青い春

なんだよ、冗談じゃねえよ、まじで。

僕が生まれたのは1991年12月26日だ。あと一日早く生まれれば、クリスマスだったのにね。まあ、この前後に生まれる子どもってのは不幸な奴が多いんだ。なんだって、誕生日とクリスマスを一緒くたにされちまうんだからね。まあ、僕の場合、どっちも祝って貰ったことなんて無いんだけどさ。僕が生まれたこの年ってのは、世界の劇的な変化の中にあったらしい。それは僕が中学生の時に学んだんだけど、あのソ連は崩壊しちまったし、日本のバブルだって崩壊、不満を鬱積させた雲仙岳なんかも大噴火して、多くの人を死に至らせた。あれらは、たぶん僕が引き起こしてしまったんじゃないかな。
僕が生まれた次の年には、あの尾崎豊が自殺した。素っ裸で庭に倒れてたみたいなんだ。彼に何があったんだろうね…。そうそう僕が中学生の頃、一時期、彼の歌がブームになってね。「15の夜」や「僕が僕であるため」を歌いながら友達と帰ったよ。もちろん、鉄パイプでガラスを割ったり、バイクで校舎を走り回ったりとか言ったことはしなかった。ただ、彼の歌詞がなぜか中学生の僕たちには胸に響くものがあったんだ。それがなにかは分からないんだけどさ。
僕の出生に関することと言えばこのくらいなもんだよ。特にない。
ただね、1991年に生まれた子どもってのは、みんな不幸なんだよ。子どもだけじゃない、大人もみんな不幸そうな顔をしてんだな。それだけは間違いないね。たぶん。
ある有名な作家は人間の不幸についてこのように語っている。
「不幸な人間は、一生このまま不幸なんじゃないかと不安に思っているし、幸福だと思っている人間も、いつかこれにも終わりが来るんじゃないかとビクビクしているものなのさ」ってね。
もうさ、そういうのを考えるだけでも嫌になっちゃうよね。いずれにせよ人間は不幸な生き物なんだよ。いつかこの作家と会う機会があれば、「お前さ、生きるのやめちまいなよ」って言ってやりたくなるね。まあ、その通りなんだけどさ。

んでさ、いざ自分の事を話すとなると、何を話せば良いのか分からなくなる。しかも絶望的な気分になるんだ。自分の事を話し出したら、きっと僕の家族が黙っちゃいないだろうし。母さんは特に何とも思わないだろうけど、父さんがね、特に世間体を気にする奴なんだ。まあ、それなりの地位に就いてるってのもあるわけだけど、彼は理想の自分像にガチガチに縛られて生きてるんだ。よく聞く、◯◯さんって格好良くて、優しくて、頭も良くて、誠実な人よねっていうまさにあれ。それを言われたいが為に努力したり演技したりする奴っているじゃん。父はまさにそういうタイプの人間なんだよな。他人にああ思われたいだとか、こういう風に思われたいだとか、そんなのに縛られて生きてるんだ。僕からしたら父は、インチキにも程があるんだけどね。僕がここで、なにもかもを暴露しちゃっても良いんだけどさ、それはまた後で書くことにするよ。

で、まあそんな事はどうだって良いんだ。僕は少し訳あって、高校を中退させられそうになってる。別に僕が何かをしたっていうわけでもないんだ。ただ、テストの点数があまりにもひどくてね。英語、社会、数学のこの三つでやらかした。どれも10点にも満たなかったんだ。テストの答案を返す時に、先生は腹を立てた顔をしてこう言って来たんだよ。「このままじゃ卒業に必要な単位を渡せないんだけど、お前はどうするつもりなんだ?」ってね。
「留年ですね」って僕はその時あっさりと答えたけど、先生の目が語ってたことは、やる気が無いならさっさと辞めてくれよ、迷惑だからさってこと。あー、そうそう、説明し忘れてたけど、僕の通ってる高校は進学校なんだ。なんたって、国が特別区域とかに指定しちゃったもんでさ、ここに一杯のお金を注ぎ込んでいるのさ。僕たちは実験台なんだよ。とても競争が好きな学校でね(もちろん、皮肉さ)、クラス毎に生徒の平均点を出して、競争させる。んでまあ、そのクラスの平均点が低いとなると、その先生の指導に問題があるんじゃないかって見られるわけよ。うちの校長は資本主義の象徴的人物みたいでさ、結果を出さなかった先生をすぐにクビにしちゃうわけ。この校長は、本当クソみたいな奴で、成績の良い生徒の親にはペコペコ頭を下げる癖に、僕みたいな堕落生のような人間の親には、手のひらを返したような態度を取るんだ。ちなみに、こいつは金で若い女の子を買ってるらしいんだよね。そういう噂があるんだ。世知辛い世の中だよね。金でセックスが買えるんだからさ。僕なんかまだセックスのセの字も知らないウブで純粋な人間だってのに。僕のクラスに、もう一人堕落したアキラってのがいんだけど、そいつがこの前、ネットにその現場の写真を投稿したから、そろそろあの校長もクビが飛ぶだろうな。その時の蒼ざめた顔は僕が撮って、ネットに投稿してやる。援交ならぬ炎上さ。

まあ話を戻すと、先生からしたらクラスの平均点をガタガタに落とす僕みたいな人間にはさっさとやめて貰いたいわけさ。なにせ、僕の学校の先生ってのはどいつも、生徒の抱えてる問題よりも、自分のクビが飛んでしまうことを第一に恐れるからね。僕のクラスには最初、25人くらいいたんだけど、今は14人になってしまった。テストの度に、生徒が消えるんだ。おかしな話だよね。んで、次が僕の番ってわけさ。たぶんアキラも退学させられるだろうね。この学校はとてもインチキなんだよ。一見、大学の進学率が良さそうに見えて、その実態は、僕やアキラみたいな人間を退学させてんだからね。合格する奴しか最初からいないとするなら、そりゃあ、進学率も上がるよね。

