛子。サッカー部の男子・枚方充、ツチやんと呼ばれるバスケ部の自称エース阪南土弘、そして俺、伊藤さんの六人。
伊藤さんはというと、書いているものを片付け始めている。
あいも変わらず無表情だが、心の中で彼女は「何もされなかったな。おかしいな」と困惑していることだろう。
今日の教育実行者を名乗り出たのは俺だ。俺だけだ。もちろん他の奴らには手を出させない。
俺は事前に水をたくさん入れておいた水筒のフタをあけ、右手に持ち、主犯格グループに
「そんじゃ、行ってくる」
と告げた。
クスクスという笑い声をBGMに
「今日は寒いね、伊藤さん!」
とまるで親しい友だちに話しかけるかのような調子で伊藤さんに話しかける。
帰る準備をしていた伊藤さんは黒い瞳をこちらに向ける。黒い瞳には俺の笑顔が写っているはずだ。
そして、俺は笑顔のまま間髪入れずに、右手に持っていた水筒の水を伊藤さんの頭からぶっかける。
「……」
伊藤さんは黒い瞳で俺の後ろあたりに視線を送ったあと、懐からハンカチを取り出し冷静に顔を拭く。
「あっはははぁ、ゴメンゴメン。ゴメンネ伊藤さん、あまりに寒くて手が滑っちゃったよ」
俺が形だけで謝る。そこに感情はない。
後ろから歓声が起きる。ったく、騒がしいなぁ、あいつら。
伊藤さんは濡れたハンカチをポケットに戻し、何も言わず椅子を引き、立ち上がった。
伊藤さんの長い黒髪からと制服からは雫がぽたぽたと床に落ちている。
制服までびちゃびちゃだ。こりゃこたえるだろうな。今日寒いし。
そんなことを考えていると、突然伊藤さんが口を開く。
「泉くん」
ん? どうやら俺を呼んでいるようだ。一度も俺に話しかけてこなかったのに何故だろうか。
「何かな? 伊藤舞子さん」
突然の奇行に対しても俺は冷静に無難な返事をする。
すると、彼女の無表情はみるみるうちに上品な笑顔に変わっていく。
それは、初日の時に浮かべたあの笑みと似ていた。
「もういじめられてないんだね、よかったね」
そして、笑顔でそう言った。
「本当に、よかったね」
そして、笑顔でそう言った。
すると彼女は一瞬間をおいて悲しそうな表情を浮かべたがすぐに無表情になり、水浸しのまますたすたと逃げるように教室の出口へ歩き出した。
決して悲しさなど見せない彼女の表情が崩れた。
何をされても、何を言われても決して崩れない彼女の表情が崩れた。
動じなさすぎて内心バケモノ呼ばわりしていた伊藤舞子という人間の表情が崩れた。
それを実際に垣間見た俺の中で、何かが蠢きだした。何かにヒビが入る音がする。
そして、彼女の去り際のセリフが脳内再生される。
『本当に、よかったね』
………………
………………………………………………
よかったね……?
よかった。ああ、そうだ。よかった。
俺はいじめられることがなくなった。
よかった。俺は、俺はもういじめられていないんだ。
いじめの対象ではなくなったんだ。よかった。
あいつらと同じ、いじめる側になったんだ。よかった。
あいつらと同じ、絶対的な強者になったんだ。よかった、よかった。よかったよ。
よかった。本当によかった。
よかった。本当によかった!
………よかった?
本当によかったのか?
本当によかったのか、泉双太郎。
一人の女の子を身代わりに、俺だけ助かって本当によかったのか?
誰かを犠牲に自分だけが助かっておめおめと青春を謳歌して、それで本当によかったのか?
いや、よくない。
いいわけねーだろ。
女の子を盾に辛いことや苦しいことから逃れるなんて最低最悪の所業だろ。
そんなの、男として、人間として最悪だ。
かなりかっこ悪いじゃないか、俺。
俺はすべてを達観して悟っていた気がしていた。
半年間のいじめに耐え切って今は自由を得ている。
"一人の女の子を教育する"ということと引き換えの自由だ。
俺の自由は伊藤さんの平和をぶちこわす形で成り立っている。
そうだ、俺は最高にかっこ悪い。
教育ともっともらしいことを言っても、実態はただのいじめだ。
最高にかっこ悪い。最低にかっこ悪い。
おまけに必死に耐える彼女をバケモノ呼ばわりし、さらに傷めつけた。
最高のクズだ。俺はクズ。俺は最低最悪のクソヤローだ。
でも、でも、でも、
…仕方ないじゃないか。
誰だっていじめられるのは辛いさ。誰だって苦しいさ。
辛さから解放されるなら、容赦なく人は人を売るんだ。
どれだけ綺麗事を並べても最終的には自分が助かればそれでいい。それが人間ってものの本質だろ。
ましてや、相手は転校したての知らない奴なんだ。
言葉は悪いが正直、彼女は俺の中では軽い存在なんだ。
内心としてはバケモノとさえ感じていたぐらいだ。最早人間としてすら見てなかった節がある。
彼女には彼女なりの人生があって、これまで順風満帆だったのだろう。
だからどうした? だからなんなんだ。
俺には関係ないことじゃないか。俺の人生には全く関係のないことじゃないか。
これがもし、"妹をいじめてこい"とかだったなら、俺は自分がいじめられることになんの疑問も抱かずいじめられただろう。
"そんな薄汚れた自由はいらない"
"大切な人をいじめるぐらいなら俺が犠牲になる"
そう、胸を張ってかっこ良いセリフを声高々に言えたことだろう。
堂々と、清々しく、全てを享受し、おとなしく自らを犠牲にし、いじめられただろう。
だが、相手はなんの思い入れもない転校生だ。
全く知らない、ただの転校生。真っ赤な他人だ。
これはもう犠牲になってもらうほかない。
誰だって自分が一番可愛いからだ。
人間は誰でも、本当にギリギリまで追い込まれた状況において、助け舟が出されたらそれに乗っていくものだろう。だってそれが人間の本質なんだから。正体なんだから。
人間なんて皆薄汚れてるもんなんだよ。本質も正体も仕組みも禍々しく、自分本位でドロドロとした面が絶対存在しているんだよ。
多分彼女は常識人だ。まともだ。良い人だ。
転校初日から俺をかばってくれていたし、このクラスの異常性についてメスを入れてくれた。一石を投じてくれた。
なので、どう見ても疑いようもなく、彼女は間違いなく善人だ。
だが、そんな人を裏切ったのだ俺は。
彼女は恩人だ。俺をいじめから解放してくれた恩人だ。
彼女は救世主だ。俺の代わりにいじめられる救世主だ。
だが、だが、だがだがだが、もう………。もう、遅いんだよ。
もう何もかも、何もかもが、全部が全部遅すぎたんだよ。
俺は、後悔するには遅すぎた。
俺は気付くのが遅すぎた。
自分の過ちに、自分の愚かさに。
後戻りはできない。
俺はいつの間にかあいつらと同じになってしまった。
後戻りはできない。
もはや、本当のバケモノは俺だった。
後戻りはできない。
後戻りはできないんだ。
だから、彼女への"教育"は、終わらない。
決して終わっては、ならない。
5
年が明けた。天気予報によると例年よりも肌寒く、寒さはまだまだこの先続くそうだ。
