狂言誘拐

捜査一課、特殊班の安藤に相談を持ち込んだのは、大学の後輩、吉川。彼が今付き合っている女性の子供が誘拐されたかもしれないというものだった。

 大学の後輩である吉川が相談を持ち込んできたのは、なんとなく一日が過ぎてしまった非番の、それも薄暗くなってからだった。
 警察官としての安藤を頼りたいというからには、楽しくない話しだとは思ったが、いつになく焦った声を案じて重い腰を上げることにした。
 この時間なら、ちょいと一杯呑みながら、なんて期待した面もあったが、出会った時の表情を見ればそれはオアズケ。ビールはコーヒーに変更せざるを得なかった。
 しかも悪い予感は的中するもの。聞けばその内容は、吉川が付き合っている女性の娘が誘拐されたのかもしれないというものだった。
 いわゆるシングルマザーある彼女とは、交際して半年余り。
 ひとり娘の目を盗んでのお付き合いは、時間の制約があって大変だったようだが、そろそろその子供とも顔合わせをしようかという段階。つまり順調に愛を育んでいるらしい。
 これまで秘密にしてきたのは、もちろん子供の気持ちを考えてのこと。もしうまくいかなければ、余計な気を遣わせずに済むからという判断だが、それが吉と出るか凶と出るかはともかく、小学三年生ともなれば、無条件に新しい父親を受け入れるとは考えられない。
 むしろゴタゴタは、この先にこそ待ち受けているに違いなかった。
 ともかく吉川が彼女の家を訪れるのは娘が不在の時だけで、何度か友達と遊んでいる姿を遠目に見たことがあるだけの存在。
 そしてそんな希薄な関係から、新たな一歩踏み出そうとしたその前日に”事件”は起きた。つまり”誘拐”だ。
 それが本当ならすぐにでも出向くべきだところだが、肝心の母親は狂言、つまり娘の自作自演だと言い張って、警察に通報する気はさらさらないという点が問題だった。

