ミラルンパ
動悸、息切れ、食欲不振。
その人のことを考えると夜も眠れなくなり、眠れたかと思ったら今度はその人の夢ばかり見て、朝起きてそれが現実ではなかったことにショックを受け、胸中のモヤモヤがいつまでたっても晴れない。
その人と会いたいと願うが、会えないことはわかっていて、また、実際のところ、会うことが真の目的というわけではない。
寝ても覚めてもその人のことばかりを考える。
勉強も手につかない。
情報は右から左に流れていく。
友人との約束も忘れてしまう。
「……と、いうわけなんだ」
「ほほう。昨日の約束を華麗にすっぽかしたいいわけが、それか」
学ランの詰め襟に首を埋めるようにして、なにやら重大なことを打ち明けた友人、狩野ミツルを、香下アキラは半眼で睨みつけた。
男二人もアレだけどさー、観たいのあるから映画行こうぜー、と軽い調子で誘ってきたのはミツルの方だ。花の日曜日、時計台の下で一時間も待っていた自分はなんだったのかと、アキラの怒りは沸々と増していく。何かのっぴきならない用事があったのならまだしも、問いつめてみればまさかの恋愛相談。ごめんなさい度がどう考えても不足している。
「いいわけじゃねーよ、本気なんだ。本気で、忘れてたんだ」
「おまえ、本気ならなんでも許されると思うなよ」
「なあ、友だちだろ、俺のこの症状、なんとかしてくれよ。このままじゃやつれてやつれて……スリムキングになって……──モテるんじゃね? やべえ、それもアリだ」
「ゲンコで殴るぞ」
いまいち危機感の足りないミツルを、アキラはできるだけ客観的に分析してみる。ビジュアルは良くも悪くもふつう、中学二年生にしては背が低い──ついでに兄から譲り受けたという学ランはどう考えてもサイズ違い──が、まあそれはこれからだろう。勉強もスポーツも並。本人はスリムキングがどうのといっているが、それほど太っているというわけでもない。
中の中、ぐらいが妥当か。年下好みのお姉様相手なら、中の上ぐらいはいくかもしれない。
恋をしたというのなら、ぶつかってみても悪くないレベルだ。
「そんなに重症なら、さっさとそのたぎる思いを告げてこい。オレが友人でいるうちに。砕け散るかどうかは五分五分だ」
「思いって、なんだよ」
「だから、恋なんだろう。その愛しの彼女に、告白してこいっていってるんだ」
「恋!」
ミツルは目を見開いた。意外な反応に、アキラは眉根を寄せる。
誰がどう聞いても、最初のミツルの訴えは恋愛相談のそれだった。なぜ、恋と指摘されて驚くのか。
まさか、初恋? ──アキラの脳内に、そんな甘酸っぱい可能性がよぎる。
「恋、か……いや、恋というか……恋よりももっと強大で、とてつもない何かだ」
「それはあれか、好きじゃなくてものすごく好き、ということか」
「ううん、そうなのかもしれない」
アキラは視線を感じた。それも複数。
教室で、男二人が好きの程度について語っていれば、それは注目されるというものだ。クラスメイトの女子たちが、なにやら囁いている。
「それに……思いを告げるっていってもさ。ムリなんだ。それって不可能なんだよ」
「まさか、道ならぬ恋か」
「そういうことになるかな」
人妻か……アキラはうめいた。
それはまずい。中学二年生の分際で、人妻に恋をするのはちょっとまずい。昼ドラをも凌駕している。
「安易にエールは送れないが……友人として、おまえの幸せを願う。まずは相手を知ることだ。いいか、相手を困らせるようではなんにもならない。相手の身になって、よく考えて、早まったことはするなよ」
「アッキー……おまえって、イイヤツだよな……」
ミツルはどうやら感動したようだった。瞳がうるんで、いまにも泣きそうだ。
「相手の身になって……、そうだよな、独りよがりじゃ、わかんないことあるよな。俺、がんばるよ。明日からの俺を、見ててくれよ!」
先ほどまでの鬱々とした空気が嘘のように、ミツルは笑った。歯すら光った。
「くじけるなよ」
いろんな意味を込めて、アキラは告げた。
*
翌日。
いつものように登校してきたミツルの、その姿に、アキラは絶句した。
いつもと同じようで、決定的に違う姿。
背中に、段ボール製の、大きな翼。
「俺、今日からミツルンバだぜ」
かける言葉が見あたらず、アキラは黙った。果たして、ミツルンバとはどんなルンバなのか。
答えがないことなど意に介さず、ミツルはハイテンションで続ける。
「俺さ、こうすることで、ミラルンパちゃんに近づけた気がする! アッキーのおかげだよ。アッキーのいうとおり、まずは相手を知ることからだよな。紹介するよ、オレのハニー、キリリ天使ミラルンパちゃん」
周囲の視線をものともせず、学ランのポケットから生徒手帳を取り出す。真ん中あたりから、ラミネート加工された小さなカードを手にした。
そこにあった姿に、アキラはすべてを悟った。
きりりとした表情。大きな胸。意志の強そうな瞳はこちらを向いていて、その華奢な肢体からは、荘厳な翼が生えている。
人妻どころではなかった。
三次元ですらなかった。
「すげえ美人だろ」
それはどう見ても、漫画の切り抜きだった。
アキラは瞬時に考えた。まさかこれってオレのせいか、オレがよけいなこといったのか──いや違う、本人の資質だ、オレは関係ないぞ無実だ……呪文のように、胸中でつぶやく。
長い長い沈黙ののち、かつて友人だった相手に、心からのエールを送った。
「……がんばれよ、ミツルンバ」
そして、さようなら、ミツル。
了
ミラルンパ