【Episode δ】白雪姫とサイボーグ

思い付いたので文にしてみた。
そんな感じの内容なので、とても小説と言えたものではありませんが御暇な時にでも目を通して頂けるとありがたいです。

プロローグ 二人

 その時彼は、自分を〈サイボーグ〉だと名乗った。
 濁り歪んだ緋色の、光る右目を髪に隠して――。


 雨が、降っている。
 日は暮れ、辺りを影が支配していた、人通りの少ない住宅街。その灯火の差し込まない路地裏に、彼は座っていた。
 黒い長髪は全く手入れをされておらず、雨にも負けずぼさぼさにはねて、向かう方向を見失っていた。右の瞳は前髪にすっかり姿を隠し、左も半分程度しか見えていない。肌と唇は色を失い、その真っ黒な髪のせいで余計に白く見える。
「……あの、大丈夫?」
 ただ、その青白い肌も、今は、一部をのぞいて赤黒く血塗られていた。着ている防護服のような物は、もとが何色だか分からないくらいに汚れている。
「…………」
 冷たい雨風が横を通り抜けた。
 揺らされた彼の前髪からのぞく左目は、こちらを睨むように見据えていた。
 普通なら、すぐに救急車を呼ぶべきだったと思う。でもしなかった。意味がないし、する必要もないと、なんとなく感じたから。
「……前方二メートルに質量を確認」
 低く、しかし済んでいる声で、彼は呟いた。
「その、怪我、してるように見えるんだけど……手当しないと」
「…………」
 アスファルトに当たる雫の音が、暗い道路に響き渡っていた。車の音も、足音も、何も、聞こえない。
「警戒レベル二」
 ただ、自分達の話し声のみが頭に入ってくる。
「危険性無し。最善策を構築中……」
 彼の言葉が行き場を見失って宙を飛んだ。
「……構築完了」
 猫のような、鋭く光る瞳が、闇に浮いている。
「えっと……その」
 男は反応しない。
「濡れると、風邪引いちゃうよ」
 湿ったズボンの裾をまくり上げ、言葉を投げてみる。

 彼が腰を上げたのは、それから少し経ってからだった。


 雨が、降っている。
 クリスマスが近づく肌寒い夜、水溜りで埋まっている広めの道。
 私が〈サイボーグ〉と出逢ったのは、そんな日だった。




 刃物と刃物がぶつかり合う。特徴的な、高い金属音が広めの路地裏に響いた。
 衝撃で身体が仰け反り、バランスを立て直す為に両者が後ろへ下がる。
「……チィ!」
 眼前の敵の舌打ち。それと同時に、奴は殺戮用のナイフを右手に構え、少年の懐に飛び込んできた。
――行動経路を予測。およそコンマ一秒後に左部心臓保護器具へ刺突の可能性あり。
 一瞬より速いスピードで、脳内コンピュータがシミュレートを終える。
――重心を縦軸より三十八度後方、横軸より四十五度右方へ。
 重力に身を任せて身体を左に向け、予想通りの刃をかわす。だが、向こうもそれを読んだ上で攻撃を繰り出している筈だ。
 案の定、即座に握った左手での追撃が迫る。しかし全てを予測済み、性能差は明確である。少年はシミュレーション通りに右手首でそれを弾き、左脚で思い切り地面を蹴った。
 苔の生えたアスファルトに軽く亀裂が入る。
 敵は既に後ろに引いて、次の行動準備をしようとしていた。
 だが少年はそれを許さない。
 超人的な跳躍力で間合いを詰め、顔の前で思わず腕を交差する相手に向かって、拳を振り上げる。
――入射角二十四度、秒速五十メートル。適切な数値へ修正完了。
 隙間から覗く顔。
 歪んだ恐怖に、悲鳴も上がらない。
――射出。
 そして。

 計算されたその拳は、腕ごと敵を貫いた。


 日が沈み始めた街には影が落ち出し、空は半分どす黒い雨雲に覆われている。
 光がなくなってきた路地裏に、男は座り込んだ。敵の亡骸は、金属溶解液で、跡形もなく溶かした。
 ふと、返り血が付着した戦闘服を眺める。
 黒で統一されたそれは、一般には出回っていない、特別な装甲である。胸腹部には、保護する為のパーツが六つあり、二つずつ対になって縦に配置されている。腕には、収納型の小火器が搭載されていて、時間がかかるが強力な砲撃を繰り出すことが出来る。
 何故このような装備を、至って普通の街中でしているのか。彼自身にも、それは分からなかった。
 気が付けば、追われる日々。既にヒトの身でなくなっているこの身体を見ても、何の感情も湧かなかった。
 刺されても痛くない。罵倒されても腹が立たない。ただただ、襲いかかる〈サイボーグ〉を抹殺する、そんな毎日。
 恐怖さえも感じられない機械の頭は、もう死んでしまえ、と毎夕囁いてくる。冷徹な|機械音声……自分の中に、違う誰かがいるような。その感触だけが、いつになっても慣れることが出来ない。
 ぽつ、と、水滴が、広げた掌の上に落ちた。
 見上げると、上は全て灰色で。
 ぽつ、ぽつ、ぽつ。
 段々と強さを増していく空の涙は、悲しみよりも、哀れみにこぼれているような気がした。
 また今日も、血に汚れた一日が終わりを告げる。いつもの様に、起伏の無い声が、追いつめるようにかけられる。
 そう、思っていた。
 思っていたのに。

「……あの、大丈夫?」

 その日。
 人間の三倍の聴力を誇る耳が捉えたのは、
 暖かい、少女の音色だった。

第一章 真冬の夏


     1

 肌寒い空気の感触を味わいながら、オレンジ色の空の下、少女は商店街を歩いていた。
 クリスマスイブまであと七日。そこには、それに適う品物が置かれて始めている。赤、青、緑……きらびやかなイルミネーションが、質素な建物を鮮やかに仕立て上げていた。道は、カップル、家族で溢れており、一人だけで歩いているのは少女くらいのものだった。
 小さめの電気屋の前を通り過ぎる。店頭に置いてある数台の薄型テレビは、皆揃って同じ事件のニュースを映し出していた。
 いたずらで、建物の壁に大きな傷がつけられていたらしい。亀裂に、凹み。なんとも暴力的だ。
「……最近よく見るなあ、この手のニュース」
 取り立てて騒ぐほどでもないと思うけど、と彼女は感じた。
「あ、雪羅ちゃん、おはよう。今ならケーキの注文とぎれてるから、買えるけど」
 意識がテレビから外れる。
 声の主は、愛想の良さそうな年配の女性だった。ふと見た店頭の透明なガラスケースには、様々な種類の洋菓子が並んでいる。
「あ、ううん……今日はちょっと違う用事で」
 今日ここに来たのは、聖夜の用意をする為ではない。
「そっか……ま、買うんなら早めにね。予約パンパンだから」
 娯楽の為でもない。
「分かった。ありがと、おばさん」
 昨日家に来た、不思議な少年の日常生活品を買いにきたのだ。
「家事とかキツかったら、遠慮せずに言うんだよ」
 彼は、本当に何も持っていなかった。既に着ていた変な服と、少しの小銭のみ。どうやって生きてきたのか分からないほど。
「……うん」
 とりあえずだが、必要最低限の衣服を購入しに来たという訳だ。
 再び歩き出した少女の耳に、黒い少年の声が巡る。
――私は、〈サイボーグ〉です。正式には、サイバネティック・オーガニズム。
 意味が分からなかった。
――製品番号は、cb-δ1.0-UI-00471Y。
 豪雨の中、ぼーっと路地裏に座り込んでいたから、家に入れてあげた。
――それ以外は、何も分かりません。
 異常だと、感づいてはいた。非凡な衣類を身に纏っているし、所々に血が付いていたし。何より……
――名前? 知りません。自身のデータは残されていませんので。
 目が、光を放っていたから。
 あれは反射などではない、れっきとした光源だ。眼球に、ライトか何かが埋め込まれているとしか思えないのだ。
(…………)
 でも、見過ごすことが出来なかった。
 親近感を感じ……彼の雰囲気に、何故か安心感を感じたから。
(……あからさまに不審者なのに、ね……って、あ)
 気が付いたら、服屋の前まで来ていた。
 やはり、ここも恋人達で溢れかえっている。甘い空気が、不快感を連れて、店内から流れてきた。
「……早く、買って帰ろう」
 俯きながら、早足で進んでいく。
 この時彼女の頭に、男物の下着なんて存在していなかった。

     2

 曇天。
 鈍色の雲から覗く金色の月明かりは、街灯の少ない住宅街をぼんやりと映し出す……家の前から見えるのは、絵本に出てくるような、そんな夜景。
 少女は黄昏れながら、すっかり錆びてしまったドアを開ける。
「お帰りなさい」
 中へ入ると、リビングから、形式だけの敬語が飛んできた。そこに感情はないが、黒い衣装も相まって、執事を雇っている気分になる。
「……ただいま」
 結局、彼女は下着コーナーで一時間ほど悪戦苦闘をし、店を出た頃には辺りは真っ暗となってしまっていた。
「はい。服買ったから、脱衣室で着替えてきて」
 テーブルについている彼に袋を手渡し、台所へ向かう。だが、彼は一向に動く気配を見せない。
「……どうしたの?」
「いつ襲撃されるか分からない状態で、装甲を脱ぐわけにはいかない」
 そう、言い放った。
「……それは今朝聞いたよ」
 呆れつつも、少女は馴れた手つきで食材を刻んでいく。
「君が所謂サイボーグで、しかも記憶がなくて、何故か命を狙われてるのは分かった」
 振り返らずに、純粋な疑問を投げかける。
「証拠は?」
 少年は物音を立てない。
「何か証拠になるものを見せてくれないと、とてもじゃないけど信じられないよ。それくらいおかしいことを、君は言ってると思う」
 ぴくりともせず。
「血塗れの服でいられても、困るし」
 …………。
 暫くの間、沈黙が会話を支配した。秒針が奏でる規則の正しいリズムに、油を飛ばす肉と野菜、白米の音――不釣り合いな両者が、部屋の中を駆け回る。
 彼が再び口を開いたのは、コンロの火が止まった後だった。
「お見せすれば、保証は出来なくなります」
 依然として冷たいままの声。だが今は、人を威圧するような重みを持っていた。
「本来ならば、私はここにいてはならない。何が起きているか分からない以上、迂闊に関わっては危険です」
「それも聞いた」
「ただでさえ、段々と、襲撃頻度が増している」
「それも……」
「家一つ焼かれても、文句は言えません」
「…………」
「日常を壊される覚悟はありますか?」
 料理を薄皿に装っていた手が止まる。
「死ぬ覚悟は、あるんですか」
 珍しく、その声音に、ほんの少しの緊張感を感じた。
「既にもう、マークされている可能性があります。悪いが、貴女を守る自信などない」
 それだけ言い切ると、彼はまた、口をかたく閉ざしてしまう。
「……警察は? 何で異常事態に巻き込まれてるのに、保護してもらわないの? 戦闘用サイボーグなんて高性能なもの、聞いたことないし……もしそれが本当なら、国に関わる問題だよ」
 おかしい、絶対におかしい。少女は腑に落ちず、一般常識を元に考えを巡らす。
 そもそもサイボーグの土台となっているのは、医学的補強器具として発明された機器である。そう、あくまで、身体に欠陥がある患者の為に研究、開発されているものなのだ。今の時点では、まだ滑らかな動きをすることが出来ない。激しい運動など以ての外だ。
 しかし、彼の場合。耳に障る機械音もなく、至ってスムーズに身体を動かしている。確かに、目に関しては説明がつかないが、これだけ見ると至って普通の健康体と考えるのが|妥当だろう。
「大体、こんな人の多い街中で戦いなんてしたら、確実に見つかるでしょ」
 音を出さず、姿を見せず、何も傷つけずに戦闘を行うなど、いくらなんでも無理がある。
「それに」
 止まっていた手を動かした。炒飯を盛った皿を、彼の前に置く。
「本当に危険なら、何で私についてきたの。何で私に、サイボーグだって教えたの」
 これが、一番引っかかっていることだった。
 言葉から推測すると、彼は巻き込むことを避けるため、出来るだけ人と関わらないようにしていると言える。それなのに、何故今もこの家にいて、少女の世話になろうとしているのだろうか。
「矛盾してるよね、やっぱり」
 以上のことから、彼女は思う。
「君は、本当はただのホームレスか何かで、路頭に迷っていた所を私に拾われた。迷惑をかけたくないけど、世話にはなりたい。自分の面倒を見ない方が良いって言ったのは、遠慮してたから。違う?」
 自分も席につき、食事を開始する。
 しかし、彼は言い放った。
 違います、と。
「この装備の説明がつきません」
 己の右腕を、少年はハイライトのない目で見つめる。
「それだって、ただの作り物なんじゃないの?」
「……構築中……」
 またか、と彼女は溜め息をつく。問い詰めるとこれだ。
「……完了。危険性を考慮した上での行動パターンを予測、不可」
 漆黒の髪を揺らしながら、彼は呟いた。
「装備が本物かどうかを証明するのは危険だと判断されました」
「……はぁ……」
 少女は聞き出すのを断念した。言いたくないこと、言えないことがあるのだろう、と強引に納得する。でないとやっていられない。
 少々合間を置いて、
「じゃあ、これからどうするの」
 一番大事であろうことを尋ねた。
「お金も無いんじゃ、食べていけないでしょ。宛てはあるの?」
「…………」
 紡がれない言葉が、少女の頭を貫く。
 それが物理的な痛みへと変わり、頭と心を、同時に締め付けようとする。
「……っ」
 急な、頭痛。
「……出ていきます」
 毎度のことに、彼女は顔をしかめた。
「ご迷惑、おかけしました」
 微妙な表情の変化に気付かない。そんな彼は、いつの間にか食べ終えた食器を片付け、玄関へと歩いていってしまう。
「……ぁ」
 待ってよ。そう呼びかけようとしたのに、出てきたのはただの母音だった。
 やがて、ドアが呻き声をあげたかと思うと、少年の気配は完全に、消えた。
(……薬……飲まな、きゃ……)
 リリリリ……もう冬だというのに、鈴虫が、その小さな羽根を震わせている。
 綺麗な音。白い少女は、目を閉じた。
 鈍痛で軋む今の頭には、ただ騒音でしかなかったけれど。