 雑貨店に勤める彼女、黒木ゆかりの休みは土曜日と平日のどこか一日。
 シフトに合わせて有給を取った吉川は、ついに彼女の娘、琴美との初顔合わせの日を迎えた。
 夏休み中にしたのは、吉川を気に入ってもらるかどうかに関わらず、時間を柔軟に使えると思ったからで、どこか一緒に遊びに行こうともなれば、吉川の夏休みを動かせば済む。
 しかし少し遅れて待ち合わせ場所に現れたのは彼女ひとりだけ。
 どんな反応をするのか、緊張の面持ちで待ち続けた吉川に告げられたのは、「娘に逃げられた」というひと言だった。
 深々と頭を下げた彼女は、それから言葉を濁さずに、娘の”反抗”について話しを始める。
 喫茶店のテーブルで向かい合ったところで、彼女が取り出した一通の手紙。どこにでもある茶封筒に差出人の名はなく、渡されるままに開いてみれば、それは紛れもない”脅迫状”だった。
 一読すれば、内容は単純明快。”娘を誘拐したから、金を出せ”というもので、身代金は一千万となっていた。
「こんなところで呑気にお茶なんか飲んでていいのかよ?」吉川が声を荒げても、彼女は落ち着いたまま笑みすら浮かべ気に掛けない。
 イタズラにしては悪質で、事実ならばじっとしていられないはず。しかも当の琴美が行方知れずだというのに、だ。
「あなたには黙ってたんだけど、琴美は最近、とにかく父親に拘っちゃって。これまでずっと死んだって言い聞かせてきたのに、”実は生きてるんでしょ?”って疑うわけ。
 で、この間ね、テレビの二時間ドラマで、子供が犯人の似顔絵を父親に似せて警察に申し出るっていうのを見たわけよ」
 そこまで話した彼女は、「あとは分かるでしょ?」と口元を綻ばせる。
「要するに、これはそれを真似ただけ。そうすれば、タダで警察が父親のことを調べてくれると思ったんでしょう。
 ドラマじゃ警察が目撃者捜しに来てくれたけど、琴美のところには来ないから、来てくれるように知恵を絞った。
 自宅のポストに手紙を突っ込んで、自分から姿を消せば、誘拐事件の一丁上がりというわけね」
「でも、小学三年生がそんなこと思い付くのかな? それに昨日からずっといないんでしょ?」
「確かにね。手助けした人がいるような気はする。けど、三年生にもなると結構いろんなことを知ってるものよ」
 いつも仲のいい五人でツルんで遊ぶことが多い琴美なら、例え一人じゃ思い付かなくても、文殊のなんとやらでアイデアを出し合ったのかもしれない。
 ただ、どこに隠れてるのか、なかなかしっぽを掴ませないのが癪に障ると苦笑した。
「そんな”かくれんぼ”みたいに……」吉川は呆れ顔のまま、思い付きを尋ねてみる。「携帯は? 持ってるんだよね?」 
「残念ながら電源を切られちゃって繋がらないの」
 仕事で不在がちだから、小さいころから肌身離さず持たせていた携帯電話。しかし敵もさる者。使いこなすという意味じゃ、子供の方が一枚上手なのかもしれない。
「携帯で居場所がバレることなんて、今時の子供ならみんな知ってるしね」
 何にしたって琴美は今も姿を消したまま。彼女の”言い分”は所詮、推測に過ぎない。
 あまりに楽観に過ぎないか? 万が一ということはないんだろうか?
 例えば、この紙一枚の脅迫状はプリンターで印刷されているし、ひとりで用意するは大変だ。文面だって考えなくちゃいけない。
 本人が犯人役をこなす必要はないし、ただ時間を置いてひょっこり出てくれば済むにせよ、それまでの間、食事とトイレは必須だ。 
 そもそも”事件”を起こせば、大騒ぎになることくらい分かりそうなもんじゃないか?
 吉川は必死に食い下がったが、彼女だけが知る何かがあるらしく、「警察に相談しよう」という進言は、ついに受け入てもらえなかった。
「大丈夫よ、琴美の宝物も一緒になくなってるし……。帰って来たら、縄で括ってでも連れて来るから、ちょっとだけ時間を頂戴ね」彼女の自信は最後まで揺らがなかった。
 確かにこれが狂言なら、こんな大胆な行動に出たタイミングは出来過ぎていた。
 初めから失格の烙印を押されたようで、吉川の気持ちは沈み込む。
 でも、それ以上に吉川は一抹の不安を拭えなかった。 
 そんな吉川が一旦彼女と別れることにしたのは”専門家”の存在を思い出したから。安藤に意見を求めてみようと思ったからだ。

 事情を聞き終えた安藤は、どうしたもんかと頭を捻りつつ、コーヒーのお代わりを注文した。
「どうせすぐに帰ってくるわ。あの娘は寂しがり屋だから……」
 彼女がそこまで言い切れる根拠とは一体何か? 単に母親の直感なのか、もっと何か裏の事情がある為なのか?
 まさか保護者に無断で誘拐だと決め付けて、”上”に上げる訳にもいかないが、吉川の言う通り万が一ということもある。
 ここまで聞いてしまったら放っておくわけにもいかないか。
 惚れた弱みか、あまり強気に出られない吉川に代わって、強面の友人が事情を窺ってやるとしよう。

 しかし彼女の家を外して、近所の喫茶店を待ち合わせの場所に決めた時、吉川が発したひと言が大きく”事件”を動かすことになる。
 安藤は今でも自分の甘さを、ちゃんと言い含めておかなかったことを悔い続けていた。