僕の学校は普通科とスポーツ科に分かれてて、僕は普通科なんだけど、スポーツ科の奴らはどいつもクズみたいな奴らだ。まるで野生動物のようだよ。女子ソフトボール部なんてゴリラの集団みたいだし、サッカー部は適当で、イケイケなんだ。バスケ部も同じさ。その中でも特に野球部なんて酷いね。みんな坊主でさ、火山の噴火みたいに顔中ニキビだらけて清潔感が無いんだ。しかも、規律がとても厳しいらしくて、学ランの一番上のフックまで留めてるんだぜ?まったくいつの時代生きてるんだよって話。どっかの国の軍隊じゃあるまいし。でもさ、うちの野球部ってそりゃあ、めちゃくちゃに強いんだ。毎年、甲子園に出場するくらいだし、そん時は、学校全体で応援するんだよね。ブラスバンド部やチア部やらを動員してさ。グラウンドでプレーしてる時に限っては、彼等は格好良いんだよ。僕と同じ高校生とは思えないくらいに、しっかりしててさ。いやマジで。まあ、それ以外の面では、僕やアキラと同じように馬鹿なんだけどね。バットを鉛筆に、グローブを教科書に変えた途端、奴らは点でダメになるんだ。まあ、スポーツ推薦で入って来た奴らってのは、そういうのばかりだ。彼等はただ、校長の計らいでさ、高校のイメージアップのために使われてるだけなんだよ。先輩の進路状況とか見たら、こりゃあ最悪なんだよ。冗談抜きで。なかでも低賃金の工場勤めが多いんだ。もちろん公表はしてない。インチキだよな。
僕も人のことを、とやかく言えるような立場ではないんだけどさ。赤点を連発してるせいで、先生から退学の圧力がかかってるんだから。はっきり言ってマズイよね。でも、僕はそこまで深刻には考えてないんだ。別に良いよ、退学でって感じで。いや、冗談抜きでさ。たぶん、こんな話を父さんにしたら、カンカンに怒るだろうね。それは僕に対してではない。僕なんかは、どうでも良いんだ。つまり、退学した息子を育てたお父さんっていう風に世間から見られるかもしれないんだよ。理想の自分像もクソもないよね。彼のプライドは、僕のせいでズタズタだ。ま、僕はまだ退学が決まったわけじゃないんだけどさ。

2

僕の高校は、山の上にあって長い坂を上って少し右に歩いた所に校舎があってね。なんたってここに校舎を建てたんだろうね。毎朝、毎朝、ろくでもない授業を受けるために、この長い坂を上らないとならないわけだよ。体育会系じゃなければ、普通はこんな坂避けて通るね。今の時期は、梅雨が明けたばっかりで、蒸し蒸ししてて、最悪だよ。坂を上り切った時には、全身汗だくで、シャツが肌にひっつくんだ。おまけに教室は、汗の臭いと、制汗剤の臭いとが混ざって、これまた最悪なんだ。朝から嗚咽が出そうになる。少し救いがあるとしたら、女子生徒の白シャツからブラジャーが透けて見えることかな。まあ、そんな事はどうだって良いね。でも、山の上にあるだけあって校舎からの眺めは最高なんだ。海が近くてね。カラッと晴れた雲一つ無い日なんかは、最高だよ。太陽の光で海がキラキラ輝いてるし、特に夕暮れ時なんか、太陽が海の彼方に沈んでいくんだ。海を橙色に染めてね。海鳥も楽しそうに歌いながら飛んでるし。この景色が見れるなら、まあ、まだこの学校にいても良いなって少しは思えるよ。少しはね。

僕の席は、前から2番目だ。ちなみに、成績が悪い順に、前に座ることになってるんだ。晒しものだよね。そのせいで、周りから迷惑そうな目で見られるんだ。こりゃあ無いと思うぜ、まったく。ちなみに僕の前はアキラ。そして後ろがアンナ。アキラが退学の最候補で、次が僕、そして、アンナっていう順番さ。アンナってのは、アメリカ人と日本人とのハーフで、英語がペラペラなんだ。その代わり、日本語が駄目でさ、漢字が少ししか読めないんだ。普通の会話くらいなら出来るんだけど、読むとなると駄目だ。教科書だって何書いてるのかさっぱりなんだ。よくこの高校に入って来れたと思うよ。「校長に性接待でもしたのか?」ってアンナに聞いた時は、本気で頬をぶん殴られた。彼女の拳骨は、ハンマーかそれ以上の硬さなんだ。おかげで1週間は、頬が痛くて、ろくに喋ることができなかった。彼女、1ヶ月は、僕と話してくれなかったね。顔も合わせてくれなくてさ、席がいつも後ろだし、とにかく気まずかった。今は、元通りに仲良くやってるよ、うん。
そういえば、君達にアキラのことを話してなかったね。

このアキラってのは、この前までは親友と呼べるほど仲が良かったんだよ。悩みを何でも話して共有し合ってたつもりだった。でもそんなのは、嘘だってことに気が付いたんだよ。僕たちは全然、根本的に違う生き物なんだって気づかされたのさ。
それは、ある日の帰り道のことだった。。あの長い長い坂を下っている時にさ、右から左へと流れていく電車を眺めながら「金持ちなんてどいつもこいつも死んだ方がましだ」とアキラは言ってきたんだよ。基本的に語彙力が無い奴って「死んだ方がましだ」とか言うんだよな。
美味しいものを食べても、不味いものを食べても「やべぇよこれ」って済ます人間はどいつもこいつもそれを表現する言葉を持ってないんだ。
そんなことをぶつぶつ考えながら僕は黙って聞いてたんだけど、アキラはずっと話を続けるわけさ。それに僕は心底うんざりしてたんだ。
「大体、スタートラインが違うんだよ。俺とお前とそして、教室でせっせと勉強に励ん出る奴らとはな。根本的に」
僕は黙っていた。
アキラの家はそりゃめちゃくちゃに貧乏なんだ。アキラがこういうのも無理はない。こいつの家は母子家庭でさ、母親は朝から晩までパートで働き詰めなんだよ。僕はこの手の話をアキラから何十万回と聞かされてるんだ。そろそろ別の話題にして欲しいよななんて思ってたけど、それよりも、僕ってこの類の話を聞いてると胸が苦しくなってきてしまうんだよ。だってさ、朝起きると、ポストに新聞を入れているおばさんがおいこらと働いているのを君は目にしたことがあるだろう?
きっとこのおばさんは僕が寝ている間に起きてさ、僕と同じくらいかそれ以下の子どもを横目に見ながら、家を出ていくわけだよ。すやすやと幸せそうに眠っている子どもを起こさずに、だよ。テーブルに置手紙とか朝ごはんの支度がしてあってさ。その手紙には「今日も、学校頑張ってね」なんて書いていたりするかもしれない。とにかく朝せっせと働いてるおばさんを見てると、そういうのをあれこと想像しちまってさ、精神的に参っちゃうんだよ。悲しくなってくるというかさ。
アキラの母親は、まさに僕たちが寝ている間に起きて、自転車をあちこち漕ぎまわって新聞を配達しているんだよ。そのポストの持ち主が、貧乏であろうと金持ちであろうと関係なしにね。