一月初旬。始業式が始まった。
始業式も、雪が降っていたので、終業式は体育館で全校生徒で行われた。
小太りの校長の長い長い長い話が今年も繰り広げられる。
周りを見渡すと伊藤さんが目に入った。
相変わらず無表情だった。相変わらず何を考えているのかわからない女だ。
体育館用の靴は履いていない。俺は寝坊して遅刻してきたので知らないが、誰かに何かされたのだろう。
俺のせいではない。だから、余計な罪悪感は抱かなくて済む。
そして、終業式は昼前に滞りなく終了し教室。
今日の担任の話は適当な話ではなかった。
明日からついに彼女が復活するのだと言う。
彼女、ショートカットの茶髪を持つ"伊東未来"だ。
俺はそこまで関わりがなかったのだが、一年の頃みっちゃんと呼ばれ皆の癒やしとして親しまれていた可愛い女の子だそうだ。
そんな彼女が明日からクラスに復帰するという。
なので、みんなはあたたかく出迎えてほしいとのことだった。
お安いご用。このクラスは、団結力がすさまじいからな。問題ないだろう。
そして、そのあとに担任のいつもの適当な話が終わり、解散された。
今日の日直は俺だ。担任は俺に鍵を手渡した。
担任は忙しそうに教室から出て行った。
クラス内は、終業式と同じく、教室から去る者、残って友達と話す者、様々だった。
廊下もまた騒がしい。いつもの風景だ。
そんな中、伊藤さんは帰ろうと通学かばんを持ち出口へと向かう。
途中途中で、女子共にわざとぶつかられたり、制服にガムを吐きつけられたりしていた。
新年早々教育を受ける彼女は、今年も淡々と無表情だった。
それでも尚何も語らず、それでも尚何を考えているかわからなかった。
本当に気持ち悪い。本当に不気味な奴だ。
ここまでされて心が折れないなんてな。どう考えても気が狂ってるぜ。
いや、むしろ気が狂ったからここまで耐えたのか。なるほど、それなら合点がいく。
次の日、
「はい、昨日話していた通り、今日からクラスに復帰するクラスメイトを紹介する」
担任の後ろからひょこひょこと歩き入ってきたのは、茶髪のショートカットの小柄な女の子だった。
顔を見た第一印象から彼女は、果てしなく元気で怒りも悲しみも知らない無垢で純粋で無邪気なイメージだった。
柔らかそうな肌に、穢れを知らない茶色の瞳。思わずこっちまで笑顔になってしまうようなニコニコとしたパーフェクトな笑顔を浮かべた元気そうな可愛い顔を、ぱっつんといわれる前髪が幼さを際立たせる。
「あー、無事退院しました! 伊東未来です! あーえー、三度の飯より食べることが大好きです! このクラスはあとちょっとですけど、よかったらよろしくしてください」
伊東さんは太陽のような眩しい笑みを浮かべ、元気そうに名乗り終わると、せわしなくお辞儀した。
そして、教室にはたくさんの拍手の音が立ち込めた。
「みっちゃーん!」
「会いたかったぜ!」
「みんな心配してたんだぜ」
「おかえり」
「おかえりー!!」
そんな拍手歓声の一つ一つに笑顔で手を振って答える伊東さん。
「席は一番前だ。座ってくれ」
担任は、教室の前扉側にある伊藤さんの前の席を指さす。
「噂の転入生さん? よろしくねー!」
座るときに笑顔とともに、元気な声で伊東さんは伊藤さんに軽くあいさつをした。
周りはそれを見て笑っていた。ただし笑っているのは目だけだ。
クラスは人間に向けるべき目ではない目で伊藤さんを見て笑っていた。
そこに心など微塵もないようだった。そこに心など微塵もこもってはいなかった。
「よーし、じゃあ今から朝礼を始める」
そして、今年も学校が始まった。
6
今年も、いつもどおりの朝礼が終わり、しばしの時間。
さぁて、今年はどんな教育をしようかな。と俺がそう思って計画をしていると
クラスメイトは伊藤さんには目もくれずに、伊東さんへアニメやドラマでよくある転校生への質問タイムのような、言うなれば退院明け質問タイムに入った。
「なんて病気だったの?」だの、「手術どうだった?」だの、「SNSはやってるの?」だの、様々だ。
この調子で、復帰してきた休み時間のすべてで質問攻めにあっていた。
その間、伊藤さんの教育は行われなかった。
昼休みに伊東さんに教育を実演して見せてやるためだ。いわばサプライズというやつだ。
たくさんの質問攻めにあっていたが、伊東さんは全然答えられなかった。
どうやら頭の回転は良くないようで、己の情報処理能力を超えたらしい。
終始「えっと、えっとね!」と言って質問に追いつけていない様子だった。後半はもう「あわわわわ」と涙目になっていた。
それらの質問の中で、かなり軽くだが、伊東さんの情報がわかった。
彼女は食べることが何よりも好きなのだ。特に好きなのは食べられるもので、食べ物はお腹いっぱい食べるのが幸せだそうだ。何言ってるのか全く分からないが、食べることだけは好きらしい。
クラスの皆が口をそろえて「お見舞いに行けなくて残念だった」と言っていたが、お見舞いへ行けなかったのはなんらかの理由で"お兄ちゃん"が面会を全て断っていたという。
他の質問については、もはや返答が意味不明で、答えが答えの体を為していないものばかりだったので割愛する。
そして、復帰してきた日の、彼女の二年生初の昼休みのことである。
いろんな話題がある程度続いたあと、主犯格の男がこのクラスを紹介した。
一致団結していて仲がいいだとか、揉め事が一切ない世界一のクラスだとか、すばらしいクラスのエピソードや、素敵なクラスメイトの紹介から始まった。
伊東さんはそれら全部に頷き興味深そうに聞いていた。
「そっかー! すっごく楽しいクラスなんだね!」
と、最後の説明が終わったときに無邪気な笑顔を顔いっぱいに作りながらそう言った。
「いいねーみっちゃん! 相変わらず元気でかわいいぜぇ!」
と、阪南が言うと教室が、盛り上がる。
「まーまて皆の衆! しずまりたまーえ!」
なだめるリーダー箕面一弥。そして静まる教室。
「このクラスには一つ特殊な部分があるんだけど、今から説明するから三学期という短い間だけど、よく覚えていってくれよな」
と箕面は、前置き。
「まず、このクラスにはとある生き物を飼っているんだぜぇー」
そう言った。まぁ、普通に伊藤さんのことだな。
「え? ほんと? ほんと?」
そう言って伊東さんは目を輝かせながら教室を見回す。
まぁニコニコと笑顔が咲き乱れる周りの人だかりでろくに見えないのだろうが。
「そんなものないよ、いないよ。どこどこどこ?」
見回すのを諦め、しばし考え込んだあと言う。
「はいはい! 答えは伊東さんの後ろでぇぇす!」
一人の女子中学生が、主犯格の男により、指を刺された。
「え? どういうこと?」
伊東さんが椅子ごと振り向き、伊東さんを見つめる。
笑顔の花の中に佇むのは、一輪の無表情の花だ。
