二つの道

父の死をきっかけに、会社の経営を引き継いだ弟。すでに後継ぎとして働いている兄との葛藤。

二つの道

広めの応接室には、手入れの行き届いた年代物の応接セットが、整然と置かれている。
私は、一人掛けの椅子に座り、やはり横にある一人掛けの椅子に座った兄の横顔を覗き見た。
兄は少し緊張した面持ちで、前の長椅子に腰をかけていた初老の男性を見つめている。
母は、お気に入りの着物に身を包み、長椅子の隅に腰をかけ、いつもと変わらない表情で、
少しだけ下をうつむいている。
父の顧問弁護士であったその初老の男性が、我々家族の前で、「遺言」と書かれた分厚い封筒にはさみを入れた。
そこから用紙を取り出すと、皆に提示し、その文面を読み上げた。
「私の所有する片山産業の株式は、全て二男の雄大に引き継ぎ、雄大を片山産業の次期代表取締役社長とする」
それだけが、父らしい力強い字で、乱暴に書かれていた。
その言葉を、私と兄の浩は静かに聞いていた。
そして、その後の長い沈黙の後も、二人は目を合わすことはなかった。

父である片山三郎は、一代で株式会社片山産業を立ち上げ、今では社員数400名を超える会社までに育て上げた。
東北の農家の三男であった父は、家業を継ぐことはできず、中学を卒業するとすぐに、集団就職で上京し、都内にある文房具の卸し会社に勤めるようになった。
終戦間もないことであるから、サラリーマンというより、丁稚のようなものだったのであろう。
その後十数年の奉公の後、暖簾分けというかたちで、独立したのである。
父の会社が転機を迎えたのは、おりしも高度経済成長の波にのり、文房具の販売だけではなく、製造にも乗り出してからである。
当時としは、まだ珍しかったが、早期に中国に大規模な工場を建設し、品質管理に力を入れたことにより、安価で高品質な文具を供給することを可能にしたのである。
これら商品は飛ぶように売れ、現在の片山産業の基盤を築き上げたのだ。

死ぬまで現役をポリシーに、父は亡くなる直前まで、会社に出社し、陣頭指揮を執っていた。実際に毎日会社に通えたのは、糖尿病の症状が悪化する70歳位までなのだが、精神力は衰えることなく、病室で訪ねてきた部下を叱咤する姿を何度か見かけた。
そんな父も先月75歳で帰らぬ人となったわけだが、事業継承に関しては顧問弁護士を通して、遺言を残していたのだった。
その頃、兄は片山産業の取締役管理部長として、働いていた。
大学を卒業すると、新卒で兄は父親の経営する会社に就職し、そのまま着実に家業を引き継ぐための修行を進めていた。
だれもが、後継者は兄の浩であると思っていた。無論、私もそのように思っていた。
そこで、この遺言である。まさに青天の霹靂とはこのことを言うのだろう。
兄も動揺したであろうが、私も兄以上に動揺していた。

私は父が40歳の時に出来た子で、兄とは5歳の年の差があった。
他人とは違う生き方を望んでいた私は、高校を卒業すると、日本の大学へは進学はせずに、
ニューヨーク近郊にある大学へと留学することを決めた。
4年間アメリカで学んだ私は、卒業とともに日本へ戻ってきたわけだが、兄と同じ道は進まず、語学力を生かして、中堅の商社に就職した。
そこで電子部品の輸出に携わってきたが、1年前にインキュベーションをおこなう新事業部に異動となり、今では新しい投資先を探して、ベンチャー企業経営者と会うことが仕事になっている。
色々新しい世界を知るにつれ、父の会社が、地味に感じ、まったくそのビジネスに魅力を感じていなかったのも事実である。

これも自分に課せられた運命と自分自身を納得させ、いよいよ初出社の日が向かえた。
私は多少緊張した面持ちで、この日の為に新調したスーツを着込み、迎えに来ていた車用車の黒いセダンに乗り込んだ。
会社に着くと、私が正式に代表取締役に就任するまで社長代行職につくという専務が入り口で、私を迎え入れ、役員室まで案内してくれた。
私は、先日父の遺言を聞くために、この会社に入ったのが、人生で初めてのことであり、
それまでは一度も父の会社に足を踏み入れていなかった。
特段理由があったわけではないが、二男であった自分にはこの会社は関係がないと思っていたことと、自分は父とは違うビジネスで成功してみせるというライバル意識もあったのかもしれない。
先程の専務は、父が創業する頃から、父の番頭的存在として、父を支えてくれた人である。年齢は父と変わらず、すでに老人の域に達していた。
実際、社長代行といっても、なにをするわけではなく、使える先を父から自分に換えたというそのような感じであった。
私は兄から、今回の代表人事は、思ったとおり、社内に大きな動揺を生んでいると聞いていた。
当たり前の話である。海の物とも山の物ともわからない人間が、いきなり社長としてくるのであるから。
ただ、創業者の息子というだけで、さらには、以前から務めている兄を差し置いての話である。
私は身震いがした。この震えは、新しいビジネスに取り組むという武者振いなのか、これから起こりうる出来事を恐れる不安であるかは、わからなかった。