     3

 迷子になった。
 広い広いこの場所で。
 車が忙しなく動く道路……薄くぼやける交差点。信号機の色は、どれも儚い黄色だ。昔からそう。
 不思議と、エンジン音は聞こえない。一点に集まる人たちの叫び声だけ、どうしてだろう、ちゃんと聞こえる。
『……! ……‼』
 でも、何て言ってるか、分からない。
『……⁉ ……!』
 そっと、近付いてみる。
『……ゅ……』
 あ、ちょっと聞こえた。
 何故か、その声は他と違って。
『…………』
 直接……? 頭に響いてくるの。
 相変わらず騒ぎ立てる人たちの怒声に、混ざりながら。
『……き……』
 足下から、ぴちゃり、と音が鳴る。
 黄色くて、鉄の臭いの水の溜りが、大きいのから小さいのまで、いっぱい出来ていた。
『…………』
 ……おかあさん?
 良かった。
 会えた。
 良かった。
 うん、良かったはず。
 だから、胸が苦しいのは、気のせいだよね。
 ねぇ、早くお買い物に行こうよ。
 新しい服買ってくれるんでしょ?
 ねぇ。
 ねぇってば。
 返事してよ。
 私は。
 一歩も動いていないのに、段々と離れていく。
 手を伸ばしたけど、白い指先は、何もない空中で踊るだけ。
 人の声も、交差点も、次第に小さくなっていって。

 そのうち意識も、遠ざか


「⁉」
 無意識に上体が起き上がった。肩まで届く髪が、少し遅れて光の粒子を飛ばす。
「はぁっ……はぁっ……っ、はぁ」
 青白い頬を流れ落ちる汗。見開かれた瞳には、ほんの少しの涙が溜まっていた。
 視界に入った四角いデジタル時計は、午前六時を表示している。
「……はぁ……」
 手で雫を拭う。
 小さい頃から、正確には母を失ったあの日から、同じ夢を見続けていた。その前兆か、寝る前には、毎回必ず偏頭痛を起こす。不定期で、予測が出来ない。ただ、ここ最近では、頻度が高くなりつつあるように感じられる。
「…………」
 記憶の中に映ったのは、出ていくと言い残していなくなった一人の少年。脳裏に焼き付いた彼の声は、暫く忘れられそうにない。
 先ほど見たばかりの、悪夢を意識の外へ追いやるほどに、強く。
「おはよう」
 何気なく発した言葉は、カーテンの隙間から入り込む朝日に照らされ、響きもせずに、消えた。
 今日は、冬期休業前の最後の学校。午前中で終わるので、昼を食べた後、友人二人と時間を潰す約束をしてある。
「……さてと」
 肌寒い空気を押し退け、少女は立ち上がった。


 だるく感じる終業式も無事終わり、各自解散となったその高校では、気分の高揚した生徒が会話に入り浸っていた。
 朝とは一転、暖かくなった昼中を味わいながら、少女達は校門から外へ出る。
「とりあえず、ご飯食べよっか。何か食べたいものある?」
「私は特にありません。雪ちゃんは?」
「ない。ただ安いとありがたいかな」
 左端の女子生徒は、ほんのり茶色がかかった髪を、首の根元まで伸ばしている。短めのスカートに、はみ出たワイシャツ。比較的大きな瞳は、活発さを顕しているように見えた。
「あはは、ゆっきーはいつもそれだね。何か買いたいものでもあるの?」
 その右隣にいる少女は、それに比べ、落ち着いた表情をしている。艶のある黒髪は腰まで届き、真昼の風に揺らされていた。睫毛の長いそのたれ目は、少し眠たそうだ。
「……うん、まぁ、ね」
 晴れた空には雲一つない。どこまでも青が広がっていて……見渡していると、宙に浮くような感触が体を包んだ。
「じゃ、ご希望に御応えして、ハンバーガーにしよう。安いとこ知ってるんだ。愛歩もそれで良い?」
「勿論です」
 青、青、青、気持ち悪いくらいの、青。
 白い少女にとっては、今でも見慣れない色。
「ごめんね、わがまま言っちゃって」
「良いってことよー。私もあんまり使いたくないし。今月厳しいんだよね」
「それ、栗香の金遣いが荒いだけでしょ」
「だって欲しいものが多すぎるんだもん!」
 歩みを進めるにつれて、建物や車、通行人の量が増えてくる。
「お、到着しましたぜ」
「へぇ……こんな所に、お店なんてあったんですね」
 入ったのは、大きなガラス張りのビルの裏にある、小さなファーストフード店。看板には大きく『ハンバーガー』の文字、店頭に立てかけてあるメニューには、多様な種類のそれが色とりどりに並んでいる。
「一個八十円……凄い」
「そうだろそうだろ」
 入店音が頭上で奏でられ、店員の決まり文句が飛んでくる。
 平日の昼、更に目立ちにくい立地ときて、客は彼女ら三人だけだった。
「食べ終わったらどこ行く?」
 さっさとオーダーを済ませ、その場で受け取り、丸テーブルを囲んだ。
「たまには散歩、というのはいかがでしょう?」
「散歩かー……うん、それで」
「私もそれで良い」頬張りつつ賛同する。
「あ、そうだ、聞いてよ。パパがさ、クリスマスプレゼントくれないって言うの!」
「ふふ、当然だと思いますけど」
「あんたいくつよ」
「十六! まだ子供!」
「はぁ……」
 何気無い日常の会話に、少女は安心感を感じた。
「そう言えば、二人は子供の頃、なに貰ってた?」
「私は、本とか、勉強道具ばかりでしたね」
「うわ、さすが……ゆっきーは?」
 しかし……。
「え? と、私、は……」
 言葉に、詰まってしまう。
「……覚えてない、かな」
「えー⁉」
 その台詞に、栗香が大袈裟に驚いた、

 その時。

「……?」
 他愛のない談笑をしていると、どこからか、鋭い金属音が聞こえた。
 キン、と、何かとぶつかったようなその細い音色は、他の二人には聞こえていないようだった。
「ゆっきー、どうかした?」
 不思議そうな顔をして問いかけてくる。
「……いや、別に。なんでもない」
 やけに、綺麗に聞こえた気がする。
「? ……変な雪ちゃん」
「まぁ、なんでもいいけどさ。私は、ほとんど人形で……」
 いくらビルの裏側とはいえ、騒音は結構耳に入ってくる。そのような中、はっきりと、確かに聞いた。
 二人が気付いていても、おかしくはない。
――キンッ。
 また。
 さっきとは、微妙に違う。
 少しだけ、こちらに近付いた気がする。
(……ま、いいや)
 腑に落ちないのを押し込めて、少女は再び話に加わった。
 その後、更に何回か繰り返し聞こえたことを、頭から振り払いながら。


 二十分ほどして、三人は店を出た。
 太陽は真南から少し西へ傾き、出来る影が長さを変える。茶色系統のタイルで舗装されたこの道に、落ちる三つの黒色。
「日向ぼっこってのも気持ちいーねー」
「太陽少し隠れちゃってますけどね」
「あー……あったかー」
 今は、高層ビル街の中を、ゆったりと歩いていた。先程の店から離れたこの場所は、名の通り高いガラス張りの建物が建ち並んでおり、空が半分程度しか見えない。広めの道路は、行列をなした車で埋まっている。
(……信号)
 青に変わり、横にいた車両達が、燃料をふかして進み始める。
(…………)
 少女達の間に話し声はなく、ただ雑踏音に感覚を預けていた。
 だからこそか、今度は確実に聞き取った。
 段々と距離を詰めてきている、あの音を。
――ガキィ‼
 段々と暴力的になる、その音を。
 隣を見ても、反応は何もない。耳鳴りや幻聴を疑ったが、それらをないがしろにするくらいに、はっきりと聞こえる。
 少女は思案顔で、足を止める。
 気になる。すごく、かなり、とても。
「どしたのゆっきー」
 先へ二、三歩でた二人が、振り返って首を傾げている。
 その挙措で、彼女は確信に至った。
 この音は、自分だけに聞こえている、と。
「……ちょっと、トイレ行ってくるから待ってて」
「「え」」
 ぽかりと口を開けた彼女らを尻目に、少女は走り出す。
 不吉な音色が鳴り響く、ビルの隙間の向こうへと。


 入り組んだ路地裏は、そこそこの広さがある。建築物のせいで日光はほとんど入ってこないが、真っ暗闇というほどでもない。地上二十四階の壁に囲まれたそこは、滅多に人が訪れない、言わば格好の隠れ場所だ。
 その中を一人、闇とは不相応の白い少女が進む。
――キンッ、ガギィ
 あの少年が脳にちらついた。まさか、と思いつつも、高まる好奇心には勝てない。
――ガ、ギィン!
 突き当たりが見える。あそこを右に曲がれば、きっとそこに『音』はいる。

 ドゴォ‼

 文字で表すとすれば、例えばそのような。
 鈍い破壊音が鳴り響いたかと思うと、灰色のコンクリートの壁が崩れ、何かが飛び出してきた。
 否、倒れ込んできた。
「……‼」
 やけにゆっくりと流れる時間。
 粉塵が巻き上がり、視界を悪くする。顔を手で覆いながらも、指の隙間からソレを凝視し、
「……サイ、ボーグ」
 枯れた声で呟く。

 血塗れの黒い少年が、そこにいた。

行間 一 five

 男は、周囲から浮かないように、建物の隙間……即ち路地裏を移動していた。
 夜遅く、辺りに明かりはない。
 赤外線レーダーを起動させ、大体の視覚情報を手に入れ整理しつつ、進む。
――前方五メートル先、右方向。
 マップを内包するコンピュータが指示を出す。
――三メートル先、右折。
 今はそれに、従うしかない。
――目的地点に到着。
 目線の先に、人を認識する。
「遅かったな」
 その影が、口を開いた。


 お世辞にも綺麗だとは言えない室内は、二十八人の〈サイボーグ〉で埋まっていた。
 傷跡が目立つ灰色の壁に、亀裂の入った窓ガラス。電球付近には蜘蛛の巣があり、飛んでくる小蠅を搦め捕っていた。
「現状報告。第四世代一号が、『プロトタイプ』と接触した様子。現在は個別に行動している」
 先程の男が説明を開始する。
「データへの干渉は認められず。今後のプランへの影響は微小なものと判断された」
「……影響を出す可能性があるならば、それを根本から潰すのが最善策だろう」
 一人のサイボーグが、反論の声をあげる。
「奴の行動予測は困難だ。いつ企業に戻ってもおかしくない状況……もし『プロトタイプ』の機密が伝わりでもしたら、反逆者は全員抹殺だ」
「時間がない」「早く殺さねば」「後処理はどうする」「出来る限り戦闘跡を消しても、気付かれるぞ」「私は反対だ」「奴のコンディションは良好」「生半可で適う相手ではない」「しかし放っておけば」
 次々と、意見が飛び交った。
「待て。では襲撃を前提として、誰がやる?」
 しん、と静まり返る彼等の顔に、肯定の色は見えない。
 しかし。
「俺がやろう」
 その間ずっと黙りこくっていた一人の男が、立ち上がった。
 穢れを象徴するような茶髪に、禍々しい形状をした金のピアス。その吊り上がった鋭い目は、部屋を沈めるほどの威圧感を放出していた。
「その代わり、奴は殺さずにここへ連れてくる。『Doctor』にプログラムし直させて、『five』の前衛とさせろ」
 淡々と告げるその口は、ほんの少しだけ、楽しそうに歪んでいた。
「……『Doctor』、可能か?」
「問題はない」
 異論の声は、上がりようもなかった。
「『TREACHERY』が行動を開始している。考案している余裕はない」
 緊迫した空気の中、開始の合図が響き渡る。

「CyBorg……cb-β1.0-SD-00341B、出動せよ」

第二章 寂びた腕


     1

 心地よい天気、歌いたくなるような青空の下で。
 小鳥の囀りとともに、殺し合いは始まる。

 砕けた壁の破片を除け、少年は起き上がった。
 彼の左腕は、汚く煤けた銀色で……そこに、細かいコードや精密機械の類いが見える。衣服は昨日と同じだったが、更に血で汚れ、左の肩から下の部分は焼け焦げてなくなっていた。
 その右手には、同じく銀色に光る、禍々しいナイフが握られている。
「……ここから離れて下さい」
 少女に気付いた彼は、やはり冷静に、淡々と告げる。
「え、で、でも」
「離れろ‼」
「⁉」
 声を荒げた彼に、戸惑いと同時に恐怖を感じ、思わず後ずさった。突然のことに、頭の処理が追いつかない。
 何も出来ないまま固まっているうちに、煙が晴れ、数メートル先が視認出来るようになる。
 そこには、一人の男が立っていた。
「…………っ」
 身長は目測で百七十五センチ程度か。顔は日本人そのものだ。しかし、吊り上がった目、高く整った鼻、いやらしいにやつきを浮かべる口、そして暗くても分かるほどの真っ茶色な髪に、金のピアスが通った耳……まるで、不快感を具現化したような人相だった。服装は、少年と同系統のものだが、肩周りがごつかったりと、少し違っている。そんな相手から漂ってきたのは、鼻につく香水の香り。
 少年が、一歩下がる。
「……へぇ」
 男がにやにやしながらその口を開いた。
「ありがたいな、探す手間が省ける」
 何のことだ、と、少女が疑問を感じるより早く、彼らは前に出た。
 風を切る音が鳴ったかと思えば、火花が散る、斬撃音が響く。速すぎて把握しきれない両者の動きは、ここが『死の淵』であることを悟らせるのに充分だった。
「早く逃げて下さい」
 空気が震える。
 そこで初めて、少女は命の危機を感じた。
 今目の前には、本物の殺人鬼がいる。十メートル先で、刃が血を求めて踊っている。
 サイボーグがどうだとか、常識的にあり得ないだとか、そんなことは今関係ない。
 見つめるべきは、命の危険、ただそれのみ。
(……や、ばい)
 慌てて振り向き、彼らを背にして駆ける。
 非日常、非現実。リアルさが極限まで欠如した空間。背後から聞こえる金属音は、脳の焦りを更に加速させる。

