顔 (上巻)

顔 (上巻)

千葉県で発生した遺体損壊事件を元にしたフィクション。取調室という密室を舞台に話を展開してみようという趣旨で、じっくりした作品となりました。

1 顛末

公安部が取調べを担当した二人の刑事を呼び出した。
その後、詳細については、なにも語られることは無く
その日をもって、取調べ担当者大川と小山は、この件から外された。
その後、大川は、山中湖に程近い県境の駐在所に配置転換され、
定年を迎えた。
小山は警察内の小さな研究所の小さな仕事に回された。

捜査本部は解散、以後、警察内の研究機関によって残務整理がされた。
以後、マスコミは一切シャットアウトされ、あれだけ沸いていた
取材活動も、一切無くなった。
唯一、最後まで食い下がった三文記事屋は、軽微な罪で逮捕され、
その後、何も語らず、仏門に入った。
容疑者の家族は、その後、住まいを変えたが、不幸な火事に見舞われ
亡くなった。

アメリカの遺族の元にはCIAの下部組織を通じ、何らかの通知があり
法外な額の見舞金が日本国政府より支給されたと地元の報道
が一部に流れたが、遺族たちはどこかに移住してしまった。

強姦・殺人・遺体損壊事件の容疑者、一之瀬克也の件は消えた。
そして数ヶ月が経ち、人々の記憶から、事件は消えていった。

2 概要

事件の概要は以下の通り。
平成17 年1月5 日、神奈川県横浜市で英会話講師をしていた
アメリカ人女性ロザンナ・ハートさん(当時22 歳)が失踪する事件が
発生し、県警がマークしていた無職の一之瀬克也(当時25 歳)の
自宅マンションの捜索を行なった際に、一之瀬は捜査員2 名を、殴打し、
逃走。更に玄関口に待機していた警察官4名をも殴打、逃走する事件が
発生した。

事件発生後、すぐさま緊急配備網を敷いたが、
一之瀬は捕まる事は無かった。

一之瀬の自宅マンションでは、ロザンナ・ハートさんの全裸遺体が浴室から
発見され、更に、遺体の一部が損壊されていたため、遺体損壊事件の
容疑者として全国に指名手配された。

街には一斉に一之瀬の指名手配ポスターが張られた。
身長182 センチの痩せ型、部屋に残された投函する前の履歴書用に撮った
と思われるインスタント写真から手配写真が作られた。
その肉食獣を思わせる眼光を放ったような目付き。
頬のこけ方、薄い唇等から、「あぁ、如何にも悪いことをしそうなヤツ」な
イメージが、見るものに与えられた。

指名手配写真はポスターに留まらず、等身大の看板、
押収したパソコンに入っていた 録音ファイルから
本人の声を抜き出したものが
公開され、テレビなどで報じられた。
学生時代にはバンド活動でヴォーカルを担当していたこともあって、
甲高い声であることもあって、印象深く視聴者には印象付けられた。
よって事件後すぐの頃は、学生バンドの関係者が参考人として
聴取されたが、決定打にかけた。

逃走先として、事件後、両親の住む愛知県豊田市の実家にも
捜査が及んだが両親は「連絡すらない。」の一点張りだったが、
事実通話記録などの捜査資料からも一之瀬からの連絡はなかったようだ。
その後も、一之瀬の行方は一行に知れず、捜査は難航した。

ロザンナさんの両親が来日し、事件の早期解決を訴え、
マスコミ露出も多かったが時間の経過に伴ない、
得られる情報も減っていった。
警察庁は、懸賞金を増額し、情報の提供を求めたが、
決め手となる情報はほぼ皆無だった。

事件から4 年が経過したある日のことだった。
匿名の情報が封書で送りつけられた。
中には、逃走時の一之瀬のものとは思えない
顔写真がA4版に拡大されて入っていた。
封書の送り主は不明。
投函されたのは、捜査本部の置かれた港南警察署内であった。
写真の裏にはひとこと「一之瀬は顔を変えている」と
鉛筆で殴り書きされていた。

その日のうちに、報道各局にその写真が回され、日夜、報道が繰り返された。
すると、反応が異常に集まり、多くの目撃情報が寄せられた。
その多くが、九州からのものであった。

最新の情報から、博多港に集結していた捜査陣は、
釜山行きフェリー乗り場の従業員からの通報により、
一之瀬を遺体損壊事件の容疑者として獲捕した。
一之瀬は抵抗することなく、その場で一之瀬本人であることを認め、
逮捕となった。

その日の最終の新幹線で捜査本部の置かれた横浜港南警察署まで移送された。
一之瀬は、報道陣でごった返す博多駅から、一言も話さなかった。

報道各局では、連日、一之瀬逮捕の報道で明け暮れた。
一之瀬の逮捕を喜ぶロザンナさんの両親の声。
逮捕現場となった博多港の職員の談話。
当惑しきった一之瀬の両親の目隠し会見など。

港南警察署の取調室では、
翌朝より一之瀬のDNA鑑定が行なわれ、その後、取調べが行なわれた。
警察庁の名うての刑事たちが一之瀬の取調べを始めた。
しかし、一之瀬はなにも話さなかった。
話さないどころか、なにも口にしようともしない。

DNA鑑定の結果、間違いなく一之瀬克也本人とされ取調べも強化されたが
なんの成果も挙げられず、担当の刑事たちは二日毎に舌を巻いて交代していった。
取調室のビデオはなんの声をも発しない一之瀬と苛立ちを募らせる刑事たちの
姿を記録するだけで、その本数ばかりが増えていった。

一方で、一之瀬の足取りを追う裏付け捜査は博多から、
大阪、神戸、東京、横浜、千葉と範囲を広げていた。
一之瀬の4 年間の逃走経路をひとつひとつ潰していったのだが、
やはり、関西圏での潜伏が長かった・・程度の情報しか掴めないでいた。

やがて逮捕から一週間、そして10 日が経ったが、
一之瀬は取調室では黙秘を続けた。
弁護士の謁見のときも名前と年齢を答えただけで、
一切、何も話さなかった。
家族の面会も断った。
食事も水も取らないまま、一之瀬の表情はみるみるうちにやせ細っていった。
逮捕後、14 日目にドクター・ストップがかかり、そのときだけ抵抗する
一之瀬は拘束され点滴が加えられた。

名うてといわれた刑事たちにも、忍耐の限度があった。
取調室のビデオを気にして、留置所で暴力を加える者も出てきた。
激しく腹部を殴られ、吐血した状態でも、一之瀬は何も語らなかった。

テレビのワイドショーは連日、専門家といわれる警察OB だの医者だの
を出演させ事件の成り行きを放送し、過去の逃走経路についても調査
していたが、警察発表の上塗りである域を出るものではなかったが、
概ね視聴率は好調。
警察庁のある幹部は、事件の社会的関心の高さと早期解決のため、
捜査陣に檄を飛ばした。

