金縛り
猛烈な不快感と共に、西村の意識は目覚め始めた。まるで、頭の中身を、陰湿な手つきで撫でられているような、たまらなく気持ちの悪い感覚だ。ひどい吐き気がする。自分は今、どういう状況に置かれているのだろう。西村は、はっきりとしない意識の中で、思考を組み立てようと努力した。そして、あることに気付いた。
(体が動かない)
手足を動かそうと念じても、四肢の感覚が、それに全く連動しないのだ。なんともどかしいことかと、西村は思った。ひとまず視界を開こうと、必死でまぶたをこじ開けにかかったが、それにもかなりのエネルギーが必要なようである。そこでようやく、西村は気付いた。
(これが、“金縛り”というやつか……)
西村にとって、それは初めての経験だった。もちろん知識としては、そういう現象が、人間の体に起こり得ることを知っていた。しかし、実際に、手足が思い通りに動かないという状況に陥ってみると、こんなにも苦しく、心細くなるものなのかと、西村は驚いた。自然なペースで呼吸ができない。手足へ力を込めれば込めるほど、息苦しさと、吐き気が込み上げてくる。どうして自分が、こんな目に合わなければいけないんだと、舌打ちしたくなったが、それもままならなかった。
意識の方は、少しずつ輪郭がはっきりしてきた。それと共に、記憶が甦り始め、西村は、この吐き気の原因を理解した。なんのことはない、昨日の夜、酒をしこたま飲んだのだ。昨夜は、職場の新年会だった。見通しの付いていない仕事を、無理やり定時に切り上げたあと、会社の近くの飲み屋に駆り出された。職場の中で、まだ二番目に若い西村は、酒癖の悪い上司達に、三次会まで連れ回されたあげく、悪質なちゃんぽんを強要され続けたのだ。西村にとって、職場の飲み会などというものは、体力、精神力の消耗に加え、少なからぬ身銭を切らされる、まさに三重苦でしかなかった。お開きの頃には、心も体も疲労困憊で、「送ってやる」という先輩の言葉を、早く独りになりたい一心から、丁重にお断りした。スーツに染みついた、大嫌いな煙草の臭いに吐き気をもよおしながら、ふらふらと、一人暮らしをしているアパートに向かって歩き始めたところまでは覚えているが、そこからが覚束ない。
(あんな調子で、ちゃんと家にたどり着けたのだろうか。ここは、本当に自分の部屋なのか?)
西村は不安に駆られた。
やっとの思いで、視界が少し開けた。薄目に見えた景色の中で、西村がまず認識したのは、見覚えのある布団シーツのストライプ柄。足先の壁側には、テレビと思われる四角い固まりがあり、その横には、隙間の多い本棚らしきものが置かれている。ここは、間違いなく西村自身の部屋のようだった。
(よかった)
西村はひとまず安堵した。その調子で、全身の皮膚感覚に意識を集中すると、いま自分が、着心地の落ちつかない服を着ていることに気付いた。胃を突くようなヤニ臭さも感じる。これは、昨日着ていたスーツだ、と西村は思った。どうやら自分は、朦朧とした意識の中で、なんとか家に辿り着き、服も着替えないまま、ベッドに転がり込んで、眠ってしまったのだと、西村は考えを整理する。
歯車がひとつずつ噛み合い、不安のモヤは、徐々に晴れていくかのように思われた。しかし、それもつかの間、西村の心臓は、突然の恐怖によって、その動かない体には不釣り合いなほど、大きな脈を打つことになった。
(誰かいる……!)
少しずつ広くなってきた視界の端に、見知らぬ“何者か”の影を、確かに捕えたのだ。
大声で叫びながら逃げ出したい衝動に駆られたが、西村の手足は、尚も頑なに動いてくれなかった。まるで、部屋の隅にたたずむその“何者か”の意思によって、強く押さえつけられているかのように。
(嘘だろう。まさか、自分の身にも、こんなことが起こるなんて……)
西村は、にわかには信じられなかった。
金縛りの体験談は、複数の友人から聞いたことがあった。そのうちの何人かは、単に「体が動かなくて怖かった」というだけの話にとどまらず、それに付随した、いわゆる“心霊体験”のことも話してくれた。ある友人は、金縛りに遭い、どうにか目をこじ開けると、天井にぴたっと貼りついた髪の長い女が、感情のこもらない目で、じっと見つめてきた、という話をした。また別の友人の話は、赤い着物を着た少女が、友人の胸の上に座っていた、というものだった。西村はいつも、そのような体験談を、話半分に聞き流してきた。幽霊というものの存在を、完全に否定するつもりはないにせよ、決して信じてはいなかった。まして、“霊感”なんてものに、まったく縁のない自分は、心霊体験になど一度も遭遇することがないまま、一生を終えるのだろうとばかり思っていたのだ。今の今まで。どこまで行っても現実的だった西村の日常へ、突如訪れた怪現象は、西村の頭を一瞬で真っ白にした。
