想い出

―――あのとき撮った写真が色あせても、私の記憶が色あせることはない。想い出は、いつも鮮やかなままである。

 吐いた息が白い霞となって空へと消えてゆく。
 冬の早朝に散歩に出かけた私は、まるで冷水のような冷たさの中、一人林道を歩いていた。
 散歩など、何年ぶりだろうか。エンジニアの仕事についてから、安らぐ時間など無かったように思える。開発プロジェクトの一員として、朝早くから日にちが変わるまで仕事に没頭していた。二十代の私は、プロジェクトチームの中では若い方で、リーダーからも期待が持たれていたように思う。そのせいで、いささか気疲れもしたのだが。
 休日などというものは、実質無かったも同然だった。日曜日の朝も普通に出勤して開発に専念した。プロジェクトチームの中では、それが当たり前の光景だった。
「ふう……」
 大きく息を吐いた。全身を包み込む空気が、こんなにも気持ちの良いものだとは、知らなかった。
 プロジェクトの期間中にも、時々ではあるが休息日はあった。しかし、気晴らしに遊びに行ったりスポーツをしてみたりはしない。次の段階に進むための計画を立てながら、また明日から始まるハードスケジュールのために文字通り『休息』しなくてはならなかった。
 だが、そんなプロジェクトも終わりを迎えた。
 満足のいく性能とコスト、生産性をクリアした製品は生産管理部の厳しい審査に合格し、晴れて製品化することが決まった。現在は量産体勢に入っているというが、それは製造部の仕事だ。私は長い束縛から開放されたのだ。
 久し振りに長期休暇を取った私は、実家に帰ることにした。都会から遠く離れた、山間の農村にある私の実家は、現在は空き家になっている。両親は老後の事を考えて、都心のマンションを買ってやり、そこに住まわせている。
「しかし、こんなにも何も変わらないとは……まるでタイムスリップしたようだな」
 少年時代を過ごした故郷は、その当時とほとんど変わらない光景を留めていた。唯一、活気のあった商店街がシャッターの降りた店ばかりになっていることを除いては。
 私は、ゆっくりとした足取りで林道を進んでゆく。
 街が予想以上に寂れていたことは残念だったが、幸いなことに学生時代によく通っていた喫茶店はそのまま残っていた。外装や看板が少し変わっていたが、間違いなくその店だった。
 懐かしい思い出に浸りながら歩いていると、道が二手に分かれており、私は足を止めた。奥に続く道と、森の中に入ってゆく道とである。よくよく目を凝らすと、森の中へと続く道には苔むした石畳が敷いてあるようだった。
 私は好奇心旺盛な性格だと思う。
 昔ならば木の穴に躊躇なく手を突っ込んでいたような人間である。そんな私が、石畳の先にある物を確かめないで居られる訳がなかった。
「随分古そうだな」
 私は石畳の道を進んだ。堆積した落ち葉と土、そして生い茂った草に埋もれた石畳を、一歩一歩慎重に踏んでゆく。やがて、石畳は石段へと変わった。
 静寂の中、私が地面を踏む音と風で揺れた木々のざわめきだけが、森にこだまする。自然というものを、全身で感じていた。
 石段の向こうに、何やら地面に立っているものが見えた。小さな柱のようなものに、傘のようなものが被さっている。
「あれは……灯籠か?」
 近付いて行くに連れ、全体の形がはっきりとして来る。天辺から地面まで、深緑の苔に覆われているが、紛れもなく灯籠である。傘の下には蝋燭を置く四角い穴が開いている。
「灯籠があるということは、神社か寺があったのか」
 こんな森の中に、誰が参拝に来るというのだろうか。あるいは誰も参拝に来なかったから森の中に埋もれてしまった、とも考えられる。いずれにせよ、どんなところなのか確かめない訳にはいかない。私は少し早足で石段を登った。
 石段の先には、一面の白い砂利が敷いてあった。石段からまっすぐ前方だけには、砂利と同じ白い石の道が敷いてあり、その先には巨大な本殿がそびえていた。
 ここは、神社だったのである。
「なかなか大きな神社じゃないか」
 私は本殿の壮大さに圧倒されながら、境内へと足を踏み入れた。手を清める場所もあったが、長年の風雨と劣化によって、屋根はすっかり崩れ落ちてしまっていた。水を溜めていたであろう大きな石の窪みには、落ち葉が代わりに満たされていた。一本だけ残っていた柄杓が、寂しそうに石の脇に転がっていた。
「かなり古そうだ。もう何年も使われてないんだろうな……いや、何十年か」
 しかし、周囲の竹が防風林の役目をしているおかげか、境内の建物は何とか形を保っているようだった。中にはくすんでいるだけで使えそうな倉庫なんかもある。案外使われなくなってから長くはないのだろうか。
 普通の神社とは違う神聖な雰囲気の中で、純白の何かがはためいた。
「あっ」
 思わず声が出てしまった。
 本殿の正面、ちょうど賽銭箱と巨大な鈴を鳴らす大縄の所に、一人の女性が立っていたのである。白いコートの裾がゆっくりとはためいている。
 女性に声を掛けようか、しばし迷った。私は背を向けている女性に近づくと、少し距離を置いて声を掛けた。寒さのせいか、思ったより小さな声だった。
「こんにちは」
 まだやっと九時を回ったばかりである。こんにちは、はまだ早かったかもしれない。
「あ、こんにちは……」
 女性は少しびっくりした顔で振り向くと、長い黒髪をわずかに傾けて返事を返してくれた。
 歳は二十代だろうか。色白の肌のせいかも知れないが、顔に幼さが残っているように見える。化粧は薄いが、桜色のルージュがささやかなアクセントとなって整った顔立ちをさらに際立たせていた。
「ここにはよく来るんですか?」私は聞いた。女性は小さく頷いた。
「お気に入りの場所なんです。特に朝は空気が澄み切っていて、心が休まるんです」
「結構昔から、こんな感じなんですか?」
 私は軽く手を広げて言った。
「神社ですか? 十数年前に神主が亡くなってから、跡継ぎが居なくなってしまって……それからは足を運ぶ人も居なくなりましたね」
 女性は懐かしむように地面に視線を投げながら、小さく語った。
 それから、しばらくの時間を静かな境内で女性と過ごした。女性の名は、松村綾子というらしい。集落の端にある、そこそこ大きな屋敷に住んでいるという。
 毎日この神社にお参りに来ているというので、なぜ廃墟となった神社にわざわざ来るのかと尋ねると、綾子はこう答えた。
「探しものをしているんです」
「なにか無くしたのですか?」
「ええ、でも、何を無くしたのかが思い出せないんです。とっても大切な物だった筈なのに……」
 綾子はそう言うと、物悲しい目を本殿の奥に向けた。ご神体に縋っているようにもみえるその表情は、見ている私をも切ない気持ちにさせた。
 ようやく昼時になろうかという時間に、私は帰路に着くことにした。家まで送ろうかと申し出たが、頑なに断られてしまった。もう少し神社に居たいという。
 私も残っておくべきかと悩んだが、ついさっき知り合ったばかりの人間に付きまとわれては、あまり良い気分ではないだろうと思い、神社を後にした。