しかし、一向に口を開こうとしない一之瀬を前に、捜査陣は手を焼いていた。
神奈川県警も落とし屋といわれる刑事たちを、動員したものの
全くナシのつぶてだった。
拘留期限が迫り、容疑が殺人事件に変更され一之瀬は再逮捕された。

これはロザンナさんの、恐らく致命傷となった首を絞めたと思われる、
ロザンナさんの着用していたベルトに一之瀬容疑者の指紋が残っていたため、
と報道された。
これを機に、加熱する報道への配慮もあり、一之瀬は横浜刑務所の下部機関
である横浜拘置支所に移送された。

3 取調べ担当

なんの進展もない取調べに業を煮やした捜査本部は、
ある老刑事を呼び出した。
老刑事は、この事件は無関係だったが、
捜査陣の気分転換も必要、と考えたのだ。
萬にひとつでも。転機が転がり込めば、しめたものだ。
そうすれば、この老刑事も最後に花道を飾れるだろう。

呼び出されたのは所轄の定年間際の大川巡査部長と、
若い刑事になりたての小山巡査だった。
大川という老刑事は、「大きな事件なんかに関わった事がない」ことを
寧ろ誇りとする人物で、「コソ泥とウリ専門」と揶揄された刑事で、
大柄な体を猫背に曲げ、深く刻まれた額のシワは
経験を物語っていそうだが、そういった経験の持ち主ではなかった。

女性の小山は若くて暴走気味の性格を矯正するため、
この老刑事についている修行の身。
とにかく石原プロの刑事ドラマを見て育ったと豪語するだけあって
女だてらに、渡哲也だの、館ひろしだののような
サングラスをこれ見よがしにかけている。
どことなく行動のすべてに。
西部警察が刷り込まれたような風情で。

捜査陣の一部は、このふたりに時間を潰させて、
捜査会議と云う名の温泉旅行に湯河原へ出かけた。
取り調べる刑事たちも、捜査陣も。成果など期待していない。
そんな気楽な雰囲気を捜査陣皆が持っていた。

老刑事は、しかしながら、その事件の捜査資料をつぶさに読んでいた。
小山もこの老刑事の激烈な加齢臭に、我慢しながら、
捜査資料に目を通していた。
「なぜ、そんなに真剣になれるんですか?」
老刑事は顔を上げて答える。
「・・だってさぁ、これが仕事だからさぁ・・。」

一之瀬克也は昭和60 年2 月9 日、開業医の父と主婦の母の間に
長男として愛知県豊田市に生まれた。
幼少の頃より勉学優秀で近所でも名の知られたこどもだった。
中学卒業まで、成績はクラストップ。地元の有名私立高校に進学。
ここでも、成績は優秀。性格も温厚とされ、皆から好かれる対象だった。
横浜大学医学部に進学するが、医師国家試験に落ち、そのまま卒業となった。

事件当時は、国家試験の予備校に通っているとされていたが
予備校に通った形跡は無く、親の仕送りで暮らしながら、
進路について考えていたのではないか、と推測された。
などなど。二人の刑事は、資料室に積まれた
一之瀬の事件の報道番組のビデオを見ていた。
膨大な捜査資料の字づらを追うのは、つらい。

医師の国家試験には合格する実力を兼ね備えていたものの
大学進学時、父が医療事故に端を発する訴訟に巻き込まれ
それが元で、医師への道を自ら閉ざしたのではないか、との
元同級生のインタビューが録画されていた。

「医者もたいへんだよな。」
大川はボソッと言うと、小山はその点達観していた。
「いい金もらってるんでしょ、その分働いて当たり前ですよ。」
大川は、あぁ、なるほどな。と頷いた。

大川は二枚の顔写真を並べてみた。
左側は、事件後逃走時の一之瀬の顔。
日焼けして、こけた頬、吊り上った眉毛、捕食獣のような鋭い目。
鼻筋も通った、なかなかスマートな・・精悍というよりはやはり
獣じみた印象を感じた。

それに対して右側は、逮捕前に匿名の差出人によって提供された
顔写真。色は白く、頬は膨れ、目は垂れ下がり、唇も太くなっている。
鼻も上を向き、精悍という印象はまるでない。
これが同一人物であるとは、なかなかに信じがたい。
それほどの変容ぶりだった。

「ヤツは整形したんだろォ?」
大川が小山に尋ねると、「そうでしょ」とあっさり答えられた。
「でもさ、土台もなにも、全部変わってるだろ?」
小山はそのことにたいして興味が無いようだった。
「整形手術も進歩してるんでしょうね。」
気のない返事は・・いつものことだった。

4 初日 #1

二人は、翌日、横浜拘置支所に向かった。
京浜急行の駅を降り、港南警察署の前を通り、角を曲がると正門に出た。
イチョウの葉が黄色く色づいていたが、大半は既に地面に落ちていた。

がらんとした捜査陣の部屋に、如何にもやる気のなさそうな中肉中背の
これといって特徴の無い男が出迎えた。
「今日は、遠いところ、どうも。ま、気楽にやってください。」
中井というこの刑事、捜査陣には当初から関わっていたが、逮捕からの
このひと月、一之瀬の黙秘には、うんざりしていたようだった。

「こんなこと、はじめてなもので・・・」大川が握手すると
「異例の事態ですよ、野郎、なにが気に食わないのか、
だんまりきめこみやがって。しかも・・ご存知のように。
外人さんの事件だから、県警から、警察庁のお偉方まで
やんやと騒ぎましてね。」
小山が握手すると。
「あぁ、こういう若い女の刑事さんがいると、奴も話す気になるかな。」
中井が誉めたつもりで冗談めかして言うと
「見た通り、女の武器はありませんから。」
とツッケンドンに返した。

大川は雰囲気を変えるように思い尋ねた。
「で、ヤッコさん、まだ点滴だけで・・生きてるんですか?」
中井は小さく首を振って答えた。
「いやぁ、それが。昨日から・・喰うわ、喰うわ。オカワリもしてます。
なにが心境の変化に繋がったのか・・」
大川は、弛んだ頬肉を動かして見せた。
「じゃぁ、ヤッコさんは・・元気なんだ・・」

横浜拘置支所第二取調室。
鉄格子のはまった窓の外は鉛色の雲が垂れ込めていた。
部屋の真ん中には大きな机が置いてあり、向かい合わせに置かれた椅子。
部屋の端には小さな机があった。
壁は白く、天井に埋め込まれた蛍光灯の本数が多いのか明るく見えた。
左側の壁は、大きな鏡が並べられていて。
マジックミラーで。その向こうには中井がいるのだろう。

