救世主はマフィア様!?

救世主はマフィア様!?

――殺されてしまう! はやく、はやく、逃げなければ。

「あんのっ、くそ親父!」
 高校の制服に身を包んだまま、日向(ひなた)は恨めし気に言葉を吐き捨てる。
 絶対、後世で呪ってやると、強く心に誓った。
 つっかえそうになる足をどうにか制して見知らぬ道をひたすら休む間もなく走る。

――逃げなければ、殺されてしまう‼

「どうしてわたしがこんな目に合わなきゃいけないのよっ!」
 沸き立つ怒りを込めて大きな声で叫んだ。これも全て、自分の駄目な父親のせいである。
 表通りから裏路地へ転がるように滑り込むと、中学から高校で鍛え上げた足を使って駆け抜けた。こんなところで脚力が発揮されるとは思わなかったが、それが幸いしてなんとか追っ手を撒く。
 人生なにがあるかわかったもんじゃないと、日向は心底思った。

「なんで……わたしが『警察に殺されそう』になってるのよっー!!!」



 振り返れば壮絶な人生だったと思う。そりゃあもう苦難、困難の連続だ。
 母は若くして亡くなり、父と子、二人だけで育ってきた。ただでさえ父親は平社員のサラ―リーマンで給料が安くて贅沢はできな生活なのに、誰にでも優しい父親の性格が祟って、よく騙されてまがい物を交わされ、生活はとても苦しかった。
 いつも赤字状態で、なんとか中学時代までを母の貯金でしのいだが、高校からはバイトに通いづめて生活費を稼いだ。
 しかし父の騙されぐせは直らず、やっと黒字のめどが立ったと思うと、どかんと大金を騙され盗られる。そして一気に生活困難になるのだ。そんな一歩先は崖っぷちの生活を十八年やってきた日向は、それはそれはたくましい子へと育った。

 だが悲劇はつい一昨日、起こった。
 父が残した、たった一つの手紙から自分の人生が狂うなんて思ってみなかった。


「これから、どうしよう……」
 途方に暮れて壮大なため息を一つこぼす。浮かんだ汗で張り付いた前髪を左右にわけながらポケットに突っ込んだままくしゃくしゃになった手紙を取り出した。
 その手紙には「親愛なる日向へ」と父親の字で書かれている。
「馬鹿親父、残すならもっとお金になるものを残しなさいよ。こんな手紙一枚残されても、なんにもできないじゃない……」
 全速力で走ったため上がった息を整え、座り込みながら小さな声でつぶやいた。ふいに一粒の雫が手紙に落ちる。稀な現象なので最初は呆然としていたが、それが涙であることに気づいた。
「うそっ……。まさかわたしが泣くなんて」
 自分でも信じられずに流れる涙を手ですくうが、涙は溢れてきて止まらない。日向は知らずに自分が疲れ切って弱っていることを今さら自覚した。
(そっか……だってもう、この世界にわたしを助けてくれる人なんていないんだもんね)
 凍りつくような淋しさが心の奥から這い上がってくる。

 日向に親しいと呼べる友達は学校にいなく、親戚は両親が駆け落ちをしたため疎遠状態。加えて唯一の家族であり、日向を想ってくれる父親が二日前交通事故で死んでしまった。
 家に帰りたくとも実家と呼べる、おんぼろアパートは警察に押さえられてしまってるだろうし、今は無一文だ。
「一人ぼっちになっちゃった…………あはは」
 乾いた笑い声が虚しく響いて、千夏は壊れた人形のようにこてりとうつむく。
「もう……だれか……――たすけてよ」
 すがるような切ない声でポツリとつぶやいた。その時低いブーツの音と共に影が日向の上に落ちた。

「いいぜ、助けてやるよ」

 日向は跳ねるように顔を上げて眼を見開く。視界の先には真っ黒なスーツに身を包んだ二人の男性が立っていた。
 一人は黒髪を短く切りそろえていて鋭い目つきでこちらを睨んでいる。もう一方は輝かしいばかり金髪が目立ち、芸能人のような整った顔をしていた。日向と目が合うと優しく微笑みかけてくる。
 日向は一瞬にして警戒の色を眼に浮かべると、いつでも逃げられるように立ち上がって数歩下がる。手紙はしっかりポケットへしまいなおした。
「あなたたち、警察の人……?」
 泣いていたのが嘘だったかのように険しい目つきで睨みつける日向に、黒髪の男はにやりと笑った。
「いや、俺らはそれと正反対のもんだ。ていうか、さすが総長の娘。なかなか……おもしれえ目つきしやがる」
 この低い声は先ほど「助けてやる」と言った人だろうか。しかしそれよりも気になる点を見つけて日向は眉を寄せた。
「総長の娘ってどういうこと? わたしのお父さんは平社員のへっぽこサラリーマンなんだけど。到底、なんらかの総長ができるような人じゃないわ。勘違いよ」
「言われ放題だな、蒼梧さん」
 金髪の男性がくすりと笑う。日向はその言葉にぴくりと肩を動かした。
「蒼梧って、わたしのお父さんの名前……」
「うん。そして信じられないかもしれないけど僕らマフィアの総長でもあるんだ。親分みたいな感じかな?」
「マフィア……?」
「うん」
 子供に言い聞かせるように金髪の男性は話す。しかしどうにも日向はその話が信じられなかった。
 父親がそんな性分でなかったこともあるが、いま、こんな状況に置かれているせいもあるだろう。自分以外の人を信用できない。
「そう警戒されると困っちゃうな。僕らはただ、蒼梧さんの娘さんである君を守りに来ただけなのに」
 困った顔で金色の髪をかきながらも、日向へ向かってそっと手を差し出した。

「僕らは、関東総合組合マフィアの一部を束ねる十六ファミリーで、マフィアの総長である蒼梧さんの遺言のもと、君を警察の手から守りに来たんだ。いわば救世主ってみたいなものかな?」
 少し肩をすくめながら軽い口調で言うと、ティアラの手を取る。とっさに奪われた手を引き抜こうとしたがそれは許されなかった。
「ごめんね。ちょっと乱暴な扱いになっちゃうけど、君を保護させてもらうよ」
 言葉の意味を考える間もなく、日向の意識はそこでぷつりと途絶えるのだった。



「こちら、追跡第六部隊。大通りまで追い詰めたものの裏道へ逃走され、追跡者、本郷日向(ほんごうひなた)を見失ってしまいました。現在付近を捜索中ですが追跡者らしい人物は見つかりません」
 堅苦しい言葉で正確に報告する部下に、志乃(しの)は机を指で弾きながら笑顔でにらんだ。
「どうして見失っちゃったのかな、ね? 君たちは本郷日向を女子高生だからとなめていたのかな?」
「決してそんなことはありません」
 見えないヘルメットの下で汗をかく部下へ、さらに志乃は追及を深める。口元は上がっているのに、眼は寒々しい色を映していた。
「じゃあなんで女の子一人捕まえられなかったんだろうね。足の(けん)でも撃ってしまえば走れなくなって、容易く確保できるのに」
 部下は志乃の言葉に恐ろしさを覚えて息をのんだ。
 無垢(むく)な子供に銃を構えろと言うのだろうか。
「まあいいさ。明日は違う班も導入させるから。彼女はおえらい国家様の要注意人物なんだ。……次は頼んだよ?」
 可愛らしく首をかしげる志乃に、すばやく敬礼をして頭をさげると、部下は震える腕を必死に抑えながら辞退した。



「はあ? 薬を嗅がせて気絶させたですってえ!? 女の子に何てことしてくれちゃってるのよ、あんた達! 地獄に落ちなさいっ」
 女性の強烈な罵声に意識が起こされていく。懐かしい香りが鼻孔(びこう)をくすぐってゆっくり瞼を開けた。
「だから乱暴な男どもは嫌なのよ、まったく…………あらっ、目を覚ましたのね」
 女性の声が一変して嬉しさをまとい、どんどん近づいてきてぴたりと頬へ手が伸ばされた。そのまま額や頭を容赦なく触って女性は安堵の息をつく。
「顔に傷はついていないようだし、何かしらの衝撃の跡もなし。少しすりむいていた膝は、念のため消毒してあるから」
 いきなり顔をぺたぺたと触られ、日向はまだぼーっとしていた意識を無理やり叩き起こすと、後ずさった。
「あら、こんなに警戒しちゃって……ふふっ」
 なにが楽しいのか怪しい顔で女性は笑う。眼鏡の奥に隠された瞳が舐めるように日向を見つめていて、頬をひきつらせた。
 再度、指をくねらせて手を伸ばし手くる女性に、日向はさらに後ろへ退却するが、壁にぶち当たってしまう。
 どうすることもできず硬直していると女性の手が捕まれ引き戻されていった。
「ちょっとー、なにするのよ、(なぎ)。少しぐらい触ったっていいじゃない」
「駄目です。彼女が怖がってるでしょう、蓮華(れんげ)さん」
 どうやら女性を止めてくれたのは凪と呼ばれたあの時の金髪の男性らしい。少し眉を寄せた顔で女性を押さえると、日向へ向かってもう片方の手に持っていたカップを差し出した。
「ミルクティーです。体が冷えていたようなのでどうぞ。ああ、別に毒なんて入っていませんから」
 確かに肌寒さを感じたので、おずおずと日向はカップを受け取る。じんわりとした温かさが掌に広がった。
 それでもまだ警戒を解かない日向に、金髪の男性は苦笑交じりの笑みを浮かべると、では自己紹介からしましょうか、とつぶやく。

「僕の名は凪。こっちの仏頂面の人が正宗(まさむね)で、変態めいた女性が蓮華さん。それと……ああ、そこの隅でパソコンをいじってるのが梓馬(あずま)ね。以上四名が十六ファミリーのメンバーです」
「誰が仏頂面だよ、元からだ」
「そうよ、あたしは変態なんかじゃないんだから! ちょっと少女が好きなだけで……」
「それを変態っていうんだろう」
 黒い短髪の男性、正宗と髪を一つに頭上で束ねた女性、蓮華が言い争う。
 しかし言い争いのきっかけを作った発言者の凪は、二人を無視して、日向を連れてきた説明を始めた。