『ロックオン』

 声が聞こえた次の瞬間には、少女の身体は何かに押されたように、飛ばされた。
 ざらざらとした地面に前のめりに倒れ、うつ伏せとなる。刹那、電気に撃たれたような痛みが、全身を駆け巡った。
「……っつ‼」
 左肩に、小さな刃物が刺さっていた。しかし不思議なことに、血は一滴も流れない。少年の持っていたそれとは違う黒のナイフは、少女をその場へと磔にさせた。
「逃げられちゃ困るんだよ。そこでじっとしてろ」
 戦闘中だと言うのに、男は口調に余裕を醸し出している。
 そして、一際大きい斬撃音がなったかと思うと、
「痛み、我慢して下さい」
 宙に浮いた。
 少年に、抱きかかえられていた。
 そのまま彼は、走り出す。
 機械が剥き出しになった左手が、彼女の頬に触れる。
 そこに、人の温もりは、なかった。
「チッ」
 背後から、殺意を持った男の舌打ちが聞こえる。
 あぁ、今日は、最悪な日だ。
 おかしなことが起こり過ぎて、正常な思考が出来ない。
(夢、だったら……良い……の……に…………)
 ズキズキとする痛みの中。
 今朝の悪夢のように、意識が身体から段々と離れ、消えた。


 少年は、意識を失った少女をその腕に抱え、全力疾走していた。
 彼女からナイフを抜き、傷口を刺激しないように手をずらす。装備データにあった、束縛専用の特注ナイフだ。止血や即効睡眠など、色々な工夫が施されている。おかげで、血は一滴も流れていない。
 ……後ろから迫る敵。性能はこちらの方が上だが、速度では負ける。
 このままでは、追いつかれる。
――最善策を構築。逃走手段、車両を確保。
 路地裏から、表へ飛び出す。
 そこで。
 道ばたに停めてある乗用車が目に入った。運転手の男性が乗ったまま寝ている。
(…………)
 考えている時間はない。
 助手席の扉のガラスに拳を叩き込み、内側から鍵を開けた。ドアを開け、驚いて目を覚ました持ち主を外へ投げ捨てる。
 腕の中で眠っている少女を助手席に乗せシートベルトを着けた後、少年はエンジンをかけ、ハンドルに手をかけた。
「いてててて……ちょ⁉ おいっ‼」
 声を無視し、思い切りアクセルを踏む。タイヤが急加速を始め、路上へ飛び出した。
 慣性で潰れそうな衝撃が、車内を襲う。
 ミラーで後ろを確認する。奴は、もうそこまで迫ってきていた。
(バイク、か)
 小型のオートバイ。
 追跡攻撃に適した車両。
――警告。後部より銃撃のきけ――
 機械がアナウンスを流し始めた。と同時に、何かが左を通過し、破裂音が響いた。
 弾丸だ。フロントガラスに遅れてひびが入る。
 一般人もいる街中で発砲するとは予想外だった。
「チィ」
――設定、及び加熱計算開始。終了まで三百八十二秒前……。
 右腕の小火器をセットアップする。
 連続で迫る銃弾を気にしつつ、狭い道路を猛スピードで駆けた。
「ヒイィ⁉」
「うわっ‼」
 逃げ惑う人々に当てないように、走る。
 |辛くも通行人と車両を避け進み、大通りに出た。
 交差点。
 ブレーキを踏みつつハンドルを切り、ドリフト状態で青信号のそこを左折する。
 タイヤが嫌な悲鳴をあげる。
 街中にブレーキ音が鳴り響く。
 走っている車の間をギリギリですり抜け、何とか成功させた。遠心力による転倒を、車体の左部に脚を伸ばし強く踏みつけることで強引に回避する。バコン‼ と車体が大きく揺れ、火花が散った。
 敵はと言うと、曲がり角にある花屋の壁をバイクで強引に突き破り、無理矢理にカーブを短縮していた。割れたガラスが飛び散り、降り注ぐ太陽光に反射してキラキラと光る。その、舞う危険物質をものともせず、〈サイボーグ〉はスピードを落とさずに追う。
 そこでやっと、人々の悲鳴と怒号が飛び交い始めた。様々なクラクションの下、交通路が麻痺を起こす。
 奴はその大渋滞の中でも、正確に、執拗に、追って来る。
(撒くのは難しいか?)
 そう感じた、次の瞬間。

 〈サイボーグ〉が乗っていたバイクの上に立ち、それを土台に踏み潰して、跳んだ。

 否、飛んだ、か。
 十メートルほど上へ昇ったかと思うと、その両腕に装備されている、スパイが使うような展開式ストッパー付きのワイヤーを、二人の乗っている乗用車へと発射した。
「⁉」
 周囲の人間が目を見開く。
 刹那、天井が突き破られ、先端部分のフックが開き、がっちりと固定した。それを最大限の力で引き、敵は車の後ろへと、足から恐ろしいスピードで突っ込んだ。
 その衝撃に、車体の前方が宙に浮き、フレームがへこみ歪んだ。トランクがぐしゃぐしゃにひしゃげ、後部の窓ガラスが跡形もなく粉砕される。
「ッ‼」
 足をめり込ませ安定させた〈サイボーグ〉が、ワイヤーを掴んで起き上がり、右手で銃を放ってきた。
 頬をかすめた。足場が不安定だからか、照準がわずかにずれている。
――窒素圧縮砲の準備が完了。
 甲高い警告音。
 黒い弾丸が横を通り過ぎたその時、音声が報告した。
 身体を大きく左にひねり、一瞬の視認で相手の位置を確認して、即座に砲撃した。
 青白い閃光と轟音を伴い放出されたそれが、敵の右腕に命中する。
 鮮血のアーチを描く暇もなく、それは消えた。
 根元からこそぎとったのだ。
 奴の、身体を支える手が左のみとなる。反動で後ろに倒れた〈サイボーグ〉の足がかかとの部分まで車体から抜け、その背中を道路になすり付けて大きなオレンジ色の花火を起こした。
 少年は体勢を整えさせないように、車を蛇行運転させた。が、その振動にも関わらず、奴は足で踏ん張り、腕一本で起き上がってきた。
(…………!)
 その時。
 数メートル先の赤信号が視界に入り、今まさに、交差点に入ろうとしている大型トラックが目に飛び込んできた。
――警告。緊急停止せよ。
 一か八かの可能性にかける。失敗したらスクラップだが、考えている時間はない。
――停止せよ。
「……ッ‼」
 限界までハンドルを左に回し、穴が開くくらいの力でブレーキを踏んだ。摩擦音が頭蓋骨に鳴り響く。綺麗に百八十度回転し、他の車とぶつかりながらも二つ目の交差点へと(おど)り出た。
 そう、敵がいるトランクを、トラックに向けて。

 そして、時速八十キロの巨大な鉄の塊が、車の後部へ衝突した。

 これ以上ないくらいの衝撃波が鉄を粉砕させた。
 後部座席ごと車体の半分をもぎ取ったそれは、周囲の車を巻き込みながら、交差点の角に位置するビルに勢いよく突っ込んだ。
 爆発。
 零れたガソリンが火を噴いた。
 潰れ、弾け飛んだ金属が道路に飛び散る。
 二人の乗る乗用車は、タイヤ二つを失って、その動きを止めた。
 それは、たった、数分間の出来事。
 助手席のシートベルトを引き千切る。
 少年は未だに眠っている少女を抱きかかえ、最早車ではないそれから脱出し……集まる野次馬を押しのけ、その場から立ち去った。


「……ん、ぅう?」
 目を覚ましたのは、空が赤になりつつある時のことである。
「……ここは……」
 自分の、部屋。
 助かったのか?
 見慣れた壁を見回し、記憶を探る。
(あ、れ? 確か……そうだ、左肩を刺されて)
 さすってみても、痛みはなく、包帯の感触もない。
 夢……だったのだろうか。
 そう思った。
 思い始めたけど。
「……ぁ……」
 ドアを開けて入ってきたのは、彼。
 あの夜のように、その身体を赤黒く染め、黒い長髪を揺らしていた。瞳は……赤くない。至って普通の、黒色だ。左腕は、付着していた煤が綺麗に落ちており、輝くような銀色を放っていた。
「…………」
 この少年は、会う時いつも血に濡れているな……そんなことを呑気に考えられるほど、彼女は堕ちていない。
 しかし、今や恐怖を感じていないのも、また事実だった。
「あの……」「申し訳ありません」
 最初の言葉は、端的な謝罪だった。
「貴女は、敵の標的として完全にマークされました」
 あの――路地裏の男が言っていた。
『逃げられちゃ困るんだよ。そこでじっとしてろ』
 あれは、どう考えてもそういうこと。
 明らかに非日常で、果てしなく非常識。そんな中に埋もれた今、少女は、何故か、懐かしさを感じていた。
 懐かしさ。
 自分でも、訳が分からない。
「…………」
 一つ間を置いて、少女は問いかける。
「……説明して。昼間のこととか、隠してること。全部」
 血や汚れなど、気にしている余裕もなかった。
「ね?」
 聞きたい。
 ただそれだけ。
「……私、は」
 応えるようにして少年が、口を開く。

 私は……、


     2

「私は、気が付けば、ここの近くの河川敷に倒れていました」
 少女は、布団に腰掛け、彼の言葉に耳を傾ける。
「大きな損傷を受けていたことから、戦闘で相打ちとなり、気を失ったのでしょう。恐らくその時に、何らかの衝撃で記憶を失ったのだと推測されます」
 鈍色に光る腕が、彼女の顔を映す。
「応急処置をし、完全に回復するまでの二週間、逃亡を続けました。完治してからは、敵を、ずっと殺してきた」
 部屋に差し込む綺麗な夕陽が、彼の顔を照らした。
「――そして、貴女に拾われた」
 その頬は、少しだけ、寂しそうに、歪んでいた……ように見えた。実際には、そこに感情と呼べる物はない。
「ついていけば、巻き込んでしまう。そんなことは分かりきっています。それでも私の制御システムは告げた。『この少女は、既に手遅れだ』と。『近付いて、様子を探れ』と。とても曖昧で、データにもプロテクトがかかっています。私には、この指示の意図が汲み取れなかった……しかし、従うしかない。私の全ては、所詮データの塊、『機械』ですので」
 太陽が、地平線に隠れ始める。
「…………この家を出た翌日、襲撃を受け、そこで再び貴女に遭遇した」
 部屋が、先程よりも暗くなり……。
「敵は、私もそうですが、ターゲットを貴女としています。目的等、全てが不明」
 彼の黒い瞳が、見えづらくなる。
「じゃぁ、何で今、こうやって平和に話せているの? 何で襲撃に来ないの」
「出来ないからだと推測されます」
 どこを見ているのか、分からない。
「以前の戦闘跡が、一般のニュースで報道されました。今までの傾向からして、相手は秘密裏に動いている。恐らく、その失態から、大規模な行動を封じられているのでしょう」
 電気を付けたいが、少年に気圧され動けない。
「……どうやって、あの路地裏から逃げたの?」
「一般車両を強奪し、逃走しました。相当な被害を出したので、今回も報道されるでしょう。相手も簡単には行動出来ない」
 動けない。
「……これからどうするつもりなの」
「貴女の護衛につきます」
 鼓動の音が、よく分かった。
「相手の言動からの推測ですが。彼等は、私が関わる前に、貴女を探していたと思われます」
「どういう、こと?」
「あの路地裏で戦った男は、最初から貴女を狙っていた。私に交渉してきたのです、身柄を渡せと。それを私が拒否し、戦闘にもつれ込んだ訳です」
 デジタル時計から、聞こえもしないリズムが聞こえる。
「どうして?」
「分かりません」
「警察は」
「動いています、十分に。目撃情報などから、私達の身元を確定されるのはそう遠くない」
「平和に生きる方法」
「ありません」
「元の生活には」
「戻れません」
「あなたは」
 闇が、二人を包み込んだ。
 
「あなたは、だれ?」


「私はcb-δ1.0-UI-00471Y。〈サイボーグ〉です」


 暫くの間、音が消えていた。
 少しして、虫が羽根を震わせる音が聞こえ出す。
 乾ききった空気……そしてどこか冷たいような、そんな部屋の中に、外を走る車の走行音が流れ込んできた。それが、一層、少女の冷や汗を加速させる。
 少女は、俯きながら、言葉を絞り出した。
「……敵は急には来れないんでしょ?」
「……恐らく」
「だったら、シャワー浴びてきなよ。汚れ、すごいから」
「…………」
「……話は、後で全部聞くから。だから、

 少しだけ、一人にさせて。

 ぼそりと呟いてみる。
 本当は、泣きそうだった。声音が弱々しく震えるのを感じた。
 きっと、普通の人間ならば、慰めるだとか、何かしら行動をしただろう。
 けれども彼は……何も言わずに、部屋から出ていった。出ていってくれた。今はそれが、とてもありがたかった。
 寂びた蝶番の特徴的な音が止む。
 それを見送って、少女は枕に顔を埋めた。
(……急、過ぎて)
 いくらなんでも、ありえない。だけど、非現実の証明は、彼自身が行った。あの左腕が、何よりの証拠。
 それに、彼と出会わなかったとしても、襲われていた可能性があるらしいから。
 もう、いっそのこと開き直ってしまえば。
(逆に、強い味方が出来たって考えれば)
 いくらか、落ち着ける。
 と、その時、側に置いてある携帯電話が着信音を鳴らし始めた。
「……はい。糸川で

『ゆっきー⁉ あんた今どこにいんの⁉』

 聞き覚えのある声が、耳をつんざく。
「あ」
 すっかり、忘れていた。二人の存在を。
『あ、じゃないよ‼ 電話しても全く出ないし! いつまで経っても帰ってこないと思えば、近くで交通事故起きるし‼ 心配したんだよ⁉』
 画面を見ると、着信履歴が百を軽くオーバーしていた。
「うわ、凄い。栗香栗香栗香栗香……キモ」
『真面目に言ってるんだけど‼ ていうか今どこ⁉』
「う……ごめん。えと、家」
 でも少し、安心する。
『……無事なの?』
「うん……ごめんね。その、何て言うか…………急用が出来ちゃって。慌てて帰っちゃった」
『はぁ~……ったく。気をつけてよね』
「はーい」
『今度、埋め合わせということで、遊びに付き合ってね?』
「喜んで」
『ん。じゃ、愛歩には私が伝えておくから。じゃーねー』
「うん。ばいばい」
 ツー、ツー、と無機質な音が、僅かな安堵の終わりを告げる。
 本当に、埋め合わせ、出来るのだろうか。
 彼は、もう元の日常には戻れないと、断言した。
(……私は、何がしたい……)
 答えの出ない問いに向かって、消えかかりそうな牙を剥く。それだけしか出来ない自分に、何か価値はあるのだろうか。
「……考えても、仕方ない。よね」
 思考を止める。
 少女は、乾ききった喉を潤す為にも、リビングへと向かうことにした。


