未知なる恐怖
三年くらい前に書いた作品です。
なので、出てくる携帯電話はスマートフォンじゃありません(笑)
白い壁。
白い天井。
白いベッド。
その病室は、必要以上に広くも狭くもない、完全なまでに機能的な面積を保っていた。
あらゆる医療機材が整然と並べられ、心電図と脈拍計が、ピッピッ、と静かに鳴っている。まるで、その白いベッドに横たわっている者の命の時間を刻む秒針のように……
I・C・U(集中治療室)と名付けられた隔離病室。
倉本雅也は、呼吸器を付けながらも苦しそうな息遣いをしていた。
雅也は感じていた。
ついこの前まで、生気に満ち溢れていた二十代のこの体が、刻々と衰えてゆくのを……
不意に、入り口の自動ドアが開き、七人ほどの人間が入ってきた。その者たちは、雅也の治療に当たる医師団であったが、彼等の姿は、医師と言うよりも何らかの汚染地域処理班と言った方が合っていた。彼らは皆、完全防備の防護服に身を包んでいるのだ。
「具合はいかがですか?」
中心に立つ一人の医師が雅也に声を掛けた。
しわがれた声。
防護マスクで顔は隠れていたが、それなりの歳と分かる。
この大学病院の院長であった。
「相変わらずです……」
雅也は、弱々しく答えながら愛想笑いを浮かべた。
「それでは、診察を始めます」
しわがれた声が言うと同時に、後ろに控えていた内の一人が、何も言わず、作業的に雅也の布団をはいだ。
布団の下からは、あらゆる計器類の配線と点滴の管を生やした雅也の体が現れた。そこから更に、頭や喉にまで配線を生やされ、実験動物さながらの診察は始まった。
「心音、脈拍、共に異常ありません」
「脳波も問題無しです」
「呼吸に多少の乱れはありますが、問題のあるレベルではありません」
医師達は、淡々と院長に報告をする。
「採血も忘れないように」
院長は、ジッと雅也の体を見据えながら無感情に指示を出す。
その指示通り、一人の医師が、やはり作業的に採血の準備を始めた。
無言のまま、雅也の腕にゴムバンドを巻き、無言のまま、浮き出た青い血管に注射針を刺し入れる。濃い赤色の血液が、誘い込まれる魚のように注射器の中に流れ込んでゆく。
しかし、雅也の顔がその痛み歪む事は無かった。白い天井を、静かに見詰めていた。
――なぜ、こんな事になってしまったのだろう…?
ついこの前まで、同僚と飲みながら仕事の愚痴を言い合ったり、休日には競馬の予想を立てたり、彼女との結婚を考えたり、まだ出来てもいない子供の名前をつい考えてしまったりと、何でもない日常を送っていた自分がどうして……
気が付けばこの病室で、迫り来る死という未知なる恐怖に戦慄する毎日。
未だに頭の中はグチャグチャ――
涙も出なかった。
そんな雅也の視線は、ふと、この病室に一つだけあるはめ殺しの小さな窓に向けられた。
かげり一つ見えない澄み切った青は、その小さな窓に敷き詰められていた。
――やっぱり、東京の空は夏より冬の方が綺麗だな……
雅也は、この病院に入る一ヶ月前、自分のアパートの窓から見た空を思い出していた。
〈一ヶ月前〉
かげり一つ見えない澄み切った青は、倉本雅也が住むアパートの小さな素通しのガラス窓に敷き詰められていた。
「やっぱり、東京の空は夏より冬の方が綺麗だな……」
雅也は、布団から起こした体を北海道の実家から送ってきた青い半てんで包むと、ふと、窓を眺めてそんな独り言を呟いた。
と、いかにも病的なかすれた咳を苦しそうに吐き出す。
しかし、ただの風邪である。少なくとも、近所の内科医が言うには……
不意に、ピピッ、という電子音が鳴り、雅也は脇の下に手を差し入れる。取り出した電子体温計は、38・5、という数字を映し出していた。
「まいったな、全然下がらないや……」
雅也は、うっとうしいくらいの落ち込みようで、溜め息交じりにそう呟く。
だが、それも仕方のない事であった。