「先ほども路地裏で話した通り、僕らは総長である本郷蒼梧さんの部下なんだ。今回は警察に追われる身となった総長の娘、本郷日向、そう、君を外部から守るため任務を任せられている。蒼梧さんには昔からお世話になっているから、君も大事な人だよ」
 混乱気味で凪を見つめる日向を落ち着かせるように静かな声音でゆっくり話す。
「まだ蒼梧さんが総長だって信じられないなら、これを見てごらん」
 凪は壁にかけてあった一枚の大きな写真を指さした。写真には総勢四百人はいるであろう黒スーツを着たいかつい男たちと、その真ん中に、確かに父親が笑顔で写っている。
「嘘、どうして……。だって、お父さんからそんなこと一言も聞いたことなかったわ‼」
「蒼梧さんは自分が総長であることを隠していたんだよ。まだ幼い君を裏の社会に引きずり込むわけにはいかないからね。蒼梧さんはサラリーマンのフリをして、ずっとマフィアの総長をやっていたんだ」
「そんな…………」
 思考が停止したように日向は空を見つめた。喉から出てくるのは息苦しさをともなった空気だけだ。
「蒼梧さんが亡くなってまだ二日しか経っていないし、困惑したり信用できない点もあるだろうけど、今はこのアジトで身を潜めていてほしいんだ。手紙の件は何とかするから」
 手紙、その一言で考えることを放棄した脳は激しく脈打った。きっと凪の言う手紙とは、いま手元にある、父からもらった最後の手紙の事だ。
「手紙の事を知っているの……?」
 小さな声で尋ねると凪はうなづいた。なぜ、と口を開く前に凪が胸ポケットから、ずっと日向が持っていたはずの手紙を取り出す。
「ごめん。蓮華がきみの怪我を見てるときに発見して。拝借(はいしゃく)させてもらった。ねえ、この手紙の中に書かれている内容が、警察をつぶせてしまうような極秘級の不祥事が書かれてるって本当?」
 日向は眼を見開いて、食らいつくように凪の手紙を奪い取る。あっさり凪は手紙を離すが、黙ることは許されないような目線が日向に注がれ、嫌々首を縦に振った。
「……ええ、まあ。この手紙の内容が世間に漏れたら、国自体がすごい騒ぎになる、ってお父さんは言ってたわ」
「でも、その手紙には変な記号しか書かれていなかったよ。それはもしかして暗号?」
 日向と父親以外、誰にも読めない特別な暗号。その暗号で手紙の重要な不祥事の部分はつづられていた。
 父親とのただの遊びで考えたでたらめな暗号だ。だがその分、読解はどうやっても不可能だろう。
 まさかあの父親が死んでしまうなんて思わず、ただひたすら家にこもっていたとき、冷蔵庫の底から一つの手紙が出てきたときのことを思い出す。


『これを読んでるってことは、もしかして僕が君を守ってあげられない状況にあるってことなのかな?』
 父親が交通事故で病院へ運ばれたと連絡が来て、急いで向かったが即死だった。その後、自分の住んでいるアパートへどうやって帰ったかもわからず、途方に暮れているところにこんな一文が始めに書かれた手紙を見つけた。
『君を守れない状況って……もしかして僕が天国へ行ってたりするのかな? あははは』
 読んだ瞬間、紙を引きちぎりたい衝動に駆られた。
 こんな状況で能天気な父親の言葉を見ると、腹が立つ。父親はこの時、本当に自分が死んでしまうとは思わなかったのだろうか。
 必死に衝動を抑えると続きを目で追う。
『これから大切な話をするね。実は、僕はかなり知ってはいけないことを知ってしまった身なんだ。とても危険な秘密を。それは使いようによっては自分の利益になる。でもね、僕はこのまま秘密を眠らせたいと思ってる。でも、君がこれを読んでいるってことは、僕はもう秘密を隠しきれない状況にあるってことだ。本当は日向を巻き込みたくなかったんだけど、ごめん、この秘密を君に任せてもいいかな』
 そのまま視線を下に下げて、日向は雷に撃たれたような衝撃を受けた。

『この手紙を持って警察から……――逃げてほしんだ』

(どうして、警察からっ?)
 警察は平和と安全を目指して日々努力する人たちだ。そして市民を守ってくれる。なぜ逃げなければならいのだろうか。
『僕が知った秘密は〝警察の極秘級の不祥事〟なんだ。それを知ったことによって警察は僕を野放しにはできなくなる。でも捕まって警察が秘密を握りつぶせば、さらに世間が知らないような非道なことをたくさんやるだろう。だからお願いだ、日向。僕はもう無理みたいだから、君が秘密を抱えながら警察の抑え役になってほしんだ。君が秘密を握っていれば警察も下手に動けないからね。大丈夫、君を僕の代わりに守ってくれる人は必ずいるから』
「警察の抑え役って……そんなの無理だよっ!」
 つい日向は手紙に向かって叫んだ。父は今、一生をかけて秘密を守り通し、警察の敵となれと言っているのだ。
「無理に決まってるじゃん……」
 弱弱しい声でつぶやたとき、インターホンが部屋に響いた。しばらくしてもう一度インターホンが鳴る。日向はなぜか肌が震えるような恐怖を覚えて、手紙を握りしめると玄関から一番離れた窓へ駆け寄った。
「警察です。少しお話したいことがありますので、出てきてくれませんか」
 全身が身震いした。ねっとりした声が耳に届いて、手紙をポケットに突っ込むと窓から身を乗り出す。得体のしれない恐怖が背中をはいずりまわる。
(警察……逃げなきゃ……!)
 窓はアパートの2階に取り付けられていたが、上手くついていた柵へ足をつけると、飛び降りた。気づかれないように足音を消しながら玄関とは逆方向へ走る。
 五分走ったところで家の方角からけたたましいサイレンが耳に届いた。

 それから宛もなく何時間も走り続けた。
 そうすると走りながら頭の中で少しずつ、ゆっくりと父が伝えたかった想いが、託された秘密の重みが分かってくる。
(お父さんは、ただ平穏が続いてほしかっただけなんだ)
 すとんっと何かが心に落ちてはまるような感覚がした。
(だって、この秘密を盾に警察を脅せるのに、ただ隠して眠らせようとするのは、世間にこの事を発表して国の崩壊へも続いてしまうよな騒ぎを起こしたくないし、かといって警察にこれ以上好き勝手をさせたくないからだ)
 父はもともとまったりのんびりしてる人だった。そして平和を愛おしく思う人でもある。
(わたしに何ができるか分からないけど、とりあえず逃げようっ!)
 日向は自分に喝を入れた。父の手紙に書いてあった『大丈夫、君を僕の代わりに守ってくれる人は必ずいるから』の言葉を思い出すと勇気が湧いた。
 それから一度は警察に見つかったが撒き、今に至る。


「あなた達は本当に、わたしを守ってくる人なの?」
 探るような目つきで睨みつける日向に、凪は怒るでもなく呆れるでもなく、真剣にうなづく。
「いきなりすべてを信じろとは言わない。君がその眼で見て、聞いたものを自分なりに考えて信じてくれればいい」
 考えを押し付けない言葉に、日向は飲み込んでいた息を少しだけ吐いた。信じ切ったわけではないが、敵じゃないと思えたのだ。
「じゃあ一つ約束して。警察の不祥事は誰にも言わないで隠し通すこと。自分の利益にも使わない。約束してくれるならわたしはあなた達を少しだけ信じてみてもいいかなと思う」
「分かった。秘密は隠し通す」
 上目線から言ってみても日向の、信じてみてもいい、という言葉で嬉しそうにしている凪になんだかほだされて、冷めてきてしまったカップを口につける。
 まだほんのりと温かくてミルクの味が甘かった。
「お前、女にしてはしっかりしてて強いな。十そこら子供なんて泣くか喚くかぐらいしかできないと思ってたが」
面白そうに日向を見ながら正宗は近くにあったソファにどかりと腰を下ろす。行儀悪く机に脚を乗せる正宗に、日向は無意識で立ち上がって口を開いていた。

「机に脚を乗せちゃだめでしょ! 小さい時に教わんなかったの!?」
 ついつい、いつもどこか抜けている父親を怒るような感覚で初対面の、しかもかなり年上であろう正宗を叱ってしまう。
 叱った後に正気を戻し日向は口に手を当てた。
(しまったー……、いつもの癖でやっちゃった……)
 手に変な汗がじわりとにじむ。目の前にいる四人の中でも一番強面な正宗だ。もしキレられて暴力に移られてしまったら自分では対抗する力が弱い。
 身を固めてぎゅっと目をつぶったとき、となりから小さな笑い声が、そして耐え切れなくなったように大きくなった笑い声が発散された。

「え……凪、さん?」
 大笑いとは無縁の凪が身をもだえ苦しむように曲げて笑っている。眼がしらに涙を浮かべながらもひたすら笑い続けた。
「あーあ。凪のツボにドストライクね。凪がこんなに笑うことって珍しいのよ? 日向ちゃん、なかなかやるわね」
 褒められているのか分からない称賛(しょうさん)に呆然とする。一方、正宗の方も予想外に、
「悪かった……」とうつむきながら足をしっかり床につけて反省していた。
(なんなんだ、この人たち……なんか調子、狂う)
 まだ笑っている凪に落ち込む正宗を交互に見て、言葉を失う。
 見た目は怖くてかっちりしてるのに、心は無邪気な子供のようだ。
 なんだかこちらまで顔の筋肉が緩んできたとき、今まで感じなかった気配が背中に現れた。
「あげる」
 ばっと振り向くとヘッドホンをかけてノートパソコンを手に持った長身の男性が立っていた。
 この人は先ほど凪が紹介していた梓馬という人物だろう。
「へ……あ、ありがとう」
 差し出された銀包みを受け取ると中身を開く。そこには板チョコがくるまれていた。
「疲れたときはチョコレートが一番……」
 ぼそりとつぶやくと梓馬はそのまま隅へ行って、体育座りでまたノートパソコンをいじり始める。

「ぷはっ」
 知らぬ間に日向は口元を上げて笑っていた。
 自分でも笑っているわけが分からなかったが、久しぶりに心が軽くなったような気がした。
 それは初めて父親意外に笑いあえる人ができたときであった。


「日向ちゃーん。ちょっと台所のお鍋見てくれる?」
 蓮華の声が家の中に響く。日向は持っていたタオルの山をソファにいったん置くと急いで台所へ向かった。吹きこぼれそうになっている鍋の火を急いで止める。
「あ、危なかったー」
 あと少し遅れていたら大惨事(だいさんじ)になっていただろう、と額に浮かんでいた冷や汗をぬぐう。するといきなり後ろから抱きつかれた。
「ありがとー! ああ、やっぱり女の子がいるって安らぐわあ。ここむさくるしい男ばっかだから癒しが足りなくて……日向ちゃんをこうして朝から見れるなんて最高っ!」
 ぎゅうぎゅうと圧迫死しそうになる強さで抱きしめる蓮華の腕をどかそうにもできず、うめき声をあげていると、通りかかった凪が蓮華をひっぺはがしてくれた。

