僕らの棲む町
神様が針で夜に穴を開けた。
小さな星がひそやかに生まれた。
そういう音を、今夜僕は聞いた。
きっとその針で開けた穴から神様は見ているよ、と祖母が言う。
*
最近曇りの日が多くて洗濯物が乾かないという母の苦情を、雲職人の弟子である友人に伝えたところ、彼が困り果てて曰く。
「僕が雲をつくるには、百の下準備が要ります。親方は煙管をちょっとやるだけで立派な雲を出すんです。最近親方がふかしすぎるんで、僕はもっぱら消し役。早く奥さんが帰って来てくれないと困ります。親方が花でも贈ったらいいのに、照れ屋なもんだから。ああまた雲があんなに」
もくもくと大きな黒い雲が空の端から更にまた生まれてきている。仲直りどころか、喧嘩再燃なのではないだろうか。
雲職人の弟子はそんな雲を見て、ふうっとため息をついた。
実は僕も、と彼がもらす。
「逃亡した指輪を探しにいきますという書き置きを見つけたんです。僕もいっしょに探せたらよかったのに。もしも見つかったら鉄の箱に入れて厳重に鍵をかけて土にでも埋めて、二度と逃亡できないようにします」
そんなんだから指輪が逃げたのよ。
と、通りすがりの猫が不機嫌に尻尾を振った。
たっぷりの水をふくんだ低い雲から、小さな雫がひとつぶ落ちた。
僕の睫に当たったのは、そういうはじまりのひとつぶだった。
*
町へ出たついでに、久しぶりに理髪店へ寄った。
澄んだ音を響かせて髪は切られた。
髪の断面からよどんだものが空中へ流れる。
煙る水のようなその筋を理髪師は見る。
最後の櫛のひとかきで、理髪師は断面を整え、その流出を止める。
「気持ちがすっとしました」
僕がそう言って店を出た後、理髪師はきっと鋏をするどく磨き、次なる客へ備えるのだ。
*
午后の川辺、真っ黒い影をゆらゆらと従えた男が歩いている。
風の逆さに撫でゆけば、みなもは毛羽立ち、太陽は無数に砕かれる。
川に浸かった商人が砕けた太陽を瓶に詰めている。
男は渇いた銅貨でそれを買う。
そして裏町日陰の通りを歩いてゆく。
胸のポケットへしまうには、砕けた欠片で十分だ。
後ろ姿にゆれる影から、そういう声が聞こえた気がした。
その夜、子供の頃に大道芸団が町へやってきたのを思い出した。
ピエロの隣でタンバリンを叩く女の子と友達になった。
夜の倉庫でもその子はタンバリンを練習していた。一日中叩くんだ。
そんなに楽しいのって聞いたら、弾けるように言うんだ。世界に音を響かせたいのよ。
静かな夜に響く。あの子の、力一杯の音。
*
小石は蹴られた。
将来消防士になる子供に水質鑑定士になる子供に寿司屋の親父になる子供に研いだ包丁へ顔を映して目を光らせる妻になる子供に新月に火を放つことになる子供に。
小石は蹴られて、今は排水溝にいる。
格子越しの空は青い。
*
去年お嫁にいった姉の旦那さんと電話する。
旦那さんはホラ吹き男だ。
「夜道で猫だと思ってじゃらしたら、お魚くわえた熊でね、走ってきたパーマの主婦の方に魚を取り返してって頼まれて、大格闘の末にエイヤと一本背負いしたわけ。つまりとても空腹だから、砂糖と塩を大きく間違えたこの皿もすごくおいしいよ、だから捨てないでいいんだよ」
姉の手料理を前にして、そんなふうにホラを吹く。僕にはできなかった芸当だけに、この義兄を尊敬している。
*
隣家は神様と暮らしている。
老いから若きまで皆が神様を真ん中にわきあいあい。
神様に遊んでいただき、ご飯を召しあがっていただき、こころゆくまで昼寝していただく。
神様だもの、至れり尽くせり。
その神様はニャアと鳴く。
さて。
公園で拾った神様が僕の部屋にいる。
現在家族への効果的な布教について考慮中だ。
そんな夜の窓から小さな喝采が聞こえる。
見れば、なんと頭へ卵をのせた小人が電線綱渡り。
百の小人がパン屑片手にやんやと見物。
卵小人が片足滑らせ、僕は窓にしがみつく。
卵小人と目が合うと、彼女はウインクひとつして見事な電線ダンスを披露した。
翌朝窓辺に卵が置いてあった。
小皿へパンをちぎって卵と引き換えに窓辺に置いて、彼女の卵で朝食のオムレツをつくった。
食いしん坊の母が匂いにつられてやってきて、テーブルにつく。
僕は母の前にオムレツといっしょに丁寧にドリップしたコーヒーも並べる。
「食べていいの?」
「どうぞどうぞ。だから、あとで僕の部屋にちょっと来てみてくれないかな」
「なあにそれ。あやしい」
「あやしくないって。神様に会わせてあげる」
「なあに神様って。あらやだ、なあにこのオムレツ。すごくおいしい」
小人のくれた卵だからね。
というのは内緒の話。
*
シンクの下で妹が膝を抱えている。
目に涙を溜めて「いいの、水道管が好きだから」なんて言う。
「寒いから出ておいで、ママに捨てられた人形なら、また見つけて買ってきてあげるから」
そう慰めたら、もう顔もあげてくれなくなった。
ねえ、僕も泣きたい。
*
最近、バスでいつもいっしょになる会社員の目がうつろだ。
いったいどうしたのだろうと尋ねてみたところ、
「目玉の元気がよくて困っています。勝手に落ちて転がって、いつのまにかレイトショーを観て帰って来たりして。おかげで夢で映画を観れるんだけど、変な寝不足です。今度こそまぶたをしっかり閉じておかなくちゃ」
今夜はまぶたをセロハンテープでおさえて眠る計画らしい。
彼はそれっきり吊り革に掴まって目を閉じてしまった。
話し相手を失って、僕はバスの中の会話に耳を澄ます。
立派な杖を持った白髭のおじいさん達が楽しそうに話をしている。
「夕べこっそり孫の靴に魔法をかけた」
「その靴の触れた所から、世界は星模様に広がってゆく」
「どこにでもゆける、つながる」
「ただしっかりと、足を踏みしめればよい仕組み」
ななめ前に座っているおじいさんは、僕の視線に気づくと、片目をつぶって杖を振ってみせた。
*
たどり着いたのは町はずれの博物館。
白い部屋にガスタンク程の大きさの飴がひとつ。
こっそり舐めたら、舌から飴の緑色が入りこんできた。
顔も体も足も緑に染まった。
飴の周りを歩いてゆくと、待ち合わせの君と出会えた。
君もやっぱり緑色。
「あなた、緑色も悪くないわ」
君が笑って言うから、僕もそんな気になったんだ。
*
嵐を待つプラットホーム。
うずまきの風が吹いたら、駅員が笛を吹く。
「お客さん、飛び乗って! 出発です。嵐に乗って列車が空に地下に海に走り出す。降車の際はくれぐれも足元にお気をつけください」
僕は彼女の手をにぎって、列車に飛び乗った。
終
僕らの棲む町