「マジで、俺のクラスの奴らの学力と金の関係性を統計データかなにかで出してみれば良いんだよ。そしたら分かるさ。金持ちの奴は、それだけ余裕があるんだよ。んで、金のない奴には余裕が無いんだ。つまりだね、お金がある奴ってのは、それだけ余分な時間を持っているんだ。いいか?俺はたったの5000円を稼ぐために6時間でも7時間でもバイトをするわけだけど、金を持ってる奴は親がポンッと5000円でも1万でも出してくれるわけだよ。するとさ、そいつらは別に俺みたいに時間を犠牲にして働かなくても良いわけだよ。違うか?」

僕はずっと黙っていたんだ。というよりも彼に何を話して良いのか分からなかったからだ。彼等は確かに金持ちの部類なのかもしれない。でも、それは彼等自身がということではないんだよな。彼等の親がということなんだ。たまたま彼等の生まれた家が金持ちだっただけで、んで、たまたまアキラの家が貧乏だったというだけの話なんだ。
社会というのはそういうもんだ。
その時僕はなんだかアキラの言葉1つ1つがさ、僕個人に直接向けられているような感じがして、一刻も早くこの場を立ち去りたいという気持ちになってたんだよね。彼の話をこれ以上聞かされるのは精神的に辛かったんだよ。マジで。だって彼は本気でそのことに悩んでるし、怒っているんだ。こいつ高校1年生の頃はもっと純粋だったんだよ。「僕の家は貧乏だから、少しでも僕が勉強して、お母さんに楽をさせてあげたい」とか言って先生に褒められたこともあったんだ。胸が痛くなっちまうよな。なんでって言われても言葉にならないよ。人間をダメにする唯一の方法は、その人にめいいっぱいの期待をかけてやることなのさ。

「本当にクズ野郎ばかりだ。金を持った途端、なんでも自分1人で出来ると勘違いしちまうんだよ。」
「その通りだな」
こういう時に限って、気の利いた言葉というのは出てこない。そういうもんだ。
「お前そのこと分かってんのかよ?」とアキラは突っ込んできた。
「いや、ごめん分からない。でもさ、お金を持っている奴ってのはいつか自分のお金が無くなってしまうんじゃないかってビクビクしているんじゃないかな」
「つまり、お金を失うことを恐れているわけだな?」アキラは、僕個人に向って言って来た。そんな気がした。
「いや、それは違う」
「どう違うんだよ?言ってみろよ」

僕はまた黙りこんでしまった。
「お前は良いよな。金を持っている奴は、色々な選択が出来るんだから。大学に行きたきゃ行けば良い、行きたくなければ行かないで良い。でもな、貧乏ってのは、選べないんだ。行くとか行かないとかいう選択肢は、貧乏人には開かれていないんだよ。奴らみたいに色々な条件が揃い、恵まれた環境にいながら何もしない奴が俺は大っ嫌いなんだ。」

僕はかなり苛々していた。でも、ここで腹を立てていたってしょうがないじゃないか。
僕に出来ることは、彼の言葉を受け止めることしか出来なかったんだから。「お前は良いよな」なんて言葉に僕は苛々しながらも傷ついていたんだよ。だって、アキラの目には彼等も僕も同じカテゴリーに入ってたんだから。
「黙ってないで、なんとか言ったらどうだ。え?」
「はあ…」
「どいつもこいつもクソ野郎ばっかりだ」

その日は、いつもより早く学校に来て、席に座ってのんびりと海を眺めてたんだ。朝早くに教室に来れば誰もいないし、その時だけだよ心が落ち着くのは。前にも話したけど、ここから眺める景色は本当に素晴らしいんだ。心が洗われるというか、僕の抱えてる問題なんて些細なことだって思えるようになるんだよね。みんながいると、なにかと視線が冷たくて、それどころじゃない。奴らは、僕たちを劣等生として見るわけだよ。クズで、馬鹿で、どうしようもない奴らだってね。そりゃあないぜ。まあ、その通りなんだけどさ。でも、それは一面でしか物事を見てないね。テストの成績で、その人の良し悪しが決まってしまうなんて、そんなのねぇと思うよ。もっと他にも良い面はあると思うんだな。こんな事言っても、誰も聞いてはくれないけどね。

HRの時間が近づいてくると、1人また1人と教室に入ってきて、彼等を見てると本当に嫌な気分になるんだ。
本を読んでる奴、携帯をいじってる奴、英単語帳を開いてる奴、喋ってる奴、まちまちだ。
ちなみにアキラとアンナは2限が終わる頃になって来るのがお決まりだから、それまでの間、前後の空席に挟まれながら恥をかかなければならない。
1人でこの席に座ってるのは、拷問に近いんだぜ。まるで、電気イスに座ってるかのようだ。
先生が来ると教室は静かになる。
先生が喋ってる時に、余計な事してると、怒鳴られるんだよな。
朝から怒鳴られてみなよ。その日、一日ブルーだぜ、うん。