「すいません、爽快な朝から変態が出没していて。おはようごさいます、日向さん」
 もう黒いスーツに身を包んでいる凪が爽やかな笑顔であいさつする。しかし表情とは裏腹に言葉は毒舌だった。
「あ、おはようございます。な、なぎさん」
 言い慣れない言葉に恥ずかしいやらなんやらで噛みながら挨拶を返す。その様子を見て、凪に首の根っこを捕まれながら蓮華は悶える。
「恥じらう日向ちゃんも可愛い! これは心のメモリアムにしっかり収めなきゃっ」
「あははは」
 蓮華の見た目は胸が大きくて、とても魅力的な大人の女性なのに、中身は残念だった。
 対処法が分からず乾いた笑みを浮かべながら、日向はなるべく蓮華から距離を取る。安全第一だ。

「昨日はあんなにてきぱきとした言葉遣いだったのに、今日は敬語なんですね」
 凪が不思議そうに訊ねた。
(そういえば昨日はかなり偉そうにタメ口調で話してた……)
 あれから少し反省したのだ。さすがに警戒する相手だとしても、年上に失礼だったと思う。それに、
「今日からお世話になるので」
 日向はぺこりと頭を下げた。
 そのとき、リビングから正宗の声が聞こえた。
「おーい、飯はまだか、飯はー」
 その声で朝ごはんの準備途中だったことに気づいて、台所の作業へ戻る。素早い手つきでお味噌汁とご飯、おかずをよそると両手で盆を抱えて運んだ。
「和食なんですがどうぞ。お口に合わなかったらごめんなさい」
 洋風のリビングに似合わない和食の朝ごはんを運ぶ。
 今朝のメニューはこんがり焼きあがった小魚に煮物と白菜の漬物、丸い肉団子をいれたお味噌汁に土鍋で炊いた白米だ。
「……まじかよ」
 正宗は口をあんぐりと開けて目の前のお皿を見つめた。その様子に日向が心配になると、いきなり橋を持ちご飯とおかずを口にかきこんだ。
「うまっ……い、いや。まあまあだな」
 慌てて言い直す正宗に日向は微笑んだ。どうやらお気に召したようだ。
「すごくおいしいよ。日向さんの料理はどれも絶品だ」
 凪もはしで小魚をつつきながら手放しで褒める。表情はあまり読めないが梓馬も、もくもくと無言で口にはしを運んでいるので、こちらも問題ないようだ。
「おかわりはいっぱいあるので遠慮なく言ってください!」
 元気よく日向はお盆を抱えて言った。


「はー……不思議だ」
 誰もいなくなった部屋でお茶をすすりながら日向はつぶやいた。
 なにが不思議かというと、ここのアジトやマフィアたちへの慣れっぷりだ。
 出会ってまだ一日と少ししか経たないのに、もう昔から暮らしているような感覚になっていた。

 あれからここで身を潜めることになった。手紙の件は一度横へ置いといて、日向を捜索している警察を完全に撒くことにしたのだ。
 ここで外に出てはどこで捕まるか分かったものじゃない。だからここら周辺が落ち着くまでは一歩も外に出ず、この家で生活することになった。
 正直、マフィアのアジトと言っても生活するには十分な広さの家で、必要なものは全て揃っていたし、家に帰れない身の日向には有難かった。
 だが何もしないでただ飯を食らうのは気が引けたので、凪たちの反対を押し切って家事をやらせてもらうことにした。
 毎日食事がコンビニ弁当やカップラーメンだったらしいので、最初は「総長の娘さんを働かせるなんて」と渋っていた凪も、朝昼晩と三食料理を食べれることで、反対の勢力も弱まっている。
「人間って環境によって、ちゃんと変化するのね……」
 しみじみと人間の不思議について関心する。始めは一つ屋根の下にまだ若いと言える男女が一緒に住んでいるのはどうかと思ったが、心配なさそうだ。
 なによりも蓮華がそこら辺には気を遣ってくれてるようだった。
「それに、この家にそんな下心があるような人いないみたいだし」
 日向もお茶を飲み終わると、コップを洗うため立ち上がった。
 そしてある一点に視線をそそいで、ぴたりと動きを止めた。

「なあ、俺のプリン知らねえ? 冷蔵庫に入れたんだけどなくなっててよ……」

「き……きゃーっ! この変態‼」
「は!?」
 目の前にいる正宗を見て、日向は顔を手で押さえながら後退する。そして手元に持っていたコップを投げようと振りかぶった。
「ちょっ、待て待て。何だよ急に」
 正宗は日向の腕を押さえると、コップを取り上げて机に置く。
 日向は自分が何をしようとしてたのか自覚すると顔から手を外して謝ろうとした。しかしまたもや叫び声をあげると顔を覆った。
「な、なんで、裸なの!? 変態、痴漢、近づくなっ」
 正宗が日向の腕を抑えるために近づいたせいで、はっきりと正宗の鍛え上げられた上半身が目の前にあった。肩と腕辺りに刺青も入っている。
 お風呂上りなのか、わずかにシャンプーの香りがして肌が濡れている。そのせいで一層、生々しく上半身が見えて日向は顔を真っ赤にした。
「裸って上半身だけだろう。シャワー浴びてたんだから仕方ねえ」
「午前の十一時にっ!?」
「そうだ。昨日徹夜で銃、磨いてて風呂には入んなかったからな」
「うん、っていうかそれより、なにか上に着て。お願いだから」
 部屋の隅で一生懸命顔を隠している日向に正宗もめんどくさそうにしながらしぶしぶシャツを一枚羽織る。
 やっとのことで腕を下ろすと、まだ少し赤い頬で始めの質問を返した。
「プリンならさっき梓馬さんが食べてた。名前が書いてないから誰の所有物でもないって……」
「はあ!? あいつっ!」
 最後まで日向の言葉を聞かず、正宗は部屋を飛び出していく。
 日向はへなへなとその場にへたりこんだ。
「大丈夫なわけないか……これは結構用心したほうがいい」
 自分に言い聞かせるように呟いた。
 

 午後は何もすることがなく退屈だったので庭の手入れをすることにした。
 アジトには外から見えないように外壁で囲まれた小さな庭があるが、誰も手入れしないようで自然と化しているのだ。
「うーん、チューリップの球根でも植えるか、よし」
 さっそく軍手をはめて作業に取り掛かる。まず雑草抜きから始まったが、どうにも雑草が頑固で抜けなかった。
「抜けなさいよー、この頑固野郎! そりゃあ抜けたくないのは分かるけど、こっちだっていろいろあるのよ。お願いだから抜けてー!!」
 わめきながら腰を浮かして雑草を抜く手だけに体重をかける。力いっぱい引っ張ったとき雑草の根っこが切れて土が壮大に舞った。その拍子に日向も後ろへ体を倒しそうになる。
「っと。…………なにしてるんですか、日向さん」
 冷めているが怒った色が混じっている声音にびくりと日向は肩を揺らす。背後には倒れそうになった日向を抱きかかえる凪の姿があった。
「えっと……雑草抜き? いや、でもね、この雑草がどうにも抜けなくて、ね」
 しどろもどろで手を動かしながら説明する日向を凪は凍りついた笑顔で眺める。
「なぜ日向さんが雑草抜きを? もし、怪我でもしたらどうするんですか? 現に今も危なかったですよね」
「いや、その……、あのね」
 質問攻めにあい、うっと日向は声を詰まらせた。
 凪はどうにも日向に過保護なのだ。
 弁解(べんかい)の声を発しようとしたとき、わっと驚いた声が響いた。
「……お前らって、まさかそういう関係だったの? いや、うん。別に誰にも言わないから。邪魔したな」
 よそよそしくその場を後にしようとする正宗の行動に、日向は置かれている状況を把握する。
(えっと、今わたしは凪さんに助けてもらって、抱きしめられていて……!?)
 日向は飛び上がるように立ち上がった。少しだけ凪は名残惜しそうな顔をする。
「別にもう少し寄りかかってくださっててもよかったんですよ?」
「なに言ってるんですか! 正宗さん、これは断じて違います、誤解です! 私はただ凪さんに倒れそうになったところを助けてもらっただけです」
 徹底的に誤解を正すために必死で言うと、横からポツリと「別に誤解されてもよかったんですが……」と言葉が聞こえる。
「じょ、冗談はよしてください!」
 日向はあくまで冷静を装うと雑草取りを再開した。しかし内心、心臓が激しく高鳴っているのがわかる。
(そりゃあ、性格はともかくこんな整った顔でそんなこと言われたら、誰だってドキドキしちゃうでしょ!?)
 自分で自分に言い訳する。
 それに一切気づかない凪は気を取り直して、日向の雑草取りを手伝い始めた。



 この家には梓馬以外、ロリコンの変態と露出狂(ろしゅつきょう)と誘惑魔という問題児がいると確信してから一週間が経った。
 あれから幾度となく問題児の行動や発言に散々振り回されてきた日向は、そりゃあもう誰にも乱されない鉄壁の心を鍛えあげられた気がした。
 たとえば夜寝るとき、「もし一人で寝るのが怖かったいつでも言ってくださいね。僕が添い寝して差しあげますから」と言って部屋へいきなりやってくる凪。 時間を問わずお風呂に入っては人に指摘されるまで上着を着ない正宗。いきなり飛びついて体を締め上げる蓮華。
 唯一梓馬だけは無害で、口数は少ないが日向にとって気の休まる相手となっていた。心なしか最近じゃ少し仲良くなれた気もする。
(梓馬さんと今日だってお菓子一緒に食べたし、昼寝したし……)
 なんだかもう小動物のような感覚だった。

「梓馬さん、わたし先に寝ますね。おやすみなさい」
 丁度見ていたテレビのドラマが終了したので、日向はあくびを噛みしめながら立ち上がる。
 日向の隣で体を丸めながらホットミルクを飲んでいた梓馬はこくりとうなづいた。
「おやすみ……」
 聞き取れないような小さい声だが日向にはしっかり分かる。
 リビングを出て自室へ向かおうとしたとき、廊下でこちらへ向かってくる凪の姿があった。向こう側は暗くてよく見えないが歩く姿から凪だと分かるのだ。
(まだ少ししか暮らしてないのに、なんとなくわかるもんなんだな……)
 感覚だけで見当がつくようになった自分に少し感心した。
 凪は横を通るときに日向の頭を優しくなでていく。
「おやすみ」
 低く落ち着いた声に一瞬、日向はどくんっと胸が高鳴るのを感じた。
 なぜか今だに凪だけはスキンシップに慣れない。
 時には誘惑魔で、時には大人びていて、ふわふわして掴みにくい性格だ。
(あ……返事返すの忘れちゃったな)
 少しだけ悔いるような気持ちになりながらも、自室へ足を進めた。

 