いつもなら。
いつもの所轄の取調室なら、電気スタンドがあるのにな。
大川はそんなことを思いながら。妙に明るく感じる蛍光灯は。
“取調室の可視化“・・ということは。
マジックミラーの向こうにはビデオカメラが
こちらを向いているということか。

大川は、一度深呼吸をすると。
刑務官に腰紐を捕まれたままの一之瀬が、取調室に入ってきた。
大川の前の椅子に座った一之瀬の顔は、痩せこけ、
出回った手配写真とも違った印象を受けた。
無精ひげの一之瀬は、大川の顔を見るなり、うなだれた。

「食事を取るようになったそうじゃないか・・・。」
大川は、いつもの声色からオクターブ上げたような声を出してみた。
すかさず小山は一之瀬に、絡みを入れた。
「メシ喰った分は、なんか言えよなァ~ッ!」
しかし一之瀬は、動じることも無く、力無い目付きのまま黙っていた。

そのまま、ゆっくりとした呼吸のまま、一之瀬は取り調べの刑事たちと
そのうつろな視線を合わせることも無く、ゆっくりとした時間が流れた。
マジックミラー越しの窓の無い部屋で、中井は「いつものことよ。」と
思いながら、ビデオの録画スイッチを入れた。

5 初日 #2

期待をしても、されていない取調べは、ほぼ無言のまま午前中を終了した。
大川は、一之瀬の鼻の頭の小さな傷を見ているだけだった。
拘置所の食堂のメシを喰い、大川と小山は再び取調室に戻った。
今日も一之瀬は食事をたいらげた、らしい。
再び長い沈黙の時間がつづいた。
鉄格子のはまった窓に、冬の陽は、オレンジ色の光を傾けた。

「逃げるって云うのは、結構大変なんだよ。」
ボソッと話し始めた一之瀬の声は、低く疲れていた。
返答を期待もしていなかった二人の刑事は、かえって当惑した。
マジックミラー越しの中井は、思わぬ事態にガッツポーズを出した。
その第一声のニュースは湯河原に即座に伝えられ、
捜査陣は“会議”を終了し、大急ぎで本部に戻った。

「随分、長い間、逃げていたものなぁ。何処にいたんだい?」
大川は、出来る限り暖かい声色を使って、接するように心掛けた。
「質問が・・違うなぁ」
一之瀬は訝って見せた。
「どうやって逃げていたか、だろ?」
一之瀬は、得意気に、自信満々に提案した。

こういう輩は、意外に多いもので。
愉快犯とか自己顕示欲の強いヤツはこういう手に走る。
そういう場合は。掛かった魚に糸をくれてやれ。
喋り疲れるまで喋らせておけ。
大川は駆け出しの頃、習ったまま、相槌を入れるだけに留めようと思った。

しかし小山は違った。
「随分、言いたげじゃねぇか?昨日までとは打って変わってよ!」
大川は、身を乗り出した小山を制した。
一之瀬が鼻で笑った。
「あんたみたいないい女が、たいした口利くじゃないか。
魅力が半減するぜ。」

大川は小山を強く睨むと、脇の小机に押しやった。
一之瀬のほうを見ると、努めて冷静な態度を取ってみせた。
「あぁ、済まん、コイツぁまだ駆け出しなものでね、気にせんでくれ。
で、どうやって逃げていたか、だったな。」

6 初日 #3

最初の三日間ぐらい、海ッぺりの倉庫街をうろうろしていた。
隠れる場所多かったからな。
だが、韓国人と南米系の奴らの撃ち合いに出くわして。
やがて警察が来ることがわかったから、場所を移したんだ。
けど、所持金が200 円ちょっとしかなかったから。

高速沿いに行ったところに寿地区があるだろ。
アソコで、まずしたのが、散髪・・路上のやつな。
婆が一人でやってるやつ。「ババアのバーバー」って呼ばれてたな。
そこで、頭髪を全部剃った。

次にびくつきながら、教会の炊き出しに行った。
兎に角、飯が食いたかったから。
そこで、自分の手配写真の載ったポスターを見たのさ。
だが、誰一人、スキンヘッドのオレに気付く奴はいなかった。

なんだかんだいってもアソコはドヤだ。
この不景気な中、ドヤの人口と人口密度は高まる。
不思議なもので人口密度が高まると。
人間、手配写真なんて見なくなるらしい。
次の朝から日雇いの寄せ場に出向いて、その日の糧を得るようにした。

とにかくここですら、隠れていたらいずれ見つかる。
いままで。こんな目と鼻の先で捕まらなかったのが不思議なほどだ。
逃走資金を得るために、慣れない肉体労働をこなしていった。
オレ、ドヤにいるときは髭を剃らなかった。

意外に払いも良かったんで10 万20 万の金はすぐに出来た。
それを持って東京の山谷地区を目指した。
<とにかく身を隠すには今も昔もドヤがいい。>
そのことは寿地区で知り合った年寄りが言っていた。
互いに触れられたくない傷を持つもの同士が、
寄り添った振りをしながら生きていける場所として。

だが、山谷地区は居場所としては。最悪だった。
ドヤの住人たちは年寄りばかりで、若いヒトはいなかった。
そのため、オレ。オレはさ。返って目立つ存在だった。

オレのさ。ポスターも何枚か貼ってあった。
自分のポスターに落書きされて。喜んだのはオレ。
オレぐらいなものだろうな。

警察は、事件が起きて直ぐにこちらに捜索を掛けたらしいが、
地元のドヤには、居ないと踏んだんだろ?
山谷じゃ、日雇いの業者も、オレの顔をチラチラ見ながら。
なにか居心地が悪かった。

だから、オレ。オレの様な若いヒト向けの肉体労働は、無いかなって。
派遣会社に登録したんだ、偽名使って。
肉体労働が好きかって?バカ言えよ、オレはさ。このオレはさ。
どちらかといえば頭脳労働のほうが、勿論得意さ。
一応、医学部出てるしさ。

環境が良かったんだ。
肉体労働の環境がさ。
食い扶持の為にのみ集まってきて、
その日のことはその日に忘れる。
そんな刹那的な感じがさ。逃亡者なオレ。
オレにはピッタリだったんだな、きっと。

なにか堰を切ったように言葉を垂れ流した一之瀬に大川は茶をすすめた。
大川は、事件の証拠品を入れるビニール袋をひとつ取り出した。
袋には派遣会社に登録するためのプロファイル・シートが一枚。
氏名欄には「高田隆」という名が記されていた。
写真は元の一之瀬の顔をスキンヘッドにした・・眼鏡で変装をしたつもりか。
しかし、派遣会社は彼が逃亡者一之瀬であることはわからなかった。

一之瀬が、逮捕時に持っていた携帯電話の登録名が「高田隆」だった。
一之瀬は、軽く欠伸をして、宙を仰いだ。
「筆跡鑑定の結果、君の字であることがわかった。」
大川は一之瀬に告げると、一之瀬は、退屈そうにコクリと頷いた。

