遊園地
一
遊園地の便所の裏の、陰になっている暗い所にクマは居た。便所の苔の生えたじめじめした壁に寄りかかって、文庫本を読んでいた。
僕と目があうとクマは慌てて文庫本を閉じ、おなかの辺りのポケットにしまった。そしてどうすることもできずにただその場に立ちつくして、僕の顔をじっと見つめていた。
正確に言うとそれは、クマの縫いぐるみを着た人間だった。この遊園地で縫いぐるみを着て客を楽しませているアルバイトの人かなんかだろう。
僕はなんだか見てはいけないものを見てしまった様な気分になり、僕とクマの間にはなんとも気まずい風が漂った。
何かを言った方が良いのか僕は迷い、その間しばらく僕とクマは無言のまま見つめ合っていた。
二
そもそも僕のような、年も二十七のいい大人の男が、女の子も連れずに一人で遊園地にいること自体がかなり不自然なものだろうことは明らかだった。
しかし僕は自分のアパートで昼食を食べたら、そのあとぶらっとこの遊園地を散歩することを日課としていた。
毎日同じことをやっていれば、そんな不自然さも日々の中に溶け込んでいく様に同化して、あとには穏やかな遊園地の風景だけが残った。
僕の住んでいるアパートはこの遊園地から五百メートル程しか離れておらず、人通りの少ない閑静なところにあった。
高校を出てからすぐ親元を離れそのアパートに移り住み、もう十年もそこで一人暮らしを続けている。
部屋に女の子を連れこむことは殆ど無く、あるとすればまあ高校の頃の同級生が何人かで、たまにワイワイと遊びに来る時ぐらいのものだ。それも必ず男女一緒に来る。
なかなか彼女ができない理由というのは、僕がなんの取り柄も無く顔もいまいちパッとしないということ以前に、僕の職業に問題があるようだ。
僕の仕事はミステリー小説を書くことであり、ちっとも売れてやしないからこんな風に言うのは恥ずかしいのだが、一応ミステリー作家という肩書きを持っている。
まあこんな売れない小説を書き続けているだけじゃ食べていけるわけがないから、朝早く起きて新聞配達のアルバイトをして、なんとか生活を賄っている。
いつも部屋に閉じこもりっきりで小説を書いているんじゃ、女の子との出会いのチャンスなどあるわけがないし、朝五時に自転車で街中を走っても、それもまた然りだ。おまけに暇があっても何処かに遊びに行こうともしないし、遊べる友達が僕にはいないのだ。
でもまあ今の生活に大きな不満があるわけでもない。
とりあえず平和で穏やかだし、これといった困難もない。
ただ時々、耐え難く、形のない焦りと空しさを覚えることがある。それも決まって、夜中にふと目を覚ました時だった。
何故だか、自分が毎日やっている全ての事―ミステリー小説を書いたり、新聞配達をしたり、遊園地を散歩したり、何処にも出掛けなかったり、誰とも口をきかなかったり―が、本当は正しくないことなんじゃないだろうかという気がするのだ。
どうしてこんな風に思うんだろうか。
自分の日常が正しいか正しくないかなんて考える必要のないことだし、少なくとも僕の生活は言ってみれば正しいんだ。
しかしどう自分に言いきかせようとがんばってみても、結局僕を立ち直らせるのは、その後の眠りと朝の光でしかなかった。
そうやって時の流れに体をあずけながら、また繰り返し耐え難い焦りを感じていくのだ。それが僕の日常なのだ。
ある時にいろんなことを考えることがあったり、何かに思いをめぐらせて哀しくなったりすることがあっても、それは日常生活というレベルにとどまり、それ以上になることはない。
日常生活というものに、何もかもがすっかり同化してしまっているのだ。そしてそれらは、いつでも取り出せる様な場所に、当たり前のように存在している。
全ては「日常生活」だ。
三
だが、僕は今、日常生活ではあまりお目にかかることができない場面に遭遇していた。
クマが文庫本?