 ***

 現場はお世辞にも綺麗とは言えないくたびれたアパートの一室だった。
 間取りは2Kで、親娘二人での生活には十分な広さかもしれないが、娘がもう少し大きくなったら、きっと個室がほしいと言い出したことだろう。
 ”言い出した”と過去形になっているのは、生きた当人に出会えなかったから。
 自宅での面会を控えたのは、一応犯人の存在を想定してのことだったが、アポを取った時に吉川が漏らした”警察の人”というひと言が、まさかこんな結果を産むとは予想だにしなかった。
「自殺で間違いなさそうですか?」安藤が声を掛けると、ドアからのっそりと出て来た太っちょが振り向いた。
「パッと見ではな」
 人出不足なのか、現場にいたのはなんと鑑識のボス。その皺枯れ声が言うのだから、一発で怪しいと思える点はないんだろう。
「じゃあ、子供の方は?」
「そっちは窒息死ってところか」目に溢血点があるといい、死後一日くらい経過しているということだった。
「結局、後追いってことか。かわいそうになぁ……」
 どちらの遺体もこれから解剖に回されるので、詳細を知らせてもらえるようにお願いしておく。
 たまたま第一発見者になったから残っていたものの、これ以上ここにいても仕方ない。もはや”事件”は誘拐じゃなく、殺人事件。安藤の専門ではなくなっていた。
 それにこれから事情聴取に顔を出さなくてはならない。
 吉川のフォローをしてやらないと、今度はあいつまで死に兼ねない。 
 小さく手を合わせた安藤は、太い道まで歩いてタクシーを拾うと、捜査本部の置かれたA署を行き先として告げた。

 待ち合わせ場所の喫茶店に到着した時には、すでに陽も落ちて、辺りは真っ暗になっていた。
 コーヒーで空腹を凌いだのは、吉川が奢ってくれるであろう豪華な夕飯を期待したのことだったが、場所も時間も指定したのは彼女の方なのに、待てど暮らせど現れない。それどころか携帯まで通じなくなっていた。
 メッセージを残しても梨の礫。本来なら直接アパートに出向くのを躊躇うところだが、まさか吉川ひとりで行かせるわけにもいかず、結局少々化けることで妥協した。
 入り組んだ住宅地をくねくねと進み、アパートの敷地に足を踏み入れると、驚いたことに窓から明かりが漏れている。
 イラついた安藤が顎をしゃくると、吉川がちょっとビビりながらチャイムを押した。
 しかし冷静でいられたのはそこまでだ。 
 いくら鳴らしても反応がないのを不審に思ってドアに手を掛けると、鍵の掛かっていないそれがギッと軋みながら手前に開いた。
 狭い三和土の先はすぐにキッチン。彼女はその奥の洋室のドアノブに紐を掛けた状態で首を吊っていた。
「ゆかりさんっ!!」吉川が叫んで、ようやくやるべきことが脳裏に浮かぶ。
 靴を脱ぐ間も惜しんで上がり込み、紐を外して脈を取る。だが、鼓動の痕跡は見付からず、すでに身体からは温もりが失われていた。
 それでも救急車を呼び、心臓マッサージで蘇生を試みたのは、一縷の望みに掛けたから。
 救急隊員の到着が遅れたのは、細い道に行く手を阻まれたせいだったが、そうでなくても、多分彼女は息を吹き返さなかっただろう。
 それはまさに無念のひと言。
 だが、魂が抜けたように座り込む吉川をよそに、安藤の頭には疑問が渦巻いていた。
 彼女はなぜ死んだのか? このタイミングで死んだのは偶然じゃないだろう。
 ドアは未施錠。灯りは点きっぱなし。テーブルの上にあった携帯の電源は切れており、遺書のようなものは見付からない。
 彼女の見た目は自殺だが、そうでない可能性はいくらでもあった。
 現場を荒らしてはいけない。最寄りの交番から駆け付けた警官に身分を明かし、中に誰も入れないよう言い付けてから、そっと部屋を歩き回って見たものはしかし、これ以上ない最悪の光景だった。
 それは押入れの中で蹲る子供の死体。
 すでに死後硬直で身体は固く、死んでから一定の時間が経過しているのは間違いなかった。
 これが”琴美ちゃん”なのか? 
 その答えは居間の写真立ての中で見付かった。
 間違いない。間違いなく女の子は彼女の娘だった。
 誘拐されたはずの琴美は、自宅の押入れ冷たくなっていた。そしてその母親は安藤と会う前に自殺した。
 警察官である安藤と会う前に……。
 これでは誰がこの子を死なせたか、疑う余地もない。
 そして誘拐騒ぎの正体も、単なる”おフザケ”とは言えなくなってくる。
 ”犯人”に子供を誘拐されて殺された、哀れな母親となって事件の幕を引く。そんな恐ろしい筋書きが見えてこないか?
 つまり自作自演を試みたのは娘じゃなくて、”誘拐犯”とは、誰でもない母親だったというわけだ。
 警察に届けなかったのは、まだ死体を移していなかったから。自室で見付かったら、何もかも水の泡になる。
 当然吉川もその登場人物の一人にさせられた。
 娘と引き合わせようというその日に姿が見えない。彼は裏切らない証人だ。それも計画の内だったとしたら?
 確かに吉川の話した人物像とは掛け離れてはいる。
 しかし安藤が聞いたのは、その吉川からだけ。
 彼の前ではそういう人物を演じていたのもしれないし、彼と一緒になる為には、娘が邪魔だったのかもしれない。
 いずれにしても、そんな筋書きを狂わせたのは安藤だ。
 安藤が来ると分かったからこそ、彼女は観念した。
 まさか頼んでもいないのに、警察が来るとは思わなかったに違いない。