 どこかで昼食を摂ろうかと思ったが、ファミリーレストランはおろか、ファストフード店さえもないこの町で、外食を探すのは一苦労だった。
 しばらく歩いていると、わずかに記憶に残っている商店街に辿り着いた。平日の真っ昼間だというのに、ほとんどの店がシャッターを下ろしてしまっている。過疎化、という言葉が身にしみる光景だ。
「やっぱりあそこに行こう」
 そういって曲がり角を曲がった先に、目的の店は立っていた。
『吉崎珈琲喫茶』
 堅苦しい明朝体の看板が、シックなドアの上に掲げられていた。さほど大きくはないカフェだが、ちらほらと客は入っているようだ。ここなら軽食程度ではあるが何かあるだろう。私は年季の入ったドアを押し開けて中に入った。
 からころ。
 あまり響かない、安っぽい鈴が昔と変わらぬ音色を奏でた。店内には静かなクラシックがBGMとして落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「いらっしゃい」
 カウンターでグラスを片付けていたマスターは、低い声で言った。
 私は、カウンター席に腰掛けると、小さなメニュー表を開いた。さほど多くはない種類のメニューは、どれもオーソドックスなカフェと変わらない。
「サンドイッチと珈琲を。ミルクは無しで」
「昔と変わらん注文ですね」
 マスターは、そう言って目尻のしわを寄せて笑った。頻繁に通っていたとはいえ、自分の事を覚えていたとは驚きだった。
「私を覚えてるんですか?」
「勿論だよ。よく端っこの窓際のテーブルで課題を必死にやっていたのはよく覚えているよ」
「よく見ていますね」
「なにぶん小さい店だし、そんなに外から来る人もいないから、自然と顔も覚えるもんだね。……ほい、サンドイッチとコーヒー」
 マスターは、白い皿に乗ったサンドイッチと湯気の立つコーヒーを私の目の前に置いた。サンドイッチは軽く焼いており、香ばしい香りとうっすらと焼きついた網目の焦げが、より一層食欲をそそる。
「いただきます」
「はい」
 軽いさくさくとした食感と、絶妙なとろけ具合のチーズが最高に美味しかった。シンプルな料理ほど、作る人の腕の良し悪しが見えるというが、マスターの腕は最高級なのだろう。
 二切れあるサンドイッチの片方を食べ終わったぐらいに、マスターは私に話しかけてきた。
「実家に帰ってきたのかい?」
「ええ。といっても両親に会いに来たわけではないんですけど」
「ご両親は都会の方に?」
「はい、その方が老後も楽だろうと思いまして」
「そうだろうなぁ。こんな町に居た所で買い物は不便だし、病院も町外れに診療所が一件しかない。廃れていく一方だよ」
 マスターは諦めたように言った。
「商店街もシャッターを下ろしてる店ばかりでしたね」
「店だけじゃない。有数の米農家だった松嶋さんも出ていってしまったし、酒屋の吉岡さんもこの前亡くなって店を閉めた。あの旧家の松村家も今は空き家だ……」
 しみじみと語るマスターの言葉に、私はふと違和感を覚えた。松村? ついさっき聞いた名前だ。
「松村家というのは……」
「君は知らないか。この辺りに古くから土地を持っている旧家だよ。昔は松村家といえば自治会を取り仕切る有力者だったんだけど、色々あったみたいでね。今は廃墟になっているよ。だれも住まないし、取り壊す人も居ないんだ」
「そう、ですか」
 私は小さく頷くと、コーヒーカップを手に取った。少し考え事をしながら何気なくカップに口をつけたが、まだかなり熱くて飲めなかった。私は猫舌である。ふと顔を上げると、マスターが笑っていた。
「やっぱり昔と変わらんね」