まあ普通に考えればその人は単に仕事をさぼっているか休憩しているか、それだけなのだろうが、その時の僕の頭の中は上手く機能することが出来ず、ひどく混乱していた。きっと日常生活以外のものをあまり経験したことがないせいだろうと僕は思った。唯一混乱した頭の中で、何故その手で本のページをめくる事が出来たんだろう、とバカみたいにはっきりと考えていた。
思いがけない奇妙な場面に遭遇して、頭が混乱した時などは、結構そうゆう場違いな考えが頭に浮かぶものだ。
「よく本がめくれましたね、そんな指も殆どないモコモコの手で」
僕は無意識にそう訊いていた。何故そんなどうでもいい事を本当に訊いてしまったのか、自分でも驚いたのだが、何故か無性にそれが知りたくてたまらなかったのだ。
するとクマはしばらく黙った後、僕の質問に答える代わりに右手を少しだけ僕の方に差し出した。僕はその手をよく見てみた。手の先の縫いぐるみの生地が少しだけ破いてあって、そこから人間の指が植物の芽のように第二関節あたりまでニュッと生えていた。それで僕は納得した。
「ははは、そういう事でしたか。それは考えましたねえ」
そう言った後の僕の声は、誰にも相手にされないまま行き場を失い宙に漂っていた。
しばらくの間僕とクマはそのまま立ちつくしていたが、乗り物のある方で子供達のざわめき声が大きく聞こえてくると、クマは僕の横をすっと通り抜けて行ってしまった。
僕がそちらを振り向いて見ると、クマは子供達の歓声に迎えられながら、実にこなれた縫いぐるみ特有の愛想の良い動きで歩いていた。あっというまに子供達に取り囲まれ、その後はもう腕をつかまれて振り回されたり、体に抱きつかれたりと、すっかりおもちゃだ。しかしクマは嫌そうな顔一つせず(というのは比喩表現だが)、楽しそうに子供達のされるがままになっていた。
僕はそのなの違和感もない遊園地の一風景を眺めながら、なんともやるせない気持ちになった。
四
アパートに戻り仕事にとりかかろうとしてからも、僕はなんとなくあのクマのことを考え続けていた。
特に何を見たというわけでもないのに、不思議と今日の出来事が僕の頭の中で、特別なものになりつつあるような気がした。
直接話をしたわけでもないし、縫いぐるみの中の顔さえ見てもいないのに、僕はクマに対して言い表し難い親近感のようなものを抱いていたのだ。
何故そんな気持ちが沸き起こってくるのか、その時は想像もつかなかった。
ただ目の前に白紙の原稿用紙がそっと置かれているだけだった。
次の日の午前中、僕はいつもの倍のスピードで仕事をし、早めの昼食をとった。そして午前十一半頃にはいつもの「散歩」に出掛けた。
およそ「散歩」と呼ぶにはふさわしくないものになっていたと思う。
なぜなら僕は「散歩」の様にゆっくりと景色を眺めながら歩く様なことはせず、ただ遊園地に行く事だけを目的として歩を運んでいたからである。
そしてそれは全て昨日のクマに会うためだった。
五
遊園地はいつもと同じ様にこじんまりとあった。
僕は脇目もふらずに便所の裏に向かった。
クマは必ずそこにいる様な気がした。そこにいなければならないのだ。
クマは昨日と同じ様に便所の壁に寄りかかって文庫本を読んでいた。本の題名は昨日と違っていて、外国作家のものの様だった。
僕は当たり前の様にクマの隣に行き、当たり前の様に同じ格好で壁に寄りかかった。
クマは昨日とは違って慌てる事もなく、本から顔を上げようともしなかった。
「良い天気だね」
「そうだね」クマは短く答えた。
クマの声を聞いても僕には男女の区別がつかなかった。
男とも女ともつかない声で、歳もその声からは読み取れなかった。それはちょうど受話器を通して聞こえてくる音の様に、現実味というものが無かった。
「面白いかい?」
僕はいつまでも本から目を離そうとしないクマに向かってそう訊いてみた。
するとクマは僕の質問をきっかけとでもする様に、本をパタンと両手で閉じてポケットにしまった。
「面白くなんかないさ。ただこうするしかないんだよ」
「こうするしかって?」