日向が巨大ケーキに追われている夢を見ているころ、真夜中のリビングではマフィアたちだけの晩餐会(ばんさんかい)が開かれていた。
 日向が家に来たころから、昼間は飲酒やたばこを吸わずに、日向が寝付いてから行うようにしているのだ。
「なあ、凪。本当の事、日向に話さねえのかよ。このままだと、そのうちばれて日向に嫌われっぞ」
 グラスに入ったビールを一気に飲み干しながら、酔い口調で正宗は訪ねた。
 隣でワインを堪能していた蓮華も少しだけ考えるように肘をつく。
「確かにねえ。日向ちゃん、自分が騙されてるって知ればかなり傷つくんじゃないかしら」
「別にいいさ。仲間のためなら、たとえ彼女を傷つけることになったって。蒼梧さんが亡くなった今、僕らがかなり危険な位置にいるのを知ってるだろう?」
 二人の言葉にうつむきながら、凪は雑念を振り払うように言い切った。
 決意した表情に正宗と蓮華もうなづくしかないのだった。
 

 

 今日は手作り菓子でも作って綺麗になった庭でティータイムでもしようかと日向が考え込んでいると、見覚えのある顔がつけっぱなしのテレビに写っていた。
「……って、これ、わたしじゃない!?」
 日向の声に、朝食のためにリビングに集まっていた他の四人もテレビを見た。そして眼を見開いてテレビを食い入るように見る。
「『厳重指名手配犯、本郷日向』ってなんだよ……思いっきり顔写真載ってんじゃねえか」
 正宗が渋い顔つきでつぶやく。凪も苦虫を噛み潰したような顔で飲みかけの紅茶を置いた。
「とうとう警察も足どりが一切つかめなくて市民の協力を得るために公開したか……。夕刊の新聞の見出しはざっと『衝撃! 女子高生が厳重指名手配犯に!?』みたいなところかな」
「そんな冗談言ってる場合じゃないでしょ!」
 凪の頭を蓮華は手に持っていた雑誌で一発叩くと「梓馬っ」と呼ぶ。梓馬はもうできてるとばかりにパソコンをみんなに見えるように傾けた。
「もうネット上ではかなり話題になってる。警察は大手のテレビ会社や新聞・サイトへ情報を買わせたみたいだから、広がるのが早いんだ。多分関東一帯は歩けないと考えていい」
 静かな声で状況説明する梓馬に日向は絶望的な気持ちになった。
 もうこれで、本当に帰る場所はなくなってしまった。高校にも親戚の家にもアパートにも行けない。そしてなによりも外を出歩けないのだ。もう市民が日向の顔を知ってしまってるせいで、見られればすぐに通報されてしまうだろう。
「……これ以上ここにいるのも危なくなってきたな」
「そんな……っ」
 凪の言葉に雷に撃たれたようなショックを受けた。今まで騒がしいなりとも愛おしく感じてきた日常がこんなにもあっさりと崩れてしまうのだろうか。
(ううん、必ずやってくる平和な日常なんてないって……知ってた。もう、知ってるじゃんか)
 日向はついこの前失った、たった一人の父親の事を思い出した。
 明日も明後日も会えるはずだと思って疑わなかった父親が次の日にはいなくなっていた。
 大切で大事なものほど、あっけなく終わりを迎えてしまうこともあるのだ。
 爪の跡が残るほど強く両手を握りしめたとき、その上に優しく覆いかぶさる掌があった。
「大丈夫ですよ、日向さん」
「変な心配すんな。お前は俺らに守られてればいい」
「大丈夫……」
「……っ‼」
 凪、正宗、梓馬が手を重ねる。その上に蓮華も手を重ねてぱちっとウィンクした。
「ねえ、じゃあ、お金持ちの避暑地とかだったら市民もいないんじゃない?」
 


 
 そこから四人の行動は素早かった。
 簡単に手荷物をまとめると家の隣に留めてある黒い車につぎこんでいく。
 元々日向は身一つだったので手荷物はなく、邪魔にならないように普段の2倍の速さで動く皆を見守っていた。
「よーし、しゅっぱーつ!」
 蓮華が腕を上げて合図する。その合図と一緒に凪がエンジンをかけて夜中のうちにアジトを抜け出した。
 向かう先はなんと蓮華の知り合いの避暑地だという。今までもマフィアの身であるため何度も隠れ家として使っていたらしい。
「蓮華さん、マフィアってどうやって人が集まるんですか? やっぱり家族の家系とかなんでしょうか」
 蓮華のお金持ちの知り合い、という部分に疑問を覚え、隣に座っている蓮華に聞く。蓮華は少し間を開けてから口を開いた。
「……そうね、家族でマフィアっていう人たちもいるけど、大体は帰る場所がない人や家を飛び出してきた人が集まるのよ。そして一つの大きな家族となる。マフィアのグループはファミリーとも呼ばれてるの」
 会った頃に凪が自分たちは十六ファミリーだと言っていたのを思い出す。
 じゃあ他にもたくさんのファミリーがいるのだろうか。
「蓮華さんはどうしてマフィアに……?」
 聞いてから日向は後悔した。
 人には知られたくない過去の一つや二つあるだろう。
 申し訳ない顔をする日向に蓮華は苦笑すると内緒話をするように日向の耳に手をあてた。
「あたし、元は名のある名家の令嬢だったの。でも厳しいしきたりとか決まった婚約者とかすごく嫌いでね、家から逃げてきちゃった。当然マフィアになって両親からは勘当されたけど、逆になんだかすっきりしたしたのよね。自由になったみたいで」
 蓮華は清々しい顔をしていた。
 同時に日向は自由に翼を広げて羽ばたく蓮華を少しだけ羨ましく思った。
(わたしにも、なにかしたいと思うことはできるのかな) 
 今は一人じゃ身動きもできないが、これからどうしたいのか考えることはできる。
「で、向かう知人の避暑地っていうのがあたしの叔母の避暑地でね。今は冬だからいないんだけど、すごくおおらかでマフィアになったあたしを認めてくれる人なんだ」
 嬉しそうな蓮華を見て自分の胸にも喜びが湧く。
(わたしも、したいこと考えよう。自分で考えて自分で動くんだ)
 未来へ続く道が少しだけ見えた気がして、胸の中が満たされていくような感覚に眼を薄く細めた。それは心地よく、少しだけくすぐったい。
(そのとき、みんなが周りにいたらいいのにな……)
 マフィアの四人はもう大切な人になっていた。
 普通に生活していたら決して出会わなかったであろう人たち。しかし今はそんな人たちが目の前にいて日向に笑顔をくれる。なんだかそのことが不思議に思えながらも漠然とした安心感をおぼえる。
 日向は穏やかにやってくる車の振動で、誘うような睡魔に身を預けた。
 なんだかいい夢が見られる気がする。
 


「で、でかい……そしてなんか変なのがあるっ!」
 日向は心の声だだ漏れで、大きな別荘の前に立ち尽くした。
 それはヨーロピアン風の屋敷だが、広い庭園には王子様の洋服を来たカエルや、足が生えた卵の大群、頭に耳がついている少女などの像があちらこちらに飾られている。
 少し不気味で、とてもメルヘンチックだった。
「叔母はすこし変わった趣味なのよ。可笑しい物が好きで……きっと日向ちゃんを見たら気に入ると思うわ」
「あの、それってわたしが可笑しいっていう意味ですか……?」
 微妙な言葉に喜ぶ気にもなれずカエルの王子様を見つめる。
 細かいところまで彫られていて実際にはかなりの額がある高級品なのだろうが、センスがセンスなだけにこちらも微妙だ。
 梓馬が念入りに監視カメラの位置を確認したり、自作のセンサーを草むらに取り付けると日向へ近づいてきた。
「追ってはいない。安心していい」
「ありがとう」
 前髪が長くて瞳を真っ直ぐに見つめることができないが、日向はできるだけ眼を見てお礼を言った。
 少しでも気が和らぐように、という梓馬の心遣いが嬉しいのだ。
(そういえば梓馬さんもかなりのイケメン様だった気が……。ちゃんと前髪上げればかっこいいのにな)
 なんだか自分の事じゃないのにもったいなく思えてきてしまう。勢いで、えいっと長身の梓馬の前髪を上げるために背伸びして、前髪をかきあげた。
 やはり梓馬の瞳は澄み切ったブルースカイ色で綺麗だ。肌も病気を(わずら)っていると思えてしまうほど白いが、それが逆に美しかった。
「……どうしたんだ」
 落ち着いた声なのに眼が困惑の色を映し出していて、つい日向は笑ってしまった。
「前髪、あげた方がかっこいいです」 
 そろそろつま先立ちもつらいので前髪から手を放して地面に足をつける。
 別荘の玄関口へ歩いていく日向は、梓馬の前髪に隠れた顔が淡く染まっているなんて気づきもしないことだった。


「日向ちゃん、日向ちゃん! 海に行かない!?」
 懐っこい犬のように尻尾を振りながらやってくる蓮華に日向も大きくうなづく。
 避暑地の別荘の後ろには海が広がっているとメイドに聞いたので、日向も気になっていたのだ。
「あ、でも正宗さんたちは誘っていかないんですか?」
 薄いコートを羽織りながら問いかけると、蓮華はあらかさまに嫌な顔をした。
「いやよ、むさ苦しい男たちなんて。今夜は二人っきりで海岸デートしましょう」
 るんるんと手を引かれて海へと続く屋敷の裏口へ向かうと、そこには見覚えのある人物たちがいた。

「凪さん、正宗さん、梓馬さん!」
「蓮華、独り占めはいけないよ」
 思いもよらない出会いに日向は三人のもとへ駆けつけた。
 凪が悔しげにしている蓮華に、してやったりというような笑みを浮かべる。
 正宗はあきれ顔で二人を見比べると、ぐいっと日向の腕を引っ張った。
「あいつらは置いといて、行こうぜ」
「え、ちょ……わっ」
 ほつれそうになる足をなんとか戻して、正宗についていく。
 後ろで「なっ、抜け駆けするな!」と叫ぶ二人の声が聞こえたが正宗はそのまま振り向かずに歩いた。
「わあ……! 夜なのに海がキラキラ光ってて、綺麗……」
 海岸へ出ると感嘆のため息をついた。
 月の明かりが反射して細かい光が左右に散らばっている。波の音が静寂を舞うようにメロディーとなって流れた。
「上もすごいぞ。まるで天の川みたいだ」
 言われて頭上を見上げた。そこには降ってくるのではないかというくらいの満天の星がある。一つ一つが独自の輝きを放っていて、眼が惹きつけられて離せなかった。
「あれがオリオン座であちらが北極星です。で、その隣にあるのが北斗七星」
 聞いたことのある有名な星々を隣へ来た凪が指さして教えてくれた。ほんの一握りの正座を知るだけで星空がなんだか特別なものになる。
「あっ、あれ知ってる。スバルだよね」
 はしゃぎながら指をさすと自分の敬語が抜けていることに気づいた。慌てて敬語を正そうとすると正宗がそれを止める。
「別に敬語じゃなくていいだろ。てか、敬語の方がかたっ苦しくて苦手」
 まずそうに舌を出して顔をしかめる正宗に日向は笑った。
 確かに正宗に敬語ほど似合わないものはないだろう。
「うん、じゃあこれからは敬語なしで行く。でも呼び名は凪さん、梓馬さん、蓮華さん、正宗で!」
「なんで俺だけ呼び捨てなんだよっ!」
「だってなんか正宗だけ同年代みたいな感覚なんだもん」
「確かに正宗は子供っぽいところあるよな」
 凪の一言に正宗以外の皆がうなづいた。
 正宗は不服そうな顔をしてるが反抗できないというところは思う部分があるんだろう。