また少しクリアになった視界の中で、その“何者か”の輪郭が、解像度を上げ始めた。おそるおそるその姿を観察すると、どうやら、西村に背を向けて立っている状態のようだった。近くにあるクローゼットと比較して、背は西村よりも少し高い。細身だが肩幅は広く、髪も短いように見える。
(――おとこの霊だ)
友人達が遭遇した霊は、姿かたちは違えども、みんな女の霊だった。しかし、いま自分の前にいるその“何者か”は、どう見ても男だ。男の霊というパターンもあるのかと、西村は思った。
そのとき、認識されたことを感じ取ったかのように、西村に背を向けて立っていたその“何者か”が、西村の方を振り返った。目を合わせてはいけない気がしたが、恐怖のあまり、視線が釘付けになってしまう。おぼろげながら、その“何者か”の目は、落ちくぼみ、生気を失っているかのように見えた。「感情のこもらない目」という、友人の体験談に出てきた言葉が思い出される。視線の先にある西村の姿を、記号としてしか捉えていないような、虚ろな眼差しだ。
そして、その“何者か”は、視線を合わせたまま、一歩ずつ西村の方に近付いてきた。西村の心臓が、また一段階、強く波打つ。
(逃げなければ)
今すぐ起きて、ベッドの近くの窓から飛び出したい。だが、この金縛りだ。西村の頭の中は、恐怖と苛立ちでおかしくなりそうだった。
(こんな大事なときに、何を休んでいるんだ、この体は)
鼻筋をまたぐように、ぬるい液体が流れ落ちるのを感じ、西村は、自分が泣いていることに気付いた。
(泣くのなんて、何年ぶりだろうか。それにしても、手足が動かない状態でも、涙は出るんだな。人間の体は不思議なものだ。涙を流している暇があれば、とっとと手足を動かして、ダッシュで逃げればいいものを。本当に馬鹿な体だ。もう、勝手に死んでしまえ。こんな体は、死んでしまえばいいんだ)
もはや恐怖が一周して、西村はそんな投げやりなことを考える。頭と体が、完全にちぐはぐになっていた。そして、その間にも“何者か”は、ベッドの方へと着実に歩みを進め、とうとう、西村の体にまたがってきた。西村の胸の上に鎮座したその“何者か”の顔は土気色で、頬はすっかりこけ落ちている。そのビー玉のような冷たい瞳に、微かに、西村自身の姿が浮かび上がった。
そこでようやく、西村は少し、冷静さを取り戻した。赤い着物を着た女の子が、胸の上に乗っていたという、友人の話を思い出す。
(あれは、自分のこの状況と同じじゃないか)
その話を西村に聞かせてくれた友人は、いま、無事に生きて暮らしている。つまり、自分も、その友人と同じように対処すれば、助かるということだ。
西村は、友人の話の結末を反芻した。もともと霊感が強いらしいその友人は、心霊現象に遭遇したときの対処には、慣れていたようだ。対処と言っても、基本的には、“何も抗わず、じっと待っている”ことらしい。こちらから、何か余計なことをしかけない限り、生ある者に危害を加えようとする霊は、実際、なかなかいない。だから、ひたすら、嵐が過ぎるのを待てばいい。友人は確かに、そう言っていた。
西村は、覚悟を決めて目を閉じた。胸の上に、ずしりと、確かな重みがのしかかっている。まるで、あの、底にコンクリがくっついた、バス停のポールを乗せられているみたいだなと、西村の頭にまた、くだらない思いがよぎった。息苦しさはどんどん増していくが、西村はもう、言うことを聞かない手足に、力を送り込む努力はしなかった。このまま、全身の力を抜いて、混沌の中に、意識を沈めていけばいいのだ。そしてまた自分は眠りにつき、次に目覚めたときには、霊はいなくなっていて、体も自由に動くようになる。西村は、そのように、友人が話した体験談の結末を、そっくり自分の未来にも当てはめた。
意識が薄れていく。それが、純粋な眠気によるものなのか、それとも、息苦しさと、限度をとっくに超えてしまった恐怖から、気を失いかけているのか、西村にはもはや、判別がつかなくなっていた。
(何はともあれ、“抗わないこと”なのだ。このまどろみの中に、誘われていこう。目が覚めたら、自由に動く手足で、ぶらぶらと朝の公園でも散歩するのだ。あぁ、それはどんなに素敵なことだろう。自由とは、素晴らしい――)
途絶えかけた意識の中で西村は、自身の首筋に、ふっと、柔らかい肉感が触れるのを、微かに知覚した。
「本日午後、尼崎市のアパートで、一人暮らしの会社員、西村良二さんが亡くなっているのが発見されました。西村さんは正午前になっても、会社に出勤せず、不審に思った西村さんの上司がアパートを訪ね、遺体を発見したものです。遺体には首を絞められた跡があり、また、部屋が荒らされていて、財布や預金通帳等が見つからないことから、警察は、何者かが金目当てで、ドアに鍵をかけ忘れた西村さんの部屋に侵入して、犯行に及んだものと見ており、強盗殺人の疑いで捜査を進める方針です」
金縛り