「気持ちを鎮めるために本を読むふりをしることしかさ。本気で本なんか読んでるわけないじゃないか」
「気持ちが高ぶってるの?」
僕が訊くとクマはうんざりした様な顔をした。
「君は疑問はなんでも解決しなきゃ気が済まないタイプ?」
「そういうつもりで訊いてるんじゃないよ。そんな意味深な言い方する君の方に問題があるんだ。それに僕には君の事を色々と知っておく必要がある」
僕が言うとクマは不満そうに口をとがらせた。
「ふうん」クマはそう言って口を閉ざした。
昼の十二時を過ぎて日差しが強くなってくると、遊園地は少しずつ客が入り始めた。といってもやはりまだ混んでいるとはいえない。
あまり広さがない遊園地で、乗り物もごくありふれたものばかりなので、元々人気が低いのだ。
「それじゃあまず君の事を聞かせてくれないかな」唐突にクマは言った。
僕は驚いてクマの顔をまじまじと見つめた。
「僕の?」
「そう。人の事を訊く時はまず自分の方か名乗らなきゃ」
「それはいいけど君、良いのかい?そんなに仕事さぼってて。お客さんもだんだん増えてきたよ」
僕が言うとクマはふん、と鼻を鳴らした。
「大丈夫だよ。誰もこんな陰気な場所来ない。トイレならもう一つ新しくて綺麗なのがあっちにあるしね」
それで僕は数少ない自分の身の上話をせざるを得なくなった。
なんの面白味もない話だ。
名前は中村慎也。歳は二十七歳。東京生まれの東京育ち。売れないミステリー小説を書いているが、同時に新聞配達のアルバイトもしている。今は一人暮らしだ。毎日昼にこの遊園地に散歩に来る。両足が外反母趾だ。
「空しくないか?」クマが言った。
「まさか。それなりに楽しくやってるよ」
クマは呆れたといった様に首を振った。
「俺なら嫌だね、そんなのは。生活に潤いというものがまるで無いよ」
僕はクマの言葉に少しムッとして言い返した。
「でもみんなそんなもんだよ、日常生活なんて。平凡だからこそ幸せなんだ。それとも何だい、バードウォッチングでもしろって言うの?」
僕が少しむきになって言うと、クマはまた少し首を振って黙りこんだ。
クマは何かを思い詰めているようだ。
縫いぐるみの中のクマの顔は一体どんな顔をしているんだろう。
「君は・・・・・・どんな暮らしをしているんだい?僕はまだ君の顔さえ見ていないんだ」
「・・・・・・別にたいしたもんじゃないよ。週に五日位ここでバイトしてる。人付き合いがうまくいかなくて今まで職を転々としてきたんだけど、結構気楽にやれるバイトが見つかって良かったよ。あくまでもバイトだけどね。親と一緒に暮らしてて足りないところは頼ってるから、お金の面でつらいところはあまり無いんだ。歳は二十三で生まれは埼玉。映画を観る事と本を読む事が好きだ。ここじゃ読むふりしてるだけだけど、家じゃ暇があれば本ばっかり読んでるよ。君の名前は・・・・・・申し訳ないけど聞いた事無いなぁ。主にどんなのがあるの?今度読んでみるからさ」
クマは妙に明るい口調で実にペラペラとよく喋った。
息継ぎさえ十分にしていないかの様なクマの話し方は、さも相手に口をはさませまいとしている様に見えた。
僕は納得がいかないまま見守っていた。
「家はここから結構遠いんだ。バスに一時間も乗ってなきゃいけないくらいにね。一応一戸建てだけどものすごく狭くて汚い所だよ。いまだに弟達と三人部屋だしね。あとは、そうだなあ、足の方は外反母趾じゃないよ。残念ながら」
クマはそう言ってははは、と笑った。僕は笑わなかった。
しばらく沈黙が続いた。
「大丈夫か?」
僕の言葉がクマの耳に届いたのかどうか、クマの無言の反応だけでは僕にはわからなかった。
しかし実際のところクマはその間ずっと、僕の言葉の意味を頭の中で反芻していたのだ。
その証拠に十秒後にはクマは泣き出していた。
六
空は気紛れにもだんだんと曇り始めていて、辺りには雨の匂いさえ漂っていた。
これは降るかもしれない、そう思うと同時に、打って変わってしまった天気に感謝もしていた。
強く明るい日差しが今の僕達を世界に浮かび上がらせてしまったら、僕達は完全に行き場を失ってしまう様なきがする。