先生は、「もうすぐ夏休みになるから、大切な時間を無駄に過ごさないように」と言ったあと「受験生だからな」と念を押すように付け加えた。余計だよね。
それ以外にも何か話してたと思うんだけど、僕は聞いて無かった。
僕は、先生の話を聞いているフリをしながら、中学の頃に担任だった先生のことをずっと思い出してたんだ。
国語の先生でさ、とにかく変なんだよ。
それに黒縁の大きな眼鏡をかけてて、何かとそれがズリ落ちて来るんだな。
生徒から「眼鏡!眼鏡!落ちてるよ!」って指摘されると「んなのっ、わかってるわよ!もうっ!」って怒るんだけど、別にそれは生徒に対してじゃなくて、自分に対して怒ってるんだよな。そんな自分許せない。先生はもっと毅然としなくちゃいけない、みたいな感じでさ。それを意識してても、抜けてるとこがあってさ、機械の操作とか駄目なんだ。
とても、可愛らしい先生だったし、僕のクラスの生徒みんなから愛されてたよ。眼鏡。

その先生がさ、卒業式の日に僕にこう言って来たんだよ。「カオルくんは、ビルゲイツのいる世界といない世界どっちが良い?」ってね。その質問も何言ってんのかさっぱりでさ。その時は何も考えずに「いる世界の方が良いに決まってる」って答えたんだけど、その時の先生の顔ったら、とても悲しそうにしてた。
今なら分かるんだ。その意味が少しだけな。
今の僕だったら「ビルゲイツなんていなくても、別に構いやしない」って言うだろうな。

先生、去年、乳ガンが原因で死んだんだ。
手術が終わったあとに、お見舞いに行った時は、まだ元気だったんだ。
「先生、早く治してください」って言うと「馬鹿たれ、当たり前だろうが!」って返ってきた。
これならまだしばらくは生きてるだろうなって思って安心したんだけど、ガンが全身に転移してた事が分かって、そのまま死んじまった。先生がこの教室に来たら、どんな目で眺めるだろうな。
この教室の雰囲気ってのはまるでお葬式みたいに暗いんだ。
活気がない。みんな死んだような顔してて、まるで、機械みたいなんだよ。
教室全体が一つの機械だとしたら、生徒は部品だ。
壊れたら新しい部品に変えるか、捨てちまえば良いって感じてさ。先生もそういう風に思ってるんだよ。本当だよ?
成績が悪い奴、結果を出さない奴は、いらねぇよって感じでさ。嫌な学校だよね。
マジで、冗談抜きでさ。
僕の担任の先生は、バリバリの体育会系って感じなんだ。おまけに野球部のコーチなんかを立派にお勤めになっているわけだ。
まるで動物園の猿コーナーで山のてっぺんであぐらかいて寝てる猿みたいな感じなんだよ。
しかもこいつは暴力以外に、生徒を統率する術を知らないんだよな。
でも親からは凄い人気で「ビシバシ、うちの子を指導してやって下さい」とか言われてるわけ。それなりの結果を出すからさ。結果が全てなんだよ。この世界ってのは。
本当、参っちゃうよね。
なんでこういう感情的になって怒り出すようなのが、先生なんかやってるのかと思うよ。
生徒を説得するだけの言葉を持ってないんだろうな。語彙力も根本的に不足してる。
僕はこいつが本当に大っ嫌いなんだ。人を見た目で判断するからね。前にこういう事があってさ、いつも通り、あの長い坂を上って学校に来た時に、あいつは門の前で「おはよう」とか生徒に言ってるわけだよ。んで、僕はきちんと制服も着てたし、ズボンだって引きずっていなかった。ただ、普通に長くてキツイ坂を上って、ぜえぜえ言ってたくらいだ。それなのにあいつと来たら、僕に向って「このクズ。お前のことは心底見損なった!」って言ってきたんだ。一体、この猿は僕に何を期待していたんだろうね。そんなの知らねぇよって話でさ。
その日は結局、アキラとアンナは来なかった。こういう日も、結構あるんだ。
当然のごとく全ての授業で、先生は僕を指さなかった。
どうせ先生も分からないだろうって考えてるんだろうね。その通りだけどさ。
何も話さないとなると空気と同じじゃないか。その通りなんだけどさ。
友達がいないわけではないんだけど、なんとなく、関わりたくないんだよね。
みんな忙しそうだし、勉強しないといけなさそうだし。
僕のせいで時間を取られるようなことはあってはならないんだよ、絶対に。


