ここから。ここで。ここにいる。
ひそかに書いていた
編集後記「とりこ日記」続編。
大学生活の巻
私の華の女子大生生活が始まった。
大学生活は本当に楽しかった。
サークルの合宿、バーベキュー、ダンスイベント。
ボディボードも始めたし、誰かのまねをして移動手段を自転車からスケートボードにしてみたりした。
茅ケ崎海岸の景色は早朝が一番美しく、
朝方まで海沿いのファミリーレストランで友人たちと語り合い、
日の出の頃に浜辺へ移動し、30分ほど潮風にあたる。
その後それぞれ家に帰り、
短い睡眠をとって学校へ行くという生活をよくやっていた。
「湘南なんちゃら」という映画が作れるのではないかと思えるほど、
毎日が最高のロケーション、最高の時間であった。
しかしびっくり。
私は7ヶ月間で大学を中退したのである。
理由は、進路であった。
大学ではどういった職業に就くかでゼミを選んでいく。
英語をガツガツ使う通訳関係、教員、空港関係、
おおまかにこの辺の職業をキーに講座が枝分かれしている。
友人たちも、どのゼミに行くかキャピキャピ選んでいたが、
私の夢は「作曲家」であった。
もちろん、学生の中には「入れたから。」「近いから。」という理由でここに入ったものも多くいるが、
大学とかけ離れた夢を描いているものは、あまり見なかった。
仲のいい友人には、「作曲家なる」と打ち明けたことがあるが、
返ってきた言葉は「え、どうすんの?」である。
友人の一人にオリエちゃんという子がいたのだが、
その子は私と似たような感じでインテリアデザイナーを目指していた。
9月を過ぎたころ、オリエちゃんから
「私、中退して専門学校に行く」という報告を受けた。
「時間と学費の無駄」と明確な理由を吐いて、
オリエちゃんは後腐れなくスルッと大学を消えたのだが、
その出来事が私の中で大きく心を揺さぶった。
他の友人たちは「ある程度良い職場につけて25歳くらいで結婚したい~」という、漫画YAWARA!さながらの女子っぷりを発揮していたが、
この頃から「自分は断固たる決意を胸に上京したのだ」という
頑固おやじのような雰囲気を出すようになり、
誰も興味のない音楽のことばかり話すようになっていた。
大学でどんどん自分の道を進んでいる友人たち。
自分のいる場所はここではないと、きっぱり見切りをつけたオリエちゃん。
夢とは無関係の大学に来て、「将来は作曲家だ!」と言っているおバカな私。
今思えば痛々しいのだが、当時の私は「ここまで来た意味」をどうにか表現しようとしていたのだろう。
大学1年の後半になると授業以外は家に引きこもり、曲を作り、録音をする。
色んな音楽を聴き漁り、完全にオタク化していったのだ。
気付けば、友人たちの遊びにもついていけなくなり、
「大学に入った意味」を深く考えるようになった。
そして、入学から7ヵ月後。
親に相談し、条件を提示してもらい、
大学を中退、バイトをして専門学校へ行くことを許してもらった。
親には心から申し訳なく思い、何度も泣いて謝った。
自分の夢のために、親の苦労も希望も無視しているのだ。
こんな自己中バカ娘がいるなんて、本当に親御さんが不憫でしかたない。
猛反対されると思ったが、意外にも最後は「いいよ」と言ってくれた。
正直ガッカリしたそうだが、結果、いい方向に進んだから正解だったねと、
言ってくれるのは、本当に救いである。
後で聞いてびっくりしたのだが、
その時母は、知り合いの知り合いの知り合いに占い師がいるということで、その人に私を視てもらったらしい。
オカルトなど信じない母がそんな行動に出たので、私はよっぽど不安要素だったのだろう。
占い師曰く、私は「芯がしっかりしている子なので、大丈夫」とのこと。
そのアドバイスを参考にしたのかは不明だが、母は「なるようになるさ」と私に言ってくれた。
ということで、私の短い大学生活が終わった。
