青い鳥と死神の長い夢
第一章 影男の夢
9月15日、日曜日。
僕は真夜中に、不思議な夢を見た。
夏の嵐の夜だった。風がビュウビュウと音を立て、街はずれの丘に立つ我が家の壁を、ガタガタと揺らした。
ふと、物音か何かで目をさました。部屋はぼんやりと暗く、ベッドの反対側にあるベランダに続く窓から、いびつな長方形の夜光が差し込んでいた。
・・・そこに、人影が映っていた。
僕は窓を見た。月明かりのせいで、夜中なのに明るく感じた。窓には緑色のカーテンが引かれ、そのひだの上にはくっきりと男の影が象られていた。身長が2メートル近くある大男だった。
誰だ。
胸が高鳴った。泥棒か?
しかし影は、シルクハットに燕尾服を着ているようにも見えた。泥棒にしてはキチンとした服装をしている。そう思った。
僕は意識的に大きく呼吸し、両手で一気にベランダのカーテンを引いた。
そこには、影が立っていた。
影は、上着の裾を風にたなびかせ、吹き荒ぶ嵐の中、僕の前に立ちはだかっていた。
体は透けていて、黒い雲のようにモクモクとうごめいている。人の形ではあるけれど、どう見ても人間じゃない。透けた体の向こうには、ベランダの桟や隣家の屋根が見える。眼を凝らして顔のあたりを見ても、目も鼻も口もなければ、その凹凸すらもない。
ふいに、窓のすき間からヒュウという細い、不気味な風の音が聞こえた。悪魔の口笛に聞こえた。体中に悪寒が走り、ざわざわと表面に鳥肌を立てた。
僕は、―――こわくなったり、いやなことが起こったりした時は、いつもそうするようにしているのだけど―――これは夢だと思い込もうとした。
でも僕はこのとき、そうはできなかった。夢とは思えなかった。全身に悪寒は走ったまま、恐怖を覚える一方で、この影に興味を抱いた。この男が、僕に何かを告げようとしているのでは、とすら感じた。
僕はじっと影を見すえ、耳をすませた。
男の声は、僕の頭の中で静かにこう言った。
「いま旅立つか、それとも、
永遠にここにいるのか。」と。
何の話か、さっぱりわからなかった。でも、永遠にここにいるなんてごめんだ、それははっきりしていた。
それでもう一度、影男を見た。
すると、影は煙のようにうすらいで、揺らぎながら宙にゆるりとただよい、夜空に消えていった。
僕は茫然となって、しばらく空っぽのベランダをながめた。
体が妙に重だるかった。僕の毛穴は安堵でゆるみ、皮膚は温かみを取り戻し始めた。
ベランダの先には、街が一望できた。
僕の住む街は、ひたすら嵐に耐えているかのように、夜空の下にどんよりと横たわっていた。赤や青やオレンジ色の無秩序な街の灯りが、強風で今にも消えそうに瞬いている。
その中に、僕の通う中学校が見えた。
・・・こんな街、いっそのこと全部なくなってしまえばいい。
僕はまた、ベッドに戻った。
寝たときと全くおなじポーズで目覚めた。
あまりにリアルで、それが夢だと気づくまでにしばらくかかった。
時計をみると、まだ5時前だった。あたりはとても静かで、部屋全体が青白い。
朝日がのぼる直前の、すべてが青ざめている、おだやかで美しい時間。
僕はよくこの時間帯に目醒めることが多かった。空気はまだひんやりと冷たく、静かで、何の気配も感じられない、「死」そのもののような朝。そこで、ただひとつ僕の心臓だけが、ドクドクと音を立てて鳴っている。
僕は、こんな時に感じる孤独が好きだった。
僕だけが生きていると感じられる瞬間。
僕はひとまずトイレに行こうと、ベッドから下りた。素足に床が冷たかった。用を足しているうちに、だんだん気持ちが落ち着いてきた。でもやっぱりさっきの夢のことが気になっていたので、部屋に戻ると、窓にかかっていた紺色のカーテンをめくった。
窓の外は、一面暗灰色に覆われていた。街へと下る家の前の通りについた街灯だけが、小さくおぼろげに光っている。
僕の街全体が、深い霧雨に包まれていた。
ぼくは雨の中を見つめた。
雨は、そこには最初から何もなかったように、街を消し去っていた。僕はほくそ笑んだ。そうだ、このまま学校も、あいつらもみんな消えてしまえばいい。このままずっと雨が降り続いて、ダムで消された集落のように、湖の底に沈んでしまえばいい。
―――けれども次第に、僕はこの雨が恐くなってきた。ガラス一枚隔てて、雨が迫ってくる。床からひんやりと、足の裏を伝って、体に入り込んでくる。
僕はあわててベッドにもぐりこみ、毛布を深くかぶった。
第二章 憂鬱な日曜日の朝
ふたたび起きたのは7時すぎだった。部屋はまだ薄暗く、どことなく湿気っていた。
一階から、台所で朝ご飯を作っている音がした。トーストとバターの香りに、父親が食べる焼魚の臭いが混ざったのが鼻先を通る。いつもと同じ匂いだ。そのことに、僕は少しホッとした。さっきの夢が、やっぱり気になっている。
旅立ちって何のことだろう?そりゃあ一刻も早くこの街もこの家も出たいさ。でも自立できない今は無理だ。それに結局どこに行ったって、僕自身が変わらなければ何も変わらない。そんなこと、僕にだって実はよくわかっている。そんなことをゴロゴロと布団にくるまりながら考えていると、一階のトイレのドアがバタンと勢いよく閉まる音が聞こえた。父親が起きたようだ。そろそろ僕も起きないと。そう思って、また少し憂鬱になる。
階段を降りて、流しで顔を洗い、台所にいる母に「お早う」を言い、冷蔵庫から魚肉ソーセージを1本取り出して、下駄を履き勝手口から庭に出た。
空は鉛色の雲から、音も立てずに、足の見えない雨を降らせている。
僕は緑亀のモハヤを探した。彼は近所の小川で出会った時、甲羅に藻が生えて、ひどく弱って死にかけていたから「モハヤ」と名づけた。モハヤは右目が失明して白く濁っていて、左前足が悪く、引きずって体を傾けるように歩いたので、妹と母は僕にかくれて「ヤクザ」と呼んでいた。僕は彼を家に持ち帰り、藻をていねいに落とし、左前足の傷を消毒して、庭の池に放った。そして毎日餌を与えつづけた。するとモハヤはみるみるうちに元気になり、少しずつ足の傷も良くなって、ななめに歩かずにすむようになった。体長も7センチほどだったのが、13.5センチまで成長した。そうしてモハヤが我が家の庭で暮らすようになってから、はや1年がたつ。