父は、あまり自宅で仕事の話をすることはなかった。
ただ、夕食の際に適度なアルコールが入って、気分が良くなった時などは、文具に関する蘊蓄を述べ、将来の会社の展望を熱く語っていた。
私も、子供のころはそのような話を聞くと、まるで父が織田信長や豊臣秀吉のような天下を取る戦国大名のように感じ、恐れを抱くと共に、尊敬の念も抱いていた。
しかし、ある程度社会というものを知り、ましてやアメリカで先進の経営学を学んだ私は、
父のそのような話を、素直に聞けなくなっていた。
父が典型的なワンマンオーナー社長のように感じ、社員との意識のかい離を感じるのであった。社員達はきっと社長である父を煙たがっているのであろう。裸の王様になった父を想像した。
そのため、断片的な情報しか持ってはいなかったのだが、私は父の話しにたびたび意見し、その都度父と口論になっていた。
今はアジア全域から、安価な文具が多く輸入されている。それら製品の品質も、昔と違って格段に良くなってきている。
私は他人ごとと思いながらも、父の会社の将来に不安を感じていた。
特に製造部門に関する父の考えには、反対意見を述べていた。
中国の人件費も上昇している。中国一辺倒の生産体制をやめ、ベトナムへの工場進出をよく父に提案していた。
父は、職人肌の人間ではない、豪快さと勢いはあるものの、合理性に欠ける経営者なのであった。
兄はというと、このような時に意見を全く言わない男であった。
父と私の口論を、静観しているだけなのである。
決して無口なタイプではないのだが、こと話題が仕事のこととなると口を閉ざすのである。
昔から、外遊びよりは、ブロック遊びが好きな、こつこつタイプであった。
父の会社でも、最初は営業をやっていたようだが、数年で管理部に異動し、その後は、総務や経理を統括する部署で、会社の裏方に徹している。
こうやって冷静に父と兄の才能を考えると、父も昔の経営者であり、情に厚いことは良いが、未だに創業から一緒にいる製造部門の役員の意見を真に受けているようなところをみると、もう限界だったのだろうと思い、兄も金庫番としての才能はあるのだろうが、経営トップとしての才覚はないのだろうと思う。
結果的に、父の遺言は片山産業にとってはベストな選択であったのではないかと思われてきた。

代表取締役に就任するとすぐに、私は、コスト削減の命令を矢継ぎ早に発令した。
それも、会社のここ数年の業績を見せられ、愕然としたからである。
この3年は減収に転じていた。やはり予想した通り、海外からの安い文具に市場を取られていたのである。利益に関しては、すでに5年も前から減益のスパイラルに転じていた。
原因は原価の高騰ではなく、管理コストの増加にあった。無論売上の減もその原因の一つではあったが。会社の財務状況も決して良くはなかった。内部留保は着実に減少し、借入は増加していた。
まずは、大した仕事もしていないのに高給を取っている、役員連中、父の創業当時からいる古参のメンバーであるが、彼ら役員には顧問や相談役に退いてもらった。
それと同時に、大規模なリストラもおこない、大幅な人件費の削減を図った。
また、取引銀行も、借入額の少ない小さな信用金庫との取引はやめて、大手銀行に借入を集中させ、金利の削減を図った。
これらの実務は、管理部長である兄に指示を出し、実行してもらった。
営業部門では、売上の低い卸し業者とは取引をやめ、新たにBtoCの商流を増やすべく、IT部門の強化を図った。
さらに、ベトナムでの生産プロジェクトを立ち上げ、中国生産を減らしていく中期生産計画を打ち出した。
これらの施策は、社内の動揺は増幅させたものの、確実にコストは削減され、私の就任後最初の決算では、昨年比減収であったものの、6年ぶりに増益となった。