 ソファーにもたれてリラックスし、テレビをつけると、大規模な交通事故のニュースがやっていた。
 場所は、昼間事件に巻き込まれた場所から、数百メートルほど離れた場所。
(……こんな、に……嘘…………)
 かなりの被害を出したと聞いてはいたが、小さい画面に映し出されるその光景は、少女の想像をかき消すほどに酷い物だった。
(……、……)
 ヘリコプターからの映像である。
 粉々になった金属や瓦礫が交差点に散乱し、アスファルトには大きな亀裂が幾つも走っている。大型車両が衝突したガラス張りのビルは、足下を不安定にされ、黒煙を絶え間なく吹き出し、その身を道路へと投げ出していた。
 その下に見えるのは、巻き添えになった一般車両。救助隊が忙しなく動き回り、キャスターが興奮気味に情報をまくしたてている。辺りにぽつぽつ見えるシミは、血痕だろうか。救急車のサイレンが止まないのは、つまりそういうことなのだろう。
 恐ろしい、という感情の前に、虚無感がきた。
 合成映像のようにしか見えない。茫然自失に画面を見つめている彼女の目に、緊張感のないテロップが映る。
 暫くの間、同じような映像が流れているだけだったが、最後に映し出された防犯カメラの情景に、彼女の意識は引き戻された。
 それは、現場から少しだけ離れた交差点の、曲がり角にある小さな花屋の店内の映像。その画面の隅を、乗用車が恐ろしいスピードで駆け抜け、数秒遅れて、バイクが店を突き破った。客を轢き飛ばし、展示物や壁を破壊しながら消えていくその様子は、正に〈殺人鬼〉だった。
 そこで、やっと、身体が震えたのだった。
 仕方がないとは言え、少女を助ける為に、彼は街を犠牲にした。見逃せない事実である。実際、現場の交差点でも、敵を振り払う為に、無関係の大型トラックを利用した。その上爆発まで起こしたのだ。運転手は、恐らく死亡しているだろう。
 彼は、人を殺したのだ。
 我が身を守る為に。
 それだけではない。
 直接的な被害を被ることがなくても、大渋滞のせいで、困っている人達がいる筈である。
 つつ、と、少女の背中を、冷や汗が伝った。
(……そう、だ……自分で言ってたじゃん、『私は殺人兵器だ』って……)
 殺す為だけに、生まれた人間。傷つける行為に、何の躊躇いもなかったとしたら。
 護衛用などのようなちゃちなものじゃない、殺害専用の身体だったら。
(……本当に信じていいの? 彼の言葉を……)
 彼は、自分が機械であること、言い換えれば『非日常』をその身で証明した。だが、それはあくまで『非日常』であり、そこに彼が自分の味方である根拠は見当たらない。味方だとしても、敵から逃れる為に、容赦なく一般人を殺めてしまうのではないか。
(彼の……言葉を…………)
 死ぬかもしれない。殺してしまうかもしれない。
 漠然とした不安を感じ始めたその時。
 彼が戸を開けて入ってきた。
 小さくて丸い肩が、大袈裟にびくりと震える。
「…………」
 服は、相変わらずそのままだったが、汚れが綺麗に落ちている。一体どうやったのだろうか、見当もつかない。
「…………?」
 少年は、怯えた様子の少女に首を傾げつつも、少女の視界に入るように移動し、冷たい木製の床にその腰を下ろした。
「ニュース、見たようですね」
「……うん」
 既に、テレビでは他の番組がやっていた。その朗らかな雰囲気がとても不愉快に感じ、少女は電源を切った。


「……私ね、色盲だったの」
 少しの間を置いて出た言葉が、それだった。
 少年が、顔を少女の方へ向ける。
「知ってるよね? 色の認識能力が劣ってるんだけど……五年前、母親を失って。急にね、治ったの。急に」
 何故、自分は、こんな身元不明な少年に、自分のことを話しているのだろう。
 彼女自身も、理由が分からなかった。
「お金なかったから医者にも行ってないし。何で治ったのかは結局分からずじまい。で、親戚が身元引き取りについて相談したんだけど…………。……誰も、ね。手を挙げる人はいなかったの」
 まだ、素性をさらけ出していい相手かどうか、確定していない。ただでさえ、命の危険性があるのに、軽はずみな行動はまずい。
 はずなのに。
「最終的に、必要最低限の生活資金を、交代で仕送りしてくれることになった。罪悪感感じてるのか知らないけど、結構な額を送ってきてくれる。おかげで学校も行けるし、生活に不自由はあんまりない。けど、出来るだけ使わないようにしてる」
 はけ口が、欲しかったのか、と彼女は思う。
 家族がいないということは、想像以上に辛い。笑いあうことも出来ないし、愚痴を聞いてもらうことも出来ない。それが、予期せぬ事故のせいだというのなら、尚更だ。
「……ごめん、ね。急にこんな話しちゃって」
 気が付かないうちに、涙が頬をなぞっていた。
 ただ単に、温もりが欲しかっただけなのかもしれない。年端もいかないような少女には、事実は残酷過ぎた。
「…………いえ」
 しかし彼は、慰めもせず、抱きしめもせず、じっと床を見つめていた。
 何かを思案しているように見えたが、真偽は分からない。
 その冷たい言葉は、少女の求めた温もりなど一片も含んではいなかった。


「……っ、ひっく」
 十分もの間、彼女は泣き続けた。
 その間も、少年はピクリとも動かなかった。
 次第に嗚咽も止み、両手でゴシゴシとこすった。今まで伸し掛かっていた物を全部振り払うように、彼女は彼に向き直った。
(……中途半端に優しくされても、意味ないし、うん。これで良い)
 それは、決意の表れでもあった。
「よし。久しぶりに泣いてすっきりした」
 少年が、下に向けていた視線を少女に送る。
「これから、どうするの?」
 開き直ったからなのか……不思議と、『非日常』へ足を踏み入れることに、抵抗がなかった。
「……様子見を続けます」
 対する彼の言葉は、至って冷ややかである。
 ただ、この街を出るだとか、そのような発言を予想していた少女にとっては、正直拍子抜けだった。
「ここにいて、大丈夫なの?」
「分かりません」
「分からないって…………何か、気がかりなことでもあるの?」
 問うても、彼の口から答えが出ることはなかった。
 沈黙の肯定、だろうか。
「……こんなことになっちゃったんだし、どうせなら教えて。でないと、私、どうしたら良いか分かんないよ」
 返答はない。
 少女も負けじと返事を待つ。
 すると、少年は、床を見つめながらポツリと呟いた。
「……不確定、ではありますが」
「……うん」
「一つ。今日襲撃してきた男は、小規模な集団で行動しています。彼と、そのサポート役として四人、襲撃してきました。恐らく、上からの命令で来たのでしょう」
「え、でも、私が見たときは一人しか……まさか」
「サポートなら、殺害しました」
 表情一つ変えずに、彼は言い切った。
「その後、男も振り切りましたが……死んでいるかは分かりません」
「……五対一……」
 命を奪うことに、何の躊躇いもない。
 彼の話だと、相手は最初、交渉してきたらしい。正確には襲撃ではない。上手くやれば、穏便にことを済ませられたのではないか?
 それに、明らかに優劣の激しい場面において、この黒い少年は、逃げ切るどころか『全員殺した』のだ。
 圧倒的、である。
「二つ。貴女は、何か我々に関わる、重大な機密を持っている」
 そんな、惑う少女もお構い無しに、彼は話を進めた。
「……え?」
「それが何かは分かりませんが……そうでないと、街中等と目立つような場所で、わざわざ貴女を狙う理由がありません。それに……」
 更に、その交渉の核は、自分ときたものだ。
 罪悪感を、感じてしまう。
 自分は、何もしていないのに。
「奴は、貴女に攻撃をしなかった。必要最低限の被害で済むように、気を配っているように見えました」
「……ナイフで刺されたよ」
「あれは束縛する為の、ほとんど殺傷能力のないものです。麻酔が塗られているだけで、血は流れませんし、傷口が開くこともない。貴女を生け捕りにして、機密に関して何か行動を起こそうと思ったのでは」
 だから、傷の痛みがなかったのか、と彼女は感じる。
「ですがこれに関しては、細かい所まで推測出来ません。ただ生け捕りにするだけなら、そこまで気を使う必要もありませんし」
 しかしそれでも。
「でも……そんなの、身に覚えがないよ」
 腑に落ちないものは落ちないのだ。
「だって、おかしくない? 狙われてるのが私なら、どうしてあなたが来る前に襲われなかったの? あなたは巻き込まないようにって何も話さずに出ていったけど、最初から巻き込まれてるじゃん。それに、なんで敵はあなたに交渉を持ちかけたのよ。直接私をさらえば良いじゃない」
 追いかける為に、平気で街中で発砲するような奴だ。一緒にいた二人の少女も、口封じに殺したり誘拐したりするなど容易いのではないか。
「……まだ不確定なので」
 納得がいかないことばかりだった。
「……三つ。これは確定事項です。敵は複数いる」
「……複数?」
「正確に言えば、複数の集団が、私達を狙っています。協力しているのか、対立しているのかは分かりません。規模も未知数です」
 これは、完全に少女の予想外だった。
 敵は一つ、と決めつけてしまっていた。もしそうであれば、まだ勝機はあったのだ。彼は『小規模な集団』と言っていた。それだけなら、逃亡を続ければ、何とか撒けたかもしれない。
 だが、それが複数となると、話は違ってくる。たった一人で、迎撃及び逃亡を続けるなど、無謀だ。相手が大規模な、例えば企業だったとしたら、最早希望はない。
「……私、生きていけるの……?」
「……言ったでしょう。悪いが、貴女を守る自信などない、と」
 部屋は、もう既に真っ暗だった。
 僅かに、彼のシルエットが見えるだけ。
 この暗闇が、少年との繋がりを断ってしまうように感じ、少女は顔を下に向けた。
(……信じてみよう)
 根拠はないけど。
 今の少女には、それくらいしか出来ることがない。
「……じゃぁ、さ。君はこの家に住むことになるの?」
「……はい」
 一つ屋根の下に年頃の男女が二人きりで暮らす。違う意味で襲われる心配もあったが、そのようなことを気にしている場合ではない。
「……電気、つけるね」
 壁にあるスイッチを押して、部屋を明るくする。闇に目が慣れていたせいで、少女は思わず顔を歪めた。
 少年は、やはり動じない。
「……うん。分かった。じゃ、自己紹介しよう」
 開き直ると決めた。後悔しないと決めた。
 もう未練を引きずらないように、少女は軽く微笑んだ。
「私の名前は糸川雪羅。言いにくいだろうし、ユキで良いよ。十六歳の高校二年生です。髪の毛は地毛だよ。父親が外国人でね、こんな色。よく、名前通りに雪がのってるみたいって言われる」
 少年は、その様子に少し驚いたようだった。
「はい、君の番」
「…………いえ、しかし……私に紹介するようなプロフィールはありません」
「んじゃ名前……あ、覚えてないんだったか」
 こくりと頷く。
「シリアルナンバー、だっけ? メモするからもう一度言ってみてよ」
「……cb-δ1.0-UI-00471Y」
 机の引き出しから取り出した紙の切れ端に、シャーペンで文字を並べていく。
 少年は不思議なものを見るように、少女の手元を見つめていた。
「うーん、そうだね。この中からもじって……」
「……あの」
「あ、そうだ。YとUIで、『YUI』! どう?」
「……ユイ?」
 何を言っているか分からない、という風に、彼は首を傾げる。
「呼び名がないと、不便でしょ。あなたはこれから『糸川ユイ』です。良い?」
「……はぁ」
 あまり心には響いていないようだった。
「うーん、良いセンスだと思ったんだけど……」
 まぁいいか、と話を続ける。
「あとさ、敬語もやめて。なんかユイのそれって、無機物みたいで怖いんだよね」
「…………」
 返事はなかった。
 しん、と静まり返る。
 手持ち無沙汰を紛らわせようと目を泳がせていると、時計が視界に入った。
 いつの間にか、午後七時を回っている。
「あ、やば! ご飯の支度しないと」
 ベッドから立ち上がりつつ、少年『ユイ』に話しかけた。
「お腹空いてるでしょ? 準備するから待っててね」
「…………」
 やはり声は上がらない。
(……あとで、会話の仕方とか教えようか)
 なんだか、歳の近い弟が出来たような感覚である。
 少女は台所に向かい、真冬の冷水と戦い始めた。


     3

 星が雲に隠れた深夜。
 昼が暖かかった分、空気は冷え、布団が恋しくてたまらない。
 そんな中、雪羅は、喉の渇きでふと目を覚ました。
 身体を起こし、欠伸をしつつドアの方へ視線を向けると、

 闇の中で真っ赤に目を光らせている、男の影が目に入った。

「……っ、⁉」
 悲鳴は出なかった。
 ドアの前に胡坐をかいて座り、じっと、こちらを睨んでいる。
 目だけが宙に浮いているような光景だった。
「…………ん?」
 しかし、闇に慣れてきた視力を駆使してじっと見てみると。
「……ユイ?」
 それは、知っている顔だった。
「え、あれ……え? 何で部屋にいるの?」
 戸惑いつつ、確認をとる。
 すると……彼の声ではない、女声のような、少しくぐもった機械音声が聞こえ出した。
『製品番号「cb-δ1.0-UI-00471Y」は只今冷却体勢です』
「……スリープモード?」
 彼の口は、動いていない。
 少年の身体の中から直接響いてきたような、そんな声だ。
『人相確認中……』
 棒読みが再び響く。
 一体、これは何だ? 前に彼が言っていた、脳内コンピュータなのだろうか。
『確認終了。起動しますか?』
「え? あ、はい。え?」
 慌てたせいで、よく分からずに応答してしまう。
『承認されました。起動します』
 そう声が告げると、ブゥン、と音が鳴り、瞳のランプが消えた。
 しばし呆然とする。
「……どうかされましたか」
 今度の声は、彼のそれだった。
「え、いや、その……そこで何してるの? ていうかさっきの何?」
「見張りです。外は警察が巡回していますが、それでも危険なことに変わりはないので」
 黒髪を揺らし、少年は応える。
「身体は二割型人間ですから、一応睡眠が必要です。そこで、私自身は寝て、見張りは機械に任せていました」
 そんなことが出来るのか、と雪羅は感心してしまった。左右の脳を交互に睡眠にあてているイルカを思い出したが、そんなことはどうでも良い。
「…………ありがとう、なんだけど、その……せめて違う部屋にしてくれないかな」
「何故?」
「……えぇー……」
 この少年は、一般常識がどこまでも通用しないようだった。
(……この場合はただの非常識だよね)
 半ば諦めつつ、雪羅は指示する。
「……とにかく、隣の部屋にして。空き部屋だから、好きに使って良いよ」
「しかし……」
「い、い、か、ら」
「……はぁ」
 立ち上がる彼の背中を強引に押して、部屋に入るのを見送った後、少女は飲み物を求めて台所へと向かった。


