親父のくせに

「小説家になろう」サイトにて2012年 12月23日 14時39分に最終話を掲載し完結した作品です。

第1話 疑似家族旅行

『どうしてお袋は俺を産んだんだ?』
『どうしてお袋は俺を置いて親父に?』
『どうして俺が親父の世話してるんだ?』
『だから俺は生かされてるのか?』

 なんて事を最近考えるようになった。もし、こんな自問自答をしている俺を笑いたかったら笑ってくれて大歓迎だ。自分でも笑えるから、ホント……。
 でも、そんなこと考えた事無い奴なんているのか?
 あ、思い出した。いるよ。親父だ。親父がそんな事を考える人間だったら俺はもっと目に見える世界が明るく見えて来れたんじゃないか? そうつくづく思うこの頃だ――

 (とどろき)シン十八才の心には彼固有の思考がくどくこびりついていた。もしこれを聞くことができたり、見ることが出来たりしてしまう邪魔な能力が人々にあったとしたら飽き飽きするほどの論争が起きるかも知れない。もしくは人々がどれほど他人に対して思いの外無関心であることが露呈するのではないだろうか。

       
 西暦2046年8月13日、轟シン五歳の誕生日。曖昧さが雑じりつつも忘れられないシンの記憶。
 この時、シンの父、陽光(ようこう)は三十四歳。母、真珠は二十八歳。この三人の家族は名古屋からリニア新幹線に乗り東京へと向かっていた。
 リニア新幹線“みらい”の小振りな窓へ張り付くようにして外を眺めているシン。その目は見事などんぐり(まなこ)で無邪気さと純真さを持つ子供そのものであった。そのシンに覆い被さるようにして外を眺める陽光は特徴的な低いしゃがれ声で演説でもしているかのような大声で言った。
「丁度俺が高校の時にこいつが出来てよぉ、修学旅行で東京まで行ったっけなぁー!」
 陽光の大声に(いぶか)しげな表情を露骨に作る真珠。そして窓の外の景色は勿論のこと自分の息子の無邪気で愛らしい姿にも興味の片鱗を見せることなく溜め息を出し、腕組をしたままレインドロップスタイルの茶色いサングラスの中の目は閉じていた。
 ワクワク感一杯だったこの時のシンには自分がお母さんと呼んでいたこの人物の内的感情は知る訳も無い。だから無邪気な子供であり、子供は無邪気なのである。しかし無邪気さとは裏腹と言える、自分の『お父さんとお母さんの仲は良くない』『タロウくんやミキちゃんのところとは違うんだ』ということは確実に理解し、それを口にすることは子供として不利な立場になることを感覚的に悟っていた。それがこの頃のシンであった。
 そのシンはハンドルを握って車を運転する動作をしながら陽気に歌っている。
「リニア・モーターカー♪ リニア・モーターカー♪」
 それを聞いた陽光はニッコリ満面の笑顔で言う。
「お、懐かしいCMソングだがや。平成おばさんアイドル3人組でやってたやつだろ?」
「もう、大きな声出さないでよ。だいたい、なんであんた朝から酒臭いのよ?」
 父と子のやりとりに容赦なく無常な言葉を差し込む真珠。真珠の呆れ顔はサングラスの中だ。それに対し陽光は真珠の横顔へ言う。
「これから遊びに行く時にそんなキンキンカリカリ声でつまんねぇ事言うんじゃねぇよ。つまんねぇ女だなぁ」
 車両内に響くほどの声で諭す陽光であるが酒臭いのは事実であったし、非常識と周りからも非難される態度でもあった。しかしまたそれに対し「あなたの常識が欠けてるからよ」と真珠が言えば「常識があったら俺はここにいねぇえっつぅーの」と返す陽光。売り言葉に買い言葉。その予想通りの返事と自分自身の対応に真珠は可笑しくなり「ふ……そうね」とだけ言ってショルダーバッグからイヤホンを取り出し外界を遮断した。

 真夏の突き刺す光が眩しい快晴の下、リニア新幹線“みらい”の窓からは軽快に流れていく風景が映し出されている。それは人々の群れが生活する街から町へと続き、次第に人々の腹を満たすものが生まれる田畑へと変化していく。そして人をも寄せ付けないような神々しい山々へと。それらの風景は五才のシンには大海そのもののような広大な新世界、別世界に映ってみえた。
 その中でもシンを釘付けにさせ心打つほどの景色は、シンの目いっぱいに入った富士山だった。
「うわぁ、でっかい山! きれい!」
 シンと同様にその景色を見て感動した陽光も思わず声が出る。もちろんイヤホンで音楽を聴いていた真珠にまで聞こえる音量でだ。
「おおー、ひっさしぶりに見るフジヤマだぜぇ。いいねぇー。なぁ、シン。男はよぉ、どんな時でもああいう風に、デーンと構えてなきゃいけないんだぞ」
 そう言って陽光はシンの小さな肩を優しく掴むとカクカクと揺らした。シンは少し頭がクラっとして一瞬止めて欲しいという気持ちが沸いたものの、肩から伝わってくる父親の熱さが“これは我慢しなくちゃ”と無意識に思った。
「あ、またトンネル……」
 二人の目の前は暗くなり、父と子の間を繋いでいた富士山が目の前から消えた。
 しかし数秒も経たずに再び二人の前に富士山が現れた。シンの目には実物その物を見ている事にしか思えないその景色は衛星映像を元に作られたCG映像である。
「リニアは景色が楽しめねぇから、つまんねぇなぁ。やっぱ何でも生の方がいいぜ。なぁ、真珠さんよぉ。別に“のぞみ”ちゃん(新幹線)でよかったんじゃねぇの? リニア高ぇし」
 孤立を決め込んでいた真珠へ周りの目など構うこと無く大声で話かける陽光。
「早く着くからリニアの方がいいのよ。それに早く着けばそれだけ長い時間向こうで遊べるでしょ?」と真珠は独り言でも言っているかの様な調子で淡々と渋々応えた。だがその真珠の態度をいちいち気にする陽光ではない。シンから体を離すと自分も真珠のようにリクライニングシートに体を預けて続けた。
「まあ、そりゃそうだけどな。しかし気前がいいなぁ、お前の奢りとは」と変わりなく大声で口にする陽光。
「アンタはケチだからそうでもしなくちゃ遠出なんてできないでしょ」 
「倹約家と呼んでくれよ」
「全部、女と酒に使って私達のところにはろくに回って来やしないじゃないの」
「何を見たようなこと言いやがって」
 淡々と言葉を発していたはずの真珠だが簡単に陽光のペースに乗せられてしまい言葉の汚れ具合と声量が増していた。
 こういった自分の状態の悪化の原因はすべて陽光にあり、そして若き日の陽光へ一時の安息のために心と体を委ねてしまった過去の自分をすべてかき消し去りたいという思いだけに真珠の心は満たされてしまっていた。
 そのせいでこの空間にいることに息苦しさを感じていた真珠は化粧室の入室ランプが消えるのを確認すると黙ったまま立ち上がり化粧室へと向かった。
「なんだ、しっこか?」
(ったく……)
 陽光の品のない言葉が真珠の耳に掛かり口を開きかけたが、それに反射することの繰り返しが自分の弱さなんだと自分へ言い聞かせた。そして真珠は知的で懐深く能動的に自分を愛してくれるカイルの元へと向かう事だけを胸に秘めていたのだった。

 真珠は化粧室へ入ると今まで汚染された空気を吸い続けていたものを浄化するために大きく三回深呼吸した。そしてショルダーバッグから手のひらほどのコンパクトスタイル・スマートフォンを取り出し彼からのボイスメールを確認した。

 彼女が東京行きを言い出した理由はここにあった――

第2話 非家族的食卓

 発信日時 2046年8月13日 月曜日 午前8時33分
 発信元 Kyle Chandler
『おはよう真珠。君からのメールの予定通りなら今頃はリニアの中かな? 僕は今起きたところだよ。何だか昨日は落ち着かなくてなかなか寝つけ無かったんだ。今夜は食事の後、ひとまず君との暮らしに必要なものを一緒に買いに行こう。真珠の好みはある程度解っているつもりだけれどまだ少し自信が無くてね。ははは。でも目星はつけてあるんだ。じゃあ、今夜。またメールするよ』
 イヤホンを通して真珠の耳に響く低くまろやかながらも爽やかさを感じる声。青年という言葉がしっくり来る男。紳士的な振る舞いにもまったく嫌味がなく自分と同い年の男とは思い難い品格ある男として真珠はカイルを捉えていた。それは陽光との比較によるものも大きいとは思うが、それを差し引いても真珠にとっては自分にふさわしい男だと決め付けていた。それはかつて学生時代に男子達から黒真珠とあだ名され持てはやされた若き日のプライドが呼び覚まされているせいかもしれない……

 時は移り今から二ヶ月前。久振りに陽光と真珠そしてシンの三人で夕食を家で迎えた時だった。
「シンの誕生日なんだけれど、ディズニーリゾートでしない?」
 真珠は柔らかい口調と朗らかな表情で陽光へ問いかけた。明らかな媚びだ。
「藪から棒かい。なんでわざわざそんな遠くてめんどくせぇとこまで行く?」
 自分の気持ちに寸分気遣うことなく応える陽光の言いぐさに真珠は媚び声と表情を瞬時に吹き飛ばし刺々しく言い放った。
「すぐ何でも『面倒くさい』だわねっ! ほら、シンは喜んでるじゃない」
 真珠は陽光の隣に座るシンを(あご)で指して言った。そのシンはと言うと、目を丸くしてぽっかり口を開けて真珠と陽光の顔を代わる代わる見ている。
 シンを見て陽光は「この顔は意味不明の顔だろ」と言ってバカ笑いした。その陽光の態度に真珠は顔をしかめるも陽光の見方もあながちではないと思いすぐさま自分の提案に同意させるためにシンを見やった。
 シンの気持ちはというと真珠の意に反することであろうが陽光の言ったことの方に近く、その時のシンの心内(こころうち)は「ディズニーリゾート? めんどうくさい?」であった。
「ディズニーリゾートってナニ?」
 シンは真珠に聞いた。が、真珠が口を開く前に陽光の言葉が入った。
「だろ? 女じゃねぇんだからあんなチャラついた所に興味ねぇんだよ」
「あなたがちっとも遊びに連れて行ってあげないから知らないのよ」
「何言ってんだ。そういうお遊戯関係はお前の仕事だろ。俺は運んでくるもん運んでんだからいちいちグチグチ言うんじゃねぇよ、田分け。だいたいそんなもんだったらわざわざ東京まで行かなくてもナガシマでいいじゃねぇか。俺が車出してやるよ」
 大人の男と女の醜い言い争いを聞かされているシンだが、この会話の中から自分に必要な情報だけを聞き分け推理すると飛び出す様な勢いで声をあげた。
「ゆうえんち!?」
 シンは以前、真珠に連れられて真珠の友人数人と一度ナガシマスパーランドへ行った記憶が残っていたからそう推理したのだ。しかしこの時は太平洋と濃尾平野が一望できる大観覧車に乗っただけで、あとは手を引っ張られて大人の壁の迷路を連れ回された記憶しかない。真珠達はアウトレットモールでのショッピングの方に夢中だったからだ。今度は遊園地内で目にした見たこともない恐ろしく大きくて動いて回る乗り物や他の子達が乗っていた自分で動かせるクルマに乗れるんじゃないかという期待感が無意識にシンの気持ちを興奮させた。
「お、ほれ。シンもナガシマが良いってよ」
 シンの反応に弾むように言った陽光。それを無視してシンの説得に励むは真珠。
「シン、ディズニーリゾートはね、もーっと広くて今まで見たことないものがいーっぱいあるのよ。ミッキーマウスや白雪姫もいるし」
 真珠はシンにグッと近づいてオーバーアクションまで付けて言うとシンはその言葉に「ホント!?」と笑顔で聞き返した。シンは自分の想像が実現するかと思うと一層ワクワクした。
「ナガシマで十分だがや。ナガシマにはアンパンマンがいるぜ、シン。それに天然温泉があるしよぉ。お、そうだよ。温泉があるじゃねぇか。温泉でのんびりっていうのも悪くないんじゃないの? 家族風呂でゆっくりっていうのはどうだい? 真珠さん。ひっさしぶりに? シンがデカくなるともうできねぇだろ?」
 相手の気持ちや周囲の状況など考えた事もない男。むしろ相手を挑発して楽しんでいるかのような喋りっぷりをして自分を苛立たせる男。真珠は夫と呼ぶには恥ずかしいこの男とまともな会話を最近した覚えがない。抱き合うなどもっての外だ。陽光の話に聞く耳を持たずにシンへと話し続ける。
「リニア新幹線にも乗れるのよ?」
「リニア・モーターカー!?」
「そう、シンの大好きなリニア・モーターカー」
「リニアって、オマエ、俺にそんな金ねぇぞ」
「この子の前でそういうの止めてもらえる? いいわよ、私が払うから」
「なんだ、そんな余裕があるんだったら来月分の生活費は無しってことで頼むわ。ちょっとここのところ余裕無くてなぁ」
 陽光の無責任でだらしない物言いに真珠はキレた。
「何言ってるのよっ! とにかくこの子の前でそういうことを言わないでくれる?」
 “家族の食卓”という空間を見事な金切り声で切り裂いた。その瞬間、シンは肩をすぼめ耳を手の平で塞いだ。陽光もシンと同じ動作をした。シンの方は目をしっかりと閉じている。そしてシンと陽光の二人は耳を塞いだまま顔を向け合い目を合わせると二人揃ってニヤリとした。
 真珠は二人の動作の意味など気にかけることもなく、すでにシンの前でキレた自分をどこかへ捨てた状態でシンへ選択を迫った。
「シンはどっちがいい?」
「リニア・モーターカー」
 シンは即答した。
「リニア見るくらい金城ふ頭の鉄道館で良いがや。俺もガキのころ親父に連れられてそういや行ったわ。面白れぇぞ。よしっ今度連れってってやる」
 陽光は陽光でシンを自分側につけようと躍起だ。
「いつ?」
 シンは自分の父親は約束しても守らないことを無意識でよく理解していた。だから反射的に確約のために日時を決めるよう陽光に迫った。
 息子に見透かされていることを知らない陽光はズボンのポケットからスマートフォンを抜き出し予定表を見て応える。
「うーん、来週の日曜の午後はどうよ?」
 それに対して「ホント?」としっかり確認をとるのが当然のシン。
 それに対して「また連絡するわ」と曖昧なまま締めるのが当然の陽光。
 それに対して「本当に実現するのかしら」と嫌味たっぷりで真珠は言った。

 そして結果は真珠の思った通りで、シンとの約束はリニア新幹線の玩具で誤魔化し、東京行きには賛同してついて来た。
(現金な男…… 言動も行動も安易に読める陳腐な男……)
 真珠の思惑通りに事が運び、自分の身を轟家から抜け出す準備はこうして整った。

 この時の記憶を元に思考するシン――

 親父とお袋の会話。いつも罵りあい。
 明るい家庭。明るい食卓。笑顔のある風景。
 家族三人揃っている時間はわずか一、二時間程度のことなのに……

 夫婦円満、家庭円満。父親と母親の間で子供の手を取って歩いている姿を見て不思議だった。

 俺にとって家族という括りが未だに理解できずにいる。

第3話 親心。子心。

 真珠は今から一年ほど前、カイルと知り合った頃から外出時には色の濃いレンズを持った大きなサングラスをつけるようになっていた。それは陽光に感情を引きずられ自分を見失わないために。そして冷静でいながらもカイルに対する乙女心的ときめきを周囲に悟られないために。そして醜い男を直視しないで済むようにと。
 しかし真珠は今日のような出来事が起きる度にサングラスをしていても周囲の目が気になって仕方なかった。陽光にのせられヒステリックになってしまう自分をも見世物になっているかのようで。しかしそれもあと半日で終わらせることができる。そう思うと真珠は自然に笑みがこぼれると共にサングラスの中の瞳は潤んだ。

 化粧室で独り思い馳せる真珠。この時そんな事など知ること無く息子のシンと戯れているのが陽光であった。

            *

 シン達を乗せたリニア新幹線“みらい”は東京都心部へと近づき速度が新幹線並みの巡行速度になっていた頃、シンを釘付けにしてきた窓からの景色は超高層ビルの数々が建ち並び、真夏の太陽の光をやかましいほど反射させ輝き放つ世界へと変わっていた。この首都東京を象徴する眩しい世界にシンはアニメの世界に自分が入り込んでいるかのようで、ひとつひとつ目新しいものを見つけるたびに「わぁ」「おおぉ」と感嘆の声を上げていた。
「しかし東京っちゅう所は窮屈だなあ。アホみたいに高いビルばっか並んでよぉ。しかもこんな線路沿いにマンションかよ。住んでるヤツらの気が知れねぇわ」
 と陽光が言う『気が知れないヤツら』が住んでいる線路沿いのマンションの一つにカイルの家はあった。真珠は横目で見苦しい陽光の頭越しに窓の外を見ていた。そしてカイルの住むレンガ色をした高層マンションを見つけると静かに目を閉じた。
(もう少しの辛抱だ……)
 真珠の胸の内には陽光は勿論のこと息子の存在などなく、完全に独りの女と化していた。目を閉じているとマンションからの瞬く夜景とカイルとの甘く濃厚に過ごした時間がフラッシュバックする。

 明日の私は新しい自分になっている――
 もう過ぎた過去の自分は自分じゃない――

 シンが窓に貼りついて見ていた東京の街並みがトンネルに入り消されると今までのCGによる景色とは変わり、東京観光案内の映像と乗り換え案内の情報が現れた。そして車内アナウンスが流れた。
『本日はJR東海リニア中央新幹線をご利用いただだきまして有難うございました。間もなく終点、品川へと到着致します。東京方面へ向かわれる方は……』
「ここで乗り換えるのかい?」
「そうよ」
「やっぱ面倒くせぇな」
 陽光のこの言葉をきっかけに真珠は下車の準備を黙って始めた。
 今回は一泊二日の旅行という事になっている。普段なら一泊二日といえども比較的大きめでゆとりのある旅行鞄を用意している真珠だが今回は日帰り旅行並みの手持ち鞄である。実のところ、この手持ち鞄の中身は陽光とシンの着替えのみである。真珠は必要最低限の化粧道具や貴重品だけをショルダーバックへ詰め込んで持ってきており、服や宝飾品など自分のものはすでに宅急便を使ってカイルの家へと送っていた。
 そしてさきほどの陽光の独り言扱いされていた言葉にシンが応えた。
「ぼく、めんどうくさくないよ。つぎはどんな電車に乗るの?」
「ここからはね、電車じゃなくてバスよ。シャトルバス」
 真珠は言葉こそ柔らかいが口調は単調で5歳児向けとは思えない淡白さでシンの質問に答えた。
「うわぁぁ!」
 シンは真珠の口調を気にすることなく声になっていないような声で驚きを表した。
 リニア新幹線からの景色や車内販売のお姉さんから父親が買ってくれたアイスクリーム(ただし半分以上陽光の口へ)と初体験続きの中、今度はシャトルバスに乗れると言うのだ。いきんだ声でシンは聞いた。
「シャトルバスって飛ぶんでしょ?」
「んな訳ないだろ。バスが飛んだら怖いぜ」
 笑って応える陽光。それに対してシンは興奮の勢いは保ちつつも残念気味に聞き返した。
「スペースシャトルは飛ぶでしょ?」
「お前、よくそんなモン知ってるなあ」
「テレビで見たよ。お空へ高く高く飛んで行っちゃうんでしょ?」
「あれは俺が生まれるとっくの昔にお払い箱になっとるわ。シン。宇宙なんて行ったってどうしようもないぜ。人間っちゅうのはそんなところで生きるように造られてねえからよぉ。あんなもん無駄だ。ムダムダ」
 陽光の語る話に耳を傾けていた真珠。夢を大げさに語る男は幼稚で、夢を現実的に実現に向け実直に語る男には魅力を感じていた真珠だが、陽光はもちろん前者に当てはまる。若い時はそんな男も男らしく見え、実際彼はヘヴィ・ワーカーでも最も大きいモンスタークラスを操る日本でも数少ない人材だと言うことは知っている。しかし真珠にとって所詮土木工事は土木工事で、そこでバカでかいオモチャを操っているだけにしか思っていない。そんなオモチャを操っているだけの男が人間がどうのこうのと哲学じみたことを語ることは常に片腹痛くなるばかりであった。

 リニア新幹線“みらい”は終点品川駅のホームへと優雅に進入する。薄青みがかかった純白を基調とした車体にヘッドライトからサイドへと伸びている深い青紫色のラインで飾られた流麗な車体は品格をも感じる。それを見たいがためにカメラ片手に集まる人も多い。
 そして今日は盆休みシーズンということもあり普段に増して人が溢れかえっているプラットホーム。窓に映ったその人々を見て陽光は叫ぶ。
「おいおい、なんだこの人間の束はっ!?」
「お盆だもの、混んでて当然よ。名古屋もいっぱいだったじゃない。今さら何言ってんのよ。ほらシン、降りるわよ」
 半ば義務的に応える真珠は窓に張り付いていたシンの肩を掴んで窓からシンを剥がした。
 そんな母親の態度や行動に慣れているのはもちろん、シンの耳にはこの両親の痛いほど冷えた会話も聞こえていない。今はこの先に待ち構えている大冒険に対する気持ちでいっぱいだ。

 品川駅のホームにはリニア新幹線の中から見えていた以上に人々でごった返していた。轟家のような小さい子供を連れた家族もよく目立つ。
 この頃のシンはこの人ごみ溢れる空間は嫌いでは無かった。しかし不思議に思う事があった。

 ――なんでみんな笑ってるんだろ?
 ――なんであの子達はお父さんやお母さんと手をつないで歩いてるんだろう?

 この頃のシンには目に付いた家族連れすべてが不思議であった。自分がそれをお父さんやお母さんに言わないからだろうか? そういった疑問として浮かび上がって来たのは小学生になってから。そしてそれが(ひが)みや(うらや)みというものだと気づいたのはシンが変声期を迎えようとした頃の事だ。

 そんなシンの疑問はシンの頭の中にぼんやりと浮かび上がるだけのもので、表情や態度に表すことは無かった。そのせいなのだろうか? 真珠はシンの手首を掴んで歩く癖があった。今もシンは真珠に手首を捕まれた状態でリニア新幹線から降りて改札口へと向かって歩き始めていた。
 シン達がリニア新幹線の先頭車両の横を通り過ぎようとしていた時、シンはVサインを作ってリニア新幹線を背景にして写真を撮ってもらっている子を見つけた。
 お母さんと男の子が並んでお父さんがカメラ片手に「撮るぞぉ。もっとにぃーって笑って!」なんて言っている。その言葉にお母さんはしゃがみ込んで男の子と顔をくっつけるようにして楽しそうな顔をしている。すごい笑い顔。シンはお父さんとお母さんと三人でいる時には母親の笑い顔というものを見たこと無かった。笑っているときといえばテレビを観ている時か真珠の友達といる時ぐらいだ。

(何があんなに楽しんだろ?)

第4話 父の陽光。母の真珠。

 轟一家は品川駅からディズニーリゾート直行シャトルバスに乗り換えた。すべては真珠の計画通りだ。後は現地で適当に時間を潰し、夕方適当なところで二人とはぐれて終わり。

 家族の一人がいきなり消息不明になれば普通世間では事故か誘拐かと家族親戚は大騒ぎするかも知れないが真珠にそれはないと100%を越えるほどの自信があった。

 真珠は母親に育てられ父親は物心ついた時からいなかった。そして真珠が成人し働きに出るようになってからすぐに母親は男を連れ込み同居させた。年頃の娘の存在を気にかけることの無い行動をとる陰気で嫌な男で、その男を今更父親として認める気にもなれず、男の見る目の無い自分の母親が情けなく真珠は早々に息苦しい家を出た。それから一度も連絡を取っていないし、あちら側からもない。
 陽光自身も真珠の存在をどうとも思っていないのは分かっている。家政婦か子供のお守り係くらい。月に一、二度しか家に返ってこないような男が外でまともなことをやっているとは考えられない。
 そんな男との間に子ができ、婚姻関係を結んでしまった自分もまた母親の血を引き継いだセンスのない女だとつくづく思っていた。しかしまだ自分には未来がある。時間はある。そう強く思い生きていれば活路に出会うものなんだともつくづく思っていた。

 盆休み真っ只中のディズニーリゾートは説明不要の人だかりだ。
「こいつはまさに芋洗い状態だなぁ」
 面倒臭そうな口調で言う陽光だが顔は喜びひとしおで朝の雰囲気とは違っていた。酒もすっかり抜け陽光的華々しい充足感を味わう。
「やっぱ若ぇ女が多いのぉぉ」
 鼻の下を伸ばすという言葉は遥か昔から彼のような男が必ずどこかしらに存在していたから定着した表現だろう。
 陽光はそんな表情で何かを物色しているかのように辺りを見回しながら歩いている。そしてシンは陽光の肩の上だ。
「お父さん、恥ずかしいから降ろして」
「何言ってんだ。こんな人混みの中でお前を普通に連れて歩いてたらすぐ遭難だ。首輪に紐つけられるよりは良いだろ?」
 身長175センチの陽光に肩車されたシンの姿は人の群れの中でも際立ってよく目立つ。時折すれ違う西洋人からは笑顔で握手を求められシンは困惑していた。陽光はというと肌の色が違う人種の人達には何でも「ハローハロー」と大声で応えていた。もちろん真珠はその超旧世代的な対応をしている陽光に相変わらず呆れていた。
 今になっても思い出すこの時のシンの気持ちは恥ずかしくも楽しく、優しい父親として陽光のことを素直に感じていた。シンにとってはむしろこの賑やかで楽しい雰囲気の中でピリピリとした険しい表情をしている母親のことが不思議であったし、嫌いであった。
 しかしそういう母親が意外な行動をとった時もあった。
「あ、お母さん! ドナルドだよっ!」
 シンは陽光の肩車のおかげで遠くまで見通せる。人だかりの向こう側にドナルドダックの着ぐるみを見つけた。そして陽光はシンを肩車したまま人だかりを掻き分けドナルドダックへと近づいた。その時の真珠は陽光を避けるような仕草は消え、陽光の後ろでウキウキしながら張り付くようにしてついていった。
 実は真珠は『ミッキーよりもドナルドダックがだーい好きっ!』なのだ。真珠の性格ではずかずかと人垣を掻き分けて入っていくことができる勇気はない。ここは陽光の活躍を利用して大接近する。
 大勢の人たちに囲まれたドナルドダックとグーフィーの着ぐるみ。二人がひとつポーズを作るたび、いちいち女性たちの黄色い声が響く。
「おお、モテモテじゃねぇか。着ぐるみのくせに」と難癖付ける陽光。
 その陽光と一緒にいること自体に嫌気が差していた真珠であったが、ここでは今日一番と言って良いだろう柔らかい声で陽光へと呟いた。
「写真を一緒に撮ってもらおうよ」
 それを耳にした陽光はすぐさま叫んだ。
「おおぃ! ウチらと一緒に撮ってくれぇぇ!」
 陽光の低くしゃがれた声が黄色い声を見事に引き裂きドナルドダックたちとその横にいたサポート役の女性の視線を一気に引き付けた。
 その視線を確認すると陽光は女性に向かって両手を大きく振る。その上にいるシンも陽光と同じように両手を振ってアピールする。
 女性スタッフはシンの必死で可愛らしいアピールを見つけると手を振ってこちらへ来るようにと促した。
(やった! やっぱりこういう時は図々しさと子供の愛嬌は武器になるわね)と真珠は思いつつ「すみませーん」と口にしながら小走りで陽光を追い抜きドナルドダックへと近づいた。
「ほら、あなた。これで撮って」
 真珠はスマートフォンを持った手を伸ばし陽光に向かって言った。
「あ、いいですよ。私が撮りますから」
 それを見て女性スタッフはすがすがしい笑顔を見せて言った。
「いいですか? すみません」
 と遠慮気味に言って真珠は女性スタッフにスマートフォンを手渡す。
 がしかし、(余分なものが入る……)というのが真珠の真意だ。そこで「シン、ほら降りて。一緒に並んで撮りましょ」とシンと陽光を離して後で陽光の映っているところを切り取ることにしようとした。
「うん」と素直に真珠へ従うシン。
「おう、そうだな。それにちょっと疲れたわ」
 と言って陽光はシンを軽々と持ち上げ肩から下ろした。
 女性スタッフは着ぐるみ達と轟家族を位置につかせると、「撮りますよぉ! 一緒にぃ! せいの、ハッピィ!」とボタンを押した。そして心地よい発声に合わせて笑顔を作る三人。立ち位置はドナルドダック、陽光、そしてシンをはさんで真珠とグーフィー。なぜか真珠の意思と反してドナルドダックが陽光の方にいる。おかげで真珠は笑顔でいたくても笑顔になりきれずにいる。
「ありがとうぉーっ! 姉ちゃんっ! そしてこの暑い中ご苦労さんよ、中の人!」
 そう大声で言いながら着ぐるみの二人をポンポンと叩く。陽光の言葉を受けて二人の着ぐるみは額の汗をぬぐう動作をしてからガッツポーズを作った。
「またまたぁー、ムリしちゃってー。熱中症には注意しろよ。俺も外で働いてるからよ、辛さ分かるぜ」
 とまた大声で言って陽光は着ぐるみ達にサムアップを見せた。
 陽光が着ぐるみへ語りかけている間に真珠はそっと女性スタッフへ近づき言った。
「あのぉ、すみません……。私とドナルドで撮ってもらえませんか?」
「はい。じゃあ」と快く女性スタッフは真珠のわがままを聞き入れ再びスマートフォンを手にした。
「やった」
 と思わず声を出すと同時に小さく飛び上がり真珠は我を忘れて「きゃあーっ」と言いながらパタパタと小走りでドナルドダックへ大きく手を広げて抱きついた。
 どうしても家族写真というスタイルが我慢できずに口に出たことだったが結果満足いく写真が撮れていた。真珠はそれを確認するとその前に写っていた写真は即座に削除した。

 今回の行程はすべて真珠が決めた。彼女の動機からしても当然であるが陽光は思いつきで行動する人間なので手早く事を成すが無駄も多い。そして何よりシンが生まれてからはまともな宿泊旅行はない。と言っても今回も形だけの宿泊旅行だが。
 真珠は少しでもアトラクションは楽しんでおきたいと思い、あらかじめ入場と同時にアトラクションの予約を入れておいた。しかしそれでも最初のアトラクションまで1時間弱の待ちがあった。
 真珠は陽光がグチグチ言うんじゃないかと内心思っていたが、陽光はそれにはケチつけることなく真珠が気づかないうちに買っていたポップコーンを頬張りながらまわりにいる若い女性をサンプルにしてシンヘイイ女の見分け方を教えてやると言って能天気な独り言を喋っていた。五歳になったばかりのシンには全く意味が分からず父親の言うことに頷くだけであるのに。
 そして真珠はというと、アトラクションを楽しみにしていたはずなのだが、やはり自分の望む人と一緒に楽しむことで本当の楽しみが得られるものなんだとここへ来て改めて認識し、ドナルドダックと別れてからはさっきの嬉しさの反動か余計に陽光といることにつまらなさを感じた。そしてカイルの事を思うばかりだ。

――彼だったらどんなことを言うのだろうか?
――彼だったらどんな表情をするのだろうか?