 カフェから出た私は、ブラブラと歩いてみることにした。どうせ何もすることがないのだから、こういう時くらい無駄に時間を過ごすのも悪くないだろう。
 商店街を離れて、水田の脇道を歩いていると、ふと遠くに一件の家が見えた。正確に言えば、瓦の大きな屋根が草に埋もれるような格好だった。
「そうか、あれが『松村家』か」
 私は家まで歩いていくことにした。
 家の前まで歩いてくると、その家はかなり大きいものだということが分かった。石の塀がぐるりと囲んでいるようだが、その塀も草や蔦に覆われていた。庭に大きな木が植わっているようだが、手入れをする人間も居ないので伸び放題である。
 玄関先まで行ってみたが、入り口は錆びついた鎖と南京錠でしっかりと施錠されていた。
「ずいぶんと長い間、人は住んでいないようだな」
「そりゃそうじゃろう」
 突然の返答に、私は飛び上がるほど驚いた。
 声のした方を振り向けば、そこには暖かそうな半纏を着たおばあちゃんが、水の枯れた田んぼの草を抜いていた。正直全く気が付かなかった。
「ずっと前から、人は住んでないんですか?」
「ずっとっちゅうか、二十年くらいかのう。昔はここん一帯じゃ知らん人は誰もおらんほど有名な一家じゃったけんど、それから良うない事が続いて……」
「良くないこと?」
 私はおばあさんに聞き返すと、おばあさんは少し考えるように地面を見た。そして「あんまり大きな声じゃ言えんが」と前置きして話し始めた。
「三十年くらい前に、松村家にはえらいべっぴんな娘さんがおったんじゃ。頭も良くて行儀もいい、なにより優しい子じゃったんじゃけんど、それが自殺してしもうてな」
「自殺?」
「なんでも好きな男に振られたっちゅう話を聞いたわい。風の便りじゃけぇはっきりとは知らんけど、若さ故の過ちっちゅうもんかの」
「そうですか。すみません、こんな話になっちゃって」
 私はおばあさんに頭を下げた。おばあさんは、なにか思い出したかのように私に近付いてくると、声を潜めて話しかけてきた。だだっ広い田んぼのど真ん中で、声を潜める必要が分からなかったが、とりあえず聞いた。
「これも噂なんじゃけんど、その娘さんの幽霊が出るっち噂があるんじゃて。なんでも、自分の想いを受け取ってくれんかったその男を、今でも恨んで出てくるそうじゃ」
 おばあさんはどこか楽しそうにそう言うと、また草刈りに戻っていった。
 私はおばあさんに別れを告げると、実家へと向かって歩き始めた。もうすぐ夕方になろうかという時間だ。