手ごたえを感じた私は、さらなるコスト削減の施策を進めることにした。
管理業務のアウトソーシングである。いわゆる本社のスリム化であるが、自前でやる必要の無い業務は、基本的に外注するとの指示を出した。
この実務も、管理部長である兄のミッションとなった。
兄は、私の考えにいちいち意見を言うことはなかった。しかし、業務の進みが遅いのである。今回の指示に関しては、なかなか具体策を提示せず、私をいらいらさせた。
私と兄では、ビジネスに関する時間の感覚が違うらしい。私の1日は兄にとっては1週間なのである。
私は、片山産業の再興には、兄の存在が邪魔になると思われてきた。

その日、私は兄を社長室に呼び付けると、事務的に異動の通達をした。
「申し訳ないですが、3年ほど、中国に行っていただきたいのです。
ご存知のとおり、生産を中国からベトナムに移行すべく、プロジェクトが進行しています。
無事に移行が完了するよう、あなたに中国工場の総経理として、しっかり監督してほしいのです。よろしくお願いします」
兄は静かに私の話を聞いていたが、話を聞き終えると、しばらく私の机の奥の窓越しに見える風景を見つめていた。
今日は、今年一番の最高気温が予想され、遠くの高層ビル群は蜃気楼のように、かすんでいた。
「わかりました。最善をつくしてきます」
そのように兄は呟くと、私と目を合わせることなく、部屋を出ていった。

兄は、その後ひと月も経たぬうちに中国の工場に赴任していった。
兄の妻は、私の母に愚痴をこぼしたらしく、めったに会社に電話などかけてこない母から電話があり、兄の異動に関する不満を聞かされることになった。
私は未だに独身で、都心の一角にマンションを借りていたが、兄は二人の子供を持つ父親として、近郊の住宅街に家を建てていた。
無論、兄は単身で中国に向かったのであるが、母は子供の教育に与える影響をぶつぶつと私に訴えていた。
やれやれという気持ちで母の話を聞いていた私は、自分は会社のためなら、親兄弟の情にも流されることない経営者であると思い、自分自身に酔っていた。

コスト削減の施策を一通り実行すると、私は次なる施策として、売上拡大を目指した。
プロダクトとして、ターゲットをより若年層である小中学生にシフトするよう商品開発部に指示した。さらにIT部門強化のため、片山産業としては初となるM&AをEコマース企業に対しおこなうべく、活動を開始した。
そのようなさなか、一本の電話が私宛てに入った。中国からである。
兄の遺体が工場の試作品置場で発見されたとのことであった。どうやら自殺のようである。
私は、何が起きたのか、しばらくの間理解できなかった。
受話器を置くと、呆然と窓から差し込む日差しを眺めていた。

兄が中国に赴任してから、まだ3ケ月しか経っていない。いったいなにがあったのだろうか?この年末には久しぶりに日本に戻ること楽しみにしていたはずであるが。
兄は真夜中の薄暗い工場の中で、一人寂しく首をつったのである。遺書も見つかっていない。
私は、取りも直さず中国に飛んだ。
上海浦東空港に降り立つと、工場の副総経理である中国人社員が迎えに来ていた。この中国人社員は日本語も堪能で、兄の赴任に伴い、サポートをお願いしていた人物である。
「除さん、今回は大変なことになったが、一体なにがあったというのだ」
私は開口一番、尋ねた。
「私もまったく状況がわかりません。この3ケ月、総経理は精力的に、現地社員とのコミュニケーションを取っていました」
工場は、上海から車で1時間ほどの蘇州にある。車を飛ばし、兄の亡くなった現場に向かった。
恥ずかしい話し、私は一度もこの工場には来ていなかった。父は月に一度のペースで、工場に足を運んでいたのであるが、その父の匂いが染みついた場所に私は来る気がしなかったのかもしれない。
蘇州の街は、昔から運河での物流拠点として発展してきた、歴史ある街並みであった。
映画で見るようなその古い街並みを抜けると、急に目の前が開け、工場団地が近づいてきた。

兄の亡くなった試作品置場に入ると、私は急に胸が苦しくなった。父の存在と兄の存在を感じたのである。二人は私に何かを言いたいらしい。兄は、間違いなく毎日のようにこの場所に来ては、父と会話をしていたのであろう。
除が戻ってきた。
「社長、警察の手続きも終わり、無事に総経理の遺体を日本に搬送する手配を完了しました」
ご苦労様と私が言うと。
「一点気になることがありまして、総経理は毎日のように日本に電話をされて、誰かとなにかこそこそと話をされていました。
特別なことではないかもしれませんが、あまりに頻繁だったので、少し気になっていました」
確かにおかしな話である。兄は日本に残してきた仕事はなかった。したがって、そのように頻繁に日本に連絡をする必要はないはずであった。