 真珠はその気持ちをそのままカイルへとメールで送った。カイルはきっと家で仕事に熱中している頃だろう。邪魔するのはよくないと思いながらも気持ちを文字に表し送信するだけでも気持ちは安らぐ。

 シンたちは真珠の手際良いアトラクションのコース設定と予約で最初のアトラクションだけは待ったがその後はスムースにいくつものアトラクションを楽しんだ。と言っても、楽しんだのは陽光とシンの二人だけで真珠は二人を見送り出口で待つことのほうが多かった。理由はもう述べる必要はないだろう。
「真珠さんよう、お前がここが良いって言ってわざわざ来たのに全然楽しんでねぇなあ。少しはシンのことも考えてやれよ」
 飽きもせずまた別のポップコーンを買って頬張っている陽光。そして陽光とシンの頭にはミッキーの耳が。真珠の思った通り陽光は来る前はぐだぐだと言っていたものの、結局は誰よりも一番楽しんでいる。
 彼の良いところはこういった場では明るく賑やかで楽しみを膨らましてくれるところだ。しかし真珠として鼻につくのが明るく振る舞うのはいいが普段はまともにシンの面倒をみない男が父親ぶってシンのことを気遣う言葉を口にすることだ。
「ごめんなさい。ちょっと歩き疲れたみたいで」
 心にもないことを言う真珠。カイルとの約束の時間が刻々と近づいて来ていることからの余裕が生み出しているからだろう。
 単純と言っていい陽光は「そうか」と言って簡単に納得した。そして続けて「そうだ。時間早いけど飯にしようぜ。休憩がてらに。なぁ真珠さん?」
 と陽光は気を使って言ってくれているかのように思い素人は騙される。相手の意思を聞いているようで実際はもう自分の中で決めたことが絶対でこっちが何を言おうが変わらない。昔でいう亭主関白。
 という真珠の胸の内通り、真珠が返事を返す間もなく「お、ちょうどあそこに飯屋があるがや」と言ってさっさと店へとシンを連れて行ってしまった。

第5話 欠落

 陽光が見つけて入ったレストランは夕時のピークからまだ遠い時間だったこともあり待つことなく三人は座ることができた。
「喉渇いたな。ビールでも飲もうぜ」
「いいわよ。私は遠慮しとくけど」
「なんだ、気味悪ぃなぁ。ここはいつもなら『あんた馬鹿じゃない?』だろ? よっぽど疲れてんだなぁ。ここは俺が出すから真珠さんは好きなもんたらふく食べてちょ」
 そう言いながら陽光はテーブルの天板に映し出されているメニュー画面を手のひらでフリップさせ品定めしている。その脇でシンは陽光がさっさとメニューを切り替えていく画面に合わせて目をぱちぱちさせて自分の食べたい物を探す。
「ぼく、これ」
 セットメニューの画面になったところでかるた遊びのようにシンは小さな手をトンとのせた。するとシンの触れたメニューの部分が大きくなり明るい女の子の声で『今日の人気度は2位のキッズランチだよ! 今なら選べるディズニーキャラクターのキーホルダーがついてくるよ!』とテーブルから聞こえた。
「やっぱお子さまにはお子さまランチがお似合いだわな。よっ、お姉ちゃん。大人さまランチはないのかい?」
 ちょうどそこへ水を運んできた30才前後(陽光による推定)のウェイトレスへ陽光はしゃがれ声を飛ばした。陽光の声に少し目を広げ驚き表したウェイトレスだったが、グラスを品よく静かに置きつつ軽い笑顔を作って陽光へ丁寧に応えた。
「申し訳ありません。そういったものは用意いたしておりませんが、この辺りのセットメニューが大人の特に男性の方に人気がございますが」
 ウェイトレスはテーブルの上で手のひらをしなやかに動かし肉類をメインとしたメニュー画面へと切り替えた。
「おお、ガッツリとステーキいっちゃうか。俺、このサーロインのセットで。あと焼きはレアでね。血がぶぁーって感じの」
 陽光は両手を広げ目をも剥きだすド派手なアクションで言ったものの30才前後(陽光による推定)のウェイトレスはゲスト向けスマイルを作るだけで冷静に答えた。
「申し訳ありません。この時期安全上当店ではミディアム以上の焼き加減しか対応いたしておりません。ですからミディアムでいかがでしょうか?」
「そっか。姉ちゃんが言うなら仕方ねえな。じゃそれで」
「はい。ではアメリカ産サーロインステーキのセット。ミディアムで。ライスとパンが選べますがどちらがよろしいですか?」
「もちろん米で」
「はい、ではライスで。あとお飲み物は?」
「アイスコーヒーを食後で。ブラックでいいわ」
「承知いたしました。坊っちゃんはキッズランチセットで良いですか?」
 ウェイトレスは前かがみになりシンと目線の高さを合わせて聞いた。するとシンは「坊っちゃんなんて言うほどのものじゃないです」と妙な落ち着きで応えた。その意表をついた応えに陽光はガハハと大笑いし、シンの可愛らしい声と真顔の受け答えにウェイトレスはメニューシートで口を覆ってくすくすと笑った。
「シン。楽しいこと言ってくれるねぇ。そうだわな。ウチはそんな品の良いところじゃねえからな」としゃがれ声で大笑いする陽光。正面に座る真珠は陽光の話に口を閉じたまま言う。
(品がないのはアンタだけだ)
 真珠は表情一つ変えることなく頬づえをついて暇つぶしでもしているかのようにメニュー画面をフリップさせている。
「じゃあシンくんでいいかな?」
 ウェイトレスは笑いを沈めつつ手にしていたフィルムノートタイプ(フィルム型電子端末)のメニューシートを一枚めくりシンに向けて見せた。そしてその画面の上に表示されていたミッキーマウスのロゴマークを指先で軽く触れるとフィルムノートの前にミッキーマウスやスティッチ、そしてドナルドダックといったキャラクターのキーチェーンの立体映像が現れた。
「オマケはどれが良いですか? シンくん?」
 シンに顔を近づけまろやかな声で聞くウェイトレスに陽光がしゃがれ声で口をはさむ。
「俺はお姉ちゃんが良いな」
 それを耳にしたウェイトレスは間髪入れずに「それはできません」と冷ややかぎみに応えた。手慣れた感じだ。しかしそこへシンが「じゃ僕もお姉ちゃん!」と言うと、その愛嬌ある元気な言い方にウェイトレスは思わず大声で笑ってしまった。
「息子よ。見事だぞ。そうやって女の笑顔を引き出すんだ。今のお前は可愛さが武器だからな。自分をよく知って使えるものはガッチリ使わんといかん」
 陽光はシンの頭をポンポン叩きながら言った。
 そこでウェイトレスは「奥様に叱られますよ」と真珠へと顔を向け「奥様はお決まりでしょうか?」と話の空気を入れ換える。
「おう、真珠さんは決まったかい?」
「私はスパークリング・アイスティーを」
 相変わらずの事だけに真珠は笑う訳でも怒る訳でもなく静かに応えた。ウェイトレスからは良からぬ夫婦関係だなと推察されていることは明瞭であるが今さらここで芝居をする気はもうない。

 料理がやってくるとシンと陽光は互いに分けあい食事を楽しむ中、真珠は時折ストローに口をつけてはスマートフォンばかり眺めていた。陽光は特段その行動は気にはしていなかったがステーキを頬張りながら真珠へ話しかけた。
「なぁ、真珠さん。ホントに飯食わなくてもいいのかい?」
「ん? ええ。……美味しい?」
「おお、でらウマだぜ。やっぱ肉はアメリカものだな。どうだ一口?」
 陽光は一口大に切った肉をフォークに刺して真珠の目の前に。
「いいわよ」
 真珠はそれに目をやることなく、ぼんやり露骨な退屈顔でストローを回している。左手にはスマートフォンが握られたままだ。

 陽光は真珠に男がいることはとうの昔から知っていた。その相手が何処の誰かまでは知らないが。それに知ったところで別に自分の生活が変わるわけでもない。真珠が真珠でそれが幸せならそれで良い……などと言うほど深い考えあるわけでもないのが陽光の本意だ。分かりやすい話がとんとんであるから。それを知っていても知らぬふりで済ますわけである。
 お互いがそのような互いの都合の部分は理解しているため適度な距離感を今日(こんにち)まで維持してきた。正確には維持しているように見せてきた。
 誰に? 息子に。いや、その前に周囲の人々に、だ。言葉を交わさずとも真珠と陽光の意思が一致していたところである。
 では二人の関係が始まった頃はどうだったのだろう? そう考えてみるのは真珠で、昔の思いを引きずることなく現在(いま)だけを満喫するのが陽光だ。その組み合わせが二人の現状をまざまざと物語っている。

 真珠が疲れたからと言って入ったレストランでの食事時間であるわけだが、夫婦二人の行動に変化をみせることなく時間は流れ、約束通り陽光のIDクレジットで支払いを済ませると轟家は店を出た。
 外はもう陽が傾き周囲は華やかなイルミネーションで彩られ、よりファンタジックな世界と変化していた。
 そのファンタジックな世界に酔いしれる人々の群れは昼間と変わらずごった返している。この時期の夜は電飾パレードと合わせて盛大な打ち上げ花火が行われる。それを目的にナイトチケットで夕方から来る客も多いせいだ。

 そして今轟家がいる場所は真珠が抽選で当てた指定観覧席である。この区域一体だけには透明の屋根が取り付けられている。高さは20メートルを越える場所にあるためこの屋根があることに気づかない人もいる。昼間は紫外線カットや断熱効果に一役買い、雨の日には雨避けとなっている所謂アーケードなのだが、このアーケードには大事な役目がもう一つあった。それが夜のミュージカルだ。屋根全体がスクリーンとなり照明と映像が実際の夜空を背景にして非現実性の高い幻想空間を生み出す。それを観たいがために指定観覧席は競争率が非常に高い。
 それが何がそうさせたのか、いつかは観たいと思っていた真珠はダメ元で予約を入れておいたら取れてしまっていた。これを皮肉に感じた真珠であったが、それも今の彼女にはもうどうでも良い思いだ。パレードもミュージカルも。この溢れる人だかりに紛れ自分の姿を消す時が刻々と近づいていることだけに気持ちは向いている。

 午後7時。どこからか深く雄大に響く鐘の音がシンたちの耳に届いた。するとシンはもちろん陽光やパレードを待ちわびていた人々がざわつき始める。そして鐘の音は次第にゆったりとしたテンポとなってくるとそれに同調して周辺のイルミネーションの光が弱くなってく。それは日が沈んでいく様のように。そして最後の鐘の音の残響が消えると同時にイルミネーションが消え一瞬の闇ができた。
「おっ?」
 陽光や初めてこのショーを見るものたちがその闇に声を出すがその続きを言わせないかのようにすぐさま今度は陽が昇るかのごとくにふわりと明るさが舞い戻り、やがて昼間のような強い光がシンたちのいる観覧席一帯を包み込んだ。
 そして観客たちの歓声をもかき消す程の音量の音楽が園内に流れ始めるとともに、その音さえも割って入ってくる声になっていない悲鳴と言える声がシンたちのいる場所から遠く離れた別の場所から聞こえてきた。
「おお、なんだなんだ」
 陽光は声の方を見るものの人の頭ばかりしか見えない。
「ねえ、お父さん。あれ、ミッキーだよ」とシンは真正面へ指差した。
「お、いつの間に」
 シンが指差した先には巨大なスクリーンがセットされておりパレードの様子が写し出されていた。
 待ちに待ったパレードを陽光とシンはスクリーンを見ながら周りの客と一緒になって手拍子をして楽しんでいる。その二人の姿を横目で見る真珠。もう彼女の目には知人よりも遠い存在。ただの見知らぬ仲の良い親子のように映っていた。
 そこへ真珠の手に握られたスマートフォンが蛍のような柔らかい光を発しながらバイブレーションした。カイルからのメールだ。真珠は即座にスマートフォンのカバーを開き内容を確認する。そしてすぐカバーを閉じてショルダーバックへとしまう。
 真珠はその後パレードに興奮している陽光のかくばった横顔へ目をやると『ようやくお別れね』と呟いた。その声はもちろん観客の声とパレードの音で誰の耳にも入ることはない。そして無邪気な笑顔を見せているシンを見やった。
(シン。ごめんね。私はこういう人間なの。そしてあなたはこの私とコレの間に出来てしまった不幸な子……ごめんね。私は不本意な人生を続けるのが苦しすぎるの。ごめんねシン。私の事は忘れてちょうだい)
 真珠には愛する者との別れの寂しさ、苦しさといった心を締め付けるような感覚はなかった。この瞬間は悲しい時ではなく、目映いほどの明るい未来への第一歩として踏み出す人生の転機の瞬間であり、むしろ胸踊る瞬間であった。
 このシンの笑顔と呆れ返るほどのはしゃぎようを見せる陽光にここに連れて来たことは餞別として役にはたっただろう。
 真珠はそんな思いだけを残してこの場から消え去った――

 陽光とシンはパレードから花火とのコラボレーションミュージカルまでたっぷり堪能すると一旦人の少ない通りへと移動した。
「なんかつい俺まで夢中になっちまったがやぁ。やられたね、ただのお遊戯事と思って舐めとったわ」
 と言ったところで陽光の胃袋が大きな悲鳴をあげた。
「腹減ったなぁシン。シン、何が食いたい?」
「ラーメン!」とシンは即答する。
「おっ、いいねぇ。さすが俺の息子だ。ここまで来てラーメンが食いたいって言うのは俺とお前くらいだな。ラーメン食えるところはあるか? 真珠?」
 陽光は360度見渡す。
「お母さんいないよ」
 シンは陽光を見上げて言った。
「きっと便所だわ。そのうち連絡来るだろ。俺達はラーメン探しに行こうぜ」
「うん」
 陽光とシンはぶらぶら手を繋ぎながらさっきのパレードで覚えたミッキーの歌を陽光はでたらめに。シンは陽光の間違いを一つ一つ指摘しながら歩いて行く。

 陽光はコッテリした汁に分厚い焼豚がのったラーメンを求めていたがやはりここはディズニーだ。小綺麗で洒落たレストランやカフェばかり。陽光の望む現実的かつ庶民的なものは一切ない。
 遊び疲れていたこともあり陽光はラーメン屋探しを早々に諦め、園内にある真珠が予約しておいたホテルへ向かうことにした。そしてそこで見つけた中華料理店へ入ると腹を空かしていた陽光は目についたものを手当たり次第に頼み5、6人前はあったであろう分量を簡単に平らげた。

「お会計は1万6千860円になります」
「マジかよっ! そんなに食ったか? 臥龍園(がりゅうえん)だったら半分だぜ、きっと」
 陽光はそう言いながらも右手を出しIDクレジットで会計を簡単に済ませた。
「ああいう店はお品良くていかんな。一皿の量が少ねぇんだ」
「僕はちょうどよかった」
「だな。お子様向けだ。にしちゃあ、ぼったぐり価格にしか思えん」
 陽光は爪楊枝を口にシーシーやりながら店を出るとシンを引き連れてそのままエレベーターに乗って部屋へと向かった。

「しかし真珠のヤツ何やってんだ? テメェの旦那と息子を放り出して」
「電話してみたら?」
「おう」
 Tシャツにジーパンのみの陽光がパンツのポケットを一通り漁ったあとTシャツの胸までも撫で回しスマートフォンを探す。
「あれ? 俺、スマホ家に忘れて来たか?」
 それを見てシンは小さな溜め息をひとつ出して言った。
「しょうがないなぁ、お父さんは」
 シンはたすき掛けしていた真珠のお下がりであるCOACHのミニショルダーバッグから自分のスマートフォンを取り出す。
「おい、シン。お前どうしたんだ、それ?」
「お母さんが買ってくれた」
「あの野郎。ガキにこんなもん要らねぇっつぅーの。シン、まさかエロ画像とか持ってないだろうなぁ?」
「エロ画像って?」
「貸してみろ」
 シンからスマートフォンを奪い取る陽光は素早い動作でデータをチェックする。内心期待していたが、残念ながらその手の画像は無く、いつ撮っていたのか陽光には記憶が全くない自分や真珠が写っている今日の画像とシンの友達の画像と動画が少し入っているだけだった。
「真珠のTEL番はもちろん入ってるよな?」
「うん」
 陽光はシンのスマートフォンから真珠に電話する。それをじっと見つめるシン。
「出ねぇなぁ。まぁいいや。そのうち帰ってくるわ。あぁー今日はマジ仕事より疲れたわ。まぁ、面白かったけどな。シン、風呂入ってサクっと寝ようぜ」
 陽光はスマートフォンをベッドの上へ放り投げるとそのまま服を床へ脱ぎ捨てていきバスルームへと入った。
 シンはその脱ぎ捨てた服を見て短い溜め息をつくとそれらを拾い上げてベッドの上に簡単に畳んで載せ、自分もバスルームへ入った。自分の母親がここにいないことに少しの不安を感じながら……

 クィーンサイズベッドが二つあるこの部屋。一つは荷物置き場となり、真珠が持って来た旅行カバンと陽光の脱ぎ捨てた服と、きちんと畳まれたシンの服が並んでいる。そして残りのベッドにはトランクス一枚の陽光とミッキーマウスのシルエットパターンが散りばめられた青い浴衣を着たシンが眠る。陽光の筋肉質な硬く太い腕はシンの枕となって。

――この時どんな夢を見ていたかなんて覚えちゃいない。
――こんな薄っぺらな男女関係で産まれ出てきた俺。親って何者なんだ?
――その薄っぺらな大人は大人なのか?

 思春期が近づくにつれ沸き上がる疑問。それは数珠繋ぎとなって答えなんて意味があるのか無限の輪を作りシンを襲う。

――そしてお袋は俺達の前に二度と現れなかった……

第6話 父の陽光と息子のシンの関係

 西暦2059年。シンは普通科高等学校へ通う十八才の少年と成長し、父、陽光はヘヴィ・ワーカー乗りとして働き轟親子は父と子二人で生活をしていた。妻でありシンの母親である真珠が失踪したと言うのに陽光は何の行動も取ることなく……失踪から三年を過ぎた時、真珠から離婚承認申請を受けていた陽光であったが、それすら放置したままであったため自動的に離婚が成立していた。親権は陽光に渡すということで。

『シン、いいか? 人間はどんだけ頑張ったって自分独りだ。どんだけ惚れた腫れたで女と抱き合ったところで他人は他人で自分じゃない。生きるには自分独りでなんとかしなくちゃダメだ。食い物の調達、着るもの、住むところ、それを守るためにお前は勉強やら何やらをやらされているんだ』

 陽光の教えは洗脳と言えるようなものだったと今のシンには言える。しかしそれがどういう性質のものであったとしてもそういう形で育てられてしまい、それに気づいたところで今さらやり直しはできない。
 古典ハリウッド映画のように過去へ行くことができるのならば少なくとも自分を置いて消えた母親に接触して真相を知りたいし、まだ小さかった自分をなんとか今のようにならないように助けられるのに。いっそう自分を産まずに済むように陽光と真珠の出会いを阻止するのに。
 もちろん現実は車が空を飛ぶようなことすらない今現在だ。そんな陳腐な思いを考える自分が馬鹿馬鹿しい。今は今を耐え忍び、馬鹿な親との関わりを絶つことだけをシンは考えている。

 何であれ、今のシンは家事を簡単にやってのける技術は身に付けている。アルバイトでわずかながら自分のIDバンクに貯金もある。
『それが親父のお陰だなんて全く思っちゃいない。誰にもそうは言わせない……』
――なぜ?
『どうして小学生の子供が親の世話をしなくちゃいけないんだ?』という疑念を持っているからだ。

 シンの止まない親に対する思考のこびりつきは激しく、今、そしてこれからの彼の原動力となっていくこととなる。これは幸福な事なのか? それとも不幸な事なのか? それを決めるのはずっと先のシン自身になるであろう。

       *

 今日の夕飯は残り物で作ったあんかけ野菜炒めだ。あとは同じ具材で作った赤だし味噌汁。自分で食べるだけのものだ。別に自分の腹が膨らめば問題ない。シンには味に(こだわ)っているだけの余裕はない。しかし今日はそれを二人分用意していた。
 突然、普段連絡のつかない陽光から『今日ちょっくら帰るから飯頼むわ』とメールが入るとシンは気が向かないが陽光の分を一応用意していた。それを十年以上やってきた。だから慣れているかと言えば真逆である。
 シン自身の自我が芽生え、思春期にもなれば反抗心も当然芽生える訳で自分の父親の勝手気ままな傲慢(ごうまん)さを腹立たしく思っていた。しかし今の自分は腹立たしい父親の金で生活している。結局 いつもそこを突かれてシンが従うしかなかった。
 この卑怯な父親のやり口にやり場の無い憤りを強く深く蓄えていたシン。せいぜいたまに顔を合わせる父親に対して口答えをして気を晴らすのが今シンにできる精一杯であった。

 シンは食事を済ませると食器をシンクへ運びそそくさと手洗いする。隣のリビングでは陽光が缶ビールを飲みながらリモコン片手にテレビを観ている。
「親父、少しは手伝えよ。俺、受験勉強で忙しいんだから」
 毎回このシチュエーションで言っている言葉だが今日は“受験”という言葉を付け加えてみた。
「受験って、お前、大学行くんか?」
 シンは食器を洗いながら、陽光はテレビを観たままでの会話。
「ああ」
「あほか。そんな金はねえぞ。それに鳶が鷹を産むわけねぇだろう。お前には無理だ。だいたい何のために大学行くんだ? 頭使う前に体使え。ヘヴィ・ワーカーは金になるぞ。金があれば女は寄ってくるしよぉ」
 陽光の酔っぱらったたるい声での返事がシンの耳に届くとシンは苛立った。
(何かあればすぐ女だ。この梅毒野郎)
「女が寄って来るんじゃなくて親父が金出して女に会いに行ってんだろっ? くだらねぇ事ばかりに金使いやがって。金があるんだったらちゃんと生活費をきっちりくれよ。先月も家賃滞納しそうだったんだぞ!」
 シンは陽光を見ることなく声を上げた。
「悪ぃ、悪ぃ、つい忙しくってお前の口座に入金するの忘れとったわ」
「何が悪ぃ、悪ぃだ。だいたい親父が世帯主のくせしてなんで家(ウチ)のIDバンクに給料入れねぇんだよ? おかしいだろ? で何で俺がバイトした金を生活費に充てなきゃいけないんだよ!」
 シンは言葉と同時に洗っていたお椀を強くシンクへと叩き置いた。そして二人の間には沈黙の空白時間ができた。

 こんな会話を陽光と顔を合わせる度にしてきたシンは真珠が陽光の元から離れていった気持ちは理解できていた。ただその男に自分を預けていった行動をどう解釈していいのかが解らず、常に頭の裏側でざわついていた。

 ビールを飲み干した陽光は黙ったまま缶を握りつぶすとゆっくり立ち上がりダイニングへと来た。
 苛立ちを隠せないシンはお椀を割ってしまいそうな力で押さえつけたまま手を震わせている。顔はうつむき視点は定まっていない。
 陽光はシンクの横にある冷蔵庫を空け中を覗くと淡々と言った。
「なんだ、シン。ビール買ってきてねぇのか」
 この言葉はシンの感情を綺麗に逆撫でた。
 シンは陽光を横目で睨みつける。陽光はシンの態度など全く気にかけることなく舌打ちをして冷蔵庫の扉を閉める。
 シンはお椀から手を離すと素早く蛇口を開け手の泡を洗い流す。そして陽光がゆったりとリビングへ戻ろうとしている体を濡れたままの右手で肩を掴んで制止させた。
 肩に手が乗った事に気が付いた陽光は無意識に振り向く。シンは振り向いた陽光の胸倉を掴み、大声を張り上げ唾をも飛ばしながら陽光の顔に向かって叫んだ。
「そんなんだからお袋がいなくなっちまったんだろうがよぉ‼」
 今のシンは気がつけば陽光よりも僅かながら背丈が高かった。僅かながらでも見下げた目線を見せた息子の大声に陽光は目を見開いて驚きの表情を見せた。
 髪の毛にも白髪が目立つ歳となっていた陽光。今年で47歳。落ち着き払っていても良さそうな年齢であろうが、そこは陽光だ。所詮ガキの戯言(たわごと)として右から左へと聞き流すつもりでいても、実際は自分よりでかくなったことでさえ気に入らないと思っていた陽光はシンからの気に入らない言葉と態度を受け、低く太く、そして昔と変わらない特徴的なしゃがれ声で自然に言葉が出た。
「誰に向かってその態度だ?」
「アンタだ」
 反応の早い挑発的なシンの対応。
「ああ? アンタだとぉ?」
 陽光の赤ら顔で眠そうであった目つきがシンの反応で下から見上げる形で脅迫視線を使ってシンへぐっと近づき男臭い争いの幕開けを感じさせる緊張感が静まり返ったダイニングを埋め尽くす。
 しかしシンには微塵の緊張も動揺も無かった。それは父親より背も伸び、自分で家事をこなし、家計のやりくりをし、今までの生活を維持してきた事実が生み出す自信が陽光の圧力を撥ね除けているのだろう。
「俺はお前の親父だ。俺がいなかったらお前なんかとっくに死んでただろうが。何様だ? えっ?」
 低音を響かせ迫る陽光。それを鼻で笑うシンは静かに怒りの感情を言葉に乗せクレシェンドしていく。
「アンタがいなかったら俺はいなかったろうよ。でもよ、その前にお袋がいたから俺がいるんだろうが。だいたい、アンタが俺に何をしてくれたって言うんだ? ろくに家に帰ってこないわ、金すらまともに置いてきゃあしない。それもお袋が居なくなった時からなぁーっ!! 小学生の子供をよく平気で独り放りっぱなしできたなぁ! 迎いのキヨ婆ちゃんがいたから俺はなんとか自炊とかしてやってこれたんだぞ! ナニ威張って親父気取ってんだ? 俺はアンタの女か? 飯の世話して金までバイトで工面して。それでアンタが俺の親父だと言うんかよ? 親父なら親父らしくしてみろよ!」
 胸倉を掴み上げ陽光を睨みつけるシン。
 体が大きくなったと言っても陽光にしてみれば子供は子供だ。精神的余裕はシンの数十倍はある。陽光はニヤリと笑って言う。
「俺が種付けしたんだ。親父だろ?」
「……」
 シンを苦しめる陽光のふざけた言葉。シンを抑えていたものが取り除かれた。
「テメェの不逞(ふてい)さに俺は苦しめられてんだよっ‼」
 シンはそう叫ぶと陽光を渾身の力で突き飛ばした。
 その勢いは陽光の体格からは遠くかけ離れた軽量感で一瞬にしてシンから遠退き、陽光はそのまま足が絡んでしまい鈍く大きな音を立てて尻餅をついた。
 陽光は酔っていたとはいえ自分の子供に簡単に突き飛ばされた事実に発狂した。
 今さっきまで酒に酔ってゆったりとした動作を見せていた陽光が瞬時に起き上がりシンに向かって一言も発せず左肩から体当たりをした。そのあまりの速さにシンは何が自分に起きたか分からないまま吹き飛ばされシンク前に置いてあったワゴンへぶつかりキッチンの床周りへ食器やわずかな食べ残しが散らかった。
 陽光の体当たりは完璧な不意討ちであった。シンのみぞおちへ見事にはまり、シンは息のできない状態で倒れ込み苦しむ。
 陽光はそのままシンへ馬乗りになって叫んだ。
「グダグダと文句タレてんじゃねぇーっ! 男っちゅうもんは独りで生きてく力をつけなくちゃいけねぇだ! なんだかんだ言ってお前は独りで生きてく力をそうやってつけてんだっ! 俺のおかげだろうが! この世の中は温々(ぬるぬる)ほんわか社会じゃねぇんだ。分かるか? だからテメェのお袋はお前を置いていったんだ。俺のせいじゃねぇよ。俺は今、ここにいるだろ? 分かるか?」
 一気に言葉をシンに吹き掛けた陽光の息遣いは荒かった。
 シンにとって陽光の理解不能の理屈は反抗心に拍車がかかる。シンは呼吸を取り戻すと一気に陽光を跳ね飛ばし起き上がった。
 息を整えていた陽光は再び不意を突かれて軽々とシンにはね飛ばされ床へと転がった。
「自分の女に逃げられたことを理不尽な理由をつけて自分を正当化してんじゃねぇよっ!」
「なんだとぉぉ!?」
 よたつきながらもすぐに起き上がった陽光。
「アンタのだらしなさが全てだろうがぁっ! 俺はアンタらに望まれて生まれて来たわけじゃねぇんだろ? 俺だって望んでアンタらを親に持ったわけじゃねぇんだ!」
「子供っちゅうのは皆ヤッちまったから生まれてくるんだ。理屈じゃねぇんだよ。好きだとか愛してるなんてそんなキレイな言葉で片付けるようなモンじゃねぇんだ。だから頭使うヤツはダメなんだ。すぐあれこれ理屈をつけたがる。ったく顔だけじゃなく性格まで真珠そのものだな」
 陽光はそう言って大笑いした。

 無駄と分かっていても収まらない気持ちに苛立ちが激しく残っていたシンであったが、これが自分の立場なのかと諦めの気持ちも抱き合わせた状態に疲労感が沸き起こりぽつりと声を漏らした。
「これが自分の親だなんて信じたくないね……」

第7話 上甑町朱美

 上甑町(かみこしきまち)朱美19歳(2059年9月現在)。地元の短大保育学科へ通うごくごく普通の女子である。
 好きな食べ物はパンケーキ。パンケーキはよく自分で色々アレンジして作る。そんなことで名古屋駅にあるパンケーキショップでアルバイトもしている。将来は可愛い子供たちと一緒にパンケーキを作って暖かい時間を過ごすこと――

 朱美はシンと付き合い始めて1年半ほどになるがシンとの出会いに早くも“これは運命の出会いだ”と強い思いを抱いていた。

 朱美とシンの出会いは随分と遡る。朱美が小学三年生でシンが小学一年生になった時だった。シンと朱美は家が近所であったことから朝の分団登校はいつも一緒だった。
 朱美のいた分団はシンが入ってくるまで自分が一番下であったため、やっと自分の下が入ってきたと大喜びし一人っ子の朱美はシンを弟のように可愛がった(お節介なくらいに)。シンも母親が居なくなった事の寂しさを埋め合わせてくれるような家族的存在として朱美を慕った。
 しかし朱美が中学生となると当然のように二人は家が近所といえども疎遠になった。
 ひとつ付け加えると、シンが四年生になった頃から同級生から「いつも上級生の女とイチャついてる」とからかわれていて、それが嫌でシンの方から朱美との距離を次第に置くようになっていたことも疎遠となる理由としてあった。

 そして時は進み、朱美が高校三年になって間もなく、朱美に運命的と思わせる出会いがあった。彼とケンカ別れをし、自分は受験に全てを注ぐぞと決めた矢先のことである。
「あれ、シンちゃん?」
「あ、あみ姉ちゃん?」
 学校帰りの校門で二人は再会した。偶然にシンも朱美と同じ高校に入っていたのだ。
 因みに朱美は“あけみ”と言う響きが可愛くないと言ってシンには“あみ”と呼ばせていた。シンが朱美の本名を知ったのは最近のことで、朱美のIDカードを見たときだ。

 そして二人は登下校を共にするようになり、わずかな時間で抱き合う仲となった。
 その中で朱美はシンの母親が失踪していた事を初めて知った。この世の中にそんな無責任な母親が本当にいるのだと強い衝撃を受けた。
 そしてシンはいつもほとんど独りで過ごして来たこと。シンの迎いに住んでいた一人暮らしのお婆ちゃんがシンのことを気にかけ色々と親切にしてくれたこと。そのお婆ちゃんはシンが小学六年生の時亡くなってしまって独りで大泣きしたこと。そして父親の奇行。
 すべてが朱美には驚くことばかりで、それを知らずに一緒に遊んでいた自分はなんて鈍い人間だっただろうとさえ思った。たとえその時の自分が小学生の子供だったとしても。今までのシンの苦労を聞いた朱美は自分でもハッキリと分かる母性本能がシンを受け止める力を強くし、シンを心の底から支えたいと思っていた。

 二人が愛し合うようになってからの二人の関係はより熱く強固なものとなり、順調に時を共に過ごしてきた。朱美は無事志望大学に入学。そして今現在シンが受験に向けて頑張っているところである。

       *

 朱美はいつもふらっとシンの家に遊びに行く。勉強の邪魔は良くないよな、と思いつつも差し入れだとか、夜食を作ってあげたりだとか、部屋の掃除をしてあげたりだとか……何か理由をつけて。
 ただ、シンにはまったくのお手上げというほど家事の類はきっちりとやってしまうので自分の出番がないよなぁとも思っている。それでもシンの邪魔にならない程度には役に立ちたいし。しかし本当はシンに抱いてもらいたいという下心の気持ちで会いに行っていた。いつも家にはシンしかいないから……。

 今夜はというと、これといってやっぱり理由はない。家が歩いて10分もかからない距離だからちまちまとメールのやりとりは面倒なので会いたい気持ちだけでシンの家へと向かっていた。朱美としては同棲したいくらいだったが親が許すわけないので今は我慢している。しかし自分が社会人になったら家を出ようと思っている。そうしたらシンの家で一緒に生活しようと独り計画していた。

 シンの家の近くまで来ると、シンの家の前に大きな車が停まっていた。
「何、あんな人の家の前に停めちゃって」
 遠くからは暗くはっきり分からなかったが、よく見ると工事用の特殊車両であった。
「何これ? なんでこんなのここに停まってるの? 玄関の真ん前じゃん」
 朱美はぶつぶつ独り言を言って特殊車両と家の隙間に体をすべり込ませ玄関ドアの前へ来るとベル・ボタンを押した。
「……」
 反応がない。もう一度ベル・ボタンを押す。
「……」
 反応はない。
「あれ? いないのかな?」
 もう一度ベルを鳴らしてみて反応がなければ電話してみようかと思い、朱美は再びベル・ボタンを押した。
 今度は扉の向こう側から扉を振動させる鈍い音が朱美の耳に聞こえてきた。そして何か怒鳴り声のようなものも聞こえる。
「え、何?」
 朱美は一旦ドアから少し身を引き、きょろきょろと辺りを見渡した。そしてドアへそっと耳をあててみる。
「……!」
 シンが叫ぶ声。そして聞いたことのない低く鳴り響く迫力ある男の声が聞こえた。
(やだ、まさか泥棒とか?)
 朱美は少し怖かったがシンの身に何かがあってはという気持ちの方が強く無意識にドアノブに手をかけていた。
「開いた……」
 朱美はドアにカギがかかっていないことで更に不安と恐怖心が湧き起こった。しかし、そのまま静かに家に入る決心をした。非常時にも冷静さがなかなかなのが朱美という女性である。ドアを開け家に入ると見慣れたシンの靴以外にもうひとつ男物の汚れた靴が綺麗に並んでいるのを見つけた。
(もしかしてお父さん?)
 朱美の感は鋭かった。滅多に帰ってこないと聞いていたシンの父親。おかげでシンにこの家で甘えることができていたのだが。
 朱美はシンから父親の事を色々と聞いていて酒癖も悪いとも聞いていた。そこから察して親子喧嘩はアリだと思った。しかし、断定はできない。下駄箱の横に置いてあったシンの傘を手にすると、忍び足で光が漏れているダイニングへと近づいた。

「アンタのだらしなさが全てだろうがぁっ! 俺はアンタらに望まれて生まれて来たわけじゃねぇんだろ? 俺だって望んでアンタらを親に持ったわけじゃねぇんだ!」
 シンの今まで聞いたことない怒鳴り声が朱美の耳に届いた。その声を聞いて心臓が一瞬怯えた。
(シン……)
 シンの声に続いて低いしゃがれ声が聞こえた。
「子供っちゅうのは皆ヤッちまったから生まれてくるんだ。理屈じゃねぇんだよ。好きだとか愛してるなんてそんなキレイな言葉で片付けるようなモンじゃねぇんだ。だから頭使うヤツはダメなんだ。すぐあれこれ理屈をつけたがる。ったく顔だけじゃなく性格まで真珠そのものだな」
(シンのお父さん……?)
 朱美の推察は正解である。初めて聞いたシンの父親の声。朱美は率直に怖いと感じた。暴力団かと思うような威圧的で音圧のあるしゃがれ声で、しかもその内容は悲しいものだった。シンの今までの話と重ね合わせると胸の締まる思いに包まれた。

第8話 シンと朱美

 朱美は緊張感漂う気まずい雰囲気のダイニングへ意を決して踏み込んだ。
「こんばんは……」
 仰向けで倒れているシンの上に陽光が(またい)でいる姿が朱美の目に入る。その状態に思わず朱美は体が強ばり息を飲む。
 シンと陽光のにらみ合いの中に朱美の声は小声ながらもよく通った。シンと陽光は同時に声の出所へと顔を向けた。
「あ、朱美……」
 シンはとんでもないところを見られたとひどく気まずい気持ちが湧き立ち慌てた。
 陽光の方は朱美を確認すると表情が急変し、年季の入った笑い皺いっぱいの顔になった。これを見た朱美はさっきまでの思いが意外にも簡単に消えた。シンの父親であろうその男性の笑顔は言葉と声からはかけ離れた温かな笑顔すぎた。
「おっ、シンの女か? なんだて、女がいるならいるって何で俺に紹介しねぇんだっつーの、このクソ田分け」
 陽光はそう言ってシンの額を人差し指で弾いた。
「痛っ!」
「すみません、勝手に入ってきちゃって……何度もベル押したんですけど……中から怒鳴り声が聞こえて……」
 ペコリと頭を下げる朱美。
「で、もうヤったんか?」
 陽光は親指の指先をシンへ見せて言う。
「はぁ?」
 シンは額のジリジリした痛みを気にしながら陽光のくだらない言葉に顔を大きく歪めた。朱美は陽光の喋りの粗雑さはシンから聞いていたが、あまりの率直な言い方に自分がストレートに顔が火照ったのが分かった。
 その朱美の反応が陽光には初々しく感じ面白がった。かまととなのは承知の上だが。
「そうかそうか。健全な男と女はしっかりヤらなきゃいかんぞぉ! 結局、お前は俺の息子なんだよ。ははははーっ! 今日は(ウチ)を使って良いぞ。俺は外に飲みに行くからよぉ」
 そう言い放つと陽光はスッと立ち上がり「じゃあな」と言い残してあっさり出ていった。

 シンは天井の一点をぼんやりと仰いだまま大きく溜め息を出した。
 そこへ視界を遮る朱美。その顔は笑っていた。
「ねぇ、さっきの人ってシンのお父さんでしょ?」
「ああ。で、何笑ってんの? 人の喧嘩が面白い?」
 シンは疲れた気持ちの勢いで意地悪く聞いた。
「違うよ。初めて見たからさぁ、シンのお父さんを。宝くじに当たるくらいの確率じゃない? シンのお父さんと会えるなんて?」
「まぁ、たしかに」
 シンはそう言ってゆっくり起き上がろうとすると朱美が手を伸ばしシンに肩を貸した。
「怪我はない?」
「ああ。大丈夫」
「いつもお父さんとあんな感じでケンカするの?」
「まあね。まぁ、今日はいつもよりヤバかったけど」
 軽く笑ってシンは言うと、ひどく荒れたダイニングを見渡した。
「あーあ。これ片付けなきゃ」とシンが大きく溜め息を漏らす。
「手伝うよ。あ、いいよ。私が全部やるから。シンは気にしないで勉強して」
「いいよ、いいよ。あ、やっぱ手伝って。二人でやれば早いから」
「うん」
 効率的に事を成すことに長けているシンの意見に口を挟む必要のない朱美は素直に従う。
「で、何で傘なんか持ってるの?」
「え? ああ、もしかして泥棒でもいるのかと思って」
「ははは。朱美は勇敢だなぁ」
 朱美は照れ笑いを見せるとそそくさと傘を戻しに行き、すぐ戻ると少し興奮気味に話した。
「最初シンのお父さんの声を聞いたときはホント怖かった」
 朱美の反応に軽く笑ってシンは言った。
「ヤクザだと思った?」
「うん、そんな感じ。でも話の内容でシンのお父さんだと思って興味の方が強くなって、怖さなんてすぐ吹き飛んだけどね」
 朱美は自身チャームポイントと思っている大きな口を開けてカラカラと笑った。この笑いがシンは小さな時から好きだった。自分ではそんな笑いをする事がない。少なくとも自分の記憶に残っている母親がいた時代からは。
「興味かて?」
 わざとらしく朱美へシンは突っかかるように問い返した。
「だって話しか聞いたことない人がいるって分かったからさあ。じゃない? なんか伝説の人物が本当にいたんだみたいな」
 朱美はそう言ってまた口を開けカラカラと笑う。
「大げさに言うなぁ」
 シンはこんな状況の中でも朱美の遠慮のない話し方が嫌いではなかった。お陰でさっきまでの熱くなった嫌な感情も穏やかに落ち着くことができた。独りでいたらこうも簡単に落ち着き払うことはできなかっただろう。シンは朱美との波長は合っているんじゃないかと感じていた。
 これは朱美も同じだった。はた目、神経質じゃないかと思うシンの言動や行動が時々あったりもするも朱美には良い刺激と思わせていた。自分もしっかりしなくちゃと。
「あ、その割れた食器は触らないで。俺がやるから」
「ありがと。じゃ私、洗い物やるね」
「ああ、助かる。ありがと」
「当たり前じゃん」