 それからは、よく眠ることが出来なかった。
 夜の一件で、改めて彼が『機械』であることを思い知らされた。それについてぼんやりと考えているうちに、朝を迎えていたのだ。
 窓を開けると、冬特有の冷たい空気が流れ込んでくる。
「……はぁ」
 溜め息は白いもやとなり、消えていった。


 リビングには、既に彼がいた。
 テーブルを見ると、既に食事が並べられていた。
「おはようございます」
 少年は、呆気にとられている少女に話しかける。
「……もしかして、作ってくれたの?」
「はい。世話になる身なので」
 ご飯にみそ汁、レタスのサラダに焼いた紅鮭。飾り気はないが、どれも綺麗に仕上がっていた。
 朝起きたら、朝食が出来ている。誰かと一緒に、顔を合わせながら食べることが出来る。こんな些細なことでも、少女にとっては五年ぶりなのだ。雪羅は溢れそうになる涙を抑えつつ、笑顔を作った。
「……ふふっ、ありがとう」
「いえ」
 素っ気ない返事の下、彼が席に着く。雪羅もそれに呼応するように、椅子を引いた。
「それで、まだ聞いてなかったんだけど。私はどう生活すれば良いの?」
 今後のことに関わる、重要なことだ。
「とりあえず今日は、外に出ず、出来れば自室にいて下さい。カーテンは閉めるように。来客は、全て私が応対します」
「……分かった」
 それはつまり、外界から隔離するということ。覚悟していた、と言うよりかはする気満々だったので、特に問題はない……むしろ、それだけで良いのか、不安になってくる。
「本当に、それで大丈夫なのかな」
「逆に、行動を起こす方が今は危険です。警察が、例の事件を『殺人事件』として捜査している可能性が高い。もし捕まれば、テレビに放送されるでしょう。そうなれば、こちらの情報は相手に筒抜け、動きも束縛されてしまいます」
 住民の目撃情報や、発砲音の通報、監視カメラの映像。これがただの交通事故ではなく、事件性のあるものだと考えるには、証拠が露になり過ぎていた。雪羅は少し疑問に思う。秘密裏に動いている相手が、その姿を隠すことなく発砲し、監視カメラの破壊まで怠るほどに執念深く追っているモノ。一体、彼等にとってどれだけ価値が高いのだろうか。
 恐らく、以前何度か放送されていた『暴力的な悪戯』の事件も、全て関連がある一連の事件と捉えられるだろう。そうなると、捜査態勢も更に堅くなり、監視の目も鋭くなってしまう。
「…………」
 その中心核とも言える位置に二人はいるのだ。
 もし情報が流出でもしたら、殺人罪諸々で捕まるのは目に見えている。
「……ごちそうさま」
 罪は償いたいけれども、捕まりたくはない。そんな身勝手で、誰もが思うことを頭の中で回しながら、雪羅は何とも言えない気持ちになった。


 太陽が昇り始めている。しかし、カーテンを閉め切っているせいで、朗らかな陽光は入ってこない。
 言われた通り、少女は自室に籠っていた。
 少年はというと、隣の部屋で、これまでの情報を整理し、敵を導くと言って出てこなくなった。
 分かってはいたが、正直暇である。学校からの冬課題もあるが、もし通えなくなったらと思うと、馬鹿らしくなってやる気は沈んでいく。ベッドに転がりつつ、雪羅はもう何回目かも分からない溜め息をついた。
(…………そうだ。)
 情報集めをしよう、と雪羅は薄黄色の携帯電話を手に取った。今流行のスマートフォンなどではなく、至って普通の、至極安い代物である。タッチパネル操作はどうも相性が合わないようで……栗香のそれを一度触らせてもらった時、何故か誤作動が起き、思い通りに画面が動いてくれなかったのだ。元々機械には疎かったのもあり、購入を断念した。
「えっと……事故の後処理……」
 検索エンジンで関連記事を調べていく。そこに書いてあったのは、ほとんどがお金の問題だった。
「……うわ」
 治療費や修理費用に始まり、通院交通費、休業損害、慰謝料、代替物費……とてもじゃないが用意することなど出来やしない。相手が一人だけでこれだ。何十人、下手をしたら何百人全員に、全額払うなんていくらなんでも無茶だ。
 他にも、殺人罪の罪の重さ等を調べてみたが、脳味噌が悲鳴を上げるばかり。
 やはり、捕まることは回避せねばならないのだ。
 これで、警察に保護してもらうという、僅かにあった希望が消え失せた。
(ていうか、たとえ保護してもらって、牢屋に入れられたとしても、懲役が終わったら襲いにくるよね。あれだけ固執してたんだから、数十年くらい待つよなぁ)
 無期懲役や死刑の可能性もある。仮に、真実を話さずに警察へ行き、「命を狙われている」などと宣えば、恐らく例の事件のことも『犯人候補』にあがり、詳しく調べられるだろう。どちらにしても、自首するのは人生を捨てるのと同義だ。
(……殺人に、時効はないんだよね。もう警察は頼れない、か)
 ま、あんまり期待はしてなかったけどね、と少女は悪態を吐く。
 そして……一番気になっているもの。〈サイボーグ〉について、彼女は調べ始めた。
 サイボーグの特徴、研究施設、現採用段階。どれをとっても、彼に当てはまらない。
(……秘密裏だから、当然か)
 それに関しては、検索を早々に諦めた。
 枕に頬擦りする。今まさに襲われるかもしれないのに呑気だなぁ、と、少女は白い髪を投げ出しながら思う。
 あまり、嫌なことは考えたくなかった。何か気の紛れることはないか、そう思いつつ部屋を見回してみる。
(メールは……ダメだよね。何しよう……)
 いっそ昼寝でもしてしまおうか。そんなことを考えて寝返りを打とうとした、その刹那。

 小さな頭を、鈍い痛みが襲った。

「……っ痛ぅ‼」
 偏頭痛だ。
 まるで目玉の裏側を殴られているような、なんとも形容しがたい刺激が連続する。視界の一部分がユラユラと揺れるように歪み、突発的な吐き気を催す。何度も経験しているのに、痛みを我慢することが出来ない。
「……うぅ……」
 雪羅は、元々偏頭痛持ちだった訳ではない。小学六年の冬を境に、不定期的に現れるようになったのだ。初めは四ヶ月に一回程度とそんな頻度だったのだが、今では一週間に二、三回と回数が明らかに多くなってきている。
 唸っていると、部屋のドアが開いた。
 彼だ。
「どうしました?」
「ちょっと……頭が痛くて……」
 痛みが、増している気がした。否、確実に増している。そう感じさせるほどに、走り回る鈍痛は、痛かった。
「……台所に、ビニール袋に入った錠剤あるから、取ってきて……」
 右目を手で押さえながら、掠れた声を絞り出す。が、
「…………」
 彼は……目を赤く光らせ、少女を凝視したまま、動こうとしなかった。
「……お願い……」
 数秒してから、やっと動き始めた。と思いきや、少年は部屋から出ずに、その右手を雪羅の額に当てた。
「…………?」
「目を閉じて下さい。すぐ終わります」
 瞬間、彼女は頭が軽くなるのを感じた。それと同時に、脳の中でキリキリといった音が響いて、少々の不快感をもたらす。
「なに、して……」
 少年は答えない。
 答えないまま、二十秒が経過した。
 すると、聞こえていた音が鳴り止み、痛みもすっと退いていった。
「…………」
 目を開けても、彼の表情に変化はない。しかし瞳は漆黒に戻っており、事態が休息を迎えたことを示していた。
 上体を起こしても、頭部を揺らしても、痛みがない。完全に治ったということか。
「……何をしたの?」
 少年は、少し下に目線を落とし、目を前髪に隠した。
「……少し、周波数を整えただけです」
「…………」
 とても難しそうな顔で、少年はじっと雪羅を見つめていた。
 ……それから追加で説明を受けたが、彼の言うことはよく分からなかった。単語が難しいとかそういうことではなく、何か、ごまかそうとしているように聞こえたのだ。
 しかし、雪羅は問い詰めるようなことをしなかった。一体何に違和感を感じているのか、曖昧だったからだ。
 沈黙が降りようとしたが、その前に、少年が席を立った。閉まるドアを見届け、雪羅は再び布団にその身を預けた。
(…………)
 何が起きた?
 その文字だけが、彼女の思考を埋め尽くす。
「…………」
 既に健全な状態へと戻った頭は、残された違和感に戸惑うばかり。急展開は覚悟していたつもりだったが、やはりまだ慣れていないらしい。
「……はぁ」
 眠気もなく、やることもなく、頭痛もない。惚けたままに、ただただ時間だけが過ぎていった……。


     4

 夕飯を食べた後、少女はすぐにベッドへと潜り込んだ。
 その小さな顔を枕に押し付け、落ち着きなく寝返りをする。
 シャワーを浴びる気も起きなかった。
「…………」
 白銀の輝きを放っていたその髪も、今は疲労に濁っている。力なく布団の上に横たわるその姿は、養分を吸い取られ、絶命の狭間にある軟体動物のようにも見えた。
 栗香と愛歩に会いたい。一人暮らしをしていても、人肌が恋しいことに変わりはないのだ。少年はそれを満たす役には不適であるし、やはり身近な友人と触れ合いたい。しかしそれも叶うことは恐らくないだろう。少なくとも、この事件が終わりを迎えるまでは。
「……はぁ」
 ぐるぐると、昼間のことが脳裏を駆け回る。
(……ユイは、一体何をした?)
 調べてみたが、脳の周波数を整えただけで、頭痛が即座に止まった例などどこにもなかった。例えそのような医療技術が開発されていたとしても、彼はどうやってそれを行ったのか。見ていた限り、手を額に置くしかしていない。たったそれだけの挙措で、本当に治療が可能で

「あれ?」

 そこで、今度ははっきりとした、違和感が訪れた。
(……見ていた限り? 見ていた?)
 集中していた意識が、全てそちら側へと向かい始める。
(目、閉じてたのに……何故情景を思い出せる?)
 ぴくり、と瞼が独りでに動いた。
 自分のことなのに分からない。例えるならば、この身体が自分のものではないような、奇妙な感覚。人工的な、それでいて機械的な……それはまるで、

「……サイボーグ」

 しん、と静まり返った部屋に、その呟きが響くことはなかった。


 今夜は、雨が降っていた。
 大粒の雫が降り注ぐ音で、雪羅は目を覚ました。
「……あれ、寝ちゃってたんだ」
 時計を見ると、午前零時丁度。
 自慢するほどでもないが、彼女は体内時計がかなり正確であった。規則正しい生活を五年も続ければ当然なのかもしれないが、雪羅はそれを少し得意に思っていた。起きる時間も毎日ぴったり同じだったりと、最早隠れた特技である。
「……お風呂はいろ」
 中途半端に寝たせいか眠気が吹き飛んでしまったので、とりあえず汗を流しに部屋を出ることにした。
「…………」
 不安や……現実味を失った自分の考えを、洗い流す為にも。


 少女の隣の空き部屋……今は、機械の少年が使用している部屋。
 中はとても質素な作りで、家具は木製の机と椅子、ベッドしか見当たらなかった。窓には白の分厚いカーテンがひかれ、床には肌色の薄いカーペットが敷いてある。天井に一つだけ埋め込まれた丸い白熱電球は、寿命が間近なのか、発する光が弱々しかった。
 薄暗い室内、決して広くはない机の上には、無数の書類が散乱していた。その一枚一枚には、それぞれびっしりと、文字やグラフらしきものが書き込まれている。
 それらを書いている当人はというと、瞳を赤く染め上げ、無心に手を動かしていた。
――大記憶帯へのアクセスが許可されました。パスワードを入力して下さい。
 先日の、尖兵との戦闘で手に入れたのが、この一枚のSDカード。敵の頭を引裂き、中にあったそれを無理矢理奪ったのだ。奴等とは違って自分のメモリースロットは体外――戦闘服のベルトにあり、用意に取り外しが出来るようになっている。そこで、何か事態に関する重要な情報はないか、調べていたのだ。
――パスワードが入力されました。アクセスを開始します。
 脳内でコマンドを送ると、コンピュータが勝手に処理してくれる。その間にも、ここ数日間あった出来事を隈無く記録し、その膨大なデータをまとめていた。
――アクセス完了。
「…………」
 少年の手が止まる。
 途端、目の前に十数枚もの青い透明なウィンドウが現れ、そこに英語で書かれた文章が表示された。
 彼にしか見えない、データを視覚化したものだ。
 その、数えきれないほどに多い英単語から、重要と思しきものを拾い上げていく。
「『BEF』『prototype』『five』『TREACHERY』……」
 縦にスクロールする度に、見知らぬ文字列が、目の前を駆け巡る。
「……『abP』『the FF』『do@ed』『Doctor』」
 その数ある中で、一番に彼の目をひいたのが、
「……『cb-SD-p』」
 これだけが、何故か太字だったのだ。
「……検索システム起動」
 表面上のデータだけでは、肝心な詳細情報を読み取ることが出来ない。今度は、この情報網を伝って敵の記憶を探ることにした。
――キーワード『cb-SD-p』が入力されました。大記憶帯内の検索を開始します。
 待つこと三秒〇二。
 ウィンドウが一斉に消え、それらと交代するかのように、SDカード内のファイルが一覧表示された。
 『MOVIE』『PHOTO』『TEXT』『BACKUP_FILE』といった、分かりやすい名前の付けられたフォルダーがずらりと並んでいる。
 下へスクロールしていくと……

 『version.prototype_cb-SD-p.pdf』

 見つかった。
 異様な存在感を放つそのPDFファイルを、見逃す筈もなかった。
 起動させる。視界に映ったのは、
「…………!」
 とあるサイボーグの設計図。
 所々にある英語の注釈を読み上げていく。
「……プロトタイプ一号企画書複製版……」
 彼の読むスピードに合わせて、画面が目まぐるしく動く。
「……試験段階であり、完成品の戦闘能力は今の所見込めない。最終目標は情報管理専用とする」
 黒い前髪を揺らしながら。
「製造予定日:二〇〇七年三月二十六日」
 憶測に耳を傾けて。
「製造場所:Bright-Enjoyable-Future」
 ただ、静かに。それでいて、確実に。
「責任者名:匿名」
 少年は、驚愕していた。

「……まさか」

 と、そこで、展開していたファイルが強制的に閉じられた。
 警告文が表示される。

『このデータは削除処理中にカードが外された為、修復不可能な状態です。ウィルスの危険性がある為、強制削除します。』

 次の瞬間には、PDFファイルを含む全てのデータが抹消されていた。
 少年は首を傾げ、暫くの間考え込んでいた。
 記憶削除。つまり、記憶喪失に通ずるものである。
 彼はこの現象を知っていた。と言うよりかは、既に体験している可能性が高かった。
「…………」
 河川敷で目覚めたあの日、彼に記憶はなかったのだ。戦いのショックで忘れていたのだと思い込んでいたが、どうやらそうではない可能性が浮上してきた。
 少年は、敵が死亡した直後にこのカードを強引に抜き取った。それからは全くいじっていない。大体、彼は背後から不意をついて殺したのだ。その前に、敵が生存を諦めて、自らデータを削除していたとは考えにくい。
 つまり。
 〈サイボーグ〉は、死ぬ際に、強制的にメモリを削除するのではないか。
 見られてはまずいような、大切なデータを盗まれない為に。
 だとすると、少年は、
「……一度死んだ」

 何故、今生きている?