雅也の体温は、ここ一週間くらい七度から八度を行ったり来たりしていたのだから。
当然、会社は休みっぱなしである。何度か無理して仕事に行こうとしたが、熱のせいでどうしても四肢に力が入らない。彼の仕事がデスクワークならまだ何とかなったのだろうが、不幸な事に彼の仕事は配送ドライバーであった。
『会社としては、病気の人間に運転させるわけにはいかないから、ゆっくり休め。有給使っていいから』
上司にはそう言われたが、その有給も底を尽きようとしていた。
「ホントまいった……」
ついでに言えば、近所の内科医から出された薬も底を尽きようとしていた。
医者から出された薬を一週間飲み続けても治らない風邪など生まれて始めてだった。
雅也は、再び深く溜め息をつく。
と、同時に玄関のドアが開かれた。
「マーくん、おかゆの材料買ってきたよ」
声を上げながら部屋に入ってきたのは、上京してから出会った三つ下の恋人、野田茜であった。彼女は美容師の専門学校に通っていたが、一向に熱の下がらない雅也を心配して、ここ三日は雅也に朝から付きっ切りであった。
「ちょっとは熱下がった?」
言いながら茜は、買い物袋を台所に置き、それから雅也の横に座って心配そうな顔を見せる。
雅也は、うつむいたまま首を横に振った。
茜も、雅也と同じような深い溜め息をつくと、その溜め息と共に言うのだった。
「ねえ、やっぱり、どこか大きな病院で診てもらった方がいいよ。一週間も熱が下がらないなんて、絶対おかしいって」
「そうだな。あの先生、評判は良いんだけどな……」
あの先生、とは最初に診てもらった近所で開業している内科医の事である。そう、確かに評判はいいのだ。ただし、それは医者としてではなく、人柄の話であった。
「きちんと検査した方がいいのかな……」
「うん、そうしようよ」
茜は、笑顔で答えて立ち上がり、
「急いでおかゆ作るから、それ食べたら行こう。アタシ、いい大学病院知ってんだ」
そう言いながら台所へと向かった。
そんな茜の後ろ姿を、雅也は笑顔で見詰めていた。こんな恋人との幸せなやり取りが、今日を境に追憶に変わってしまうなど夢にも思わずに……
〈病室〉
「少しは、良くなってますか…?」
動物実験さながらの診察を受けながら、雅也は院長に小さく口を開いた。だが、返してきた言葉はいつも通り。もう何十回と聞いた言葉だった。
「まだ、ハッキリとは言えませんね」
無表情のままの雅也。視線も、心も、まるで別の場所を見ているかのよう……
院長は、静かに雅也に告げる。
「アナタの病気は血液の中にありますので、明日から人工透析を行ってみます。辛い治療ですが我々も全力を尽くしますので」
――気休めだろうな……
そんな思いが、思わず口をつきそうになる。
防護マスクのせいで表情は見えないまでも、声色からそれは『決定打になる治療ではない』という事が分かったからだ。
全ての診察が終わり、院長を先頭に無言で医師団は病室から退室を始めた。
と、その時だった。雅也は、何かを思い立ったような顔をして、自ら呼吸器を外し、院長を呼び止めた。
「あの、院長先生」
「なにか?」
「あの、この病室で携帯電話って――やっぱりマズイですかね…?」
恐る恐る訊いた言葉だったが、院長が雅也に返した言葉は、怪訝そうながらも、それとは別のものだった。
「別にかまいませんが、外との連絡でしたらこちらでやりますよ」
「いえ、そういう訳じゃないんです。ただ、自分が世話になった人達に自分で連絡が取りたくなって……」
「まさか、懇情の別れを、何て気じゃないでしょうね? 気をしっかり持ちなさい」
雅也は何も答えず、薄い笑みだけを返した。
「……それじゃあ、茜との連絡、頼みます。俺のケータイを持ってきてくれと伝えてください」
「わかりました。直ぐに連絡を取って伝えましょう」
そうして、院長達医師団は退室していった。