 テンポよく流れるシンとの会話に朱美は考える。もし、二人で生活を始めたらどんな感じで毎日を過ごすのだろう? 互いに気持ちのいい話のキャッチボールができるのだろうか? 時々一緒に食材の買い出しにも行ったり、時には寝泊まりもして半同棲と言ってもおかしくないような関係ではあったがきっとこの先もっといろんな想像もしないような問題が起きたりするのだろう。まだお互いの知らないことがたくさんあるはずだから。
 そんな二人の将来の事を考えると朱美はワクワクする。

「そういえばさぁ、シン。外にでかい車、工事現場で見る働く車が停まってたんだけど?」
「働く車……? ヘヴィ・ワーカーか?」
「って言うの? オレンジ色したデカイの。あれってシンのお父さんの?」
「ああ、ウチの前に停まってたんだったらそうだわ」
「へぇー、あれを動かす仕事やってるんだ?」
「ああ。あれ? 知らなかったっけ?」
「うん。仕事の話は聞いたことなかった」
「そうか。でも別に親父の事、細かく知らなくてもいいだろ?」
「ええー!? シンの事をもっと知りたいからお父さんのことだって知りたいよ」
 朱美の回答にシンは愛想笑いを出す。無意識ではあるが。
「ありがたいけど、あんまり聞かないで欲しいな。実は俺もよく知らないんだ。親父のこと」
「あんまり喋らないの? お父さんと?」
「知ってるだろ? あんまり帰ってこないし、帰ってきたって酒飲んですぐ寝ちまう。朝起きたらもういなくなってるって」
「うん」
「だから、話をする時間なんて無いよ。実はさぁ、さっき親父に初めて受験の話をしたんだ。そしたら言い合いになっちまったってわけ」
 割れた食器を折り畳んだチラシですくい集めているシンは手を止めて朱美へと軽く笑って応えた。
「ええ? なんで?」
「親父は勉強するの嫌いなんだよ。勉強したって役に立たないって言ってさ」
「そうなんだ……」
 朱美はそういうことで親子喧嘩ってなるんだと知った。そして勉強しないことを薦める親がいるというのにも驚いた。
 
 朱美は親といざこざを起こしたことが一度もない。一人娘の特権であろうか? 父親は優しくしてくれるし、母親とは友達のようによく一緒にショッピングだってするし、シンの事もちょっと話たりする。そして母親はもちろん、父親もシンとは彼彼(かれかの)の関係だと知っている。面識もある。シンに対してとても好印象を持っている。だからいつもふらふらとシンの家に行くことも認めてくれている。
 冷静に考えると気持ちの悪いくらい物分りが良すぎる、私を甘やかしている親なのかもしれない。普通は少しぐらい衝突があっていいのかも。朱美はシンの話を聞いているとそんなことを考えたりもする。

 朱美は食器を洗いながらシンの話を受けて考えているとシンが後ろから慌てた感じで声をかけてきた。
「朱美。さっき外にヘヴィ・ワーカーが停まってたって言ってたよな?」
「うん」
 朱美の返事を聞くなりシンは玄関へとすぐさま向かった。
「……?」
 朱美はやや太くも整った眉を八の字にして首をかしげた。
 ドアを勢いよく開ける音を耳にした朱美は気になり自分も玄関へ小走りで向かうとドアを開けたまま立っているシンがいた。
「ねぇ、どうしたの、シン?」
 シンの背中越しに見えるオレンジ色のヘヴィ・ワーカー。シンは「やっぱり……」といって大きくため息をついている。
「何がやっぱりなの?」
 朱美はシンがどこを見て言っているのかよくわからず、シンの横から回り込んでシンの目線を追っていくとそこにはヘヴィ・ワーカーの運転室でよだれを垂らして寝ているシンの父親の姿があった。
「あらま。こんなところで」
「親父、飲みに行くとか言ってこいつできっと行こうとしたんだ。馬鹿だから。アルコール反応で動かせるわけないのに。それでそのまま寝ちまったんだよ」
「家で寝かせてあげれば?」
「そんな気ぃ使わなくて構わないよ。この中は別に寒くないし、それに中で寝てた方が駐禁から逃げられるだろうし。前、ここで駐禁取られたんだよ」
「そうなんだ。でも毛布ぐらい……」
「甘やかしてたらきりがねぇよ。いい大人が勝手にやってるんだ。放っておくよ。ごめんね朱美に気をつかわせて」
「そんな、特別な気をつかってるわけじゃないからいいよ」
「さ、片付け済ませなくちゃ」
「うん」
 朱美は少しだけ後ろ髪引かれたが、気持ちよく寝ている顔を見て大丈夫だなと思いシンに付いてダイニングへと戻った。
(シンはお母さん似なんだな……)
 陽光の顔は角ばっていてしっかりとした眉毛を持った男々(おとこおとこ)した感じだったが、シンは面長であごの線が細く眉毛も陽光ほどではない。朱美は陽光と出会ったことでシンのお母さんはどんな人だったんだろうと淡い興味心が湧いた。

第9話 昔話

 陽光は高等学校教師の父と進学塾講師の母の間に生まれた次男である。
 と言うことで陽光には上がいる。歳は三つ上。多分に漏れることない出来の良い兄で、人当たり良く温厚な性格。頭脳明晰。運動神経も適度に良く、容姿は並みであったが社交性の高い性格から異性からの人気は高かった。そのためバレンタインデーの日には必ず両手に紙袋いっぱいのチョコを持って帰ってくる兄を羨ましいなと思っていた時期もあったが、中学を卒業する頃には妙に出来過ぎている兄を不気味に思うようになっていた。
 陽光にとって兄は、幼少の時は適当な遊び相手、小学の時には適当な話し相手、中学の時には相手にしない。そんな存在であった。面白いことに兄もまた陽光へ好んで干渉してこなかった。

 家族の食卓ではいつも陽光の理解不能な会話で笑ったり、真剣に話し込んだりする両親と兄がいて、そこに自分が付随している感覚で違和感に満ちていた。おかげで『もしかしてこの家族と血が繋がっていないんじゃないか』と真剣に考えた事もあった。しかし陽光にはその家族の輪に入りたいという気持ちや衝動が生まれることは無く、『こいつらおかしいんじゃねぇか?』という結論で落ち着いた。
 だから一度も兄を妬むことも羨むことも、まして競おうなどという気は一切起きなかった。これは両親の育児成果かもしれないし遺伝が上手く機能していなかったのかもしれない。

 陽光の両親は教育に(たずさ)わる者だけに夫婦同意による一貫した教育方針が明確にあった。それは()の尊重。疑うことのできない元来持っているアイデンティティーを最大に尊重した上で子供に教育を施し育成するというもの。平たく言ってしまえば自由奔放。お陰で陽光は「兄貴のような毎日を送るのは真っ平御免だ」と常に口にして中学頃からは家に帰らないことも頻繁にあったが親たちは口うるさく言わなかった。一日一回直接電話を入れることだけがルールとしてはあったが。
 そして陽光は上ほど勉学に取り組まなかったものの、やっていますという格好だけはそこそこやっていた学生生活の中、ネットでたまたま目にしたヘヴィ・ワーカーで将来の道は決まった。

 それは2030年9月。轟陽光17才の時のこと――

 陽光とヒカルの二人はいつも昼休みを実習室だけが集まっている実習棟にある踊り場でつるんでいた。この時間、ここは人気(ひとけ)が無いうえに陽当たりは良好。そして広さもなかなかと言うことで陽光は特にお気に入りだった。
 仰向けになってタブレットPCをいじっていた陽光はPCに映るヘヴィ・ワーカーをヒカルに見せて言った。
「こんなんで金稼げるんだったら楽じゃね?」
「楽か?」
 陽光の横で腕立て伏せをしながら興味無しの露骨な反応で話をするのがヒカルだ。
「ちまちま机の上でやってるより絶対面白いって」
「お前には合ってる気もするけど、学科も有るんじゃねぇの?」
 ヒカルは一回一回丁寧に胸を床すれすれまで持って行く綺麗な腕立て伏せを見せる。
「そんなもん車校に通えばいいんだろ?」
「さあね」
 いつものことだが“興味無いことにはノリの悪い返事をする奴だ”と思いつつ陽光はPCでヘビィ・ワーカーの仕様を細かく見ながらヒカルへ聞いた。
「オマエはどうするんだ?」
「何が?」
「卒業した後だよ?」
「ああ、まあ流されるままにテキトーにやるさ」
「なんだ、親とかヤツらの言うままにってことか?」
「ああ。別にそんなやりたい事とかねぇからなぁ。陽光はそいつをやるのか?」
「俺も別に特別なんもないけどよぉ、上に行ったからって別に良いことも無いだろ? だったらよぉ、早いうちにこういうのに手付けといたほうが美味しくねぇか?」
「案外真面目に考えてんだなぁ。あー、疲れた。休憩」
 ヒカルは引き締まった体を一気に音を立てて床へ降ろすと陽光と並ぶように仰向けになった。
「別に考えてねぇよ。ただ字読んで考えてっていうのが面倒くせぇからさぁ」
 陽光はそう口にしてタブレットPCからヒカルへ目を移すとヒカルは薄汚れた上の階の踊り場裏をぼんやり眺めていた。
「で、実際お前はどうすんだて? お勉強すんのか?」
「俺か? そうだなあ……」
 目を閉じるヒカル。そして少し間を置いて独り言のように言った。
「AV男優にでもなろうかなぁ」
 その言葉を受けて陽光は校舎の外まで聞こえるほどの声で爆笑し、笑い止まぬままヒカルへ言った。
「おい、マジかて? 俺、お前が出てるので抜きたくねぇなぁ。っちゅうかお前がパンパンやってるとこ見たくねぇわ」
 言い終わってもまだ笑いが止まらず体が揺れている。
「俺もお前に見せたくねぇわ」
 ヒカルはそう言って横目で陽光を見るとシニカルに笑う。陽光の方はなんとか笑いを抑え呼吸を整えると落ち着いた口調で言った。
「最初は良いかも知れねぇけどよぉ、なんか毎日ヤるっていうと飽きそうだよな」
 陽光はそう言いながらタブレットPCでアダルト動画ページを開き、サムネイル画面を吟味する。
「そうかもな。でも仕事ってやつは全部そんなもんじゃね? 朝から晩まで同じことやってるって言えば。だったら色んな種類の女が抱けるのは悪くねぇかなぁなんてね……正直思いつきだけど」
「おばはんでもOKか?」
 そう言って陽光は40代くらいの女が出ているアダルト映像をヒカルの顔へ突きつけた。
 ヒカルは無表情で凝視。そして二人しかいない空間にはPCから出る声が鳴り響きうっすらこだましている。
「ダメだろ?」
 ヒカルの反応を見た陽光はすぐにその映像を閉じて別のを引っ張り出した。
「相手が喜ぶんだったら俺はOKだ」
 ため息混じりにヒカルは言うと再び目を閉じた。
「おおっ、奉仕の精神か。男だねぇ。すげぇわ。俺はダメだわ。俺はやっぱこの桜かえでのようなパンパンに張ったぷりっぷりの肉体じゃねぇとやる気でねぇよ」
 陽光はタブレットPCを縦向きにすると両手でしっかり握り、映像を見ながら腰を激しく突き上げ声を張り上げた。
「うわぁー、すげぇやりたくなってきたぁぁぁっ!」
 陽光の叫び声にヒカルは驚いて陽光を見ると大きな笑い声をあげた。

 陽光の淡い淡い思い出。
 
 青春なんて言葉を充てる程でもない昔話。
 
 あっさりと過ぎて行った学生時代。

 学校を卒業して強制的に会う時間が二人に無くなった瞬間に二人は友人からただの他人となった。
 ヒカルとは学校ではつるんでいたがメールでやりとりしたり、外で会ったりするといった粘度の高い付き合いでは無かった。お互いの淡白さ、ドライ具合がほど良かったから自然と二人は近づいて退屈な学校での時間を埋め合わせ合っていたのだろう。

 陽光はヘヴィ・ワーカーに乗ってやると決めたこの時期、親に「金は出世払いだ。頼む!」と土下座して金を借りて普通自動車免許を取った。
 そして学校卒業後はしばらく無職状態だったが、甲種小型特殊自動車(ヘヴィ・ワーカー)運転免許を取るため、「こいつを取ったら簡単に金返せるから頼む!」と再び親に土下座して金を借りると陽光の隠れた才能が開花し、一度ではなかなか取れないとされていたヘヴィ・ワーカーの免許をあっさり一回の試験で手にした。
 そして陽光はヘヴィ・ワーカーの運転免許を持っていることで簡単に尾張建設へと就職することになる。そして借りた金を完済すると親たちとの繋がりは無くなった。

第10話 スペシャリスト(前編)

 尾張建設は愛知県名古屋市に拠点を置き中部地区で活動している従業員20人程度の小企業である。
 社長の平川は四本の足と二本の手を持った新世代重機、ヘヴィ・ワーカーが開発されているとの情報を目にした時から自分が子供時代に見ていたアニメのロボットがついにこの世の中に出てきたと興奮し、発売したらどこよりも早くウチに導入する、これからはこいつが無くちゃ何もできんと毎日取り憑かれたうに口にし意気込んでいた。そして世界初のノン・キャタピラー四足型重機、ヘビィ・ワーカーが2030年に市販化されると即座に大きな借金をして2台購入した。
 がしかし、導入したものの悲しいことに、これを使える者がいなかった。今までのショベル類とは全く勝手が違い、“外科手術でもするかのような操縦テクニックが必要じゃないか”と文句が殺到。平均年齢が45歳という従業員たちには酷であった。平川自身もすでに60才という年齢であり、二十歳の頃から重機を操ってきたが、それは同感するほど難しいものであった。しかし、経営者として多額な投資をした機械を遊ばせておくわけにはいかないのは当然であり、社内の狭い敷地で特に難しいアーム操作の練習を皆して積み重ねたが努力むなしく一人も試験に合格せず2年余りが過ぎてしまった。
 そこへやってきたのがすでに免許を持っていた轟陽光という威勢の良い若者だった。そして陽光英雄伝第一章は入社直後に誕生する。

 西暦2032年4月6日。午前5時45分。起きる起きると言われ続けていた東海大地震が発生した。震度7。マグネチュード9.1。30年以上前から国と自治体で対策は施してきたものの自然の脅威は人類の英知という自尊心を簡単に驕りに変えてしまうものであった。
 それほどの震災でありながら尾張建設の事務所棟は補強工事が十分にしてあったため書庫が倒れる程度の被害しかなかった。また平川が最も心配していた高級品であるヘヴィ・ワーカーも傷つくことなく無事であった。
 そして平川は社員たちも全員無事だと確認すると民間の災害支援事業組織に加盟していたことから、即座に社の全重機を災害支援のために出動させた。そこで大きな活躍を見せたのが陽光操るヘヴィ・ワーカーであった。

 自衛隊も全国の駐屯地で保有していたヘヴィ・ワーカーを全機投入したわけなのだが、いかんせん全く新しい機械だ。当然自衛隊員も経験が浅いわけで期待されているだけの仕事量がこなせないのが実際であった。
 しかし、陽光は違った。自衛隊をも唸らせる手さばきで瓦礫の山を丁寧かつ素早い動きで崩していく。そのおかげで従来なら時間遅れで恐らく助けられなかったと思われる被災者を助け出すことまで成した。この経験は陽光にとっても大きな自信となり、この陽光の活躍のおかげで尾張建設の名はたちまち日本はもちろん世界へと知らしめた。

 その後、当然だろう。陽光へ引き抜きの話がいくつか舞い込んで来たが陽光は「面倒くさい」という理由でそのまま尾張建設で働き続けた。

          *

 2059年12月も半ばに入り寒さが本格化してきたある日。朝日もようやく目覚める時間に陽光は地下鉄駅から体を縮ませながら会社へ向かって歩いていた。
 昨夜は付き合いのある企業の忘年会に呼ばれて参加した陽光だが、義理で顔を出すだけのつもりが若い女が多かったという理由により簡単に羽目を外しドンチャン騒ぎの深酒をしてしまいホテルからの出社となった。陽光としては珍しい事ではないのだが。
 深酒したとはいえ目覚めは良い陽光。会社へ到着するとそのまま重機置き場にある陽光愛用の中型ヘヴィ・ワーカーへと向かった。出社、退社の記録はヘヴィ・ワーカーを通して出来るので大半の者は事務所に顔を出すことなくヘヴィ・ワーカーに乗り行動指示を受ける。
 陽光はしっかり冷えたヘヴィ・ワーカーのドア・グリップを握ると「うへっ」と特徴あるしゃがれ声に酒やけ声が混じった低く濁った声を白い息と共に出した。
 オートロックが解除されると急いでドアを開けコクピットへと飛び込む陽光。中は冷蔵庫状態だ。
 シートへ体を納めた陽光は冷えきった手に息を吐きかけ手を擦り合わせながら大きな独り言をコクピット内に響かせる。
「おおーさぶっ。早く(あった)まりてぇ」
 陽光は体を縮めながらもシートの下からヘルメットを取り出すと素早く被り、そしてヘッドレストの左右からヘルメット固定ベルトを引き出し耳の後ろあたりにあるヘルメットの固定ピンへ留めた。そして腰へはシートベルトを。この辺りは雑だとかいい加減だと陽光を言う者には意外に映るだろう。
「よっしゃ! 今日もお仕事頑張りましょうかねぇ!」
 気合いの入った一声を口にすると足元にある四つのペダルのうち一番左端のペダルを左足で一気に踏みつけそのまま右端にあるアクセルペダルをリズミカルに二回踏んだ。すると陽光を囲っている計器類や後方確認モニターに灯が点りエアコンも同時に作動を始め、温風が勢い良く足元へと吹き出した。
 陽光のヘヴィ・ワーカー起動のための儀式は無駄なくプロフェッショナルらしく流麗だ。そして陽光はドアについているID認識パネルに掌を当てると張りのある女性の声が響いた。
『ID確認できました。おはようございます、轟陽光様』
「おっす、マイ・ハニー! 今日も仲良く行こうぜ!」
『轟陽光様からアルコール呼気中濃度0.28mgを検出しました。操縦不可能です』
「何ぃー? ウソだろぉ。もう一回チェックしてみぃ」
 陽光はそう言ってヘルメットに装着されているミニマイクへ息を吹きかけた。
『アルコール呼気中濃度0.29mgを検出。操縦不可能です』
 陽光の賑やかな声に対しヘヴィ・ワーカーは暖かくも冷ややかでもない端正な女性の声で応える。
 陽光の目の前のマルチモニターにも同様のメッセージが点滅している。陽光は今さらながらマズいと思い慌てて両手で口と鼻を必死に塞いだ。すると陽光の察した通りヘルメット内臓スピーカーから上司の怒鳴り声が陽光の耳を通して脳天を叩いた。
『おい、轟! いつもどれだけ酒飲んでんだ? アルコール反応で起動拒否受けるのはお前しかいないぞ!』
 口と鼻を手で塞いだまま喋る陽光。
「こいつが壊れてるんじゃないっすか?」
『馬鹿野郎。口と鼻塞いだって変わらねぇぞ。っていうか、お前、それ酒臭いって認めてるんじゃねぇか! さっさとそこから降りろ! 今日は欠勤扱いだ』
 陽光にも負けない低音の効いた上司の声に陽光はフロントガラス上部に付いているバックモニターディスプレイに向かって甘えた声を出した。
「そいつは勘弁してくださいよぉ。いつも有休使わしてくれるじゃないっすかぁー」
『いつまでも甘い顔してるわけにはいかねぇんだ。ワーカー乗りが不足してて困ってるんだ。そんなことで何度もヘヴィ・ワーカーが出動できないとゼネコンさんに申し訳立たねぇんだよ。俺がどれだけ苦労してると思ってんだ。少しは反省しろ! 下のモンに示しがつかんだろうが!』
 上司のお叱りの言葉に陽光はあっさりと先生に叱られた小学生並のしょんぼり顔を作り黙ってヘヴィ・ワーカーを降りた。外は小雪が降り始めていた。

第11話 スペシャリスト(後編)

 一方、事務所内では陽光の上司である山田が大きく溜め息を出し背もたれへ体を預けた。そして180度体の向きを変えると曇った窓からだらだらと歩いて行く陽光の姿を眺めて溜め息混じりで嘆く。
「まったくアイツは……」
 山田と陽光のやり取りを聞いていた配車担当の飯島は山田の背中に向かって言った。
「課長、なんでいつまでも轟さんを使ってるんです? いくらワーカー乗りが少ないからと言っても轟さんの違反数は酷いですよ?」
 飯島の少し苛立った不満の声を耳にするとくるり椅子の向きを元に戻し言った。
「まぁな。でも、アイツの指先のセンスは抜群なんだ。お前も知ってるだろ? ワーカーの指を柔らかく扱うのがどれだけ難しいか」
「もちろん。私は免許取れませんでしたから。でも轟さんってそんなにすごいんです?」
「あれ? 話したこと無かったか? 何年前だったかなぁ…… アイツ、現場にワーカーで向かう途中に車に轢かれそうになった女をワーカーの手で掴んで助けたんだ」
「ええーっ!? マジですかぁっ!?」
 飯島は椅子から零れ落ちそうなほどの勢いで背もたれへ体をぶつけた。
「びっくりするだろ? 普通そこでワーカーの手を出して人を掴むか? 握りつぶしそうで恐くて絶対できねぇよ」
「ですよー。助けるんだったら、女の人の方じゃなくて車の方を止めるとかでしょう」
「だよなぁ。アイツは咄嗟にそういうことをやっちまったんだな。車載カメラの記録に残ってたからなぁ。ビックリしたぞ。見るか?」
「見たいですっ!」
 飯島の反応に気分良くした山田は軽快にパソコンを操作して飯島のモニターに動画用ウインドウを開き映像を再生した――

 片側一車線の一般道を走るヘヴィ・ワーカー視点の映像。天気は曇り空で映像に表示されている日付は2044.05.08。時間はPM16:06からカウントが始まっている。ヘヴィ・ワーカーの走行音と共に陽光の鼻歌が聞こえている。そして数秒後に陽光の声。
『お、いい女』
 信号の無い横断歩道に女性らしき姿が小さく遠くに立っているのが見える。

「あんなに遠くにいるのになんで、いい女って分かるんです?」
 飯島の冗談じみた質問に山田は笑って応えた。
「女に対しては人並み外れた勘を持っているヤツだ」

 減速する陽光の操るヘヴィ・ワーカー。
『レディ・ファースト、レディ・ファースト』
 停止線やや手前で止まり、女性に向かって陽光の叫ぶ声が。
『さあ、どうぞどうぞ。渡ってください』
 濃紺のスーツを身に纏った20代中ばくらいと見える女性は丁度カメラに向かう様に軽く会釈する。カメラは広角タイプのため道幅いっぱいしっかり映っている。

 飯島はモニターを食い入るように見てつぶやいた。
「ああ、確かにキレ可愛い感じの女性ですね」
 飯島の言葉に山田は、そこはどうでも良いと言わんばかりに声高に言った。
「よく見てろ、ここからだ」
 映像には反対車線側に近づいてくるワンボックスカーが見えてきた。
「ちょっとヤバいって。全然減速してないよ、あのワンボックス。ヤバい、ヤバいって!」
 飯島は体に緊張が走り、声が無意識に大きくなっていく。そして飯島は目を見開き画面にしがみついて叫んだ。
「危ないっ!!」
 もちろん飯島の声が記録画像の女性に届く訳はない。女性はそのまま横断歩道を渡り始めている。そこへ陽光の叫び声が飯島の叫び声に被さる様に聞こえた。
『おいっ、馬鹿野郎! ギャルが渡るだろうがぁっ!』
 静止していた画像が一転、急激に女性がアップになるとヘヴィ・ワーカーの右手がモーター音を唸らせ画面に現れた。そしてそのまま四本の鉄の指で女性を一瞬にして掴み抱きかかえると映像の景色は水平に高速移動した。そうかと思うと、低音と高音が複雑に混じりあった爆音と共に画面が大きくぶれ状況が見えない状態になった。
 飯島は見てはいけない物を見てしまったと後悔の念すら沸き起こるような衝撃的瞬間に感じた映像に一瞬だけ目を背けたが、すぐさま固唾を飲んでモニターを凝視した。
 山田はそんな飯島を見て初めて社長とこの映像を見た時の事を思い出した。今の飯島とかつての自分が重ね合わさり少し可笑しかった。

 ぶれが無くなり動きが止まった映像にはヘヴィ・ワーカーに握られた女性の姿が大きく映し出されていた。
『姉さん、大丈夫か?』
 手の中で怯えた顔でいる女性。震えながらも陽光の声に小さく頷いた。

「すげぇ……」
 飯島はただひたすら“すげぇ”を口にして感心しきっていた。
「おはようございます!」
 そこへ肩の雪を払い落しながら入って来た女性は営業の香川|百合(ゆり)だ。
 山田は「おはよう」と軽く手を挙げて挨拶を交わすが飯島はまだ気づいていない。香川百合はコートを脱ぎながら二人に歩み寄って興味有りげに言った。
「何を見てたんですか? 随分見入ってた感じでしたけど」
 香川百合の突然の登場に飯島は小さく驚き「あっ、香川さん。おはようございます」とあわてて挨拶すると山田が香川百合の質問に答えた。
「轟君の離れ業をね」
「ああー、あれですか。で、轟さん、助けた女性と付き合ったんですよね?」
 香川百合のその言葉に飯島は「そうなんですかっ!?」と先ほどとは違う驚きを表した。
 生真面目さを持つ飯島は“轟さんのそういう無分別なところが尊敬というポジションに持っていけないんだ”と落胆まではいかない軽い残念感が湧き起こり感心していた気持ちは冷めて行く。
 山田は飯島の反応に気遣うことなく香川百合と会話を進める。
「らしいな。詳しくは知らんがな」
「で、なんでまたその話を?」
「またアルコール検出だ。今日は欠勤させた」
「あらあら。轟さん、操縦テクニックは本当にすごいんですけどね」
「そうなんだよなぁ……」
 溜め息まじりで言う山田はどうしたものかと頭を抱えた。すでに社長の椅子を息子に受け渡しており先代の平川は十年前に他界している。陽光は先代に息子のようにたいそう可愛がられていたが、そのせいもあってか現在の社長、平川秀樹は嫉妬に近い感覚で陽光を嫌悪している。しかし、陽光の技術評価は間違いないだけに陽光の我がままな行動には目を瞑っていた。
 しかし近頃は若手のパイロット(この時代ではヘヴィ・ワーカーの操縦士を一般的にそう呼んでいた)も多く、必要レベル十分に操れる者ばかりだ。世代交代という時が確実に進んでいることの証明である。そのため二代目は陽光に対しての処置を考えていると最近山田の耳へ届いた。山田としては陽光は人間的に悪い奴ではないし、個人的には人間味があって好きであった。週末などにはよく一緒に酒を酌み交わした。21世紀も半ばのこの時代、仕事が終わったらそのままどこかへ消えていき、社内での人間関係は金のための契約で繋がっている脆い関係であるのが普通であるが、平成生まれの陽光はかなり他とは違っていた。
 陽光の破天荒具合がかつてはこの会社の盛り上げ役として一役買っていたものだが、時が進んでくるとより一層洗練した会社組織の構築が必要となるようだ。高学歴で経営学を学んできた二代目に変わるとそのあたりがより顕著になった。事実、今では東京、大阪に支店を持ち、社員数100名規模の会社と成長し、上場を睨んでいる。
 その中で陽光の存在は小さいものとなりつつある状況で山田は個人的にできる限り彼を留めておきたいとの思いを馳せていた。

第12話 けなげ

 やる気の萎えたこんな時は迎え酒がいい。今日はのんびり適当に過ごすか。
 陽光はヘヴィ・ワーカーを降りるとそのまま地下鉄へと向かった。しかし雪がちらつき始めたことに気づくと陽光の体は駅前で客待ちしていたタクシーへと吸い寄せられそのままコンビニ経由でシンの家へ。この時間、誰にも邪魔されることなくくつろげるいい場所だ。

 家に入ると予想通りシンは留守で静かだった。しかし食べ物の臭いと暖かい空気は残っていた。きっと少し前までシンが居たのだろう。何と言ってもまだ朝8時を過ぎた頃だ。
 ひとまず陽光はリビングのこたつに潜り込んだ。案の定こたつの中には熱が残っていた。
「うーん幸せ」
 手足を炬燵(こたつ)へ深く潜り込ませ天板へあごを載せてこたつの温もりを満喫する。すると目の前にみかん盛りを発見。
「やっぱ日本の冬にはこれだな。シンもなかなか分かってるねぇ」
 みかんを手に取り皮を剥くと一口で半分を食べる。
「一つじゃ物足りねぇや」
 と言ってもう一つ。最終的には中ぶりのみかんを四つ食べて満足すると陽光に心地好い眠気がやって来てそのまま横になると買ってきた缶ビールを開けること無く一瞬にして眠りについた。

 陽光はすっかり熟睡してしまい目を覚ますと外は薄暗くなっていた。
「あ、そうとう寝ちまったか?」
 そう言って陽光はむっくり体を起こすとぼんやりとしたまま時間を知りたいと思い辺りを見渡す。しかし時計がどこにあるか分からない。小さく溜め息を出すと自分の尻をまさぐりポケットからスマートフォンを取り出した。
「おっと、もう4時回ってるじゃねぇかよ。こりゃ寝すぎだわ」
 寝起きのぼやけ声を出して起き上がると陽光はよたよたと冷蔵庫へ向かった。
「腹減ったなぁ。なんかねぇか?」
 冷蔵庫を開けてみるとバラエティーにとんだ食材が並んでいる。
「おい、何かそのまんま食えるようなもん置いてねぇかよ」
 陽光は冷蔵庫の中身に文句を言い放って少しだけ周囲を見渡すとそのまま外へ出た。
 そしてすぐ家に戻るとコンビニで買ってきた缶ビールとおでんを炬燵に広げ再び温もりを満喫する。
「たまにはこういう日もいいわな」
 そう言って陽光が大根おでんをふうふうしている所へシンの尖った声が入って来た。
「良かねぇよ。なんでこんな時間に親父がいるんだよ?」
 陽光を見下ろし睨みつけているシンが陽光の目に入る。
 いつのまにか帰って来ていたシンであるわけだが、陽光はシンの突然の登場に驚きはしなかった。しかしシンの口振りと態度に気分をぶち壊されたと頭にきた陽光はシンを睨み返し低い声を響かせた。
「あ? 休みだ」
 自分の父親の態度に苛立ちが増したシンはさらに挑発的に返した。
「珍しいなぁ、休みにウチにいるなんて」
 陽光は妙なところがマメで未だかつてメール無しで帰ってくるようなことはシンの記憶に無い。それにウチで休日を過ごすようなことも記憶に無い。
「そうか?」
 陽光はいちいち意識して連絡をしていたわけではないので本気の確認だ。
「珍しいどころじゃないな。初めてじゃねぇか? 盆も正月もウチに居た事もない人間がよぉ」
 陽光を見下ろしたままのシン。二人の中の空気が一瞬固まった。
 陽光には今さらシンと言い合いする気はない。子供相手に言い合いする事はつまらないし面倒くさい。疲れるのが関の山だ。陽光はシンを無視して大根にかぶりついた。
「なんでわざわざあんな所で犯人は告白してんだ?」
 テレビでは平成時代のサスペンスドラマがクライマックスを迎えようとしている。
 シンを無視して独りドラマにケチつけている陽光を黙ったまま見つめていたシンは息を大きく吸い込み、そしてゆっくり言葉を吐き出した。
「なぁ、親父。聞いてんのか?」
「……」
「なぁ、なんでここに居るんだよ?」
(ったく……くどい野郎だなぁ、このクソガキが)
 と陽光はシンのしつこさに呆れて炬燵に潜り込んだ状態は維持でちくわを咥えたまましぶしぶ応えた。
「俺が休みの日に家にいちゃあダメなんか?」
「気持ち悪ぃんだよ」
 シンは(さげす)み顔で陽光を挑発する。くどい上に生意気なシンの挑発に陽光はやる気が湧いてきた。
「なんだぁ?」
 そう言って陽光は横目を使ってシンを見上げるとシンは叫んだ。
「気持ち悪ぃんだよ!」
 シンの力強く吐き捨てた言葉を陽光は耳で拾うと半分まで口にしていたちくわを一気に口の中へ放り込み二、三度噛むと缶ビールで体内へ喉を鳴らして流し込んだ。そしてテーブルに缶を置くと目を閉じて得意の低いしゃがれ声を使った威圧攻撃へと出た。
「おい、シン。もういっぺん言ってみろや……」
「気持ち悪ぃって言ってんだろ!」
 もうシンにはそんな威圧に対しては免疫が出来上がっている。目には目を。威圧には威圧だ。この使えない親に平和的解決など不要だと信じている。
 陽光は首をゆっくり回しながら立ち上がり吠えた。
「あぁん? 俺に向かって気持ち悪ぃだぁ!?」
 そして言葉が言い終わるよりも早く陽光の体は動いていた。立ち上がると同時に右手の拳をシンの顔へと向かわせていた。
 しかしこの時のシンは陽光が自分に向かって来ることは承知済みであった。若く反射神経が優れているシン。陽光は酒を飲んで酔っている。陽光としては瞬発力ある俊敏な動作のつもりでいたが現実はさほどでもなかった。シンは陽光の拳を体ごと簡単に避けた。
 陽光の攻撃は気の毒なほど大きく外れ、自分の作り出した勢いを止める事ができずにシンの目の前へ倒れ込む惨めな姿となった。
 シンはその自分の父親の姿を見て悲しくなった。
 言葉を交わしたところで進展がみられない自分と父親の関係。何か子供に突っ込まれれば怒鳴って暴力を振るう。シンはこんなとき思った。

 ――自分がもし女として生まれていたらどうだったんだろうか?

