路線変更

今日の医療技術並びに科学技術が脳の発展で大きく成果を上げて久しく、脳の神経パルスを電子脳であるインターネットなどにつなげることはまだ実案にとどまっているが脳の高揚の微妙な加減を操作することにより喜怒哀楽を意図的に作り出すことに成功している。この技術が導き出された当初犯罪が横行するのではないかと議論が活発になったがこれも人間のある感情を同時に刺激することで解決するという研究者の発表により世論もその見解に同調する呈を示してきた。また、実際に導入されたあとも当初危惧されたような怪事は起こることもなく無事に?世に広まっていった。ここで疑問符を入れたのはその技術を体験した者が会社の同僚や上司等とトラブルが起き訴訟問題に発展しそうになったことが度々あったからである。しかし、その度々に当たる訴訟も本人の注意不良であると判決で言い渡されることによりトラブルも訴訟も現在では下火の傾向にある。
 この技術を利用したいと発案された当初も切望していたある男がいた。この男はxと言い年は三十で妻子を持ちそこそこ大きな会社の会社員である。彼は気が小さくいつものろのろとしているので同僚にからかわれたり上司に叱られたりで会社ではヤキモキとし、家では家で女房に給料が少ないだとかうだつが上がらないだとか子供の世話を見ないだとかいろいろと小言を言われたりしていたので彼がこの技術を発案段階から切望していたのも無理ないことである。彼がまだ体験していないのもその気の弱さ故であり、パンフレットを取り寄せたり説明を受けに行ったりとはしていたものの手術を受けとなると彼は安全性の面で不安だとか上司や取引先ともめてクビになってはと危ぶんだりとグズグズしていて今日までに至るのである。
 そんな彼がこの技術の恩恵に与ろうというのはほんの気まぐれからでなく彼の生活を揺るがすような大事件が起こったからである。それというのは彼が日曜日に五歳半になる娘を連れて公園へ遊びに行くようにと彼の妻に怒鳴られたのに端を発する。彼は妻の言う通り近所の公園へ連れて行ったのはいいものの、近所の子供と遊んでいたのを口実に目を離してトイレへ行ったのがいけなかった。もちろん彼は娘も一緒にトイレに連れていくことを考えたが楽しく遊んでいるのを引き離すのは可愛そうだと思い娘にここを離れるなと厳しく言いつけておいた。ところが、子供は気まぐれで移ろいやすいものでその言いつけも聞かず、友達との遊びも飽きて家へ自ら帰ろうとしたのかはたまた不安になった娘が父親を探そうとしたのかその理由は分からないが彼女はその公園を抜け出したのである。そうとは知らない父親であるxは急いでトイレから戻ってみたものの居るべきはずの場所に娘を見い出せないのでみるみると血の気を失って体から力が抜けていくのを自分でも感じているようでありそんな彼は気がおかしくなったかのように辺りを見渡し娘の名前を何度も呼んでみた。しかし、何度呼んでもその呼びかけに反応する者がなく一緒に遊んでいた上級生の子供たちに聞いてみても娘がいなくなったのを遊びに夢中で気づかなかったらしく彼らに聞いても知らないの一点張りであった。そうして公園内の隅々を探し回っていたところ急にクラクションの鳴り響く音、急ブレーキをかけた音、ドンッという重苦しい音が順々に聞こえた。彼はその音から来る連想がぱっとあたまに浮かんだが、その考えを振り払うと同時に努めて考えまいとし、その考えまいとしていることが現実でないように神に祈るのであった。彼は恐る恐る音の中心地へ足を運んでいったがそれにつれ騒ぎが大きくなっていくのを耳にした。朝ということもあり人溜まりも少なくなっていたが人垣で見えない程度には人が集まっていた。彼は覗き込むとなく覗き込もうとしたとき不意に辺りが暗くなったかと思うと近くで叫ぶ声とともに人の倒れる音が聞こえ自身も目眩とも眠気とも言えるようなグラつきを覚えその場を離れようと暗中模索ながら引き下がるのであるが、やはり意識が混濁してきてついにはその場に倒れるのであった。
