悲しい人形と壊れた人間の街3
3過去をはじめから
大輔は石畳みの道を少し歩き、道沿いにある適当なベンチに腰掛けた。ついさっき思い出した過去の匂いが消えなかった。町に来る前の記憶が、まるで他人事のような気軽さでぽこぽこと思い出されていた。大輔は少し迷ったが、静かに過去を想い起こすことにした。
二十歳になる直前、大輔は祖父母の土地に移り住んだ。祖父母はその地でとうもろこしを作っていたが、何年か前に亡くなり、その土地は大輔に引き継がれていた。広大な土地は長い間放置され、すでに畑としての機能を完全に失い、無差別に雑草が覆い茂っていた。
境目が見えないほどの広い土地の真ん中に即席の小さな小屋を作って生活を始めると、土地を半分にする線を描くように、土を真っすぐ掘り起こし始めた。数日で手の皮はぼろぼろに剥げ、皮膚は真っ黒に焼けた。三ヶ月経つと、それは一本の道になった。道が出来ると大輔は馴染の男仲間に村を作ろうと呼びかけた。九人の仲間が集まり、まずは自分達の家を建てることにした。しばらくして、ほとんどの部分が木で出来た不器用で温かみのある十件の家が道沿いに並んだ。そして道の突き当りには少し大きめのレストランを作った。
大輔以外の九人の男達は広大な土地を耕して野菜を育てた。一人が一種類の野菜を担当し、競い合うように質の高い野菜を作り出した。彼らは自然の声に耳を澄まし、ただ野菜のことだけを考えて日々を暮していた。
大輔は仲間が作った野菜を買い取り、レストランで料理して客に出していた。幼い頃から身に着けていた調理の技術は、仲間が情熱を注いで育てた野菜の美味さを最大限に引き出し、その味の評判は近隣の街にあっという間に広がった。定常的に客が集まるようになると、昼間畑仕事をしている仲間が毎晩レストランを手伝うようになった。女性客が多く、男達は手伝いをしながら気に入った女性を情熱的に口説いた。
レストランを初めて一年が経つと、七十人程度入るレストランの席が毎晩簡単に埋まるようになった。畑で野菜を育てる男達がレストランを手伝うことは無くなり、代わりに九人の女性が働いていた。全て村に住む男達が結婚した相手だった。
大輔にはしばらく恋人がいなかったが、二十五歳の時に幼馴染の紗希と恋愛を始めた。大輔は八歳の時からずっと紗希を想い続けていたが、その時が十年ぶりの再会だった。
紗希はある日の閉店間際に突然レストランに現れた。大人びた美しい顔立ちの中に子供の頃の純粋な笑顔を微かに浮かべ、滑らかに縁取られた体には女性的な魅力を漂わせていた。
紗希は隅の席でゆっくりと料理を食べ、大輔の仕事の終わりを待っていた。客が全て店から出た後、大輔は紗希の向いに座って緩い会話を始めた。三つほどの言葉を交わすと、それまで心に抱えていたものよりずっと大きな恋が訪れた。和太鼓のように響く鼓動は無駄な思考を消し去り、紗希を求める体が今にも勝手に動き出しそうだった。大輔は想いのままに紗希に愛を告げた。自分の中にある深くて大きな感情を、出来るだけ細かく正確に伝えた。何十分もかけて、数えきれないほどの言葉を並べたが、自分の気持ち伝え切れた気がちっともしなかった。紗希はたまに照れたような笑みを溢しながら大輔の言葉を聞いていた。長い長い告白をしてから、最後にもう一度「愛している」と言って大輔は口を閉じた。
紗希は静かに涙を流してから口を開くと、「私もあなたのことがずっと好きで好きでたまらなかったのよ。今あなたが話してくれた気持ちと同じくらい、私はあなたのことを想っている」と言った。
大輔は椅子を蹴とばして立ち上がり、紗希を力一杯に抱きしめた。心臓が一人で踊り出しそうなくらい鼓動が高鳴っていた。紗希の体の柔らかさや温もりを十分に噛みしめてから、大輔は紗希と唇を合わせた。二人は何度も前歯をぶつけながら激しく唇を重ね、服を脱いでお互いの体を押し付けるように抱き合った。まるで相手の体を自分の中に押し込めようとしているかのように、力いっぱいに互いを抱き締めた。
太陽が顔を出した時に二人はようやく体を離し、もう一度愛を語り合った。大輔と紗希はその日に結婚を決めた。
何組かの夫婦に子供が生まれ始めた頃、大輔はその地を「麦色の村」と名付けた。
麦色の村に住みたいという人が村を訪ねて来ると、大輔は快く受け入れて地平線が見えるほどに広がった畑の仕事を手伝わせた。 村ではかなり大量の野菜が収穫できるようになった。大輔は村で収穫した野菜を「麦色の野菜」という名を付けて近隣の街で売ることにした。レストランが野菜の評判を高め、「麦色の野菜」はかなり高い値段で買われた。毎朝、七台の大きなトラックが大量の野菜を村の外に運んでいた。
住み始めてから七年が経つと、土を固めた道沿いには三十件を超える家が建っていた。道の縁には色とりどりの花と緑の草が植えられ、穏やかなパン屋や喫茶店を始める者もいた。「麦色の野菜」は村の名を世に広げ、村に訪れる人の数は増々多くなった。麦色の村は以前に比べて豊かになったが、村の住民は顔に乾いた泥を付け、ちっぽけなことで大きな笑顔を作り、相変わらず陽気に暮らしていた。大輔と紗希には男の子が一人産まれ、大希と名付けた。大輔と紗希は大希を間に挟んで、毎晩のように長い時間をかけて愛を語り合った。