「なあ、親父。少しは自分のやってる事を恥ずかしいとは思わねぇのか? 自分の子供に説教されるわ、それで腹立ててキレるわ。で、暴力かて?」
「『いかにも』な事を言うつまらんクソガキだなあ。俺が一番嫌いなタイプだわ。言い方は俺似で言う事はアイツ似だな。クソ笑えるぜ」

 相変わらずの事を口にして嘲笑する陽光はシンの話す言葉の中身は理解していない。理解したくないから右から左へと聞き流しているのだ。それは冷静沈着な風に見せて理屈をこねる姿が兄や親たちを見ている気になりそうでそんな癖が身に付いていた。

 シンに軽々避けられた陽光の怒りの衝動は収まらず、一発で黙らしてやると企んだ。
 ひとまず起き上がると自分を睨むシンへと倒れ込むように近づき胸倉を掴んで様子を伺う。
 シンは陽光の睨みに寸分の怯みを見せず睨み返している。そしてシンの放った言葉。
「酒臭ぇ」
 そう淡白にシンが言うと陽光はシンに向かって息を吹き掛けニヤリと笑みを作り言う。
「何か飯つくれ」
「は?」
「腹減った」
 シンはこのクソ親父を殴り倒そうと意気揚々としていたところに意味の理解出来ない要求に困惑した。
「何言ってんだ?」
「腹減ってオマエとやり合う力が湧かねぇんだわ」
「おかしいんじゃね? 何であんたとやり合うために俺があんたの飯作んなきゃいかんの? 戦争中に敵に弾が無くなったから弾を作って分けてくれって言ってるようなもんじゃねぇか」
「上手いこと言うがや」
 陽光は笑顔で言い終わると気の緩んでいたシンの腹へ向かって右膝を強く押し上げた。
 陽光の容赦ない不意討ちにあったシンは腹を抱き抱えたまま膝から落ちた。
「悪いが俺の勝ちだな。ってことで飯頼むわ」
 腹を押さえたままうずくまっているシンは考えた。

 ――仮に親父がアル中でキテレツな行動を起こすなら納得はしないが理解はできる。しかしこいつはそうじゃない。
 ――ガキのわがままなら可愛いものだ。ガキは素直に聞くときは聞くし、叱るということができる。
 ――ここにいるのはガキのようでガキじゃない。大人の顔したガキ?
 ――自分を俺の父親だと抜かし気ままに帰ってきて好きなことをやっている。そしてほどほどに金は入れている。路上生活することなく俺は人並みに家の中で生活している。
 ――それだからこいつに頭下げて、そして召使いのごとく言うこと訊かないといけないと言うのか?
 ――違う。
 ――おかしい。
 ――間違ってる。
 ――俺が?
 ――じゃない。こいつが。
 ――なあ、誰か俺に賛同してくれよ。
 ――なあ……
 ――誰かこの大人まがいのインチキ野郎を折檻してくれ。俺じゃ歯が立たない

 シンはこの目の前にいる人間にごめんなさいを言わせたくて仕方なかった。口にガムテープを貼り付け、手足を縛り執拗な拷問をしてでも言わせたかった。ごめんなさいと心の底から言わせたかった。
 言っても無駄だから力でねじ伏せる。これで済むなら今のシンには十分陽光に勝てる自信があった。きっと拷問を簡単に超えて殺すことができるだろう。しかし気力がそこまで沸き立たなかった。陽光から受けたニーキックの痛みと苦しさもあるが、そうしたことで解決することが社会正義だとか道徳心というものではなく、シンの心根にある彼自身の感覚的なものが『諦める』という選択が最良なのだと悟らせた。一言で言ってしまえば単なる勘でしかないが。そしてこの人間から逃げ出すことが目標としてより明確になる。実現しなければならないものとして。
 実際、シンはすでに金沢にある大学を目指していた。これは朱美にも言っていない。朱美には地元の大学だと言ってある。それは言ってしまうと二人の関係がどうなるかがわからない事への不安に父親との確執問題を上乗せした状況に今は耐える自信が無いからだ。
 とにかくあと数ヶ月を耐え凌ぎ、この生活から脱け出す事だけに気持ちを集中させたいという思いに結果たどり着き、シンの反抗心を萎えさせた。

 シンは腹の痛みに耐え息苦しいながらも陽光へ言った。
「カップ麺がそこの戸棚の中に買い置きしてあるからそれで我慢してくれないかなぁ、親父。俺、今からバイト行かなくちゃ行けねぇから」
「なんだこんなところにあったのかよ。インスタントもんが無いのはいくらシンでもおかしいと思ったぜ」
 陽光はシンの対応に満足げになり早速カップラーメンを戸棚から取り出すとやかんに水を入れ鼻歌交じりで湯を沸かし始めた。

 シンは腹を押さえたままゆっくりと立ち上がり陽光を見ることなく無言で家を出た。

第13話 疑惑的憂鬱

 朱美は最近シンがつれないなと何処となく感じていた。きっと試験が日に日に近づいてきて神経質になっているからだと自分に言い聞かせてみたもののどこかすきっきりしない。

「もう冬だからね。どんよりと薄暗くて肌寒くなってきたから憂うつな気分になったりするよ」と天気のせいにして冗談めかした慰めを言うのは朱美の大学友達、佐々木ユリだ。二人は学校帰りに二人がいつも別れる金山(かなやま)総合駅にあるカフェにいた。
「朱ちゃんが神経質になってるんだって。私からしたら二人はちょっとくっつきすぎ」
 ユリがストレートの長い髪に指を絡めながら言うと朱美はユリの意見に素直に驚いた。
「何、くっつきすぎって? 私達がベタベタしてるってこと?」
 朱美のリアクションがあまりにも真面目なのでユリは可笑しく思った。
「じゃなくて、しょっちゅう彼のところに行ってるんでしょ?」
 覗き見るような表情でユリは朱美を見た。その表情に朱美は何か自分が悪い事か隠し事でもしていたかのような焦りを感じながら「しょっちゅうってほどは行ってないって」と慌てて応えた。
 朱美の応えに大きな否定を入れ尋問に入るユリ。
「嘘だあぁ。週に何回会いに行ってんのよ?」
「んー……週に二回くらいかなぁ?」
「また嘘言ってぇ。行かない日が二回くらいじゃないの?」
「うーん……」
「いくら好きだと言っても殆ど毎日顔見てたら飽きもするわよ」
 ユリは自分の好きなチーズケーキを頬張りながら朱美の反応を楽しむかのような笑顔を作っていた。
「何、シンが私に飽きたって言うの!?」
「それは無いだろうけど大抵の男は独りの時間を持ちたがるものだって」
「分かってるわよ、そんなの」と拗ねた顔を見せて朱美はダージリンティーを静かに口にした。ユリは半分からかい口調でそんな朱美へと続けた。
「分かってるって言いながら、朱ちゃん、いつも私に昨日はどうだったとか言ってるじゃなーい。朱ちゃんが彼にくっつきすぎだと思うな、やっぱり」
「かなぁ?」
 朱美はユリを凝視する。
「私だったら、ちょっとぉ……って思うけどね」
 苦い顔つきで首を傾げて言うユリ。
「でもさぁ、ここのところ電話かけても出る回数が減ったし、メールも返しが遅くなったし」
「そりゃあ勉強にバイトにって忙しければそうなるでしょ」
「いや、だからさ、家事ぐらいは手伝いたいってわけなのよ」
 頬杖をついて今もなお口を尖らせながら言う朱美をユリは可愛らしく羨ましいなと思いつつ朱美に笑って言った。
「あら、もう妻気分?」
「またそうやって意地悪言う」
「少しは私の気持ちは考えてよ。シングルベル鳴らす身にね」
 ユリは右手の指先をつまむような形をさせ鈴をならすかの動作を見せ言った。それを見た朱美は舌を小さく出して肩をすぼめると思い出したように言った。
「あ、イヴは一緒に過ごそうよ」
「あれ? 彼とじゃないの?」
「うん。今年は忙しいからっていうことで。でも25日は約束してるけどね」
「そっかぁ。よしっ。じゃあ、どうせなら皆で集まって盛り上がろうよ。彼ナシ淑女が多いから。でも今から店予約できるかなぁ」
 朱美の言葉を受けユリは意気揚々とフィルム・ノート(超々薄型ノートパソコン)を鞄から取り出し店を探し始めた。

 ユリの言う通り私は少しシンに構いすぎだろうか? と自分自身に問いかける朱美。しかし最近、シンが家にいない事が多いのは事実だ……。

 12月最初の日曜日の昼下がり。抜けるような青空が朱美を誘惑していた。
「ああ、家でじっとしているなんてもったいないよなぁ」
 窓を開け空を仰ぐ朱美。テレビでは紅葉狩り特集をやっている。
「そう言えば花見はしたけれど紅葉狩りはまだ無いよなあ。ああ、行きたいなあ。シンと。じゃない?」
 朱美は独り言をソファーの横で行儀よく佇んでいる大きなアルパカのぬいぐるみに言った。
「どうしよう? 今日は別に約束してないし。っていうか今日はバイトだったかな?」
 そう言って朱美はソファーへストンと腰を下ろすとローテーブルの上に置いてあったスマートフォンを手に取り予定表を見た。
 マメにシンの予定を聞いて自分の予定表にきっちり書いていた朱美は今日の予定を見る。
「今日はバイト入れてないな」
 自分もシンもフリーだと一人浮かれた。
 早速シンの家へと向う準備に入った。普段なら部屋着同然のラフな格好で行くところだが今日はシンとデートする気満々でアンバーカラーのニットチュニックをベースにレギンススタイルのアンサンブル。メイクは面倒だから手抜きスッピン風メイクが標準の朱美なのだが、今日はたまにしか引かないアイラインを入れ、合わせて滅多に入れないシャドウにチークをやんわりと加え、さらにはナチュラルピンクのリップグロスで仕上げた。そして肩には先月セントラルパークの全面改装前セールで手に入れたショルダーバッグを合わせて姿見でバランスを確認する。
「うん、悪くないわね」
 仕上げとして去年の誕生日にシンから貰ったリングを指に。
「あっ、爪」
 気分的にはデコレーションしたいと一瞬悩んだ。
「ま、いいや。また今度で」
 そこまでの時間はかけられないと朱美は階段を軽快に駆け降りると朱美の母がリビングで朱美が見ていた同じ番組をくつろいで見ていた。
「あら、シンくんとデート?」
 朱美の姿に爽やかな笑顔で聞いた。
「そう。今日はご飯、外で食べてくるね」
「うん分かった。遅くなりそうなら連絡するのよ」
「はい。お父さんは?」
「大須に行ったわ」
「また? 本当に好きだねぇ。たまには二人でデートくらいすれば良いのに」
「そうね。私が出不精だからね」
「今夜は外で食事でもしてきたら?」
「そうねぇ……たまにはそれもいいかな?」
「私からお父さんにメールしといてあげるよ」
「そんなのいいわよ。朱美、いいの? 時間?」
「あ。じゃ行ってきます」
 朱美は久しぶりにブーツを取り出すと足早に家を出た。

 デートする気満々の朱美はスキップする勢いくらいの気持ちでシンの家へと向かった。
 朱美の頬をかすめる北寄りの風は本格的な冬の訪れを知らせてくれる。世間はクリスマスに年末年始と忙しさを増していく雰囲気が漂う時期である。シンは受験を控えているから気持ちにゆとりが無いかもしれないがそんな時こそ外の空気を吸って気分転換して欲しい。その気持ちの強さが朱美を動かしている。それは澄んだこの青空が朱美にそうしなさいと語りかけているようで、そんな気持ちを持たせてくれる清々しい天気の下、朱美からは鼻歌が出てくる。

 朱美はシンの家に到着するとドアホンを鳴らした。
 が、返事はない。さらに二度押してみたものの反応がない。
「この時間に寝てるってことは無いだろうし、お手洗いとかかな?」
 ドアの前で朱美はボソッと独り言を口にするともう一度押してみる。
 しかし反応はない。
「まさか前みたいに?」
 朱美の脳裏に親子喧嘩の時のことが思い浮かぶ。ハッと慌ててドアノブに手をかけた。
「閉まってる」
 朱美はすぐさまバックからスマートフォンを取り出しシンへ電話した。するとシンはすぐに出た。
『もしもし』
「あ、シン。私。ねぇ、今、家?」
『図書館』
 シンの口から聞き慣れない、それも予想もしなかった返事に思わず朱美の声が裏返った。
「図書館っ? 何で?」
『何でって、勉強してるんだよ』
「いや、なんで図書館で?」
『気分転換』
 シンの意外な気分転換に朱美は何だか焦った。
「そ、そうなんだ……今、シンの家に来たらいないもんだから変だなと思ってね」
 体から一気に力が抜けた朱美は同時に自分の気持ちの空回り具合を思い知りドアに手をかけ項垂れた。
『何で変なんだよ? 俺が家にずっと引きこもってる方が普通か?』
 シンの声が刺々しく聞こえ朱美はその場でしゃがみこんだ。
「いやあ、そんなじゃないんだけど……そんなに突っかからなくても」
 益々朱美は自分が恥ずかしくなってきた。

 とは言え、一度や二度はそんな空回りがあったっておかしくはないだろう。付き合いも長くなればなるほど良いことも悪いことも増えていくものだ。と頭の先では分かっていても、その後三回も約束無しで家にいないと言うのは今まで無かった事だけに無性に嫌な予感がした朱美。
(シンに限って浮気なんてないだろうし……)

「そうとも限らないでしょ」
 朱美の心配と不安に同情の色を見せないユリはキッパリ言った。その言いぶりに意地悪なユリだと思った朱美は唇を尖らせて言う。
「ちょっとぉ、他人事だと思って」
「だって前彼がそうだったじゃん」
「もうぉ、思い出させないでよ。否定はしないけど」
「でしょ? 朱ちゃんはホント真っ直ぐだよね。好きになると」
「やっぱり重い?」
 朱美は様々な不安な気持ちにぐらつき、ユリへ救いを求める。
「正直、私は相性の問題だと思うよ。朱ちゃんは朱ちゃんでそのままで良いんじゃない? 疑心暗鬼になったら終わりよ。今は彼のことも考えてメールと電話中心にしとけば。それまで私の相手してよ」

 朱美は思った。

 疑心暗鬼―― 暗闇というだけで鬼がいるかのように恐れること。

 確かに目に見えない人の心や見えないところでの行動に対して疑う気持ちを持ってしまったらなかなか元の気持ちに戻るのは難しいと思う。
 別にシンを疑ってるわけじゃないんだけれど何かが違うんだよね。何かが。何かが変わった気がする。でも何かはよく分からない。
 ユリの言う通り25日までは大人しくしておこうかな? メールだけにして。

第14話 1225 ―第1部 朱美と陽光―

 西暦2059年12月25日。
 この日、死者およそ2千人。負傷者は6千人。国際的組織によるテロ事件が日本で起きた。
 これにより20世紀末に起きた地下鉄サリン事件を大きく凌ぐ日本史上最悪なテロ事件として日本の歴史に記録されることとなった。
 あらゆる痕跡を残すことなく全てを焼きつくし戦後のような状態を一瞬にして作り上げたこの大惨事は世界的に見ても新しいテロ攻撃として世界が注目した。
 そしてこの日を知る人の数だけ様々な形で記憶され、その記憶の断片が語り継がれて行き、いつかは錆びて朽ち、人類の歴史を形作る単なる一片となっていく……のだろうか?

       *

 12月25日18時53分。朱美は名古屋駅にある二つの高層ビルからなるタワーズの一階、中央コンコースにある金の時計の下でスマートフォン片手にやや大げさな声のトーンでシンとの会話をしている。
「あっ、シン? もしかして遅れそうって感じ?」
 今日はクリスマスであるのはもちろん、朱美の誕生日でもある。
『ごめん。正解。ちょっと電車に乗り遅れちゃって』
 心持ち元気の無いようにシンの声が聞こえた朱美。彼女はその元気無い声の原因と、シンの心情、本当のトコロをシンから聞き出したくて軽めに聞いてみた。
「ねぇ、シン。なんか私に隠してなーい?」
 朱美の周りでは朱美と同様の人待ちしている人々で溢れている。その中でも自分と同じ様に人待ち顔した独りの女性が時間を気にしている姿が朱美の視線を奪った。
『え? いきなり変なこと言うなぁ』
 朱美の耳にはシンの声と人の喧騒が聞こえている。
「だってさぁ、シン、家にいなかったでしょ?」
 朱美の声は自然と大きくなっていた。
『え? ごめん、電車の音でよく聞こえなかった。もう電車乗っちゃうからまた後で聞くよ』と言い残してシンとの通信は途絶えた。
 朱美の手にあるスマートフォンにシンの顔写真と0分32秒の通話時間が表示された画面を眺め、小さな溜め息と共に「シンはどこから来るんだろ?」とぽつり独り言を口にした。
 スマートフォンをコートのポケットへ納め目線をふと前へ向けると、さっきの女性と彼氏らしき男性が腕を組んで立ち話をする姿が映った。女性は朱美と同世代のように見える。対して男性は肌の感じと雰囲気からして30代半ばだろうか? 朱美はこれまで同い年と年下しか付き合ったことがない。
(一回りも年が離れた男性ってどんな感じなんだろう?)
 久し振りの友人との再会と思われる一行や若年カップルから老年カップル、そして家族連れに何処かのサークル集団までと朱美の周りには老若男女、様々な人々が待ち合わせの様子で溢れている情景を目にし、その人々の顔を見ていると平凡な幸せってこういうものだよなと朱美は思ったりした。そしてそういった中にも何処と無く陰りを感じるカップルも目に止まる。そうすると自分の前彼との苦い記憶がふと蘇って少し胸が締まる。
 まだ約束の時間までには5分ほどあるものの朱美は待ちぼうけの感覚を胸に金の時計から少し離れた時計周辺が見渡せる百貨店入口付近へと移動し気の抜けた感じでガラスの壁にもたれかかった。
(いつものシンなら私より早くいるのに……)
 朱美の目の前を人々が流れている。

 2時間前――
 朱美はシンとの約束時間が待ちきれずシンの家に寄った。イヴの夜も今年は一緒に過ごせず少々朱美は不満であった。だからこれくらいのフライングは付き合って2年半にもなるんだからいいじゃないかと思いシンの家に顔を出すと、現れたのはシンの父、陽光であった。
 陽光は朱美が来たのをインターホンで確認すると「おお、シンの彼女かい? さあ、入った入った。外は寒いだろ」と言ってドアを開け快く朱美を迎え入れた。
 朱美は陽光について行くと陽光はそのままリビングの炬燵に入り込んだ。
「まあ、入ってちょうだい。よかったら一杯飲んでいくか?」
 陽光が手招きするも朱美は「いえいえ」と素早く首と手を横に振って断りその場に正座した。
「おいおい、そんなに固くなっちゃいかんて(ダメだって)。俺の方が緊張しちまうがや。まあ、炬燵ぐらいは入りゃあ。別に襲やしないって」
「えっ?」
「女好きの俺でも息子の女には手出さねぇよ。しかも未成年の子供じゃなぁ」
 赤い顔した陽光はしゃがれた大きな声でそう言うとガハハと独り笑った。
 潔癖な人は陽光の言葉を下品で嫌悪するところだろうが朱美はシンから充分話を聞かされていた事に加え、品の有る無しよりも率直に思った事を言葉を選ぶことなく口にする所は案外気持ち良かった。それは自分に無いものだからだろうか? 朱美は不思議とすんなり陽光に対し「実は今日で私、二十歳なんです」と気兼ねなく応えていた。
 その言葉を聞いた陽光はすぐさま何かに叩き起こされたかのように目を大きく見開き特徴あるしゃがれ声で言った。
「なんだ、じゃあ正規解禁じゃねぇか。一緒に飲もうぜ。おっ、そうだ。出前とるわ。そんなめでたい日なら寿司をとるか。ちょっと待っててくれよ、お嬢ちゃん」
 陽光の子供のような無邪気な笑みは朱美の気持ちに余裕を生み出し、つい朱美は自分の家の様な振る舞いをしそうになったが自制心を維持させ、この人はシンのお父さんだと言い聞かせた。
「ちょ、ちょっと、おじさん。いいですよ、そんな気を使わなくて。今夜はシンくんと約束してるんで」
「まあまあ、お嬢ちゃんこそ気ぃ使わず気楽にしてちょ。どうせシンはいないし、前祝いだ」
 そう言って陽光は尻のポケットからスマートフォンを取り出し、出前寿司の電話番号を調べ始めた。
 朱美は陽光の言った“どうせシンはいない”という言葉が頭の中をかすめはしたが、目の前の陽光の行動に気をとられ足の痺れを忘れる勢いで立ち上がると陽光の手を押さえた。
「本当に気持ちだけでいいので。代わりにコップ一杯だけ頂きます」
 朱美は陽光へ念を押すように言うと直ぐ様グラスを台所から持ってきた。
「そうか。あんまり無理言っちゃいかんな」
 そう陽光が言っている間に朱美はコップを手に陽光からお酌を受ける準備が出来ていた。
「慣れた手つきだなぁ。だいぶ飲んでんだろ?」
(しまった)
 グラスの傾け具合は隠せなかった朱美。そしてそのまま陽光からビールを注がれると「ほれほれ」という催促にコップ一杯を一気に喉を鳴らして飲んでしまった。無意識の緊張があったのかそれとも陽光の勧め上手なのか朱美自身自分の行動を変に感じた。
「しかしシンは彼女をほったらかしてお勉強とは許せんな。今度会ったら拷問しといたるわ。どんなんが良い? とりあえず体を縛り上げてベランダに吊るすか?」
 陽光のまんざらでもない口調が少し怖く感じさせたが朱美はここでシンがいないという言葉を思い出した。
「本当にシンはいないんですか?」
「おお、いねぇわ」
 朱美は来た時まさかと思ったが、まさかがまさかだと分かると大きく落胆した。そしてそのまま朱美のグラスの手は陽光に向かって遠慮無しに突き出していた。
「おじさん、もう一杯いただいていいですか?」
「おお、いいぞいいぞ。きゅーっと行っちゃって」
 陽光はそう言って自分が飲んでいた500mlの缶ビールの残りを全部朱美のコップへと気分良く注いだ。
 再び喉を鳴らして一気にビールを飲み干した朱美は自分の知らないところでシンは何をやっているのかと腹立たしさを覚えた。
「で、シンと付き合ってどれくらいになるんだ?」
「二年半くらいです。おじさんはご存知無いと思いますけど実はシンくんが小学一年生になった時から一緒に遊んでたんですよ」
「マジかて?」
「同じ分団だったんですよ。それで私が小学校卒業してからはちょっと疎遠になったんですけどね、これがびっくり! シンくんが私と同じ高校に入って来たんですよ!」
「おおぉ、マジか? それは知らんかったなぁ」
 朱美の身振り手振りのオーバーアクションとテンションの上がったリズミカルな話し方に陽光も同じようなオーバーアクションで話に聞き入る。陽光にとって朱美の話は新鮮で、それも今時の女子大生というものに接点のがないだけに尚更だ。そしてシンの彼女という立場である目の前の女の陽気な話しぶりは単純に面白い。
「そういやぁ、名前を知らないなぁ。何て言うの?」
「あ、そういえば自己紹介してませんでしたっけ? すみません。改めまして、上甑町(かみこしきまち)朱美です」
「はぁ? カミコチキマチ? なんじゃそりゃ?」
「言いづらい変な名字ですよね。名字は無視してください。朱美です。よろしくお願いします」
「アケミちゃんね。で、シンと付き合ってて面白いかい?」
 陽光の聞かれなれない質問は朱美を少し驚かせた。
「え? 面白い? そう聞かれると答えにくいかも」
「いやぁ、つまらん男じゃねぇかと思ってよぉ」
「面白いとかは思った事ないですけど、一緒にいて楽しいですよ。つまらないことはないです。最近はちょっと時間が合わないというか噛み合わないというか……」
 朱美の曇った表情に陽光は聞いた。
「なんだ、で悩んでんのか?」
「悩むというほどでもないですけど……シンとは仲悪いんですか?」
 朱美は空きっ腹にビールが効いてるようで少し酔った感じで陽光へお返し的な質問をぶつけた。
「いきなりそういう質問か?」と楽しげに応える陽光。
「す、すみません」
「いや、別にいいけどよぉ。俺的には悪いと思っちゃいないけどな。男同士仲がいい方が気持ち悪ぃだろ?」
「気持ち悪いとまでは思いませんけど……」
「朱美ちゃんは俺とシンと仲良くして欲しいのか?」
「いえ、別にお願いしているわけじゃないですよ。ただどうなのかなと聞いてみただけです……」
 陽光は朱美の語り半分のところで黙って立ち上がり冷蔵庫へ向かい缶ビールを取り出すとその場で口にした。その様子は朱美に陽光の触れてはいけないところだったのかと思わせた。
 そしてわずかな沈黙。陽光が再び炬燵へと潜り込むと口を開いた。
「しかし、彼女の誕生日をないがしろにするとは何様だアイツは? よく黙ってんなぁ」
「ないがしろって言うのはちょっと大げさですよ。今夜は一緒に名駅で食事しますし。」
「予約してあんのか?」
「うーん、どうだろう? 多分」
「せっかく誕生日祝いに下準備もしねぇのか。ヤツは?」
「そーですね。シンはそういうのは苦手かな? 私もあまり気合い入れられてもどうかなと思うからいいんですよ」
「いやぁー、前戯は大切だぜ」
 陽光は大きく首を横に振り朱美へ真剣な眼差しで言った。
「それはちょっとまた別かと……」
 朱美はさすがにこれには照れた。
「女をどれだけ気持ち良くできるかが男の価値だからな。シンには教えてきたつもりだったんだがなぁ、悪ぃなぁ朱美ちゃん。デキの悪い息子で」
「そんなこと全然ないですよ。シンは今のシンだから一緒にいられるんです」
「まぁ、相性ってのがあるからなぁ。あけみちゃんが無理してないんだったらいいんだけどよ。なんかあったら俺に言ってくれや。何でも協力するぜ。そうだ、俺の連絡先教えとくわ」
「あ、じゃあ、私の連絡先も」
 朱美は連絡先を交換したところで立ち上がった。
「もうそろそろお(いとま)します。約束の時間に遅れるといけないんで」
「おぅ、そうか。シンに会ったら、ちょっとは俺の電話に出ろって言っといてくれ」
「そんなに電話でないんですか?」
「おお。だから会ったらよぉ、とりあえず俺の代わりに蹴り入れといてくれよ」
「はい。じゃあそうします!」
 陽光と打ち解けた感じになれて気分良くシンの家を出た朱美。朱美のいなくなった家の中が一気に暗くなった気がした陽光。
「やっぱ女がいると違うな」
 そう独り言を言って続いて陽光も家を出た。

第15話 1225 ―第2部 発火―

 世界中がクリスマスをショービジネスとして華やかに展開しているこの時期。都市という人々が群れ集まる地域ではイルミネーションを最大限に輝かせ街行く人々を虜にする。
 しかし彼ら、名も土地も持たない組織にとっては無意味で価値の無い祭り行事でしかなかった。その彼らは約5年の歳月を費やし“メリークリスマス”と街中に、ネット中に飛び交う言葉を黙らせる新たな記念日とするべく準備を整え、ついに今日その時を迎える。

 彼らを世間一般では国際テロ組織と表されるだろうがCIAを中核に各国の情報捜査機関の網に一切掛からず、また存在する知られることなく活動してこられた実績はかつてのテロ集団とは一線を画する。
 彼らは兵器の類は一切保有していない。拳銃一挺すらもだ。ではサイバーテロ組織かというとそれも違う。サイバーテロの手軽さは超個人によるうっ憤晴らし程度で、たとえ組織的に事を成しても結果はつまらないものだと歴史が既に証明していた。それは一時的混乱を生み出すことが出来てもそれまででしかない。彼らにしてみれば民主的デモ活動レベル。一時の話題作りに一役買うだけで効果の薄さは明白。そしてかつてのsuicide attackもナンセンス行為であると彼ら組織に属する者たちの意見は一致していた。人を使い捨てる行為は軍隊と変わらないとして。
 ではその様な考えを持った者が集まる組織の創成、源はどこにあったのだろうか?
 個々が別々の思念や思惟というものを持っていたにも関わらず一つの到達点を求めて組織と言う束になれたその訳は?
 それは“仮想敵”と言う敵を作り出し、国防国益を名分に軍備増強と維持をし続け、軍事に存在価値を与え続けてきた者たちとそれを放任してきた者たちへの粛清。

 無意識下で眠っていた矛盾と混沌で埋め尽くされた不調和不均衡社会規範への不快感の答えを導き出すために、独り独りが孤独で悩み考え、個人努力によって生み出された発想と技術、そしてネットを介さない偶然の積み重ねからの日常交流が全くの不自然さを持たない人間同士の交流をもたらし、その結果、互いに同じ志を持った者同士ひと度繋がりだすと、国、人種の枠を越え、意志の繋がりは目には見えない強大かつ強固な塊となり、それが一般で言う過激な行動を起こすに至るまでになった。そして彼らが言う“粛清”という名の行為は惨劇と悲惨さにあふれる状況を見事に作り出した。

          *

 GMT10時00分00秒。日本時間19時00分00秒。旧JR名古屋駅にある二つの高層ビルからなるタワーズの東側壁面を飾るサンタクロースをモチーフとした大きなLEDイルミネーションの一ヶ所の極めて小さな爆発から彼らの計画が始まった。それは街が生み出す喧騒でかき消されるほどの弱々しい爆発。誰一人気付くことなく小さな火は発火地点からゆっくりと連なり炎と化していた。
 そしてその炎がイルミネーションを焼き潰していくこと約3分。タワーズ前の通りを挟んでイルミネーションを眺めていた誰かがイルミネーションから煙を出していることに気づいた。

 時同じくして壁面すぐ下にあるテラスではLEDイルミネーションのトンネルが光の冬景色を作り出し通り行く人々にホワイトクリスマスの雰囲気を大いに味わわせ楽しませていた中、何処かしらから異臭を感じた数名がざわめきのきっかけを作った。そして今起きている異変に気付き始めた人々が加速度を増して波状に広がって行った。
 発火開始後5分。タワーズ東側壁面一体は本来のLEDイルミネーションから黒煙を交えた炎のイルミネーションと大きく変化した。
 その頃タワーズ前周辺の歩道では炎のイルミネーションに釣られて野次馬で溢れかえっていた。しかしその頃にはその野次馬の頭上にある街路樹を着飾ったLEDイルミネーションも静かに発火し始めていたのだ。
 だがタワーズ壁面の火災に気を奪われていた野次馬たちは誰もまだそのことに気づいてはいない。

 すべては彼らの計画通りである――

 街路樹の発火からの燃え広がりはタワーズ壁面とは違い異常なほど速かった。4、5メートルおきに発火し始めると一瞬にして街路樹と共にLEDライトの導線を伝い周囲の木々へと火が燃え広がり、熱く燃え盛る真っ赤な炎の壁を歩道へ作った。
 歩道にいた人々はこの驚愕の事態に様々な反応を見せた。
「逃げろぉ!」と喚き叫び逃げ出す者。
 しゃがみこんでただ震え上がる者。
 衣服や髪に火が飛び移りあえぎもだえ叫ぶ者。
 それを助けようと着ていたコートで必死に消そうとする者。
 それを横目に一目散にただ遠くへと駆け出す者。
 そして炎の壁を挟んで車道では突然の出来事に急ブレーキをかけた車による多重衝突事故に車を乗り捨て逃げ惑う人々。と、人の数だけ多種多様な突発行動を引き起こし錯乱と混濁の状況を作りあげていた。
 タワーズ前周辺は炎と黒煙、そして灼熱が容赦なく人々を襲い、地獄絵図そのものと化していた……

 彼らの作ったナノ技術を利用した爆破装置は一つ一つの爆破威力は大変小さなものであったが、連鎖させることで強大な力を得ることができるものであった。そして彼らの仕掛けは発火装置だけではなかった。恐ろしいのはすでにナノ技術とバイオ技術を駆使して建造物そのものを脆くするよう各所に特殊なウイルスをばら撒き侵食させていたところだ。今後、彼らの表現する可憐な仕上げとしてシナリオは展開される――

第16話 1225 ―第3部 金時計広場―

 発火開始同時刻19時00分。タワーズの中はまだ日常の風景に満たされていた。
 外の異常に気付いたのは8分ほど経過してのことだ。
 二階通路にいた客の数人がガラス越しに二階テラスを慌てて逃げ惑う人々を目にしたことをきっかけに外で起きている事実におののき、恐れながらも外が火事であると周囲の人々に声かけを行っていた。
 その言葉に興味本位で行動した人々はその事実を自らの目で確認するため一斉にテラスへ飛び出し事実を確認すると一斉に声を上げた。
「何だあれ?」
「道路が燃えてるぞ!」
「屋根も燃えてるんじゃないか!?」
「ここの壁も燃えてるぞ」
「消防呼べ!」
「早く逃げろ!」
 そんな二階の不穏な動きが一階へと伝わり一階にいた好奇心旺盛な人々が何事かと東側出口へと向かった。

 シンを待つ朱美の周囲が急に(せわ)しく人が行き来し始めざわついていたが、朱美は目を伏せたままイヤホンで音楽を聴いていてその状況には全く気付いていなかった。
 朱美のまぶたの裏に映るのは周囲の人々の幸せな笑顔とノリのよい楽しい会話。今日はせっかくのクリスマスであり、自分の誕生日という大切だった日が退屈に思えてきた。
 朱美はシンが自分に内緒で何を考えて何をしているのか? と気持ちを揺さぶる不安感がにじみ出ていることにどうしたら良いのか? これは私がシンから信頼されてないということの証明じゃないのか? そんな風に思えて仕方がなかった。
「早く来ないかなあ、シン……」
 朱美はそうぽそり口にしながら閉じていたまぶたをゆっくり開けぼんやりと正面に立つ金時計を見ると時計の針は7時5分を回っていた。
 そのまま朱美は時間潰しにと無造作にコートのポケットに手を入れスマートフォンを取り出しネットへ繋いだ。
「えっ?」
 朱美が登録しているソーシャルネットワークサービスのトップページにタワーズが大火災といった文字が立ち並んでいた。
 朱美は慌てて辺りを見渡すとどことなしか人の流れが慌ただしく見えたが火事が起きている雰囲気には見えなかった。
 朱美はもう一度スマートフォンに目をやり、じっくり中身を見ていく。するとタワーズの外壁が燃えている画像を見つけた。
「うそ!? マジで?」
 思わず声が出た朱美にそれを証明するかのごとく耳に聞こえていた音楽をかき消すほどの大ボリュームで構内アナウンスが流れた。朱美はすぐさま右耳のイヤホンを外しアナウンスに耳を傾けた。
『タワーズ館内にお見えの皆様方にご連絡いたします。タワーズ東側壁面、桜通口(さくらどおりぐち)側にて火災が発生いたしました。皆様、各階におります保安員、従業員の指示に従い落ち着いて避難をお願います。皆様くれぐれも落ち着いての行動をお願い致します。繰り返します……』
「本当にホントなの?」
 朱美の独り言が自然と大きくなる。
 アナウンスが一通り流れたところで、人の流れは一気に西側の出口へと向かった。ここを知る者は言われずとも逃げ道は理解できる。知らない者は流れに従うだけである。朱美はそれを目に納めるとその場で直ぐ様シンへ電話した。
「ダメだ。もうっ!」
 このところのシンの繋がらなさに輪をかけてこんな時にも繋がらない事に腹を立たせる朱美だが、それは裏腹に今この状況に対して自分一人だという事に寂しさと不安が沸き立ったことを振り払うためのごまかしだ。
 そうしている間に朱美の目の前は上の階から降りてきた人々で溢れ朱美は壁に張り付いたまま身動きが取れないほどになっていた。
 この状況に朱美は益々不安が募り、何度もシンへの電話を試みるが繋がらない。
(もしかして地下鉄も止まったのかな?)
 朱美は急いで地下鉄の運行情報を調べようとスマートフォンの画面を見るとネットから落ちていた。無意識に出る舌打ちと共にネットへ再接続しようとすると『回線が見つかりません』の無情なメッセージが現れた。
「うそでしょ? もうパンク?」
 すると朱美の鼻に焦げ臭く気分が悪くなるような異臭を感じた。
「やっぱり本当なんだよね?」
 朱美は周りの状況と臭いを感じて外で起きている火災という事実を受け入れてまずは逃げなくてはいけないのかと思った。
 と、そこへ「こちらは危険です! 反対側の太閤通(たいこうどおり)口へ向かってください! 走らないで!」と緊張感ある男の声が朱美の耳に届いた。朱美はその声の方を背伸びするように見ると避難する人々の頭越しに拡声器を持った警官らしき人物がちらちらと目に入った。それは火災が起きているという桜通口側だ。朱美は見えない外の状況がどこか未だ信じられず少しでも確かな情報に触れたくて人の流れに逆らって無理やりその警官のところへと向かった。
 しかし人の流れはものすごいもので、わずか数メートルの距離を人を掻き分け歩くことにずいぶん手間取った朱美は軽く息を切らせた状態で警官へと大声で聞いた。
「何があったんですか?」
「イルミネーションの火災のようです。さあ、早く移動して下さい!」
「あ、はい」
 避難する人々の喧噪(けんそう)ともみ合う状況の中、まともな話もできず朱美は早々に諦め、警官が言うのだからネット画像は本物なんだと納得して移動することにした。
 この時、鼻を突く異臭は一段ときつくなっていた。朱美は急いでハンカチを取り出し口に当て逃げ出す人々の流れに合流した。