僕はとても適当な人間なんだ。
例えば、髪を切ったばかりの女の子が僕に向って「この髪型どう思う?」なんて聞いたとする。
僕は、その女の子の髪型なんてまったく見てないのに「良いジャン!」とか平気で言ってしまうような人間なんだよ。というのも前にこういう事があったからなんだけどね。
僕の友達にとてもお洒落な女の子がいてさ、長かった髪をスパッと切ってショートにしたわけ。
周りの友達はそれに対して「とても似合う~」とか「可愛い~」とか言ってるんだけど、はっきり言って、全然似合ってもないし、前の方が良かったんだよね。ほら、そういう時ってあるよね。んでさ、僕はその子に「前の髪型のほうが良かったけどな」って自分の気持ちを素直に伝えたら、なんか傷ついたみたいでさ、その日一日、話をするどころか顔さえも合して貰えなかったよ。
その時からだな、僕がとにかく適当になったのは。
僕は適当というよりも、たぶん素直な人間なんだと思う。自分で言うのもあれだけどさ。
自分の思ってることをそのまま言ってしまうんだよ。
そのせいで、何人傷つけたか分からないし、自分もそれで傷つくことがあったんだ。
僕は相手が傷ついている顔を見るのが一番嫌なんだよ。だからたぶん適当になったんだね。
だって、いちいち相手の立場になって、この人にとって何を言うべきかなんてそんなの考えてたら僕の精神の方がおかしくなっちゃうよ。
僕が自分の気持ちをそのまま言ってしまうのは前にも話したよね。
「新しい洋服買った」って言われたら、似合っていようがいまいが「良いね」って言っておけば良いんだよ、うん。
「これ美味しい?」って言われたら、美味しかろうとなかろうと「美味しい」って言っておけば良いんだよ。
それで間違いはないと思うんだ、たぶん。
それに僕はことあるごとに嘘を吐く人間なんだ。別に嘘を吐かなくて良いところだって嘘を吐いちまう。高校に入ったばっかりの頃に、こういう事があって周りを混乱させた事があったんだ。
その時、同じクラスの人から「名前なんて言うの?」と聞かれて、「ハヅキでず」なんて答えてしまったんだよね。特に理由もなく、なんとなく。
「ハヅキって言うんだ?」
「ああ、そうだよ。でもね、この名前って女の子と間違えられやすいんだ。まあ、その通りなんだけどさ」
「え?どういうことそれ?」
「君は何にも知らないんだな。世の中には、幾つもの性があるんだよ。僕はこの通り、生物学的には男なんだけど、精神的には女の子なんだ。でも、女の子で女の子を好きになるからレズビアンなんだぜ?そのこと知ってた?だから、僕はハヅキさんって女の子扱いされたとしても別に抵抗しないし、むしろ、そっちの方が心地が良いんだよ。ハヅキくんと呼ばれるよりもね」なんてさ。そしたら、そいつは「え?」って顔して、「オカマなの?」なんて聞いてくる。だから、お前はクズなんだよ。別にこの世界に、ゲイがいろうとレズビアンがいようと関係ない。別に驚くことも無いだろうに。そういう反応が、一番、頭に来るんだよな。ああ、ごめん。ここに書いたのも全部、嘘さ。

んでさ、僕のことなんてどうでも良いんだけど、本当この学校の授業ってのはつまらないんだよ。
教科書開いて、鉛筆握って、黒板写して、はい暗記って具合にさ。
それで良い成績が取れちゃうんだよな、まったく。はっきり言ってこういうのにはうんざりなんだ。これなら、自分1人でも出来るし、学校なんか来なくたって良いわけだよ、別に。僕が求めてるのは、奇抜さなんだ。
1人くらいいないかな、「教科書なんて破り捨ててしまえ。そんなものは、必要ない。破るか、燃やすか、ヤギの餌にでもしちまいな」とか言ってくれる先生がさ。少なくとも、先生の言われた通りにしてる奴なんかつまらないんだよ。頭空っぽでまるで信号機みたいな感じでさ。「勉強しろ」って言われたら勉強して、「勉強やめろ」とか言われたら勉強やめるような人間をこれ以上増やしてどうするんだよ。

僕の教室にいる奴らって、そういうのばっかりなんだ。とにかく自分の頭を使って何かを考えるようなことは絶対にしない。大半が親に「この学校が良いみたいよ」って言われて入ってきたんだよ。何が良くて何が悪いのか、自分はいったい何をしたいのかを考えることなしにね。たぶんこいつらは「夏休みは、受験生の君たちにとって大事な時期です。この休みの間に勉強したかしなかったかで将来が決まってしまいます」なんて先生に言われたら、文字通り「人生が決まってしまう」って思っておいこら勉強しちまうわけだよ。ったく、本当つまんねぇよ。マジで。