「この人はな、伊藤舞子さんっていうんだ」
俺は言われる間もなく立ち上がり、伊藤さんの近くに俺が立ち、そう言った。
「十月に転校してきてな。さっき言ったような素晴らしいクラスの和を乱したから仕方なくみんなで教育しているんだ」
俺は説明しながら伊藤さんのポニーテールを引っ張る。
「…っ」
掴まれた伊藤さんが少しだけ痛みを混ぜた息を漏らしながら、俺を黒い瞳で見つめる。
いや、これは睨んでるのか? 少し瞳が潤んでいるようにも見えるが、基本的に無表情なのでちょっとわからないな。
「まぁ、数ヶ月かけてみんなで教育したんだが、まーだ反抗的なんだよなぁ。今学期からはもうちょいハードにすっかなーと考えてるんだが」
主犯格の男が、伊東さんのすぐ近くでそんなことを言った。
「へー」
伊東さんは無感情で生返事。
声色は冷たく、なぜかその顔からは先ほどまでの太陽の如き笑みが消えていた。
「まぁ、どんな感じかちょっと見てみー、なんかインスピレーション湧いたら感想お願いな!」
箕面は爽やかな笑顔を伊東さんへ向ける。
「おい、やれ」
伊東さんへ向ける声とはうってかわって低いトーンで、箕面は俺へ命令する。はいはい、はいはい、わかってますよ。
「いいかい伊東さん、教育っていうのはこんな感じなんだよ」
と、伊藤さんの通学カバンから、伊藤さんが毎日持ってきている伊藤さんの黄色いお弁当箱を取り出す。
いつも無抵抗な伊藤さんが俺の腕をつかむ。俺は驚いて少し動きが止まる。
が、すぐに動き出す。そして冷静に思うのだ。なんだこいつ、そろそろ心が折れそうだから妨害する気か。と。
「おーいおい、なんだよなんだよ、おとなしくしとけーって」
貝塚が、妨害を妨害する。
「サンキュー。はいこれをー」
俺は黄色いお弁当箱を手にとって、妨害をやめて貝塚が引くのが見えたところで、
「こうします」
座りながらこっちを見据える伊藤さんの頭からかけた。
伊藤さんは頭からお弁当まみれになる。
たまらず、うつむく伊藤さん。沸く教室。
表情は全く見えないが、さすがにこれは堪えただろう? どうだ?
弁当の残骸が目や鼻にでも入ったか? どうだ?
「まー、こういう教育の仕方なんだけど、伊東さんはどう思…ぶっ」
伊東さんへと振り返った瞬間、俺の鼻っ柱あたりに刺さるような痛みが走った。
「…ぎあっ…ぐっああ…」
こんなに顔面に痛みを感じたことはなかった。だから、
「…な、なななな、なにするんだよ!!」
痛みで少しもがいたあと、俺はあわてて自分を取り戻す。
どうやら、俺は殴られたようだ。顔面を、それもグーで。
「なにするんだよ伊東さん!!」
俺は倒れ、殴られた鼻を押さえながら、右拳を握りしめる伊東さんに言う。
先ほどまで、騒がしく歓声が沸き起こっていた教室はすっかり静まり返っていた。
静かな空間に伊東さんの荒い息が響く。
「…君、君なにしてるの!? …ねぇ! なにしてるの?」
伊東さんは叫んだ。
伊東さんのすぐ後ろの箕面は目を丸くして鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
他のみんなも、驚いたのだろう。
「それ、手作りのお弁当だよ!? 伊藤さんのお弁当なんだよ!?」
耳をつんざく甲高い声。伊東さんの涙声の叫びが俺に刺さる。
「それを、それを、それを!!! それを! お前は!!」
そう喚いた伊東さんが俺の脇腹あたりめがけて蹴りを放つのが見えた。
「ぐふっ…やめ……て……、あぐぅ…」
俺は必死に腹を守るため、とっさにうずくまる。もう思考が定まらない。痛い。痛い。痛い。
「食べ物を粗末にするな!! なんでそんなことをしたの!? なんでなんでなんでなんで!?」
痛い、痛い、もうやめてくれ。
「伊藤さんに謝れ!! 謝れぇ!!」
痛みが脳みそすらも支配する。伊東さんの一言一句すらも痛みに感じる。
「何が教育なの!? ふざけないでよ!! 死ね!! お前なんか死ね!!!! 伊藤さんに死んで詫びてよぉぉ!!!!」
叫ぶ、感情のままに涙と共に叫び狂いながら、容赦なく背中に痛みを浴びせてくる。
痛い。くそ、なんだ超痛い。なんだ、痛い。
心も体もだ。他の奴らは何してる!? クソ…。
断続的に続く体への衝撃は、小さな女子の脚力とはいえ、貧弱な俺には非常によく効いた。その小さい体のどこにこんな力があるんだよ。クソックソクソッ。
意識が薄れる。沈みゆく意識の中、俺の思考は深く、深く、沈んでいく。
どん底だと思っていたが、さらにその底へと沈んでいく。
――報い。
くそ。
ああ。
そうか。これがそうか。これが報い、なのか…。
これが彼女への教育の代償なのか。そうか、それなら仕方があるまい。
俺はやりすぎた。俺は罪を重ねすぎた。
俺は、もう手遅れと諦め、全てを許容した。
箕面の命令だから。主犯格グループの命令だから。やらないと次にまたいじめられるのは俺だから。そうやって、全てを正当化した。
そうやって、伊藤さんをいじめ続けた。
認めるのが怖かった。自分がまちがっていたことを。
いつしか自分が奴らと同じになってしまっていて、手の施しようもないクズの一員になってしまったことを。
被害者側から、加害者側へと変わってしまったことを。
心が折れない伊藤さんを見てバケモノと思ったそれは、自分の弱さのせいだということを。
いじめられていた痛みを辛さを苦しみを、全て忘れていたことを。
認めるのが怖かった。全部全部、全部だ。
これが辛さか。人の辛さか。
これが痛みか。人の痛みか。
これが伊藤さんの辛さと痛みなのか。
俺は忘れていた。かつて自分がそうであったことを。そう感じて苦しんでいたことを忘れていたのだ。
そうか。そうなのか。そうだったのか。俺は思い出した。もう全部思い出したんだ。
そして、わかった。
そうだ。俺は罪を重ね、自らクズのどん底へと沈み、もはや俺の力では、己の弱い意思などでは収集のつけられない状態にあったのだ。
そんな俺を止められるのは。そんな俺を救ってくれるのは。
俺をいじめられるという苦しみから解放してくれた伊藤さんだ。
そうだな。俺は、俺はこうやって、誰かに止めて欲しかったのかもしれない。
ならば、俺はここで罰を受け、死ぬことすらも厭わない。
ごめんな。伊藤さん。ごめんな。伊東さん。
俺というクズはここで罰せられるべきなんだ。
どう謝っても許してもらえないような人間なんだ。だからここで罰せられ、死ぬべきなんだ。
俺は許しなどいらない。もう一度、なんてそういうものはいらない。
俺は、俺は、俺という悪が滅びさえすればそれでいいのだ。
この物理的な痛み。この痛さすら、最後にこうやって、俺というクズな人間を罰してくれることの喜びにさえ感じる。
「待って!」
どこからか大きな声がした。それはいろんな感情が入り混じったかのような、強い強い声だった。
