怪人イルミネーション
俺はここが嫌いだ。
八年ぶりにこの地を訪れたというのに、性懲りもなく、俺はそんな感想しか抱けないでいた。
時代の波に取り残されてしまった、絵に描いたような田舎。のどか、といえば聞こえはいいが、娯楽になるようなものは何一つない、くだらない場所。
目の前で、いつでも笑顔だった祖父が、やはり笑っていた。
どんな悪戯をしても、どんなに心ないことをいっても、いつでも笑っている人だった。どんなときでも、波立たず、穏やかに。
まるきり、この場所のような人だった。
幼かった俺は、それを、つまらないとしか感じなかった。
いまは違うのかと問われれば、正直なところ、どう答えればいいのかわからない。あれから八年、大学二年になった俺は、大人にはなったのだろうが、あのころをもう一度考え直すには、ときが経ちすぎてしまったような気がする。それとも、ひょっとすると、まだ足りないのだろうか。
ともかく、こうして、線香の匂いを嗅いでいても、何も感じないのだ。
バイトを理由に葬式にすら間に合わなかった、そのことでさえも、俺に罪悪感を与えない。
ただ、いつも出迎えてくれたあの笑顔が、今は、額縁の中にしかない。その事実が、ほんの少し──違和感、のような、何かひどくわかりづらいものとなって、俺の胸の中に侵入してきていた。
ふと視線を移すと、仏壇の横に、小さなツリーが置かれていた。
家主がいなくなったばかりだというのに、キリストの祭りでもやるというのだろうか──皮肉めいたことを思いかけて、そういえば、と苦笑する。純和風の木造家屋に住み、菓子といえば饅頭、食事もすべて和食でありながら、どういうわけか、クリスマスの大好きな人だった。
俺は瞳を閉じた。
遅れて、懐かしさが、去来した。
クリスマスの思い出をさかのぼっていくと、必ず、この田舎に行き当たる。
それこそ赤子のころから、クリスマス前から正月明けまでは、毎年この田舎で過ごしていた。小学校低学年のころまでは、それでも、楽しみにしていたような気がする。終業式が終わった次の日に、家族で車に乗って出発。この田舎で、優しい祖父母に迎えられ、掘りごたつに入って鍋をつついて──特別に何かがあるわけではなかったが、このあたたかい場所で過ごす日々は、自分にとって、大切なものだった。
しかし、四年生ぐらいからだっただろうか、年末年始という貴重なときを、ここで過ごすことが、苦痛になってきた。ゲーム機もなければ漫画もない。コンビニでさえ、車に乗って二十分。家を飛び出しても、山と田んぼがあるだけだ。
二学期も終わりになると、友人たちは、クリスマス会だの初詣だの、何か楽しい計画の相談を始めるのだ。それに参加できないことが、悔しくて、寂しかった。
あれは、六年生のときだ。抵抗もむなしくこの田舎に連行され、することもなく、毎日ぼんやりとビデオを見ていた。祖父が、何年も前に買ってくれたビデオだ。いまでも覚えている、ずいぶん流行った、『鳥獣戦隊ウィングレンジャー』のビデオ。もう台詞がいえるほどに見飽きていたが、田舎ではおもしろい番組も映らず、そればかり見ていた。
テレビの前から動かない俺に、祖父が、声をかけてきた。
「健はそのまんがが好きじゃのう」
俺は答えなかった。別にもう好きではなかったし、第一、これは特撮であって漫画じゃない。そういうことに変にこだわるあたり、すねていたのだと思う。
「健には、ここは、つまらんか」
変わらない声音で、祖父は続けた。俺はどきりとしたが、正直に答えた。
「つまらん。なんもないし」
「ほいじゃあ、なんだったらつまらんくないんかいの」
俺は、テレビに向かったまま、祖父の方を見なかった。さっきまで父が見ていたニュースに映っていた、都会の映像を思い出し、ぶっきらぼうにいった。
「街に行ったらさ、ぴかぴかのクリスマスツリーとかあるんだって。ふつう、俺らぐらいになると、そういうところに遊びに行くんだ。こんな山奥じゃ、なんもないから、つまらん」
祖父はなぜか俺の隣に来て、座ってテレビに向かった。
それでも俺は隣を見ない。
「ほうか。あれか、イルミネーションか。こっちでも電車乗って中央まで出んさったら、ちょっとはやっとるんじゃないか」
イルミネーション、という単語が祖父から出て来たのが驚きだった。少し悔しいような気もした。
「何時間かかるんだよ。いいよ。たかが知れてるし」
対抗するように、大人の言葉を使う。祖父はもう一度、ほうか、といった。
そのまま、二人で、テレビを見た。何十回も見ているとおり、怪人が出て来て、町の人が襲われて、ウィングレンジャーが怪人を倒して、終わった。
いつもは見ないエンディングも、なんとなく気まずくて、そのまま二人で見る。
次回予告まで終わったところで、不意に、祖父がいった。
「怪人イルミネーションじゃな」
「……は?」
これだからじいちゃんは、と思った。話題を合わせようとして、とんでもないことをいう。いま出て来たのはザリガニの怪人であって、そんな名前ではない。
「健、来年はおもしろいぞう。怪人イルミネーションが出よるけえ。健が変身して、やっつけんさいよ」
俺は思いきり嫌な顔をして、立ち上がった。
それでも、祖父は、いつものように笑っていた。
その冬を最後に、俺はこの地を訪れなくなったのだ。
「健ちゃん?」
祖母に呼ばれて、我に返った。
