夏の終わりの静かな風 16

 狭山さんのお姉さんが予言した通り、翌日は晴れになった。空には巨大な入道雲がもくもく広がっていて、それは僕の好きな、ほんとうに夏らしい空だった。

 父親と母親は仕事の関係で出かけることができなかったので、飛行場までは妹の運転する車に乗っていった。

 飛行場について車から降りると、涼しい風が吹きすぎていった。空港に植えられている木々の葉が風に揺れて、その風に揺れる木々の静かなざわめき聞いていると、もう夏も終わりなんだな、と、改めて実感した。

 空港のロビーでチェックインを済ませると、まだ搭乗時間までには間があったので、僕たちは空港内にあるレストランで食事をとることにした。

 まだ比較的朝の早い時間なのでレストランは空いていて、僕と妹の二人はウェイトレスの女の子に窓際の席に案内されて、向かい合わせに腰を下ろした。

 レストランの大きな窓からは、これから空に向かって飛び立とうしている飛行機や、今まさに着陸しようとしている飛行機の姿を目にすることができた。
 程なくして注文を取りに来たウェイトレスに僕はラーメンとチャーハンのセットを注文し、妹はカツカレーを注文した。

 注文した料理はすぐに運ばれてきて、僕たちはどちらかというと口数少なくその運ばれてきた料理を食べた。

「夏も終わりやね。」
 と、妹は料理を食べ終えると、お冷の入ったグラスを口元に運びながら、窓の外に視線を向けて独り言を言うように言った。僕も妹と同じように窓の外に視線を向けて、
「そうだね。」
 と、同意した。
「わたし、夏が終わってしまうと思うといつも寂しい気持ちになるっちゃわ。」
 と、妹は笑って言った。
「わかる気がするけど。」
 と、僕は妹の言葉に軽く笑って答えた。

 少しの沈黙があって、僕は窓の外の景色に視線を向けたまま、テーブルの上のお冷を取って一口飲んだ。
「・・・なんかどんどん変わっていってしまうがね。」
 と、しばらくの沈黙のあとで妹が口を開いてポツリと言った。
 僕は手にしていたお冷のグラスをテーブルの上に置くと、妹の顔に視線を戻した。

「だってよ、ほんの何年か前まではよ、わたしが車を運転して空港に来て、こうして兄ちゃんとふたりでご飯食べるなんて考えられんことやったわ。でも、今ではそれが当たり前のことになっちょかいね。それを思うと、不思議な気持ちになるね。」
「そういえばそうだよね。」
 と、僕は笑って答えた。確かにほんの何年か前まで、兄妹ふたりだけで空港に来ることなんてまず考えられないことだった。ほんの僅かな時間の間に、ずいぶん色んなことが変わってしまったんだな、と、僕はふと感じた。そしてこれからもどんどん変わっていってしまうのだろうと思った。

「兄ちゃんはこれからどんげすって?」
 と、妹はいくらか唐突に聞いてきた。
「どうするって?」
 と、僕が訊きかえすと、
「まだしばらくは小説書いていくっちゃろ?」
 と、妹は続けて言った。

「・・・うん。どうだろね。」
 と、僕は軽く眼差しを伏せて、曖昧な答え方をした。僕の心のなかでまた僕自身の弱さが身動きするのが感じられた。

今朝、空港に向かって出発する際に、父親と母親にそろそろ将来のことを真剣に考えたほうがいいんじゃないかといわれたことが、いくらか重く思い出された。確かに父親と母親の言葉にも一理あった。

「・・・わたしはもうちょっと頑張って欲しいと思うけんね。」
 と、妹は静かな口調で言った。
「せっかくここまで続けてきたっちゃかいよ、自分が納得いくまでやった方がいいと思うけんね。」
 と、妹は僕のことを励まそうとしてくれているのか、そんなことを言ってくれた。

僕は妹の言葉を否定も肯定もせずに、ただありがとうと小さく笑って答えた。
 
飛行機が空に飛び立っていく大きな音が窓の外に聞こえた。
 


 

妹とは手荷物検査の列に並んだところで別れた。妹はこれから地元の町に戻ったあと、友達と出かける予定があるようだった。
 妹がバイバイと手を振って、僕もバイバイと小さく手を振った。
 