僕は毎朝、モハヤに餌をやるのが日課だった。モハヤは放し飼いなので、最初は庭中を探し回って、学校に遅刻しそうになることもあった。でも最近は、餌の時間になると、きまって台所の脇にある、縁側のそばにいるようになった。亀にも学習能力はあるのだ。今日も縁側近くの流しにいたので、僕は魚肉ソーセージをむいて、半分は細かくちぎってモハヤの周りに落とし、もう半分は、自分の口に運んだ。
ちなみにモハヤは手からは食べない。何度か試みたがダメだった。モハヤは今も、僕になついてはいない。(だいいち、亀がなつくってどんなだろう?)でも餌をやるのは僕だけなので、一応他の家族と分けて認識はしているようだ。(まあこれは、モハヤに聞いたわけじゃないから、ただの希望的観測かもしれないけれど。)とにかく、僕とモハヤは1年経ってもそんなカンケイだ。ただ僕としても、彼が元気になれば小川に返すつもりだったので、それ以上は望んでなかった。だから彼を膝の上に乗せて甲羅をなでたり、ヒモを胴体に巻きつけて近所を散歩したりも、もちろんしなかった。でもいつしか僕は、モハヤに話しかけるようになっていた。黙々と魚肉ソーセージを食べるモハヤに、僕は毎日、自分の悩みやむしゃくしゃした思いや、つまらないひとりごとを話し続けた。そうして僕は、放課後のほとんどをモハヤと庭で過ごすようになった。母も妹も、最初こそ声をかけてきたが、僕は煩わしくて無視した。やがて僕は家族から孤立した。もの言わぬモハヤだけが、僕の唯一の話し相手になった。
今日のモハヤはいつもと違っていた。口に何か細長いものをくわえている。よく見ると、それはバッタだった。朽ちた葉のような色のバッタを、彼は散らばったソーセージの欠片の中に吐き出し、はらわたからバリバリと食べ始めた。モハヤのこんなワイルドな姿は初めてだった。僕は少し興奮した。モハヤはもはや、自分で餌を獲って食べられるようになったのだ。そして、もうオレは餌なんざいらないぞ、と言わんばかりに、その様を僕に提示したのだ。僕はモハヤを誇らしく思った。さびしいより、まず嬉しかった。
台所に戻ると、妹がふらふらと居間に入ってくるところだった。朝起きた瞬間から、眉間にしわをよせて不機嫌そうな顔をしている妹は、目ヤニを取ったその手で、母さんが早起きしてせっせと作っているそばから、朝ごはんをつまみ食いしている。不潔で、だらしがなくて、わがままで感じが悪くて。僕は妹の何から何まで嫌いだった。
今日はたしか、妹の小学校の運動会だったはずだ。でも母が弁当の用意をしていないのをみると、どうやら中止になったようだ。(日頃の行いが悪いからだ。)と僕はつぶやいた。
僕の家ではいつも家族全員で朝食を食べ、今日の予定を話し合う。天気予報によると、今日は一日こんな天気だという。妹がふてくされているため、両親は車で40分ほど離れた所にあるデパートへ買い物に連れて行くようだ。僕はもちろん誘いを断り、結局いつものように、図書館に出かけることにした。
妹たちが外出した後、家の中は急にシンと静まり返った。窓はまるで灰白色の板で塞がれたように、家の中に暗がりをもたらした。僕は一刻も早く家から出たくなって、わざとドタドタと音を立てて階段を上り、文房具をカバンに入れ、またドタドタと階段を降り、戸棚からレインコートと長靴を取り出し、紺色の傘を持って慌ただしく家を出た。
玄関を出た瞬間、自分から出てきたのに、何だか家から追い出されたような気分だった。僕は濡れたコンクリートと長靴を見ながら、早足で歩いた。ふとモハヤのことが気になった。僕は立ち止まって家を見た。灰色の霧の向こうに、うっすらと玄関が見えた。急にさびしくなった。モハヤの所に戻ろう、と思った。ほとんど足を家に向けたとき、僕は今朝の夢のせいで、すっかり心細くなっている自分に気づいた。・・・バカバカしい。僕は向き直った。できるだけ前を見ながら、図書館へと歩を早めた。まったく、朝から霧雨なんて、薄気味の悪い日曜だ。
20分ほど行くと、モハヤが住んでいた小川に着いた。図書館は、小川に沿って土手をまっすぐに進んで、そこから小さなアーチ型の橋を渡ったらすぐ目の前にある。今日はこの雨で小川の水かさが増しているはずだが、ここからは土手しか見えない。辺りはカエルの啼き声がこだましている。本当に、圧倒される量の啼き声だ。僕はうんざりしながら、(僕はカエルが嫌いだ。啼き声がゲップみたいで、聞くと息を止めたくなる。)土手に出来た水たまりを数えながら歩いた。
30個以上数えた。妙だ。橋まではそんなに長くないのに。するとどこからかからん、と乾いた鈴の音がした。周囲を見回しても、近くに気配はない。気のせいかと歩き出すと、またからん、と音がする。今度は少し近い。霧はさっきより濃くなって、視界は1メートルもない。僕は見えない代わりに耳をすました。しかし何も聞こえない。気がつけばカエルの合唱も止んでいる。
おそろしい静けさだ。僕は見知らぬ場所で置いてきぼりにされた気分になった。やはりモハヤを連れてくれば良かったんだ。雨で濡れたレインコートの冷たさに、思わず震えた。
すぐ後ろでまた、からん、と聞こえた。すぐ後ろだ。・・・覚悟を決めて、おそるおそる振り返った。するとそこには、見慣れた橋が見えた。図書館へ続く橋だ!僕は安堵のため息をつき、橋へと駆け寄った。
ア、と僕は思わず声を上げた。橋の真ん中に、黒猫が立っている。後ろ足で立ち、前足には大きなガラスの鈴を持っている。猫は澄んだ翡翠色の目の中で、金色の目玉を鈍く光らせていた。右目がモハヤと同じく白く濁っていた。
猫は目が合うと、口だけ動かしてニヤリと笑い、鈴を短く、からん、と鳴らした。それは、聞こえた、というよりかは、まるで僕の頭の中で鳴ったみたいだった。
鈴はおぼろ月のようにぼんやりと夕焼け色に光った。僕はそれに無性に懐かしさを覚えた。どこかで見たような・・・
そうだ、思い出した。あの時もこんな風に、それは光っていたのだ。
第三章 死の光