しかしながら、私が普通に「英語を使える仕事に就きたい」という女の子だったら、この大学生活は最高だったろうと思う。
茅ケ崎では本当に、いい時間を過ごさせてもらった。
当時の友人たちにも感謝でいっぱいである。
次回「バイト生活の巻」。
いざ茅ヶ崎への巻
無事に進路も決まり、入学の日が近づいていた。
実は私が通う大学は、東京・埼玉・神奈川に校舎があり、
自分の学部は神奈川県の茅ヶ崎という場所にあった。
九州育ちの私は関東の地理事情など知るはずもなく、
自分の中では埼玉も神奈川も「東京近辺」でくくっていたのである。
受験の際は、東京の校舎で試験を受けたため、
茅ヶ崎に足を踏み入れたのは、なんと入学の2日前であった。
正直びっくりした。品川から東海道線で45分。
品川から茅ヶ崎まで6駅と「なんだ大したことないじゃないか」と思われがちだが、
東海道線は通常の電車の「特急」クラスの電車なのだ。
どこが東京近辺だ。
受験する前に「兄の家から近い場所」という話で大学を決めたはずなのだが、
静岡まで行ってしまうのかと思うほど、電車はビュンビュン走っていく。
ひと駅すぎるごとに、親子そろって焦りが隠せないでいた。
引っ越しがひと段落したら、兄たちと夕飯を一緒に食べようと言っていた母も
兄たちをここまで来させることは困難だと判断した。
昼過ぎに茅ヶ崎に着き、急いで不動産屋に移動した。
個人経営の不動産で、インターネットで見つけ一通りのやりとりは済ませておいた。
気のいい社長で、当日すぐに入居できるまで段取りを済ませてくれていた。
物件は新築のアパートで、海から徒歩3分というきれいな住宅街にあった。
最高のロケーション、明るく真新しい部屋。
今の私から見ても、今までで一番いい家であった。
茅ヶ崎という地名自体、私は聞いたこともなかったのだが、
引っ越し場所を聞いた一番上の兄が「茅ヶ崎!!!?」と発狂した。
彼はサザンオールスターズの熱狂的ファンなのだ。
私のアパートはまさに東海岸という場所で、周りはサザン一色であった。
通りでは4月だというのに、波乗りたちがサーフショップに集まり、
おしゃれなスケボー少年なんかもチラホラいる。
通りから流れてくるハワイアンミュージック、海の匂い。
異国のようである。
茅ヶ崎という場所に足を踏み入れてから、1人暮らしへの不安など完全に吹き飛んでいた。
「ここで新しい生活がはじまるのか」
期待に満ち溢れた新生活が始まった。
18歳の春。
次回「大学生活の巻」。
番外篇001 -我が故郷の巻-
私の故郷は、全国でトップ5に入る田舎である。
通常、田舎は田舎なりに観光客が喜びそうな名所があるものだが、
「何が有名なの?」と聞かれると、非常に困ってしまう。
私はだいたい「ムツゴロウ(魚)」と答える。
ほとんどの人が「食べれるの?美味しいの?」と返してくれる。
答えは「骨だらけでまったく旨くない。地元の人間もほぼ食べない。」だ。
正月や祝い時に、ムツゴロウの煮付けを出されることがあるが、イワシの煮付けの方が格段に旨い。
その他の名物も群を抜いて珍しいものがなく、
たぶん「イカ」と言っても「へ~」くらいしか反応は期待できない。
話が盛り上がるとは思えないので、「まあ、パッとしないよ、全部」と話を終わらせる。
某有名な遺跡もあるのだが、以前、「男はつらいよ」で寅さんが訪れ、
「何もねえなあ、新築みたいにきれいだし」というセリフを吐いたのを聞き、
家族全員がごもっともな意見だと思った。
県は「やっとネタができた!」と思ったのか、遺跡が発掘されたその場所に巨大なテーマパークを作ったのだが
再現された建物からは新築のにおいがして、下手すりゃ私の当時の家よりきれいだった。
「出身芸能人は誰?」もよく聞かれる。
我が故郷の3代スターは、はなわ・江頭2:50・田代まさしと言った面々である。
紅白に出るような華やかな人はいないのか、と子供の頃は思ったが、
大人になるといいネタになっている。