 *** 

「ウチの子、そちらに窺ってませんか?」
 彼女は吉川と会う前に、自宅から離れた方から順に、仲のいい四人の女の子に電話を掛けていた。
 今は夏休みだから、学校に行く必要はないが、琴美と彼女たちのやり取りは日常的。不自然に思われる前に先手を打ったとも考えらなくもない。
 いや、これも筋書きの一部だったのかもしれない。
 そして始末されずに発見された脅迫状からは、彼女のものに加えて、琴美の小さな指紋も採取されていた。
 母親が作成したのなら矛盾する気もするが、計画的なものだとしたら、子供に触らせるのはそう難しいことじゃない。
 そう、ここまでは安藤の想像の範囲に収まっていた。 
 問題になったのは、脅迫状の最後にあった”犯人の名前”。同姓同名者については捜査中だが、皆遠方に住んでいて、直接の繋がりはなさそうに思われた。
「多分適当に付けた偽名なんだろう」というのが捜査本部の見方。
 しかしそれが琴美の持ち物から出てきたことで、考え直さなくてはならなくなる。
 遺体の傍にあった手帳の中身は友達と撮ったプリクラだらけ。そしてその最後のページにあったのが、小さな切り抜き写真に添えられた名前。
 そこには”パパ”の二文字が添えられていた
 いないはずのパパ。戸籍上の父親は不在で、母親の両親も琴美の父親が誰なのかを知らなかった。
 なのに、琴美はパパの名前を知っていた。そして母親が犯行に使う理由はまったくない。
 この発見は再び狂言誘拐の真偽にスポットを当てることになる。
 誘拐犯が父親なら、いや、そうでなくても当然真っ先に調べが入る。それはまさに琴美が目論んだこと。
 これ以外の”パパ”の写真はおろか関係を臭わせる物証が一点も見付からないのが不思議ではあったが、琴美が父親だと信じていなければ、脅迫状に登場する理由がない。
 なにせ手帳は琴美の宝物。それこそ肌身離さず持ち歩いていた宝物だった。
 果たして今、この”パパ”はどこにいるのか?
 捜査の結果、それは意外なところで発見される。
 それは琴美の生まれるずっと以前に地方で活動していた、ほとんど無名と言っていい役者の芸名だった。
 琴美に目鼻がそっくりだから、本当の父親かと思われたが、すでに隠居生活を送る彼とはDNAの型が一致しない。つまりただの他人の空似に過ぎなかった。
 ただ、結果的には偽物だったにせよ、これを琴美が自力で調べたとは思えない。小学三年生に手掛かりのない人物の捜索など出来るはずがない。
 では誰が教えたのか?
 常識的に考えれば、母親以外には考えられないだろう。
 まったく何もないよりは、”顔”があった方がいいと考えたのかもしれないが、それが後に裏目に出たということかもしれない。
 琴美は無性に会いたくなった。何がきっかけだったのかは、もはや分かりようもないが、”死んだ”という説明は嘘かもしれないと考えた。
 そんな娘の行動に慌てなかった理由こそ、母親が狂言だと確信した理由こそ|ここ《 。。》にある。
 作り物の”パパ”の名前を知っている人物は他にいない。知っているのは琴美、ただひとり。
 だから彼女には余裕があった。
 けれど、だからこそ彼女は必死に捜さなかった。
 これから新しい父親候補と会わせようという時に反抗した娘。
 何も知らせていなかったのに、多分何かもかも気付いていた。
 そんな娘に無理強いは出来ないだろう。少なくとも時間が必要だった。