すんごくさ、頭の悪い連中でさぁ。
頭が悪い上に強欲っていうか。オレ、オレからすれば、さ。
あいつ等の方が、オレよりずっとワルだって。うん。
派遣会社が中間マージンをガッポリ取っていたので
返って割が合わないことがわかった。

と、同じ頃に。炊き出しで出会った男がいた。
なんでも、山形かどこかで、親子丼きめて、
逆上した母親が刃物を持ち出したんで勢い余って親も娘も
両方殺しちまった・・みたいなこと言ってたな。

陰気な男でさ。そいつは金貯めて。整形手術を受けたっていうんだ。
簡単な手術さ。一重を二重にするとか。鼻を高くするとか。
そしたら手配写真の前にいても気付かれないって。

そいつの話に興味を持ったんだ。オレ。
美容整形ってさ。美しくなるのが目的だろ、普通は?
正直、オレ。オレはさ。結構イケメンだから関係ないって思ってたのさ。
けど。ヤツは。別人になるために。整形手術を受けた。
これがさ、結構、オレのさ、オレの中で響いたんだよな。

そして整形を行なう闇医者の存在を知った。
その闇医者は新宿のハローワークの傍の雑居ビルにいると聞いて。
だが、随分と法外な料金を取るらしいことも聞いた。
そのうち、頭髪の伸びたオレを、指名手配犯として通報するやつが出てきた。
そのとき初めて自分に、懸賞金が懸かっていることを知った。

7 初日 #4

大川の席から右側の壁には大きな丸い時計が掛かっている。
左側のマジックミラーから狙っているんだろうビデオカメラから
映りがいい位置なんだろうな。大川はそんなことを思いながら
3 時8 分を示す時計の針を見ていた。

だからオレ。オレはさ。闇医者に行ったんだ。
新宿のホラ、花園神社のさ、向こう側みたいなところさ。
それまでの半年ほどで、オレの。オレのさ、体にガテンな匂いがさ。
染み付いちゃったんだろうな。

アノ辺、多いよね。女買いに来た労務者っていうかさ。
そういうオッサンたち。大勢に紛れれば、警官の前でも堂々と歩けたな。
それでさ、あの汚い雑居ビルに行ったんだ。
狭くてぼろいエレベーター乗ってさ。何階だったっけな。

薄暗い待合室に、スジ関係みたいなヤツばかり。
手配写真の奴ら、全員集合って感じでさ。
そうそう、闇医者の女房っていうのが、下の階で外科医・・
これも闇医者なんだろな。こっちは凄く混んでいた。

ちょうど、小指落としたヤクザが運ばれてきたのかな?
結構騒々しかったんだ。で、上のこっちのフロアは。
整形屋だった。診察室にいくまでの部屋には、包帯巻かれたヤツがさ。
寝ているのが見えた。二、三人だったかな。

それで、オレ。闇医者に会ったんだ。
なんか日本語がおかしかったからな。大陸の医者じゃないか?
そういえば、客もヤクザ物か大陸系か。そんなところだったな。
名前も思い出せないけど。

兎に角、顔を変えたかったわけ。
で、目尻を・・オレ、目尻上がってたんだよ。
それをさ目尻下げて垂れ目でだらしない感じにしたかったわけ。
そしたらさ。そんな、ほんのプチ整形でも50 万程の金を要求してきた。

そういわれても。オレ。20万ぐらいしかもっていなかったしさ。
ヤツは顔を見る商売で。オレが誰だかすぐにピンと来たらしい。
だが、向こうも無資格の闇医者。互いに警察に通報することは無い。
オレはさ。値切ったの。

そしたら闇医者のヤツ、10 万値引く。といいだしたんで。
でも、山谷には、もういられないと思っていたから。
カネが無い。カネが作れない。といったら。
そしたら闇医者が、オレ、オレ向きの仕事があるっていうので。
仕事を紹介してやるって。

そのためオレ。オレはさ。ヤツの助手に連れられてさ。
大久保辺りの汚い安アパートの空き部屋を宛がわれて。
そこはいろんな言葉が混在した場所で。
片言の日本語で、聞き出したのは、彼らの多くは大陸から
不法にやってきて、日本人に成りすますため、闇医者によって
整形手術を施される・・・いわば、そこは待合室だった。

長いヤツはもう半年ここにいる・・とか言ってたな。
唯一、日本語が普通に話せるヤツがいた。
なんでも昔は役者志望だったとかいう女で。
あ・・でも、日本人じゃなかったな。
いやもう30 廻ってたんじゃない?

もう人生疲れきってるような女でさ。
基本的にはさ、あの女はここに住んで
夜、体を売って。稼いだ金を、ここで整形に使っていた。
整形マニアなんだよな。
「ここをなおすと、こんどはあそこを直したくなるのよ。」って。
で、闇医者に紹介された仕事というのが売春だったらしい。

となれば、身の危険を感じたさ。
カマ掘られるのかなって。
だが、オレにさ、紹介されたのは、別な仕事だった。
しかも。割りはよかった。だが、すぐに体を壊した。

その仕事は、新薬の実験台だった。
ある製薬会社の試験場みたいなところに行かされてさ。
彼らの前でオレは。犯罪者でもなんでもなく、ただ単に
「なにがあっても訴訟をすることのできない人間」でしかなかった。
勿論、オレが逃亡者であることなど、彼らは興味すらなかったようだ。

ひと仕事するのに三日から一週間かかった。
風邪薬だの。胃腸薬だの。
スキンローションだの。
一番酷かったのは、蚊を百匹ぐらい閉じ込めた部屋に二時間立たされて。
蚊除けの薬だったんだな。失敗作だぜ。

酷い下痢が続いたり、発熱したりすることもあった。
だが、ドヤの仕事に比べれば。格段に違って。
二ヶ月もすると整形手術の資金は出来た。
とにかく、オレ。オレとさ。わからない顔にしてくれって。
そぅ、目立たない顔に。一重だったまぶたを二重にして。

手術台に上る日が来た。それまで手術台になんて上がったことの無いんで
緊張したが、それよりも手術室の、あまりに衛生的でないところに
恐怖を感じた。

闇医者のヤツ。オレをさ。手術台に縛りつけてからいいやがった。
「値引きの分は、麻酔代だからね~」だと。
ヤツは麻酔注射代をケチりやがったんだ。
オレはさ。悲鳴を上げたさ、勿論。
あまりの激痛のため、気を失うまで。

8 初日 #5

その後、顔面に包帯を巻かれたまま、ぼろアパートの部屋に放り込まれた。
地獄のような苦しみが続いた。
手足を縛られ、顔から火と電気がほとばしるような。
そんなとき、あの女が、優しくしてくれた。

包帯を取る日が来た。
新たなオレの。オレの顔。以前より、さえない顔してやがる。
いい感じだった。ただ右の頬に傷が残った。
半狂乱の日々は、実は一週間ほどであったことがわかった。

その夜、デバガメのような異国人に覗かれることは解っていたが
オレは、あの女をアパートで抱いた。新たな自分に満足していたオレは
満たされた。だが、この女なんでこんなところにいるんだ_?