「カオルくん、職員室まで来るように」とかなんとか言ってたけど
「カオルくん」ってなんだよ、それに僕は彼のスポンジみたいにスカスカで、コンクリートみたいにカチカチに硬い脳みそを持ってる奴の話なんかこれっぽちも聞きたくないわけ。
でも仕方無いから行ったよ。
職員室に入ると先生は机に座って携帯をいじっていた。
これから話をしようって時に、そんなのって無いよな。
僕を見つけたなりそれをポケットに隠すように押し込めてさ「向こうの校長室のところで待っていてくれないかな」なんて言う。
「分かりました」と僕も素直にそれに従っちまう。
ところで僕は校長室が嫌なんだ。校長室に関しては、僕は悪い思いしかしたことがないんだよね。奥田民生が校舎の屋上で青春を歌っているPVをテレビか何かで見て、すっかり、それと同じことをしたくなったってわけさ。屋上のドアは鍵で閉まってたもんだから、水道管を蔦って屋上まで登って「僕らの青春を~、僕らの自由を~」なんて叫んでいたら、そのまま校長室行の切符を手に入れてしまったわけだ。なぜか生徒指導の先生は決まって体育会系のが来るんだよな。
「お前、自分が何をしたか分かってるのか?」「はい」「言ってみろ」「校舎の屋上に登りました」「謝れ」「さーせん」「もっと真剣に謝らんか」「さーせん」そこで、ピシャピシャと右の頬を殴られてね。「さーせんでした」って謝ったけどさ、とにかく校長室ってのは僕は嫌いなんだ。何もかもね。
それに壁には歴代の校長の写真がズラーっと並べられていてさ、そうやって威厳を示そうとしてるんだよな。大したことしてねぇ癖によ。援交、インポ野郎。教頭の方がよっぽど偉い。
それにしてもここのソファはカチカチに硬い。ここだけじゃない。校長室の椅子はどれも昭和時代の匂いがするカチカチの椅子ばっかりだ。
つべこべ言わず僕はそこでずっと黙って座ってたんだ。半世紀くらい。
いつまで経っても来ないから何やってんだよとか思ってたら、ドア越しから先生が誰かと話している声が聞こえてきて、どうも談笑してるみたいなんだよな。
それもたぶん若い同僚の先生かなにかだろうと思うよ。
んで、校長室に入って来た時もやっぱり顔が少しゆるんでた。
教師ってのは、どいつもこいつもそういうもんだ。
でも僕を見たなり表情をキュッと引き締めてさ、いかにも「真面目に君の問題と向き合ってるんだよ」って顔をするわけさ。
やっぱりこいつはクズなんだよ。気持ちの切り替えが、新幹線並みに速い。
先生は僕の向かい側に座る。猿は色々な書類に目を通したあとにこう言ってきたんだ。
「この前のテストの結果は君にも分かってるよね」
そんなことは分かってるんだよ。100万回くらい聞いたよ、その話。
「はい。分かってます」と僕は言っちまう。
あれこれと考えるような表情を浮かべてさ、いかにもインテリ振りやがって、こんな事を言う。
「君はどうして勉強をしなくなったんだ?それも急にだよ。何かあるんなら、先生にそのことを話してくれないかな」
やれやれ。
「特に無いんですよ。本当にない。なんか急に勉強がしたくなった。それだけのことですよ」
「でもほら、君はこれまで良い成績をずっと残して来たわけだろ。なんで急にやる気が無くなったのかを先生は知りたいんだよ。ここで諦めてしまうのはもったいないことだと思うよ。」誰だってそうだ。波があるんだよ。良い時と悪い時。良い時は目も向けない癖に、悪いところばっかり目が行ってしまう奴っているじゃん。それとおんなじさ。
「なにがもったいないんです?」と僕は聞き返す。
口答えをした僕に対して先生は少しイラッとしたようだった。そもそも黙ってお前のお話を聞いている方がおかしいんだよ。大体において教師ってのは、生徒に質問されたりするとイラッとした表情を浮かべるんだよな。
「確かにもったいないことかもしれませんね。なんで急にやる気が無くなったかなんて、そんなの僕には分かりませんよ。あそこに山があったから登ったみたいな、ああいう感じとおんなじです」と僕は続けて言った。
「とにかく君のこの成績だと卒業に必要な単位を渡すことが出来ない。うちの学校は、よその公立校と違うことは分かっているよね?国の事業なんだ。ここで成功するかしないかは、君たちにかかっている。他の底辺校みたいに赤点を取っても卒業できるなんて、そん生ぬるいことはうちの高校ではやってないわけだよ。分かるかい?君?で、どうするつもりなんだ?これから」
先生はペン回しを始める。時々ペンを止め、カチカチさせる。ボールペンの先が出たり、引っ込んだり、出たり引っ込んだり。いかにも退屈ですって表情を浮かべながら。やれやれ。本当にやれやれなんだ。嫌というほど現実を突き付けてくれるじゃないか。「で、どうする?」だってよ。体育会系のクズってのは、どいつもこいつも早急に答えやら結果を求めたがるんだよな。体系がガッチリしているサラリーマンが本屋に行ってまず手にする本ってのは「一週間で自分を劇的に変える方法」だとか「たったの一ヶ月で英語がペラペラに」だとか、そういう誰がどう見ても胡散臭いものに飛びつくんだよ。こいつもそれと似たような顔をしてら。
言い忘れてたけど、僕がこの世で一番嫌いなのは、こういう体育会系の糞ったれた野郎だ。
テレビのニュースも「ラグビー選手が、大麻を栽培」なんてものが流れるわけだよ。
前に新聞で読んだけど、特に日○大の大学生の飲み会なんで酷いね。ビールを吐くまで飲ませる。皿は割る。急性アルコール中毒で救急車に運ばれる。「すみませんでした」って頭を坊主狩りにする。でも、2週間くらい経つとそんなのはどっか遠く10億光年くらい離れたところまで記憶が飛んじまって同じことを繰り返すんだ。んで、また「さーせんでした」とか謝る。そういうのばっかりなんだよ。人格がクズな人間が、こうして社会に出てさ、仮面を被って生きているのを見てると虫唾が走るね。全身、酸で溶かされたようになるよ。

「それにだよ。君の最近の態度も先生の間で問題になっていてね。授業が始まっても携帯はいじる。教科書は持ってこない。君からはやる気というものを一切感じられない」
と、先生はのたまう。
「その通りです、先生。僕はそれはそれは堂々と携帯を机の上に置いていじってますよ。こうやって指を動かしてね。それに授業は本当につまらないので、教科書すら持ってくる気持ちになれません。それにたぶん、教科書は僕の家にはもうありませんね。きっと廃品回収車が持って行ったんじゃないんですかね。ははは」
「教科書が無いだって?お前はいったい何をしに来てるんだ?ここに」と言う。唇が少し震えている。女の子を犯すときのような荒い動物のような先生の鼻息が耳に障る。
やれやれ。僕は黙っていた。
僕は壁にかかっている歴代の校長先生の顔を一つ一つ見ていった。本当にクズみたいな顔をしてら。この学校が出来たばかりの校長の顔なんか特に酷いね。パンパンに膨らんでやがる。きっと生徒を搾取した結果ああなったんだよ。裕福な奴は大抵デブばっかりだ。

「お前はどうするつもりなんだ?これから。中退なんかしたら、どこにも行くところなんてないんだぞ。」腹が立つんだよな。こいつに言われると。
僕は30年くらい沈黙を保ったあと、ダムの決壊のように思っていることをベラベラと喋り出してしまった。そんな事言われると、ついつい反抗したくなっちゃうんだよ。