ただ、院長には一抹の不安があった。それは、雅也が自殺を図るのではないのかと……
〈再び一ヶ月前〉
「病院の中でケータイなんていいのか?」
向かった大学病院で、雅也は、内科の看護士に検尿を採ってくるように言われた。そうして戻ってみると、茜は携帯電話で友達にメールを打っていたのだった。
「どこにも、ケータイ禁止、て書いてないから大丈夫だよ」
茜は、笑いながら答える。
確かに、昨今の医療機材は携帯電話の電波程度でどうにかなるようなものなど、ほとんど無く、この大学病院は最新の物を揃えていた為『携帯電話禁止』の張り紙など何処にも無かった。
「それにしたってマナーだろ」
雅也は、少し怒った顔を見せる。
しかし、茜は子供のように口を尖らすのだった。
「だって、この病院、有名なのはいいけど、待ち時間が長くってさあ――」
それは、人でごった返すロビーを見れば一目瞭然であった。
「――ケータイでもいじってないとヒマでヒマで……」
「お前は、そうじゃなくても、いつもケータイいじってんじゃねえか……」
ストラップを七夕の飾りのようにジャラジャラとぶら下げ、半年に一度は買え変えている茜の最新型の携帯電話を見詰めながら雅也は、怒った顔を苦笑に変えた。
そんな雅也の苦笑に茜は、また子供のように、ヘヘっ、と笑うのだった。
だが、茜がヒマつぶしに打ち始めたメールは、送信される間も無く、すぐに雅也は呼ばれたのであった。
「倉本さん、二番診察室にどうぞ」
「随分早いな? 俺の前に何人も居るのに」
「ねえ、嫌な予感するんだけど……」
「大丈夫だよ」
笑顔でそう答えたものの、やはり雅也は不安を拭いきれなかった。
そして、その不安は現実のものとなる。
診察室に入るなり、雅也は分厚いマスクを看護士から手渡された。雅也の目の前に座っている銀縁の眼鏡を掛けた四十代位の白衣の内科医は、落ち着いた口調ながらも、手をそわそわと動かし、どこか動揺した様子で言うのだった。
「倉本さん、検査の結果、貴方の尿からはウイルスが発見されました――いや、心配する事はないんですが、その、院内感染を防ぐ為にマスクをしてもらいました。なるべく咳も我慢してください」
「ただの風邪じゃないんですか?」
「それを今から検査しますので……」
そう答えながら、医者は雅也の服の上から聴診器を当てた。
どこか恐る恐る……
それからレントゲンを撮られ、CTスキャン、その間に唾液検査、血液検査までさせられ、全ての検査が終わったのは夕方の五時手前だった。
オレンジ色の夕陽が差し込む診察室で、雅也が医者から聞いた言葉は、入院の二文字であった。
「そ、そんなに悪いんですか…?」
「今はまだ何とも言えませんが、早期の治療が必要なのは確かです。病室の方は既に用意してありますので、倉本さんには直ぐに入ってもらいます。入院の手続きや着替えなどは、ご家族の方にしてもらってください」
半ば強制的な医者の口調に雅也は訳が分からず、ただ頷く事しか出来なかった。
とりあえず雅也は、ロビーで待っていた茜に事情を話した。
茜も雅也同様、訳が分からないまま、とりあえず雅也のアパートに戻って入院の準備をする。
そうして、病院に戻った茜は、看護士に案内された雅也の病室に我が目を疑うのだった。
そこはI・C・U(集中治療室)だった。
入り口の前には、数人の医師が難しい顔をして立っていた。それが目に止まるや否や、案内する看護士を追い越して茜は、その医師達に駆け寄った。
「こんな所に入らなきゃいけないくらいマーくんは悪いんですか!」
茜の様子に困惑の色を見せながらも、集まっていた医師達の一人が口を開いた。
「君は、倉本雅也さんの親族かな…?」
「まだ親族じゃありませんが、彼女です」
茜がそう答えると、
「そうでしたか……」
と、一番老齢の医師が口を開いた。
「私は院長の加納です。それで、倉本さんのご家族は?」