で、その女に事情を聞いたんだけど。
あの女、自分で自分のガキを殺してしまったらしい。
だから、あそこにいるんだ。
なんか、抱いた後にしょげ返ってしまってさ。

そんな生活が続いていた。女の言うように。
ここをいじれば。あそこをいじりたくなる。
新薬の試験の仕事は、体力と精神的な圧迫感が辛かったけど。
払いが良かったんだ。

大川は、それまでずっと。
なにか口に出そうとしていたが、堪えていた。
気の短い小山は、その老刑事の煮え切らない態度に苛々していた。
そんな小山の態度を見てか、大川は小鼻が痒くなった。

「で、今の顔に整形したんだな。
なるほど、手配写真とは似ても似つかないな。
でぇ、ロザンナさんを殺したのか?」

大川は、一撃必殺の銃弾を的のど真ん中に撃ち込んだ気分になったが。
一瞬、他人事のように、キョトンとした顔を見せて
一之瀬の眼は天井に向かった。
そして、フフッと噴出すように小声で笑った。
「オレが?オレは殺してないさ。」

老刑事のあまりにストレートな攻めは、軽くあしらわれた。
小山は、堰を切ったように一之瀬に迫った。
「ホトケの首に巻いたベルトにお前の指紋が付いていたんだよォーッ!」
取調室の中央に置かれた机を叩いて、立ち上がった小山を。
一之瀬は、笑った。
「おまえのやったことは全てお見通しだーッ!ってか?」

「てめえ!」一之瀬に掴みかかろうとする小山を、大川は制した。
「いやだねぇ、変なドラマの見過ぎじゃね?」
おどけるように笑う一之瀬の態度が、小山の火に油を注いだ。
大川は、小山を抑えるのに必死だった。
マジックミラー越しの中井が、取調室に入り、小山は連れ出された。

取調室には、一之瀬と大川が残された。
大川は、小山の義憤にも似た怒りが解らなくも無かった。
というよりは、小山同様、一之瀬を殴りつけたいところだった。
が、俺がそれをしてどうなる?と自重した。
と、同時に、何故俺がこんな取調べをしなきゃならんのか
と無性に腹が立った。

饒舌になった一之瀬の口は、その後も減ることは無かった。
小山を嘲った笑いの後に、だらしなく開いた口から舌を出した。
苛立った大川を見ると、また笑い出した。

おっさん、金髪女とやったことある?
あいつの肌って、それほど綺麗なもんじゃない。
日本人の色白女のほうが、肌は綺麗でね。
ケドさ、やっぱり体のつくりがさ、日本人とは大違いだぜ。

大き目のアソコにぶちこんでやってさァ
腰を振るたび、バレーボールみたいな胸を揺らしてさ。
俺の体の下で、金髪揺らして、あえぐ表情なんて、最高だったぜ。
「もぅ、いい・・。」

なんだ?おっさん、立っちまったのか?
オレのさ、オレの家族や親戚は医者になったヤツが多いんだが
オチこぼれの叔父貴がいてさ。貿易商やってんだけど。
金髪の女房もらったんだよな。

上京して、すぐのとき、世話になったんだ叔父貴のウチに。
したら、あいつら、オレがさ。オレがいるのもお構い無しに
毎晩、毎晩、励んでやがってさ。挙句の果てに言ったな。
「抱くなら、金髪女だ」って。

ろくでなしの叔父貴だったが、その言葉は本当だった。
一回抱いた方がいいよ、金髪女。
あぁ、いいかい?ロザンナとオレ、オレはさ。
セックス・フレンドだったんだよ。
そのうち半同棲関係になったの。

だからぁ、ロザンナの友達の勘違いなんだ。
早合点して。オレさ、オレとロザンナは純粋に愛し合っていた
セックス・フレンドだったのさ。だからぁ、脱がすとき
ベルトに指紋ぐらい・・付くよな。
いいかい、オレはさ。ロザンナを愛していたんだ。

「愛ゆえに殺す場合もある、だろ?」
オレ?オレは殺してないさ。
「じゃどうして・・・彼女の死体がおまえの部屋にあったんだ?」
強盗が押し入って殺したんじゃないの?
オレがさ。オレが居ない間に。

だからオレ。オレは部屋から出たんだ。
「で、警官を殴り倒して・・・」
このまま捕まったら殺人犯にされちまう・・と思ったのさ。
あんたみたいな刑事さんにね。

大川は刑務官を呼び、一之瀬を留置所に戻した。
ヤツに完全に乗せられている。
大川は、自分の不甲斐なさを心で嘆いた。

9 二日目 #1

捜査陣は小山の行動を咎めた。
同時に大川の取調べ方法についても嗜めた。
しかし、一之瀬の口を開かせた事実は大きく
翌日の取調べは、大川と中井で行なうこととなったが、
再び、一之瀬はだんまりをきめこんだ為、
午後から大川と小山のコンビに戻ることになった。

午後の取調べの前に二人は呼び止められ、
別室でビデオを同時に見ているという
捜査担当課長と心理分析官のブリーフィングを受けた。

警視庁の協力を得て、二年前新宿区で起きた無免許医師夫婦の
殺害事件の捜査資料が届けられた。中国籍の夫婦は、この地で
不法入国および不法滞留外人、ヤクザものなどを相手に医療行為を
行なっていた。医師法および薬事法違反で内偵捜査を行なっていたのだが
事件は突発的に、起こった。

深夜、性交中の夫妻の寝室に賊が押し込み、二人を刺し殺した。
凶器は、手術室にあったと思われる刃渡り30 センチに及ぶ
手術用の鋭利な刃物で腹部そして顔面に無数の刺し傷が残されていた。
患者の逆恨みを買った殺人事件の方向で捜査は進められたが、
指紋採取は不可能で、捜査は棚上げ状態になった。

同時に、コリアタウンのビルの隙間に放置された女性の死体放置事件の
捜査資料も送られてきた。顔面がコンクリート・ブロックで、
何度も叩きつけられ頭蓋骨が陥没していた。
指紋も削った跡があり、人物の特定に至らなかった
とされていた。

前日の取調べの結果、
「一之瀬は異常ともいえる自己顕示欲の強い性格であることがわかった。」
と、心理分析官からの報告を受けたが、大川は。
そんなこと、わかりきってるさ・・。と冷ややかだった。