「わざわざこうして、楽しい楽しい授業を聞きに来てるんですよ。ははっ。いやあ、先生楽しいな。僕のためにこうして時間を割いてくれるんですからね。はっきり言って無駄だと思いますよ。もっと合理的に考えようじゃありませんか。つまり、僕みたいなクズはさっさと切り捨てて、優秀な人間に時間とお金を割いたほうがよっぽど社会の為になると思いませんか。第一ね、ここの学校ってのは全部インチキなんですよ。インチキ。どいつもこいつもアホみたいな顔してるし、僕の教室にいる奴らなんかまるで感情の無いロボットみたいじゃないですか。うんざりなんですよ。なにもかも。それに、なんでああいう風にわざわざクラスの平均点なんてものを教室の外に貼りだしておくんです?まるで、競争を煽ってるかのようじゃないですか。僕の席もそうですよね。あそこに座る奴はクズで馬鹿だっていうレッテルを貼っておけば、先生諸君は勉強し始めるんじゃないかと思ってるんじゃないんですかね?へ。それにあんたが立派にお勤めになっている野球部の連中はどいつもこいつもクズばっかりですね。僕よりもよっぽどタチが悪い。この前、ファミレスで静かに本を読んでたんですよ。そしたら、野球部の奴らがぞろぞろ入ってきて、鞄やらローファーから土をあちこちに落としまくっている。店員も迷惑そうな顔してたんだよな。ドリンクバーか何かを頼んで、必要も無いのに1人10個くらいグラスをテーブルに持っていってさ、やりたい放題でしたね。1人は、コップを太鼓のバチみたいにバンバンテーブルに叩いてさ。パリンって音を立てて割ってしまう。んで店員を呼び出して、これ直してくれる?とか言う。まるでお客様は神様なんですよっていう顔をしながらね。そいつらに比べたら僕なんかまだましですね。いやいや、僕は普通の生徒ですよ。それ以前に僕は普通の人間ですね。はは。彼等のプレーを一度、グラウンドで見たことがありますよ。1人になるとオドオドして、集団になった途端、強気になったりする。ああいうのが一番嫌いなんだよね。きっと控えの選手だろうけどさ。グラウンドに立って1人ぼっちになった途端、緊張で足がガクガクに震えて、手はガチガチになってるんじゃないんですかね。ははっ。あいつらボールが飛んできたらきっとサッカーをし始めますよ。それかバレーか。円盤投げかなんかしちゃうんじゃないんですか。要するにパニックになって、ボールを真下にでも投げちゃうんじゃないんですかね。まあ、こんなこと話してもしょうがありませんね。僕は帰ります。いや帰らなければならないんです。ここでこうして話を聞いてる時間は僕には無いんですよ。妹が風邪で寝込んでますから。くだらねぇ、くだらねぇよ。お前なんか糞だ。糞以下だ。ほら、そんなにふるふる震えやがって。殴りたきゃ殴れば良いだろ。へ?お前は、それしか出来ないんだからよ!このスカスカのレンコンみたいな頭しやがって。お前に何が分かるってんだ。」
「お、ま、え、は、な、に、を、いっ、て、る、の、か、分、かっ、て、る、の、か?」
僕には一瞬、何が起きたのか分からなかった。
先生はいつの間にか僕の上に乗っている。右の頬がガンガンと痛む。参っちゃうよね。冗談抜きでさ。
「先生!先生!何をやってるんですか!」と他の先生が校長室に入ってくる。白髪混じりの女の先生だ。古典の先生だ。
「何を言っても分からない奴は、こうする以外に無いんですよ」と、野球部のクソッタレ3流コーチはこう言う。
「どいてくれます?その上に乗らないでくれます?」と僕は先生に唾を吐きかける。
「うるせえ」と右の頬を殴る。
「先生!やめてください!」と古典の先生が、なだめる。
先生は、まるで100m走をした後みたいに息が乱れている。
「もう、どうでも良い。お前なんかさっさとやめてしまえ」と言うと、バンッとドアを閉めて校長室を出て行った。まあ、こんなもんだ。
「保健室に行きましょう」と古典の先生が言う。
「いや、良いんです。こういうのは慣れてますから。それよりも今日は早く帰らないといけないんです。妹が家で待ってますから」と僕は嘘を吐く。妹が風邪を引いたからって、あいつは全部、自分1人で出来るし、心配されることを一番に恥じる奴だから。
ああ、もうめんどくせえや。このまま死にたい気分だ。

君たちには分からないだろうな。人間ってのは、どんなに語り合ったとしても分かり合えないもんなんだよ。暗い暗い井戸の底で、両膝を抱えて誰かが掬いあげてくれるのを待っている少女のようにね。きっとその少女は、誰かに声をかけられても顔さえも上げないだろう。「もう良いんだ。私のことなんか気にしないで、放って置いてちょうだい」ってな具合にさ。僕が母さんのお腹に入っている時、僕は母と臍の緒で繋がれている。腹を蹴とばし、産声を上げた時には、その尾は切れちまうんだ。いや、正確に言えば、看護婦がハサミか何かでそれを切ってしまうんだよ。「さあ、この世に生まれたからには、孤独に生きなければならないのよ。これは最初の試練なんだから。もうお母さんと一緒に生きることは出来ないの」ってな表情を浮かべてね。人間ってのは、初めのうちは手間がかかるんだ。とても寂しいからね。「お母さん、お母さん、お母さん」と叫んでも、喉の当たりで痰がつまってるみたいにうっとうしい感じだけがして、いつまで経っても言葉が出てこない。だから、泣いてしまう。泣けば抱きしめてくれる。赤ちゃんは安心してすやすやと眠りに落ちる。僕たちは歳を取る。3歳になった頃には、世界に父と母がいることを知るんだ。世界は、父と母と僕の三人で出来ているって思うんだ。それがどうだ、幼稚園を卒業し、小学生を卒業し、中学生を卒業し、箱が入れ替わっていく。学校という箱はいつまでもそこにあって、中身はどんどん変わっていく。全ての物事は通り過ぎていく。君はそれを捕まえることが出来ない。だから、それを見てるしかいないんだ。指をくわえてね。君がある年齢に達した時、「僕と他者とは何かが違う」ということに気が付く。それぞれがそれぞれの目標に向かって走っていく。いつの間にか、目標を決めることが目標になってしまっている自分に気が付く。「俺、なにがしたいんだろうな」「お前、なにがしたいんだよ」「わかんねぇよ」「俺もわかんねぇ」「死にてえのかな」「ああ、そうかもな」
時間というのは残酷なのさ。人間を前へ前へ推し進め、人間を孤独に孤独にさせていく。止まることはない。決してね。父と母はいつの間にか世界の片隅に追いやれていて、彼等も1人の人間だったんだってことに気がつく。僕と父と母は違うんだって思う。ますます孤独を感じるようになる。どんなに一緒にいたって、どんなに話をしたって、結局は分かり合えない。僕の生きてきた17年間と君たちが生きてきた17年間は違うんだよ。生まれた場所も違う。住む場所も違う。第一、君の父さんや母さんは僕の父さんと母さんとは違う。当たり前のことだけどさ。今まで、どんな事を考えて生きて来たのか、どんなものを見て来たのか、それも人それぞれさ。共有できるもの、それは誰1人として持っていないんだよ。自分の体験は、すべてその人固有のものだからね。決して、分からない。分かり合えない。
たとえば君に向かって「犬」と僕が言ったとする。君は、犬についてあれこれと想像をめぐらす。僕が「犬」に関して思い出すことは、小学生の頃に友達のポン吉に股間を噛まれたことだ。だから誰かに「犬」と言われた時、僕の場合は「ポン吉」を想像する。でも君は、僕の知っている「ポン吉」を知らないだろう。君は君が今まで会って来た「犬」を思い出すんだろう。そういうもんなんだ。人それぞれ持っている記憶が違うんだ。ああああああ、何を言いたいのか分からなくなってしまったよ。つまりだ、僕たちは一生分かり合えないんだ。
言いたいことは、つまりそういうことさ。