       *

 場所は再び屋外へと移る。時間は19時13分。
 消防隊の一部は現場へと到着し消火活動と合わせてビルの中にいる人々の救出活動へと動き始めてはいたが地上は炎に埋め尽くされ簡単にタワーズへ近づける状況ではなかった。
 それはすでに南北に並び建つタワーズの東正面にあるロータリーから東へ真っ直ぐ伸びる桜通りは炎のプロムナードと変わり果て、人の近づくことなど到底できるはずもない場所となっていた。
 しかしその炎のプロムナードに沿ってタワーズへ向かって行く漆黒の飛行物体があった。
 その大きさはカラスが羽を広げたくらいの大きさである。しかし飛ぶ姿はカラスではなく鷲のごとく狙いを定めた獲物を目がけ向かっていく姿のように炎のプロムナードを突き進んでいた。
 そして漆黒の物体はタワーズにあるガラス張りのエレベーターへと躊躇なく突っ込み分厚い強化ガラスをいとも簡単に割りそのまま壁へ激突した。すると一瞬にしてエレベーターに沿って強烈な爆音と共に火柱が昇った。
 すでに停止していたエレベーターであったが残念ながら人の群れに押されて取り残されていた人たちは目下に広がる炎の海の景色に真実味を感じないままこの世を去って行った。

第17話 1225 ―第4部 混濁―

 火災の情報を受け取ったタワーズに入っているデパートやホテルの責任者たちは内心大きな動揺を持ちながらも個々の連絡網を駆使して客の避難の指揮をしていた。
 最初、火災の連絡を受けた時の責任者たちはタワーズ前一体が燃えていると聞くと誰もが一言目は「冗談だろ」であった。その後窓を覗くと冗談ではない状況に「嘘だろ」と誰もが自分の目を疑った。

 一方、現場では上司の指示を受け各スタッフたちが客を誘導し始めようとしていたが地上が炎の海になっているとの情報を受け、誰もが手をこまねいていた。
 従業員自身が事態をよく把握できていない中、残念ながら上から伝わってくる情報よりも客たちが手にするネット情報の方が外で起きている事態の情報が豊富かつ正確であった。そのため客たちは自己判断での避難が自然に機能し始めていた。そして客たち各々はとにかく安全にここから出なくてはという思いが一致し、従業員たちの心配をよそに極度なパニックやヒステリーになることなくスムースに避難を開始していた。
 そして外で起きている事態に対し従業員側としては定期的に行ってきた災害避難訓練と現実では状況が違い、自分たちが成す事が何かを見失い客にまみれて逃げ出す者も多くいた。
 先にその結果なのであるが、彼らの多くは文字通り命拾いをした。完全な想定外の事態が起きていた事にただの火災ではないと誰も感じていた訳で悠長に警察や消防との災害訓練の時のような行動などしていられない。あえてやることと言えば従業員用通路を解放して少し案内の声を出すくらいだ。逃げ道が別にもあると分かると客たちは勝手に分散していく。
 そして人は建物から逃げようとするときは地上に向かって逃げていく。よってすべての階段、エスカレーターといった避難経路に群がる人の流れは下へ下へと流れ続いていた。
 そこに賢い人物数名はいち早く貴重品とスマートフォンを片手に一部しか知らされていない階段を使って上へと息を切らせながらも上り続けているのも裏で起きている事実であった。

          *

 タワーズから避難する人々の多くは知人や家族からの連絡で外の状況を聞いていた。しかし回線がパンク状態となっているため、情報を直接手に入れられない人たちは周囲から漏れる会話や、直接訪ねるなどして情報収集をしていた。
 そして誰もがイルミネーションが一斉に燃え出すなどという事態を事故であるとは到底思えなかった。それも街中が燃えるなど人為的なものに決まっている。つまりテロだ。
 しかし、テロとは思うも多くの者たちはなぜこのような場所がテロの標的になるのか解せないと口々にしていた。
 そのようなタワーズ内にいた人々はあらゆる不安と恐怖心を抱えた状態でとにかくこの場を離れようと人の群れは少しでも早く安全と思われるタワーズ一階、旧JR西側出口、通称“駅裏”を目指していた。土地勘の無い者は自ずとその流れに従うことが良策だろうとして従っていく。

 その頃の朱美はまだ金の時計近くで避難する人々の群れに流されるままゆっくりと歩いていた。一階コンコースはまっすぐ西側出口へとつながっているのだが、途中中央に地下へ降りる階段が用意されていた。朱美は155センチと身長は高くないため周囲の状況が分からないでいた。そして流されるままに歩いていたら地下街へと向かう幅5メートルほどある階段へと押し流されていた。そして朱美は周囲の人達と歩調を合わせながら階段を一段一段降りていく。一階と地下とを結ぶ階段はかなり段数があり、一階と地下までの深さは10メートルはある。
 階段を半分ほど降りてきたところで地下街との合流地点で避難する人々が溢れ渋滞しているのが朱美の目に入った。それを目にしたことで状況は差し迫ったものだと再認識させられたが、口からは思わず溜め息が漏れた。普段なら地下へ降りるのに30秒とかからないところへ5分かかってもまだ中間の踊り場辺りだ。そこに輪をかけ人が密集しているせいで12月とは思えない熱気で背中は随分汗ばみ防寒肌着など脱ぎ捨てたい衝動が沸き立つ。
(シンは今どこなんだろ? 大丈夫かな?)
 朱美は人の群れに押されながらも右手に握られたたままのスマートフォンで何度もシンと連絡を取ろうとしていたが繋がらず、熱気と相まって苛立ちは募るばかりだ。
「ああ、もう伝言板しかダメなの? ん? って言うより電波切れてるじゃん!」
 人混みまみれのど真ん中で大きな独り言を口にすると大きな溜め息を朱美は出した。
 朱美は周り一体が人に満ち溢れていてもシンと連絡がつかないことで孤独感を浮き立たせ、大海を独り漂流しているかの気持ちで不安だった。

 ぞろりぞろりと歩み進む避難者たち。朱美の目にようやく地下街の通路がはっきり見えるあたりまでやって来た。
「すごい人だ……」
 地下街は地下鉄やデパ地下とも繋がっている。そこにいた人々がなだれ込んで来ているんだというのは朱美には容易に想像できた。その地下街との合流地点の渋滞を確認すると仕方ないかとあきらめの気持ちを持つことで落ち着こうとした。
 そこに突然、朱美の脚を通して地響きと轟音が伝わり階段にいた人々は一気に体勢を崩し将棋倒しが起きた。
 倒れた人々の苦痛を訴えるうめき声があちらこちらで聞こえる。朱美は自分の下に中年女性の背中を押してしまう形で倒れこんだ。「すみません」と言葉にしたかったが朱美自身の背中にも誰かがのしかかり息苦しい状態だった。そして周りの状況がよく解らなくなっていた。
 すると一気に照明が消え、辺り一体が闇となった。そしてうめき声が悲鳴に変わった。
 朱美には暗くなった事は分かったが苦しさで闇への感覚があまりなかった。それは数秒後再び明かりが点ったこともあるからだろう。
 しかし明かりが点ると同時に脳天を突き刺すような激しく金属が擦れる音が耳に聞こえた。その音は朱美が人に押し潰された苦しい状態から目を覚まさせた。そして息苦しさをも押さえ込ませた声が朱美の口から叫び出た。
「イヤァァ!」
 地下街と階段が交わる箇所に設置された防火シャッターが不自然な速度で天井から降りてきていた。そしてそれに気づいていた数名の者も朱美同様に声をあげた。
「危ない!」
 しかしそれぞれの気持ち、止めさせたい、避けさせたいという気持ちを裏切りその下にいた人々を餌食にした。

第18話 1225 ―機密―

 19時20分ごろ。場所は変わりタワーズから東に1kmほど離れたところにある国際センタービル前で道路を封鎖し、近隣のビルにいる民間人の避難誘導をしていた若い警官たち。その目の前では消防隊が消火活動を進めている。
「これだけの火事となると市内の消防車全部かき集めても消しきれないんじゃないか?」
「本当だな。このままじゃタワーズに近づくのにどれだけの時間がかかるのやら」
「しかしクリスマスの夜に立派な巨大蝋燭だな。誰が吹き消すんだ?」
「オマエこんな時にそんな不謹慎な冗談言うなよ」
「こんな時だからくだらないことでも言わなきゃやってられねぇよ」
「怖いのか?」
「ああ、怖いさ。あの炎見て怖くないやつの方が異常じゃねぇか? 夢だと思いたいよ。さっき人みたいなやつが落ちてくのが見えたんだ」
「本当かよ? 気のせいだろ?」
「昔アメリカで起きたテロでもそうだったんだろ? あまりの熱さに耐えられず飛び降りたって」
「あれはたしかイスラム系の過激派が旅客機をぶつけたんだよな?」
「たしかそうだ」
「今も活動してるのか?」
「さあ……こんな派手なことやるデカイ組織はもういないって聞くけどな。それにわざわざ日本でやる意味ってあるのか? しかも名古屋で」
「たしかに。やるなら東京だよな」
「そう言えばさっき上の連中が奴らが来るって言ってたぜ」
「奴らって?」
「さぁ、俺もさっぱり」
「なんだよ、それ」
 そこへ彼らに無線が入った。
『タワーズ爆発火災事件本部より那古野(なごの)ポイントのメンバーに連絡する。あと数分ほどで特攻隊御一行がそこへ到着するそうだ。ひき殺されないよう注意しろ。到着後より現場一体の指揮権は特攻隊へと移行する。その後は丸の内ポイントへ移動してマスコミの相手をしてやってくれ。かなり膨れ上がっているようだ』
「特殊部隊か。こんな所はとっととお任せしたいね。俺らの仕事じゃねぇよ」
 無線が切れた直後、どこからか低く鳴り響くジェット音が聞こえてきた。
「おい、何か飛んできぞ? あれじゃないか?」
 一人の警官が東の空へと指差して言った。その先には横長の大きな影を作った物体が道路沿いに立ち並ぶビル群と同程度の高さを飛行して近づいてくるのが見えた。
「あれか?」
「それっぽいな」
 瞬く間にその物体は警官たちとの距離を縮めると警官たちは爆音に耐えきれず耳を両手で塞いだ。
 飛行物体はタワーズ正面へとまっすぐ延びる桜通りを滑走路に見立てて着陸すると彼らの目の前で停止し、その姿をあらわにした。ダークグレーの艶塗し塗装が施された飛行物体は一見するとライトプレーンのようなスタイルであるが、両翼には小型自動車ほどの大きさをした卵型の物体がぶら下がっていた。その飛行物体が計3機。
「なんだこれ?」
「こいつはちょっと記念に」
 そういって一人の警官はスマートフォンをポケットから取り出し動画撮影を始めた。
「おい、ヤバくねぇか? バレたら懲戒免職ものじゃねぇ?」
「大丈夫だろ。別にネットに流す訳じゃねぇし」
「そう言ってどこかのマスコミに売るんだろ? テロ現場の貴重な映像です、とか言って」
「高く売れるかな?」
「さぁ」
 警官たちがそんなやり取りをしている間に自衛隊のヘリが数機道路上に着陸すると自衛隊員たちが意気揚々と現れた。
 普段であれば一般市民で賑わっているこの場所が一瞬にして自動小銃を手に迷彩服を身に纏った自衛隊員で埋めつくされた。21世紀に入って日本で初めての光景となる。そういう意味では警官が今撮影している映像は貴重なものとなる。報道規制は当然敷かれており、報道陣はここからさらに1キロ離れた場所で足止めされており近づけない状態であった。
「おい、あれ、動き出したぞ」
 スマートフォン片手の警官はズームさせて飛行機を凝視する。
 ライトプレーンのような飛行機にぶら下がっていた卵型した物体はモーター音を唸らせながら四本の脚を伸ばすと、飛行機から本体を突き放し意外なほど静かに着地した。そして計6台のその物体、マシンは半円の形に整列した。
「なんだあれ?」
「ヘヴィ・ワーカーに似てるけど……ちょっと違うな」
「あれってもしかして武装兵器?」
 二人は顔を見合わせた。
「もしかしてスクープ?」
「いやあ俺達が知らなかっただけだろ。マニアは知ってんじゃねぇの?」
 そんなやり取りをしていると6台のマシンは四本の脚を折りたたむと一列になってまだ完全に消し切れていない炎のプロムナードに向かって突入した。そして消えた。
「消えた?」
「お前もそう思った?」
 炎や煙で隠されたといった風ではなく、二人の目には瞬間移動でもしたかのように見えた。

 このマシンが映った映像が後に日米関係を大きく揺るがし、そして全世界の軍事関係者を震撼させ、日本の孤立化、独自路線への第一歩の始まりになる強烈な映像になろうとは撮影をしていた警官は思いもしていなかった。

第19話 1225 ―声明―

 タワーズ火災事件(後に名古屋テロ事件と改名)を実施した彼らによる犯行声明が発火開始後30分、日本時間19時30分にネット上に公開された。
 それは世界中の侵入が容易な個人サーバーを経由して、40あまりの言語を使い音声と文により様々な情報端末に向けて世界同時配信された。
 その声は時には男。時には女。時には子供。そして時には老人とデジタル作成音を使った奇怪なものであった。


 私たちは貴方たちの鏡である。よく見よ、その姿。その身に纏った物は何だ? その手にしている物は何だ? 私達は貴方たちがそれを手放し脱ぎ捨てるまで私たちも手放さない。
 よく考えよ、貴方たちが多くか弱き命をどれだけ奪い去ったことを。
 よく考えよ、貴方たちの欲望を満たすために死に追いやられた者のことを。
 よく考えよ、母なるこの地球を蝕む自分たちの行いを。

 私たちは貴方たちの所持する、護ることを方便に我々を脅迫し続ける兵器を保有保持し続けるならばそれと同等のもの生産し続け人類の永久戦争という歴史を遺すことになるであろう。

 私たちは国境無き地球人である。
 故に私たちの同胞はこの地球上至るところに存在している。
 例え同胞の一人だろうと百人だろうと捕らえるなり殺したとしてもそれはマッチを擦り新たな蝋燭に灯を点した程度のことだけである。
 
 人が生きる道、手法の選択は自由でありその選択こそ人の権利である。私たちの選択は貴方たちの武器の放棄を目的の脅迫行為であると明言する。
 私たちも貴方たちと同等の殺傷技術を保持し我々の身を守る。貴方たちが手放すまで堪えず。それが真の平等である。

 弾丸一つの威力に対する効果はいかほどだろうか?
 
 ロケット弾一つの威力はいかほどだろうか?
 
 戦闘機一機の威力は?
 
 原子力空母の威力は?
 
 そして未だに核を保有保持することで利己的自己保身主義を貫き恐怖の価値観を高みに上げ我々に脅しかける貴方たち。
 それから私たちは身を守るために私たちも同等の殺傷能力のある物を所持するのは当然の権利である。これは人対人の中にある平等な権利である。
 しかし私たちは自分たちの死を恐れての保身行動ではない。私たちは貴方たちより遥かに高貴に生きている。
 ほんの一握りの傲慢さに支配される世界は不要である。
 
 国境無き地球人はどこにでもいる。私達は領土も人種も区切りのないただの地球人の集まりである。


 彼らの行った行為は十分に効果を発揮した結果を残したようだ。その後の日本では街中を迷彩服を纏い自動小銃を手にした自衛隊員が闊歩し、一般市民は日常的に不安に心縛られ生活し、そして好戦家たちを興奮させ彼らの行為を露骨な挑発と捉えて世界中が簡単にのったのだ。犯人捜しのための戦争ビジネス活性化に。

 なおそれから約14時間後、アメリカ時間19時丁度にはブルックリン橋が突如崩落するという事態が発生していた。これも彼らの仕掛けである。
 そして翌年の旧正月には中国の北京、韓国のソウルで日本と同等の作戦を実施。続いて3月から4月にかけてロシアのモスクワ、フランスのリヨン、イタリアではミラノ、イギリスはバーミンガム、そしてオーストラリアのメルボルンと最終的には国連加盟国の約半数の国にてアトランダムな都市にて作戦を実施させ成功を収めた。その結果、本格的な世界規模の無数の見えない敵、対テロ型冷戦構造国家のスタイルが2060年より世界で始まることとなった。

第20話 陽光のクリスマス

 陽光にとってクリスマスだとか何とかデーといった記念日の類には興味なかった。金と面倒がかかるだけで面白いことはまず無い。しかし大抵の女はそういった日に何かイベント染みたことをやると喜ぶので若い頃は面倒くさいと思いながらも色々とやった。
 陽光の経験でいうと4割の確率でやれる。陽光の連れは4割なら十分じゃないかと言うが陽光には不満だった。時間と金と神経を使ってそれだけの成果は納得できない。その上マグロもたまには良いが続くと疲れる。
 陽光はベッドの上では下から女を眺めるのが好きだった。ほとんどの女が自分より背が低いからか見慣れない角度で眺められることに旨味を感じていた。
 しかしそれはもう遠い過去の話である。いい加減飽きたという言い方がしっくり来る。今でもたまに抱きたくなるような陽光好みのいい女に遭遇することはあったが面倒が付いてくる気がして手が延びなかった。また陽光は金で買うというのは嫌だった。女を機械のように扱いたくなかったし、金が動いたとたん契約臭さが浮き立ち、結局自分がコントロールされている感覚になることが不愉快であった。

 そういった訳で今では陽光にとって12月24日も25日もただの一日。今年も同様だ。寂れた小さな古風居酒屋でちびちびやってあとは家に帰って寝るだけだ。

 居酒屋エミちゃんの店主、柳田エミリィはイギリス人と日本人のハーフでグラマラスな体つきに陽光は夢中であった。が、これも遠い過去の話である。今の陽光からは年老いたエミリィへの興味は消え失せている。地球の重力に負けた体つきに魅力はもう無い。
 しかしそれでも今も彼女を慕っていた。それは気ままに居られる空気感。結局、彼女を抱けなかったわけだがのんびりとここで酒と(さかな)を口にし、時には馬鹿話をしあったり、時には愚痴を溢しあったり。そして時にはただ黙って時間を共にするだけ……という過ごし方ができる空間であった。
 もしかしたら世間一般では理想の妻と言えた相手かも知れない。ただ過去の陽光にはそう言う関係を作ると疲れるのが関の山だと分かっていたので彼女の店で時間を過ごすことに癒しを感じていた。他にもそう言う思いを持ってこの店へやって来る客も多かったが、今もまだこうして通い続ける客は陽光だけになっていた。

 陽光とエミリィだけの静かな空間。ほんのり漂う醤油と出汁の香り。二人の大人がカウンターを挟んで静かにたたずむ風景。
 昔話に花を咲かせた後の二人の間にほんの空白ができるとエミリィはグラスのビールを軽く口にし冗談交じりの口調で唐突に言った。
「轟さん、もう今年いっぱいで店、閉めることにしたわ」
「は? おい、まじかて?」
 陽光は突然の告白に驚き、一瞬姿勢を正した。
「もう馴染みのお客さんは轟さんだけだし、一時期この手の店もリバイバルブームで若い子らも来たりしてたけど、もうダメね」
「で、後はどうするんだい?」
「まだ年金生活は出来ないから貯金切り崩しながら何かパートでも探すわ」
「エミちゃんにこの仕事以外にできることあるんか?」
「分かってるわね、轟さん。だから私を養ってくれない?」
 冗談に満ちた流し目で言うエミリィ。
「たわけ。10年言うのが遅ぇんだよ。10年前だったら考えてたけどよぉ」
 陽光としては本気の言葉だ。10年前までなら面倒事を引き受ける元気と勢いがあったと自負している。
「冗談よ。私の性格分かってるくせに」
 エミリィはカラカラと笑い、飲みかけのビールを一気に喉を通すと思いつくままに話をつないだ。
「ところで息子さんたちは元気?」
「おお。特にシンの奴は俺に似てるのか似てねえのか大学行くって言って意地になって勉強なんざ頑張っててよぉ、最近じゃ連絡もつかねぇぜ」
「似てるって言うのは意地にってところが?」
「そりゃ当たり前だろ」
 今度のエミリィはクスクスと笑った。
「何がおかしい?」
「轟さんはただの頑固でしょ?」
「意地も頑固も同じじゃねーか。だいたい今日は奴の彼女の誕生日だ、っつうのに彼女放っぽり出してどっか行ってやがる」
「あら、たしかにそんな日ぐらいはねぇ。でも何でそんな事知ってるの?」
「今日の午後家でぼぉーっとしてたら朱美ちゃんが来てよぉ」
「息子さんの彼女?」
「おお。まぁ何つーか、若い女っつうのは面白ぇなあ。あれこれポンポン喋るでよぉ」
「それに年は関係ないわよぉ」と陽光の話にエミリィはクスクス笑うと続けた。
「でもさすが轟さんね。息子さんの彼女と会話できるなんて。ここに来るお客さんなんか自分の娘の言ってる事が分からないって言う人、結構多いわよ」
 そう言ってエミリィは陽光へと流し目を見せてまたクスクスと笑った。
 
 二人の会話がスムースに流れる中、かけっぱなしのテレビから『番組の途中ですが緊急速報です』という言葉がエミリィの耳に入った。するとエミリィは無意識にテレビへと目を移した。
『緊急速報です。今入りました情報です。今現在、名古屋市中村区にあるセントラルタワーズにて大火災が発生し消防が駆けつけ消火活動をしているとのことです。現在の映像はNHK名古屋放送局からのライブ映像です』
 テレビに映し出された映像は黒煙と赤い炎に包まれた二つの高層ビル、セントラルタワーズであった。
「えぇっ!? 大変! 何あれ? ものすごい火事よ」
 エミリィは目を丸くして驚きをあらわにした。
「おおお、随分と派手な祭りだな。学校はつまらんかったけどよぉ、キャンプ・ファイヤーは面白かったぜ」
 酔いの回っている陽光はヘラヘラと笑いながら大声で言った。
「何言ってんのよ。そんな冗談言ってる場合じゃないわよ」
 エミリィはあまりの衝撃映像に陽光を叱った。
「何が?」
「名古屋駅で大火災だって。あれタワーズよ」
「タワーズ? タワーズってあんなんだったか?」
「それは燃えてはっきり見えないからよ。すごい煙と炎。中の人達、大丈夫かしら?」
「あの辺はもうしばらく行ってないからよぉ。よう分からんわ」
『この映像はNHK名古屋放送局から西の方角を映しています。セントラルタワーズの二つのビルが炎と黒煙で上の方の階が顔を覗かしているだけの状態です。今、現場近くに到着した野村アナウンサーより中継です』
『はい、こちらはセントラルタワーズより東へおよそ2キロ離れた桜通りは那古野(なごの)町付近です。すでに消防隊がかなり多く駆けつけ消火活動にあたっています』
 映像はアナウンサー越しにパトカーが並べられ、その奥では消防車が数台。そして赤いはずの消防車が黒く見えるほどの炎が燃え広がり、背景はかげろうを帯びている。
『野村さん、被害状況はどうなんでしょうか?』
『ええー、正直、全く分からないのが現状です。消防、警察とも状況が把握しきれていないもようで情報が錯綜しておりまして……』
 テレビに釘付けになっていた二人だが、陽光は得意の大声を突如あげた。
「そう言やぁよお、タワーズって名駅(めいえき)だったよな?」
 慣れているエミリィは陽光のつまらない質問にテレビを観たまま簡単に答えた。
「ええ、そうよ。なによ今さら」
「こりゃいかん。すぐ朱美ちゃんに連絡せんと」
 そう言って陽光は慌てて尻のポケットからスマートフォンを取り出すと朱美へと電話した。
「んん、電波が届かないかぁ」
 首をかしげて言う陽光にエミリィはテレビから陽光へ目を移し聞いた。
「まさか息子さんたち名駅にいるの?」
「おお、思い出したんだわ。朱美ちゃんが名駅でシンのやつと待ち合わせしてるって言ってたの」
 その言葉にエミリィはアイラインで強調された目を大きく広げて驚くと即座に言った。
「大丈夫かしら? 息子さんには?」
「おお、いっぺんアイツにかけてみるか」
 陽光はエミリィの言葉を受けて今度はシンへと電話すると陽光の耳にはいつもの呼び出し音が鳴り続くだけだった。
「まあ、あいかわらず繋がらねぇやあいつは」とスマートフォンにむかって吐くように陽光は言った。
「それは電波届かないって事?」
「いや、受信拒否だ」
「冗談でしょ? いくらなんでも受信拒否は無いでしょ?」
「繋がっても出ないってことよ」
 エミリィは陽光の話に眉を八の字にさせ聞いた。
「そんなに仲悪いの?」
「知らねぇーよ。あいつが独りツンテンしてんだよ」
「そうなの……でも心配じゃない…… 災害時伝言板にメッセ残しておいたら?」
 エミリィはテレビに映る映像が痛烈に惨く陽光の子供たちが無事でいるか陽光以上に心配になった。
「そんなクソ面倒くさいことできるか。俺が心配なのは朱美ちゃんだ」
 子供がすねたように唇を突き出して相変わらずな事を言う陽光にエミリィは「だったら朱美ちゃんにでもいいから。きっと少したら連絡があるわよ」と陽光へ強く言って促し伝言メッセージを陽光に残させた。

第21話 親父のくせに―序の口―

 シンは珍しく焦っていた。今日は夜7時に朱美と名古屋駅で会う約束をしていたのだが確実に遅刻する時刻となっていた。
「ああぁ、久しぶりのデートでしかも朱美の誕生日だっていうのに……ヤバいなぁ……くっそぉ」
 遅刻をしない主義、人を待たせるのが嫌いなシンは遅れているわけでもない地下鉄がなかなか来ないことに苛立ち、右足のつま先は小刻みにタップし続ける。そして繰り返し見る腕時計。
 今回シンは名古屋駅へ向かうために普段は使わない地下鉄を使った。そのことで乗り換えに手間取ってしまったのだが、そこに輪をかけ名古屋駅とは逆方向の地下鉄に乗ってしまうという大きなミスを犯してしまい、気づいたのは乗ってから2つ目の駅を出発する瞬間であった。
 そしてシンが今いる場所は気づいてすぐ降りた3つ目の駅、車道(くるまみち)の名古屋駅方面行きのホームにいた。そのためこの散々をやらかしてしまい遅刻の原因を作った自分自身への腹立たしさを感じていたシンに落ち着く余裕はなかった。
 するとそこへジャケットの内ポケットにあったスマートフォンが振動した。
(朱美かな?)
 スマートフォンを取り出すと案の定、そこには朱美の名と冗談ぽくキスを迫る朱美の動画が写し出されていた。それを目にしたシンは軽く顔をしかめ電話に出た。
「もしもし」
『あっ、シン? もしかして遅れそうって感じ?』
 間髪入れずに来た朱美の声。シンはこの少しキーの高い透き通った声が好きだった。だからこの声はシンにとって心地良いものだ。
「ごめん。正解。ちょっと電車に乗り遅れちゃって」
 弱気な小声で応えるシン。
『ねぇ、シン。なんか私に隠してなーい?』
 朱美はいたずらっぽくリズミカルな口調でシンへ続けて聞いた。シンは朱美の声から表情が容易に想像できた。そして自分がほぼ家出中という話を伝えてないことを聞き出そうとしていることもだ。
「え? いきなり変なこと言うなぁ」
『だってさぁ、シン、家にいなかったでしょ?』
 的中だ。シンは朱美に黙っていたことに悪気を感じたが後で会って話そうと思い誤魔化す事にした。
「え? ごめん、電車の音でよく聞こえなかった。もう電車乗っちゃうからまた後で聞くよ」
 何が味方したか良いタイミングで地下鉄がやってきた。シンは人ごみに押されるようにして地下鉄に乗り込むと同時に言い放つようにして電話を切った。スマートフォンに表示された0分32秒の通話時間と朱美の繰り返すキスの画面を眺めシンは小さな溜め息と共に「やっぱり隠し事は良くないよな」とぽつり口にした。

 シンはようやく名古屋駅方面行きの地下鉄に乗り、名古屋駅二つ手前である丸の内駅を出発して間もなく、不意をつく急ブレーキがかかった。シンは吊り革を握っていて耐えられたがスマートフォンやフィルムノートを手にしていて不用意な状態だったいくらかの乗客たちはそのまま倒れ込んだり、周囲の乗客に寄りかかったりするような形となった。
 時間も夕時かつ名古屋駅方面へ向かうと言うこともあり混み合っていた車内は動揺と緊張の世界に支配されていた。そしてややぎこちなくも淡々と言葉を口にする車掌の車内アナウンスが流れた。
『ええー緊急停車しまして大変申し訳ありません。車内のお客様へ連絡します。只今入りました情報で、現在名古屋駅にて大規模な火災が発生したとの連絡が入りました』
 この車内アナウンスに乗客は一斉に声をあげた。
『しばらくそのままお待ちください。先頭車両と後尾車両のドアより順次列車を降りていただき徒歩にて丸の内駅まで戻っていただきます。またお怪我をされた方などいましたらドア付近にある緊急ボタン等で乗務員へお知らせください』
 ここまで固唾を飲み耳を澄ませていた乗客たちは溜め息と唸り声のハーモニーになっていない合唱を始めた。
 シンはスマートフォンに表示される電波の繋がっていない状態に不安が募る。
「名駅で火災って……朱美は?」
 スマートフォンの待ち受け画面一杯に映る朱美の笑顔。今年の夏休みに行ったディズニーランドでの写真。朱美はそのバカ笑いしすぎの写真を嫌って少し澄まし顔の画像を送り付け「これに変えてよ」と言っていた。しかしシンにはこの天真爛漫な笑顔がとてもお気に入りで今でも変えずにいた。なんだかここから朱美の声が聞こえるようで。シンは今日の失敗を強く悔やんだ。そして今ここに、手で触れられる距離にいない朱美が恋しく、そして彼女の状況が分からないことが不安で堪らなかった。

         *

 その頃、陽光は朱美、シンへと交互に電話を入れるが一向につながらず、その都度舌打ちをしては「ダメだがや」と声に出してはまた電話と繰り返していた。
 エミリィは陽光の様子を心配そうに黙って見つめていた。
「やっぱ我慢できん。ちょっと行ってくるわ」
 突然陽光は椅子を倒す勢いで立ち上がって言った。
「え? どこへ?」
「悪ぃエミちゃん、今日はつけといて」と陽光はエミリィの心配げな表情をまともに見ることなく言い放って店を飛び出した。
「ちょっと、轟さん! もう、つけぐらい別に今に始まったことじゃないけれど……でも一体どこにいくつもりよ?」
 エミリィは目を丸くして陽光が飛び出して行った姿を見送ると炎に包まれた名古屋駅周辺と、早口で緊張感ある口調で話すアナウンサーを映すテレビを眺めた。無性な不安感を胸に……。

 居酒屋エミちゃんを飛び出した陽光はそのまま駆け足で交通量の比較的多い通りまで出ると辺りを見渡し空車タクシーを遠くから向かって来るのを見つけるとすぐさま車道へ飛び出し両手を挙げ「ここだぁーっ! 止まれぇ!」と叫んだ。
 タクシー運転手はライトの向こう側にいきなり現れた男の姿に言葉が出ない驚きで渾身の急ブレーキをかけると同時に目を瞑った。
「自分は何も悪くない。大丈夫だよな」と運転手はそう信じて力強く閉じられた目をゆっくり開けた。
「!」
 期待虚しくそこに立っていると思っていた男はフロントガラス越しにはいなかった。
「ちょ、ちょっと勘弁してくれよぉ! まだ一年も経ってないのに人身事故って……勘弁してくれ……」
 50代前半のこの男はなんとか普通2種免許を取って正式採用になった矢先の出来事に今にも泣き出しそうに声を震わせながら確認するためドアをそっと開けようとした。
「おお、運ちゃん、尾張建設まで頼むわ! 急いでくれ!」
「うおわぁぁ!」
 背後からの馬鹿でかい声に運転手はコントでもしているかのような大袈裟な驚きの表情と大声をあげ、そしてドアを押し開けるようにして車外へと転げ落ちた。
「おお、悪い悪い。大丈夫かい? ちょっとマジ急いでんだ。早く動かしてくれ」
 陽光は後部座席から覗き込み運転手へと言った。すると運転手は落とした制帽を拾い頭に被せつつ陽光に向かって大声で返した。
「お客さんっ! なんて危ないことするんですかっ! てっきり轢いてしまったかと思ったじゃないですかぁ!」
「悪ぃって謝ってんだろ! こっちは急いでるんだ。早くしろっ!」
 間髪入れず陽光の口から出た音圧力ある声に運転手はあっさり「はい」と応えると体を小さくしながら運転席へと戻った。
(こいつは嫌な客を拾っちまった。ヤクザか?)
 と思いつつ運転手はちらちらとバックミラー越しに陽光へと尋ねた。
「あのぉ、で、どちらまで?」
「尾張建設まで頼むわ」
 陽光から漂う酒臭さと知らない名前を聞かされた運転手は少し顔を歪ませ聞いた。
「尾張建設? それはどこですか?」
「オマエ、尾張建設も知らねぇのか? 俺の職場だがや」
「いや、それはちょっと……すみません。地名とか何か目印になる建物とかを……」
「ったくしゃあねぇ運ちゃんだなぁ。ナビあるだろう。ナビ。ちゃっちゃっと使って検索しろよ」
 陽光は言い終わるや否や後部座席からそそくさと降りて運転手の隣へと座りタクシーに備え付けのナビゲーション装置に向かって「尾張建設まで行ってくれ!」と叫んだ。ナビゲーションシステムはその声に反応し『尾張建設、目的地に設定されました。しばらくこのまま直進です』と言葉を発した。
「ほれ、あとは頼むわ」
 陽光はそのままシートを少し後ろへ倒すとすぐに尻のポケットからスマートフォンを取り出しいじり始めた。
 タクシー運転手は横目で陽光をチラリと目にして(世の中色んな人がいるものだ)と感心とは違う感慨を抱きつつ車を走らせた。