それは、じいちゃんの葬式の日だった。
じいちゃんは、静岡の山村に一人で住んでいた。畑仕事をしていたため、年中日焼けして、肌は茶色くテカっていた。腰は少し曲がり始めていたけれど、腕は太くて、いつも僕を力強くぐいと引きよせた。いつも大きな声でカッカと豪快に笑った。とても死んじゃうようには見えなかった。
その日はちょうどゴールデンウィークの初日で、僕ら家族は、翌日から予定していた北海道旅行を、急きょキャンセルしなければいけなかった。祖父の家に向かう間、妹はずっと不機嫌で、母は、泣きながら意味不明なことを止めどなくしゃべっていた。父は、まっすぐ前を向いたまま、ひたすら無言でハンドルを握っていた。
じいちゃんは、GWは毎年、近所の人と裏山の竹林で竹の子掘りをすることになっていた。その日も早朝から夕方まで竹の子を掘り、山を下りて近所の人が大釜で竹の子を茹でる間、祖父は風呂に入ると家に帰ったまま戻って来ないので、夜になって近所の人が家に竹の子を届けに入ったところ、風呂場で真っ赤になって倒れていたのだそうだ。
僕らは知らせを受けてすぐ、支度をして車でじいちゃん家に向かった。
旅行用に準備してあった荷物と、学校の制服をきれいに折りたたみ、バッグに詰めた。真夜中のドライブはこの時が初めてだった。 真っ暗闇の中、車のライトが灰色のコンクリートや、林を暗く照らした。頭上の木の枝は、僕らを闇に連れ込もうとする腕に見えた。トンネルの向こうで、得体の知れない生き物が待っているような気がした。
僕は、心の中でじいちゃん、と叫んだ。じいちゃんが、この暗闇から見ている気がした。
僕はまだ、死ということが、この時も、いや、今だってよくわからない。でもとにかくそれは訳のわからない、恐ろしいものだった。いや、きっとわからないからこそ怖いのだ。じいちゃんの、赤らんだつるつるした丸顔が、車の窓ガラスの向こうに何度も浮かんでは、静かに消えていった。
通夜の日、じいちゃんは一階の奥間に寝かされていた。村人が出たり入ったりするのを、僕はその部屋の隅からじっと見ていた。部屋には、縁側から初夏の涼しい風が入ってくる。窓が開け放たれたその先には、雲ひとつない、真っ青な空が見えた。障子から洩れた薄暗い光が、白い布で覆われたじいちゃんの体を照らす。じいちゃんも、畳も、布団も、家の柱も全部、影のように暗く、ひっそりと死んでいる。そのこわばりが、座布団から伝わってくるようだ。
昨夜見た、じいちゃんの骨張って変色した足が、僕の内部にひたひたと踏み入ってくる。ぴちゃり、ぴちゃり、と水音を立てて、僕の鳩尾を、ぎゅうっと踏んだ。僕は思わずうずくまった。
だいぶたってから母が異変に気づき、僕を外に連れ出してた。僕は離れの前にあるベンチに横になった。体じゅうに冷や汗をかいていた。僕はうずくまったまま、腹に居座っているものから懸命に気をそらそうと、目の前にある景色を見た。
そこにはみかん畑があった。畑と言っても、背の低いみかんの木が横一列に5、6本植えてあるだけだ。その奥には、裏山の竹林が迫っていた。
竹林を少し入った所に、夕陽のようなオレンジ色の光が、闇の中に浮かんでいるのが見えた。僕は意識が遠のき、目の前がだんだん暗くなるのを感じた。
光はゆっくりと点灯しながら、竹林の奥へ消えていった。視界にうっすらと雲がかかり、やがて真っ暗になった。
第四章 黒猫の図書館
僕が再び黒猫を見ると、黒猫は遠い目をして、僕を見ていた。そして音も立てずに図書館の方へ歩き出し、あっという間に霧のカーテンに消えていった。僕はあわてて猫の後を追った。
黒猫についていくと、やがて図書館がうっすら見えてきた。しかし以前とはシルエットからして違う。今僕の目の前にあるのは、おそろしく背の高い、太い煙突のような建物だった。
中に入ると、壁は円筒状になっていて、真ん中は吹き抜けで、天井は薄暗くて見えない。壁にはびっしりと本が並べられている。本はすべて同じ、緋色地に金色の装飾のついた背表紙だった。壁や本棚は木で出来ており、焦げ茶色の装飾を施してある。本棚と本棚の間には、緑色の読書灯と、座り心地の良さそうな、茶色い革のソファが設置されていた。しかしこの建物には廊下がなく、また階段のようなものも見当たらない。だからソファは、壁にぶら下げられたような状態で、人がそこに移動できる手段がないのだ。また、館内には僕ら以外に誰もおらず、僕の足音(猫のは聞こえないのだ)以外は、小さくかけられたピアノ曲だけが、この空洞のような館内に響いていた。
黒猫が壁にある金色のボタンを押すと、ずっと上の方から、ソファが壁づたいに降りてきた。ソファ型のエレベーターといったものだ。僕がなるほど、と一人納得していると、猫は表紙に金色の刺繍で僕の名前が書かれた、分厚い本を差し出した。僕が不思議そうに猫を眺めても、猫はニコリともしない。まるで私に聞いてもムダだよ、と言っているように思えて、僕はあきらめて、しぶしぶそのソファに座った。
僕が肩掛けカバンと本を両足の上に置くと、ゆっくりとソファは上昇していった。いつか妹と乗った、遊園地の乗り物を思い出した。ソファはふかふかで適度に固く、見た目どおり、座り心地はよかった。少しバランスを崩した時に気づいたのだけど、お尻がソファと磁石のようなものでくっつき、離れないようになっているようだった。
本棚をいくつも越え、ぐんぐんあがっていく。下を見ると、床も猫も、ずいぶん小さく見えた。その瞬間に足がすくんだ。僕は肘掛けをしっかりと握り、深呼吸でなんとか体の震えを抑えようとした。ダメだった。僕は高所恐怖症なんだ!それで僕は、何とか冷静さを取り戻そうと、みんなの歌の歌詞をひとつずつ思い出すことで、気をそらそうとした。でもダメだった。それでも僕は、今朝の奇妙な夢をまた思い出すことで、それに成功した。奇妙な夢だったが、何か意味深というか、何かを暗示しているような気がした。しかし、奇妙な夢だったな。いまこの状況だって、よっぽど奇妙だ。そうだ、ひょっとして、これも夢なんじゃないか?そうだ、たぶん・・・そうに、違いない。これは夢なんだ!