 誰かが直したのか。
 それとも仮説が間違っているのか。
 真偽は現時点では分からない。今の考えも、根拠のない机上の空論であるし、信憑性もない。
 ……とりあえず保留だ。データを一瞬でも閲覧出来たことは、運が良かった。
 まずそれらを考える前に、露となった単語達を解明しなければならない。恐らく、何かヒントが隠されている。
 まず最初の単語、『BEF』。これは、少年の記憶にも残っていたものだ。かなり重要である可能性が高い。先程閲覧した設計図に書いてあった『製造場所:Bright-Enjoyable-Future』を略したものであるとも考えられる。
 前に調べた所、それはアメリカに支部を置いている大規模な食品工場だった。一九〇三年に起業し、以来缶詰製品を中心として食品開発をしている。有名長寿な工場である為、強い権力を持っているらしい。
 それ以上の、有益な情報は得られなかった。
 二つ目以降は、情報や根拠が足りなさ過ぎて、推測も不可能な状態だった。直接敵に尋ねるかしないと、分析は出来なさそうである。
 結局、今回分析出来たのは、『BEF』と『cb-SD-p』の二つだけである。
 進展したとは言えない。
 ただ、この情報と、少女雪羅の言動から、少年の中にある一つの仮説がたっていた。
 この考えが事実であれば……敵の目的、少女が狙われる理由、不審な偏頭痛の正体、大方が説明出来ることになる。
「…………」
 確証を得る為には、彼女の過去の情報が必要だ。少女に話を聞くことにし、彼は席を立った。
 予測が当たっているならば、近いうちに敵が攻めてくる。
 対策を。
 そう考えながら、脳内コンピューターを切り、SDカードを抜き取って……ドアを閉め、少年は廊下へと出た。


 脱衣所から出ると、丁度彼がリビングに入ってくる所だった。
 そのまま食卓につき、雪羅に座るよう促してくる。
 何を言われるか。何を尋ねられるか。何となく、感付いていた。
 少年からアクションを起こすなんて、初めてだったから……というのもあるが、やはり何より。
「……少しばかり、時間を頂きたい」
 彼女自身にも、関連深い考えがあったからだと言えよう。
「偏頭痛の症状が起き始めたのはいつですか?」
 ただ、彼の質問は、少女の予想していたものと少し違っていた。
「……? ええっと、小六の冬だから……丁度五年前からかな?」
「…………」
 てっきり、過去の経歴等を聞いて、少女が狙われる理由を抽出するのだとばかり思っていた。実際、それが彼の提示した問題の一つであり、解決の糸口になり得るものなのだ。
「偏頭痛以外の症状は?」
「うーん……それ以外は特に。と言っても、もともと身体が弱い方だから、体調はしょっちゅう崩してるけど」
「……弱い?」
 やけに突っかかってくることに、雪羅は疑問を感じた。まさか、自分の体調と敵の目的に何か関係があるのか。
「うん……何でそんなこと聞くの? 何か気がかりなことでもあるの?」
「……いえ、何でもありません。失礼しました」
 少年が自身から質問してきているのだ。何でもないということはないだろう。何か少しでも推測の材料になると思って、問うているはずである。
 少年は、いつものように床を見つめ、そのまま動かなかった。
 雪羅も、体勢を整えて彼に向かう。
 降り続く雨の音で、良い具合に眠気が誘われる。
 そんな中、彼は下を向いたまま、いつもより低い声色で、言葉を口にした。
「……親しい御友人はいらっしゃいますか?」
「……うん。いるよ、二人だけだけど、ね」
 もう、質問の本質は問わないことにした。考えたって恐らく分からないし、彼の判断材料になることは確実だろうから。
「坂入愛歩と、遠山栗香。どっちも同じクラスでね、栗香とは今年からの付き合いなんだけど、愛歩は中学一年から親しいの。昔、助けられたことがあって、それ以来ずっと仲良くしてもらってる」
 壁にかけてある鳩時計が、午前一時を知らせる。
 刹那。ピクリ、と、彼の眉が動いた……気がした。
「……過去の話、お聞かせ願います」
 その場に、少しの緊張感が漂う。
(……思い出したく、なかったけど……)
 雪羅は、意を決したように背筋を伸ばし、記憶をまさぐりながら、話を始めた。
「……うん」

行間 二 cb-δ1.0-UI-00471Y

 今から約二ヶ月前――。
 黒い霧が立ち籠めたような、深い闇夜の中。
 真っ黒な分厚い雲が空を占め、星座も月も見えなくなっていた。
 風も吹かない街中は、季節相当に寒い。長時間晒された肌が鳥肌を立て、拒否を訴えていた。
「…………」
 そのような、理解が事態に達しない中、少年は、街の外れにある河川敷を歩いている。
 血塗れで。
 少年に、記憶と呼べるものはない。脳内コンピュータには、必要最低限の記憶すら残されていなかった。
 倒れていたのは、河原。ほんの数分前に意識を取り戻したばかりだ。気が付けば、大怪我の状態……左腕は最早動かず、ただぶらぶらと吊り下がっているだけ。気が狂ってもおかしくない状況だったが、少年に焦りや戸惑いはなかった。
 残っていたデータは、
『サイボーグ cb-δ1.0-UI-00471Y』
『BEF』
 この二つの単語のみである。
 前者は、恐らく自分のことだ。何故だか、直感がそう伝えている。後者は……全く分からない。見当もつかない。
 しかし、感情の起伏がないことが、今の彼にとって幸いしていた。そんなものがあれば、きっと平常心を保てなかったから。霞みそうな視界を晴らしつつ、そう感じる。
 目的地は、ない。ただ、起動させた音声に従って進んでいるだけ。その先に、何が待ち受けているかは分からない。
 歩くたびに、身体中が、比喩表現ではなくギシッと軋む。
「…………」
 重たい身体を引き摺って、彼は闇の中を進んだ。

 着いたのは、ある古びた建物だった。
 建物、というよりは、物置に近い。所々に汚れがある白い壁に、小さい扉。簡単に言えば、所有者のいない小廃墟だ。
 機械が「入れ」と告げる。
 足を踏み入れると、もう秋だというのに、むわっとした湿気が少年の頬を撫で去った。かすかにするカビの臭いを無視して、中へと入る。
 天井には、電池で動く大型ライトが吊り下げられていた。スイッチを入れると、最近まで使われていたらしい、問題なく闇夜を照らした。
 部屋には、何もなかった。あえて言うなら、灰色のタオルと、ニッパー等の道具類が散乱している。そして異常なまでの傷跡。まるで、ここで殺し合いがあったかのようだ。
 中央へと腰を下ろし、機械の指示を待つ。
――データを模索中……キーワード『医療』……現在ある道具で可能な治療を検索…………。
 その間に、装甲を脱ぐ。
 中から出てきたのは、比較的細めだが、しかし確かに筋肉質な身体。あちこちの皮膚が破け、血痕が肌色に赤褐色を上塗りしている。その隙間から覗くのは、『金属』。
 左腕……既に人の腕はそこになく、金属と配線コードからなる機械がその空間を支配していた。コードは何本か千切れており、周りを包む外装部分も、何カ所かあからさまに凹んでいた。
 それを見ても、少年は何も感じない。
――構築完了。左肩のストッパーを解除し、解体。
 言われた通りに、右手を動かす。
 肩と腕の接続部分を探る。すると、指先に、何か出っ張りが引っかかった。それを摘んで引くと、ウィーン、とモーター音が鳴り、パーツが動き出した。
 二、三秒すると、停止した。今は、コードのみで繋がっている状態のようで、右手で引っ張ると、それがずるっと出てきた。
 ぶら下がった左腕を十分な長さまで引き出し、胡坐の上に置く。
 自分の腕じゃないように感じた。いや、機械なのだから、それは事実か。
――布で煤を落とし、制御コードAa、Be、Dを繋ぐ。
 タオルを拾い上げ、金属部分を磨いていく。すると、あっという間に綺麗になり、本来の艶を取り戻し始めた。指定されたコードをくっ付けると、自動的に接着された。原理は分からないが、事実として一瞬で治ってしまった。
――応急処置を完了。エンジン冷却に入ります。
 すぅっと、瞳の赤いランプが消える。
「…………」
 開け放たれた窓から吹き込んだ冷風が、吊り下げられたライトを揺り動かした。張り付いている小さな蛾達を追い払うように、カランカランと渇いた音をたてる。
 無風だったこの街に、気流が動き始めたようだ。
 左手を見ると、皮膚細胞の再生が既に始まっていた。少年に痛覚があれば、その膨大な熱で悶えたかもしれないだろうが、痛みさえも感じることが許されない。じわじわと覆われていく銀色を眺めながら、彼は床に寝転んだ。
 強烈な、眠気だ。
――熱排出処理の為、『UI-00471Y』をシャットダウンし、『cb-δ1.0』を起動します。
 再び、瞳に赤が灯り始める。目を閉じずとも薄れていく意識に、奇妙な感覚が伴う。
(…………)
 まるで、自分の身体が何者かに乗っ取られていくような。
 そう考える間もなく、『少年』は眠りに落ちた。

第三章 汚れた記憶


     1

 西暦二〇〇八年。四月八日。月曜日。午前七時十二分。
 今年の春は、例年に比べて少し気温が低かった。冬の到来が遅く、初雪はなんと三月中旬。いつもなら住宅街で見かけるはずの雪だるま達も、今年は休憩しているらしい。雪が水っぽくて、固められそうになかったのだ。
「雪ちゃん、聞いてる?」
 いけない。いつの間にか、意識が外に行ってしまっていたようだ。
 目線を前に戻すと、心配そうに私の顔を覗き込む叔母さんの顔があった。
「ええと、ごめん。何?」
「セーター一枚じゃ寒くない? タートルネック着たほうが良いんじゃないかしら」
 この人は、本当に心配性だなぁ。会う度にそう感じる。
「大丈夫だよ。ていうか、カッターシャツにタートルはおかしいって」
 まぁ、少し肌寒くはあるけど。これくらい大丈夫。
「本当に大丈夫? あなた、ただでさえ身体弱くて大変なのに、体調まで崩されたら……」
「ああもう、大丈夫だから! ほら、早く外出ようよ」
「……じゃぁ、先に車暖めておくから、自分の荷物準備しときなさい」
 叔母さんは少し不満げな顔をすると、口を尖らせながら部屋から出ていった。
「……大丈夫だよ、私は」
 窓から差し込む暖かい陽射しに身を預けながら、私はぼそりと呟いた。
 ちょっとだけ、眠い。後でミルクティーでも買ってもらおう。
 少し経って、車のエンジン音が鳴り出した。それを合図に立ち上がり、小麦色のカーテンを閉め、私は部屋を出た。
 ……過去の冷たい経験もあって、からだろうか。
 あまり、ワクワクもドキドキもしなかった。

 近くの指定された駐車場で車を降りて、私と叔母さんは校舎へと向かった。
 その時点で、既に視線が私に向き始めていた。
 好奇の目に晒されるのはもう慣れたつもりだったが、やはり気持ちのいいものではない。
「雪ちゃん、自信もって」
 隣で、叔母さんが呟いた。
「……ありがと」
 彼女だって、こんな私と一緒にいるのだから、勿論注目の的だ。それでも、叔母さんは怯えるどころか、むしろふんぞり返っている。
 その様子が何か可笑しくて、私はふふっと笑った。