「それで・・どぅなんですかぁ。やっこさん・・殺してるんですか・・?」
大川が尋ねると、顔を背けるばかりで。
結局、埒明かないんだな、と察した。
「あなたが苛立つのも解るが、それを認めさせるのはあなたの仕事だ。」
大川は、彼らがそれなりには、人の心理状態が解る、ということを
認識したが、小山は舌を打ち鳴らした。

10 二日目 #2

傾き始めた冬の日差しが鉄格子のはまった窓ガラスから差し込んでいた。
大川には、定年近い自分の姿を重ねて見えた。
なんらの潤いもない、冷たいコンクリートの壁が、寂しく感じられた。
だが、一之瀬は、背にしたその光景を見ることもできなかった。
一之瀬の鼻の引っかき傷は化膿しているようだった。

「おまえ、闇医者、殺したのか?」
埒の明かない状況に、大川は力無くストレートに切り出した。
一之瀬は、他人事のように・・事実、他人事なのかもしれないが。
表情ひとつ変える事はなかったが、口を開いた。

え?あの闇医者、殺されたの?
ま、悪いヤツだからな。殺されて当然かもな~。
ふ~ん、あっそう。
オレ?オレは殺してないさ。知らないな~。

想定内の答えだった。そのことに、なんら期待も何もなかった。
ルーティーンな問答は、時間の無駄なだけではなく、ヤル気がそがれる。
いや、そもそもヤル気なんてあったのか。
「殺されて当然?」

そりゃぁそうだろ?
通常料金の5 倍ハネてたんだぜ。
逆恨み買っても仕方ないよな。
まぁ、美容整形なんて保険外だけど。
外科は保険きくだろ?

ま、客は保険証の無いヤツばかりだろ。
でもな、保険証無いヤツなんて今じゃゴマンといる。
ほんのガキですら。
通常料金の5 倍ハネテも、10 割料金より安かったんだよ。

ただ。
「ただ?」
腕が悪かった。夫婦二人とも。腕が悪かった。
大陸流なのかな?傷跡が残っちまうんだ。
「おまえも傷が残ったのか?」

あぁ。ひどい傷がね。
「お前の顔見てると、そうは思えないけどね」
ハハハ。そりゃそうさ。
「傷を消した?」
ハハハ。

一之瀬は笑うだけでその後を話す気配が無かった。
大川は作れるだけの笑顔で、笑いに同調しながら、質問を続けた。
「じゃぁ、闇医者のアパート、なんで離れたんだい?」

もう誰も、昔のオレ、オレの顔じゃなかったからさ。
居る必要ないじゃん。変な外人やワケありな人間ばかりのところに。
ドヤと違って、ヒトの関わりが多いからな。
「女がいたのに?」

オンナ?よしてくれ。
何度か寝ただけの女だよ。
「でもおまえさんの、昔の顔を知っていた。」
だから?
「女の変死体があがったらしいんだ、2年前、闇医者夫婦殺害と同じ頃。」

ふ~ん。なに?またオレ。オレが殺したって?
オレ?オレは殺してないさ。
おいおい何人殺させればいいんだい?
大川は、疑いの目をそらした。
「で、そのあと、どこにいったんだい?」

うーん、合格点とは云い難いが、悪くは無い質問だよね。
「あぁ、すまん、どうやって逃げていたか・・だよな。」
ま、いいっか。
逃げるっていうのはさ。
もちろんそのための金も必要だけどさ、喰っていかなきゃならないじゃない。

傷ついてはいたが、新しい顔のオレ、オレはさ。
新しい人格?ってのかな。そいつが欲しくなったんだ。
別な派遣屋に登録しようとして履歴書買ってきてさ。
「高田隆」を作ろうとした。
だが、考えても見ろよ。あいつら振込みなんだよな。
振込みなんて何時アシがつくかわからんだろ?

だからいつもニコニコ現金払い、な仕事を探したんだよ、オレ。
ところが、この不景気でさ、なかなかそんなところあるワケない。
で、結局、ドヤがいいんだろって思ったのさ。
だが、新薬の試験台やっているあいだに、体が悪くなってね。
少しぶらぶらしていた。

だが街で歩いていても、人の目が気になってさ。
不思議なもんで、オレの。オレのさ、傷のある顔がさ。
街行く人の目に晒されていると・・ジロジロ眺めるんだよな。
右頬に大きな傷があったから・・。
で、関西に腕の良い整形屋が居るって聞いてさ。
あぁ、勿論、無保険の・・・。

それで、大阪に行ったんだ。
あぁー、あいりん地区ってトコ。
凄いところだね、日本で一番やばいところじゃない?
なんかさ、真昼間から警察署のまん前でも麻薬を売ってるようなところさ。

ドヤに泊まってさ。酷いところさ。
部屋で寝ているだけで、身包み剥がれちまうような。
だが、居心地は悪くなかった。
本当に、他人には関係を持ちたがらない場所だったからね。

この不況だから、毎日のように、余所からあの街に行くんだ。
だから寝床の確保も結構熾烈だったな。
で、お決まりのように。毎日、あそこでは人が死んでいくんだ。
あぁ?フツウに、路上で。

「高田隆名義で土木会社に従業員として働いていた?」
大川は、捜査資料から得た情報を提示した。
すると一之瀬は、感心そうに情報の書かれた書類に目を通した。

そぅか、たいしたもんだよ。
なるほど「高田隆」って名前で捜査したんだな。
いまさらだが・・その名前には、なんの意味も無い。
だって、今のオレは。オレはさ。
当時の顔じゃない、傷ッツラだったんだから。

住み込みの土方さ。
寮があって、そう畳三畳ほどの狭い部屋でさ。
週に6 日働いた。働きやすかったこともあってね。
整形の手術代欲しさにね。
だから、1 年ぐらい居たんじゃないかな。

だが結局、その整形外科は・・みつからなかった。
昼飯代以外は何もカネを使わなかったから
手術代はできたのにさ。

それにさ、関西弁って・・きついんだよね。
耳についちゃってさ。精神的に参っちゃった。
で、東京に舞い戻ったのさ。

あ、学生の頃、まわりに劇団員みたいのがいて。
あいつら、自分らの劇の公演をするんだって、妙に熱い奴らでさ。
正直、近くにいると暑苦しくて困るんだけど付き合えばイイヤツばかりだった。
あ、オレ。オレはさ、学生時代はバンドやってたんだ。
で、それまで行ったことはなかったが、下北沢あたりに行ってみた。

そうするとさ。路地裏の小汚い喫茶店みたいなところでさ。
そういう奴らがたむろしていたんだよな。
そしたらさ、やっぱり貧乏なんだよな、劇団員ってさ。
青っ白い顔したヤツがさ。