「あの田分け。いい加減に出ろっつうの」
 運転手の隣で叫ぶ陽光に(この酔っ払いが)と悪態を胸の中で呟きながらラジオから流れる名古屋駅での火災情報がよく聞こえるように音量を上げた。するとそこへすかさず陽光が入ってきた。
「おお、運ちゃん。火事はどうなってんだい?」
「いやぁ、もう聞いてる限り手のつけられない広がりらしいですよ。森林火災みたいな」
「おいおいマジかて。朱美ちゃん大丈夫かなぁ? おい急いでくれ運ちゃん」
「え? もしかして知り合いが今名駅にいるんですか?」
 陽光の言葉に素直に運転手は驚いた。
「おお、そうなんだわ。ちょっとマジやばい感じだからな。助けに行かなくちゃ」
「お客さん! それならそうと早く言ってくださいよ。一大事じゃないですか! すっ飛ばして行きますわ」と運転手は陽光の酒臭さのことなど一気に吹き飛ばしハンドルをしっかりと握り直した。
「頼むわ。早く助けんとな」
 陽光の真剣な眼差しと口調に運転手は(尾張建設って救助隊と関係あるのだろうか?)とわずかな疑問を抱きつつアクセルを踏み込んだ。

第22話 親父のくせに―真面目に陽光―

 尾張建設前に到着したタクシーの中の陽光は「サンクス!」と言ってダッシュボードに取り付けられたIDチェッカーへ勝手に手を当て支払いを済ませてタクシーから飛び降りた。
「あ、ありがとうございます……」
 10分ほどのドライブだったがその間、運転手が受けた最初の印象からは意外と思うほど陽光は無口だった。よほど切羽詰まった状況にあるんだと感じ言葉をかけることが出来なかった運転手。
(大丈夫だといいんだけれど)
 と運転手は胸で呟くと軽く前屈みになり陽光が入っていった尾張建設を眺めた。
「しかしどう見てもただの建設会社だよなぁ……クレーンとか置いてあるだけだし。もしかして実は建設会社に見せかけて地下には公にされてない極秘組織の部隊みたいのがあったりして。アニメ見すぎかな、俺?」
 自分の言葉にニヤリ面白がった運転手は料金メーターを賃走から空車に切り替えると車を発進させた。

 良く晴れた冬の透き通った夜空に青白く輝く月の下、尾張建設は防犯用ライトが数か所点灯しているだけで静かであった。普段であれば19時台はまだまだ賑やかな構内であるが今日は12月25日。尾張建設ではクリスマスは毎年休日という粋な計らいを行っている。創業者の平川は常々「家族や友人、恋人を大切せにゃならん。クリスマスっていう日はそういう大切な人と一緒に過ごす日だ」と言って会社の休日として創業時から行ってきた。しかしそれも今年が最後となるのだが。
 そしてその静けさの中、陽光はいつになく機敏な動きで通用口を通過し自分専用と化している中型クラスのヘヴィ・ワーカーへと歩み寄った。
 酒が充分に回った体の熱を焦りの気持ちが一層持ち上げている感覚の中にあった陽光は冷えきったヘヴィ・ワーカーのドアノブを気にかけることなく力強く握った。ID識別されドアロック解除音が鳴ると同時に陽光は勢いよくドアを開け飛び乗った。
 よく冷えたコックピットに陽光が納まると彼の熱気が簡単にコックピットの窓たちを曇らせる。そして陽光は黙ったままヘヴィ・ワーカーを起動させた。
 一瞬震えるディーゼルエンジンとシュンッと軽快なモーター始動音を発し起動するヘヴィ・ワーカー。そして陽光を囲む計器類がやんわりと光放ちハンドル左上にあるメインモニターにOS起動ロゴが表示され初期稼働チェックが始まる。そして数秒後。
『ID確認できました。おはようございます、轟陽光様』
「オッス、マイ・ハニー。急いどるからよぉ、ちゃっちゃと頼むわ」
 陽光の吐く息はまだ白い。
『アルコール呼気中濃度0.40mgを検出しました。操縦不可能です』
「田分け! 今はそんなモンどうでもいいっちゅうのっ!」
 ヘヴィ・ワーカーの言葉を受け陽光はモニターに向かって罵声を飛ばした。その陽光のハンドルを掴む両手の人差し指は落ち着きなく動き続けている。分かっていた反応だけに陽光は苛立ちよりも純粋な焦りを感じていた。
「なんか良い方法ないんかて……」
 アルコールに満たされフワフワする頭でヘヴィ・ワーカーを動かす手段を思案してみる。背もたれを倒して天井を仰いでみたり、窓の外を右、前、左と何度も何度も周囲を視点定めることなくチラチラと見てみたり……
「ぬわぁぁ! なんも思いつかねぇ!」
 狭いコックピット内で一人叫ぶ陽光はヘルメットごとハンドルへ頭を数回叩きつけた。ヘビィ・ワーカーは陽光が声を出すたび『操縦不可能です』の言葉を冷やかに浴びせる。

 ヘヴィ・ワーカーの声がうるさく鳴り響くコックピット内。陽光は都会の雑踏に紛れ佇む孤独人(こどくびと)かのような彼らしくない孤立静寂な世界に入り込んでいた。つい数十分前までの居酒屋エミちゃんで得た心地よい酔いは完全に消え失せ、諦め半分の萎えた状態の陽光は口から出す言葉を無くしていた。
 そこでふと、ここに来た訳、朱美の状況がどうなのかという心配を思い出した。
「そうだ、もうそろそろ繋がらねぇか?」
 スマートフォンを取り出し朱美へ電話をかけてみるが相変わらず不通であった。
「んー……」
 スマートフォンを眺める陽光の赤く黒い顔は極めて神妙だった。

 そして再びの沈黙。時間にしておおよそ一分。

「クソ暑くなってきたぜ」
 オートエアコンが効き始めコクピット内の暑さに気づいた陽光は窓を全開にした。すると冷えた空気が一気にコックピットに充満し陽光の熱くなった体と顔を足元からしっかりと覆った。
「気持ちええわぁー」
 途方に暮れ頭の中がただれて変になりそうな気分だった陽光は外の冷たい空気は素晴らしく爽快であった。そして涼しさを倍増させるため冷えた空気を掌で煽いで顔へと送った。
『アルコール呼気中濃度0.36mgを検出しました。操縦不可能です』
「んっ!?」
 突然のヘヴィ・ワーカーの声に陽光は耳を疑った。そしてだらけた姿勢を正しモニターに目をやった。
「おい、マジかて? 数字が下がった?」
 モニターに映る数字は0.36mg。間違いない。陽光はさっきよりも勢いをつけて風を送ってみた。
『アルコール呼気中濃度0.32mgを検出しました。操縦不能です』
「ちょっとちょっと、これ行けちゃう?」
 数字が下がっている事実にニッタリと笑みをこぼし勢いづいた陽光は今度は両手を使って風をマイクに内蔵されたセンサーへ風を送った。
「行け行け!」
 モニターに表示される数字は少し下がってはまた戻りを繰り返すが次第に疲れて来た陽光は息があがってきた。
「クッソー、良い感じなんだけどなぁ。なんか扇ぐもんねえか?」と辺りを見渡す。しかし武骨な工事用重機の車内には計器類がメインのダッシュボードにモニターがあるだけのコックピット。これといったものは目につかない。
「無いわな」と言って今度は顔を窓の外に出して勢いをつけて両手で扇いでみたが0.30mgが最高値。運転可能なのは半分の0.15mg未満でないといけないのは陽光でも知っている。
「なあ、マイ・ハニー。もう遊びはこのくらいにしとこうぜ。俺疲れたわ。もういいだろ? 頼む、一瞬でいいからよぉ、今日だけのお願い! いや、一生のお願い!」
 モニターに向かい柏手(かしわで)を打つ陽光。しかしそれでロックが解除されることがあるわけなく、またそうしたら神かその使いが天から舞い降りてきて奇跡が起きるというファンタジーもない。それが現実である……はずである……

 ふにゃあぁ

「ん?」
 陽光の耳に聞き慣れない小さな物音が聞こえた。しかしその物音は機械的な感じでなく当たりの柔らかい息のある感触だった。陽光は窓から頭を出し聞き耳を立てた。
「気のせいか……」

 ふにゃあぁ

「んん?」
 陽光の耳にはたしかにヘヴィ・ワーカーの出す音と違う音が聞こえた。そこで試しに陽光はもう一度手を叩いてみた。

 ふにゃあぁ、ふにゃあぁぁぁ

「もしかして……」
 陽光はそう呟くと一度外へ降り車体後部へ回り込んでエンジンルームの観音開きのメンテナンスハッチを開けた。エンジンルーム内はライトが灯りスッキリしたエンジンルームが奥まで良く見渡せる。ハッチを開けてすぐ手前には両手で抱えられるくらいの小型ディーゼルエンジンが黒い樹脂パネルでカバーリングされて置かれ、その奥に巨大なモーターが二基並んで見える。スタンバイ状態の動力源たちは静かでエンジンルームの両サイドに付けられた冷却用ファンが回るわずかな音が聞こえるだけだ。
 陽光は中を除き込むようにして自慢のしゃがれ声で「にゃあ」と一声出した。するとカサッと何やらいる気配を感じさせる音が中から聞こえた。
「こりゃいるな。おい、出てこいや」
 今度は何も変化がない。そこで陽光は息をゆっくり大きく吸い込み勢いをつけて大声を張り上げた。
「オラァァァァァッ!!」
 すると奥の方でドンッと鈍い音がしたかと思うといきなりエンジン下の隙間から陽光の顔めがけて何かが飛び出してきた。陽光はその何かに怯むことなく反射的に両手が素早く動き何かをしっかり両手で受け止めた。
「ぶにゃあぁぁぁ!」
 その物体は茶褐色のまだら模様でずっしり体格のいい野良猫だった。陽光は右手で猫掴みにするとまじまじと野良猫を見て言った。
「このデブ猫。お前そうとう良いもん食ってんな。で、こんな所でぬくぬくしとったんか?」
 陽光に掴まれぶら下がった状態の猫は目をしばしばさせると自分の置かれた状態など気にすることなく大きなあくびをした。それを見た陽光は猫の顔を自分の顔へ引き寄せ聞いた。
「なあ、おまえ酒飲んでねぇだろ?」

第23話 親父のくせに―陽光だから。シンだから。―

『アルコール呼気中濃度0.15mg未満確認できました。ロック解除します』
 その音声がコックピットに流れた瞬間、陽光は満面の笑顔で大はしゃぎし猫の頭をもみくちゃに撫で回し叫んだ。
「やるじゃねぇかぁ! にゃんこ! 所詮機械は機械だな。ざまぁみろだぜ、このクソ田分け」
 そんな陽光の興奮をよそに陽光の手にぶら下がったまま大きなあくびをする猫。
「オマエのあくびのおかげだぜ。ちょっと臭いけどな。そんじゃ行くぜ」
 陽光の無謀な方法、猫の息を使うという荒業はいとも簡単にヘヴィ・ワーカーの計測器を騙す事ができた。たまたま居合わせた猫の肺活量が(あなど)れないものだったのが陽光へ幸運をもたらしたようだ。しかし酒気帯び運転であることには間違いないのだが。

 ヘヴィ・ワーカーで陽光がすったもんだとしていた頃、実は尾張建設事務所の中で一人仕事をしている男がいた。
 会社は休日とはいえ平日ならば現場は動いているもので、休日返上でカバーしている者がいるのが現実である。その犠牲になるのが飯島のような独身単身者であった。
 しかし去年のように地味にかつ淡々と仕事をしている状況ではなかった。ネット端末に緊急速報で『名古屋駅大火災』の文字が現れそれを目にした飯島はすぐさま事務所の壁面に張り付けられた大型フィルムモニターをオンにして地上波放送に切り替えた。そこに映し出されたのは夕焼け空のような橙色に夜空を染める炎を背景に黒煙に見え隠れすセントラルタワーズであった。
 それを見た飯島は仕事どころではないとネット放送による生中継も同時に見ながらセントラルタワーズの大火災に見入っていた。
「何だこれ……これ、ヤバいでしょ? マジかて……?」
 飯島には見慣れた風景である場所が非現実的な世界を作っている。自分の通勤経路であるだけに時間が合致すれば自分もあの中にいたのかもしれない。そう思うと身震いした。
 テレビアナウンサーたちがあれこれと騒いで状況を伝える声が響き渡る薄暗い事務所で一人、飯島は緊張しながらその映像に見入っていると配車専用端末からアラームが鳴っていることに気付いた。飯島は振り向きモニターが点滅していることを確認すると椅子に座ったまま軽快に椅子を滑らせ配車専用端末前へと移動した。
「あ、4号機が動いている。パイロットは轟さんか」
 そのまま飯島はヘヴィ・ワーカー4号機へと通信を入れた。
「轟さん、何やってるんですか?」
『なんだジマっち。いたんか? 相変わらず一人でシコシコやっとったんか?』
 陽光の言葉に軽く舌打ちを入れると飯島は呆れた口調で言った。
「いちいち余分な事言わないでいいですよ。いいでしょ、別に他人(ひと)の事は。ほっといてください」
 相変わらず人の質問に素直に答えない人だなと思う飯島だが、その思いに応えるように陽光は彼女のいない飯島へ言った。
『いい歳して女の一人もいないヤツは可哀想だのぉーせっかくのクリスマスによぉ。そんじゃちょっくら出かけてくるんで』
「出かけるって何です? 今日は轟さん普通に休みでしょ。勝手にヘヴィ・ワーカーを持ち出さないで下さいよ」
 陽光の面白くない言葉に飯島は唇を尖らせながら強い口調で言った。
『ったく、いつも真面目に固いことばかり言いやがって。今度よぉ女子大生紹介してやるから。今からそのために名駅まで行ってくるんだて。じゃな、ジマっち!」
 この陽光の返事に飯島は声を裏返して言った。
「はぁ!? 名駅? 名駅って……」
 はっと振り向きタワーズの火災映像を目に入れた飯島は叫ぶように言った。
「今、めっちゃヤバいことになってる所に何しに行くんですかぁっ!?」と口にした後、小声で「で、女子大生っていうのは?」と付け加えて。
『ったく、いちいち細けぇなぁ。朱美ちゃん救出大作戦だ。そんじゃまたな』
 そう言って陽光の方側で通信を遮断されてしまい不通となった。
「轟さんっ! 意味不明なこと言わないでください! 轟さん! なんだよ朱美ちゃん救出大作戦って?」
 首を傾げ渋い顔つきをしつつもポツリ「女子大生の話は期待できる気がする」と素直な思いを口にした飯島であった。

          *

 シンは地下鉄のトンネルを他の乗客と隊列を組む形でゆっくり歩いていた。こんなところからではダメだと分かっていてもシンの視線はスマートフォンにあった。アンテナの状況にだけに神経を向けて。そしてスマートフォンに映る朱美が声なき笑顔でシンへと応えている。
(会いたい……)
 溜め息を漏らし焦りが募る。焦りと言う恋しさ。そして一歩一歩と足を進めるたびに増していく後悔の思い。
 地下鉄のトンネルは想像以上に起伏のあるものであった。地上を歩いていたらどれほど早く簡単に着いただろうか。そう強く思うほど足にだるさを覚え歩き疲れを感じていたシンの目にようやく丸の内駅ホームの明かりが見えてきた。そして両手でしっかりと握り続けられたスマートフォンが電波をそこでキャッチした。
「来たっ!」
 周りの人々の存在を忘れ大声を張り上げたシン。それに呼応するように周囲でも手持ちの携帯端末を見て嬉々と騒ぎ出し各々が連絡を一斉に始めた。
 しかし電波が入ったもののシンの耳に聞こえてきたのは不安を煽るだけの味気ないメッセージであった。
「……」
 今の気持ちのやり場が見つけられないシン。徐々に冷静さを失っていることが自分で分かる過剰な苛立ちと胸騒ぎ。どれほど窮屈で息苦しいほどの避難する人々に囲まれようとも朱美が見えない、声が聞こえない。あの温かい手と肌の温もり。そして匂い。幼き日のシンの心情が蘇り究極の孤独感に(さいな)まれる。
(朱美……どこにいるんだよ……)

 そのまま地下鉄から避難してきた人々は丸の内駅で散らばる形となりシンはただひたすらリダイヤルを繰り返しながら無意識に地上へと上がった。そしてそこでシンを待ち構えたていたのはまたもや人の群れであった。ただし今までと違っていたのは誰もが同一方向に顔を向け、悲壮感に溢れた顔つきで立ちすくむ人々ばかりであったことだ。
 朱美の状況だけに気が向いていたシンも異様な空気が引っ掛かり目をスマートフォンから移動させた。
「んっ!」
 赤い夜空にふたつの黒い影。シンの目には信じられない光景が入り込んできた。
「なんだよあれ……火災って……火災ってもんじゃないじゃないか……」
 シンの中での常識を遥かに超えた光景が朱美への想いを激しく募らせた。
 そして間もなく、シンの目の前で悪夢の光景が展開された。

 それは、あるべきものが一瞬にして消えて無くなること――

 炎と黒煙に包まれていたセントラルタワーズが数キロ離れているシンのいる場所でも聞こえる轟音と共に突如パズルを崩すかのごとくいとも簡単に今もまだ燃え盛っている炎の海へと一瞬にして沈んで消えた。
 シンはその光景に時間(とき)の感覚を麻痺させられた。

――これは現実なのか?

「朱美ぃぃぃぃぃぃぃっ!」
 シンは未だかつて出したことのない大声を張り上げた。
「嘘だろ? 嘘だろ? 朱美! 何処にいるんだよ! 朱美ぃっ!」
 同じ言葉を繰り返し繰り返し口にするシンは何度も何度も震える手でリダイヤルを繰り返す。
「どうしてなんだよ! どうしてこうなるんだよ! なんで一緒にいられなかったんだよぉ……なんで俺だけこんなところで、こんなところで……なんであんなものを見てんだよ……朱美、お願いだから連絡くれよ……繋がってくれ……お願いだ……」
 繋がらない電話に何度も話しかけるシン。勝手に溢れて出てくる涙。現実の世界から遠ざけるかのように目の前のものすべてがぼやけにじみ映る。
「朱美、朱美、朱美、朱美、朱美……朱美、朱美、あけみ……」
 シンは声を震わせながら言葉を吐き続けそのまま膝から落ちた。
「一体今まで俺は何をやってたんだよ? 何のために何をやってたんだよ? 朱美、どこかにいるんだよな? 俺は、俺は……ただ親父から逃げることばかり考えて、朱美がいたことに……どれだけ……甘えていたんだろう……。お願いだよ、朱美。繋がってくれ。応えてくれよ。会いたい……朱美ぃぃぃぃ!」
 すべてが崩れた。シンの頭の中で描かれていたこれからの時間、今までのものから抜け出して新しい自分の道を行くんだとやってきたこと全てが崩れた。この時のシンにはそうとしか思えなかった。

 その姿を見て誰が慰めの言葉などかけられようか?

 今もなお信じることのできない現状にシンは跪き項垂れていると、シンの手から離れ地面に置かれたスマートフォンが光放ち振動する姿を見つけた。するとシンは高揚し貪るようにスマートフォンを手に取りすぐさま電話に出た。
「朱美!」
『おおー、やっと出たかよ、このクソガキが』
 シンの耳に聞こえたのは父、陽光の声であった。
「お、親父?」
『シン、急ぎだ。ちょっと教えてくれ。朱美ちゃんのIDナンバーとプラベート・キー・ナンバーを教えろ』
 予期せぬ人物からの電話と内容に慌てたシンはどう答えていいのか分からぬまま無意識に会話した。
「は? なんでそんなもん親父に教えなくちゃいけないだ?」
『オマエ、一人でいるんだろ? 朱美ちゃんはそこにいないんだろ?』
「なんで分かるんだよ、そんなこと?」
『オマエがアホだからだ。名駅で待ち合わせしてたんだろ? 今、朱美ちゃん名駅にいるんだろ!?』
 陽光はシンの心境に構うことなく言葉を浴びせる。それに弱々しく応えるシン。
「わからない……けど、連絡は……つかない……未だに……」
『ハッキリしねぇなぁ。どう考えてもそういうことになるだろうが。このクソ田分け! だったらなおさらだ。早く教えろ!』
 陽光の理解できない質問と容赦ない言葉に反抗心が湧き上がったシンは今度は食いつくように応えた。
「お、親父にそんなん教えてどうするっていうんだよ!?」
『オマエじゃどうにもできんだろうから俺がなんとかしてくる』
「訳わからねぇ適当なこと言いやがって。親父に何ができるって言うんだよ?」
『とりあえず伝言なんちゃらってとこに朱美ちゃんへメッセ残しといたでよぉ。IDナンバーとプラベート・キー・ナンバーがわかりゃコイツでだいたいの居場所はつかめるからよ。教えろ』
 陽光が言い終わるとシンは濡れた顔を袖で拭い「うん」と言って陽光に従った。

第24話 親父のくせに―探索―

 陽光は朱美がいると思われる名古屋駅に向かってヘヴィ・ワーカーを走らせていた。一応ナビの目的地設定を名古屋駅としていたが、そこは陽光である。ナビの案内は基本無視で自分の思うがまま、自分の勘だよりの最短最速ルートで向かっていた。
 そして尾張建設を出てしばらくしてからだ。普段からかけっ放しの音楽チャンネルのラジオから突如奇妙な音声が流れ始めた。
『私たちは貴方たちの鏡である。よく見よ、その姿。その身に纏った物は何だ? その手にしている物は何だ?』
「おいおい、なんだこれ……?」
『よく考えよ、貴方たちが多くか弱き命をどれだけ奪い去ったことを。よく考えよ、貴方たちの欲望を満たすために死に追いやられた者のことを。よく考えよ、母なるこの地球を蝕む自分たちの行いを……』
「気味悪ぃなぁ。ハッキングか……しかし、何言ってんだこいつ? 意味分かんねぇわ。そんな事言っとる暇あったら畑でも耕しとれっていうの」
 陽光はそう吐き捨てるように言うと耳障りなラジオを切った。そして信号待ちを機に尻のポケットからスマートフォンを取り出しダッシュボード左下のボックスへ置いた。
「シンへ電話してくれ」
 陽光は酔い覚めぬ状態のままであったが一つ一つの行動は冷静であった。しかしハンドルを握る手の人差し指のタップは信号待ちの間止まることはない。
『シン様へお電話します』とヘヴィ・ワーカーは音声で対応するとともに自動で電話回線を開いた。そして信号が青へと変わると同時にシンと電話がつながった。
『朱美!』
 ヘルメット内臓スピーカーが割れんばかりの音量でシンの声が陽光の耳を通し頭を震わせた。陽光はその声に一瞬顔をしかめるもニヤリとして言った。
「おおー、やっと出たかよ、このクソガキが」
『お、親父?』
「シン、急ぎだ。ちょっと教えてくれ。朱美ちゃんのIDナンバーとプラベート・キー・ナンバーを教えろ」
『は? なんでそんなもん親父に教えなくちゃいけないだ?』
「オマエ、一人でいるんだろ? 朱美ちゃんはそこにいないんだろ?」
『なんで分かるんだよ、そんなこと?』
(思ったより頭の悪いガキだな……)
 自分の勘は絶対的なものだと信じているのが陽光である。朱美とつながらずシンとつながる。その事実は陽光には確信的に朱美の危機を察知しており、その事が陽光にシンの鈍さを思い知らせる。
「オマエがアホだからだ。名駅で待ち合わせしてたんだろ? 今、朱美ちゃん名駅にいるんだろ!?」
『わからない……けど、連絡は……つかない……未だに……』
 面倒くさい返事をするシンに苛立った陽光は怒鳴った。
「ハッキリしねぇなぁ。どう考えてもそういうことになるだろうが。このクソ田分け! だったらなおさらだ。早く教えろ!」
『お、親父にそんなん教えてどうするっていうんだよ!?』
「オマエじゃどうにもできんだろうから俺がなんとかしてくる」
『訳わからねぇ適当なこと言いやがって。親父に何ができるって言うんだよ?』
 シンの声が震えていて、その原因は十分陽光には分かっていた。がしかし。シンがどこにいてどうしているかは興味なく、シンとつながったことで朱美を探す手立てが見つかったことに満足していた陽光であった。
「とりあえず伝言なんちゃらってとこに朱美ちゃんへメッセ残しといたでよぉ。IDナンバーとプラベート・キー・ナンバーがわかりゃコイツでだいたいの居場所はつかめるからよ。教えろ」
 陽光は右斜め前方に橙色の夜空が目に入ってきた。そしてシンはというと陽光の言葉に何をためらっているのかしばらく反応しなかった。そして陽光もまた口を閉じ橙色の夜空に向かってハンドルを切っていた。
 それから間もなく。シンは『うん』と言って朱美のIDナンバーとプラベート・キー・ナンバーを陽光へと伝えた。

 シンからナンバーを聞き出すと陽光は即座に左の肘掛けに付けられたコントローラーで探索プログラムを起動させモニターへと表示させた。
「えーっと……で、何番だったけ?」
 陽光は股の上で丸まって寝ていた猫の寝顔に向かって言った。
「って、TEL番も覚えれねぇ俺が全部覚えれるわけないがやぁ!」
 そう言って独り陽光はしゃがれ声を最大限にして大爆笑した。
「アホだわぁ。聞いたわいいけど覚えれるかっちゅうの、この俺に。なあ?」
 猫の頭を撫で回しながら語る陽光に無反応な猫は何が居心地を良くしているのかぐっすりと陽光の股の上で今もなお熟睡している。陽光は陽光で猫に愛着するわけでもなく直ぐにシンへと電話した。
『もしもし?』
「悪ぃシン、さっきのIDナンバーとプラベート・キー・ナンバーよぉ、メールで送ってくれ。忘れちまったわ」
『それはもちろんいいけれど、それで朱美が助けられるのか?』
「そんなもん分かるか、田分け。居場所突き止めて脱出してりゃあ問題ねぇし」
『あ、ああ。そうだね……』
「ぐじっててもしゃあねぇだろ。じゃ、すぐ送ってくれよ」
『うん、すぐ送る』
 シンの素直な態度に陽光は「さすがにしょぼくれてるか。随分と素直だぜ」と言って気分良くシンからのメールを待った。そしてものの数秒後に陽光のスマートフォンにメールが届いたことを知らせるチャイムが鳴った。
「ほいほい」
 陽光はコントローラーを操作してメールからIDナンバーとプラベート・キー・ナンバーをコンピューターへ転送した。

 尾張建設のヘヴィ・ワーカーには現在すべての機体に人物探索システムが装備してあった。それは尾張建設が被災時支援を積極的に協力してきたことで認可が容易でかつ補助金が出されたことから実現できた。このシステムはID認証登録が国内で義務化された2035年より同時にそれを利用して緊急時にIDナンバーとプラベート・キー・ナンバー(個別パスワードのようなもの)によってID情報が記録されたカードや携帯端末、またブレスレットやネックレスなどを本人が所持していれば人工衛星とネット回線を利用して位置が特定できるものである。

「さぁ、朱美ちゃんはどーこだ?」
 口調こそ冗談じみたものであったが陽光は朱美が無事名駅から脱出していることを強く願っていた。それは彼の眼差しを見れば誰にでも分かることだろう。ただ今ここには陽光と猫一匹しかいない。
 探索中の文字と円の中にメーターの様な線が回り続けるアイコンが表示されること約2分だろうか。陽光がタワーズ近くにあるルーセントタワーを目にすることができる距離まで近づいていた頃、探索終了の文字と同時に『発見しました』の音声が流れ、モニター表示は地図に切り替わった。
「ど、ど真ん中じゃねぇかぁ!」
 平面地図の表示には朱美のIDナンバーと赤い丸印がセントラルタワーズの位置する正にど真ん中に点滅表示されていた。
「……」
 言葉を無くした陽光。目の前に連なっている自動車のテールランプをぼんやり眺めしばし呆然とした。が、すぐに「まあ、考えててもしゃあないな。とにかく現場に行ってからだ」と言ってシートに座りなおした。
 幸い朱美が生きている事は確かだとこの表示から判ることが陽光の開き直りを早めた。生体認証を使ったシステムのため心臓が停止し血液が動いてなければIDナンバー認証の際、生死判断でき、万が一死亡していた場合は青色で表示される。赤色点滅はその場所で生きているということを示していた。

第25話 親父のくせに―突入―

「しかしひでぇ渋滞だなぁ」
 朱美の生存確認まで出来たところで陽光は渋滞につかまり動きが止められていた。これはすでに進入禁止区域間近まで来ていたことの証明でもある。
「なんとか早く行く方法は無ぇのかよ?」
 陽光は朱美の位置を目的地として地図を広域にして道路の探索を行った。しかし、タワーズまでの道はすべて封鎖されていることがナビに表示されている。
「んー……」
 陽光は超低音で唸り、黙ったまま地図の縮尺を変え広範囲をモニターに映した。
「まだ2キロはあるなぁ。しかも警察屋が結界張ってる様だしな」
 完全に渋滞で止められた陽光は股の上で今も寝ている猫の耳や体をいじりながら思考する。
「んー……」
 唸り声は続く。渋滞も続く。そして地図を操作キーで拡げたり縮めたり、名駅周辺をぐるぐると遊んでいるかのように回していると陽光はあることに気づいた。
「ん? そういやあ駅だから線路があるがや」
 陽光は固く険しい顔から一気にしたり顔に変貌し舌舐めずりした。
「今日の俺は来てるよ、これ。行けるわ。マジで。なあ!?」
 嬉しそうに陽光は眠ったままの猫の首を掴んで持ち上げると猫の顔を見つめて囁いた。
「もしかしてオマエさんは有名な招き猫ってヤツか?」
 持ち上げられた猫は細く目を開けたかのような動作を見せるだけで興味なしを決め込みあくびをした。
「うっ、やっぱ臭ぇなぁ。口臭予防しとけ」
 顔をしかめた陽光はそのまま猫を太ももの上に落としズッシリとした体を受け止めると姿勢を正した。そしてハンドル下にある変形レバーを勢いよく引いた。するとブロックでできたような箱型のヘヴィ・ワーカーの四隅からモーター音を鳴らしながら折り畳まれていた脚が伸びた。そして四本の足がしっかり地面を押し付け音をたてながら車体を持ち上げた。
 その間に陽光はハンドルから手を離し左右の肘掛それぞれに収納された操作レバーを引き出して握り四足形態時の操縦スタイルで構えた。そして陽光はヘヴィ・ワーカーをそのままの位置で向きを右へ90度動かすと、反対車線に止まっていた小型自動車を跨ぐように脚を持ち上げた。車に乗っていた女性ドライバーは目の前で脚を上げているヘヴィ・ワーカーに恐怖し声をあげた。
「失礼! ちょいと邪魔しますわ」
 陽光の声がマイクを通して外部スピーカーで響き渡り道歩く人々も注目する。もちろん陽光はそんなものなど気にする性分ではないのでそのままヘヴィ・ワーカーに車をひょいと跨がせると横道まで歩行で移動した。そして再び走行形態へ変形させ、陽光の目指すべき所へと向かった。

 渋滞で捕まっていた場所よりもタワーズから北へ遠のいた人気(ひとけ)のない土で盛り上げられた高架横へと陽光はやってきた。見上げると目の前には無数の架線が見える。しかしここに来てまた陽光は唸り声を出した。
「んー……思ってたより高ぇなぁ」
 5メートル以上はあろうかと思われる位置に陽光の目指していた線路があった。陽光は線路を伝ってタワーズへ近づくことを企んだのだが、いくら中型のヘヴィ・ワーカーでも5メートルもジャンプできない。が、試してみるのが陽光。中型クラスまではジャンプする機能は一応備わっていた。ただ、その機能は日常の土木建築作業で使うことなどなく遊びで使うくらいだった。
 この場で四足形態にした陽光はコントローラーを使って通常のワークモードからジャンプモードに切り替え左足で一気にブレーキペダルを踏み込みロックをかけると右足でゆっくりとアクセルペダルを踏む。するとモーターと一緒にディーゼルエンジンが音を出して動き始めた。そしてヘヴィ・ワーカーはゆっくり関節を折り曲げていき車体は低くなると陽光はさらに車体を前傾姿勢になるように操縦レバーで調整し固定させた。
 陽光は一定のパワーが溜まったところを見計らい「行けっ!」と言葉と一緒に左足を力強く踏みつけロックされていたブレーキペダルを一気に解放させた。するとヘヴィ・ワーカーはモーター音を大きく出しながら高架へ向かって重々しく飛び上がった。それと同時に陽光は左右のアーム操作用レバーに手を持ち替えヘヴィ・ワーカーのアームを線路沿いの鉄柵に向かって伸ばすようコンロールした。

 届かぬ儚い思い――

 伸ばしたアームはみごと鉄柵を掴んだがその後はあっさり鉄柵をはぎ取るだけで終わり、ヘヴィ・ワーカーは鉄柵を掴んだまま高架から音を立ててずり落ちた。
「ちっくしょー! やっぱ無理かぁー。なんとかできねぇかなぁ。絶対行ける。絶対!」
 これしきで諦めるわけない陽光は自分に言い聞かせるように言葉を口にしながら辺りを見渡した。すると高架横に点々とならんだ自動車が目についた。
「いけませんねぇー、違法駐車は」
 陽光は陽気な笑顔を作ってすぐに手あたり次第、路上駐車の車をかき集めた。そしてヘヴィ・ワーカーを巧みに操り要領よく自動車を積み上げ高架線路までの階段を作った。これは陽光の得意とするところだ。
「うっし。これで一気に突入だぜ」
 中型ヘヴィ・ワーカーは小型よりも当然大きさと比例して重いながらも小回りが利き、大型は昇降できる場所が限られているため陽光は好んで使っていた。今までの救助活動はすべてこの機体で行ってきた。
 陽光はそのまま口笛を吹きながら軽快にヘヴィ・ワーカーを操り自動車の天井を踏み潰していきながら簡単に高架線路に入った。
「なんだ……これ……?」
 そこで目にした光景に陽光の表情は硬直した。
「タワーズが無ぇじゃねぇか……どこいっちまったんだ?」
 眼前に伸びる無数の線路。そしてその先には黒煙と真っ赤な炎で燃え盛る塔の無くなったセントラルタワーズ。これは心拍数が上がり、脈打つ感覚が自分自身で分かるほどの威圧的な恐怖感を陽光へ味わわせるには十分な効果のある光景であった。陽光は股の上で丸くなって眠る猫の体を両手で優しく撫でながら思わず呟いた。
「シン、そういうことか……さすがにこいつはビビるわ、俺も……」
 しばらくその光景に唖然とした陽光だがすぐに気を取り直し真剣な眼差しでモニターに点滅する赤い印とIDナンバーを見つめ声を出した。
「って言って帰るわけにはいかねぇからな。待ってろ、朱美ちゃん。もうちょいの辛抱だ」
 ヘヴィ・ワーカーを走行形態に変形させた陽光は両手でハンドルを握りしめ大きくひとつ、深呼吸をした。そして目を剥きだすようにして叫んだ。
「うっしゃぁ! やったろうじゃねぇかぁ! このクソ田分けぇ!」

 武者震い――

 今の陽光にはその言葉がぴたり当て嵌まる感覚を全身に(みなぎ)らせていた。
「うおぉりぁぁぁぁああ!」
 一人叫びアクセルを一気に踏み込んだ陽光。急発進させたヘヴィ・ワーカーは線路に沿って煙と炎に埋もれた塔無きセントラルタワーズへと向かった。