ともかく、我が地元を精一杯アピールしたいところだが、
「行きたい」と思う人はほとんどいないだろう。
隣接する県を旅行する際に「ついでに寄る」くらいの気持ちで来てくれるのならいいのだが、
「2、3日遊びに行きます!」と言われてしまうと、プレッシャーで具合が悪くなる。
「この人は私たちに何を求めてるのだろう」と。
ただ、大きな名所や名物は少ないものの、
ある意味個性的な文化やテーマパークがなかなか笑える。
そういった、我が故郷の名所・名物も今後番外篇で紹介していければと思う。
次回は本篇に戻り、「いざ茅ヶ崎への巻」。
受験結果が出たの巻
卒業式も終わり、暇な日が続いていた。
私は家のリビングで、地元の専門学校の資料を眺めていた。
昔から英語だけは得意だったので、
国際関係の入学パンフレットをいくつか取り寄せた。
ど田舎の専門学校で英語を極めたところで、いったいどう役に立つのかは不明だったが。
東京で2月に受けた志望大学は、見事に不合格だった。
東京から実家に戻り、徐々に小鹿のようなメンタルが回復し、
「やっぱり東京・・・あきらめたくない・・かも。」
と、私の中の野望の塊がうずうず再起動し始めた頃の結果だったので、
結構な凹みようだった。
父と母はというと、これで私が地元から離れることはないと確信したので、余裕の落ちつき。
「ゆっくり、決めればいいんじゃない?」
そんな平凡な日々が数日続いたある日、
父が「ん??」という顔で封筒を持ってリビングに現れた。
封筒には○○大学と記載してある。
そうだ。
そうだった。
私はもう一校、受けていたのだ。
その大学の情報は、我が家族での中ではかなり薄く、
ただ、東京近辺にいくつか校舎を持つ大学で、
国際学部も意外と手の届く偏差値であったことと、
大学名が頭が良さそうな名前だったので受けたのだ。
ソファーでお菓子をくちゃくちゃ食べている私の前で、
父が封を開ける。
その時は素直な感情だったのだろう。
きらめく笑顔で私に紙を見せた。
「合格」
そんなこんなで、私は春から東京の大学に通うことになった。
さて、次回はちょっと休憩で『番外編』。
東京受験の巻(後篇)
明大前を降りると、学生達で賑わっていた。
ちょうど明治大学が新宿に校舎を移転させた頃で、以前よりは静かになったそうだなのだが、旧校舎近くに家を借りているものも多く、充分活気に溢れていた。
私は父について商店街を歩く。
飲みに行ける寿司屋はないか、きょろきょろしながら歩く父。
「東京の魚は不味いだろう。きっとそうだ。ためしに行ってみるか。」
とぶつぶつ言っている。
しばらく歩くと、首都高速が交差する大きな道路沿いに、
どんよりとした煉瓦のマンションがあった。
兄たちのマンションだ。
部屋に入ると2番目の兄が昼食をとっていた。
上の兄はバンドの練習がどうのこうので、不在。
思惑通りやっぱりその日、父は夕方から飲みに行った。
私はコタツでテレビを見ながら、朝からの出来事を思い返していた。
正直東京は、ワクワクするものが次々に目に入る。
まさにテレビドラマの世界だった。
都会的な街並み。都会的な人々。都会的な時間。
だけど、自分が変わってしまうかもしれないという不安も感じていた。
肩がぶつかったときの人の冷たい表情。
せわしい人の波、鳴り続ける携帯電話の音、聞こえてくる冷たい言葉。
前に進みたい自分と、中に入るのが怖い自分。
そんなことを考えながら、私はいつの間にか眠っていた。
次の日、父と共に志望大学へ向かった。
武蔵野線に乗った記憶がある。
通勤ラッシュ時の電車内で私は完全に押しつぶされ、父とはぐれかけた。
その時、父が「こら!寄りかかるな!」と私の後ろにいるサラリーマンに怒鳴りつける声が聞こえた。
サラリーマンは「すみません・・」と父にあやまり、私は少しだけ隙間を確保できた。
(今思えば、その男性のやさしさに涙が出る・・)