どうも聞いてると演習家志望の学生らしいんだが。
舞台の費用を作るんで、血を売っているらしいんだな。
大昔の話だろ、とか思うなよな。

これだけの不景気なんだ。そういうヤツも出てくるさ。
そいつにさ。なんか大学の助手みたいな・・白衣着ていたから
あの辺の大学じゃないかなって。

なんか、迫っているんだよな、決断しろよって感じで。
そしたら白衣のヤツが、指を3本立ててさ。
即座にそれが30 万じゃなくて300 万であることは察しがついた。
そして、それが単なる売血でないことも。

11 二日目 #3

一之瀬は得意気に、ほくそ笑んで見せた。

で、白衣のヤツの跡をつけたんだ。
そしたら、北沢大学に入っていったんで、オレもついていった。
で、研究室の前で、呼び止めた。
どうしても金が要るんで、実験台になるよって。

話はトントン拍子に進んだな。
ヤツは北沢大学医学部の助教授で、二之宮と名乗った。
関西弁のキツイ奴で。顎の無いのっぺりした顔しててね。
前金として100 万もらった。
それで・・神戸に来いって云われて。

夜行列車乗り継いで神戸に行ったのさ。
神戸の駅降りると、二之宮の車に乗って、
山の中のヤツの別荘に向かった。
別荘につくと、随分と寂しいところで。
居たのは奴ひとりだが・・随分と豪勢なメシ食わしてもらって。
オレ、オレのさ、専用の部屋も与えられた。

ヤツが・・東京に出向くときはオレは、オレはさ。自由だった。
けど、凄い山の中だったから・・ま、幽閉されていたようなものさ。
最初の一ヶ月は、検査だのナンだの。
ま、遊びみたいなものだった。

それで・・いよいよ手術の日になった。
なんでも、顔面神経を一度全部切り離して復旧する状態を記録するらしい。
それは、それで。どうでもよかった。オレ、オレはさ。
とにかく顔の傷を消したかったんだ。

顔面の神経をさ、一本づつ切り離していくような手術は
長いこと続いたらしい。
ヤツは麻酔の腕はよかったみたいで、
闇医者のようなことはなかったよ。
ホントに憶えていないぐらいさ。
ただ、術後は長かったな。3ヶ月ほど、包帯を巻かれ続けた。
当初は、口も満足に開けられなかったからさ。
流動食だけで生きていた。

偶にヤツが帰った跡で、無性に顔が痒くなってさ。
自分で包帯を外したんだ。
術後初めてみる自分の顔を見て、気がおかしくなった。
顔が。顔全体がとろけたように、垂れ下がっていた。

で、ヤツに食って掛かったんだが。
ヤツは笑って云うんだ。
暫くすれば、顔面神経が落ち着き、元の顔に戻るって。

だが、なかなか戻ることは無かった。
それで訝しがって。
いまじゃ笑い話だがな。

オレがさ、このオレがさ。怒ったんだよ、ヤツに。
その瞬間、顔面神経に響いたんだろうな。
だらしなく垂れ下がった顔がさ。動き出したんだ。
人間怒ると、やっぱりエネルギーが出るんだよな。
そのエネルギーで、全てのオレの顔面神経に電気が走った!
そんな感覚さ。

見る見るうちにオレの顔に戻っていったんだ。
整形する前のオレの顔に。
二人して、小躍りして喜んだものさ。

でも暫くは顔面神経痛に悩まされた。
だが症状が引くと同時に、痛みも治まった。
そしたらヤツがさ。オレのさ。手配写真を見たんだろうな。
金払うの渋りやがったんだ。

だが、ここで、驚くべきことに気が付いたんだ。
オレはさ。このオレは、自分の顔面神経を自在に動かせることに
気が付いたんだ。毛穴ひとつさえもオレは自由に動かせることに気付いた。
ヤツは驚いたな。手術の失敗だって、嘆きもした。

どうやらオレはさ。新薬の人体実験のモデルをしていた際に。
ホルモンバランスを崩していたらしいんだが。
ヤツの手術と新しい薬のせいで。恐るべきというか。
喜ばしい能力を手にしたんだ。

オレはさ。このオレは。ヤツのおかげで。
顔面を自在に変形できるようになった。
怪我の功名で。ヤツの顔面神経の手術の失敗が、オレ。
このオレを自由にしてくれた。

オレの顔は、二日ほど掛ければ、キムタクにもトム・クルーズにも
お笑いタレントにもなれる。多少の痛みは伴なうが・・。

オレの喜びようは、ヤツには奇異に思えたらしいが
ヤツもたいしたもんさ。開き直りやがって。
これは整形外科の革新だ、とか抜かしやがって。
学会に発表するとか、調子こいてやがって。

だからオレはさ。オレは、二之宮になることにした。
オレは二之宮のノッペリした顔になり、大学病院で医者になった。
あぁオレさ。オレは、曲がりなりにも医学部を出てたから。
手術なんて、オレの方が巧かったみたいだな。評判良かったもん。

けど、ヒトの目に晒されるのがイヤになったんだよな。
いつまでも二之宮を閉じ込めても置けなかったし。
だから・・
「殺したのか?」
だからぁ、オレ?オレは殺してないさ。
オレはさ。ヤツの元を離れて、ドヤに戻ったのさ。
って、アイツぅ~、死んだの?

12 二日目 #4

大川は、嬉々として話し続ける一之瀬の表情を見ていた。
完全にヤツの自慢話じゃないか。
それでいい。それでいいんだが。
どう考えたって。まともな話じゃない。

自由に顔面を意のままに変えられるというのか?
で、医者の代わりに手術をした?
医師法違反?そんなことのまえに・・まともな話じゃない。
しかも、頭の変な小学生みたいな空想というよりは妄想の類。
だが、大川は深呼吸してみた。

今の自分の取るべき態度は。自分に望まれていることとは。
今の自分に望まれているのは、ヤツに多くを語らせることだ。
なにかが作用すれば、ヤツは再びダンマリを決め込むだろう。
いまさら、自分になにを望まれることは無い。
ここはこのまま、ヤツに話をさせればいい。
_どうせあと数時間で役目は終わりだ。

_ドヤの飲み屋で、飲ませて・・・。
__酔いつぶれたところをさ。そいつの顔を貰ってしまえばいいんだ。
___そいつの顔になって。そいつの振りして。そいつの女抱いて。
____そいつの金で暮らせばよかった____。


なぁ、刑事さん、ちゃんと聞いてんのかよ?