そう思い込むと、このガタガタ揺れるソファ型のエレベーターも、少しだけ怖くなくなった。僕はため息をつき、ふと頭上を見上げた。天井が見えはじめた。ガラス張りで、ドーム状に丸くなっていた。ガラスの向うは、すっかり日の暮れた夕焼けのような色をしていた。
やがてソファは上昇をやめ、今度は本棚の間を横にスライドしていった。60度くらい横に移動し、ソファは読書灯の下に止まった。おそるおそる下を見ると、猫はもう小さすぎて見えなかった。僕は体勢を整えて、大きなため息をついてから、僕の名前が書かれてある本を開いてみた。
本を開くと、驚いたことに、中はまったくの白紙だった。パラパラとめくってみても、どこにも、ひと文字も書かれていない。僕は黒猫の方を見下ろした。
「ここですよ」と男とも、女とも区別がつかない、澄んだ声が正面から聞こえた。目をそちらに向けると、黒猫は空中に浮いて立っていた。僕は仰天してあやうくソファからすべり落ちそうになったが、例の磁気かなんかのおかげでそうならずにすんだ。黒猫は、葉巻のようなものから、煙をふかしていた。それを吸ったり吐いたりしながら、遅すぎるほどの口調で、たどたどしく話しだした。
「それは、あなたの本です。あなたの、夢の本です。」僕は、表情を変えず、猫を見ていた。猫はゆっくりと煙を吸って吐いたあと、続けた。
「あなたの、いままで見た夢、か、これから見る夢、が、記されるです。」
僕は、黒猫が話し終わるのを待ってから、質問をした。
「夢を見るってことは、僕はここで眠るのかな?こんな高くて、不安定な場所で?」
「ここは、とても、安定な場所、です。ご心配、無用。あと・・・必ず、眠らなければ、いけない、わけでは、ありません。」猫はここで一服した。
「・・・眠れない、人います。眠れず、そういう人、は、過去の夢、思い出すだけ・・・でも、大丈夫。本、それだけでも、完成します。」
「でも、全部の夢、思い出さないと、夢の本、完成しない。ここ、出られない。」
僕はしばらく考え込んだ。ここで夢を見るか、いままで見たすべての夢を見るかして、僕の夢の本を完成させないといけない?なんのこっちゃ。
「この本は、何のためにあるのですか?」
「・・・それは、・・・おそらく、あなた自身のため、です。」
「おそらく、とは?」
「私、ここに、訪れるひと、案内、するだけ。」
「本を完成させた人と話したりはしないの?」
ここで猫は、ぷうっと大きな煙を吐いた。
「ない、です。」猫は一拍おいて続けた。
「ここから、出て行く人、いないです。」僕ははあ?と思わず声を出した。
「それは・・・どういうこと?」
「みなさん、ここで消えるから、です。」猫はそう言って軽く微笑んだ。
すると猫の金色の目玉が、まばゆく光った。僕は思わずのけ反り、目を覆った。目が焼けたように熱い!まぶたの裏に、赤黒くて燃えているような模様が見える。
僕は急に全身の力が入らなくなり、ソファにだらりと身を預けるしかなかった。催眠術にでもかかったように、意識も急速に失われていった。
(みんな、ここで消えるってどういうことだ?眠っても、眠らなくても、結局外には出られないってことだな・・・ん?これは夢の中じゃなかったのか?いや、あの時はそう思い込みたかっただけだ。夢なら早く覚めてしまって欲しい、こんな夢・・・あ、夢から覚めたいのにそう出来ないってことは、夢じゃないのか?ああ、わけがわからない。いずれにしても、今まで見た中で、一番不可解な夢だ・・・今日見た夢は、特にそうだ。・・・そう言えば、あの影男は、いったい何者だったんだ?このことを、暗示していたのだろうか?ああ、だれか、僕を起こしてくれ・・・)
僕は、うすれゆく意識の中で、そんなことを考えていた。
第5章 黒い夢
五月晴れの気持ちよい日に、僕は本を持って竹林にでかけた。竹林の中は陽が入って明るかった。見上げると、そびえ立つ竹のもっとずっと遠くに、小さく青空が見えた。目を閉じると、まぶたの上をちらちらと光がゆらめき、耳は、春の風にゆれる緑の心地よいざわめきに包まれた。僕は竹林を抜け、小高い丘に登った。南側に面したこの丘は見晴らしがよく、緑の低い山々の向うに、天気のいい日は富士山が見えることもあった。祖父も父も僕も、この場所がお気に入りだった。
この丘には、むかし竹を焼いて竹炭を作っていたという、大きな釜がある。それはちょうど井戸を大きくしたようなもので、四角い石を積み重ねて作られていた。深さは3、4メートルくらいで、縁からはしごがかけられていて底に下りられるようになっていた。内側の壁は炭で真っ黒で、底には短く切られた竹が重なっていた。僕は釜のそばの日当たりのいい場所に腰かけ、本を読むことにした。
しばらくすると、話し声が竹林から聞こえてきた。見ると、二十代くらいのカップルが、手をつなぎながら丘を登ってきた。そして釜の縁に座り、体をぴたりとつけて、親しげに話している。服装は少し田舎っぽい感じで、男はどこかで見たことがあるような顔だった。この村で見かけたことがあるのかもしれない。白いワイシャツに紺色の綿のジャケットを羽織り、茶色のチノパン姿だ。女性の顔はスカーフで隠れて見えない。背が低くてぽっちゃりした、可愛らしい感じの人だ。胸元にフリルのついた白いブラウスに、淡いピンク色のふわふわしたスカートを履いている。二人は目の前にいる僕に全く気づく様子がなく、大声で話をして、笑っていた。僕は本を読むのをやめ、しばらく二人を観察することにした。
二人は声を合わせ、おもむろに唄い出した。それはラジオをよく聞く僕でも聴いたことのない歌で、リズムのよい陽気な歌だった。でもそれでいて、どこかもの悲しさも感じられる歌だった。歌いながら男は立ち上がり、女性の手を取って、ゆったりと円を描くように踊り出した。女性のスカートがやわらかく風にゆれ、木漏れ陽がきらきらと二人を照らした。女性の横顔がちらりと見えた。とても優雅な、うっとりした顔で、男を見つめていた。彼らは釜の廻りを一周し、丘の南側の崖で立ち止まり、並んで景色を眺めた。そして静かにキスをした。
僕はどっきりして、あわてて本に目を戻した。見てはいけないものを見た気がした。けれど、本にはまったく集中できない。同じところを何度も読んでしまうのだ。目は活字を追っていても、目以外の全ての感覚器官が丘の隅に集中していた。結局僕はあきらめて本を閉じ、ちらりと二人の方を見た。
二人はもういなかった。あまりに突然で、僕は声をだして崖に駆け寄った。崖下をのぞいたが、彼らの姿はない。もし丘を下ったなら釜のそばを通るはずで、そうすれば僕は絶対に気づいたはずだ。二人は忽然と姿を消したのだ。
僕はすぐ家に戻り、家族にこの話をした。もちろんキスを目撃したことを除いて。けれど、この村にはそんな若者はいないよ、お前、夢でも見たんだろう、と笑われただけだった。
その日の晩、僕はその二人の夢を見た。とても生々しい夢だった。彼らはあの釜の底に寝そべり、抱き合っていた。僕はそれを、釜の縁からのぞいている。二人ともゴロゴロと転げ回ったりして、顔も服も炭で真っ黒に汚れている。そして舌をねっとりとからませた長いキスをし終えたあと、うっとりしたような細い目をして、ふたりとも急に僕の方を見上げた。それは以前、アルバムで見た、若い頃の僕の両親だった。父と母は、悪魔のような嫌らしい笑みを浮かべている。母親の口紅は頬まで伸び、みだらな女に見えた。僕は喉の乾きを憶え、心臓が急かすように鼓動を打つ。僕の中で何かがのたうち回り、疼いていた。それは蛇のように僕の中を動き回り、毒をまき散らした。毒は僕の血をたぎらせ、体が煮えたぎったように燃えた。気づくと、僕は空中に浮かんでいた。両親はまだ僕を見ている。ふと頭上から赤ん坊の泣き声が聞こえた。泣き声はどんどん大きくなり、耳元でがなり立てられたように耳をつんざき、空気を震わせた。僕は耐えられなくなり、耳を塞いで身をかがめ、ありったけの声で叫んだ。僕は「おぎゃあ、おぎゃあ」と叫んでいた。
第6章 沈みゆく夢
目ぶたに、やわらかい光を感じた。澄んだ湖の底から見える、太陽のような優しい光だ。それは最初は小さく、少しずつ全体に広がった。それは、障子でやわらいだ陽の光のようだった。ぼんやりとした意識の中で、ここはじいちゃんの家だという気がしている。でも、まったく音がしない。あるいは聞こえないのだ。
僕は横たわっている。体は、油粘土で出来ているみたいに、固く重く、冷たい。誰かの手を借りなければ、とても動かせなさそうだ。声を上げて誰かを呼ぼうとする。しかし声が出ない。誰か、と叫ぼうにも、口が意思通りに動かない。これが金縛りというものかもしれない、と思った。
でも、よく人から聞くように、誰かが上に乗っかってくるといった感じはしない。人の気配もなければ、霊的な恐怖も感じなかった。それは、もともと動くことが出来ないもののようだった。僕の体はもはや、どこか手で、どこが足かというような区別もできない、ただの冷たい石の塊だった。
くそ猫め、僕の体にいったい何をした?