「ここに戻る時に連絡はしましたけど、マーくんの実家は北海道だから――でも、明日には来ると言ってました。それよりマーくんは…!」
院長は、少し迷った顔を見せつつも、
「こちらへ……」
と、茜をI・C・Uの中へと案内した。
黄色の文字で『I・C・U』と書かれた白い両開きの自動扉をくぐると、そこは二部屋に分かれていた。
入ってすぐの部屋は、待合室のようになっていて、椅子や小さなソファ、テーブルの上にはコップと水の入ったガラスのポットが置かれていた。そこから奥の部屋が、治療室になっているようだった。
治療室への入り口は、窓の付いた片開きの自動ドアになっていたが、それは二重扉になっており、扉と扉の間は少し広く作られていた。窓からは赤い光が見え、自動ドアの横には『入退室時には必ず一分以上滅菌してください』という張り紙がしてあった。
I・C・Uという響きに、ただでさえ動揺していた茜に、このただ事ではない雰囲気の病室は茜の動揺を更に掻き立てた。
「マーくん! マーくん!」
茜は、半狂乱になって治療室に飛び込もうとする。
そこを、咄嗟に医師達が取り押さえた。
「落ち着いて、落ち着いてください!」
「大丈夫!、今すぐどうこうなる病気じゃないから!」
「でも! でも!」
髪を振り乱して取り乱す茜の前に、院長はスッと前に立ち、静かに言った。
「面会をするのに問題はありません。ただし、その前に聞いてもらわなければいけない大事なお話があります」
「大事な話…?」
茜は動きを止め、不安な色を瞳一杯にたたえながら院長の目を見詰めた。
白衣姿の院長は、腰の後ろで手を組み、相変わらず物腰の静かな態度で言った。
「その前に、まだ名前を伺ってませんでしたね」
「野田です……野田茜って言います」
「では野田さん、落ち着いて聞いてください。そして、今からする話は決して他人に漏らさないで下さい。いいですね?」
茜は、コクンと頷いた。
「難しい話は抜きにして率直に言います。本日の検査の結果、倉本雅也さんの体内からは、新種のウイルスが発見されました」
「新種…?」
「未だ人類が出会った事の無いウイルスです。突然変異体とでも言いましょうか……初めは、重症急性呼吸器症候群、いわゆるSARSかと思い検査を進めたのですが、それとは違うという事は直ぐに分かりました。何故なら――我々も信じ難い事なのですが、彼の中の新ウイルスは常に姿を変えるのです。それ自体はHIVと似ているのですが、そのスピードはHIVの非ではありません。それは、進化と言ってもいいかもしれません……」
返す言葉無く、茜はただ絶句していた。
「この話は、本来であれば彼の両親が来てからしようと思っていたのですが、野田さんには特に重要な事になりますのでお話しました。何故重要なのかは、分かりますね?」
「つまり、アタシも…?」
「そうです。貴方は倉本さんともっとも長く深く接触しています。直ぐに検査を受けてもらいます」
「わかりました……」
また取り乱すのではないのかと心配した院長であったが、意外にも茜は落ち着いた様子を見せていた。
茜は、静かに言った。
「その前に、マーくんと会わせてもらいませんか?」
「構いませんが、面会するのであれば、これを着てもらいます」
そう答えながら院長は、白衣のポケットから小さな鍵を取り出し、それを壁に埋め込まれた観音開きの戸の鍵穴に刺し込んで開けた。
と、洋服タンスのような中には、何着もの防護服が用意されていた。
「こんな物を着なければ、マーくんとは会えないんですか…?」
「申し訳ありませんが、感染拡大を防ぐ為です。倉本さんには既に全てを話してあり、病気の事も全て理解してもらっています」
「そうですか……」
茜は、静かな足取りで防護服の方へと向かった。
治療室の雅也は落ち着いていた。話を聞かされても未だ実感が沸かないようであった。治療と言っても、まだ点滴しか打たれていなかった為であろう。そんな雅也は、院長の付き添いの下、