 いや、すべては想像の域を出ていない。
 仮に狂言誘拐を起こしたのが琴美本人だとしても、事故か、言い争いの末の悲劇だったという可能性もある。
 ただ、どんなことが起きたにせよ、それを巧妙に隠そうとした点が引っ掛かる。
 親娘は相思相愛。友人知人、誰に聞いても、子供を蔑ろにしたという声は聞こえてこない。
 それほどまでに愛した娘を死なせて、冷静でいられるものなのか?
 あまつさえ恋人まで巻き込んだ完全犯罪など思い付くものなのか?
 何かがおかしい。
 安藤はどうしても違和感を拭えなかった。 

 ***

 街には自慢の海、白い砂浜が東西に伸びる海辺がある。
 寄せては返す波打ち際を、毎朝散歩するのが本間の日課。そこへ無粋な男たちが近付いたのは、事件から一週間目のことだった。
 捜査の手が伸びたのは二人が住むアパートの隣人。
 琴美が小さい頃は、まだ妻が存命で、急な折には預けたこともあったという親しい間柄だった。
 当然、彼は隣の家の事情をよく知っていた。母親が忙しくなって、付き合いが疎遠になっても、琴美との交流は途切れていなかった。
 きっと母親もそのことは薄々感付いていたに違いない。
 多分、友達のところにいなければ、そこしかないと思っていたはず。逆に言えば、隣りにいると思えばこそ安心出来たとも考えられた。
 すでに初老と呼ばれる年齢になった本間こそ、琴美に手を貸した人物。それは不在の隙を突いての家宅捜索で、多数の物証に裏付けられた。
 そんな琴美が死に至った理由は語るのもおぞましい。
 あろうことか、彼は琴美にイタズラしようとしたのだと、後の取り調べで判明する。騒いだ琴美の口を塞いだら、呆気ないほど簡単に死んでしまったというのだ。 
 彼には関西に嫁いだ娘がいて、すでに孫も二人いる。その顔を思い浮かべると、どうしても出頭する気にはなれなかったと泣きながら謝罪した。
 そんな身勝手な言い訳はしかし、すべてを隠蔽する為に彼が取った行動に比べれば大した罪ではない。
 琴美の相談に乗り、すべての状況を把握していたのは本間一人。そして薄い壁は隣室の母親の行動や言動を余すところなく把握させた。
 母親を自殺に見せ掛けて殺害し、琴美の遺体を移し終えた彼は、後は素知らぬ顔で日常生活を送り続けた。
 先週までただの面倒見のいい老人だったはずの彼は、殺人者となっても、犯行現場となった自宅や隣室を目にしても、見た目も行動も変わらなかった。
 それが歳を重ねた末の達観というものならば、そうはなりたくないものだ、とつくづく思う。


 琴美の宝物の手帳からは、吉川の名前も見付かっていた。
 母親と付き合っている”恋人”のこともちゃんと知っていたわけだ。
 頼りなさそう。背が高い。顔はまあまあ。彼女の第一印象は平均よりちょっと下という感じ。けれど決して拒絶するような記述はない。
 琴美の”反抗”は、新しい父親を試そうとした。自分をどれほど思ってくれるのか、試そうとした。
 それは少し穿った見方だろうか?

 だが、その質問に答えてくれる人はもういない。
 それこそが殺人というの罪の重さだった。

狂言誘拐

狂言誘拐

捜査一課、特殊班の安藤に相談を持ち込んだのは、大学の後輩、吉川。彼が今付き合っている女性の子供が誘拐されたかもしれないというものだった。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-30

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