第26話 親父のくせに―侵入sideB―

 体に密着したシートが無性に窮屈に感じ、背中の汗ばみが気になっていたモリタは小牧基地発進後、一言も言葉を発することなく目を瞑っていた。そんなモリタの耳に部下たちの会話が響く。
『もうここからでも火災現場がよく見えますね』
『尋常じゃないな、あの状況』
『この機体、本当にあの中に入っても大丈夫なのか?』
『私は正直、怖いです』
『それは皆一緒だろ』
『中佐はそうでもないんじゃない? ですよね? 中佐?』
 喋り好きばかりが集まったこの部隊は不思議だ。そしてここに隊長として任命された自分がいるのも不思議だ。そう思うモリタは独り冷めた笑顔を作ると目をゆっくり開けフロントウインドウ上部に映し出されたマルチモニターの5人の部下たちへ言った。
「いい加減お喋りはそのくらいにしておけ。ハイキングに行く訳じゃないんだ。口にチャックつけることぐらい出来るようにしておかないと現場で舌噛んで死ぬことになるぞ」
『はい!』
(返事だけは立派か……)
 その頃すでにモリタ率いる部隊を載せた新型特殊輸送機ニフ‐参“コウノトリ”は着陸体制となっていた。小牧基地から名古屋駅までは空を飛べば5分とかからない。その中で独り、解せなさがモリタの頭にこびりついていたことがモリタ自身の口を閉じさせていた。
(僅か一月足らずにしての実戦投入。正確には機能試験ではあるが。そして作戦時間は20分だという。不穏な臭いがして仕方ない)
「まるで俺たち自体が実験体ハムスターのようだ……」
 モリタは無駄のない狭いコクピットで独りニヒルに笑い小さく漏らした。
『中佐、何かおっしゃりましたか?』
 エンドウ中尉が反応した。
「ん? あ、いや。もう着陸だな。着陸後直ちにハムスターを着地させ集合だ。各部のオートチェックは今のうちに済ませておけ!」
『はいっ!』
 モリタ達の搭乗している高機動戦略特殊車輌。型式名 ニミ0(ぜろ)式五型。ペットネーム ハムスターは輸送機の両翼にぶら下がる形で運搬されていた。そして目的地、名古屋市中村区泥江(ひじえ)交差点手前で停止した。
『ティルトローター機の方が良いかと思いましたがこいつも優秀ですね。早いし静かだし』
『あいつは垂直離着陸できるけどローターの音がホントにウルサイからな』
『でも、たまたま滑走路替わりにできるこの桜通りがあったからこれが使えたんでしょ? そうじゃなかったら高速使って30分以上はかかったわよね』
『偶然だけどそうだよな。そういえば単独飛行できるハムスター専用のティルトを開発中って聞いたけどマジかな?』
『玩具作りでもしてるようだな。どこからそんな金がでてくるんだ?』
『さあね。よっぽど焦ってるのか、戦争やりたがってるのか?』
『それはオマエだろ』
『お互い様。食いぶちがこれしかないからな』
 喋りの止まらない部下たち。呆れ顔でモリタは「行くぞ」と一言だけ言って自分の機体を輸送機から離脱させた。それに続き五人の部下たちも輸送機から離脱するとモリタを中心に弧を描くようにに整列した。
「いいか! 再度言うが今日はこいつの性能実験が主な任務だ。先刻のブリーフィング通りこの火災に直接的テロ集団の関与がないと思われる。現時点、内部状況の正確な把握はできていないわけだが銃火器類の使用はないものと推測されるからだ。そしてそれを踏まえての任務であるが気を抜くな。すでに外部諜報はあてになるモノでは無いのは皆が周知のことだ。訓練での成果をここでは出し切れない事を残念に思う者がいるだろうと思うが」
『全くですよ』
『実弾の使用許可しないって一体どういうことですか? ガム弾だけでなんとかしろってウチら自身を鉄砲玉にしてるようなもんでしょ?』
「そう思うならそう思え。ガム弾と電子迷彩があれば事足りるって話だ、今回は」
 モリタは自分に言い聞かせるかのように部下たちの文句に渋々かつ淡々と発した。
「ではエンドウ、カガワは北側から、マキタ、ミナモトは南側から各階の調査。最高でも7階まで行けば十分だ。その後すぐ降りてここを出ろ。私とハセガワは1階及び地下の調査。詳細報告は基地に戻ってからだ。そしてよく聞け。滞在時間は最大15分。無理はするな。もう一度言う。我々の今回の任務はハムスターの性能実地テストである。そして皆の目には無惨な状況が映るかと思うが生命反応のない者は無視しろ。万一あったとしても避けるだけでよい。我々の任務はハムスターの性能試験及び状況の簡易把握のみである!」
 部隊の中で最も若いミナモトは固唾を飲んだ。掌の汗ばみも確かなものだ。
「分かったかっ!?」
『はいっ!』
 返事の返しは規律正しく揃っている部下たち。
「時計合わせ!」
 モリタの号令に六人のメンバーはモニターに映るタイマーをゼロにした。そして「同期開始!」とモリタが叫ぶと言葉に合わせ全員タイマー同期を作動させ、六人の搭乗する機体のモニターの時間表示は刻々とカウントアップしていく。
「では現時刻よりハムスター性能試験及びテロ火災現場調査任務を開始する。20分後にこの場にて合流。いいか!」
『はいっ!』
 モリタの気合いの入った熱い声に五人の部下は身を引き締め一層強い返事を返した。
「くれぐれも無理をするな。移動! 直ぐに電子迷彩に切り替えろよ」
 モリタ率いる総勢六名の部隊は軽快に高機動戦略特殊車輌ハムスターを加速させ眼前に広がる炎のベールで包まれた道路を突き進み燃え盛る炎と沸き立つ黒煙に包まれたセントラルタワーへと向かった。

第27話 親父のくせに―侵入sideA―

 陽光はタワーズ西側の線路上にいた。目の前には駐車場入口ゲートが黒々とした煙の中に見え隠れしている。
「うっ、やっぱ臭うな。臭ぇわ」
 陽光は口を手で覆いひどく顔を歪ませた。口の中まで焦げ臭さの味が染みわたる異臭だ。
「邪魔くせぇけどマスクつけるか」
 陽光はシートの下から防護マスクを取り出し装着した。
「オマエはこれで我慢しろ」
 そう言って陽光は股上の猫に薄汚れた自分のハンドタオルをズボンの前ポケットから取出し猫の口元に巻きつけた。
「さて。中に入るのに手っ取り早いのはここかな、やっぱり。西口からというのもありか?」
 陽光はモニターに展開された地図とにらめっこしながら考えてみた。
「とにかく最短距離で行くか。この状態じゃどこもグチャグチャだろうしな」
 陽光の今いる高架線路と駐車場入り口までは数メートルの空間があったが陽光は何の躊躇もなくヘヴィ・ワーカーをカエル跳びのようにジャンプさせ駐車場入り口へと飛び移った。
「おおぉっ、やるじゃぁあん、轟陽光ぉ!」
 内心不安が無かったわけではない陽光だが、落ちてもそれはそれでヘヴィ・ワーカーは丈夫で死ぬことは無いだろうし、タワーズに入れれば何でも良いという極上の楽観主義がこの場で活きたと言っていいだろう。

 幸いな事に炎は駐車場入り口周辺には拡がっていなかったが煙が酷くそのため視界は極めて悪い状態であった。
「これは肉眼じゃまともに見れねぇなぁ。ここはどうなってんだ?」
 陽光はモニターの地図をタワーズ内の立体地図へと切り替えた。すると陽光の乗るヘヴィ・ワーカーに搭載された探索専用センサーが朱美の位置をより正確に探知しモニターには詳細が表示されていた。
「朱美ちゃんはどうやら一階辺りか……でもこのザマじゃ建物(たてもん)中が実際どうなってんのか分かんねぇなぁ……」
 自分のいるこの状況下から想像できる朱美のいる場所の状況は陽光とはいえ楽観視できるものではなかった。そのためこれまでの陽光と違い声にハリはなく、疑いがかった弱さが言葉に出てきていた。
 1メートル先もほとんど目視出来ない状況の中、陽光は朱美のIDを目的地としてナビに設定させここは慎重に進むことにした。
 陽光はヘヴィ・ワーカーを歩行形態に変えて慎重に進んでいくとすぐに駐車場ゲートのストップバーと出くわすが構わず突き進む陽光。そしてここはタワーパーキングのため上へ昇っていく道が続いていた。しかしその先は煙で全く見えない。
「真面目に上に上がるバカはいねぇよな」
 そう言って陽光は駐車場へと続く上り坂に目もくれず目の前の壁に二本のアームの爪を突っ込ませた。ここで陽光を驚かせたのが巨大な建築物の壁が一回の衝撃で大きくヒビ入ったことだ。陽光は目を丸くして「こいつはどういうこっちゃ? かなり脆いじゃねぇか。いつまでもつか分かんねぇぞ」と硬直した表情で呟いた。
 そしてさらに鉄の爪で3回突くと壁に3メートルほどの穴が開いた。同時に中からは煙が溢れ出てきた。陽光は構わずそのまま開いた穴をさらにヘヴィ・ワーカーが通れるだけの大きさにするためアームでむしり取るように外壁を破壊して広げていった。そしてある程度の大きさを確保すると陽光はヘヴィ・ワーカーでそのまま穴へと向かって突入するとあっさりと外壁は破壊されタワーズの中へ入ることができた。

 屋内は煙が立ち込めており、まともな視界が得られなかったが、しだいに煙は陽光の入ってきた穴へ吸い出されて行き辺りの状態が確認できるようになってきた。
 所々に点々と点る非常灯。その非常灯に照らされた煙に満ちた暗い屋内には陽光でも見たことのあるデザイナーズブランドのロゴが入った鞄や女性ものの服が散乱しているのが薄ら見えた。意外にも屋内に火の手が回り込んでいないことに陽光は気が付いた。が、それは陽光にとって気になるべきものではなかった。目的を阻害するものでなければ気に掛ける必要はない。
 この煙で満たされた屋内での移動を容易にするために陽光はオモチャ程度とは分かっていながらも赤外線カメラを使うことにした。
 赤外線画像をモニターにマルチ画面として表示させる。オモチャ程度というのは画質が取り敢えずそこに何か物なり人なりがありますよということが確認できるレベルものであるということだ。そのため目視重視とならざるを得ないところに陽光に歯痒さを覚えさせる。
「チッ」
 使えない代物だと分かっていながら自然に出る舌打ち。陽光は一応モニターを通して周囲の状況を眺める。
 かつて「人物探索システムが工事用重機に搭載されているだけでも立派なものだ。レスキュー隊じゃないんだから」と口にした業務課の畠山の顔を思い出した陽光は「脅して買わせりゃあ良かったぜ」と低く呟いた。
 そして陽光は渋い表情を作りモニターに映し出された映像を頼りに足元がしっかり見えるようライトを下向きにして注意深くゆっくりとヘヴィ・ワーカーを移動させることわずか数歩で陽光の目に想像していたものが入った。
「……だわな。無いわけ無いわな……」
 陽光はそう言ってモニターに熱反応チェックモニターを立ち上げた。
「……」
 陽光はモニターを確認するとそのまま黙って眠りこけている猫を無造作に持ち上げシートに寝かせるとヘルメットとマスクを装着した状態でヘヴィ・ワーカーを降りた。
 すると陽光の足元に黒色基調の落ち着いたスーツ姿で倒れていた二人の女性がいた。恐らくここで働いていた店員だろう。陽光はヘルメットに装着されているライトにスイッチを入れ身を屈めると周りを見渡した。やはり目に映ったものは陽光の思い描いた通りの景色であった。床一面に埋め尽くされた散乱した衣料品と一緒に倒れている無数の人々。
「一酸化炭素中毒か……」
 かつて東海大震災に始まり、規模の大小に関わらず災害支援活動に積極的に参加してきた陽光。そこでは残酷で無残な多くの亡骸を目にし対処してきた。そして活動の回数を重ねて行くうちに自分の中で「自分のやれることは結局こういうことしかないんだな。こんな寂しいところで眠るのは良くないことだ。悲しいことだ。せめて静かに眠れる場所へと運んでやりたい。これが俺のやるべきことなんだな、きっと」と思い馳せてきた。そして今、自らで踏み込んだ惨劇の現場にいる。
「いや違う……」
 これ程までに大勢のまとまった遺体など目にしたことない。それもどれも無傷だ。ただ寝ているように見える。それは奥へ進むほどその数も増えていく。
「何が楽しくてこうなるって!? これがテロってやつかい!? なぁあ!?」
 マスクで抑え込まれた口から陽光の怒号が出る。そしてその素直な怒りが拳を握り込ませた。

 時間がないことは分かっていた陽光だがこの状態ではとても先に進めないと思い、ヘヴィ・ワーカーへ急いで戻ると黙々と横たわる無数の遺体をヘヴィ・ワーカーのアームを器用に操り、遺体を傷つけないようにと丁寧に左右へ並べながら建物の奥へと進んだ。
「ここから降りるしかないな」
 陽光は4基並ぶエスカレーター前にいた。モニターの地図から見ても下へ降りる広さが確保できるのはこの4基あるエスカレーターのところしかない。だがしかし、簡単に陽光を朱美に近づけさせない障害がそこにはまだあった。
「当然か」
 エスカレーターにも大勢の息のない人々が折り重なるように連なっていた。陽光は時間を気にしつつも一人一人の遺体を360度旋回できるアーム付きのコックピットを利用して前から後ろへ、前から後ろへと移動させ寝かせていった。そしてある程度の余裕ができるとエスカレーターへと脚を踏み入れた。が、エスカレーターにヘヴィ・ワーカーの全重量がのしかかった瞬間。陽光に体が浮くような感覚が襲った。
「まずい!」
 エスカレーターはヘヴィ・ワーカーの重量に耐えきれず、エスカレーター上端があっさりと床からもぎ取られエスカレーターごとヘヴィ・ワーカーは下の階へと落下した。その瞬間、陽光は反射的にアームを更に左右にあったエスカレーターへと伸ばす試みをしたが間に合わず轟音と煙を立てて下階へと落ちた。

第28話 親父のくせに―対峙(前篇)―

「急げ! どこからでも構わん、逃げろ!」
『ちゅ、中佐は!?』
「大丈夫だ。今、地下だがルートはいくらでもある!」
 モリタ率いる部隊がタワーズへ侵入してから10分ほど経過してから突然の大きな揺れに襲われ三つに分かれていたそれぞれの分隊は精鋭メンバー揃いだったとはいえ一同動揺していた。
 そこにモリタへ外部からの直通通信が入った。
『こちらコウノトリ一番機。モリタ中佐、聞こえますか? こちらコウノトリ一番機』
 モリタ達を運んできた輸送機部隊をまとめるヤマグチ大尉であった。
「ああ、聞こえる。今、何があったか状況分かるか?」
『今、タワーズが崩壊しました!』
 ヤマグチ大尉の硬質な声がより緊張を増してモリタの耳を突き刺した。
「な、なんだと? 崩れたとはどういう事だ?」
『はい、こちらからの目視で両タワーの崩落を確認しました……あまりにも一瞬で信じられない光景でしたが、よくご無事で』
 モリタはヤマグチ大尉の話が止む前に部下へとコックピットハッチ上部モニターに並ぶ5人のコックピット映像を見て叫んだ。
「エンドウ、カガワ! マキタ、ミナモト! 大丈夫か!?」
『あ、はい。揺れはしましたが大丈夫です』と即答したエンドウ中尉。続いて『こちらも同様大丈夫です』とマキタ少尉が応え、カガワ少尉とミナモト少尉も問題なしと応えた。
 それぞれの声を聞いたモリタはコックピットハッチ前面全体にメンバーの位置情報を拡大表示させ、エンドウ中尉、カガワ少尉が北側6階に、マキタ少佐、モナミト少尉は5階南側にいることを確認すると「デパート層だけたまたま持ちこたえたということか……」と小さく呟いた。
『急いで帰還を! いつ完全崩壊してしまうかわかりません!』
 輸送機のコックピットからタワー崩落の一部始終を目にしていたヤマグチ大尉は緊張度が増した早口でモリタへと言った。
「ああ、全員すぐさま後退する。いつでも飛べるよう準備頼む」
『はい! ご無事に』
(余分なことを……)
 決まり文句だと分かっていても不安を煽るだけの不吉な言葉だと思いモリタは失笑した。
 そのモリタのやり取りが終わったことを見計らいハセガワは不安げにモリタへ聞いた。
『やはりテロリストが潜んでいるのでしょうか?』
「現時点では何とも言えんが、警戒は必要だな。私達も早く出るぞ」
 操縦技術ではメンバー一のハセガワであるがメンバー唯一の女性隊員でもある。実際のこの危険な空気を体感し万一の事態があると考えると恐怖心が沸き起こることも当然だろうとモリタは思った。モリタ自身、銃撃戦の実戦など経験はない。シミュレーターでの仮想戦闘しか行ったことがないのだ。できることなら何事もなく脱出したいと強く願っていた。
 そこへエンドウ中尉からの通信が入った。
『中佐、私たちは立体駐車場側を通って北側へ出て合流ポイントまで行きます』
「分かった。マキタの方はどうだ? すぐに出られそうか?」
『はい。現在3階まで来ました。このまま2階まで下りてそのまま桜通りへ突き抜けます』
「よし。私たちもすぐ上に上がる。幸いデパート部分はまだ大丈夫なようだが、各自十分注意しろ」
『はい!』

 暗闇と煙で支配された百貨店の地下2階食料品売り場。モリタとハセガワは暗視モードにした半天周型ハッチに映し出された映像を頼りに店舗什器を破壊しながらハムスターを走らせ売り場中央にある階段へと向かった。
『中佐。中佐の機体、左側面の電子迷彩が消えてますよ』
 階段へ向かう途中ハセガワが言った。
「本当か? 何が50ミリの直撃も耐えられるクリヤーコーティング・フィルムだ。宣伝文句だけ立派で少しぶつかってもう故障か。まぁ、試作品同様の代物だ。所詮こんなものだろう」
 モリタはそう口にして鼻で笑った。
(機体性能実地試験か……)
 ハセガワは少し落ち着きを取り戻したようでモリタに会話を続けた。
『思いのほか客たちは上手く避難したようですね。一階は酷かったですが。ここは荒れた様子もありませんし。やはり日本人気質の行儀良さですかね?』
「そうだな」
 短く返したモリタはひとまず部下の安定した様子に安心した。

『エンドウより中佐へ。今、外部へと脱出しました!』
「了解。外はどうだ?」
『はい、今ルーセントタワーの前ですがこの辺りは避難者たちがいるだけで火の手もなく比較的落ち着いています』
『マキタです。今桜通りへと脱出しました。こちらはまだ消火活動中です』
「了解。双方ともそのままコウノトリにて待機。作戦終了時間が来たらお前たちは戻れ。長居は無用だ」
 モリタはタイマーを見ると作戦開始後13分を経過していた。
 そして階段へと辿り着いたモリタとハセガワは四足歩行のハムスターで飛び上がるようにして易々と踊場へと着地しそのまま旋回して再びジャンプし地下1階へと来た。
「これはついてないな」とすぐさまモリタは口にした。
 そのまま上に行けるかと思いきやそこには天井が崩れ落ちた破片の山で階段が塞がれておりそのままでは進める状態ではなかった。
『これくらいの瓦礫ならどかして進める気もしますが?』
「そうだな。他にルートというと従業員用階段があるようだが……少し間口が厳しいな、恐らく。よし、すぐにどかして上がるぞ」
『はい』
 二人はハムスターの前部についているアームを使って瓦礫をリレー形式で崩しながら階段を昇っていく。その途中、作戦時間20分経過の終了アラームが鳴った。
『もう20分経過ですね』
「ああ。こいつは実弾で吹き飛ばしたくなるくらいだな。時間がかかる」
 あまりにも地味で苛立ちの増す作業に思わずモリタの口から愚痴がこぼれる。
 そして5分ほどかけて一階へと到達したところで突如ハセガワが叫んだ。
『中佐! 熱源を感知!』
「ん? 人ではなく、だな?」
『はい、かなりの熱量です』
「どうして今頃!」
『申し訳ありません……』
「すまん、気にするな。すぐ詳細をモニタリング。追尾しろ。全員に次ぐ! 外も油断するな! 索敵モードに切り替え戦闘態勢を整えろ!」
『はいっ!』
「どうだ、ハセガワ?」
『どうも3階のようです。ハムスターの二倍強の質量がありそうです』
「なんだ? 我々以外にそのようなものがいると?」
『そ、そうですね……どういうことでしょう?』
 モリタはハセガワが注視していた同様の熱感知モニターを立ち上げると映像を立体視させ自身でその熱源を確認した。
「異様だな……ヤマグチ大尉!」
『はい、中佐!』
「三階に大きな熱反応があるんだが、何かそちらで掴んでいないか?」
『申し訳ありません。全くそのような情報は得ておりません』
「そうか」
 当然な話である。そもそも索敵の体制など誰もとっていなかったのだから。可能性があったとしても自爆テロによるテロと想定していた。銃火器を持ったテロ集団であったとしても対|(ひと)のレベルなら全く問題なくこのハムスターで対応できるとして今回、試験運用で投入された。
(と、するとこの熱源はなんだ?)
『あ、人らしき熱反応をキャッチ!』
「ああ、こちらでも確認した」
 立体地図の3階部分に赤みを帯びた橙色の表示がはっきりと映し出されていた。そしてそこから薄赤色の小さな点が動き出していた。
(テロリストが特殊兵器を? こんな大きなものを?)
『テロリストの特殊兵器でしょうか?』
 ハセガワの質問にモリタは即座に「それはありえんだろ」と自分と同様の疑問を持ったハセガワを一蹴した。
「調査が必要だな」
『中佐、戻りましょうか?』
 そこへエンドウ中尉の音声が入ってきた。
「いや、今はコウノトリで待機していてくれ。必要に応じて救援を頼む。バッテリーのチャージをしておいてほしい」
『了解です』
 ハムスターのバッテリーは軽量化を最優先に短時間での作戦を主として設計されているため大容量の電力は蓄積ができない。連続稼働時間はおよそ60分と設計側は言ってきている。実際、訓練段階ではその通りであった。しかし、動作が増えればその分消耗はする。モリタの搭乗しているハムスターのバッテリー残量は現在38%となっていた。
 そこで突如モリタ達の機体が大きく揺れ軽いめまいを感じるほどの揺れと爆音が響いた。
「なんだ?」
『早くしないと建物自体が崩れるんでは?』
 ハセガワは怯えを誤魔化すかのように大声で言った。
 それを気にすることなくモリタはモニターを凝視した。
「2階へ移動している……一体こいつは……」
 そしてモリタは上を見上げハムスターのコントローラーを強く握りしめた。

第29話 親父のくせに―対峙(中篇)―

 一方、エスカレーターとそこで眠りについていた亡骸もろともに落下した陽光は自動的に衝撃吸収発泡ジェルバッグが飛び出して全身を包み、落下の衝撃を体感することなく無傷であった。しかし、亡骸の数々は残酷で直視できない姿となった。
「ちょいと無謀だったか……」
 ジェルバッグに守られた陽光であったが、それ故の大きな無力感を味わいしばらくそのまま身動きせず佇んだ。その間にジェルバッグはヘヴィ・ワーカーが安定したと判断するとバッグの射出口へと音を出しながらゆっくり吸い込まれ元のコックピットへとなった。
「はぁー……」
 陽光の大きく深いため息。そのため息に呼応するようにさっきまで陽光の股下で眠っていた猫も今では目を大きく広げ抱っこをせがむような仕草で陽光の顔を見上げていた。陽光は猫を頭から背中へとゆっくり優しく撫でながら今も尚呆然としていた。
 落下してからどれほどの時間をそのまま過ごしていたのか陽光には全く感覚がなかった。ここまでのことすべてを忘れただひたすら呆然の感覚だけに支配された陽光は陽光でなかった。
 支配されていた時間は2分弱。やがて支配から解かれ現実の感覚を取り戻した陽光はヘヴィ・ワーカーの姿勢を直しモニターを見た。朱美との距離が20メートルまで近づいていた。
「……」
 しかし陽光は面白くなかった。惨劇の中にいる自分。非現実的な世界。自分の失敗。それは惨劇に手を貸した自分。
 陽光の眼前は薄暗く、ここも変わらず天井に張り付いた黒煙とわずかに生き残っている非常灯が見え隠れしていた。そして陽光と共に落下した亡骸とエスカレーターの残骸。いくつかの手足と顔。陽光の目にははっきりと見えていた。それは目が暗闇に慣れたからではない。すべての亡骸が自分に助けを求めているという思惟に駆られていたからだ。そしてこの世界を作り出した人間たちがこの世のどこかにいる。

 だから陽光は面白くなかった。
 
 息苦しさの感覚に耐えかねた陽光は防護マスクをむしり取り窓を開けると、唇をかみしめ遠くへと渾身の力で投げつけ「くそったれ……」と力無いしゃがれ声を漏らした。
 マスクが壁に当たり落ちたであろう音がこだまし陽光の耳に届く。
「ん?」
 陽光は険しい顔つきで耳を澄ました。それとは別の音が聞こえる。自分のヘヴィ・ワーカーが出している音とは全く違う、高速で回る、軽量クラスのヘヴィ・ワーカーのような音が聞こえた。
「気のせいじゃない」
 険しい顔つきを持ったまま言い切った陽光は今胸に抱えていた重いものをすべて投げ捨てアクセルペダルへ怒りの感情を乗せて踏み込んだ。
「オマエらかぁぁぁっ!」
 陽光の絶対的自信の感覚がすべてだった。ヘヴィ・ワーカーは四足形態のまま駆け足速度でそのまま暗闇の店内を駆けた。
 煤(すす)のかかったガラスショーケースは激しく音を立てて粉砕し、通路に横たわっていた多数の亡骸は悲鳴無く形を崩していき、陽光のヘヴィ・ワーカーの足元は赤黒く染まった。
 そして陽光がそのまま突き進んだ先は巨大なアクリルガラスだった。陽光はガラスなど目もくれずアクセルを踏み込んだまま突っ込んだ。すると巨大で極厚のアクリルガラスは割れるのではなく、サッシごと簡単にもぎ取られ、ヘヴィ・ワーカーと一緒に吹っ飛んだ。そして陽光の操るヘヴィ・ワーカーはアクリルガラスを盾の様にした状態で宙を舞った。
 舞った先はかつて朱美がシンを待っていた金の時計のある吹き抜けの広場であった。しかし勢いだけで飛び出したヘヴィ・ワーカーは空を飛ぶ機能がついているわけではない。すべては地球の重力に従うままアクリルガラスとともにヘヴィ・ワーカーは勢いよく落下した。
 3トンほどあるヘヴィ・ワーカーだ。すぐにバランスは崩れ前のめりで落ちていき、7メートルほどの高さがある金の時計へとぶつかると轟音とともに時計を押し倒し床へ着地した。そして爆音と同時に床はもちろんそこにいた人の亡骸をもすべて破壊した。その衝撃でまたもジェルバッグは飛び出し陽光と猫を押さえ込むように包み込んだ。

          *

 モリタとハセガワが乗る2機の高機動戦略特殊車輌ハムスターは一階北側のデパート店内いた。そしてモリタは二階とつながっている北側のエスカレーターに向かい、その背中合わせでハセガワが金の時計が見える位置で待機していた。
『熱源が真上に……いかがなさいますか? 中佐?』
 ハセガワは無意識にやや震えた囁き声で言うとモリタも同様、無意識で声量を下げて言葉を発した。
「そのまま戦闘態勢をとれ。下手に動くな」
 ハムスターは四本脚をやや縮め車体本体を低姿勢にし、さらに銃口が内蔵された二本のアームをそれぞれ前方へ向け静止した。
 この時、モリタはハセガワと同様の恐怖心を抱いていた。この巨大な熱源は一体何であろうか? 自分が搭乗している機体は日本が極秘に開発した兵器である。どの国よりも早く四足歩行重機を政府が開発援助して作らせ、その技術をベースに機動性を高めた防衛兵器として開発してきたものだ。まさか同等の物が存在し、それを所有するテロリストがテロ行為を行ったとは到底想像できない。
 しかし巨大な熱量を持った何かがこの建物の中で動いているのは間違いない。SF映画のようなエイリアンでもいるというのか?
 モリタは巨大な熱源が動くわずかの時間にあらゆる想像を巡らした。高まる鼓動と両手を湿らせる緊張。この時、同時にモリタの頭の中を妻と子供たちの顔と声がかすめていた。

『来ます! 南、12時!』
 突如ハセガワは大声で叫んだ。モリタはハセガワの言葉に反応して即座に180度旋回しハセガワと並列で並んだ。
 すると二人の目の前、巨大ガラスを挟んだ吹き抜けの空間に巨大な物体が落下した。落下と同時に爆音と煙が立ち、二人の搭乗するハムスターも大きく揺れた。
 その状況にハセガワは思わず目を強く瞑ってしまったが隊長であるモリタはその瞬間にハセガワの前へ盾になるように移動しその落下物を確認すべく固唾を飲み見守った。

 薄暗い吹き抜けの空間に落下した巨大な熱源。それはもちろん陽光のヘヴィ・ワーカーである。
「ヘヴィ・ワーカーだと……?」
 モリタは張りつめていた緊張が一気にほどけた。
『なぜヘヴィ・ワーカーが?』
「ハセガワ、所有者を調べろ!」
『はい!』
 モリタはハセガワへ指示を出すとゆっくりとハムスターを移動させた。
 
 一方、陽光の方は勢い冷めぬ心境でジェルバッグが収納していない押しつぶされた状態でヘヴィ・ワーカーを立たせた。
「ようやくここまで来たぜ……しかし誰もいねぇようだなぁ。さっき間違いなく聞こえたぜ、嫌な音が」
 ジェルバッグが収納され視界が開けてくると陽光は朱美の生体反応のある西側へとヘヴィ・ワーカーを向けた。

 モリタは目の前で動くヘヴィ・ワーカーを観察した。
(テロリストなのか?)
『中佐、わかりました。尾張建設所有のヘヴィ・ワーカーです』
 ハセガワは軽快に言った。
「パイロットは?」
『すぐ侵入して調べます。少しだけ時間ください』
「頼む」
 モリタの前で動くヘヴィ・ワーカーはそのまま右へと歩行していった。
「武装している様子はないな。ハセガワ、私はアイツと接触する。詳細が分かったら教えてくれ」
『了解。しかし、中佐の機体、電子迷彩が不完全ですけど大丈夫ですか?』
「この暗闇だ。もともとグレーの機体だから肉眼じゃほとんど見えんだろう。それにミッドクラスのただのヘヴィ・ワーカーだ。十分こいつで対応できる」
 さっきまでの緊張が完全に消えたモリタはハセガワをこの場に残して移動することとした。
 ハムスターのボディにはフィルムタイプのデジタル・ディスプレイが貼り付けてあり、それをコーティングすることで現場の状況にあわせた迷彩を瞬時で施せる電子迷彩を搭載しているのだが幽霊という訳ではない。ガラスドアを挟んで陽光の乗るヘヴィ・ワーカーを眺めていたモリタはこちらの居場所を察知されないため細心の注意を払って大型ガラスドアにハムスターのアームを静かに押し当てた。

第30話 親父のくせに―対峙(後篇)―

 タワーズ一階まで全ては思うがまま、自分の勘頼りで強引かつ無茶と言える方法でたどり着いた陽光はついさっきまでの異音など忘れて朱美との距離が8メートルとなっていることに興奮していた。
「おっ、目の前じゃねぇか! 朱美ちゃん。待ってろ。絶対に助けるからよ」
 この時モニターには立体地図で詳細な位置までガイドする矢印が表示され、それは陽光の目の前にあった大きなシャッターで閉じられた地下へ降りる階段を示していた。
「どうやらこの先の階段に閉じ込められてんだんな」
 低いしゃがれ声の独り言を口にすると即座に二つのアームを勢いよくシャッターへぶつけた。

 その陽光の行動を注視しつつゆっくりとガラス扉を開ける操作をするモリタ。
 ハムスターにはサイレント・モードというものが付いている。モーターの回転数を落とし、脚、腕などすべての動作が10分の1の速度、もしくはもっとそれよりも遅い動作になるように設定させることで可能な限り音を出さない状況にできる。
 モリタはサイレント・モードを利用して両開きガラス扉を音をほとんど立てることなく全開にした。
(一体何が目的なのだ?)
 ヘヴィ・ワーカーがシャッターへと近づく動きに疑問を抱くモリタはゆっくり、ゆっくりとハムスターを前進させた。

 陽光は手慣れた操作でアームの爪を使って簡単にシャッターへ穴を開けるとそのまま軽々とシャッターをむしり取り、その破片を勢いよく後ろへと投げた。

「何だと?!」
 モリタは陽光の投げたシャッターの破片が目の前へ飛んできたことに驚きとっさの回避運動をさせるよう操作した。が、サイレント・モードが完全に裏目と出る。本来軽量で俊敏なはずのハムスター。モリタの頭でのイメージではすでに軽々と回避していたはずだが、そのイメージと遠くかけ離れた異様な遅さで回避運動をするハムスター。陽光の投げた破片はモリタの眼前、コックピット正面へと直撃した。
 そしてヘヴィ・ワーカーと違い新素材を採用し強固でありながら軽量なハムスターはそれがさらに裏目となり、直撃によって破片の勢いに耐えられずそのまま背面にあった東側出口手前にある二階テラスへとつながるエスカーレ―ターまで7メートルもの距離を弾き飛ばされた。
 モリタが飛ばされたエスカレーターの向こう側、東側出口の外ではまだ炎が鎮まることなく赤く揺らめいている。
「なんだ?」
 陽光は異常な衝撃音を耳にするとコックピットを右へ90度ほど旋回させ自分の背後を見た。すると陽光の目にガラス扉の前で四つ脚を広げうずくまったような姿をしたライトクラスのヘヴィ・ワーカー、すなわちモリタの乗るハムスターの影が炎を背景にして見えると陽光は思わず叫んだ。
「オマエか!」
 モリタのハムスターは今の衝撃でさらに電子迷彩の故障範囲が広がり脚だけに迷彩映像が映し出されていた。

 モリタはあまりの不意とジェルバッグの圧力を受け一瞬の目眩を喰らった。そして怒りをあらわにしたモリタは吠えた。
「モード切り換えが咄嗟にできないようでは使い物にならんではないかっ!」
 そうモリタが言っている間に正面、左右から飛び出したジェルバッグは吸い込み音をたてながら勢いよく収納されていきハムスター自身も自動で立ち上がり体勢が整っていた。
『中佐! 大丈夫ですか!?』
 ハセガワはモリタが飛ばされる姿を目の当たりにすると、ただちに勢いよくガラス扉を破壊してモリタへと近づきそのままスピーカーを通して叫んだ。
「そこのヘヴィ・ワーカーのパイロット! ただちに停止して降りてきなさい!」
 その声を聞いた陽光は顔をしかめ対抗するかのように叫んだ。
「なんだぁ! このクソふざけた可愛い女の声は!? ナメてんじゃねぇぞ! オラァ!」
 陽光にはハセガワの存在が分からない。ガラス扉が破壊されたことに全く気付いてなかった陽光はコックピットをさらに90度旋回させモリタへと近づいた。
「止まりなさい。もう一度警告します。止まりなさい! 止まらないと即刻強制拘束します!」
 ハセガワの甲高く丸みある声はこの緊張した空気とは相反した陽光の言う通り可愛い声であった。そのハセガワは自身の鼓動をしっかりと感じながらもゆっくりと深呼吸をし陽光のヘヴィ・ワーカーの脚の付け根へとターゲットを合わせていた。
 陽光にはハセガワの声がモリタの機体から出ているように聞こえている。電子迷彩は普通5メートルも近づけば見破ることができるはずであるが陽光の眼中にあるのはモリタが乗るハムスターのみ。

 陽光の今の姿は大声を張り上げ脅しているだけの柄の悪い男としか外からは見えないであろうが中は違った。狂気溢れた状態。単なる柄の悪い男などむしろ可愛いものだ。目の前に映る機体をすぐにでも自分のマシンで粉砕する準備ができているのだから。中身もろともに。

 その狂気の気迫に満ちた陽光を暗視モードで凝視するモリタとハセガワ。この緊迫した空気に二人ともシミュレーションとは全く違う本物を味わい固唾を飲んだ。そしてその認めたくない恐怖心が沸き起こっていることを隠すようにモリタは声を張り上げた。
「止まれ! 三度目だ。もう一歩でも動いたら強制拘束を実施する!」