そして、蹴りが止んだ。蹴られた箇所の痛みを改めて実感させられた。
誰だ? あの声は。…もしかして伊藤さんか? でも、伊藤さんがあんな感情的な声をだすとは思えないが。
俺が痛みに耐えるため閉じていた目を開ける。
倒れこむ俺と、さらに追加の蹴りを入れようとする伊東さんの間に割って入っていたのは、お弁当の残骸まみれの伊藤さんだった。
は? なぜ? なぜかばう? 意味不明だ。いいや、今みたいに意識が明瞭でなくとも、冷静でなくとも意味不明な行動だ。
俺は加害者だ。クズだ。どうしようもない悪だ。
だから今まさに罰を受けているところなのに。
そして、伊藤さん。この人は被害者。…なのに俺を助ける?
「待って伊東さん、私は平気だから落ち着いて!」
意味不明な行動をする意味不明な伊藤さんが意味不明なことを言う。
「はぁ、はぁ…どいてよ、どいてよ!」
伊東さんが息を荒げながら涙声で言う。
「どかない、どかないよ。この人は、この人はね」
「元は被害者なんだ」
そして――
7
泉くんは男子の中では比較的華奢で小さな体躯をしていた。童顔に分類されるであろうかわいい顔をしていた。
そんな、転校初日に見た泉くんは、被害者だったことはあいさつした時点でわかった。なぜなら教室がざわめく中、彼だけが明らかに孤立していたからだ。
私の想像通り、泉くんは女の子に二回ぐらいビンタをされて、お母さんお手製であろうお弁当をゴミ箱に入れられていた。
涙も流さず、いつものことのように受け流す、半ば諦めが見えたあの死んだ黒い泉くんの目が壮絶ないじめの日々を語らせてくれたようだった。
このクラスではそのクラスメイトを、泉双太郎という人間を、"ストレス解消ロボ"と呼んでいた。
いつから泉くんがいじめられていたのか、どうして泉くんがいじめられていたのかはわからないけれど、さぞ辛い辛い日々だったのだろうな。というのはその諦めきった表情と、悟りきった目から容易に想像できた。
弱り切った泉くんを、最高なんだと言って、見てみぬふりどころか、クラスで一致団結して盛り上がるあの異常な光景を、私は目の当たりにした。
異質だった。異様だった。狂気そのものだった。
私は、耐え切れず自分の意見を言った。私のいつもの悪い癖でズバズバと言いたいことを、思ったことを言ってしまった。
これは悪手だったようで、私は転校初日からクラスのすべてを敵に回してしまった。
このクラスにおいて異質なのは私だったようだ。
このクラスの雰囲気からして当然、異端者の私はいじめられるだろう。覚悟はしていた。せめて泉くんのいじめの半分でも肩代わりできれば御の字だろう。
次の日、当然のように私はいじめの洗礼を受ける。
声をかけられたかと思いきやいきなりお弁当を払いのけられ、地面にちらばった中身を踏み潰された。
それをやったのは、なぜかわかないけれど、いじめられていた泉くん自身だった。
泉くんにお弁当箱を払いのけられたあの日、私は泉くんの後ろで邪悪な笑みを浮かべるクラスの中心人物達を見た。そして思った、そして納得した。
「多分泉くんはあいつらに無理やりこういう醜いことをさせられている」と。
そして、得体のしれない私をいじめるため、泉くんを利用するあいつらをどうにかしようと、私へのいじめを強要する形で、未だに泉くんをいじめるあいつらをどうにかしようと、私はとある方法を思いついた。
そして、実行しながら私は毎日のようにいじめられた。
最初は泉くんだけだったけれど、いじめの加担人数は徐々に増えていった。最終的には、クラスの二十九人、いや泉くんも入れて三十人。私に様々なことをしてくる。
靴隠し、体操服隠し、笛隠し、机の中にいたずら、教科書に落書き、一人清掃作業。さらには、お弁当をダメにされたり、水をかけられたり、いきなり暴言をはかれることや、わざと聞こえるように悪口を言われたり、上げるととてもキリがないような内容のいじめを毎日毎日受けた。
酷い日は帰り道にクラスの男子に襲われそうになったりもしたけれど、それは対策をした。その次の日から、帰りの時間をずらし、人通りの多いところを歩くことでうまく回避できた。対策に問題はなかったようで、その日から今までで襲われそうになったことはない。
さっき挙げたようないじめの数々は、たしかに辛かったし、苦しかったし、痛かった。
正直言うと、誰かに助けて欲しかった。救世主を期待した日もあった。
当然、泣きそうになった。けれどそんな日は、その場では一切素振りを見せず、家で一人泣いた。
それで泣いて泣いて、すべてを流したから。だから多分、次の日からの私は正常でいられたんだと思う。
泣いたから我慢できたし、耐え切れたんだと思う。
それに、私がされたことなんて、泉くんがこれまでにされてきたであろうことに比べればまだまだ甘っちょろいものだろう。
泉くんはこれに耐えてきたんだ。と思うと不思議とすべてを無表情で耐えることができた。
私がいじめに耐え続けること、約二ヶ月。終業式の日。あの日はとびきり寒かった。
泉くんは、主犯格のグループと親しげに話していた。
そして、私はその寒い寒い日に泉くんに冷たい水を頭からかけられることとなった。
本当に冷たかった。本当の本当に冷たかった。
水もだけれど、それよりも泉くんの心が、目が本当に冷たかった。
泉くんは、最初からあの人たちの仲間だったのだろうか。
それとも、無理やり私をいじめているうちに、あの人たちの仲間になってしまったのだろうか。
「もういじめられてないんだね、よかったね」
何も言わずにリアクションもとらないつもりだった。
でも言葉がふいに口をついた。それは泣き言でも恨み言でもなく、最悪にも皮肉だった。
被害者である泉くんにだけは、皮肉だけは、冷たい言葉だけは言わないようにしていたのに。気をつけていたのに。
私は、被害者の泉くんに冷たい言葉をぶつけてしまった。
言ってしまったがもう遅かった。どうしようもなくなった私は逃げるように教室を去った。
逃げて逃げて逃げた。ひたすらに逃げた。何もかも投げ出すつもりで寒い寒い道を、家まで駆け抜けた。
濡れた服は身を切り裂く風によってより一層冷たく、凍える私を冷やしていった。
次の日は涙と共に少しだけ熱が出た。
そして同時に決めた。『三学期にこのクラスを破壊する』と。
そして始まった三学期目、昨日。新年早々当然のごとくいじめの洗礼を受けた。
私の体育館用の靴は、私がお手洗いに言ってる間に水浸しになっていた。終業式の日にも似たようなことをされていたのを完全に失念していた。
さすがにこれははけないので、はかずに体育館へ行った。
一度濡れた靴をはいたせいで、タイツから感じる体育館の冷たさは終業式のときより過酷だった。
そして始業式が終わり教室。担任の先生からの伊東さん復活の報。
伊東未来さん。イトウ。私と同じ名字だ。漢字は違うけれど。
伊東さんも狂っているのだろうか?