動くのは脳だけだった。意識ははっきりしていた。僕は周囲に神経を巡らせてみた。集中すると、カメラのピントが少しずつ合いはじめるように、意識の中で、周囲の空気や、家具の配置や、壁や柱の色合いまで、わずかに見えるようになってきた。
最初にはっきりと目に映ったのは、僕の足だった。白い着物の裾の向うに見える血色のない足は、まるで白い花瓶に挿した、朽ちた花のようだった。それは間違いなく、あのとき見た、じいちゃんの足だった。
僕はゾッとした。僕は今、じいちゃんになっている。いや、僕の体は、死んだじいちゃんの体になっている。僕は混乱した。死体になっているということは、僕は死んでいるということなのか?
意識を失いそうだった。視界は再びぼやけ、白く滲み、平衡感覚がなくなり、頭がぐらぐらした。周囲はやがて光を失い、暗闇に飲まれた。
静けさが、まるで僕の体を押さえつけ、体温を奪っているように重くのしかかり、僕を包み込む。じんわりと、体の下の方から冷たくなっていった。
僕の体は、冷たい、暗い場所に沈んでいった。
第七章 巨大魚の棲む湖
僕は、水音ひとつしない、死んだように穏やかな湖に浮かんでいる。
まん丸い湖で、周囲は糸杉の森に囲まれている。
生き物の気配のない、無音の世界だ。
湖のずっと先には、美しい冠雪した山が見える。
富士山のように青く、立派な山だ。
湖の真ん中に、教会のような、白い建物がある島が見える。
僕はそこに向かって、水面をすべるように進んでいる。
ふいに、近くで水が跳ねるような音がした。
水面が、ゆったりと小さな波を立て、僕をゆりかごのように揺らす。
真下に、何かがすべりこんでくる気配がした。
それはとても大きな、きらきらと宝石のように輝く魚だった。
この世の美しい色すべてをうろこに映し、
天女のようにフワフワと、舞うように泳いでいる。
無音の世界に、安らぎの波の音がもたらされた。
魚はいつしか気配を消し、
僕は島にたどり着く。
白い建物は、真ん中が丸い塔で、両側に低い建物を備えている。
塔の下はアーチ型の橋のようになり、船が通れるようになっていた。
僕は塔の真下に流れつき、そこで静止する。
待ち構えていた黒子のような者によって、塔の中に運ばれる。
塔は吹抜けで、壁にいくつものろうそくの灯がともされている。
壁にはびっしりと卵が並んでいた。
幾万、いや、幾億の卵だ。
床は青や緑のタイルが敷き詰められ、不思議な模様が描かれている。
ここには重たそうな木の机がひとつと、大きな扉がひとつあった。
僕は塔の真ん中に鎮座する、四角い石をくり抜いたような物に入れられる。
外側には白地に、鮮やかな色彩のタイルや金属で、派手な装飾が施されている。
内側は、煤けたように真っ黒だ。
僕は天井を見る。
天井には、まるでビー玉を巨大化したような、大きなガラス玉が浮いている。
中ではプラネタリウムのように、数えきれないほどの星が光っている。
黒子が、じいちゃんの体に金粉のようなものを振りかけ、
それからろうそくで火をつけた。
体から、青い炎が上がる。
じいちゃんはみるみる溶け、やがて無くなっていく。
白いきらきらと光る煙が、一筋の光のようにまっすぐ天井に昇り、
ガラス玉の中にするりと吸い込まれ、ひとつの小さな星になった。
じいちゃんの体から、2つの水晶玉が残った。
黒子がそれを拾い上げ、ひとつずつ、別々の棚から取った卵に入れた。
黒子は、机にあったガラスの鈴を持ち、ひと振りした。
みずみずしい音が鳴り響いた。
すると、木で出来た背の高い扉の向こうから、カツカツと誰かの足音が聞こえる。
黒子が扉を開くと、燕尾服を着て、シルクハットを冠った、背の高い男が現れた。
正確に言うと、そういう特徴を持った男の影が現れた。
まさしく、あの夜、夢で見た男の影だった。
影男は黒子に合図をし、机の上に黒い石でできた正方形の板を用意させ、
異なる棚から取り出した、8つの卵を用意した。
影男は、まるで手品師のように、8つの卵を横一列に並べ、
それからすばやくシャッフルした。
それは一寸の無駄もなく、爪まで神経を張り巡らせたような、
明確な意思を持った所作だった。
影男は端から2つずつ卵を持つと、黒子に渡した。
黒子は卵を白い布の上に受け取り、布ごと木の葉の入った小箱に詰めた。
小箱が4個出来ると、黒子はそれを持って外階段を降りていった。
外は、さっきとは打って変わって、晴れ渡っていた。
空は高く、雲はうすくたなびいている。
春のように穏やかでさわやかな陽気だ。
小鳥はさえずり、木々はざわめき、春風は湖面をさざめかせている。
黒子は水路のそばにしゃがみ、小箱を開け、
水面に浮かせた小さな葉に、卵を2個ずつ乗せて流した。
卵を乗せた葉は、水面をゆったりと、時には風でくるくる回りながら進み、
やがてゆっくりと沈んでいった。
そうして4枚の葉と、8個の卵が別々に湖へと沈んでいった。
その儀式に、黒子はたっぷりと時間をかけていた。
僕はすべてが終わり、黒子がまた塔の中に戻っていくのを見送ってから、水路のそばにしゃがみ、湖水に指を浸してみた。その瞬間、さっきまで陽光を反射し、キラキラと輝いていた湖面が一気に透けて、湖の中がすっかり見渡せるようになった。
なんという卵の数!!!