 ふいに寒気が体を回って肩をすくめた。
「っくしょん」
 むずむずする鼻を押さえてコートを前へ手繰り寄せる。
 もっと分厚いコートを着てくれば良かったと後悔した時、夜風にあたって寒かった肌に温かさが訪れた。
 擦り合わせていた手には蓮華の手袋が装着され、首元には梓馬のマフラーが巻かれる。そして肩には凪のコートがかけられて、頭には乱暴に正宗の帽子がかぶせられた。
 四人を見渡すが全員、無言で夜空を見上げている。
 それでも日向の小さなくしゃみに気づき、自分の事よりも優先してくれたのだ。
「っ! …………ありがとう。ぬくぬくしててすごくあったかい」
 四人に出会った日から何度も体験しているぬくもりが身を包んで、日向はへへっと微笑んだ。



 父親がいなくなってからやっと自分にも居場所ができたような気がしていた頃、突然それを壊す大きな台風はやってきた。

「日向ちゃん、日向ちゃん!」
 頭の隅で蓮華のあせるような声が聞こえる。
 日向は無理やり眼を見開くと寝具から出た。蓮華は何が起こっているのか分からない日向に何も言わず、痛いほど手首をつかんで部屋から飛び出た。
「れ、蓮華さん。一体どうしたんですか」
 あまりにも深刻そうな顔に日向も体が強張る。脳裏に最悪の状態が浮かんだ。
「まさか、警察に見つかって捕まりそうに……」
 小刻みに震えた日なたの手を蓮華は安心させるように握りなおすと、首を振って小さく答えた。
「まだそこまで悪い状況じゃないわ。でも警察がこっちへ向かってるっていうのは本当。梓馬の仕掛けたセンサーが反応していて、早く逃げないと時期につかまる可能性だってあるわ」
 警察は自分たちがここにいるのに気付いたのかもしれない。だが今、逃げればまだ間に合う。
 希望だけを頭に入れ、日向も気合を自分に入れた。
 いつでも逃げられるようにとセーラー服のまま睡眠をとっていたので、このまま外へだって逃亡できる。
(それに凪さんたちがいるなら、きっと平気だ)
 彼らはマフィアだ。きっこんな展開にも慣れっこだろう。
 蓮華の誘導と屋敷の人たちの助けを借りて、警察がくる逆方向へ車を走らせる。
 とりあえず警察が追ってこれなくなるところまで逃亡する予定だ。
「みんな、まだ逃げ切れる可能性は十分ある。痕跡は残さず、気を引き締めていくぞ」
 心強くなるようなしっかりた凪の声に日向もうなづいた。
 車のハンドルは凪が握り、梓馬は助手席にナビゲーター及び、警察の情報を探るべくノートパソコンを二台も開きながらヘッドホンをかけて操作している。
 隣には掌をしっかりと握ってくれている蓮華とリボルバーの小型銃を構えた正宗が日向をはさむように座っている。
「……どうして、警察に見つかったんだ……?」
 前方でノートパソコンを見つめながら梓馬はつぶやいた。
 その言葉に日向も、確かに、と首をかしげる。
(アジトから避暑地に来るときは追っ手がいないって梓馬さんは言っていたし……じゃあもう私たちがここに来ることが知られていたってこと? いやでもここは蓮華さんの叔母さんの別荘……まさか情報を漏らす人がいるなんて思えないし。そもそもそれなら先回りして待ち伏せだってできたわけで……)
 あまり考える事には向かない脳をフル回転させたが結局理由は、はっきりしなかった。
 気づくと梓馬はもう悩むことを止めたようにひたすらノートパソコンのキーを撃っていた。

(なにか、見落としている気がする……――)
 思いかけたとき、突然けたたましいサイレン音が耳を貫いた。これは間違えようない警察のパトカーから発せられる音だ。
「どういうことなんだよ、梓馬っ。警察は離れた距離にいるんじゃなかったのかよ!」
 怒ったように正宗が怒鳴った。
 梓馬も耳にしたサイレン音が信じられないという風に顔をゆがめてノートパソコンを素早く操作する。
「高機能の感知センサーじゃ、警察はここから二十キロは離れた地点に存在を確認している。現に今だってそうだ」
 ノートパソコンには地図が広がっていて、警察を現す赤い点と、自分たちの乗る車の黒い点が打たれていた。けれどもその点は背後にいる警察を確認できるほど近くなく、かなりの距離を取って打たれている」
「多分……その赤い点が示す警察の居場所はダミーだ。僕らは罠にかかったんだ」
 悔しげに凪が言うと、乱暴な手つきでスピードを上げて車を飛ばす。道を外れてガードレールへつっこむと違う道路へ飛び移った。
「ごめん、かなり暴走する」
 警察のパトカーから逃げるためだと分かっていたので、日向たちも無言で了承した。
 しかし警察の方も一筋縄ではいかず、どこまで執拗についてくる。
「俺が後ろの車両二体、潰す」
 らちが明かないので正宗は窓から乗り出すと、拳銃を構えて後ろの車両二体のタイヤを狙い撃った。見事に弾が命中すると、タイヤはスピンしながら急速に勢いをなくす。
「おっし。多分しばらくはだいじょう……っ!」
 喜ぶのもつかの間、目の前から警察のパトカーが何台も突っ込んできた。後ろからもタイヤが壊れたパトカーの間をすり抜けてやってくる。
 あっという間に辺りを囲まれて逃げ場はどこにもなくなってしまった。
「こんな数のパトカーを出動させるなんて……相手も本気ね」
 衝撃を受けたように蓮華は眼をみはった。
 ここがお金持ちの避暑地が多いため市民が少ないのを逆手に、警察が大規模で日向確保を狙っているのが分かった。大きく暴れたとしても市民を巻き込むことはならずに、加えて世間にも過激な行為がばれないのだ。
「ちっくしょー……どうしたらいいんだよっ」
 肩すかしくらわされたような忌ま忌ましい顔で正宗は言葉を吐き捨てた。
 日向も熱いほど明かりを照らすパトカーの明かりに眼を細めながらも、内部からつきあげられるような恐怖を感じる。

「大丈夫。絶対日向さんは守るから」
 凪が肩を押さえて微笑んだ。
 片耳だけついているピアスが揺れて、壊れ物を扱うように優しく日向を抱きしめる。
「今から僕らが囮になるから逃げて」
 耳元で小さく日向に告げると、相手には分からないようにナイフを手に握らせる。小柄なナイフだが切れ味はとても良さそうだった。
「いちよ護身用に。きっとこれが君を守ってくれるから」
 名残惜しげに日向を腕から解放すると凪は正宗に目配せをした。
「頼んだよ、正宗」
「おう、まかせろ」
 正宗も力強くうなづく。
 凪は両手に銃を抱えると、梓馬と蓮華に合図する。二人も拳銃やライフルガンをどこからか取り出すとうなづいた。そして一斉にパトカー方面に向かって車を飛び出していく。
 外の注目を一点に集めると、日向たちも逆方向の森林へ向かって見つからないように車を抜け出した。

「こっからかなり走るが、大丈夫か」
 ただでさえ整理されていない山道で、上り坂や下り坂がいくつもある道を走りながら正宗が訪ねた。
 日向は親指を立てて前に突き出す。
「わたし足には結構自信あるの。なんたって警察を撒いたこともあるしね! だから気にしないでじゃんじゃんスピードあげちゃって」
 強気な声に正宗はふっと噴出しながら、夜のせいで見えにくい山道を駆ける。
「そんなに元気なら、心配ねえな」
 そういうなり二倍にスピードを上げるので日向は少しだけ自分が言ったことに後悔した。しかし、いつ警察が日向たちの不在に気づいて追ってくるか分かったものじゃない。今はできるだけ距離を置くために速く遠くへ走るのが最善策だ。
 後ろで鳴りやまない銃声の雨に、残してきた凪たちの身をおしつぶされそうになる不安の中で案じながらも、ひたすら日向は足を動かし続けた。
 


 山へ入ってきてから何時間経って、どこまで来たのか一切分からない。警察もきっと後から追ってきたのだろうが、良くも悪くも日向たちには存在が確認できなかった。
 走ってきた距離を感覚だけで考えると、相当車と距離を置いただろうということが漠然と分かった。
 日向の体力も限界に達してきたころ、身を隠すにはちょうどいい小屋を山の中で見つけて正宗はそこを一度休憩場として選んだ。
 さすがマフィアというべきか、緊急時に必要なものはいくつか持ち歩いているらしい。
「ほら、これ。さみいだろ」
 正宗もつかれているのか短く言葉をきって、日向へ上着を差し出した。しかしどうにも受け取れず首を振る。
「いや、でも……正宗さんも寒いんじゃ」
「いいから黙って着とけ。風邪でも引かれたらこっちが困る」
 頭にぼふっと上着が投げられた。セーラー服という薄地の寒さに負けて日向も上着に腕を通す。
「今から薪を小屋の中で起こすから、これを窓に張ってこい」
 黒くてすべすべした暗幕のようなものを渡される。それを日向は隙間なく窓に張り付ける。
 きっと時刻が夜であるため、火を使うと明かりが外に漏れてしまい発見されやすくなるのを防ぐためだろう。
 手際よくいくつか運んできた木の枝を並べるとライターで火をつけた。じりじりという音と共に火が少しずつ大きくなっていく。
 その火の明かりで正宗の頬が切れているのが分かった。それ以外にも複数、怪我を負っている。
(そういえば山道を正宗さんは先頭してくれたんだ。でも安全な道ばかりじゃないから自ら盾になって道を開いてくれた……)
 知らぬ間に守られていたことを実感する。なにもわからない暗闇の中に突っ走っていくのだから怪我の一つや二つだってするだろに、その危険もかえりみず安全な道かどうか確かめてくれたのだ。
「正宗さん、怪我を治せる道具とかありますか」
「あ? まあ、小さい救急セットぐらいならあるけど……お前、怪我したのか!?」
 正宗はつい腰を浮かせる。人の心配してる場合じゃないだろうに、と日向は思いつつも救急セットを受け取ると、鋭い目つきはどこへ行ったのやら、日向が怪我をしていると勘違いしておろおろしている正宗を無理やり座らせた。
「わたしはどこも怪我はしてません。それよりも正宗さんの方が一杯怪我してるじゃないですか。今から手当てするんで大人しくしててください」
 まず消毒液を取り出すと木綿に染み出せて切れた頬にあてた。痛いのか正宗は顔をしかめるが、日向は容赦なく腕や足の傷口にも当てていく。
「お前、容赦ねえな……」
「だってばい菌が入ったほうが大変ですもん。ここは痛くてもしっかりとやっておいた方がいいんです」
 子供のころ、母に言われたことを思い出して言うと、正宗も諦めたようにされるがままになった。
 次に薄いガーゼを当てると腕や足には包帯で巻きつけて、頬はばんそうこで足りたので、ぺたりと貼り付ける。
「そういえばさっき凪たちから連絡が入っててな、全員無事に警察との戦闘の末、逃げだしたってよ」
「本当ですかっ!?」
「いてっ! お前なあ、怪我の所を思いっきり握るとかやめろよ。サドなのか」
 嬉しさで思わず包帯を巻いたばかりの腕を握りしめてしまった。慌てて話すが、身体中がほぐれるような安堵感が広がった。
(良かった……。みんな無事で良かった)

