野分風 (3)
アパートに戻った。えりは、同じ場所にいた。今度は、おれは、何も言わずえりの横を通って、荒っぽく階段を上った。お互い、無視し合った。
ドアを閉めたら、ようやく静かになった。ドアを閉めただけで、嵐は、深い、海の底の出来事のように、おれを、少しだけ興奮させる、根本的には、おれと、無関係なものとなった。そうだ、今のおれと、この嵐は、全然、無関係だ。海の底は、むしろ、この部屋の方かもしれない。
ほっ、とした。
古い皮膚を剥ぎ取るように、濡れた衣服を乱暴に脱いで、洗濯機に突っ込んだ。バスタオルで全身をがしがし拭いて、そのバスタオルも放って、全裸のまま麦茶を飲んで、全裸のまま、冷たいフローリングの廊下に、バタンと仰向けに寝転んだら、天井に、初めて、昇り龍みたいなシミを見付けた。階下のえりの部屋を思った。
向こうにもシミくらいあるやろな。
えりの夫婦が、初めて引っ越しの挨拶に来た時のことが、さっ、と思い出された。えりは、きっと最初は、今よりずっと、明るかったはずだけど、それが、あんまり思い出せない。おれの、思い出すえりは、いつも、ちょっと暗い。
雨がざあっと、窓を撫でた。えりが濡れてるなと思ったら、なんか、急に、たまんなくなってきて、横になって、体を丸めた。
台風9号。ひとは、台風に番号をふって、少し、管理した気分になるけど、台風って本当は、神様のことじゃあないかしら。
いつの間にか、眠っていた。
自分の、があがあ言うイビキに驚き目を覚ました。薄暗かった。あー生きてる、何故だかそう思った。途端に体を震わした。寒い。裸で眠っていたのを、思い出した。お腹にまで、鳥肌が立ったていた。立って電気をつけた。正午。
相変わらず外は嵐で、正午と思えないくらい暗かった。まだ夢の中にいるようであった。
寒くて、あほらしくなった。熱いシャワーを浴びて服を着た。頭の奥が、ずんずん痛んだ。カップラーメンを作るのも大義で、ポテトチップスを2、3回、がらがら口に流し込んでばりばり噛んだ。むなしいの味がした。それから、薬を飲んで、今度は、布団で寝た。風邪を引いたかもしれない。
目が覚めたら、今度こそ夜。真っ暗だった。薬の眠りから覚めて、頭はぼんやりしていたが、体は軽かった。電気をつけて、テレビをつけて、6時少し前、気象予報士は、台風は、明日の昼頃、最も接近すると告げている。まだ強なるんかあ。カップラーメンをすすりながら、窓の外を見た。見えない風が、飽きもせず窓をがたがた揺らしていた。
ふと、もしかして、と思った。いや、まさか。でも、ひょっとすると。
居てもたってもいられなくなって、部屋を飛び出した。階段の下に、人影が見えた。おれは急いで階段を降りて、えりの肩を掴んだ。
「おい、な、何してんねん、お前。た、た、台風やぞ」
振り返ったえりの顔は、意外にも、疲れていなかったが、体は目に見える程、震えていた。
「ああ。やっぱ台風なんだ、これ」
えりは、笑った。
野分風 (3)