あの人達と一緒に残りの三学期間、私をいじめてくるのだろうか?
まぁ狂っていたとしても、いじめに加担してきたとしても何も問題はない。明日、このクラスは崩壊するのだから。私は伊東さんにいじめられることはない。
あと少しだ。私は自分を奮い立てた。
そして今日。伊東さんが復活し、伊東未来という人間を目撃した。
伊東未来という女の子を目撃する前は、この人もこのクラスと同じかな? と少し危惧していたのだが、伊東さんは違った。
他の人たちとは違った。心の冷たいクラスメイトとは違った。顔に嘘の笑みを浮かべるクラスメイトとは違った。
心に暖かさが、顔に本物の笑顔があった。
食べるのが何よりも好きで、笑顔を絶やさない、話し方から何まで、穢れを知らなそうな本当に良い子だった。
裏表などないかのようなキャラクター性で、クラスの空気が少しだけ柔らかくなっていた。
その笑顔は太陽のようで、私が持ってないものだった。次々表情をかえ、たどたどしく愛くるしく小さな体全てを必死に動かし、相手へと感情を表現するその様を羨ましく思った。
伊東さんはその短時間で、私の心を癒やしてくれた。
だから私は少しに手を伸ばせる。だから私は最後まで頑張れる。
そして、新参者の伊東さんにも当然このクラスの特殊性が語られる。
来る。決定的な証拠が、来る。
このクラスのことが語られた。私の存在、立ち位置についてもだ。
これは自白にも等しいことだ。
「"クラスの和を乱したから仕方なくみんなで教育しているんだ"」
決定的な証拠だった。私はこの時を待っていた。
うまく証拠は手に入れつつ、伊東さんを凝視し、分析に入る。
本当に裏表がない。私のトレードマークのポニーテールを引っ張られたのを見た彼女は多分怒っていた。
説明を聞く度にその笑みは消え、時間が進むたび声色は冷たさを増していった。
もうその時点でわかった。彼女は確実に異常者ではない。
そして異常者ではない人が、この惨状を見れば何かしら起こるはず。と、考えていた。
彼女は何かしらのアクションをしそうだった。あの人達と同調することはないはずだ。
黙って先生に言いに行くか、それともここで泣いて何かを訴えるか。どっちにしろその騒ぎに乗じて私はうまく計画を実行する。
そう思考を巡らせていると、彼女は驚くべきアクションを起こした。
泉くんを物理的に殴った。泉くんも男子にしては華奢とはいえ、小さな伊東さんよりも遥かに力はあったはずだ。にも関わらず文字通り殴り倒した。
私が泉くんにお弁当をかけられたことによって憤慨してとんでもない力でも出せたのか、はたまた彼女自身見かけによらず武闘派なのか、伊東さんは私の予想など軽々超え、男子中学生が衝撃で倒れるような物理攻撃をした。
食べることがなによりも好きな彼女だ。もちろん怒るだろう。わかる。
しかし、ここまで怒るとは、殴る蹴るをするほど怒るとは、一ミリも思ってはいなかったけれど。
とにかく、彼女、伊東未来というジョーカーが現れた。彼女は紛れもない私の救世主だ。
叫びながら泉くんへ蹴りを加える彼女。他のクラスメイトは誰一人として止めには入らなかった。
萎縮しているのか、それともあれだけ太陽のような笑顔を振るまいていた伊東さんが豹変したのに恐怖しているのか。それは定かではないけれど。大きな騒ぎだ。扉が閉まっているとはいえ、ここは扉側最前列。
当然、外には聞こえるだろう。
いつのまにか扉がそっと開けられ、廊下から野次馬が静かに集まって覗きこんでいた。
このクラスにまともな人間がきた。そこには"人間"がいた。
珍しく人間が来ていたのだ。このクラスに。
場は整った。もちろん、ちゃんと例の物も持ってきている。
音声証拠だけでは証拠不十分とみなされる可能性も考慮して、私の転入した次の日から今までの日記も持ってきた。
証拠は揃った。そして、これだけの目撃者が居る。
学校がこれを隠蔽する可能性は低いだろう。
もし、学校がこれを隠蔽しても、私はネットにこの証拠をばらまく。
そのために自宅のパソコンにバックアップはおいてある。
隠蔽されるされないにしろ、今日でこのクラスは終わりだ。
私は、証拠収集の機械のスイッチをオフにする。
崩壊へのカウントダウンは始まった。
あとは――
8
「ここまでが十月に私が転入してきてからの、このクラスでの出来事だよ」
伊藤舞子こと"まいこ"が今までの悲劇の説明を終えた。
「……。…うん」
その説明を聞いた伊東未来こと"みっちゃん"は、扉あたりまで避難していた主犯格グループのリーダー、箕面一弥を冷たい表情で睨みつける。
明るく温かみのあるみっちゃんから、冷たく暗い無言の圧力をかけられた箕面は、
「お、おお、おいおい!このクラスでいじめなんて、証拠はどこにあるんだよ!? ……そうだ、みんなにも聞いてみろよ。お前ら、このクラスにいじめなんてないよな!?」
箕面は真犯人にありがちなセリフを並べクラスメイトに問う。
「当然ないにきまっている!」
「あたりまえだ! 俺達は潔白だ」
「このクラスはこの学校の中で一番のクラスよ!? そんなことあるわけないじゃない!」
「つーかいじめとかあったら普通止めるっしょ」
「いじめなんて事実無根だ」
「そうだそうだ! 証拠を見せろよ! 証拠をよ!!」
「証拠もないのに決めつけるとか最悪だぞ伊藤さん!」
「ホント最悪だわ、伊藤さん」
口々に答えるクラスメイトで教室が騒然とした。
「うん。うんうん、そうだよね。普通そう言うよね」
まいこが静かに口を開く。
そこまでボリュームがなかった声にも関わらず教室が再び静まり返る。
「泉くんが口を割ってくれればいいんだけれど、それは最初から期待してなかったんだよ。そもそもの話、私が十月に引っ越してきた時点で、もうクラスの時間は半年を過ぎていただろうしね。泉くんはいじめをいつものことと捉えてる顔をしていたし、君たちがバレないように巧妙にやってたのかな? それとも泉くんが誰にも相談しなかったからかな? もし後者で、泉くんが誰にも相談していなかったとすると、泉くんは、親御さんに迷惑や心配をかけたくなかったんだろうね。自分がいじめられてるって思ったら心配させてしまうもんね」