「マーくん…」
と、恐る恐る呼び掛けながら入ってきた防護服姿の茜を見て、
「すげぇ格好だなぁ」
と、笑ってみせた。
茜は、防護マスクの内側で優しく微笑んでいた。
明日両親が来る事や、病気の事は伏せて会社には連絡しておく事などを話した後、茜は院長に検査を急かされ、すぐに病室を出さされる事となった。
だが、幸いにも感染はしていなかった。
翌日、予定通り茜の案内で空港から病院にやってきた雅也の両親は、すぐに院長から話を聞かされた後、息子と面会を果たした。
母親は、防護服を着させられた時点で号泣した。
同日、厚生省の役人と国立感染症研究所の所員が雅也と面会をした。雅也は、病院を移動するのかと思ったが、
「このICUはバイオセーフティ構造になっているから移動する必要はありません」
と、所員から告げられた。
言うまでもなく、ヘタに外に出したくない、というのが厚生省と国立感染症研究所の本音であった。
こうして、世間の混乱を防ぐ為、雅也の治療と研究は秘密裏に行われた。
……いや、行われるはずだった。
『ヘタに外に出したくない』という本音が裏目に出たのだ。
大学病院と言っても、そこは一般の私立病院である。情報は直ぐに漏れ、噂は駆け巡り、それがマスコミの耳に入るまでには二日と掛からなかった。もちろん、厚生省も各報道機関に報道を控えるよう指示は出したが、人の口に栓は出来ぬ、という言葉通り、無駄だった。
一部の報道機関が、雅也の病気をセンセーショナルに書き立ててしまったのだった。それは、予想以上に人々の混乱を招き、全国の病院は検査を求める人々でごった返した。
政府は対応に追われ、雅也が入院している大学病院にも、連日マスコミが押し寄せた。
ついには、雅也の病気はインターネットを通じ、日本のみならず世界中の人間に知られる事となった。
『関係者筋からの情報に寄ると、この新種ウイルスは十分から一時間毎に進化を続けていると言う。つまり、どんなワクチンを開発しても、すぐに適応してしまう為、開発は不可能という事である。この進化は、人間の体を地球に置き換えたのなら、人間の進化に酷似しているとも、関係者は言う。もしかしたら、このウイルスは、あらゆる生物を凌駕して進化を続け、地球を破壊してきた人間に対する神が与えた罰なのかもしれない』
インターネットに掲載されたこの記事に、この未知なる恐怖に、世界は戦慄した。
〈再び病室〉
院長は、雅也に言った言葉通り、すぐに茜に連絡をしたらしく、茜は一時間もしないうちに病室にやってきた。
「ご注文の携帯電話でーす」
滅菌室を通り、嬉しそうな声でふざけながら病室に入ってくる茜。
だが、その姿に雅也は呼吸器を外して飛び起きた。
「お前、防護服!」
茜は、そのままの格好で病室に入ってきたのだった。しかし、茜は笑いながら言った。
「いいよ、あんなの着なくても」
笑顔のまま茜は、嬉しそうに雅也に携帯電話を見せた。
「それより見て見て、マーくんが欲しがってたクロムハーツのストラップ。高かったんだから、無くしちゃヤダよ。でもね、ホントはケータイも買い換えてあげようと思ったんだ。だってマーくんのケータイ、もう二世代も前のやつだしさぁ。でも、こればっかりはやっぱり本人が居ないとダメなんだって。アタシ、お店で説明したんだけど――」
「茜!」
雅也は、茜を睨みつけた。
「いいから、直ぐに防護服着てこい」
だが、茜は子供のように口を尖らすのだった。
「アレ、一人じゃ着れないもん……鍵だって閉まってるし……」
「院長先生に連絡すればいいだろ」
「………………」
「防護服無しで入ってくるなんて、お前一体何考えて――」
「感染したっていいもん!」
茜は声を張り上げた。それから、感極まったようにボロボロと涙を流し、雅也のベッドに駆け寄って胸に泣きついたのだった。