 帰宅途中、私は今日の話を思い返していた。
 マスターから聞いた「松村家」は確かに実在した。家もちゃんと残っていた。
 では、松村綾子と名乗ったあの神社の女性は、旧家の松村家とは別の松村なのだろうか。それにしては、綾子の言っていた「集落の端にある、そこそこ大きな屋敷に住んでいる」という話が、不気味なほどピッタリと当てはまる。
 私が話した綾子は、幽霊だったのだろうか。
 しかし、その割にはあまり何かを恨んでいるような、邪悪な雰囲気は感じ取れなかったが。
 私は、明日の朝にもう一度、あの神社を訪ねてみようと思った。綾子は毎日あの時間にあの神社に通っていると言っていた。きっと明日も居るだろう。
 好奇心か、はたまた恐怖か。なんとも言い難い感情が自分の中に湧き上がるのを、私は感じていた。

 早朝、まだ日の出からさほど経っていない時間に、私は家を出た。口から漏れる吐息でさえ白い靄となる。雪が降るほど寒くはないが、放射冷却現象によって冷え切った大地には、朝露が光っていた。
 私は、再びあの林道を歩いていた。
 一度歩いた道だからか、足取りが軽く感じられた。どこも同じような風景の林道であるが、案外見覚えのあるものが多い。折れた枝、木の根に生えた傘の裂けた茸、剥げた木の表皮。人間というものは、自身が思っている以上にいろいろな情報を保持しているものだ。
 しばらく歩くと、あの分かれ道に辿り着いた。そのまま進めば森の奥に、石畳の道をゆけば神社へと行ける。
「まだ少し早いか」
 昨日より一時間と少し早いが、気にしない事にした。別に待ち合わせをしているわけではないのだ。
 私は、上着のポケットに冷え切った手を突っ込んで、石畳の道を進んだ。神社には、すぐに着くだろう。

「あら、今日は早いんですね」
 私の背後から声が掛けられた。
「昨日は私のほうが早かったのに……」
「今日は早く起きてしまいましてね。朝の寒さが良い目覚ましになりましたよ」
「確かに。今日は寒いですもんね」
 綾子は昨日と同じコートに包まるようにして、私の隣に並んだ。儚げな表情で本殿を見上げる綾子は、どう見ても幽霊には見えなかった。
「探しもの、見つかりました?」
「いえ、まだ……」
 綾子は小さく首を振った。繊細な髪がサラリと揺れた。不意に、その白い首が一瞬、露わになる。
 私は思わず息を呑んだ。
 美しい首筋には、うっすらと赤く鬱血した、縄の跡があった。螺旋状の縄の跡の周りには、細かい擦り傷のようなものも見えた。
 恐らく、首を吊った跡だ。
 周囲の擦過傷は、縄が緩んだ状態から張りつめた状態になるまでに付いた傷に違いない。
 私は、驚きを声に出さないようにしながら、綾子に聞いた。
「もしかしてですけど、探しものというのは大切な人との思い出の品だったりするんですかね」
 私は、あやふやなニュアンスで聞いてみた。カマをかけるつもりで聞いたのだが、綾子の反応は予想以上であった。
 心底驚いた表情でこちらを見上げてくる綾子は、掠れるような声を出した。
「そうです……そうでした……。何で忘れてたんだろう」
 綾子はどこか遠くを見るような目をした。心なしか挙動も落ち着かなくなっているような気もする。
「私、好きな人がいたんです。中学生の最後の冬、その人に告白したんでした……」
 綾子は、遠い目のまま話し始めた。
「でも、断られちゃって……ずっと好きで、中学生の殆どをその人のことを考えてたぐらい好きだったのに。その人は『付き合うのは君の為にならない』なんて、誤魔化されちゃったんです」
 長く想い続けていたのに、その恋が実らなかったというのはさぞかし辛かっただろう。
「ええ、とても辛かったです。世界の何もかもがどうでも良くなりました。胸に詰まっていたものが、すっかり全部、消えてしまったんです」
 だから……
「私は、この神社で首を吊ったんです」
 私は、その言葉を聞いて空を見上げると、大きく息を吐いた。やはりそうだったのだ。今隣に立っている松村綾子という女性は、既にこの世から旅立ったはずの、居ないはずの人間なのだ。それが今でも相手の事を恨んで現れると……
「いえ? 私はあの人の事、恨んでなんかいませんよ?」
「え?」
 私は驚いた。口に出していないはずの思考を読み取られたこと以上に、相手の男を恨んでいないという事に驚いたのである。田んぼで出会ったおばあさん曰く、恨んで出るというもっぱらの噂だったはずだが……
「あの人が私の想いを断ったのは、私のことを思っての事だったんです。それを知ったのは、私が死んだあとだったんですけどね」
「あなたを思って、断った?」
「はい。あの時は受験の追い込みの時期だったんです。そんな時期に私はあの人に告白しました。でもあの人は、私と付き合うことで私が受験に失敗することを危惧していたようです。私が死んでしばらくしてから、あの人がこの神社に来て私に語りかけていたんですよ」
 人を思ったが故の悲劇、とでも言うのか。何がどう転ぶかは分からないものである。
 しかし、それにしては疑問な点が一つある。未だにこの世に残っている理由である。
「あの人にお付き合いは断られましたけど、最後にお守りを渡したかったんです。結局、踏ん切りがつかないままでしたけど……」
 私は少し悩んだあと、まるで幽霊に見えない綾子に向き直って言った。
「なんていう名前の人です?」
 綾子は不思議に思っただろう。自分でも気付いていたが、私は楽しそうな笑みを浮かべていたのだから。