僕はキチガイみたいに心配する古典のブス女を適当に流し、校長室を出たあと、駐輪場から鍵の付いてない自転車を盗んで長い坂を駆け下りていった。海が段々と近づいてくる。電車が左から右へと走り去っていく。僕はこのままブレーキをかけずに突っ込んで死んでしまおうかと思う。そんなこと出来るわけない。
踏切が開く。僕はそのまま長い坂を下るに下って、海まで行く。自転車をその辺に投げ捨てて、僕は砂浜に腰を下ろす。
ポケットからマルボロを取り出し、煙を吸い込む。体中に毒が回る。こめかみが痛くなる。
内側から抉られるような痛みが眼球に襲ってくる。嗚咽混じりの咳をする。
吐きたい気分だ。指を喉の奥に突っ込んで、吐き出そうとする。吐きたい時には決まって何も出てこない。泣きたい時にはきまって涙が出てこないように。話したい時には何も話せないように。笑いたい時は素直に笑えないように。そういうもんだ。

目の前を若いカップルが遊んでいる。犬を連れていて、男がフリスビーを投げて遠くに飛ばす。犬は幸せそうにフリスビーをキャッチした後、尻尾を振りながら男の所へ戻っていく。女はその隣で「ほら、あなたにも分かるでしょう?私たちって幸せなんだか」というようなインチキ臭い笑みを浮かべながら、ちらっとこっちを見てくる。僕と目が合う。僕は視線を逸らす。

あの犬を殺してしまいたいと僕は思った。あの横っ腹を蹴っ飛ばした後に、首の骨を折ってやるんだ。ナイフで尻尾を切り取り、皮をゆっくり剥がしてやる。血だらけになった犬の皮膚に塩をこすりつけてやる。んで、肛門に枝を突っ込んで惨めな状態にさせたあと、嘲笑いながら足先で転がし海に捨ててやるのさ。

フリスビーがこっちに飛んでくる。僕はそのフリスビーを投げて返す。ふらふらと宙を漂う。「ありがとう」と男が言う。女も「ありがとう」という顔をする。僕はニコッと笑う。笑わなくちゃいけない時は、いつも笑いたくない気分だ。
砂を拾いあげる。砂時計のように指の隙間からするすると落ちていく。僕は砂を投げ飛ばす。僕は砂を拾って投げ飛ばす。この砂はいったいいつからここにあるんだろう。そもそも砂はいつ砂になったんだ?僕には分からない。僕がいつ僕になったのかも分からないようにね。砂はまるで記憶の断片のようにそこ辺に散らばっている。僕は砂を拾う。マイクロレベルの粒子をじっと見つめる。何か見えて来やしないかと。見たい時には、決まって何も見えてこない。そういうもんだ。

若いカップルの前を腰まで伸びた白髪のじいさんが何かを探すように歩いている。服はところどころ破けている。靴からは真っ黒の足が剥き出しになっている。片方の脛の膿には泥がべっとりとこびりついている。じいさんは、ドロドロに濁った茶色の液体の入ったペットボトルを拾って、ビニール袋の中に放り込む。自分の全財産を引きずりながら空き缶やビール瓶やらを拾い集める。
その後ろで若い男と女はフリスビーを飛ばしている。女はキャキャと笑う。犬は尻尾を振っている。
「ほら、これやるよ」と茶髪の男がペットボトルを投げる。じいさんはそれを拾う。無言で。何も語らず。何も訴えず。何も見ず。
僕はタバコを吸う。体中の毒を吐き出すように咳をする。吸って、吐き出して、吸って、吐き出す。
やれやれ。本当にやれやれなんだ。
放り投げた自転車に跨って海岸沿いを走る。ただ何も考えず、何も見ず、僕は走る。
磯とガソリンの匂いの混じったベットリとした風が僕に当たって、過ぎ去っていく。追い越す車とバイク。信号が赤になる。人々が停止する。バイクの後ろに乗っていた金髪の女がタバコを車道に投げ捨てる。そのタバコは消えずにまだ燃えている。信号が青になる。後ろの車がそれを踏みつぶす。あのクソ女、横転して首の骨を折っちまえと僕は思う。

良いかい。僕の目に映る全てのものは灰色に濁っていて、何もかも裏があるように思えてしまうんだ。表があれば裏がある。一度、物事の裏に目が行ってしまうとそればかりが飛び込んでくるんだ。表ばっかりを見ている人間はいつだって能天気で、何も考えていない。それにそれを求めているうちは幸福なような気がするんだよ。でもさ、それを手にした後、いったい何があるんだ?僕に教えてくれよ。いったい何が得られるんだい?僕は時々そのことについて考えるんだ。何も無いんじゃないかってね。僕だってこの高校に何かあるんだろうと思って勉強して来たんだ。でも、なんも無かったよ。本当になんも無いんだ

青い春

青い春

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-01-24

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