 モリタの叫び声がこだました金の時計広場。かつては日常を日常の空気として誰もが当たり前のように通り、人を待ち、人と去る。その様な場であったはずの場所が過去の思い出とはできない残酷な景色が煙と共に存在し、今もなお外では炎が治まることなく赤い光が背景として残酷な風景を演出していた。

「テメぇら何様のつもりで言ってんだよ!」
 陽光は言うより早くヘヴィ・ワーカーをモリタのハムスターへと近づけアームを右から左へスイングさせてモリタの乗るハムスターを勢いよく(はた)いた。そのあまりの早さに反応できなかったモリタはそのまま軽々と吹っ飛び、その横で構えていたハセガワもまた不意をつかれモリタの機体がハセガワの機体へと音を立ててぶつかると軽さが災いし、二人一緒に北側のデパート入り口までへと弾き飛ばされた。
「キャーァァ!」
 ハセガワは(たま)らず悲鳴を上げた。しかし彼女の両手にあった操作グリップからは手が離れることなく吹き飛ばされている状態の中でトリガーを引いていた。すでに照準が固定されていたハセガワのハムスターの両手は吹き飛ばされながらも陽光のヘヴィ・ワーカーを自動追尾しておりダダダッと音を立ててガム弾が連射された。
 がしかし、ハセガワの撃ったガム弾は照準固定されていたものの宙を浮いた不安定な状態では狙い通りとはいかず、結果ただの乱射となり本来当てるべきヘヴィ・ワーカーの関節部分を大きく外し、ヘヴィ・ワーカーの本体とコックピットガラスへ数発当たっただけであった。
 陽光はコックピットに張り付いたガム弾を拭おうとワイパーを動かしたがワイパーがガム弾へとへばりつき糸を伸ばすようにぎこちなく動いた。
「なんだよこのネバネバ。俺は納豆が(きれぇ)いなんだよぉっ!」
 役に立たないワイパーとその奇妙なガム弾の粘りが視界を遮り陽光の怒りを増幅させ、はり飛ばした二体のハムスターに向かって大声で叫んだ。
「テメぇらかっ! このクソ田分けなことをやりやがったのは!」
 陽光の肉声は辺りの壁を震わすほどのものであった。
 すると、その時であった。陽光の声か、それともモリタ、ハセガワの機体が建物へぶつかったことがきっかけであったのかは分からないが音を立てて床が大きく揺れだした。
『地震でしょうか?』
 ジェルバッグに包まれた状態のハセガワが言った。
「違うな。この揺れ。不自然すぎる」
 小刻みな振動は普通の地震とは違い、たしかに不自然なものであった。この揺れに神経を尖らせつつモリタはハセガワの機体にのし掛かった状態であったハムスターを即座に床へ着地させ通常姿勢となった。そこに今度は天井からアルミパネルが崩れ落ち始めてきた。
「急げ、ハセガワ!」
 モリタはハムスターのアームでハセガワの機体を立ち上げる手助けをした。この頃にはハセガワの機体の電子迷彩は完全に死んでおり、その姿をあらわにしていた。
「なんだこいつら? 二匹いたんかよ!」
 陽光は揺れも天井の落下にも気をとられることなく二人の機体を睨み付けて言った。そして揺れは治まることなく次々と天井からあらゆるものが落下し始めてきた。
 そこへコウノトリで待機していたエンドウ中尉の声がモリタの耳に入った。
『中佐! 大丈夫ですか!? どうなされました!?』
土建(どけん)のヘヴィ・ワーカーがいた。いやそれは良い。今地震が起きているか?」
『いえ。こちらは何も』
 その間にハセガワも機体を立ち上がらせ陽光とモリタ、ハセガワが揺れの治まらない中、一瞬のにらみ合いとなった。しかしそれはまさに一瞬でしかなかった。対峙したとたん双方の間に鉄骨が落ちてきたからだ。これには陽光も慌てて後ずさりし治まらない揺れが気にかかった。
「なんだい、この揺れ?」
 そう言って陽光が上を見上げると鉄骨が大きく広がる姿が見えた。
「ヤバい!」
 陽光は一気にヘヴィ・ワーカーを全速後退させた。そして陽光の勢いに任せた後退はそのまま陽光が壊した半壊状態のシャッターへとぶつかり突き刺さった。

「ハセガワ。後退する」
『あれは?』
「いい。脱出が優先だ」
『はい』
 モリタとハセガワの二人は落下物にぶつかりながらもそのまま勢いよく東側のガラス扉へと突っ込み、タワーズの外へと脱出した。そして二人の搭乗する二体のハムスターはまだ炎にまみれた道路を駆け抜け帰還の途についた。

 帰還途中、落ち着きを取り戻しつつあったハセガワは陽光の個人データ入手ができていたことに気が付き言った。
『遅くなりましたが、先ほどのヘヴィ・ワーカーのパイロット分かりました。データ転送します』
「頼む」
 モリタの耳に軽いチャイムが鳴り響くと同時にモニターにはハセガワから送られてきた陽光のプロフィールが表示された。
「轟陽光48歳。尾張建設勤務……災害支援実績がすごいな……。単身で……ほぉー、これまたすごいなぁ」
 モリタは薄い笑みをこぼし言った。
『すごいですね、色々と……』
 ハセガワもモリタと合わせるように苦笑いを出した。
「録画はもちろんできているな?」
『はい。大丈夫です』
「よし、私の方と二つ十分な証拠があるからあとは簡単だな」

第31話 親父のくせに―極み(前篇)―

 タワーズ一階、金の時計広場にある地下へと向かう階段入口のシャッターへ突っ込んだ状態で身動きできないままでいた陽光のヘヴィ・ワーカー。天井から落ちてきた鉄骨は避けることができたものの小刻みな揺れは続いていた。
「こ、これってよぉ……ここも崩れているってことか?」
 揺れるコックピットの中で見上げて言う陽光。コックピットガラス越しに天井から次々と物が落ちてくる姿が見事に見て取れる。陽光へ不安を(あお)る風景だ。
「くそっ……どうせならイイ女と一緒に気持ち良くあの世へ行きたかったぜ……」
 揺れは徐々に大きくなっていく。吐き気がしてくるほどの激しさで続く揺れの中、陽光は意識が遠のく感覚と戦っていた。
「ああぁ、気持ち悪ぃ……で、ここでオマエと心中か? イヤだねぇ……」
 いつのまにか陽光のジャケットの中にもぐりこんでいた猫を抱えたまま陽光は成す術がなくしばらくこの状況に身を任せていると、揺れ幅はさらに増幅していき天井から次々と容赦なく陽光のヘヴィ・ワーカーを囲むように大きな音を立てて落下物が積載していく。
「こ、このまま、生き埋めになんのか……ああ……もうちょっとカッコ良く、死にたかったぜ……こんなところで潰されて、終りかい……しかも猫と……寂しいねぇ、まったく……」
 陽光の気持ちに覚悟が見え、すべてをあきらめ観念した気持ちまで来たところで突如揺れが治まった。奇跡かと陽光が心底思う状況に恐る恐る口にした。
「止まった……か?」
 耳を澄まし辺りを見渡す陽光。この頃にはコックピットガラスに今にも割れそうな無数のヒビが入り、視界はすべて瓦礫で埋め尽くされた状態とまでになっていた。
「ふにゃあぁぁ……」
 陽光の懐で安心をもたらす温もりを出す猫が声だけ出して丸まっている。
「さて、どうするべか? 轟陽光」
 揺れの治まりに一安心した陽光はため息交じりで呟くと、ヘヴィ・ワーカーの状態を調べるためセルフチェック・プログラムを起動させた。そしてその間にひとまずアクセルペダルを少し踏み込んでみるとエンジン、モーターとも作動し瓦礫を押し出そうとヘヴィ・ワーカーが震えた。
「どうやらこいつはまだちゃんと動くか……って言ってもこの状態じゃ前には進めないって感じ?」
 そう言って陽光はそのまま勢いで瓦礫を押し出してやろうと思いアクセルペダルをべったり踏み込んだ。がしかしエンジンがうるさく騒ぎたてるだけで瓦礫はびくともしなかった。
「ダメっすか……」
 簡単に諦めた陽光はセルフチェック・プログラムの状況を確認しようとモニターへ目をやると朱美の存在位置を示す赤い点滅に気づいた。
「いかん! すっかり奴らと地震に気ぃとられて朱美ちゃんを忘れとったわ。まだ大丈夫そうだな。待ってなよ。すぐ行くぜ」
 陽光はすぐ自分の背後の階段にいるはずの朱美へと気持ちを一気に持っていき、バックモニターを表示させた。が、真っ暗闇で何も見えなかった。そこですぐに陽光はヘヴィ・ワーカーのリア・フォグランプを点灯させた。すると下り階段に瓦礫の山積した姿と人らしき影が確認できた。
「朱美ちゃんは間違いなくここにいる」
 探索モニターを見て目を鋭く光らせた陽光。「ちょっとどいてな」と言って懐に潜り込んでいた猫をつまみ出すと陽光は立ち上がり非常用の背面ドアを開けた。
「うっ、臭ぇっ!」
 さっきまで忘れていた異臭を外に出たことで思い出し、口の中までまとわりつくような臭いに驚き思わず声を上げた。そしてすぐにマスクをしようと手を動かした陽光だが「あれ、俺マスクどうしたっけ?」と自分で捨てたことをも忘れていた。
「ま、いいか」と言って陽光はしかめ顔のままヘルメットのライトを点灯させゆっくりとヘヴィ・ワーカーから降りた。
 不安定な足元。よろめきながら自分の周り一帯を見渡すとシャッターに挟まれ体半分だけ覗かせている人間と瓦礫とともに横たわる人間がそこにあった。すでに息はないだろう。陽光はヘヴィ・ワーカーの周りに人の抜け殻が敷き詰められた床に仕方なく足をつけた。そしてそのまま幅広い下り階段へと目をやると人の山が不自然な形で下まで連なっているのが確認できた。逃げようとしたのだろうか? 人を踏みつけた形で倒れている者も見える。陽光は目を細め注意深く下の方までライトを向けた。
「助けて……」
「助けが、来たぞ……」
 どこからから小さな声が陽光の耳に入った。
「朱美ちゃんはいるかぁぁ!」
 陽光は耳にした声に反応することなく大声で叫んだ。

          *

 朱美は老若男女様々な人々が待ち合わせをしている風景を目に平凡な幸せってこういうのを言うんだろうなと思いつつ約束の時間を過ぎても来ないシンを待っていた
「んー……さっき、どこから電話してたの?」
 朱美はスマートフォンに映るシンに話しかけた。
「ん?」
 スマートフォンから目を前へ移すと自分がいつのまにやら暗闇に立たされている事に気がついた。
「何? どうしたの? 停電?」
 朱美の周りは暗い。しかし自分の体はよく見える。スポットライトを真上から当てられているかのようだ。
「どうなってんの?」
 朱美は一体何が起きたのか調べようとスマートフォンに再び目を移したところで異臭が鼻をついた。
「イヤだ、何か焦げ臭い」
 朱美は顔を歪めると鼻に手の甲を押し当て辺りを見渡した。するとさっきまでの暗闇が橙色に薄ら光放ち自分の目がおかしくなったのかと思うように光が揺らめいていた。
「な、何? これっておかしいよね? これって夢?」
 朱美は気持ちとしてこの場から移動して状況を確かめたかったが体が自然に360度回ることで終止した。
「朱美!」
 シンの声が朱美の耳を打った。
「シン!」
 朱美は揺らめく光の中から手を振って近づくシンを見つけ大きく安堵し、朱美は小さく飛び上がって手を降った。
「もう、本当に不安だったんだからぁ。なんか変じゃない、ここ?」
「え? そう?」
 シンが手を伸ばせば届くほどの距離へとやって来るとシンは目を大きく広げて朱美の言葉に不思議がって見せた。そして朱美は笑顔でシンへと触れようとした瞬間、突如耳に突き刺さる大きな金属音が朱美を驚かせ身を退いた。
 すると目の前にいたシンがいきなり上から下りてきた白い壁で押し倒された。
「シぃぃぃぃン!」

 シンの背中を押し潰した白い壁。

 シンの吹き飛ばした鮮血が白い壁を染めていた。

 そして朱美の記憶は途絶えた――

第32話 親父のくせに―極み(後篇)―

「男は放っておけ。種はそこら中に転がってるからよぉ。女が大事だ。女がいないと男はこの世の中にはいねぇんだよ」
 陽光の大音量のしゃがれ声が陽光から発している光をちらつかせさながら暗闇の階段にこだまし眠りについていた者をも目覚めさせた。
「でも、お年寄りで怪我されてますよ……」
 疲れ切った表情に血の流れたあとを残した中年男が陽光に向かって弱々しく言った。
「今までやりたいことやってきたんだ、後回しだ。助けたいんだったらテメぇがしょってけ、アホ! 俺は体一つしかねぇんだ。田分け!」
「そんな言い方ありますか……」
 陽光の声に押され少し怯える男。
「オマエが動けるんだったらオマエが何とかしろ!」
 陽光節を生存者に容赦なく浴びせてきた陽光の迫力に負けた男は口をつぐんだ。

「シぃぃぃぃン!」

 陽光が階段中間あたりで生存者とひと悶着やっているところに朱美と確信できる声が陽光たちのいる空間に響き渡った。
「朱美ちゃん!」
 陽光は生存者の顔も声も無かったかのように自分の耳を便りに階段に倒れている人々の隙間を見つけながら勢いつけ階段を下っていった。
「朱美ちゃんどこだい? シンの親父の陽光だ! 朱美ちゃん!」
 陽光は一旦シャッターが閉まっている地下まで下りて階段を見上げた。改めて知る惨事に陽光は思わず大きなため息を出した。そして下から一人一人顔を見て回った。その間に何人かの息のある者と出くわすと陽光は息のある者だけの体を起こし数々の抜け殻の上へ楽な体勢にしてやり朱美を探し続けた。
 そしてついに老女の遺体に隠されていた朱美を陽光は見つけた。
「おおぉ、朱美ちゃん! 大丈夫か? おい」
 頭を下にうつ伏せ状態で寝ているかの表情をしていた朱美。綺麗だった艶やかな白い肌は汗と埃で汚されていた。
 陽光は老女を軽々と持ち上げ横へと退かすと朱美の口元へ耳を近づけるとともに首もとに指を当てた。
「よし」
 朱美の状態を確認した陽光は表情変えることなく朱美をゆっくり持ち上げ肩へと載せると近くから女の弱々しい声が聞こえた。
「私たちは?」
 陽光は息苦しいそうにしている声の主である女にライトを当てると苦々しい顔つきで言った。
「まずはこの子を連れてかなきゃ。そのために来た。って言っても見殺しにするつもりはねぇからよ。できることはやっていく。」
 陽光はそう言ってぐったりとした朱美を担いでヘヴィ・ワーカーへと戻り朱美をシートへとそっと座らせた。そして陽光はすぐに背面ドアから階段下へと向かって叫んだ。
「生きてる奴ら! 耳かっぽじってよく聞け! とにかく一階はダメだ! 俺は朱美ちゃんを助けに来たぁ! とてもじゃねぇがお前らを連れて帰ることはできねぇ!」
「そんなぁ……救助隊じゃないの?」と暗闇から聞こえる女の声。
「悪ぃなあ。俺はただのオッサンだ」
「せめて子供たちだけでも……」
 再び暗闇から別の女の声が聞こえ陽光は応えた。
「悪いな。ヘヴィ・ワーカーは一人乗りだ。そこに無理やり一人余分に押し込めて帰るから無理だ」
「じゃ、俺たちはどうなるんだ?」
「怪我人だっている。どうすればいいんだ?」
 何人の生存者がいるか分からない闇の階段がこれをきっかけに急速に人の声が膨らみ騒がしくなった。
 この状態に陽光は苛立ち叫んだ。
「ああー、ぐだぐだウルせぇなぁーっ!」
 陽光の一喝でピタリ声は止んだ。そして陽光は続けた。
「そんだけ喋る余裕があるんだったら自分で考えて動け! いちいち人に聞いてんじゃねぇよ! 自分が助かりたけりゃ他人は置いてけ。助けたいんだったら背負うなり引っ張ってくなりしろっ! そんなもんテメェらで考えて判断しろ! ここから俺だって出られるかわかんねぇだ!」
 陽光の威圧感に満ちた叫びに誰もが黙した。苛立ちの収まらない陽光は続けざまに叫んだ。
「自力で歩ける奴は自力で脱出しろ! 俺が持ってる少ないが非常食の入った救急バッグは置いていく! で、救助隊には連絡つけといてやるから!」
 暗闇に隠された生存者は沈黙し続けていた。それを確認すると陽光は軽くため息を出し一呼吸すると言った。
「そんじゃぁ、ちょっとお前らどけ。そこのシャッター壊すからよ。それでここから出れるかは分からんけどな。ま、あと念のため遺書でも書いておけ。ビデオ撮っといてもいいしよぉ。遺書が書けるだけでも幸せだと思っとけ。よく周り見てよ!」
 この陽光の言葉に息のあった者たちは暗闇の中、黙って道を開けた。

         *

 陽光との連絡を済ませてから1時間余り経過していたシンは、丸の内駅出口に群がっている人にまみれたまま茫然としゃがみこみ佇んでいた。そして今もなお目に見える現実の姿が信じられず手にあるスマートフォンの中の朱美と会話していた。
「なぁ、朱美ぃ。こん時楽しかったな。俺、最初行くの嫌がってたけどさ」
 画面に映るのは今年の夏に行ったディズニーランドでの二人の写真。画面ひとつひとつを丁寧に眺め、そしてゆったりと画面を切り替えていく。その様は故人を惜しむ姿に周りに映るだろう風景であった。しかしそれはシンだけではなくその周囲にいる人々の中に同様の姿を見せている者は多数いた。もっと言えば日本中に。世界中にだ。
 シンはひとつひとつの愛おしい過去の世界に入り込んでいた。戻れない過去。朱美と過ごした時間。
 そして耐えきれずシンはついに嗚咽した。留まることの知らない涙。哀れなほど顔を歪め手の中にある朱美が写る写真が何を写しているのか見えなくなったシン。もう何もかも分からない。シンの思考はすべてを止めた。
 今という時間がすべて架空のものであるかのような真実味のない虚無の世界にひとり舞い降りただひたすら幼児のように泣きわめき続けているシン。

 しかしもうひとりのシンは諦めずにいた。

――どうしてもう会えないと決めつけるんだ?

――まだ何もはっきりしてないじゃないか。

――何泣いてんだよ。

――馬鹿じゃねぇか?

 馬鹿じゃねぇか?

 このシンの気持ちに被さる様に父、陽光の声が聞こえた。
「馬鹿じゃねぇか?」
「分かってるよそんなの。まだ分からないって! でもさぁ、でも、もう親父だってどうなったか分からないんだぜ! あんなの見せつけられて、もうどれだけ経ったか分からない。分からない。分からない事だらけだよぉ!」
 シンの滴り落ちる涙は枯れることなく今もなお溢れ出ている。そしてシンはもうすべてを破壊してしまいたい、もう何もかも消えてしまえばいいと。項垂れ独り叫び続けた。
「オマエはアホか。何こんなところで一人、芝居やってんだ?」
 この聞き馴染んだ力強い音圧あるしゃがれ声がシンの耳を通し頭へと入り込んで来た。
 シンはおもむろに見上げるとそこには人をあざけ笑っているようなシンの認めたくない父、陽光が立っていた。そして陽光の顔の横にはおぶられ疲れ果てた朱美の顔があった。
「朱美ぃっ!」

 夢見心地――

 瞬間にして悪夢のまぼろしが至福のまぼろしとして信じがたい、夢の世界ですべての縛りから解放され自由に戯れる温かな心地よさがシンの胸を一杯にさせ言葉がこぼれた。
「夢でもいいよ……」
 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしたシンを見て陽光は鼻で笑い言った。
「オマエはアホか。夢じゃねぇよ。ちゃんと朱美ちゃん連れて来たったぞ」
 その陽光の声にシンは涙をしっかり両手で拭い目を見開いた。
「朱美……」
 そのままシンは勢いよく立ち上がると朱美の頬をそっと撫でた。そして確かめるように何度も朱美の頬を撫でると垂れ下がった髪をゆっくり持ち上げ覗くようにして朱美の顔をしっかり目に入れた。
「朱美……」
 朱美は疲労しきって半分眠りの感覚でいたがシンが自分の頬に触れた感触、その冷え切ったシンの手が朱美の中で待っていた感覚を蘇らせ意識を戻した。
 朱美の目に映るシンの顔。またその朱美の顔を愛おしさに満ちた涙目で見つめるシン。朱美はシンの存在を確認するとゆっくりと囁くように発した。
「シン……良かった……また、会えたね……。もう……ホントに、会えない、かと……思って……た……」

 この時、ようやく今までの過酷な待ち時間はシンと朱美を解放し、二人に幸福の絶頂を味わわせた。
 シンはすぐさま朱美を陽光の背中からそっと下ろしふらつく朱美をゆっくり座らせた。そして感情の赴くままにシンは朱美へ何度も力強く口づけて朱美の存在を確認した。そしてただひたすら強く抱きしめ続けた。
 その姿を見て陽光は呆れ顔を作り言った。
「ちょっとは俺にありがとぐらい言え。あと電話にはちゃんと出ろっつーの。このクソ田分け!」
 陽光はそう言い放って満足げな笑顔を作ると二人の前から消えた。

最終話 終息

『どうして俺はここにいるんだ?』
『どうして今になって俺を呼んだんだ?』
『どうして俺は未だに言われた通りにしてる?』
『だからこいつは俺を仕込んだのか?』

 轟シンの自問は枯れることなく今もなお湧き上がっていた。それは轟陽光という父親が源流となって無限の疑問を生み出して来たことには間違いない。

 この時、轟シン26才。轟陽光55才――

 2067年9月10日。この日、シンと陽光は悠久乃森(ゆうきゅうのもり)という公共施設の一室にいた。
「悪ぃな、付き合わせて」
 かつてのしっかりした音圧のある声とは程遠い息苦しさを含んだ囁き声で陽光は言った。変わらないのはしゃがれた声だけでそれ以外は別人だ。
 頬骨は飛び出し乾ききった肌は酷くくすみ、自慢の肉体から筋肉は消え失せ骨に皮が張り付いているだけのみすぼらしい姿。そのかつての影が見当たらない陽光は生成り色したベッドに横たわっている。シンはそこから少し離れたパイプ椅子に背中を丸めて考えこむように座っている。そしてどこを見ている訳でもなくただぼんやりとしたまま「ああ」とだけ陽光の言葉に応えた。
「俺を恨んでるんだろ? 結局、俺も頼る人間がいなくて、お前をつい呼んじまった……」
 ほんのりと花か何か香水のような匂いが漂う部屋の中に二人。陽光の時々息詰まる聞き苦しいと感じていた話にシンは単調に再び「ああ」とだけ応えた。
 そしてほんの少しの間をおいてシンは立ち上がり部屋の中を観察した。

――悠久乃森。ここで自殺ができるらしい。

 シンはあのテロ事件の日に消息の絶った陽光からここに来いと数年ぶりにメールを受け取り、「何事だこのクソ親父」と思いながらネットで調べたら希望すれば自ら安楽死できるところだと知った。
 何だか分からないけど自殺する気か? このクソ親父。と、その時シンは思ったのだが、そう考えるとそこに同席させるのはおかしいと感じた。
「どう思う?」
 シンは婚約者の梅谷(うめや)美乃(よしの)に聞いた。
「行くべきかどうか悩むんだ?」
 そう美乃は両腕を頭の上で組み天井をぼんやり眺めるシンの横顔へ向かって言った。
「意地悪な返事だなぁ」
 シンは美乃を横目で見る。美乃は細い切れ長の目でシンの顔をしっかりと捕らえている。
「だって、シンが私に悩み事を口にするの初めてだよ?」
「そうだったかな?」
「あなたは本当に寡黙(かもく)で落ち着いているからね。お陰で私の方が若く見られるから良いんだけどさ」
「嬉しそうな顔するなよ」
 シンは美乃と向き合うように体を横に向け言った。そして美乃はシンが自分の方へ向いたことを確認するとそのまま優しく額をシンの額へ当て、上目遣いで柔らかく言葉を発した。
「私は嬉しいよ。きちんと悩みをは口にしてくれた事が。でも悲しいね。お父さんがそこに呼んだってことは。私はシンから十分お父さんの事は聞いててシンはお父さんが嫌いなんだって事も十分分かってる。そんなシンが行くかどうかを私へ口にしたって事は行かなくちゃて思ってるんじゃない?」
「んー……」
 シンは小さな唸り声を出すと目を閉じ鼻先を美乃の鼻へ擦り付けた。
「でしょ? 行きなさいよ。行かなくちゃ」
「やっぱりそういうものか……」
 目を瞑ったまま静かに答えるシン。
「心の底から嫌だったならそんなこと口にするわけないもの。行く必要なんてない。それに、もしそう思っていたらそんな風に考えもしないわよ」
 シンの耳元へ美乃のふくよかで落ち着いた声と共に吐息が届く。
「だから行ってきなさいよ。どうしてそこに自分を呼んだか聞いても良いし、黙って見送るのも良いし。どれにしたって行かなくちゃ後悔することになるわよ? もしかしたら本当の最期なのかも知れないし……」
「そうだな」
 シンの返事のすべてを言いきる前に美乃は口で口をしっかり塞いだ――

 シンは陽光に背を向けたまま言った。
「どうして俺を呼んだんだ?」
 陽光には首を動かす力も残ってなかった。目をシンのいる方へとゆっくり向けると貧弱な声で応えた。
「俺にはお前しかいなかった。余命宣告を受けた時ふとお前の顔が浮かんだんだ」
(余命宣告? ガンなのか?)
 シンの言葉は発されることなく、少し納得感を得たシンはゆっくり振り向き疲れた体を休めるかのように再びパイプ椅子へ腰掛けた。そして背中を丸め覗き見るように陽光の寝姿を眺めた。
 陽光はシンの動作を気にすることなく自分の話を続けた。
「まぁ何だな。結局、俺にはお前しか居なかった、ってことだな。俺にはお前以外に3人のガキがいるけどよ。もう連絡つかねぇんだわ」
 シンは陽光の言ったことに耳を疑った。これには無意識に反射し大声が出た。
「はぁ? 親父もういっぺん言ってくれ。俺以外にガキが3人って言ったか?」
「ああー、言って無かったか? 悪いぃな」
「悪いぃなじゃねぇだろ!」
 陽光のか細い返事の内容に今度はシンの頭へ一気に血が昇り陽光の様態など気にすることなく大声で叫び立ち上がった。
「はははは、いいぞ、その反応。やっぱお前は俺のガキだぜ……」
 気の抜けた笑い声を絞り出した陽光を上から見下ろすシン。その突き刺すシンの目を陽光は目を閉じて受け止めていた。
 シンの方は陽光の言った事をどう受け止めればいいのか分からなかった。
(俺以外のガキだと? 外で適当にやりまくってたってことか?)
「親父。ちょっと詳しく話せて」
 シンは陽光の胸ぐらを容赦なく掴み上げた。かつての陽光とは違い気味の悪いほど簡単に体が持ち上がり、陽光の頭が体にぶら下がるように垂れるとシンは自分が無茶やってると気付き手を緩めた。
「まあ、また今度話すでよぉ……今日は勘弁してくれ……」
「今度って事は今日は止めるってことか?」
「まあな」
 陽光の言葉にシンは大きな溜め息を吐き出すと陽光から手を放しパイプ椅子へ腰を下ろした。

 その後シンの溜め息の音だけが度々部屋に響く陰りある時間がしばし続いた。
 
 そして陽光の返事から幾らかの時が過ぎると突然、部屋中に雄大な鐘の音が鳴り響いた。その音に驚きシンは思わず「なんだ?」と久しぶりに声を上げた。そして陽光を見やると陽光は静かに眠っていた。
「そうか。親父、時間みたいだぜ。三時間しかいられないってここに来るとき言われただろ」
 シンのやる気のない声に陽光は反応を見せなかった。
「なんだ、居心地が良くてマジで寝てんのか?」
 シンは立ち上がり陽光の肩を揺すった。
「!」
 シンの触れた陽光は熱の消えた脱け殻となっていた。


――相変わらずだった親父はいつの間にかこの世から去っていた。
――親父は俺を何だと思っていたのだろう。
――今にして言うことだったのだろうか?
――脱け殻を残して見事に俺から逃げて行った親父。
――俺にどうして欲しかったんだろうか?


 止まないシンの思考――


「轟シンさん。只今から轟陽光さんの永眠を確認致します」
 それを止めさせたのはシンの耳に聞きなれない男の声だった。シンの気が付かぬうちにスーツを見に纏った白髪交じりの中高年男性と中年男性二人が立っていた。
「所長の山本です。轟陽光さんの永眠確認を致します」
 淡々とした口調で話す男の言葉にシンは「はい」とだけ答えた。そしてシンは再び陽光の姿を見ると自然に小さな笑みがこぼれた。

エピローグ

 シンは職員の指示を受け火葬場へと向かおうと専用出口を出ると緩やかな登り坂が続いておりその先に火葬場と思われる白くて四角い小ぶりな建物が目に入った。
「シン!」
 誰もいないと思い込んでいた空間に自分の名が耳に届き一瞬自分のいるこの場所が何処なのか分からなくなり慌てたシンは辺りをあたふたと見渡した。
「シン! こっち!」
 女性の凛とした真っ直ぐな声が「美乃(よしの)の声」だとシンは悟ると火葬場と逆方向にある背の高い木々に覆われた小道の木漏れ日の中に黒いドレスシャツに黒色のロングスカート姿の美乃が立っているのを見つけた。あまりにも彼女らしくない出で立ちと連絡も無くやって来るとは思っていなかったせいでシンは言葉が出なかった。
 美乃はシンが自分に気付いたと分かると小走りでシンへと駆け寄った。

「美乃……どうしてここに?」
「シン、お父さんは?」
「ああ、逝っちまったよ。そういう美乃は喪服で現れる。どういうこと?」
「喪服じゃないわよ。それにまさかここへは派手な服で来れないでしょ?」
「わざわざ来てくれたんだ」
「うん。やっぱり心配だったから」
「親父が?」
「シンが」
「ありがとう」
 美乃の返事をシンは嬉しく思いそのまま黙って美乃の体を引き寄せ優しく抱いた。すると間もなくシンの胸ポケットにあったスマートフォンが震えた。
 間の悪い電話だとシンは思ったがそのまま黙ってスマートフォンを取り出しすぐに出た。
「もしもし? あ、はい、そうです。ええ。はい。ああ……そうなんですか。はい……」
 神妙な面持ちで話すシンの横顔を心配そうに眺める美乃。
「わかりました。はい。構いません。どうもわざわざ。はい。失礼します……」
 話し終えたシンは小さな溜め息を吐くと目だけで美乃を見た。そして美乃は不安げに聞いた。
「誰から?」
「防衛省」
「は?」
 シンの返事に美乃は整った顔を大きく歪めた。
「なんでシンのところに防衛省?」
「親父さぁ、自衛隊員だったんだとさ」
 苦笑いを見せて応えるシンに美乃は「ええーっ!?」と場違いな大声と合わせて再び大きく顔を歪ませると続けた。
「で、なんだって?」
「遺族年金があるから本人確認をしたいだとさ」
「そう……もちろんシンはお父さんが自衛隊に入ってたなんて知らなかったんだよね?」
「もちろん。知ってたら話していたよ」


 親父は自衛隊で特殊任務にあたっていたと言う。そして半年ほど前に起きた島根原発テロ事件の鎮圧に参加しその際に被曝し、そして結果、今に至ったとこの後、詳細が判った――


 結局親父はいつまでも親父のままだった。逃げるだけ逃げて、さもやるべきことをやっているかのように見せかけ親としての責任、大人としての責任から逃げてきた。
 そして最期に俺を呼びつけ後始末を任された。でもそれは俺が親父に縛られ調教されていたがために俺は今こうしてここにいる。
 今の俺には確信を持ってはっきりそう言える。
 でも、そうやって親父やお袋の縛りを理由に自分を錯覚させ真っ向から見ようとしてこなかった今までの俺が今の俺だともはっきり言える――


 シンは美乃の肩を軽く抱き空を仰いだ。そしてシンは独り言のように言った。
「父親って一体何だろう?」
「何だろうね? ウチは女作って離婚した口だから私も何だろうって思うよ」
 美乃も独り言のようにシンの横顔を眺めて言った。
「そうだったね。ごめん」
 気まずい笑顔を作ったシン。
「んん、全然いいよ。シンが父親になれば分かるんじゃない? 子供作ろうか?」
 悪戯な笑みで言う美乃。シンはその言葉に驚きの混じった照れ笑いを作り美乃へ聞いた。
「子供欲しいの?」
「欲しいって言ったら?」
「子供は欲しがるものじゃなくて授かるものだと答える」
「優等生!」
 シンの言葉に美乃はカラカラと笑うと続けた。
「私はまだシンとイチャイチャしてたいからダメ」
 そう言って美乃はシンの頬を人差し指でつついた。
「そうだね。俺達二人が望めば俺が親父になって美乃が母親になるってことで」
 シンは自分の左手を美乃の右手にしっかり絡ませると火葬場へとゆっくり向かった。

 <完>

親父のくせに

親父のくせに

舞台は西暦2059年の名古屋。大学受験を控えていたシンは幼き日に母、真珠に見捨てられ四足歩行型ロボット重機、ヘヴィ・ワーカーの操縦士である父、陽光に育てられてきた。がしかし、陽光はヘヴィ・ワーカーの腕前はかなりのものであったが酒と女が大好きな破天荒な性格とあってシンはその事に悩まされ続けていたのだった。 2059年12月25日19時00分。名古屋駅にあるセントラルタワーズにて日本の歴史史上最悪のテロ火災が発生し、シンとシンの彼女、朱美はその火災に巻き込まれてしまう。そしてそれを知った陽光は動き出した。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • アクション
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-01-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第1話 疑似家族旅行
  2. 第2話 非家族的食卓
  3. 第3話 親心。子心。
  4. 第4話 父の陽光。母の真珠。
  5. 第5話 欠落
  6. 第6話 父の陽光と息子のシンの関係
  7. 第7話 上甑町朱美
  8. 第8話 シンと朱美
  9. 第9話 昔話
  10. 第10話 スペシャリスト(前編)
  11. 第11話 スペシャリスト(後編)
  12. 第12話 けなげ
  13. 第13話 疑惑的憂鬱
  14. 第14話 1225 ―第1部 朱美と陽光―
  15. 第15話 1225 ―第2部 発火―
  16. 第16話 1225 ―第3部 金時計広場―
  17. 第17話 1225 ―第4部 混濁―
  18. 第18話 1225 ―機密―
  19. 第19話 1225 ―声明―
  20. 第20話 陽光のクリスマス
  21. 第21話 親父のくせに―序の口―
  22. 第22話 親父のくせに―真面目に陽光―
  23. 第23話 親父のくせに―陽光だから。シンだから。―
  24. 第24話 親父のくせに―探索―
  25. 第25話 親父のくせに―突入―
  26. 第26話 親父のくせに―侵入sideB―
  27. 第27話 親父のくせに―侵入sideA―
  28. 第28話 親父のくせに―対峙(前篇)―
  29. 第29話 親父のくせに―対峙(中篇)―
  30. 第30話 親父のくせに―対峙(後篇)―
  31. 第31話 親父のくせに―極み(前篇)―
  32. 第32話 親父のくせに―極み(後篇)―
  33. 最終話 終息
  34. エピローグ