一呼吸置いたあと、
「どうかな、泉くん」
まいこは鼻を押さえながら座り込む双太郎に問う。
双太郎は少し周りを見渡して、しばし考え、迷いに迷った様子で軽く頷く。
「そうだよね、私も後者だと思ってた。クラス規模のいじめなんて普通ならどう考えても誰かクラスメイトが大人に言うし、あの担任の先生の性格だ。聞いて止めないのはちょっと考えられないしね。だから、私も泉くんの考えのために、大変だったけど黙秘して耐えてたんだ。誰にも、一切素振りを見せずにね」
「でも、でもね、終業式のあの日でわかったんだよ。泉くんはもう被害者じゃない。泉くんは本当にもう被害者じゃないってね」
すこし間を置いて。何かを決心した様子で、まいこは続ける。
「もういいでしょう。もうそろそろ沈黙を破っていいでしょう? 私は十分耐えた。十分我慢した。そして、耐える理由も我慢する理由ももう失った。だから今日このクラスは崩壊するよ。ストレス解消? 教育? 残念ながらそれはいじめだよ。そしていじめは犯罪だ。君たちは現実に帰る時がきたんだ。クラスぐるみでいじめを行うなんてね。そんな狂いきった行事は今日で終わりだ」
と、まいこは制服のポケットから長細い携帯のような機器を取り出し、すたすたと自分の席に歩き、通学かばんから、ノートが五冊入った袋を取り出す。
「ボイスレコーダーとノート…? だよね?」
みっちゃんが言う。
「そう、今日放課後先生に持って行こうと思ったんだ。これを見せて聞かせて、全てを終わらせようとしていたんだ。君たちは証拠はあるのかって聞いたよね? うん、証拠はね、ここに全部全部詰まってる。私へのいじめの証拠がすべて、だよ。冬休み中でたくさん時間はあったからね、今日のためにまとめておいた。伊東さんのおかげでちょうどたくさんのギャラリーがいるし、ここでちょっと暴露してみようか、このクラスの異常性を、このクラスの陰湿さを」
ボイスレコーダーと日記を手にまいこは証拠を誇示した。
「お、おおおまえ! おまえええ!! それを今すぐ捨てろ!! すぐ捨てろ!!!」
箕面が何やら怒鳴り声を上げているが、外の野次馬に
「うるせぇ」「おちつけよ」「静かにしろや容疑者さんよ」
と、野次を飛ばされ、その場に押さえつけられていた。
他の主犯格グループはというと、皆一様に絶望の表情で地面にへたり込んで黙っている。
双太郎も鼻を押さえながら黙ってまいこを見つめ、加担していたクラスメイト全員、冷や汗をかき固唾をのむ。
下手な動きをするとどうなるかわからない。皆まいこに恐怖していた。
それらを見回したまいこが
「誰か先生呼んできてくれる?」
野次馬の方へ向いて声をかけると、すぐに数人が走っていった。
「この日記の方にはいじめの内容、日時、全部を細かく書いておいたよ。その日ボイスレコーダーでこっそり録音しておいた方には、休み時間のクラスの音が全部詰まってる。私に吐いた暴言失言、この機械が全部覚えてる。そして、帰ってからこの日記にその日のいじめの内容をすべて余すことなく記録してある。今までの分、全部だよ。今日の分は残念ながらまだ書いてないけれど、ボイスレコーダーには、君たちが伊東さんに説明した決定的な音声が残っているから、日記を書かなくても信ぴょう性は十分かな?」
ゆっくりはっきり語り終えたところにちょうど先生を呼びに行った野次馬が走ってきた。
「どうした? 何があった? 伊藤、なんか大丈夫かそれ!! ……お、おい泉!! お前も大丈夫かそれ!」
暑苦しく汗を書きながら現れた四十代の体育会系の担任は、鼻から真っ赤な鮮血を垂れ流しながら、床にすわりこむ双太郎にそう言った。
「先生、突然で申し訳ありません。これを聞いてください」
まいこは、ボイスレコーダーの、この昼休みの分を再生しようとする。
「やめてくれ! た、頼む、悪かった! 泉にも謝る! ほんとごめん!!」
叫ぶ。箕面が力の限り叫ぶ。それは悲鳴にもよく似た叫びだった。
押さえつけられていた箕面は、強引に包囲網を抜け、まいこの前に出ると、自らの額を汚い教室にこれでもかと擦りつける。土下座だ。箕面は無様に地に伏せ、まいこへ土下座をした。
「本当に申し訳ありませんでした! この通りだよ!! だから!!」
「…はぁ」
深くため息を吐き、
「いいよ、顔をあげてよ」
箕面の懇願する声を途中で切ったのは、当然まいこだ。
「後悔や懺悔や謝罪なんてそんなの後だよ。今は先生にこれを聞かせなきゃだめだ。君たちの罪はここで暴かれなきゃならない。このまま悠々自適に何食わぬ顔で三年生に上がれるとでも思ったかな? それはちょっと甘いんじゃないかな?」
言葉を一旦切り、まいこは周りを見渡す。誰もが固唾を飲んで見守り、誰一人として音も発していない。
そんな沈黙をまいこの足音が破る。
そして、
「普通ならこのまま、二年生の頃の鬼畜の所業を隠してのうのうと暮らし、卒業後も幸せにあるがままに思うがままに生きるんだろうね。いいね、夢みたいだね。最高だね。狡猾で賢い君たちのことだ。ひょっとしたらまたこんな狂った空間を作り上げてしまうのかもしれないね」
まいこはそう軽いトーンで言った。
そのあとに、
「……でもね、残念ながらね、それは無理なご相談なんだよ」
重みある低いトーンだった。その言葉は怒りが込められていた。二ヶ月間の復讐の声だった。その怒りは続く。
「君たちはやってはいけないことをしたんだ。私を怒らせたし、泉くんを傷つけたし、病み上がりの伊東さんを巻き込んだ。私は自分を救世主だなんて自称するつもりはないけれど、このクラスを救ってあげる。狂気とか、ダメな道とか、いじめの加害者とか、そういうのから救ってあげる。君たち風に言うならば"教育"だっけ? そう、これから君たちを教育してあげるよ。罪を犯したら、それ相応の代償を負って償わなきゃならないってことをね」