「感染したっていいよ。いっその事、うつしてよ……」
「そんな……そんなこと……」
「アタシ、あの服着させられた時から、ずっと考えてたんだ。いつかこうしようって。あんな物を着なきゃマーくんと会えないくらいなら、どうだっていい。いっその事、同じ病気になっちゃえばマーくんと離れずに済むって……」
「俺は、お前にもしもの事があったら……」
すると、茜は涙でクシャクシャになった顔を上げ、強く言うのだった。
「アタシは、マーくんが居なくなった時の事を考えられない…!」
抱き締めたかった。
抱き締めて、その唇に強くキスしたかった。
だが、そんな事をすれば本当に病気が感染してしまうかもしれない。そんな歯がゆい思いに、雅也は胸を引き裂かれるようだった。
唇を噛み締める雅也。
――その時だった。
茜は、雅也の首に腕を絡めてキスをした。
雅也は、引き剥がそうとした。
が、駄目だった。
誰よりも愛しく思っていた女性の温もりに逆らう事など、出来はしなかった。
キスをしながら、雅也はボロボロと涙を流した。それに気付いた茜が唇を離すと、雅也は、悲痛な声を上げるのだった。
「死にたくないよ。茜、俺、死にたくないよ……」
この部屋に入って、初めて流した涙だった。
子供のように泣きじゃくる雅也を、茜もまた泣きながら、その胸に強く抱き締めた。
二人の嗚咽が収まった頃、かげり一つ無い澄み切った青を映し出していた病室の窓は、オレンジ色に変わっていた。
「綺麗だね。前に横浜に遊び行った時も、帰りの電車の中でこんな空見たよね」
茜は、雅也のベッドに腰掛け、遠い目でそんな事を何十年も前の思い出話のように語った。
雅也も、
「そうだな……」
と、何十年も前の事のように遠い目で答える。
と、茜は、悪戯な笑みで言った。
「ねえ、今から行っちゃおうか?」
だが、雅也は苦笑を浮かべる。
「他の人に迷惑はかけられないよ。それに、俺がここから抜け出したりしたら、日本中が大騒ぎになっちまう」
「その割には、病室の前には誰も居なかったよ…?」
「ここには院長だって特別な用事がない限り近づかないからな。みんな俺の病気が怖いんだよ。だから俺の飯は仕方なく院長が持ってくるんだ。不治の病だって言うのに偉くなった気分だよ」
雅也は小さく笑いながら言ったが、逆に茜は心配そうな顔をしたのだった。
「でも、それじゃあ、マーくんに何かあった時はどうするの?」
「それは、あそこで確認してるんだよ」
雅也は、そう答えながら天井に張り付いている半円形の物体を指し示した。
「あれがカメラらしいよ。あれで俺の容態を確認してるらしいけど、四六時中見てるわけでもないみたいだよ。ちょくちょくは確認してるんだろうけど」
「その割には、アタシのこと誰も止めに来ないよね。バカはほっとけ、とか思われてんのかな?」
「そうかもな」
「でも、これじゃあ、エッチ出来ないね」
「バカ」
雅也は、呆れた顔で笑った。
茜も照れ笑いを浮かべながら笑った。
――こんな時間も、これで最後だろう……
雅也は、死ぬよりも辛い思いに、胸を締め付けられた。
院長の不安通り、雅也は自ら命を絶つつもりだった。
両親や会社の上司、同僚、幼馴染みに電話をした後、病室を抜け出して飛び降りるつもりだった。
――屋上が駄目だったら、その下の階の窓から飛び降りればいい。この病院は七階建てだ、死ぬには充分の高さだ……
そう思っていた。
しかし、茜と会って気が変わった。
最後は、笑って迎えようと。
茜が、たとえ何があってもこの病室を動く気が無いのは判っていた。だが、力ずくでも出すつもりだった。やはり、茜を巻き込むわけにはいかない。
幸い自分の病気は感染力がそんなに無い事を雅也は知っていた。茜が検査された時に、雅也はそれを院長から聞かされていたのだった。三日も自分と一緒に居て感染しなかったのだから、きっと茜は大丈夫だろう、と。
――死ぬのは俺一人で充分だ…!