手荷物検査を終えて空港の出発ロビー内に入ると、僕は適当に空いている席を見つけて腰を降ろした。出発時間まではまだ二十分以上もあった。

ロビー内は出張か何かでこれから出かけると思われるスーツ姿の男ひとや、子供連れの若い男女の夫婦の姿や、老夫婦や、旅行帰りと思われる、よく日焼けたした大学生ぽいひとたちの集団や、とにかく色んなひとたちがいた。そしてそれらのひとたちはみんな楽しそう笑ったり、喋ったり、あるいは忙しそうに携帯電話で誰かと話をしたりしていた。

僕だけが、ひとりぼっちで、特に何もやることもなくいるような気がした。

僕は飛行機に乗る前にケータイ電話の電源を切っておかなきゃと思って、ケータイ電話を鞄のなかから取り出した。そして電源を切ろうとしたところで、ケータイ電話に二件のメールが届いていることに気がついた。バイブの状態にしておいたので全然気がつかなかったのだ。ひとつは大久保からのもので、もうひとつは狭山さんからのものだった。

大久保はメールのなかで、この前は久しぶりに色々話ができて楽しかったと書いていた。そしてお互い色々大変だけど頑張ろうと書いていた。

 僕はその大久保のメールに対して、こっちも久しぶりに色々話せて楽しかった、大久保のおかげで前向きな気持ちになることができたとありがとうと書き、また今度宮崎に帰ってきたときはぜひ会いましょうと文章を続けてメールを送信した。

 狭山さんはメールのなかで、まず昨日突然泣き出したりしてしまってごめんと謝っていた。あのときは頭のなかが少し混乱してしまっていて、それで自分でも思いがけず泣いてしまったのだ、と、狭山さんはメールのなかで書いていた。

それから、狭山さんはお姉ちゃんのお見舞いに付き合ってくれてほんとに感謝していると続けた。お姉ちゃんも吉田くんに会えてすごく喜んでいたみたいだから、と。
 最後、狭山さんはこういう文章でメールを締めくくっていた。


 生きていると、思い通りにいかないことや、上手くいかないことがたくさんあって、ときどき哀しくなって、全てを投げたしてしまいたくなるときがあります。でも、そういうとき、わたしは楽しかったことや、いつも側にいて励ましてくれる大切なひとたちのことを思い浮かべることにしています。

そうすると、少しだけ、そんな感情がやわらぐ気がするからです。吉田くんも何か嫌なことがあったり、自信がなくなってしまいそうなときは、そうするといいんじゃないかなって思います。

きっと信じて頑張っていれば必ず良い結果が得られるはずだとわたしは思います。あるいはこれはきれいごとにすぎないのかもしれないけど、でも、それを否定してしまったら何もはじまらないと思うし、もし仮にいい結果が得られなかったとしても、とらえようによってはその上手くいかなかったことさえも、わたしたちのこの長い人生においては何かの役に立つんじゃないかなって思います。

これは誰かの受け売りだけど、人生に無駄なことなんてひとつもないと思います。少なくともわたしはその言葉を信じたいと思っています。
 
わたしはいま昨日車のなかで聞いていたエミリー・ロレンスの歌を聴いています。彼女の歌声を聞いていると心が落ち着く気がします。そしてわたしも心のなかに想像の花を咲かせようと思います。
 ケータイのメールなのにすごく長くなってしまってごめんなさい。
 PS、吉田くんの小説、わたしもお姉ちゃんもすごく楽しみにしています。では。

 

僕は狭山さんのメールを二度読み返してから、ケータイ電話の電源を落として鞄のなかにしまった。僕の乗る飛行機の搭乗案内がはじまっていて、そろそろ搭乗口にいかなければならなかった。狭山さんにはまた東京についてから改めてメールを送ろうと思った。狭山さんには僕の方からも色々伝えたいことや、感謝したいことがたくさんあった。そして狭山さんのメールは、単純に僕の心を暖めてもくれた。


 平日のせいなのか、飛行機それほど混雑していなかった。

 僕の席は通路側の席だった。

 
  僕の席から一個あけた、窓際の席に座ったのは、僕と同い年くらいの女の子だった。彼女はどことなく狭山さんに似ていた。一瞬、ほんとにとなりに狭山さんが座ったのかと思ったくらいだった。彼女の横顔は、どことなく寂しそうに映った。気を緩めると、とたんに溢れだしてしまいそうになる悲しみの感情を、彼女は必死になって気持ちの内側に押しとどめようとしているみたいに思えた。