「……なあ、そういえばお前、敬語やめるんじゃなかったのかよ」
 ほっと息をつく日向にポツリと正宗は愚痴を言うようにこぼした。日向も言われて初めてというように思い出した。
「そういえばそうでしたね。でも敬語をやめようと思ったところで、そんなことを意識する間もなく警察がやってきたので……。それからはつい反射的でして」
「じゃあ……――正宗って、呼び捨てにしないのか」
 仏頂面ながら、どうにか拾える小さな声でつぶやいた正宗に日向は唖然とした。動きを止めた日向に気づいて、正宗は覆いかぶさるように座っている日向の両側に腕をつく。
「俺は、正宗って呼んでほしい」
 いつもイライラしてるいるようないかつい口調なのに、今だけは低く色っぽい声に日向は体が火照るのを感じた。
 至近距離で見ると意外に正宗のまつ毛が長いことに気づく。
「呼べ」
 命令口調でさえ今は逆らえない甘い音に聞こえて、息づまるような熱さを感じながら口を開いた。
「ま、まさむね……」
 名前を読んだ後に言葉にならないほどの羞恥心に襲われて、とっさに顔を隠したくなる。しかし身動きがとれないように正宗の腕で囲まれているため叶わなかった。
 密室と呼べる狭い小屋の中で二人っきり。互いの呼吸さえもが静寂の中で聞こえて混じり合うように響く。
 指の先は冷たいのに、正宗の触れている場所や吐息がかかる部分が焼けるように熱い。

「…………っ、もうだめだー!」

 激しく鳴り響く胸に耐えられなくなり、日向は力強く正宗の肩を押すと逃げるように部屋の隅へ寄った。
 正宗も押された衝撃で我に返ったように息をのむと、たちまち自分がしたことに顔が赤くなる。
「わ、わりい! いや、疲れでちょっと頭がおかしくなってた」
「どういう頭のおかしくなりかたよっ」
 言い返しつつ顔を見たこともないくらい真っ赤に染めている正宗に、こちらがなにか悪さをしたような気分になる。
「ま、正宗って、そう呼んだ方がいいのね!? それと敬語はなしで!」
 なぜか罪滅ぼしのように了承の意を表した。甘い空気はとにかく、簡単にまとめると呼び捨てで敬語なしにしろ、ということなのだ。
「あ、ああ。まあ、そうっだな」
 はっきりしない答えなのは今さら照れているからだった。
 強面マフィアの姿はどこへやら、あまりにも純白の乙女のような恥じらい方に、日向も伝染したかのように再び頬が赤くなった。
 二人してまごまごと騒ぐだけ騒ぐと自分を落ち着かせようと深呼吸する。

 空気を換えるように日向はずっとポケットに入っていた手紙を取り出した。
「そういえば、あのね。お父さんからもらった手紙、また再会できた時に暗号の意味を話そうと思うの。きっとわたし一人がこんな危なっかしい警察の不祥事を知ってるよりも、凪さんとかと一緒にこれからについて考えた方がいいと思って」
 会った当時は信用できずに手紙の内容を一切明かさなかったが、今は明かして話し合いたいとも思う。
 会ったばかりのころに、秘密は隠すと約束してくれたし、その上で内密にするべく最善の方法を凪たちとで考えたいのだ。
 それに「またみんなで会う」という意味を込めた未来への言葉のつもりで日向は告げた。
 しかし正宗は予想していた反応とはまったく別の言葉を発した。

「……手紙、見せないほうがいい」
 恥じらいが一瞬にして消え、思いつめたような暗い表情をする。
「え……、なんで?」
 おもいがけない言葉に日向は首をかしげた。なにか理由があるのだろうか。
 長い沈黙のあと、正宗は下唇を切れるぐらい強く噛みしめると、振り切るようにまっすぐ日向をみた。
「俺達の本当の目的は、お前の持ってる手紙に書かれた内容を見て、それを盾に警察を脅しながら勢力拡大をすることだ。でも暗号は読めないから、日向自ら話すのを待つって……。最初っから約束事なんて破ってんだ」
 時間が止まったような感覚におちいった。音が遠くに聞こえて、だんだん呼吸がしづらくなってくる。
 正宗の言葉が一つもこぼれず、何度も何度も脳の中でリピートした。
「でも、やっぱり俺はそんなことしたくない。不祥事を盾に勢力拡大なんて卑怯な奴がやることだし、第一にお前をもう騙すようなことはしたくねえんだ」
 騙す、の一言がやけに大きく聞こえた。そういえば最初から見知らぬ他人だというのに、どの人も優しかった。
(そっか、わたし騙されてたんだ)
 優しくして信用させて手紙を見るつもりだったんだ。あの笑顔も優しい温もりも、全部『嘘』だったんだ。すべては手紙の中を見るために――。
 心に穴がぽっかりと開いて、そこから水が漏れだすように、瞳から涙がこぼれた。渦を巻いて抑えきれない激しい悲しみがふつふつと湧いてくる。
 涙を流す日向に慌てて正宗は何かを言っているようだったが、もう日向の耳にはなんの声も届かない。
「じゃあ、ずっと助けるふりして、わたしから暗号の意味を聞き出そうとしてたんだね」
「な、それは、違っ――」
「もういいよっ‼」
 立ち上がると日向は小屋を飛び出した。行く末も来た道も見えない暗闇の中で無茶苦茶に走る。
 後ろから正宗の呼ぶ声がしたが振り返らずに全力で駆けた。胸の悲しさを全て消し去るように。


 気づけば正宗の声はもうなく、一人っきりで山の中をさまよっていた。荒く鳴った息に耐えかねて倒れるようにその場に座り込むと、胸が締め付けられるような感覚にかられる。
「っ…………、信じてたのに……大好きだったのに、やっとお父さんの他に〝家族〟ができたと思ったのに‼」
 悲痛な叫び声が森に響いた。
 もう上手く呼吸が出来なくて、(あえ)ぎ声と絶望的な孤独感が溢れる。
 凪の心が安らぐような微笑みが、正宗の時々みせるぶっきらぼうな優しさが、蓮華の抱き着くときに感じる温かさが、梓馬の無口だけどいつも隣にいてくれる居心地の良さが、愛おしかった。
 父親がいきなり亡くなったことから、どこにでもある幸せはいつでも崩れ去ってしまうと知っていた。だからこそわずかなことでさえも愛おしくて大切で堪らなかったのだ。
「だけど、それが全部嘘だったなんて……思いたくないよっ」
 嫌だ嫌だ、と子供のように否定するが現実はそれを許してくれない。
 凪たちが暗号の意味を教えてもらうため日向に接して、全ての優しさが偽りだった。
(…………また、一人ぼっち、だ)
 いつの間にか雨が木々の間から滴るように降っていて、頬をつたう水滴が涙なのか分からなくなっていた。
 しかし胸に隙間風のようなものがひんやり吹き込むのだけは感じた。きっと溶けることはないだろうというほどに心は冷たく凍っている
 日向はもう動く気力もなくなり、まぶたを上げ続けることさえめんどくさくなって、その場にうずくまるよう寝転がると眼を閉じた。


「みーつっけた」
 雨上がりでしめった土の上に倒れこんでいる日向を見下ろして、志乃(しの)はにたりと微笑む。
 しゃがみ込むと、冷たくなった日向の頬を愛おしそうに手袋をつけた手で()でた。そして額に唇をそっと落とす。
「もう、大丈夫だよ……」
 お姫様抱っこをするように日向を抱き上げると、夜明けとともに志乃は森を去って行く。
 それはとても静かな一時だったのに、森の木々たちはざわめくように身体を揺らした。



「――んん」
 頭が重い。徹夜をしたときのように目眩(めまい)と耳鳴りがひどかった。
 まだ寝ていたかったが、誰かが近くで動く気配がして日向は渋々と(まぶた)をこじ開けた。
 視界を占めるのは清潔感溢れるまっ白な天井だった。ゆっくりと視線を(めぐ)らす。
 窓や置物もない、見知らぬ狭い部屋。中央に日向が寝ているベットだけが置いてある。
「ああ、起きたんだね」
 ひどく優しげな声に吸い寄せられるように日向は顔だけ声のする方へ向けた。
 二十代前半くらいの、和風の王子様のように顔が整った男性だった。肩で切りそろえられた髪がさらさらと揺れ、眼の下にある涙ボクロが微かに色気を漂わせている。
「あなたは……」
 恐る恐る上半身を起こす。男性は読み途中らしい本にしおりを挟むと、立ち上がって胸に手を当てた。金色のバッチが存在を示すように光る。
「ぼくは志乃。公安警察(こうあんけいさつ)警視正(けいしせい)だよ」
「公安警察……?」
 聞きなれない言葉に繰り返しつぶやく。
 警視正というのは、昔見た警察ドラマでかなりすごい階級の人だと知っている。何度も国家試験を繰り返し、その中で優れた人物だけが選ばれる部署の課長のような人物だ。しかし公安警察というのは聞いたことがなかった。
 志乃もよく一般人にはそういう反応をされるのか慣れた風に説明する。
「公安警察っていうのは、他の警察が事件があってから動くのに対し、公安は組織犯罪とかその組織を監視して違法性があれば検挙する部署なんだ」
 へえ、と日向はうなづいたとき、はっとあることに気づいた。
(んん? えっと、志乃さんは……警察――?)
 蒼ざめて、ばっとかけていた布団を払うと後ろへ後退する。密かにポケットに入っている手紙の存在を確認して安堵の息をついた。
「わあ、すごい早業だ。でも寝起きだからって頭の回転が遅くなるのは残念かな。敵地にいるんだから、ね?」
 パチパチ手を叩きながらさりげなく失礼なことをいう。その姿に敵意はなく無邪気そのものだった。
 しかし日向は内心、早鐘のように鼓動を鳴らしていた。体が強張り緊張を腹の底に感じる。
(わたしが不用心に小屋から出て森なんかで倒れるから捕まったんだ。警察が近くで捜索してるって知ってたのに……)
 後悔が心を塗りつぶした。