雅也は、渡された自分の携帯電話のストラップを強く握り締めた。
と、突然、携帯電話が着信ベルを鳴らした。
「誰だ、この番号…?」
雅也は、不思議そうに携帯電話のディスプレイに映し出された見慣れない番号を見詰める。
と、横から覗き込んでいた茜が同時に声を上げた。
「あっ、これって、この前からずっと掛かってた番号だ」
「出なかったのか?」
「うん、留守電になっても何も言わないから、セールスとかかと思って……」
そう言われたが、雅也は何となく出てみた。
出ると同時に、受話器の向こう側からは、何処かで聞き覚えのある声が聞こえた。
「ああっ! やっと出た。倉本さんかい?」
「は、はい…」
「僕だよ。猪田医院の猪田だよ」
雅也は思わず、あっ、と声を上げる。あの最初に訪れた人柄だけは評判のいい、町の内科開業医の猪田医師であった。雅也の心境など知る由も無い猪田医師は、評判通りの愛想のいい明るい声を出し続けた。
「いやぁ、久し振りだね」
「はあ……」
「この前から電話してたのに全然出ないから心配したよ。留守電は、どうも緊張しちゃって駄目なんだ、ハハハ」
「はあ……」
「それで、電話したのは他でもなく君の風邪に関してなんだがね。ちょっと、こじれそうだったから、もう一度診たいと思って予約を入れといたんだ。だけど、君が一向に来ないもんだから心配になってね」
「そうか、先生が知るはずもないですよね。さすがに俺の名前は公表されてないし……」
「何を言ってるかよく分からないが――どうした? やっぱり、肺炎までこじらせちゃったかな…?」
「それぐらいなら良かったんですけど――最近話題になってる未知のウイルス、先生ならご存知ですよね? あれの患者、実は俺なんですよ……」
受話器の向こうがシンとなった。
――驚いて声も出ないか……そりゃそうだよな……
と、思った矢先、突然、受話器の向こう側から大笑いする声が聞こえた。雅也は何かと思ったが、その前に猪田医師の声が聞こえた。
「いやいや、申し訳ない、笑ったりなんかして。まさかとは思ってたんだが、本当に君だったとは。なら、こんなコッケイな話はない」
「ど、どういう事でしょう…?」
訳が分からないまま雅也がやっとの思いで出したその問いに、猪田医師は、未だ笑いを堪えきれない、といった風に答えるのだった。
「君の体のウイルスね、実は僕も気付いてたんだよ。尿の中から随分と面白い風邪菌が出てきたなと思ってね」
「風邪…?」
「そうだよ。ウイルスは新種だが、ただの風邪だ。ほっといていいってもんでもないが、重病なんて言えるもんじゃない」
「で、でも…!」
「まあ聞きなさい。あのウイルスに気付いた僕は、直ぐに出身大学で助教授をやってる医学部の後輩に連絡を取り、研究所を借りて実験を始めたんだよ。マウスを使った臨床実験だ。まあ、有意義な実験だったよ。マウスの体の中でどんどんあのウイルスは進化してゆくんだから、見てて非常に面白かったね。そして、最後には死滅してしまった。マウスの方は記念にもらってきたんだが、私の家で今もピンピンしてるよ」
絶句とは、まさにこの事だった。
だが、ここまでアッケラカンと言われると、逆に自分の『不治の病』と言うものを肯定したい気持ちで一杯になってきた。雅也は、必死になって訴えた。
「でも! 俺が入院してるこの大学病院のマウスは死んだって…!」
「風邪で死んでしまうマウスなんて珍しくもないよ。そっちがどういう臨床をしたかは分かりかねるが、僕の方は、特に丈夫そうなマウスを選んで風邪の治療をしていただけだよ」