八年の間に、ずいぶん小さくなってしまった。子どものころは、怒ると怖い人だと思っていたが、いまではこのしわくちゃの小さな人から、怒っているところなど想像できない。
「寒いじゃろ。茶でも飲みんさい」
呼ばれるままに、居間に移動する。さすがにもう掘りごたつではなく、電気ごたつになっていた。それが望む姿であったはずなのに、勝手なもので、少し寂しいような気がした。
座ってみて、気づいた。ほつれた布団。新しいものではない。
「これね、じいさんが買うたんよ。都会じゃあ、掘りごたつはもうないいうて、だいぶ前に」
気づいたわけではないだろうが、目を細めて、懐かしそうに祖母がいう。俺は言葉を返せなかった。葬式に来れなくてごめん、八年間も、手紙一つよこさなくてごめん──いわなくてはならない言葉がつっかえて、得意なはずの世間話も出てこない。
「健ちゃん、大きくなって。クリスマスにこんな田舎に、ごめんねえ。じいちゃんも喜んでるじゃろうねえ。健ちゃんが来るの楽しみにしとったけえ、会えて良かったいうて」
俺は無言で、出された茶に手をつけた。そうでもしないと間が保たなかった。謝罪の一言が、なぜか出てこないのだ。
「──ああ、クリスマスに来てくれんさったのは、じいちゃんの想いが通じたんじゃろうか」
思い出したように、祖母が呟いた。
まだ身体は暖まっていなかったが、小さな祖母が立ち上がるので、後に続いた。
勝手口から外に出て、裏の庭へとまわる。着いたときには夕方だったが、もうすっかり日が暮れていて、街灯一つないこんな田舎では、家から漏れる灯りだけが頼りだ。
記憶にあるかぎりでは、小さな畑と、鯉が住む池があったはずだ。見渡す向こうは完全に暗闇で、何も見えない。
「健ちゃん、目つぶって」
閉じていなくても似たようなものだったが、いわれるままに、目を閉じた。
そのまま十数秒、静寂の中で時を待つ。祖母はどこかに行ってしまったのだろうか。暗闇の中に取り残されたような、心細い気持ちになる。
ああ、俺はこのまま、罰を受けるのかもしれない──ひどいののしりを受け、後悔のまま、ここで消えていくのかもしれない……
そんなとりとめのないことを考えた。こうしてじっとしていると、本当に消えてしまいそうだった。
突然、まぶたの向こう側が、輝いた。
俺は目を開けた。
まさか、と思った。
四方から俺を照らす、光、光、光。
「……これ……」
「綺麗じゃろう」
俺は、瞬くことも忘れ、見入った。
池の周りを、畑であった場所を、地面を、家の外壁を──庭から見渡すすべてを、電飾が飾り立てていた。
街で見るイルミネーションとはほど遠い、ただ電球をちりばめただけの光たち。よく見ると、遠い昔に遊んだ記憶のある、ウィングレンジャーやその他もろもろの人形たちが飾られている。置かれて何年も経っているのだろう、色あせ、壊れてしまっているものも少なくない。
「じいちゃんが、都会のクリスマスはこうするんじゃって。毎年、少しずつやってるうちには、家までぴかぴかにしてしまったんよ。困ったじいちゃんじゃねえ」
台詞とは裏腹に、祖母は微笑んでいた。
俺も笑い返そうとして、顔の筋肉が上手に動かないことに気づく。
右手を持ち上げると、あたたかいものに触れた。
いつの間にか、涙が流れていた。
「ああ──」
俺を見て、祖母は、いっそう嬉しそうに、笑った。
「良かったねえ、じいちゃん」
「…………!」
様々な言葉が喉から飛び出しそうなのに、なにひとつ声にならなかった。
俺は、祖父を想った。
この庭を、光で埋めていった祖父。俺の好きだった人形を探して、一つ一つ、並べていった祖父。
驚かせてやろう、今年は来るだろうか、その次は来るだろうか──光の中に、笑顔の祖父の姿が見えるようだった。それなのに、俺はそれをことごとく裏切ったのだ。つまらないと吐き捨てて、この地を捨てたのだ。
「──……じいちゃん……」
呼びかけだけが、声になった。
ごめん、といえない理由が、わかった気がした。
いくら謝罪を吐いても、もう届かないのだ。いくら感謝を告げても、もう、あの笑顔は返ってこないのだ。
それでも、俺は、息を吸い込んだ。
この光の中に、祖父の姿が見えるのならば、いまなら伝えられる気がした。
「ごめん、じいちゃん……ありがとう……!」
嗚咽にまみれた、二つの言葉。
ほうか、と祖父の笑顔が見えた気がした。
涙が一気に溢れた。
もう遅い。
もう遅いけれど──
──つまらないなんて嘘で、
俺はこどもだったからあんなことをいってしまったけど、
大好きだった。
本当に、大好きだった。
祖母が、そっと俺の肩を抱いた。
その頼りない、しわくちゃの手が温かくて、俺はこどもみたいにしゃくりあげて泣いた。
「……ばあちゃん」
聞いたことのないような、うわずった声だったが、それでも俺は続けた。
「俺さ、また毎年、ここ来るから──彼女できて、結婚して、こどもできてさ……ばあちゃんがひいばあちゃんになって、それでもずっと、来るからさ……」
「ああ、そりゃあ、じいちゃんが喜ぶねえ」
俺は、むりやり笑った。
田舎の寒さが刺すようなのに、おかしなぐらい暖かかった。
このあたたかさを、いつかできるであろう自分の家族に、伝えられたらいい──そんなことを思いながら、笑った。
俺は忘れない。
自分の過ちも、今日のこの光も、決して。
了
怪人イルミネーション