見渡す限りの湖底に、ぎっしりとすき間なく卵が沈んでいる!それはあの塔にあった数を、遥かに上回っていた。幾兆、いや、ほぼ無限といってもいいだろう。
僕は呆然と立ち尽くして、この風景をただただ眺めていた。
遠くに目をやると、あの美しい巨大魚もかなたに見えた。魚は、その美しい体をくゆらせながら、ゆったりと気持ち良さそうに泳いでいる。
すると、魚の泳いだ道筋の卵から、にゅるにゅると緑のつたが湖面に伸び、蓮の葉を広げ、色とりどりの蓮の花が咲いていた。
魚は、湖の外縁から中心にあるこの島に向かってゆっくりと大きな渦を描くように泳ぎ、いつしかこの湖をすべて蓮の花で埋め尽くしてしまった。
第八章 影男の娘
それは、壮大な眺めだった。
僕は草の上に座り、湖をじっと眺めた。蓮は、ひとつとして同じ色がなかった。どれも優劣がつけられないほど美しい。そしてひとつひとつ、花びらや葉の形や、大きさが違っていた。花のほとんどが美しく咲いているが、中にはもう色が悪くなっていたり、すっかり枯れてしまっているものもあった。枯れた蓮はそのまま湖底に沈んでいき、その場所にはまた新たな卵が運ばれた。そして巨大魚が泳いでやってきて、新しい蓮の花が咲く。それが僕の目の前で、とめどなく繰り返された。
僕はもう、ここはどこなのかとか、夢なのかどうか、なんてことを考えるのをやめた。とにかく今は、どうでもよかった。ここにいるのがだんだん自然に感じられるようになり、同時に不安が和らいだ。何より、ここはとても居心地がいいのだ。ずっと住んでもいい。僕はもう、あんな家に帰りたくはなかった。唯一、モハヤのことが気になったが、きっと家の誰かが餌をやって育ててくれるだろうと思った。例えもし彼らがそうしなくても、モハヤはもともと野生なのだ。傷も治っているし、自力で餌を見つけて生きていってくれるに違いない。僕んちの庭なら、虫も草もある。食料に困ることはないだろう。
これはそう、家出だ。始まり方が多少、普通とは違うけど。でもどっちにしても、僕は前から家を出ることを望んでいたんだ。そう、これは、僕が望んでいたことなんだ!
それがわかった瞬間、体の中にたまっていた重しみたいなものが消えるのを感じた。僕の端っこでうずくまっていた、わだかまりが溶けていくのを感じた。急に体が軽くなった。僕は立ち上がって、走りだした。走るのは久しぶりだった。心地よい風が僕の顔や脇腹をすり抜けていった。僕は歓喜の声を上げ、木の枝に向かって思いっきりジャンプした。今までで一番、高く飛べた気がした。そしてもう一度、じっくりとこの光景を見つめた。晴れやかで、すがすがしい気持ちだった。
「楽しそうね。」ふいに頭上から声がした。よくとおる、弾んだ威勢のいい声だった。
見上げると、木の上に女の子が仁王立ちでこちらを見ていた。年は僕より少し上だろうか、はっきりした顔だちで、かなり整ったきれいな顔ではあるが、眉毛がまっすぐでやや太く、どちらかというと男っぽい、精悍な印象だ。まっすぐに僕に向けられた大きな目は深い緑がかった茶色で、見たものすべてを透視してるんじゃないかと思うくらい澄んで、力強い。でもそれ以上に彼女の顔を特徴づけているのは唇だ。上下とも腫れ上がったように分厚く、ぷるんとした、熟したトマトのような赤い唇が、その意思の強そうな、ともすればきつい印象になってしまいそうな顔に、女らしさをもたらしていた。髪は栗色のくせ毛で、肩までのびた髪をラフに編み込んで、一本にまとめている。淡い黄色のシャツの腕をまくしあげ、ベージュのぶかぶかと太い吊りズボンを、これまた裾をまくしあげて履いている。靴はかなり履きこんだ感じの焦げ茶色の編み上げのブーツだった。見た感じ、トムソーヤの女の子版と言ったところだ。木に登るくらいだ、間違いなくやんちゃだろう。
あまりに唐突だったので、どう返事すればいいか言いよどんでいると、
「あなた、さっき叫んでたでしょ?口はきけるわよね?」
「あ、それとも、耳が聞こえないとか?」耳を指差して、いぶかしそうに彼女は言った。
僕は一回つばを飲み込んでから首を振って、
「いや、耳も聞こえるし、口もきけるよ。」と答えた。
「そう、ならよかったわ。」と言って、彼女は木の枝に座り、ニコリと笑った。
笑うと刺さるような視線は和らいで、尖ったあごの両わきに浅いえくぼをつくった。僕はそのえくぼに、特別な親しみを感じた。見覚えのあるえくぼだった。
「急に話しかけて悪かったわ。でもこんなそばにいて、話しかけない方が失礼だと思ったのよ。」と彼女は言った。僕はうなずいて、微笑んでみせた。
彼女は僕から視線をそらし、空を見つめ出した。彼女の横顔が、空を背景にくっきり見えた。直線的な高い鼻に、さくらんぼみたいな、ぽってりした唇がぶら下がっていた。彼女の視線の先には、はるか上空を旋回している黒い鷹がいた。彼女は鷹の動きを確かめるかのように、じっと集中して鷹を見つめていた。
「僕もそこに登ってもいいかな?少し話がしたいんだけど。」
「ええ、どうぞ。」彼女は枝の太さを確認するように見てから、そう答えた。
実を言うと、僕は木登りなど経験がなかった。運動は得意なほうではなかったし、高い所は嫌いだった。でもなぜか、僕はこの時木登りが出来るような気がしたのだ。実際に登ってみると、適当な所に適当な枝があって、案外苦もなくするすると登れてしまった。
僕は枝の強度を確かめてから、彼女の隣に座った。彼女は鷹ではなく、今度は同じ木に止まっているコマドリを観察していた。
「君は、ここに住んでいるの?」
「そうよ。生まれてからずっとね。」コマドリから目を離さずに彼女は言った。
「ここは、君の家なの?」
「・・・いいえ、父の家と、仕事場よ。」
「君のお父さんって、ひょっとしてあの真っ黒な人?」
「いえ、それは私。あれは衣装なの。父はその隣で、トランプみたいなことしてた人よ。」
僕は影男を思い出した。あれが、この子の父親?
「・・・でも、僕には彼の影しか見えなかったんだけど・・・」
彼女は少しだけ驚いたように、ようやく僕の方を見て言った。
「へえ、影だけ見えたの。おもしろいわね。」
僕がいぶかしそうな顔をしていると、彼女は続けた。
「父はね、実像がないの。見える人には見えるし、見えない人には見えないの。」
僕は、まだよくわからない、といった。
「つまりね、存在自体が、いると思う人にはいるし、いないと思う人にはいないってこと。わかった?」
僕はますますわけがわからなかった。黙って首を横に振った。
「でも不思議ね、あなたのように影だけ見えたって人は初めて。普通は全く見えないか、はっきり見えるかのどちらかなんだけど。」
「それは、僕が君のお父さんはいるかも知れないし、いないかも知れないって思っているってことじゃないかな。」
今度は彼女が納得いかない顔をしていた。が、僕は質問を続けることにした。
「ここに、僕以外の人が来たこともあるんだよね?その人たちは、どうしてここにきたんだろう?」
彼女は、今度は木の葉をちぎって、それをいじり始めた。
「さあ。そんなこと私にはわからないわ。でもきっと、来ることを望んだんでしょうね。あなただってそうでしょう?」
僕は答えずに続けた。
「その人たちは、今はもうここにはいないの?」
「ええ、みんなすぐいなくなるわ。ここにいたくなくなったのね。きっと。」
「じゃあ、ここにいたいとさえ思えば、ずっとここにいられるってこと?」
「さあ、そうじゃないかしら?だって、そもそもここはあなたたちが作った世界なんだから。」
ここはあなたたちが作った世界?