 からころ。
 安っぽい鈴が鳴る。夕方の喫茶には、客は一人もいなかった。今どきは喫茶に来るような学生は居ないのかもしれない。そもそもこの町には、学生自体が殆どいない。
「いらっしゃい。また来たね」
 マスターはいつも通り、カウンターでコーヒーカップを並べていた。奥でドリップされているコーヒーが、良い香りを漂わせていた。
「今日は何にするかい? ベーグルならあるよ」
「いえ、今日は注文しに来たんじゃないんです」
 カウンターに座った私が放った言葉に、マスターは首を傾げた。
 私は、ポケットからある物を出してカウンターの上に置くと、マスターの方に差し出した。
「これは?」
「お守りですよ。松村綾子さんから」
 マスターの目が見開かれた。まっすぐ私を見つめるその目は、理解出来ないというふうに震えていた。
「どこで……これを?」
「あの神社です」
「彼女が?」
「信じられないかもしれませんが、綾子さんがあなたに渡したかったと」
 マスターは恐る恐るお守りを手に取ると、乾いた目尻から涙を一筋零した。
「彼女は私のことを好きだと言ったんだ。でもちょうど高校受験を目前に控えた時だった。私はこの喫茶を継ぐことを決めていたから良かったんだが、彼女が失敗しては大変だった。だから、断ったんだよ。それがあんな事に……」
 マスターはお守りを見つめながら語ってくれた。そして、私の顔を見ると、消え入りそうな声で聞いた。
「彼女は怒っていただろう? 私を恨んでいただろう」
「いえ、そんな事はありませんでしたよ。ただ一言『元気で居てください』と伝えてくれと言っていました」
「そうか。ありがとう」
 静かな時間が、夕陽の差し込むカフェに流れた。クラシックのBGMが余計にしんみりとした空気にさせている。ふと、マスターが私にコーヒーを一杯、差し出してきた。
「お礼だよ」
「どうも」
「そうだ、ひとつ思い出したことがある。あの神社に神主がまだ居た頃、初詣にはあの神社を参拝していた。そこで毎年おみくじを引くんだが、末吉しか出たことが無いんだ。まるで末吉しか入っていないかの如く、ね」
 そういえば、私も今年引いたおみくじは末吉だった。昔は大吉などを引いて喜んでいた記憶があるが、最近は大吉が出た記憶がない。運に見放されたのだろうか。
「末吉ばかりだという話を、綾子とした事があるんだ。そしたら彼女、『末吉っていうのは、後々に吉が来るっていう意味なのよ』って教えてくれた事があるんだ。まさかこんなに後々になって、彼女が『死んでも想い続けてくれている』なんていう吉が来るとは思わなかったがね」
「私も、吉が来るまで気長に待っていましょうかね」
 私とマスターは、コーヒーを飲みながら笑っていた。昔と変わらない、甘いコーヒーだった。

想い出

お久しぶりです。優羽です。
長らく更新することができませんでしたけど、今回やっと更新できました。今回の作品は「神社」をテーマに、落ち着いたイメージで書いてみました。
友人に読んで貰ったところ、「幽霊が幽霊らしくなくて、普通の人間みたい」と言われましたが、私のイメージする幽霊というモノは、呪ってきたり襲ってきたりするような「畏怖の対象」ではなく、その人の「記憶」そのものだと思っているからだと思います。綾子もそうした「記憶」であり「想い出」の一部なんだと思います。
読んでくださった方々に無上の感謝を。それではまた。

想い出

過酷な開発プログラムが終了し、一息つくために実家に帰ってきた私は散歩をしていると、古びた神社を偶然見つける。そこで出会った女性は、「捜し物」をしているというのだが……

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-01

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