村での生活が八年目に入ったある日、村の生まれから村に住んでいる古い仲間の新垣が大輔を呼び出した。
「この頃、村がうるさくないか」新垣は言った。「植物の声が聴こえにくくなくなっている」
二人は広大な畑の縁に立っていた。緩い風が植物の頭を撫でながら進み、穏やかな音を立てていた。どこにも姿が見えない虫が不確実な未来を嘆くように、精一杯の声で鳴き続けていた。改めて見ると、その場所は涙が出るくらい美しい場所だった。
「あんなに荒れていた地がこんなに豊かになったんだ」大輔は言った。「それなりに失うものもある。それが大事なものかどうか、ということだよ」
「植物の声は大事だ。俺達はその声を聞いて、美味い野菜を作れるようになったんだ。賑やかさから生まれたうるささなら俺は何も言わない。むしろ俺は元気な村を望んでいる。だけどこの頃のうるささは何か変だ。人々の笑い声やダンスの足踏みや道端の音楽の他に、別の良くない音が混じり始めている」
「その正体は分かるのかい?」
「全く予想もつかない」新垣は目を瞑った。「農家の俺達は音を何より大事にする。常に耳を澄まして風に紛れた声を探しているんだ。だから皆この異常さに気付き始めている。早いうちに何とかしたほうがいい」
「分かったよ。調べてみる」
大輔は次のレストランの定休日に村の道を何度か往復した。子供は朝から散々な方向に走り回り、大人は忙しそうに土の道を歩いていた。すれ違った人々は大輔と明るい挨拶を交わし、少し余裕があれば簡単な冗談を言った。昼飯時になると、家々の前にテーブルが並び、そこで賑やかな食事がとられていた。日に焼けた男達は一杯だけビールを飲み、幸せそうな顔で生野菜に噛りついていた。
山際から光が漏れ始めてから山の裏側にその光が全てしまわれるまで、土の道にはずっと太陽の光が当たり、その道の上では活気ある生活が送られていたが、夜になり家々から黄色い光が漏れてくると、道から人の姿がぴたりと消え、昼の陽気さからは考えられない程の不気味な静寂が現れた。レストランが開いている日はもちろん、定休日でも普段は賑やかなはずの夜の村が、電源を切られたラジオのように静まり返っていた。大輔は耳を澄まして静寂の中に音を探したが、風が何かに当たる音だけが耳に入り込んでくるだけだった。
その振動は突然体の奥底に伝わってきた。全身の神経を集中させると、地面の下に微かな揺れを感じた。遠くの地で出来上がった振動が、地を伝ってようやく届いたという感じだった。大輔は土の道に耳をつけた。
「何をしているの?」背後から紗希の声がした。
大輔は顔を上げた。「何か振動を感じない?」
「何も感じないわ」紗希は大希の頭を撫でながら言った。「夕飯の時間よ」
「分かった」大輔は立ち上がると、大希の頬を指で突き、紗希に唇を合わせた。
翌朝、大輔はとうもろこし畑に行き、新垣に会った。
「何か感じたか」新垣が言った。
「昨日、いつもより夜が静かだった」大輔が言った。「そして妙な振動を感じた」
「そうだ。俺もそれを感じた」新垣が声を潜めた。「それで何が起きているのか調べてみたんだ。そしたらまず村が静かだった理由が分かった」
大輔は黙って新垣の言葉を待った。とうもろこしの茎がわさわさと揺れていた。
「気付かなかったのか?」新垣は顔を強張らした。「半分以上の住民が村にいなかったんだ」
「え?」
「村の手前側の家、つまり途中から住み始めた奴らの家の中が空っぽだったんだ」
「夜に皆で出掛けていた、ということ?」
「奇妙過ぎるだろ。俺はどうも嫌な予感がして見張っていた。すると、いつもなら寝ているような時間に、村の連中がひそひそと帰って来た。俺は一人の男を捕まえて訳を訊こうとした。奴は俺の顔を見て気まずそうな表情を浮かべた」
「気まずい?」
「そうだ。俺は強引にそいつの家に上がり込んで話を聞き出した。すると大変な事実が判明した」
「なんだか話が大げさだね。この村に大変なことなんて起きやしない」
「深刻な話だ」新垣は左右を一度見渡してさらに声を潜めた。「新しく道路が出来るらしい。トラックが六台並んで走れる大きな道路だ。その道路はこの村の真上を通る」
「この土の道がコンクリートで固められてしまうと言うこと?」
「この村が丸ごとコンクリートで固められるということだ。昨日村にいなかった奴は隣街に呼ばれていた。工事について説明を受け、隣街への移住を勧められたらしい」
「さっぱり分からない。ここは全て僕の私有地だよ。どうしてここが道路になるんだ?」
「俺にはそこら辺のルールについてはよく分からない。ただ道路の説明の後に、参加した奴らは小難しい文書に署名を書かされたようだ。なかなか強引だったらしい」
「もしかして昨日感じた振動の正体は道路工事かい?」
「その通りだ。すでに工事は始まり、小さく強引な騒音をこの村に届けている」新垣は一度口を閉じ、目から力を抜いた。「道路は確実にこちらに伸びてきている」
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