「だ、だけど! 現に俺は今でも呼吸器を外していると苦しいし…!」
「少し気管がやられているようだったからね。でも、そこまで酷くはないはずだぞ。所詮、病は気から、と言うからね。気のせいじゃないのか?」
言われた途端、雅也は呼吸が嘘のように楽になった。
と、同時に、返す言葉が無くなった。
「その昔、人間の精子の研究が始められた頃、精子には手足や顔まであったんだよ。顕微鏡の技術が今より発達していなかった事もあるだろうが、人間の思い込みというのは時としてありえない物まで映し出すんだ。どうって事ない病を不治の病に仕立て上げてしまう事だってあるよ」
そうして猪田医師は、また大笑いした。
「まあ、君が僕の話をにわかには信じられないのも無理はないが、いずれ君の体が答えを出してくれるだろう。時期的には、そろそろ死滅する頃だろうし」
それから猪田医師は、何かを思い出したように声を上げる。
「ああっ、そうだ。君の携帯番号だけど、あれは君がうちで書いた診察申込書を見て知ったんだが、念の為に言っておくと、あれは決して他人には漏らさないから安心しなさい。医者の守秘義務というやつだ」
マイペースに、そんな今はどうでもいい話を最後に猪田医師は、それじゃあ、と電話を切った。
雅也は、ただただ呆然としていた。
終始不思議そうに電話の様子を見ていた茜に、どうしたの?、と呼び掛けられたが、やはり呆然としたままだった。
二日後、雅也の中のウイルスは死滅した。
東京の、とある下町。
木造アパートの間に挟まれた小さな内科病院。そこが猪田内科だった。
猪田内科からは、今日も地元の常連の年寄り連中と猪田医師の笑い声が聞こえていた。
「でも先生、あのウイルス騒動が治まってちょっと残念だったんじゃないの? アレのお陰であんなに繁盛してたのに」
「おばあちゃん、僕は医者だよ。患者の健康を願うのが医者の務めだよ」
常連の老婦人を診察しながら、どこか白々しくそう答える。
「それに、忙しいのは僕は嫌いなんだ」
「先生、そんなんだから出世できないのよ」
老婦人は呆れた顔を見せる。それから、ちょっと肩をすくめ、言葉を繋げた。
「でも、あの病気、結局原因は分からずじまいってのはおっかないよね……」
すると、猪田医師は、悪戯っぽい微笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、おばちゃん、もっとおっかない話を聞かせようか?」
「なに? 気味が悪いよ先生……」
「あのウイルスね、一つだけ僕は気になってる事があるんだ。それはね、あの進化の仕方が人間にそっくりだったって事だよ。あのウイルス、最後は死滅してしまったからね。それで、人間の進化は行き着くところまで行き着いているって言われているんだ。と、言う事は近いうちに人類も……」
だが、意外にも老婦人は、また呆れた顔を浮かべたのだった。
「なんだ、そんなこと……仕方がないんじゃないの? 始まりがあれば終わりがあるって言うからね」
「おっ、おばあちゃん、深い事言うなぁ」
「それよりも私が今怖いのは、自分の血圧と息子の嫁だよ。この前も、カラシ菜をちょっとつまんだだけなのに、そんなの食べたらまた血圧があがる! って怒られちゃって……」
「ハハハ、そりゃ、おばあちゃんが悪いよ」
病院とは思えないくらいの明るい猪田医師の笑い声は、今日も院内に響いていた。
了
未知なる恐怖
今回のオチは、ちょっと読まれやすかったかな……
知人に読んでもらったところ「……だと思った」と、言われてしまいました(笑)