後に母から「そんなこと東京で言ったら殺されるけんね!」と怒鳴られていたが、その時の私は、父に心からありがとうと思った。
そして、家から離れようとしている私を、一生懸命応援する父の温かさに
胸が締めつけられる思いだった。
その日受けた大学は偏差値はそこまで高くないのだが、有名人も多く通う人気大学で、競争率は高かった。
私はここが第一志望であった。
しかし、大学へ着いた時にはほとんど小鹿のようなメンタルになっていた。
昨日よりも東京という街に衝撃を受けていたこと。
周りには目をギラギラとさせた受験生たち。
東京の大学を受ける私の矛盾した動機。
それを応援する父。
試験を終えて、電車の中で「お父さん、落ちてもいいや。落ちたら地元に残るよ。」と、一言話しかけた。
頭が良さそうな周りのライバルを見て、完全に落ちたと思ったのだ。
そして兄の家に戻った。
帰り道は、楽しかった。
よその国で観光をしているような気分で、街を歩いた。
もう東京にしばらく来ないだろう。
たまに一人で兄のところに遊びにこよう。
それでいい。それでいい。
次回「受験結果が出たの巻」。
東京受験の巻(前篇)
高校3年の2月。
当時、学校の勉強に追いつけていなかった私は、
予備校の高校生部門に通っていた。
(一応)進学校だったのもあり、
周りの友達はやたらとお金をかけて塾に通っていたが、
そもそも大学に行きたいという強い熱意がない私は、
そこに費用をかけることが申し訳なく、
月に数千円で通える予備校を選んだのだ。
考えてみれば、大学なんぞ行かずに、
勝手に東京に行って就職、もしくはバイト生活でいいじゃないかと普通は思うのだが、
我が田舎、そして我が家系は順序だてられた進路こそ幸福と考え、
小学→中学→高校→大学→就職といった、教科書かと思うほど規律的な進路が常識であった。
正月なんぞに親戚が集まれば、「どこを受験するのだ?」と言う会話で、髪の毛が抜けそうな思いをした。
「東京行って、作曲家になるんだ」とでも言おうものなら、
「親を悲しませる気か!」と怒りと哀れみが充満することが予想される。
事実私の大好きだった亡き祖父は、私の幼少期、数年に渡り、
「じゅんこ、お前は音楽の仕事などやったらいかんぞ。無論、東京なんぞ行ったら死ぬからな。」
と、すばらしくワンポイントで私に助言をしていた。
※その理由としては従兄弟のお兄さんがそうであったからである。
こんな家系がゆえに、有無を言わさず「大学進学」への道が待ち受けていたのである。
そして、2月。
いよいよ受験シーズンが近づいてきた。
受けたのは4つ。
福岡の大学2つと、東京の大学2つ。
福岡の大学はあきらかに受かるはずの無い、まさに「親の希望する大学」であったが、
スルッと全て不合格。
親はあからさまに落胆していたが、私はもちろん打撃ゼロ。
「東京に行きたいがためにいい加減に受けただろう」と言われたが、
それはあまりに私を誤解している。
私は親が思う以上に、本当にバカだったのだ。
そして、いよいよ東京の大学を受験する日が来た。
父と2人、早朝の電車に乗り福岡へ向かう。
地下鉄を乗り継ぎ、福岡空港にたどり着き、飛行機で1時間半。
私にとって初めての東京へ着いたのだ。
父が兄と電話でやり取りしながら、電車を乗り継いで移動する。
もう10年以上前のことだから、乗り換えの順路がいまいち思い出せないが、
確か、羽田から京急線で品川まで行き、
山手線で新宿まで、小田急線に乗り換えて下北沢まで、
最後に井の頭線で明大前へと向かったのだ。
そこから数日、兄の家で東京生活をすることになる。
次回「東京受験の巻(後篇)」。
野望の10代の巻
10代の頃、何を目指していたかというと、
実は作曲家であった。
エレクトーン歴14年、サックス歴6年で
そこそこの音楽経験があった私は
中学生の頃から、ちょこちょこ自作の音楽をエレクトーンで録音し、
それをまったく音楽に興味のない兄に聴かせたりして、ひそかに夢を膨らませていた。