 体育館は、小学校のとは比べ物にならないくらい大きかった。
 全校生徒は六百人以上らしい。ただでさえ多いのに、更にそこに保護者や来賓が来ているもんだから、人混みで溢れかえっている。
 靴を脱いで、あらかじめ購入していたピカピカの上履きに履き替える。
「じゃ、私は保護者席にいってるから。頑張ってね」
 そう言うと、叔母さんは人溜まりの中へと消えていった。
 新入生は、既に通知されている自分のクラスの教室に行き、そこで点呼をとってから、整列して入場するらしい。
 つまりは、クラスメイトと顔合わせ的なものするのだ。
 苦手だ。
 昔から。
 この髪のせいで。
 私のお父さんは、外国人だった。どこの国かは知らない。その前に、実際に会ったことがない。私が生まれる数日前に、病気で亡くなったらしい。そう、叔母さんに聞かされた。写真を見せてもらったけど、髪は私ほどに白くはなかった。何故ここまで色素が抜けたのか、分からない。
 小学校に入学して、私は最初のいじめを受けた。
 初めは、あだ名が雪女だとか、フケ女だとか、そんなものだった。
 女子からはシカトをされた。男子は身体を触ろうとしてきた。自惚れに過ぎないが、人並みの容姿は持っていると思っている。そのせいかどうかは知らないが、私は色々な人にちょっかいを出された。
 傷ついたけど、まぁ耐えられた。家に帰ったら、お母さんが慰めてくれたから。たまに家に来る叔母さんも、可愛がってくれたから。
 でも、そのうち。
 私は、『死神』と呼ばれるようになった。
 きっかけは、当時私の隣の席だった男の子の死亡事故だった。よくは聞いていないけど、飲酒運転のトラック横転に巻き込まれたようだった。
 二番目に、お母さんが死んだ。前の事故の二週間後だった。この時のことは、よくは覚えていないが、ぼんやりと、たまに悪夢で甦る。記憶にはないのだが、その直後に私は行方不明になっていて、数日後にひょっこり戻ってきたと言う。捜索願いも出されていて、大事になりかけたようだった。
 そして、三番目に、親戚の叔父さん。
 四番目に、クラスの副担任。
 連鎖は続いていった。
 席替えで近くになれば泣かれ、下校中に石をぶつけられ。登校すると机がなくなっていたり、色々された。親戚の葬式にも呼ばれなくなり、最後には、「帰れ」と怒鳴りつけられた。
 両親を失った私は、一人我が家に残された。泣き疲れて、喜怒哀楽のコントロールも出来なくなっていた。
 誰が私を引き取るか、皆揉めた。幼いながらにも分かる。責任のなすりつけだった。
 それでも、母親の姉、叔母さんだけは、味方になってくれた。
「こんな小さい女の子を邪魔者扱いして! 死神? 何それ。ただの偶然でよってたかっていじめるなんて、それでも大人なの!?」
 確か、こう叫んでいた。
 対する親族も、怯まずに大声を出していた。身内が死んでいるのである。まともな判断は出来なかったろうから。
「もういいわ、分かった。この子は私が引き取ります」
 そう言って、私を抱き上げ、その場を後にした。取り残された旦那さんが、呆然と口を開けていたのをよく覚えている。
「大丈夫よ」
 その言葉で、私はまた泣きじゃくった。
 翌日、叔母さんは旦那さんと離婚した。
 旦那さんは最後まで反対していたらしく、痺れを切らして離婚届を書き殴った後に、家を飛び出していった。
 それ以来、私は叔母さんと二人暮らしだ。と言っても、まだ一年も経っていないのだが。親戚とは疎遠となり、連絡もとっていない。中学は、小学校の顔見知りと離れる為に、私立の中高一貫校を選んだ。学校の授業中も、御飯中も、ずっと参考書を見ていた。死に物狂いの猛勉強のおかげで、なんとか合格出来たのだ。
「…………」
 ふと立ち止まる。
 気が付けば、教室の前まで来ていた。
 廊下は未だに混雑し、話し声で賑わっていた。でも、私が視界に入ると、途端にひそひそ声になる。
「…………」
 溜め息を吐こうと思ったけれど、緊張のあまりか喉がかれていて、上手い具合に息を吐けなかった。
 気にしていても仕方ない、私は木製の扉に手をかけ、教室の中へと入った。

 入学式は、ほんの三十分程度で幕を閉じた。
 点呼の時にふと思ったのだが、このクラスには名字がカ行の人がいなかった。「オ」の次にすぐ「サ」がきていたので、少し驚いた。
 教室に戻ってきて、自分の席に座るよう、担任が指示する。
 私は、名字が「糸川」なので、出席番号は三と、いつもの通りに早い方。
 机が六列七行並んでいて、廊下側、生徒から見て右側の席から順に座っていくスタイルだったので、私は一番右の前から三番目だった。
 流石に、この緊迫した空気の中、喋ろうとする生徒はいなかった。俯き、周りを窺うように、目を走らせている。
 私も同じようにチラチラ見ていると、左隣の席の女子生徒が視界に入った。
 セミロングの艶がかった黒髪が、癖なく真っ直ぐと伸びていた。垂れ目が特徴的で、とても睫毛が長いのもあり、眠そうに見える。風貌で言えば、お嬢様のような人だった。
 自分でも無意識のうちに見入ってしまっていたらしい。彼女は私の視線に気が付き、目を合わせた。
「…………」
 数秒後、彼女は微笑みを見せた。
 私は、初めて遭遇したその反応に、思わず狼狽する。いつもなら、髪をじろじろと舐めるように見られ、しばらく経てば無視されていた。それが常だ。しかし、彼女は私の目を見て、静かに笑みを零したのだ。
 とても衝撃的だった。
 それは惚けてしまうほどで……その後に始まった先生の話は、全く耳に入らなかった。

 自己紹介は、自分的には、無難に終わらせることが出来た。
 彼女は『坂入愛歩』という名前らしい。趣味はピアノとヴァイオリンの演奏・鑑賞で、得意教科は英語。出身校は阿弥ヶ崎小学校。地元では結構有名でかなり希有なお嬢様校だ。
 声のトーンが緩く柔らかく、聞いているうちにリラックスしていた。それと同時に睡魔も誘われるようで、私は寝ないように必死に目を開けていた。

 その後は時間の経過があっという間で、気が付けばホームルームも終わっており、迎えにきた叔母さんと一緒に車へ向かって歩いていた。
 時刻は午前二時過ぎ、丁度日が真上へ来ている。朝の気温とは打って変わり、着込んだセーターがとても暑苦しく感じた。
「教科書はもう配られたの?」
「うん」
 駐車場に敷かれた砂利が、私達が歩く度に音をたてた。足の裏が、なんだかこそばゆい。
「あなたも、もう中学生なのね。早いなぁ」
 逆光で目を伏せている叔母さんが、ぼそりと呟いた。
「勉強も出来るし、家事もこなすし。しっかり者に育ってくれて嬉しいわ」
「…………」
 頬の体温が上がっている。
 私は、そう言って微笑む叔母さんから目を逸らし、遠くを眺めた。
 シルバーのミニバン型乗用車、シエンタがある。叔母さんの車だ。
 意識をそちらへ移すことで、私はほんの少しの照れを隠した。
「……この後って、用事とかある?」
「いや、ないわね。どこか行きたい所でもあるの?」
 車へ到着する。後部席のドアに手をかけながら、私は言った。
「…………いや、別に」


 それから一週間、平穏な日々が続いた。
 嵐の前の静けさ、と言っても良い。毎年のことだから、もう、これから何が起きるか分かっている。
 少しずつ賑やかになっていくクラスの雰囲気に、当然の如く私はついていけない。授業でも、まだグループ活動等はないので、他人と話す機会がないのだ。
 機会があったとしても、話せないだろうけど。
 私立なので、昼食は弁当である。他の人達が机を寄せて食べている中、私は一人、無言で箸を動かしていた。
 しかし、私の視線は、弁当箱には向かっていなかった。
 無意識に、例の坂入さんを目で追ってしまうのだ。
 彼女はいつでも微笑んで、たくさんの人に囲まれていた。今もそう、三人の女子生徒に誘われて、一緒にお昼を食べている。統率力もあり、今は学級委員として、仕事を全うしている。
 羨ましい。あんな、他人を魅了するような人間になってみたい。そう感じてやまなかった。
 あまり凝視していると変に思われるので、自然を装って、おかずに目を戻す。
 その時、
「糸川さん」
 予想していた光景が、やって来た。
「…………」
 私が顔を上げると、そこに立っている三人の男子生徒は、静かに笑った。
「今、クラスメイトのメアドを聞いて回ってるんだけどさ。良かったら教えてくれない?」
 手慣れた様子だった。
 全員髪は長めの茶髪で、少し制服を着崩している。顔は、まぁ美形な方だろう。難関私立とは言えど、こういった不真面目そうな輩は必ずいるものだ。
「……携帯もパソコンも持っていないので」
「買う予定は?」
「ありません」
 睨み顔になってしまっていたのか、彼等はすぐに退散して、それ以上追求してこなかった。
 ただ、近くで談笑していた女子生徒五人が、無言でこちらをじっと見つめていた。

 日が暮れ始め、空の下部分はオレンジ色に染まっている。
 私が彼女等に絡まれたのは、掃除の時間が終わったしばらく後、帰宅の準備をしている時だった。
「ねぇ、何? さっきの態度」
 生徒のいない、静寂に包まれた教室で。一人が、私の机に手をついた。
「せっかくダイキが、浮いてるあんたを気にしてくれてたのに。恩は感じないわけ?」
 大柴莉奈、だったか。彼女もまた、あの男子と同様軽めの茶髪だった。顔を近付けられて、少し戸惑う。鼻先に香水の香りが触れて、私は仰け反った。
「……ごめんなさい、あの、私こういうのに慣れていなくて」
 とりあえず、例に外れず謝罪をしておく。気にしてくれているなんて、あからさまな嘘もあったものだ。
 いつもなら、ここで無視したりして、無理矢理振り切って帰る、のだが。

「知ってるわよ、あんたのこと。ね、『死神』さん?」

 その言葉を聞いて、私は動くに動けなくなった。
「……ぇ……」
「噂になってんのよねー、他校でも。まさか、この学校に来るなんて思わなかったけど」
 目を、見開いた。
「過去のクラスメイトのいない中学に入れば、一からやり直せるとでも思った?」
 瞬間、私の中で、平和が崩れ落ちていく音が鳴り響き、過去の光景がフラッシュバックした。
「慣れてないとか言っちゃってさ。嘘吐き。どうせ、ナンパされまくってるくせに」
 心臓に、何かが突き刺さった。
 怖い。
 逃げたい。
 私は、身震いを必死に押さえようと、制服の裾をぎゅっと握りしめた。
「あんたがいるとね、空気が悪くなるの。学校来ないでくんない?」
 もう、涙がすぐそこまでのぼって来ている。

「やめなさい」

 最初は、それが空耳だと思った。
 声は、教室の後ろの入り口から聞こえて来た。その場にいた、彼女を除く全員が、呆気にとられていたと思う。
「糸川さんから離れなさい」
 その二度目の台詞で、ようやく惚けていた意識が戻って来た。
 近付いてくる坂入さんを見て、私は再び目を見開いたのだった。
「はぁ⁉ なんであんたが出てくんのよ!」
「学級委員ですから。いじめは見逃せません」
 茶髪が、動揺しているのか、声を荒げた。
「何? イイコぶってんの? キモッ‼」
 声のトーンに、焦りを感じる。
 坂入さんは少しも怯まずに、じっと、彼女達を睨みつけていた。
 惑う私を、置いてけぼりにして。
 ……やがて、降参したのか諦めたのか、茶髪達は教室を出ていった。
「……ふぅ」
 一息吐くと、彼女は私の方へ身体を向けた。
「大丈夫? 手、出されたりしてませんか?」
 怒りの表情はとっくに消え去り、いつものような微笑みがその場所へと舞い戻っていた。
「……ぇ、ぁ」
 口の中が渇いていて、声が掠れる。それ以前に、何て反応すれば良いか分からなかった。
 初めてだ。こんなこと。
「ひどい人達ですよね。全く」
 きまりが悪くなり、私は顔を俯かせた。
 気まずい。そう思っていると。
 坂入さんは、私のもとへ歩いて来て、いきなり頭を撫で始めた。
「っ⁉」
 大袈裟に、私は身体を震わせた。それに驚いたのか、彼女は手を引っ込める。
「ご、ごめんなさい。つい……」
「ぁ、ぃや、その」
 どぎまぎして、上手く言葉が紡げない。
「……あの、一緒に帰りませんか? 大柴さん達、待ち伏せているかもしれませんし」
 言いたいことがあり過ぎて、閉口してしまう。
「……はい」
 しかし、そんな気持ちとは裏腹に、口は勝手に承諾の意を示していた。


 二人で歩く道路沿いの歩道も、右側にある高さ二メートル弱の石垣も、すっかり赤橙色に染まっていた。
 左側を走り行く車を眺めながら、私はずっと黙り込んでいた。
 並んでみて、彼女は私より十センチも高いことに気付いた。私は百四十程度だから、少し見上げる形になる。
 私がチラチラ見ていることに気が付いたのか、彼女は突然口を開いた。
「まだ、少し冷えますね」
 私は世間話というものに慣れていない。そうですね、と返すと、また会話が途切れてしまった。申し訳なさでいっぱいになるが、何とか、話を続けようと努力する。
「……えと、あの、さっきは、ありがとうございました」
「あぁ、いえいえ、当然のことをしたまでですよ」
 目を合わせるのがまだ気恥ずかしいので、視線を、長く伸びた二つの影に落とした。見なくても、彼女が微笑んでいるのは分かる。
「……えっと、その……」
 どもりながらも話そうとする私の言葉を、坂入さんは待ってくれていた。
 正直、聞きたいことはたくさんあった。
「……なんで、助けてくれたんですか」
 一番気になったことから質問する。
「さっきは、学級委員だからって言いましたけど……本当は貴女と仲良くなりたかったからです」
 思わず、え、と声に出してしまった。
「上手くは言えないですけど……なにか、こう、似ているなぁって」
「似てる?」
 彼女の言わんとしていることが、私には理解出来なかった。
「はい。雰囲気と言うか、何と言うか。もの静かで、落ち着いていて……綺麗だな、と」
 太陽が、その姿を地平線に隠そうとしていた。透き通ったオレンジ色が眩しくて、私は静かに目を伏せた。
「すみません、おかしなことを」
「……いえ」
 今日の空は、雲一つない。
「…………」
 まだ、暗くはならなさそうだ。
「……あの、坂入さん」
 私が間を持たせようと話しかけると、
「『愛歩』で良いですよ」
 彼女はそう言って、そのつややかな黒髪を揺らした。
「仲良くなりたいですし。敬語も、使わなくて良いですよ。他人行儀は好みませんから」
「……え、えっと」
 突然言われても、対応が出来ない。私が何か答える前に、彼女が口を開いた。
「あとは、そうですね。私も、貴女のこと名前で呼んで良いですか?」
 立ち止まり、坂入さんの背中を見る。彼女は二、三歩先に行ってから、振り返り、日光を背に受けて微笑んだ。
「……どうぞ」
 それは、半ば開き直りに近いものだった。こちらは警戒心剥き出しなのに、どうしてこうも迫ってくるのか。
「ふふ、では、『雪ちゃん』と呼ぶことにします。貴女も、一回呼んでみて下さい」
「……えー……」
 無茶振りをされても、あまり困惑しない程度には、彼女の雰囲気にも慣れてきた。
 それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「……あ、愛歩」
「はぁい」
 目を逸らさずにはいられなかった。顔、赤いだろうな。相手も、それを見て楽しんでいることだろう。
「ふふ。では、帰りましょうか」
 見かけによらず、やや強引に話を進める人だった。自分の方では、敬語を止める気はさらさらないようだし、何だか、初期の印象のせいで多少の違和感を感じていた。
「……うん」
 止めていた足を動かすと、先程よりも軽く感じた。
 友達が出来た。まだ心は許せる状況にないが、形式上だけでもなれたのではないだろうか。遥か昔に忘れ去ったこの感情を、私はどうにか探りながら、彼女、愛歩の隣へと再び並んだ。
 帰ったら、叔母さんに報告しよう。そう思えるほどに、無意識に興奮してしまっていた。
「では、私は右ですので」
 そんなことを考えているうちに、緩い坂の歩道が終わり、交差点に着いていた。
「さようなら」
「……うん、また明日」
 初めて、自然に笑顔で挨拶が出来た、気がする。
 彼女の、黒髪を舞わせ、凛とした姿勢で歩いていくその後姿を見届けて、私は、自宅へと足を急がせた。