彼女はふたたび僕の方を向いて、微笑んだ。浅いえくぼの出来た笑顔は、さっきの彼女の顔ではなかった。それは、幼なじみのミズキの顔だった。
僕はビックリして木の上でバランスをくずした。とっさに彼女の腕をつかんだとき、彼女は元の彼女の顔に戻っていた。
「大丈夫?ずいぶん動揺しちゃったのね。」
僕は彼女の顔をじっと見つめた。どうやら錯覚だったみたいだ。
「ごめん、ちょっと下に降りて休むよ。でも今の話、また後で聞きたいんだけどいいかな?」
「かまわないわ。」
僕は登る時より慎重に、木を下りた。途中で彼女を見上げたら、彼女はいなくなっていた。別の枝に移ったのかもしれない。
(ミズキに似ていたな。)と思いながら、木を下りて、僕は草むらに寝そべり、目を閉じた。
第九章 ミズキのこと
ミズキは、保育園の時からいっしょだった、僕の幼なじみだ。僕の家から道をへだてた公園の、真向かいに住んでいる。ミズキは瑞季と書く。目はくりっと大きくて顔が小さく、笑うと浅いえくぼが出来た。出会った時からずっとショートヘアで、スカートを履かずにズボンばかり履いていた。いわゆるおてんばで、小さい頃から女子より男子と外で遊ぶのが好きだった。僕らは近所ということもあって、小さいころはほとんど毎日いっしょに遊んだ。僕らの家は公園を挟んで向かい合わせだったから、休みの日はよく窓から鏡で光を反射させる合図をして、公園で待ち合わせをして遊んだものだ。ミズキは負けず嫌いで、遊びでずるをした奴には、相手が上級生でも平気でケンカをした。おかげでよく止めに入って、僕が殴られたりすることもあった。また、男子とばかり遊ぶミズキを女子はよく思っていなかったようで、時おり衝突していたが、ミズキは「私の半分は女から、半分は男からできているの」といって取り合わなかった。
僕はそんなミズキが好きだった。それは友達として、ということだ。女子みたいに泣いたり、グチグチ影で文句を言ったりもしない。いつも正々堂々としていた。僕らは遊びだって、ケンカだって、(ケンカは口だけ。だからいつも口べたな僕が折れていた)いつだって本気でやった。しかし、それも小学校4年生までのことだった。ミズキはバスケットボールのチームに入り、僕らとはほとんど遊ばなくなった。そして5年生になって、ミズキは髪を伸ばし始めた。スカート姿も見かけるようになった。噂によれば、同じチームのキャプテンをしている、6年生の男子と付き合っているらしかった。二人で下校しているのを、僕もよく見かけた。
僕は、ミズキを女子として意識したことはなかったし、好きだとか、そんな気持ちは抱いたことはなかった。もちろんミズキが僕と遊ばなくなった時は寂しかった。でもそれは単にその意味で寂しかっただけだし、他の男友達でも同じように感じただろう。しかし、ミズキのスカート姿を初めて見た時にすべてが変わった。僕はこれまでとは違った、不思議な感情をミズキに抱いた。それから僕はミズキを見るたび、長い髪や、少しずつふくらんでいく乳房や、柔らかそうな白い太ももに目が行くようになった。そんな自分が最初はすごく恥ずかしくて、嫌だった。また、そうやって変わっていくミズキも嫌だった。けれども、ミズキに対する感情は、どんどん膨らんでいった。それが恋だと気づくまで、そう時間はかからなかった。僕はミズキのことを夢でも見るようになった。ある時はこんな夢を見た。ミズキも僕も幼くて、彼女はまだショートカットだった。僕らは(当時は一度もやらなかったはずだが、)おままごとをして遊んでいる。ミズキはミニスカートにエプロンをして、料理をして僕に食べさせる。次にミズキはお風呂に入りましょうと言って、僕の服を脱がせようとする。僕があわててミズキの手をはねのけると、ミズキは弾みで倒れてしまう。手を差し伸べて起こそうとすると、ミズキは今のミズキになっている。体は成長し、髪も伸びている。ミズキは上目使いで僕を見つめ、不敵な笑みを浮かる。立ち上がって「じゃあ私から脱ぐわね」といって足を開き、自分でスカートを脱ぎ出した。つるんとした肌の、か弱そうな下腹部が露になった。ミズキは下着をはいていなかった。僕は、やめろ、やめろ!と叫びながらも、目を離すことが出来ない。あともう少しで見えてしまう・・・というところで目が覚めた。息を止めていたかのように呼吸が乱れ、心臓がバクバク鳴っていた。
僕は、ミズキへの思いをどうしていいかわからなかった。ただ、ミズキをずっと眺めているほかなかった。そのうち、ミズキは僕と目が合うと、そらすようになった。僕の特別な好意に、気づいたのかも知れなかった。拒絶されたようで、すごく悲しかった。僕はこれ以上傷つくのが怖くて、ミズキを避けるようになった。それ以外、どうすることもできなかった。僕はこの気持ちを、他のどこにぶつけることもしなかった。僕はただひたすら感情を押さえつけ、消え去るのを待った。やがて小学校を卒業し、ミズキとは別の中学に入った。しかし学校でミズキを見ることは無くなっても、ミズキの夢は続いた。風の噂で、二人は別れたらしいと聞いた。しかし僕の苦しみは変わらなかった。朝起きた瞬間から、ただ悲しく、むなしい想いが、いつまでも僕を支配した。
この頃から僕は、少し性格が変わってしまったかもしれなかった。何をやっても、100%楽しむことができなくなっていた。心のどこかに抜け穴があって、そこから少しずつ何かが抜けていくようだった。何かが常に足りないという気がしていた。
母親が最初に気づいた。僕が元気がないこと、ミズキと遊ばなくなったこと、そしてどうやら、ミズキが男と付き合っているという噂をどこからか耳にしたらしい。女の勘というやつか、ピンと来たのだろう。最初は学校でいじめか何かあったのかと聞いてきたが、それとなくミズキのことを口に出してくるようになった。僕はミズキとはもう遊んでいないし、話もしていないから知らないといった。しかしその後もことあるごとにミズキの話をしてきたので、僕は無視することにした。母親としての無邪気な好奇心が、どれだけ息子を傷つけているのか、彼女にはわかるはずもなかった。母のそういうところが大嫌いだった。
第十章 青い鳥
だいぶぐっすりと眠れた気がしたのに、太陽はまったく同じ位置にあった。風景も、さっきとなんら変わっていなかった。僕はカバンを取り出し、腕時計の時間を見た。時計は止まっていた。まったくこんな時に限って!しかし太陽の位置からして、おそらく昼の一時か二時頃と言ったところだろう。僕は役立たずな時計をしまい、また辺りをうろつくことにした。
木から右側に進むと、塔やその脇の建物が真横から見えた。塔の高い所に小さな小窓があって、中のろうそくが灯されているのが見えた。塔の脇の背の低い四角い建物は、どうやら人が住む家になっているようだ。窓からは立派なダイニングテーブルや重そうなチェストなどの家具が見えた。どのテーブルにも花が飾られた大きな燭台が置かれていたが、どれもろうそくは立てられてなくて、部屋の中は暗かった。
塔の反対側は、糸杉の木が立ち並び、地面は草がはげて、湿った土がむき出しになっていた。日陰なせいで、空気はひんやりとしている。僕は、ここに入ってきた時のことを思い出した。僕は死体のような固まった体で、ここに運ばれてきたのだった。僕は湖に近づき、その水に指で触れようとした。だがしゃがもうとした瞬間、誰かが僕の肩に手をおいた。
振り返ると、それは手ではなく、鳥だった。手に乗るほどの小さな体で、お腹以外は光沢のある瑠璃色の羽で身を包み、目は透きとおった黒だった。目が合うと、瞳を瞬かせ、肩から飛び立った。そして少し離れた場所で、僕の目の高さで飛び続けた。ずっと僕の方を向いている。僕は小鳥に近づき、手を差し伸べた。すると鳥は、また少し離れた糸杉の枝に移動し、短く啼いた。コロコロとした鳴き声だった。そしてまたじっと僕を見る。僕を誘っているみたいだ。僕は鳥に導かれるまま、糸杉の林の中をジグザグに歩いた。
途中、視線を感じて窓を見ると、影男が立っていた。影なので前か後ろかはっきりわからないけど、多分、こちらを見ていた。そう言えば、あの子は変なことを言っていたな。影に見えるのは初めてだって。彼が、僕には影に見えるのはなぜなんだろう?