大川は擡げた頭を、ゆっくりと持ち上げた。
眠気のためにボンヤリとした頭を二度三度振ってみた。
小山は大川の態度にイラついたが、わからなくもなかった。
だが、眠気を払拭するには・・・。

小山が立ち上がって、大声で一之瀬の名を呼んだ。
「ったく手めェの、嘘っぱち聞いてりゃぁ眠くて仕方ねえんだよ!」
大川が、小山を制した。
大川も自らの眠気を恥じ、気持ちを切り替えた。

もう残り時間も少ない。
とりあえずヤツの口が開いただけでも
我々の勝利だ。最後に、ヤツに一泡吹かしてやろうか。
大川は、小山の言葉を遮った。

「んなぁ、おまえさん、ロザンナさんを愛していたって云ったよなぁ。」
あぁ、もちろん。
「じゃぁ、なんで逃げ回って、顔まで変えて。どうするつもりだったんだい?」
そりゃぁ、もちろん。ロザンナ殺したやつを見つけてって思うさ。
けど、そのまえにあんたたち警察から逃げなきゃ、
そうすることも出来ないじゃないさ。
「ロザンナさんを殺したヤツの目星ってあるのかい?」
いいや、ないけど。

小山が机を叩いて立ち上がった。
「てめえ聞いてりゃァ!いいかさっさとゲロッちまえよォ!
おまえはロザンナさんを自室に連れ込んでレイプしたんだ。
そのあと監禁して、強姦を繰り返して、
反抗したロザンナさんの首を絞めて殺したんだ。
その後、風呂場でバラバラにしようとして、脚を切り刻もうとした!
ところが、おまえはその最中に。催して・・・。違うか!」
一之瀬は失笑の後、立ち上がり、小山を床に押し倒し圧し掛かった。

いいか?最初はレイプだったかもしれんが、悦ばせてやりゃァ、
結局、女は云うこと聞くもんだぜ。
この減らず口を静かにさせるにはどんなセックスが必要なんだ、ああ?
「この変態野郎ォーッ!」
一之瀬は小山の小ぶりな胸に手を伸ばした。
刑務官たちが入って、一之瀬は取り押さえられ、留置所に戻されていった。

“ハハハハ!強がって見せても只のオンナだよなァーっ!
ひょっとして男を知らないのか?
はァ~?
ひょっとして、昔、レイプでもされてビビッてんじゃねぇのかぁッ?
それとも、廻されたか?どこだ?公園か?公衆便所か_?
ありがちなハナシだよなぁ~、女西部警察!“

廊下を引きずられながら、喚き散らす一之瀬の罵声が響いたが
刑務官によって口を塞がれたのだろう。
聞こえなくなった。

「大丈夫か?」
大川は小山を気遣ったが、小山は毅然とした表情を取り戻した。
「すいません、迂闊でした。」
しかし、小山は、緊張の糸がほぐれたのか、泣き出した。
「もう忘れよ、これで、終わりだ。」
大川は、帰り支度を始めた。
小山は頷いた。

「もうたくさんだ、帰ろう!」

ふたりは捜査本部の一番後ろの机で捜査日誌を書き始めた。

13 二日目 #5

捜査本部は、裏付け捜査に躍起になっていた。
兵庫県警からの情報を得て、二之宮敏郎の件については、
神戸港で起きた殺人事件が浮上した。

二之宮敏郎は、全国に展開している美容整形医院チェーン
「二之宮クリニック」の創設者である二之宮芳郎氏の御曹司で、
北沢大学の医学部で講師としても働いていた。
自宅は東京都杉並区にあったが、生まれは神戸で、別荘が2 件ほど
持っていたらしい。

「二之宮クリニック」は、レーザー治療と法外な保険外診療で
社会問題となっていたが、二之宮敏郎は経営に参画することなく
創業者一族として利益だけを享受していた。

先の「二之宮クリニック」の件とは別に、二之宮敏郎自身は
優秀な整形外科医として知られ患者からの信用も厚かった、
とされている。だが、ある頃からか手術後の処置が甘くなり、
医療事故として報告されることが多くなり、訴訟となった。

そんな矢先、神戸港に外国車ごと海に転落する事故があり
引き上げてみると、運転席には顔をガソリンか何かで
焼かれた死体が乗せられていた。

その死体が車の持ち主である二之宮敏郎であることは
すぐに解ったが、その後、キャッシュカードで現金を引き出す
二之宮の姿がコンビニのCD機に搭載された監視カメラに映し出されている
のがわかったため、捜査は続行中だが迷宮入りとなった。

また、二ノ宮の所有していた六甲山中の別荘は
時を前後して火災にあい、消失した。
ネットなどでは、この事件は都市伝説化していた。
無責任なネット上の掲示板には二ノ宮の姿を
大阪あいりん地区で見た、などの書き込みが複数あった。
しかし、何らの根拠も無いため黙殺されていた。

捜査内容を事細かに詳らくことも無かったが
大阪府警は、あいりん地区での顔面を潰された連続殺人事件に
ついての情報を送ってきた。身元のわからないまま
顔面を叩き潰された男の遺体が数体あがったというのだが
これらの事件も迷宮入りしていた。

「そんな馬鹿な・・。」
大川は一之瀬の語るような野暮な出鱈目が、
まるで真実味を帯びてゆくのに寧ろ笑いが込み上げた。

捜査資料の裏に添付された遺体の写真は顔が真っ黒に炭化しており
さらに驚いたのが、二之宮敏郎の生前の写真だった。
それは一之瀬の今の顔とも異なっていた。
のっぺりとした顎の無い男の顔が写っていたのだ。

いったい、どうなってんだい?
大川は常識もなにもない、なにかとんでもないものに
巻き込まれていくような気分になった。
じゃ、今の顔は・・誰の顔よ?

大川も小山もは正直乗り気ではなかったが、上層部はこの二人の
続投を求めたため、拘置所近くのホテルに泊められた。
大川は小山を励ます意味で上大岡の駅前の飲み屋に誘ったが
小山は断り、ホテルの部屋に篭った。
仕方なしに大川もホテルの部屋で、缶ビールを二本開け
崎陽軒のシュウマイをパクつき、横になった。

下巻につづく

強姦・殺人・遺体損壊事件の容疑者、一之瀬克也と
「望まれない」取調べ係のコンビ大川・小山の取調べは
いよいよ佳境へ!
想像もしえない驚愕の結末へ!

(こんなに煽っていいのか!)
不肖・平岩の贈るニュー・ジャンル・サスペンス!
(云うことばっかりカッコいいなぁ!)

顔 (上巻)

上巻、お読みいただきありがとうございます。
下巻では、さらに不可解な謎が、更なる謎を呼び、予想もしえないラストに向かいます!

顔 (上巻)

強姦・殺人・遺体損壊事件の容疑者、一之瀬克也の逮捕から数日が経過したが 黙秘を続ける一之瀬に捜査陣は苛立ちを感じ始めていた。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-10-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 顛末
  2. 2 概要
  3. 3 取調べ担当
  4. 4 初日 #1
  5. 5 初日 #2
  6. 6 初日 #3
  7. 7 初日 #4
  8. 8 初日 #5
  9. 9 二日目 #1
  10. 10 二日目 #2
  11. 11 二日目 #3
  12. 12 二日目 #4
  13. 13 二日目 #5
  14. 下巻につづく