 間もなくして飛行機は乗客全員を乗せたことを確認するとゆっくりと動き出し、滑走路に入ると、やがて空に飛び立った。

 飛行機が空に飛び立ってしまうと、僕はなんとなく窓の外の様子が気になってちらりと窓の方に視線を向けてみた。そしてその際に、となり座っている女の子の様子も一緒に視界にはいった。

 彼女は顔を心持窓の方にもたせかけるようにして、目を閉じていた。それは眠くて目をとじているというよりも、何かが通り過ぎていくのをじっと我慢しているみたいに見えた。

 僕は視線をもとに戻すと、ここ一週間ばかりの、実家に帰ってきてからの日々のことを思い返してみた。妹と交わした会話や、大久保と話したこと。それから、狭山さんのお姉さんに会ったこと、そしてその帰りに狭山さんが僕に話したこと。

 しばらくしてから機長の簡単な挨拶があり、そのあとで機長は東京に着くのは一時間四十分後で、東京は現在雨が降っていると告げた。天候の関係で、東京に近づくにつれて多少揺れることが予想されているが、揺れても飛行に影響はないので安心して欲しいと機長は告げた。

 機長のアナウンスが終わると、東京は雨が降っているんだ、と、なんとなく僕は思った。折りたたみの傘を準備してこなかったことが少し悔やまれた。

 特にやることもないので僕は目を閉じて眠ろうとしたのだけれど、変に気が高ぶってしまってなかなか寝付くことができなかった。

 僕は諦めて起きていることにした。そして狭山さんは今頃何をしているのだろうと僕は考えた。もしかすると今頃狭山さんはお姉さんの入院している病院にお見舞いに行っているのかもしれないなと僕は想像した。

 今見えている視界のなかに重なるように、狭山さんと狭山さんのお姉さんが楽しそうに談笑している映像がふうと浮かんですぐに消えた。

 僕は狭山さんのお姉さんがこのまま何事もなく無事回復することを祈わずにはいられなかった。お姉さんは最愛のひとを事故で失ってしまっている。それがこのうえ、彼女自身が病気で死んでしまうとしたら、それはあまりにもひどすぎると僕は思った。

 そしてもしお姉さんが死んでしまったとしたら、その哀しみに狭山さんはきっと耐えられないだろうと僕は思った。

 僕は彼女たちのために何かしたいと思った。でも、僕が彼女たちのために何かしてあげることなんて何もないように思えた。でも、しばらく考えていくうちに、もしかしたら、小説を書くことくらいだったらできるかもしれないと僕は思いついた。

 僕が彼女たちのためにしてあげられることなんてほとんど何もないけれど、でも、彼女たちに喜んでもらえるような小説を書くことくらいだったら、なんとかできるかもしれないと思った。

 僕は彼女たちのために小説を書こうと決意した。その小説を読むことで彼女たちが少しでも励まされたり、前向きな気持ちになることができる小説。たとえば、昨日、海辺に咲いていた、小さな、白い、美しい花のような。

 僕はふと気になってとなりに座っている女の子の方にちらりと視線を向けてみた。彼女はさっき同じようにどちらかというと哀しそうに瞳を閉じたままだった。

 僕はいつか書けるようになりたいと思った。いまとなりに目を閉じて眠っている女の子や、狭山さんや、そのお姉さんや、大久保や、妹や、そして僕自身に希望を与えることができるような小説が。

 そのために必要なのはまず書き続けることだと僕は思った。そんな小説を書くことなんて永遠にできないのかもしれないけど、でも、まずは努力してみることだと僕は自分自身に言い聞かせた。

 飛行機の窓の外には雲ばかりが見えた。気流が悪いところを飛行しているらしく、飛行機は時折小刻みに揺れた。

 そのうち、これまでの細々とした、色んな疲れが押し寄せてきて僕は瞼が重くなるのを感じた。僕は目を閉じると少し眠ることにした。


 目を覚ました頃にはきっと東京に着いているだろうと思った。雨の降る東京が僕のことを待っていると僕は思った。

夏の終わりの静かな風 16

夏の終わりの静かな風 16

夏の終わりの静かな風の最終話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-10-22

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