日本に戻り、兄の葬儀を終えた。兄の葬儀に参列する皆が私にむける視線、それは兄を亡くした弟を慰めるものではなく、お前が兄を殺したのだという、突き刺さるような敵意であった。
義姉は兄の遺体の側で泣き崩れながら、私を睨みつけた。母も私と目を合わさなくなっていた。
私はやりきれない気持ちでいた。確かに兄にコスト削減という課題をおしつけ、いやな役回りをお願いしていたことも事実であるし、邪魔者として、中国に追いやったのも事実である。しかしそれもこれも、片山産業の未来を思えばのことであり、兄が弱すぎたのである。
いつか私の判断が正しかったことが、皆にもわかってもらえる。そのように自分に言い聞かせていた。

兄の自殺の原因は、「弟に社長の座を奪われた挫折感」ということで落ち着いた。
私は父と兄が今頃天国でなにを話しているのだろうか?と気になりながらも、兄の死を無駄にすることないように、さらに社業に邁進しようと誓っていた。
しかし、その心を根底から破壊する、出来事が起こったのである。
リストラですでに退職していた、重鎮の元役員が音頭取りとなり、他のすでに退職していた元社員を集めて、競合の会社を立ち上げたのである。
昔から片山産業と付き合いのあった卸し業者や、仕入先も、こぞってこの新会社に乗り換えていた。
残ったのは、私が社長になってから取引を始めた業者だけであった。
さらに、小さいながらも中国に工場も立ち上げていた。ここにも片山産業の中国工場で働いていた社員が多く引き抜かれていた。
お客は、どんどん新しい競合先に奪い取られ、片山産業の売り上げは急激に減って行った。
こうなると銀行も、新規の融資に渋くなり、私は、長い付き合いのあった信用金庫にもお願いにいったが、当然ながら受け入れてくれることはなかった。
私は青ざめていた。このままでは、間違いなく片山産業は倒産してしまう。
意を決し、今は競合会社の会長になっている、元片山産業の役員に会いに行った。

「君が、ここに来るのを待っていた。
私は、君にリストラされた時に誓った。いつか片山産業の競合を立ち上げようと。
別に仕返しをするわけではない、それが長年仕えてきた君の父親に対する恩返しであると考えたからだ。
しかし、そんな私を必死で説得し、なんとか君を支援するように頼み続けたのは、君のお兄さんだった。
そのお兄さんが亡くなった以上、私は迷わずこの会社を立ち上げたのだ」
その後も1時間以上、兄の話は続いた。
そして、わかったのである。兄がどのように片山産業のことを理解し、必死に守ってきたかを。
リストラであのように時間をかけたのも、一人一人の気持ちを考え、このような状況にならないように、慎重に説得を続けてくれていたのである。
古くからの取引先や、金融機関の方々とも、納得いただくまで時間をかけて話していたのだと。
兄がいたから、父の死んだ後も、皆が片山産業と付き合ってくれていたのだ。
裸の王様は私だったのである。
そのことをわからず、私は、兄を中国へ異動させてしまった。
兄は、中国に行ってからも、毎日日本に電話をかけては、皆を説得し続けてくれていたのだ。
しかし、皆は、そんな兄を個人のエゴから中国に異動させた私を見て、最終的な見切りをつけたのだった。
もう説得は無理であると判断した兄は、片山産業の将来を憂い、私への最後のメッセージとして死を選んだのであった。

私は、帰り道をぬけがらのように歩いていた。
父はなぜ私を社長にしたのだろうか?父の判断が間違っていたのではないか。
父は、私が兄を理解し、二人が力を合わせていけると思っていたのであろうか。
もう答えはわからなかった。
父に申し訳がないとの気持ちで、一杯であった。
公園のベンチに座り、瞼を閉じると、父と兄の姿が浮かんでくる。
二人は、手招きをして、私をこっちへ来ないかと呼んでいるようである。
いや、もう少し待ってくれ。と私は心の中で叫んだ。まだやり残したことがあるのだ。
私は、自分の進むべき道がわかった気がする。
そして、私は、力強く行くべき道を見据えた。

二つの道

男兄弟の事業継承は、その性格の違いからも問題が山積することが多い。なにが正しい道なのか?

二つの道

創業社長の父の死を機に、会社を引き継いだ弟。兄はすでに会社では後継ぎと言われていたが・・ 二人の考え方の違いを通して、生き方を問います。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-10-25

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