 彼は気がつくと真っ白な天井を見上げていた。体を起こすと余裕が出来てきて今までのことを思い返すと同時に辺りをゆっくり観察することができた。彼はまず娘のことを思い焦ったが今の状況を理解するほうが先だと順位を決めた。周りは天井と同じく白一色で真四角な部屋に窓はひとつだけでそれも鉄格子越しに見えるだけである。彼が入ってきたであろう扉は彼が横になっていたベッドのちょうど左に見え、ノブだけでなく覗き口が上部に備わっている。彼は立ち上がって窓を覗き込んだがそこには真っ白な部屋の真っ白な寝台の前にいる自分の姿が見えるだけで、窓本来の役目を果たしていなかった。このことから分かるようにそれは窓でなく鏡であった。部屋に鏡という組み合わせは別に不思議ではないが鉄格子越しということもありその利用上、鏡の役割として不便でありそのために窓だと錯覚してしまったのである。彼はそれを見て訝しく感じたが鉄パイプの間から手を伸ばしても手が鏡に届かないのを知りしぶしぶ鏡の前を離れた。床や壁を試しに叩いてみたが冷え冷えとしたコンクリートでよく見るとペンキがところどころに剥がれている。扉に触れてみると金属で出来上がっておりいかにも頑丈にできていそうである。叩いてみるとやはり衝撃が反対側へ伝わることなく扉の厚さの半分未満で吸収されているようである。そこで彼は初めて気づいたようにノブに手をかけた。本来なら真っ先に向かう手順であるが、部屋一面の白い部屋に鉄格子等と見慣れない情景が彼に恐怖を起こさせそれにより萎縮したためにその手順を先送りしたのであろう。ノブを回し押し引きすると彼も少なからず予想していた通り扉はまるで厳重な使命を果たしているかのように彼の前に依然と変わらない姿を示していた。それでも彼はなおノブに手をかけたままに色々と試していたがびくともしないことを見て取ると彼は胸がどきりどきりと鼓動を打つのを意識し、それを落ち着けるために深く息を吸い込んだ。しかし、ある言葉を思い浮かべたゆえに彼の鼓動はますます激しさをますのであった。そう彼の今の現状は紛れもなく隔離されているのである。彼は隔離という二文字が脳裏に浮かぶと忌まわしく思いながらもそれから来る連想を断ち切ることが出来ず、どんどんと悪い考えが脳中に座を占めるのであった。彼は悪い考えを振り払い、今何をすべきかを冷静に考えようとしたが、現状の異常な事態とその部屋の異様なまでの静けさが彼に娘のことや意識を失ってから何があったのかと現在の窮状を助けるにはあまりに関係のないことまでも考えてしまい刻々と時間ばかりが過ぎていくのであった。最初は歩き回って考えてがついには、彼はベッドに腰を下ろした。30分も経った頃であろうか扉の覗き穴が開きそこに両目が現れた。彼と視線が合いしばらく見合っていたがその両目が突然ニカッと笑ったかと思うと、両目が消えて蓋が閉じた。xはいきなりのことでかける言葉も見つからずに唯見返していたが蓋がしまった途端にしまったと思い立ち上がったが、間を置かずにドアノブがガチャリと音を立てたので彼はそのまま姿勢を変えず食い入るように扉を眺めていた。扉は金属音を発しながら手前に開きそれと一緒に痩せた神経質そうな顔をした男が入ってきた。その男は髪がボサボサでこの部屋と同色の白衣を纏っている。その男は先ほど変化した目元だけでなく相貌全体に笑顔を湛えxに話しかけた。「やあ、やあ、こんな部屋に閉じ込めてさぞ窮屈で困惑したことでしょう。これもいわば止むに止も得ぬ理由からあなたを拘留したのです。悪く思わないでください、これはあなたのためはもちろんひいては一般公衆の安全のためにしたことです。事情を詳しく話すので私に付いてきてもらってもいいですかな。」と彼はそれを言い終わると踵を返して開いた扉へ急ぐのであった。xはその後ろ姿にいろいろと問いかけたが帰ってくる言葉がないので仕方がなく白衣の男についていった。白衣の男は彼がついてきているのかまるで気にしていないように振り向きもせずどんどんと進んでいくのでxも遅れないようについて行きながら、辺りを眺め回すのであった。そこは細長い通路であり彼が出てきた扉の壁面と向かいの壁面に扉がそれぞれ五つ横並びに間隔を置きながらあり彼の扉はちょうど突き当たりに位置していた。白衣の男は反対の突き当たりつまり彼らが進んできた正面にある扉を開けたまま彼を手招きしていた。xが通り抜けたのを認めるとまた歩き出した。扉を出た先には三方向に通路が開けており白衣の男は押し黙ったまま直進した。直進した先には錆びた螺旋階段がありギシギシと音を立てるのも構わずに二人共登って行くと直ぐに前方と右側に扉が見え白衣の男が一人xを気にせずに中に入っていった。xは中へ入ったらいいのかそれとも待っていればいいのかあるいは彼を信用するには危険だとここから逃げ出すべきかと判然とせずにじっと扉の前で突っ立っていたが娘の安否も気遣われ先ほどの彼の言葉の意味も気になったとみえ覚悟を決めて中へ入ることにした。その部屋は物置のように小さく白衣の男が椅子の向こうに腰掛けていた。

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  • 小説
  • 掌編
  • 成人向け
更新日
登録日
2014-01-21

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