「わたし、家に帰りたいです」
 無理だと思いながらダメもとで言ってみた。
 もしかしたら万が一の可能性で家へ帰れるかもしれない。そしたらなんと志乃はうなづいてくれる。
「いいよ、そのポケットに入ってる手紙の暗号の意味を教えてくれたらね」
 条件付きで。ポケットに手紙は入っているのに中身はもう見られていたのだ。
「僕さ、抵抗できない、いたいけな少女を(おど)して読解させるとか趣味じゃないからさ、君の意思で教えてほしいんだ」
 にっこりと志乃は笑った。始めは良い人そうに見えた笑みが今はなんだか怖い。
「いや、絶対教えない」
 正体不明の恐怖に震えそうになる声を押し殺して、きっぱりと断る。すると志乃は少しさびしげな顔をした。
「でも、教えてくれないと君を家に返せないよ? じゃあさ、報酬(ほうしゅう)を出すよ。君の生活、大変みたいだからこれからの生活費とか学校費に必要だろう」
「いいえ、結構よ。お金なんていらない」
 断った次の瞬間、正面から前髪を鷲掴(わしづか)みにされ、顔を引き寄せられる。髪が何本かぶつっと頭皮から引きちぎられたのがわかった。
「やめ……、て。はな、せ……!」
 痛さで歯を噛みしめながら、手で志乃を叩く。しかし今までとは別人のように冷めきった志乃の顔に息をのんだ。
「調子にのってるんじゃないよ。こっちが譲歩してあげてるんだから君も大人しく従うべきだろう?」
 激しい痛みに涙がうっすらと浮かんでくる。
 志乃はおもちゃをいたぶるように口元を上げながら、近くにあったペーパーナイフを手に取った。
「これね、ペーパーナイフだから手首を切り落とすとか、そんな大技出来ないんだけど、君の耳ぐらいは切れるんだよね」
 手で遊びながらペーパーナイフを耳にあてる。ひんやりした感触がやわらかい耳から感じた。
「耳を切ったぐらいじゃ人間は死なないけど、痛いよ。すっごく痛い」
 くつくつと口の中で笑う志乃はもう人間味を残していなかった。人を切ることも躊躇(ちゅうちょ)しない悪魔のようだ。
 生温く血まみれなぐにゃりとした恐怖が日向を襲う。しかし日向は爪の跡が残るほど強く拳を握りしめると、志乃の瞳を一直線に強く睨みつけた。

「やりたいならやればいい。殺したいなら殺せばいい‼ もしわたしを殺したら秘密を、暗号の意味を知ってる他の人が世間に警察の不祥事をばらまくから!」

 もちろん他に知っている人などいなかったが日向は堂々と言い放った。
 はったりかどうかなんて相手には分からないのだから。
 志乃は少し考えるように黙り込み、ふっと日向から離れた。先ほどまで引きちぎるように掴んでいた前髪を撫でる。
「賢い子は好きだよ。だから僕も君に敬意をはらおう。日向さんはまだご飯を食べていないだろう? それに体だってあっちこち泥だらけだ。とりあえずお風呂に入って少し遅い昼食でも召し上がってきなよ」
 また別人のように優しくなった志乃は呆然とする日向をよそに、わくわくするように部屋を出て行く。

 しばらく硬直状態で明後日の方向を向いていると、婦人警官のような女性が二人入ってきて無言で日向を風呂場へ連行した。
 口をはさむ間もなく制服だけはぎとって広い風呂場に突っ込むと、そのまま言ってしまう。
「……一体、なにがどーなったって言うのよ」
 困惑に立ち尽くすが、確かに昨日からお風呂に入っていなかったので使わせてもらうことにした。
 大浴場のような風呂場は一人で使うにはもったいないほど豪華だった。
 ゆっくり筋肉痛やらぎしぎし(きし)む体のいたるところをお風呂に浸りながら治していく。
 さっぱりしてお風呂から上がると、脱衣所には先ほど持って行かれた制服が新品じゃないかってくらい綺麗にされて置かれたいた。
(こんな短時間に洗濯を……恐るべし、婦人警官)
 ごくりと(つば)つばを飲み込み感心する。
 また婦人警官に連れられて元の部屋に戻った時にはホテルのランチみたいなフルコースが、部屋の中に広がっていた。
「ここって、どこですか……」
 最初は警察署のどこかだと思っていたが、なんだかあきらかに雰囲気が違う。しかし婦人警官は一言もしゃべらず日向に食事を勧め、日向がぺろりとたいあげるとまた違う部屋へ向かった。
(なんか、すごく変な気分……。それにいつでも逃げられるようにって通路覚えようとてるけど、ここ、どこも同じような造りだしっ)
 廊下も部屋の扉も白一色で覚えようと努力しても、結局分からずに終わる。
 だめだ、こんなところ、逃げ出しても迷子になって5分と経たずに捕まってしまう。
 今もまたどこを歩いているのか分からずに部屋へ着く。真っ白い扉を開けると、飛び込んできた風景に日向は息の根が止まるような心持(こころもち)になった。



 そこは三六〇度ガラス窓で覆われた広い空間だった。天井は高く、ガラス窓の向こう側はたくさんのビルが立ち並んでいる。どこか違う異空間みたいだ。
「どうだいビル五十階からの眺めは。僕はこの景色が好きでね。どうだい、東京が一望できて絶景だろう?」
「東京……しかもビル五十階って。ここはどこなんですか」
 先に来ていた志乃は日向をガラス窓付近に呼ぶと、自分の口に手をあてる。
「うーん、公安警察の警察署だよ、多分。でも三十階から上は僕専用のビルになってる。限られた人しか入れないから、安心して」
 なにに安心しろというのだろうか。これじゃあどうあがいても逃げれないじゃない。
「逃げようなんて思わないでね?」
 日向の心を読んだように言う志乃にぎくりと眼を泳がせると、空を見つめた。今日はどこまでも澄んでいて綺麗だ。
 ふいにずっと疑問に思っていたことを思い出し、日向は口を開いた。
「志乃、さん。どうして暗号の意味なんて知りたがるんですか? 警察は自分たちの不祥事を知ってるじゃないですか」
「ううん、どんな不祥事か分からないんだ。だから不祥事を知って、ばれた出所とそれに関わった人たちを抹消しよって上から。ほら、そうしたらもう不祥事がばれるんじゃないか、ってびくびくしないで済むでしょう?」
 さらりと志乃は答えをくれた。しかし日向はそれほどまでに警察が裏でやっていたことの多さと、傲慢さを知る。
「じゃあ少し落ち着いたし取引をしようか。先ほどの暗号の続きについて」
 空気を換えるように志乃は切り出した。
 取引、ということはこちらにも何かしらの利益はあるのだろうか。
 覚悟を決めて腰を据えると、日向は志乃の方を向き直った。相変わらず切れ長の目は美しいが、もうそれが怖いものだと知っている。
 だが、だからこそもう動じない心をお風呂場や食事中に作ってこれた。
 しかしそんな覚悟は一瞬にして砕かれた。

「僕ら公安警察は二千人の部下たちがいるんだけど、近々、目障りなマフィアたちを狩ろうと思うんだ。元々、僕らはそういう組織犯罪をとり締まるために動いてるしね」
 日向は鈍器で頭を思いっきり殴られたような衝撃を受けた。
 志乃はきっと凪たちのことを言っているのだ。
 警察二千人に対して凪たちのマフィア組織は四百人だ。どうやったって勝てっこない。
「でも君が暗号の意味を教えてくれるなら、マフィア狩りはやめようと思ってさ。僕ならそれができるからね」
 完全に日向がマフィアの一部と関わって特別な感情を抱いているのを知っていた。その上で取引と称して提案してくる。
(なにが取引よ。まるで……脅しじゃない)
「もう大切な人を失いたくないだろう?」
 その言葉に日向は瞳を揺らした。
 確かに凪たちはもう大切な人たちだった。いくら裏切られたとしてもその気持ちは変わらない。
 暴力で駄目なら脅し。卑怯な志乃に表しようのない怒りを覚える。しかし完全に話は志乃のいい方へリードさせてしまっていた。
 ぎゅっとそでをつかんだとき、その触感に違和感を覚えた。腕を見やると真っ黒なスーツが装着されている。
(そういえば正宗さんに借りたままだったんだっけ……。頭が一杯で着てることにも気づかなかった)
 漠然とスーツを見ていると安心できるような懐かしさが心の隙間にぽんっと生まれた。
 思い返してみると、いつも日向は凪たちに守られてきた。そして彼らが傍にいると、なぜか恐怖心が薄れて安堵が心にあふれていた。
(いつも……守っててくれたんだ)
 今更になって気づいた。どんな時も日向の安全を第一に考え、守ってくれた。
 たとえ優しさや温もり、笑顔が偽りだったとしても、体を張って守ってくれた事実は変わりようがない。

(次は……――わたしが守る)

「分かったわ。暗号の意味を教えるから、マフィアには手を出さないで」
「うん、やっぱり君は賢い」
 日向の答えに志乃は満足げにうなづいた。
 これが正しい選択なのか分からないが、ただ日向は凪たちを守りたかった。
 たとえ父親の願いを裏切ることになっても、罪悪感はあるが悔いはない。
(お父さん、ごめんね)
 静かに心の中で父親に謝ると、日向はポケットに入っている手紙を取り出して中身を開いた。そして誰にも読めないめちゃくちゃな文字に目を通す。
 読むためにすっと息を吸い込んで、音と共に吐き出そうとした。

 その瞬間、背後で大きな爆発音が響いた。爆風と埃が激しく体を襲う。
 とっさに腕で顔を押さえて衝撃が去るのを待つと、そっと眼を開けた。視野の先にいる人物を確認したとき、驚くより前に愛おしさが湧いた。