 太陽は……もう、その姿を、視界から綺麗に消していた。
 その様子はまるで、私の希望の果てようだった。

     2

 もう四月と言えど、日の暮れはまだまだ早かった。住宅街を駆け巡る道路に落ちていた長い影も消え始め、夜の訪れを告げている。しかし、やはり空気は確実にその温度を上げていて、春の到来を肌身で感じさせた。
 午後六時十二分。
 私はと言うと、胸を躍らせながら家路についていた。
 高揚、だろう。やはり、他人と仲良く出来たことが、嬉しいのだ。
 まだまだ、心を許すには相手の情報がない。いじめの的である私を庇ったりすれば、必然的に彼女も対象とされてしまうだろう。それなのに、坂入さんは私の味方を選んだ。初対面にも等しい『私』と安定した『スクールライフ』を天秤にかけて、『私』を選んだのだ。今まで、当然の如く他人を拒絶してきた私にとって、それはとても不可思議なことだった。何故そうまでして、他人の為に動けるのか。不審とも言える挙措であった。
 それでも、久しぶりのことに、私は平穏な学校生活に対する僅かな希望を持ち始めていた。もし彼女が私と一緒に生活してくれるなら、これほど心強いものはない。クラス委員であり、優等生で人気者である坂入さんの側であれば、最低限のダメージだけで済むかもしれないのだ。
 しかし、それはつまり、彼女を利用するということ。
 こんなことを考えても心が痛まなかったことに、逆に私は驚いた。
「……あ」
 ふと、顔を上げると、家のすぐ近くまで来ていた。
 早く、叔母さんに教えてあげたい。そう考えるだけで、自然と私は走ってしまっていた。
「ただいま!」
 扉を開けて中へ入ると、私は違和感に気付いた。
 いつもならば、叔母さんが返事を返してくれるのだが、今日はそれがない。
 出かけているのだろうか。
「叔母さん?」
 廊下を歩いていき、リビングに入ろうとした時、私の鼻に、変な臭いが漂ってきた。
 鉄の臭いだ。
 何故? 
「…………」
 心臓が、鼓動を早く鳴らし始める。
 まさか。
 平和な日常が、暖かい日々が崩れ落ちていくのを、私ははっきりと感じた。
 戸を開ければ、すぐそこに答えがある。どうした、早く開けて、確かめれば良いじゃないか。そんな、誰とも知らぬ声が脳内を走り回り、私の意識を縛り付けようとする。
 震えないように、私は歯を食いしばった。
 気付けば汗で滑りやすくなった右手を、ノブへとかける。
 そのまま思い切ってドアを開け、中へと足を踏み入れ、
「ぁ」
 絶句して、その場にへたり込んでしまった。
 一言で形容すれば、それは『惨状』だった。
 窓ガラスは割れ、砕けた食器の欠片とともに床に散乱している。カーテンはズタズタに裂かれ、木製のテーブルは真っ二つに切断されていた。壁や天井には血が付着し、床には赤い水溜りが出来ている。
 その血の池の中心にいたのが、変わり果てた姿で横たわっている叔母さんだった。
「……ひ、ぁ」
 いざとなると、全く声が出なくなるというのは、本当のことらしい。
 喉が乾き、息がつまるなか、強烈な嘔吐感を堪えるだけで精一杯だった。
「……おば、さん?」
 それでも、ぼうっと突っ立っている訳にはいかない。
 飛びそうになる意識を何とか繋ぎ止めながら、私は懸命に呼びかけた。
「叔母さん! 聞こえる!? 叔母さん!!」
 反応したのか、彼女の右手が微かに動いた。
 震える手で、何度もボタンを押し間違えそうになりながらも、私は救急車を呼んだ。


 連れてこられた病院の廊下で、私は白の長椅子に座ってずっと祈っていた。
 たった一人の家族。離婚までして私を守ってくれた、たった一人の味方。
 最悪の事態が脳裏をちらつき回り、私は我慢出来ずにトイレで二回吐いた。もう胃の中は空っぽで、立つのにも一苦労いるような状態だった。
「…………」
 不安そうに灯りを揺らしている「手術中」のランプを仰いで、私は未だ収まらない鼓動を意識の外へ出そうとしていた。
 ずっと前から。
 死の連鎖は、終わったと思っていた。至って普通の、女子中学生としての日常が始まったと思っていた。順調に、進もうとしていたのに。
 何故? 私は何もしていないのに。何でこんなにも不幸が重なる? 他の、例えば私を虐めていた奴等なんて……両親がいて、安全を保障された生活を仲の良い友人達と送って、楽しく生きている。私の方が堅実に、真面目に、ひたむきに生きているのに、どうして?
 その上、何故か私自身は死なずに、周囲の人間だけが死んでいくのだ。大切な人を、家族を奪われ、周りからは拒絶され、生き地獄と言う名の苦しみを与えてくる。
 何もしていないのに。
 もう、我慢の限界だった。
 生きる価値が、意味が、全く見出せない。私が生きていても、皆に迷惑をかけるだけ。誰も得をしない。
「…………」
 もう、死んだ方がましだ。
 そう感じていると、手術室の扉が開き、中から医者が出てきた。
 その表情を見て、私は既に悟ってしまっていた。
「……叔母さん」
 まだ、運ばれてから一時間も経っていないはずだ。素人目でも分かる。あの重傷で、こんなに早く終わる訳がない。
 涙は、全く出る気配もなく、私を機械のように、無表情にさせる。
 たった一つの希望も奪われて、私の心の支えはもう、ズタボロだ。
 死のう。
 その決心を、かろうじて留めていたこの世の未練。それを断ち切るには、もう充分だった。


 その後のことは、よく覚えていない。
 会議室らしき場所に私は移された。医者が何やら説明していたが、私の耳には一切入ってこなかった。

「死神」

 誰かが、そう呟いた気がしたから。

     3

 話が終わった後、叔母さんとの面会を許された。
 面会、と言っても、私が一方的に話しかけるだけなのだが。
 通された病室の壁は真っ白で、それの醸し出す雰囲気には生気が含まれていなかった。勿論個室で、とても狭い。その左端に置かれたこれまた白いベッドに、叔母さんは寝かされていた。
 その目はかたく閉じられ、見ただけでは眠っているようにしか見えなかった。
 何度目だろう。この顔を見るのは。『死」を間近で見させられるのは。
 後ろを窺うと、医者や看護師が、私の声が届かない程度に離れた場所で、じっと見張っていた。
「…………」
 それを視認して、再び叔母さんに視線を戻す。
 そのまま私は、ベッドの脇にある椅子に腰を落とし、彼女の冷たくなった手に自分のそれを重ねた。
「私、友達出来たよ」
 一番最初に出てきた言葉を、私は脳内で何度も反芻した。
 感情を制御することが出来ない。いつもそうなんだ。
「坂入さん、っていってね、いじめられてた私を助けてくれたの」
 掠れた小さな声は、部屋に響くことはなかった。私は叔母さんから身体をほんの少し離し、真っ黒な空を映し出す大きな窓を見つめた。
 曇り空の隙間から、ちょびっとだけ、三日月が出ていた。分厚い雲の層がかさばっている為か、その金色は鈍くくすんでいる。風は吹いていないようで、灰色の模様は動く気配を見せなかった。
「ごめんね」
 彼女の方は見ずに、私はポツリと呟いた。
「ごめんね……」
 感謝の気持ちを口に出した結果、それは謝罪となって外に舞った。
 一緒に暮らし始めたのはつい最近のことだけど、それでも私の安らぎになるくらい、叔母さんの存在は大切なものだった。唯一の私の理解人であり、家族だったから。
「何で、皆死んじゃうんだろ」
 涙は出ない。今まさに叔母さんの顔が目の前にある状況で、本当にあっという間の出来事。未だに、信じ切れていない部分があるのだろう。私は無理矢理に、そう納得した。
 まだ指定された時間に余裕はあるが、私は席を立った。ここにいると、せっかく断ち切った思いが吹き返してしまう。
 病室から出ると、医者達が寄ってきて、もう一度会議室に来るよう促された。
 足取りは、とても重かった。


 自宅が解放されるまでの間、私はすぐ近くに住んでいる親戚の家へ預けられることになった。
 事件のあったその夜、やって来た警察の人達が手配したらしい。母親の従兄である叔父さんが、病院の前に軽自動車で迎えにきていた。
 入り口まで出てきた警察の人達に頭を下げる彼の顔に、哀の字は無いように思える。
 軽い挨拶が終わると、私は車に乗るよう促され、控えめに後部座席へと乗り込んだ。車内は暖房のおかげで暖かかったが、シートは対照的に冷えきっていた。
「…………」
 家に着くまで、彼は終始無言だった。私も口を開かず、ただじっと黙って、午後八時の夜景を眺めた。流れていく電灯の明かりだけを見て、奥の星を見ようとはしなかった。
 それから三十二分経って、古びた宿舎に到着した。
 五階建て、だろうか。そこまで大きい訳ではないその棟を、高く伸び茂った黒い木々が囲んでいる。使い古されたその壁は、一面に亀裂が走っており、隙間から苔やら何やらを生やしていた。
 やはり黙ったまま早足で歩いていく彼の背中を追いながら、私はこれからのことに不安を感じていた。
 従兄叔父である彼、結城辰巳は、確か地方公務員として働いている。詳しい仕事内容は知らないが、極端な金持ちではないようだ。
 それが、とても怖かった。
 それが、とても不可解だった。
 私の引き取りに対しては、彼も反対していたはずだ。違ったとしても、私の味方につくことはなかったのに……どうして迎えにきてくれたのだろうか。普通に考えれば「警察に頼まれた」からなのだろうが、それは上辺の理由だ。彼限らず親族は私を遠ざけている。金に余裕がある訳でもないのに私を引き取るなど、彼の魂胆が分からないのだ。我が家が解放されるまでの期間は不定、第一戻れるかどうかも未定である。
 これから私はどうなるのか。つい先程まで頭を支配していた自殺願望は、目の前の恐怖に屈し、とうに消え去ってしまっている。安泰な日々を過ごしたせいで失われつつあった『疑心暗鬼』が、再び目を覚ますこととなった。
 彼の部屋は、最上階の一番端にあった。『五〇一号室』と掘られた木の札を視界で確認しながら、私は後に続いて、ワンルームの殺風景な部屋に足を入れた。


 その夜は、特に何も起きなかった。そのまま持ってきた鞄を枕元に置き、制服は脱ぎ、たまたま持ち合わせていた体操服に着替えて就寝した。寝室は、考慮してくれたのか、それともただ近くにいたくないのか、叔父さんはリビングの隅に布団を広げていた。
 そのまま、曇り気味の朝を迎えた。
 彼はというと、私に鍵を持たせ、「夜にしか帰らないから、後は好きにしてくれ」と言い、そのまま家を出てどこかへ行ってしまった。
「やっぱり、避けられてるかなぁ」
 ぼんやりと、無関心を精一杯に装いながら、私は呟いた。
 今は午前六時半。四月十六日水曜日、平日だ。学校がある。
 行くべき、なのだろうか。
 惚けていて殆ど警察の話を聞いていなかったが、確か無理するなと言っていた気がする。と言うよりかは、こんなに自由行動が出来るとは思っていなかったので、かえって拍子抜けだった。
 第一発見者の私に何も聞いてこないとは、とても不可思議だ。てっきり事情聴取で束縛されると考えていた。それに加え、あの事件が殺人事件である以上、身内の私にも害が及ぶ可能性も捨てきれないのに、私は今誰もいない部屋に一人きりでいるのだ。……何故?
 まだ昇り始めたばかりの太陽を横目で見ていると、私の脳裏に、ある人物が思い浮かんできた。
 おかしなことに、それは叔母さんではなく、坂入さんだったのだ。
 理解が追いつかないのと同時に、まるで叔母さんの存在が薄れていっているようで、私は哀しみをおぼえていた。
 そうして、叔母さんによりも、坂入さんに会いたいという気持ちが強くなっていることに気が付いた時、私はその目を見開いたのだった。
「…………」
 まだ敷きっぱなしにしている布団を握りしめ、私は唇を噛む。
 不安定になっている自分を、何故か冷静に、客観的に見ることが出来た。思いの行き場をなくし、ただでさえ消えかかっている憎悪と自殺願望が、坂入さんという存在によって揉み消されいくような、そんな漠然とした感情を私は見ていた。
 死にたい。
 死にたくない。
 二つの思考が頭を支配する。どちらが優勢かなど、もう殆ど決しているようなものであるが……まるで自分の中にもう一人、全くの別人がいるような感覚がとても心地悪かった。
 太陽は、もう顔を全て曝け出している。
 私は立ち上がると、寝室から出て食卓へと出た。
 まだ折り目も付いていないような綺麗な制服と、艶のある鞄を手に持って、私は逃げの選択肢に走ったのだった。

【Episode δ】白雪姫とサイボーグ

【Episode δ】白雪姫とサイボーグ

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. プロローグ 二人
  2. 第一章 真冬の夏
  3. 行間 一 five
  4. 第二章 寂びた腕
  5. 行間 二 cb-δ1.0-UI-00471Y
  6. 第三章 汚れた記憶