吐き捨てるかのように言う。尚も土下座する箕面へと。絶望し、へたり込む主犯格グループへと。硬直したり、すっかり震え上がったり、今にも逃げようとするクラスの全員へと。
「そして知るといいよ。人の痛みが、苦しみが、辛さが、どんなものかってね。だから、どうかこれからは君たち皆、暗い未来を歩んでいってほしいな。この罪は過去になり、きっと君たちの未来の足を引っ張ることになるよ。罪を永遠に引きずりながら、これからの未来を歩いていくんだ。それが、非人道的な行いを平然としてきた君たちに対する報いなんじゃないかな」
そう淡々とゆっくり続けたあと、まいこは涙を流す箕面の顔を見る。
「十分に、反省してほしいな」
と吐き捨てた。
箕面の顔は絶望に覆われていた。全てに恐怖する者の顔になっていた。
氷のように冷たいまいこの黒い瞳に刺され威圧された箕面は、頭を垂れ、
「ゆ、許して…許してく…ださい…」
言葉をどうにか絞り出すと、とうとう泣きだした。
「知ってた?」
それをさらに冷めた目で見つめながらまいこは言う。
地に伏せる箕面を見つめながらまいこは言う。
「罪には罰なんだよ。悪いことをしたら償わなきゃね。悪く思わないでね。私を恨んだり憎んだりするのは筋違いだよ。憎んだり恨んだりするなら、まず真っ先に、他でもなく自分を省みなよ」
と、いつものように、これまでのように淡々と、無表情で。
「それじゃ、がんばってね」
最後に上品な笑顔を周りに振りまき、そう付け足した。
まいこが親指で再生ボタンを押す。
クラス中に絶望が広がる。
そして――
異常なクラスは、一周年目前で崩壊した。
9
結果的に言うと、双太郎は鼻の骨を骨折し入院。
そして、まいことみっちゃんも含むクラスの全員が二週間の自宅謹慎を命じられた。
その二週間、まいこの自宅への謝罪訪問が途絶えることはなかった。
学校側は、保護者向けの説明会と全校集会を開き、この事件を世間には公表せずに収めようとした。
が、まいこの自宅のパソコンと、まいこ達のクラスの担任により、学校側のパソコンから、まいこの収集した"決定的な証拠の数々"がネットに公開されたことで、この事件は大々的に世間の白日のもとに晒されることとなった。
それにより、当然隠蔽に及んだ学校側と加害者側が大いにバッシングを受けた。
世間からのバッシングやマスコミの取材は元より、ネットの有志なのか、はたまた事件の関係者なのか、何者かによる完璧な情報収集でいじめの主犯格のグループはもちろんのこと。
伊藤舞子、伊東未来を除くクラスメイトの全員が素性と個人情報を暴かれ、ネット上や現実世界に拡散された。そうなると当然、彼らは転校を余儀なくされ、本当の意味で異常なクラスは崩壊した。
そして泉双太郎も遥か遠くへ引っ越して、街には一切姿を表さなかったという。
そんな中、教育委員会の特別措置でまいこは市内の近くの中学に編入した。
なぜかどうやったのか、みっちゃんもまいこと同じ中学に編入、二人は親友になった。
そしてそれから一年の間に、この事件がきっかけになり、全国でいじめの告白率が大幅に上昇した。教師間、学校間のいじめへの問題意識も非常に高まった。
結果、これらを受けたことにより、国内でのいじめについての議論やその具体的対策や厳罰化のための話し合いなどが全国各地で行われた。
そうしてやがて、いじめは犯罪になった。
いじめを正式に犯罪に分類し、年齢にかかわらず逮捕し、厳罰に処することができるようになるなど、具体的でより効果的ないじめ防止対策推進法が確立することとなった。
************************
そして今年は事件からちょうど二年目。年始。冬。
まいことみっちゃんは高校一年生になっていた。
二人は、学校帰りの夕方に雪の積もった公園に立ち寄っていた。
「まいこー、なんでここに寄り道?」
みっちゃんが興味深そうに聞く。まいこが自分からこんなアウトドアな寄り道を提案するなんてことは今までなかったためだ。
「知らない連絡先から、『この公園に来てください。話したい事があります』っていう文面が届いてたから来たんだけど」
と、まいこはスマートフォンの画面を見せる。
「おーホントだ。なんだろ、告白かな? 告白かな? うひひ、まいこかわいいもんね!」
みっちゃんは目を輝かせて笑いながら言った。
「ええ、告白? …だったらど、どうしよう」
まいこが顔を赤らめて本気で取り乱してるふりをして、すぐに真顔になった。
「なんてね、そんなわけないよ。そもそも見当がついてないなら、私が知らない人が待ってるところに行くと――」
「うひゃー、今年も雪降ってるねぇまいこ! ほらほら!」
みっちゃんはまいこの話を途中で切り、白い雪のじゅうたんが広がる地面へと飛び込むなり、手足をばたつかせ、楽しそうにもがく。
「あははは! 冷たい! 冷たいよまいこ! ほら!」
急に起き上がり、赤い手袋を装着した手で白い雪をすくってまいこの放り投げ撒き散らす。
「わかった。冷たい冷たい、冷たいよみっちゃん、すごい冷たいから」
まいこはかかった雪を払いのけながらかからない場所まで逃げる。
「まてまてまてー! まいこまてー! 雪合戦だー!」
雪を両手いっぱいにもち、みっちゃんがまいこに向かって走り寄った。
「ちょ、寒いのとか冷たいの嫌いなんだって私!」
まいこは、後方のみっちゃんのほうに視線を飛ばしながら、逃げる。
すると、誰かにぶつかった。
「あ、すいません」
紺色のブレザーを着こなす男子にぶつかり、謝られた。
「こちらこそ、ごめんなさい」
まいこは相手の顔を見て深々とお辞儀する。
まいこの黒髪ポニーテールが音もなく横にずれる。
「……伊藤さん?」
男が驚いた顔で名前を呼ぶ。
「…泉くん」
まいこが呼び返す。
「どしたのまいこー! おお、泉くん!? もしかして泉くん!?」
おいついたみっちゃんも笑顔を浮かべ、呼ぶ。
「あ、……ああ、……来てくれたんだ……!」