「ひなた――っ‼」

 正宗の叫び声が響く。一度その声を無視して逃げたのに、追いかけてきてくれたのだ。
(正宗、凪、蓮華、梓馬。みんないる!)
 いま一番会いたくて、一番愛する人たち。
 どうやらヘリコプターで突っ込んできたようで、ビルには破壊されたガラスの破片が散らばり、プロペラの止まったヘリコプターが乗り上げていた。
 日向はみんなの所へ駆け寄ろうとしたが、足が動かなかった。
 なぜか動かしたくても動かないのだ。それは心のどこかでまだ凪たちに嘘に傷つき、また偽りを重ねられることを恐れる自分がいるからだった。
「なんで……動いて!」
 思いとは矛盾する体に日向は困惑する。その時誰かがこちらへ近づいてきた。金髪をなびかせて、一直線に日向のもとへ歩いてくる。
(なぎ……!)
 その場で硬直状態に(おちい)っている日向へ近づくと、耐えられないように凪は日向を抱き寄せた。
 痛いほどに強く、もう離さない、ってくらい抱きしめる。
「っ……なぎ、わたし」
「――ごめん」
 耳元で苦しそうに(ささや)かれた言葉に胸を(えぐ)られるような痛みが走った。
 騙してごめん、と言いたいのだろうか。最初からずっと日向へ嘘をついていてごめん、と。
 いまさら遅い、そう言って突き放そうとしたのに、凪の口から続く言葉は日向の予想とは違っていた。
「守りきれなくて、ごめん」
 自分を悔いるような、切なくて弱り切った響き。一層強くぎゅっと抱きしめられて、本当に息が止まりそうになった。肩に埋まっている凪の金髪が頬をくすぐる。
「僕は最初、関東綜合組合マフィアの未来や利益ばかり考えて、君を利用しようって思ってた。信じてほしいって君にお願いしたのに、自分は嘘をついてばかりいたんだ。会った頃は大丈夫だって思ってたけど、でも、日が経つにつれて君を騙すのが辛くなって、自分が(みにく)くて……もうだめなんだ」

「――ひなたが、好きで好きで堪らない」

 日向の目から涙がこぼれた。
 ずっと聞きたくて、でも本当の言葉じゃないだろうからいらないって遠ざけていた願いごと。
 でもその言葉は嘘なんかじゃなかった。
「君が悲しむことはしたくない。だから遅いかもしれないけど約束は守るって誓うし、もう信じてくれなくったっていい。……でも、お願いだから帰ってきて」
 請うような苦しい吐息に日向はもう、疑いも憂いも悲しみも綺麗に溶けてなくなっていた。凪からいつも漂うジャスミンの香りが周りを包み込んでいる。
「うん、わたしも、帰りたい」
 背中に回された凪の手がかすかに震えていて、強く抱きしめ返す。
 しかしカチャッという音が後ろで鳴った。

「最後のお別れは済んだかな? そろそろ彼女を返してほしいんだけど」
 志乃が退屈したような声で持っていた銃を日向たちに向けている。凪は日向を背後へ隠すと自分の腰から銃を取り出す。
 一触即発の空気に日向は自分が置かれている状況に気づいた。頭上ではブザーがけたたましく響き、いつの間にか広間には五十人ほどの装備した警察が集まっていた。たった四人でこの数は相手にできない。
「彼女はたった今、僕と取引をしたばかりなんだ。だからもう、日向は僕のもの」
 虫唾(むしず)がはしるような甘ったるい声に、日向は再び恐怖を覚えた。
 志乃はまるで人格が二つあるかのように、やはりさっきとは別人だった。日向へ暴力をふるった時と同じ顔だ。
 銃が凪の頭を狙って構えられていて、指を引いたら今にも発砲しそうだった。
 志乃が日向だけを見つめて舌なめずりをした時、凪の付けている通信機から、ひどく凍りきった梓馬の声が聞こえた。
「きたない」
 声と同時に警察側に大きな爆発が起こる。続いて他の場所でも連続して爆発が起こった。
 警察はもう凪たちへの意識など、とうになくしどろもどろに逃げ回っている。
「何してるんだっ、位置につけ‼」
 余裕そうだった志乃の笑みも消えて罵詈騒音だけが警察の間に響いた。
「ナイス梓馬。いつの間に爆弾仕込んだの? どうしようかと思ってたけど助かったよ」
「蓮華が気づかれないようにやった。でも一部では正宗がかなりキレて暴れてたから、爆弾を仕掛けなくても大丈夫だったかも」
「ううん、ちょっと危なかったから良かった。それにしても蓮華はその手のプロだよね。さすが盗撮で磨かれた技だ」
 通信機で会話し合う二人におろおろと日向は眼を泳がせた。早くこの場から逃げなければ警察が落ち着きを取り戻してきてしまう。
「ああ、そうだ。逃げなきゃ」
 日向の共同不信さに気づき、凪はヘリコプターの方へ走る。
 もう、ヘリコプターは空中へ舞い上がっていて、飛び移るように凪が窓からジャンプする。正宗や蓮華、操縦席に梓馬もいたので日向も安心して飛び込もうとしたとき、髪が引っ張られた。
 バランスをくずして落下しそうになるのを凪が掴んで、助けてくれる。しかし、ビルの窓際すれすれで志乃が日向の長い髪を掴んでいた。
「逃がさない……」
 髪が乱れて口からはよだれが垂れ、眼は血走っている。
 日向は一瞬、悲しそうな目で志乃を見やると、凪に貰ってずっと正宗の上着に隠し入っていた腰ナイフを抜き取り、掴まれている自分の髪をばっさり切った。
 誰もが思いがけない行動に驚く。
 だが日向本人はすっきりした面持ちで短くなった髪を手ですいた。
「帰ろうか、みんな」
 ヘリコプターは高く踊るように空へと浮かんだ。



「おーい、日向ー。俺のチョコプリン知らねえ? 前に梓馬の野郎にプリン食べられちまったから隠しといたんだが、どこに隠したか忘れちまってよ」
「ああ、それなら……――わあっ‼ 何度言ったら分かるのよ、服を着て!」
(年頃の乙女だって、分かってほしいんだけど!?)
 注意しても直らない正宗の脱ぎ癖に日向は顔を覆った。やはり上半身裸だ。
「あ、梓馬さんがチョコプリンなら食べてた。なんか隠してあるんだから誰が食べても気づかないだろうって……」
「――またかよっ、あんの野郎‼」
 またもやプリンを取られて、正宗はキレ気味に梓馬を探しに行った。
 
(変わんないな……、昨日起きたことが夢だったみたい)
 いつもと何も変わらない、平凡な日常。
 笑って泣いて怒って喜んで、そんなことが周りで何度も繰り返される。
 微かに違うのは、敬語を止めたところだけだ。そうすることでさらに親しくなれた気がする。
 つい昨日、志乃に確保されたのが本当の事だったのかと疑うほど、アジトへ戻った次の日は穏やかだった。
 でも少しだけ変わったことがある。
 それは、凪たちと本当に信頼し合う事が出来るようになったことだ。どちらか一方じゃなく、両方、信頼し合える。
(なんか……それって、すごく幸せだな)
 つい頬がにやけたとき、梓馬がとんっと肩を叩いた。手にはいちごアイスが握られている。
「日向、これあげる」
「わあ、わたしいちご味好きなんだ! ありがとう、梓馬さん。……って、梓馬さん!?」
 つい再度名前を呼んで声を荒げてしまった。アイスを受け取りながら見上げた梓馬の顔はすっきりと前髪があげられていたのだ。
 長い前髪が後ろで縛られている。やっぱりはっきり顔が見えた方が、梓馬のイケメンぶりを余すことなく出していて爽やかだった。
(ああ、これが女性ならわたしも妬いちゃうくらいの美少女だ……)
 一瞬、蓮華のような変態めいた想像が湧いてしまう。それを手ではらってまじましと梓馬を見つめた。
「梓馬さん、やっぱり素敵だよ!」
「っ…………」
 梓馬は口に手を当てて、横を向く。
 梓馬が見てわかるほど顔を赤くさせて、実は日向にそういってほしくて前髪を上げたなど、日向は知りもしなかった。
「あいつ実は天然タラシなんじゃないか……? 梓馬がああも飼いならされてると、逆になんか怖え」
 ぽつりと正宗はつぶやく。
「そういうところも含めて可愛いんですよ、日向さんは」
「そうそう。あの自分では気づかない無人格さ加減が、こう、心をくすぐるっていうか」
 続いて凪や蓮華もうなづいた。日向はばっと振り向くと、どういう意味よっ、と叫ぶ。
 しかし三人はただ生ぬるい笑顔を作るだけだった。
 ()に落ちない想いを抱えながらも、そういえばと日向は昨日ヘリコプターで考えたことを思い出す。これから先の未来についてだ。
「凪さん、わたしが警察に捕まっていたとき、志乃っていう人がこれからマフィア狩りをするって聞いたの。きっとこのままじゃお父さんが守ってきた関東綜合組合マフィアが危ない」
 真面目な顔つきの日向に凪も眼を落とした。うん、とうなづく姿はそれをとうに知っているようだった。
「僕もいずれそうなると思ってたんだ。だから、君の手紙に書かれてる警察の不祥事を利用して、どうにかしようかと……」
 申し訳なさそうにする凪に、日向は一瞬きょとんとした。凪は自分の欲のために利用した訳じゃなく、仲間を守ろうとしていたのだ。
「……なんだ、そうだったの。だったらもう、お父さんからそうしろって言われてるわよ。『警察の抑え役になれ』って。ちょっと意味は違うかもだけど」
 切って短くなった髪が風に吹かれて揺れる。日向は胸を張って笑った。

「――わたし、ここのマフィアたちの総長になろうと思う‼」

 誰もが眼を見開いた。しかし同時に高揚と胸の高鳴りがする。
「そしたら、みんなをわたしも守れるでしょ? お父さんの代わりにっていうのもあるし。警察の不祥事を使ってガンガンに脅しちゃうよ、守るためなら」
 悪人面で日向は親指を立てて前に突き出した。
 そんなの無茶だ、と思うのに、凪はなぜか納得してしまった。
(さすが、蒼梧さんの娘……)
 日向と蒼梧の笑顔が重なって見える。凪は面白そうに首をかしげた。
「他にも、もっと怖そうな上層部のマフィアたちがいっぱいいるから、そう簡単にはいかないかもよ?」
「大丈夫。全て味方につけて必ず総長になるから!」
 どこから自信が湧いてくるのか、なにも恐れないその姿勢に、もう選択肢は一つしかなかった。日向が総長になるなど突拍子もない考えかもしれない。それでも……

『どこまでもお供するよ、日向』

 四人ははちゃめちゃな少女の手を取って笑った。
 
 これはまだ最初の一歩。
 けれどこれからは四人と一緒に並んで、歩いていける。
 走って転んで、起き上って、また走って、誰も想像しない未来を掴もうじゃないか。

【終わり。……いや、始まりかな】

救世主はマフィア様!?

救世主はマフィア様!?

知ってはいけないことを知ってしまった女子高生、日向は父の死をきっかけに警察から追われる身となってしまう。 しかし暴力組織であるマフィアが日向を助け、さらにマフィアたちと一緒に住むことになってしまって!? かっこいい誘惑魔にロリコン趣味の変態、加えて個性豊かなマフィアたちが大暴れする! 「……これは結構用心したほうがいいな」 はたして日向の警戒すべき相手は警察かマフィアか。そして逃走劇の行方は……!?

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-21

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