正直、自分の作った音楽は大ヒットすると自信に満ち溢れていた。
歌は倉○麻衣のような、歌唱力のある女の子に歌わせようと
作曲家計画もどんどん進んでいた。
17歳になり、進路指導が始まると
おちおち、地元の大学に入れられないように
両親に「作曲家になるんだ~」と常々アピール。
もちろん、この子はまだふざけた夢を描いてると思われており
「はいはい。」と全く相手にしてくれない。
私がいう「作曲家になるんだ~」の言葉の裏には、
このど田舎を出て東京に行って、音楽を極めたいという
欲望が凝縮されていたわけであるが。
私の上には兄が二人いて、
残念なことに二人とも東京の大学に行ってしまい
両親は私を無条件に「家に残る子」と思い込んでいた。
今思えば、地元にいようがデモテープを送り続ければ
才有る人間は目に留まるものだが、
当時の私は音楽=東京という、コテコテの田舎もんだったのだ。
高校3年になった頃、
私は母親に思い切って「東京の音楽の専門学校に行きたい」
と伝えた。
もちろん答えは「ダメ」。
返ってくる答えなど、完全に予想していたが、
これは私にとって第1歩なのである。
「この子は本気で作曲家目指して東京へ行こうとしてるのかしら。」
と、今まで彼らの頭になかった「まさか」を埋めつけた。
次に、専門学校はあきらめるけど、東京の大学を受験したい。
と、提案した。
無い頭をフル回転させて、正当な理由を彼らに伝えた。
「ほら、うちの地元なんか田舎すぎて大学ないでしょ?
行くとしたら福岡じゃない。
福岡も治安悪いわけだし、よく考えたら
兄ちゃんと一緒に住んで東京の大学に通う方が
安全な気がするんだよね。」
これには両親も「うーん」と考え込んだ。
私の夢実現に壁を作った兄二人がこの時初めて役にたった。
結局、最後に出された結果は
「福岡と東京両方受験する」
といったもので、受かった中で一番いい大学に入る。
という条件で解決した。
大学に通いながらバイトしながらデモテープを送り続けるという、
希望に満ち溢れた夢。
自分の野望は一気に前進したのだった。
次回「東京受験の巻」。
はじめに
なぜ、このエッセイを書こうと思ったかを最初に書こうと思う。
22歳の冬、私はマスコミ関係のWEB管理部署で働いていた。
WEBの知識はまだ浅かったこともあり、
先輩デザイナーの下でデザインの経験を積んでいた。
経験を積むといっても、
当時、その部署に制作担当が私を含めて2人しかおらず、
制作から雑務まですごい量の仕事をこなしていた。
いろんな業務をやる中で、
唯一楽しみであったのがメールマガジンの作成だった。
内容は単純に毎月の番組情報やキャンペーン情報を紹介するだけなのだが、
その中で「おまけ的コンテンツ」として、編集後記があったのだ。
私は「とりこ」というペンネームで3年ほどその編集後記を書き続けた。
局のメールマガジンなど、ほとんどの人がスルーしそうなもので、
局内の人間さえ、編集後記の存在を知らないだろうと思いながら、
自由気ままに、自分の生活の事や家族の事を書き綴っていたのだが、
驚いたことに、1年後には視聴者から「とりこ」宛にお便りが届くようになっていた。
あまりに家族のことを赤裸々に語っていたため、予想以上の反響があった。
読んでいる人がいるということに喜びを感じ、
そして共感し、読むことを楽しみにしてくれているということを知ると
どんどん書くことが楽しくなる。
ちょっとした、エッセイストの気分だった。
まあ、そんな鼻高々なエッセイスト時代も、
メールマガジンのシステム化により抹消されてしまったのだが。
先日、この編集後記がいくつか保存されていたので、
読んでみたのだが、我ながら面白かった。
なので、このエッセイはその続き。
のんびりとした気分で、一人の女の10年余りのエッセイを読んでくれたら
幸いです。
ここから。ここで。ここにいる。