双太郎は手に持っていた荷物を構わず放り投げると雪に膝をつけ、額をそれ以上に雪につけ、土下座した。
「本当に……ごめんなさい」
双太郎は心から謝罪した。
「謝って許されることではないことはわかってる。俺があの日、二年前にしたことはこんな謝罪程度じゃ許されないことは重々承知だ。だけど俺にはこうして土下座する方法しか浮かばなかった。許されなくてもいい、懺悔させてほしい。伊藤さんには、助けてもらったのに。伊藤さんは、救世主だったのに。恩人だったのに。裏切ってしまった。俺は、俺は俺は、俺は大切な人を裏切ってしまった。俺はずっとこの二年間思い悩んできた、怖くて謝りにいけなくて、俺はずっと、どうやって謝罪の気持ちを伝えていいのかわからなくて。今まで逃げてきた。でも、言い訳するようだけど。ずっとずっと謝りたかった。だから今日、二年ぶりに帰ってきて俺は本当の意味で自分の大罪と向き合うことに決めたんだ。今になったのもすべて、俺の心の弱さが原因だ。ごめん。申し訳ない。本当に申し訳ありませんでした……本当に……!」
「この程度で許してもらえるなんて、……思ってない。今更謝られても困るかもしれない。それでも……、……それでも俺は謝らずにはいられないんだ。俺はずっとずっと弱くて脆いから、こんな謝ることしかできない。あの時はごめんよ、本当にごめん、ごめん、ごめん。ごめん、ごめんなさい……そして、そして……」
双太郎は叫ぶように、魂から心から、声をひねりだすかのように謝罪した。
それをまいことみっちゃんは黙って全部聞いていた。
そして、双太郎が深呼吸し、やや間を開けて、
「そして、ありがとう」
「俺をいじめから助けてくれて、もう人間じゃなくなってた俺を救ってくれて…。…君は、君は君は本当に俺の救世主だ」
双太郎は涙声で言うと、深々とさっきよりずっと雪に額をこすりつけた。
涙を雪へと染み込ませ、ずっとずっと、土下座していた。
「そっか」
そう言うとまいこは土下座する双太郎の前に立った。
「顔をあげて泉くん。救世主。その言葉で私は十分だよ」
まいこは息を吐く。白い息が空に消える。
「その言葉だけで、いじめられたかいがあったというものだよ」
そのまいこの言葉を受け、顔をあげた双太郎の涙目には、綺麗でお上品な笑顔を浮かべたまいこが写った。
「私も、あの時は蹴って殴ってごめんなさい! あの時は死んで欲しいなって思ったけど今は全然そんなことないよ!」
みっちゃんは深々と頭を下げ謝罪した。
「いや、いいよ伊東さん、俺あんな昔のことなんて気にしてないし、なにより食べ物を粗末にした俺が悪いんだ。本当にごめんなさい…!」
と、双太郎はみっちゃんのほうに土下座をした。
まいこは双太郎の前でスカートを気にしながらしゃがむと、
「ってことだよ。私もあんな昔のことなんて気にしてないからさ。過去は過去だ。私は今が楽しいからいいよ。そして、こうして時を経てでも謝りに来た君は許された。泉くんは罪と向き合えたんだよ。もう二年も悩んでくれていたんだね。いろいろ考えてくれてたんだね。それで十分だよ。それが十分なんだよ。泉くんの罪はたった今精算されたんだ。反省して、後悔して、思い悩んで、それでここに辿り着いた。今の泉くんはあの時の泉くんとはもう違うよ。遥かに高みに、遥かに立派になったんだ。だから、気にせず思うままにこれからも、反省を活かしながら進んでよ、泉くん」
まいこが双太郎の頭を軽く撫でた。
「あ、でも、私が言うのもなんだけど、いじめにあったらちゃんと大人に言うんだよ。大人や周りに。泉くんの味方はすぐそばにいるんだから、一人ぼっちにならないでね」
と優しく付け足す。
顔に涙を溢れさせ、言葉も出ない様子の双太朗を見つめ、何かを決したまいこは立ち上がる。
「寒いな。…そろそろ帰ろっかみっちゃん」
通学かばんを持ち直し、みっちゃんへ帰宅を提案する。
「えー雪合戦は?」
みっちゃんがかばんと制服についた雪をぱたぱたと払いのけながら言った。
「…明日でお願いしてもいい?」
「だめ」
みっちゃんは即答した。
「えー…」
「やだやだやだ今がいい今がいい今がいいよー!」
「あ、ごめん雪が積もってて聞こえない」
まいこはそれを軽く聞き流し、
「それじゃあね、泉くん」
「まったねー! 泉くん!」
二人は振り向き、双太郎に別れを告げると、白い雪のじゅうたんに小さな足あとを刻みながら進んでいく。
「そういえばみっちゃんってさ」
まいこが歩きながら切り出す。
「んん? どしたのまいこ」
みっちゃんは首を傾げる。
「私の救世主だったんだよね」
まいこはそう言い、無表情でみっちゃんを見つめた。
「あのとき、みっちゃんが太陽のような笑顔を振るまいてくれたから、ちょっとだけ私の心は癒やされて救われた。だから私は"最後まで"頑張れたんだよ」
足を止め、みっちゃんへと体ごと向き合う。
「だから、ありがとね。みっちゃん。大好きだよ」
いつもの無表情を笑顔にかえ、心の底から、まるでみっちゃんの真似をするようにまいこは笑ってみせた。
「……む」
まいこの笑顔に少し見とれたのか、動作が一瞬止まる。そしてはっとして、いきなりうつむくみっちゃん。
「おりゃ」
そして、みっちゃんは唐突にしゃがむと雪を手早く固める。そしてその顔が真っ赤に染まっていたのを気取られるのをごまかすかのようにまいこへ向けて投げつけた。
「ちょ、ちょっと、雪合戦は明日でしょ」
と、淡々と言いながらまいこも負けじと投げ返す。
双太郎は直立不動で見送った。
そうして、雪を投げ合いながらも前へと進む楽しそうな後ろ姿が見えなくなるまで。
「二人の救世主……」
目の前に残る二人分の白い足あとを見つめながら、公園で一人の男がぽつりと言った。
頬を使う涙を拭って、すっかり晴れた空を見上げる。
「ありがとう」
そう強く言うと、足元の溶け出す雪を踏みしめ遥か前を見据える。
「うん、俺も進もう。前に、進もう」
そんな決意の言葉は、暖かく白い息と共にそっと空に昇って、それから、冷たい白に消えた。
4.救世主の二重奏