僕は目を閉じて微かなクマの泣き声を耳に感じながら、クマの気持ちが落ち着くまでただ待つ事が、唯一僕がクマに対して出来ることだと思った。
僕の心の中にはいつも、煮え切らないしこりの様なものがあって、それが時々真夜中に古傷の様にズキズキと痛んだ。
僕はそれを全て「日常生活」と割り切って、無理に頭の中から追い出そうとしていた。
しかし今、クマの涙の意味を僕の心が感じ取ると、僕は自分の「日常生活」がその痛みを中心として回っている事にはっきりと気づいた。
僕は救いを求めていた。
過ぎ去っていく日々の中に何をも見出すことが出来ずに、空しく怖かった。
小さい頃、いつも何かを追い求めていた。
二十年前、小学校に入学すると同時に僕は仮面を見に付けることを覚え、そしてそれはいつも張り付いた哀れな笑顔だった。
母は僕に毎日のように言って聞かせた。「どんなつらい時でも笑顔を絶やさないで。そうすればいつかそれが報われる時がくるから・・・・・。」
僕は母の言葉を心から信じ、どんなにつらくてもどんなに腹が立ってもどんなに泣きたくても、いつもヘラヘラ笑っていた。
ある日突然仲間から僕一人がのけ者にされた時も、クラスメートの財布が盗まれ、それをみんなして僕が犯人だと決め付けた時も、そして先生までもが僕を目の敵にして、事あるごとに僕を叱った時も・・・・・・。小学、中学、高校と、僕はいつか報われると信じ、笑顔を絶やさず暮らしてきた。
しかし、今の僕に一体何が残ったというのだろう。
母はいつか僕は報われると言った。
だけど、報いって何だ?安らかな生活?
僕にはわからない。何もわからない。わからないまま日々が過ぎ去っていく。形のない痛みだけを残して。
僕は救われるだろうか。僕は救えるだろうか。僕はクマを、自分自身を救えるだろうか。
七
クマが口を開いたのは一時間近くたってからだった。
「観覧車に乗らないかい?」
そう言ったクマの声はもう完全に平静を取り戻していた。
「いいよ」
僕達は観覧車のある方へと向かった。途中で従業員の人にクマが声を掛けられたが、適当な事を言ってやり過ごした。
観覧車の中は特有の親密な空気で満ちていた
僕達は向かい合って座った。
地面はゆっくりと僕達の体から離れていき、僕は一瞬世界のあらゆる物事から抜け出せたような気がした。
その時空からは既に雨が降り始めていて、それは音もなく僕達を世界から切り離し、すっぽりと包み込んでいた。
静かな雨だった。
「楽しめるかと思ったんだ。クマになれば」
「うん」
「だけどやっぱりだめだったよ。縫いぐるみの中から沢山の笑顔を見てきたけど、それは僕の方を向いていながら、僕の事なんてちっとも見ていないんだ。仕様がない事なのかもしれないけれど」
「うん」
「僕だって楽しみたいと思ってるんだ。だけど昔から気持ちを相手に伝える事がすごく下手で、人に優しくされた時はすごく嬉しいんだけど、その嬉しい気持ちさえもうまく表現できなくて、ぶっきらぼうになったりして、それでみんなは僕の事誤解していって・・・・・・」
「うん」
「このままずっと一人ぼっちなのかもしれないって思った。誰も僕の本当の気持ちをわかってくれることもなく・・・・・・」
観覧車はちょうどてっぺんを通過しようとしていた。
観覧車の窓から遠くの方にぼんやりと海が見えた。
それは静かな灰色の雨のカバーによって、深く暗い紺色に染まっていた。
「君の気持ちは僕にちゃんと伝わってるよ。君も僕も不器用で、思った事の半分も伝っていないんじゃないかってすごく不安になるけど、でも大事なのは、その人のためにどれだけ何かを真剣に考えられるかって事なんだ。だから、君はもっと幸せに・・・・・・」
僕の言葉はそこでとぎれた。
もう何も言う必要はない。
僕にはもうただ黙ってクマと僕の行く先を見守り続ける事しか出来なかった。
「窓ガラスが泣いているみたいだね」クマが言った。
「窓ガラスも、空も、雲も、海も、木も、家も、人も・・・・」
僕達は二人でいつまでも窓の外の景色を眺め続けた。
その景色たちの涙は、どこまでも深い灰色だった。
[了]
遊園地
最後までよんでいただいて、本当にありがとうございました。