立ち止まって考えていたら、鳥が急き立てるように大きく鳴いた。僕は再び鳥の方に向き直り、糸杉の林を抜け、建物の脇を通り、また元の場所に戻ってきてしまった。鳥は、さっき僕らが登った木の枝に止まった。同じ枝に、同じ鳥が三匹並んで止まっていた。話をしているように向かい合って短く鳴いていたが、そのうちおもむろにさっきの鳥が鳴きだすと、あとの2匹もそれに答えるように鳴いた。彼らはバラバラにメロディーを奏でた。しかし、それは押し寄せる波の音のように、不規則ながらも心地よく調和し、一遍のうたになってこの湖に響いた。うたが風を呼び、湖が風の足跡を映した。奥の森は吹き抜ける風の音を奏で、森の中からはさまざまな鳥の唄い声が聞こえた。太陽は僕らの顔にそれらの移ろう影をまだらに創った。僕は静かに、この世界に身を委ねた。太陽のぬくもりを運ぶ風が、僕の頬に触れた。風は僕の体をくるむように吹いて、また彼方へと流れていった。体のすべての細胞がひとつずつほぐれて、陽の光を全体にあび、ゆっくりと時間をかけてふたたび体を形作っていった。僕の体は、生まれ変わったように力がみなぎっていた。
どれだけそうしていたのだろう。時を告げるように、ぐるぐる、とお腹がなって、ふと我に返った。そういえば、もうお昼をとっくに過ぎているはずだ。さっきは1時くらいだったから・・・と思いまた太陽を見ると、太陽はありえない方向に傾いて、遠い場所にいた。しかも1時くらいにはなかった、土星のような輪のある大きな星が、太陽と僕の間に立ちはだかっていた。なるほど、これは夢だ、と僕は思った。
タイミングよく、建物の方から食べ物のいい匂いがしてきた。チキンを焼いたにおいだ。ほのかに薬草のようなにおいもする。ついついそちらに足が向きかけたところに、ちょうどあの娘が出てきて、僕を手招きしてくれた。
影男が塔から戻ってきた時には、陽はちょうど暮れたところだった。重たそうな立派な木のテーブルに、僕ら三人は座っていた。僕らは細長いテーブルに三角形になるよう、僕はテーブルの端に、影男と娘は向かい合って座った。僕はやたら緊張していた。他の家で食事する時はいつもそうなのだが、今回は特に、だ。それも、この部屋ときたら、何もかもが行ったこともない高級レストランのようだからだ。このテーブルをはじめ、すべての家具と柱は同じ色調で揃えられ、滑らかな表面は丁寧に磨かれて光沢している。壁は薄茶色の落ち着いた色合いの花模様で、部屋の一番奥には、レンガで出来た暖炉があった。さらに僕が驚いたのは、給仕の登場だ。(給仕なんて、今までレストランでしか見たことがなかった。)隣の部屋から女性の給仕が現れ、僕らの席を手際よくセッティングしてくれた。彼女は影男に小声で確認してから、部屋の隅に置かれたレコードをかけ、暖炉に火をつけてから、食卓に大きな燭台をおき、真新しいろうそくを立てて、マッチで火を灯した。
赤いテーブルクロスの両わきに置かれた、細かい傷のついた、使いこなされた感じの銀色のナイフやフォークがあやしく瞬いた。娘の顔は炎に照らされて、頬の高さが浮きだち、細いあごが強調されていた。目にはオレンジ色の光の粒が宿り、彼女の緑がかった茶色い瞳を明るく染めていた。
僕は影男の方を見た。影男は、目の前でろうそくの灯が灯され、どうなったと思う?
彼の姿は、炎ではっきりと映し出された。彼は、まったくの生身の人間だった。彼が、
「やあ、君か。」と低い声を発した時、僕はとんでもないものを見たような顔だったに違いない。彼の声はややかすれているが、まっすぐで、はっきりとした奥行きと太さを持った声だった。例えるなら、何万年もの間、じっと動かずに、地球の奥深くまで太い根を張り、その体で幾億もの生命を培ってきた巨木のようだ。シルクハットはなくなっていたものの(僕は気づかなかったが、おそらく部屋に入った時に外したのだろう)、大男で、燕尾服を着て、姿はあの影そっくりだった。
彼と娘は、まったくと言っていいほど似ていなかった。眉毛が太いところは似ていたが、彼のは娘とは比較にならないくらいゲジゲジだった。鼻は円を大1個、そのわきに小を2個描いたようなだんご鼻で、目が小さい分、それは顔の中でもっとも存在感があった。口には習字で使う一番太い筆くらいのひげをはやし、髪もごわごわした毛が真っ黒くうねっている。音楽室に飾ってあったベートーベンの肖像画や、どこかの国の、口を縦にしてすさまじい大声で歌う、とても太ったおじさんに似ていた。体格は、影で見るよりもっと太めだった。それはいつも、少しだけ伸びていたのかもしれない。
二人の顔が並んでいるのを見ていたら、あまりに似ていなすぎて笑いがこみ上げてきた。僕は失礼だと思い、笑うのを必死に堪えていたのだが、娘はすぐ気づいたらしい。
「あら、何がおかしいの?」と話しかけてきた。
「いや、何でもないです。」僕は敬語になっていた。
給仕が入れてくれた水を一口飲んでから、
「仲がいいなと思って」と付け加えた。
「父と私が、似ていないと思ったんでしょう?」
娘はそのすべてを見通すような瞳をいたずらに光らせ、僕を見た。
「正直にいうと、そう思いました。」
娘は膨らんだ頬の下に愛らしいくぼみを作り、ふふ、と笑いながら、
「ほら、やっぱり、ね」と父を見た。影男は(もう影ではなかったが)、
「いいんですよ。よく言われるんです」と僕を見た。ふくよかな笑顔だった。
「私としては、寂しい反面、でも実際、似なくて良かったとホッとしているんですよ。」
父と娘は、向き合ってこちらを見て笑った。僕も笑った。
給仕が大きな鍋を運んできて、温かい空豆のスープをよそってくれた。僕らはスープをすすりながら、お互いに関するいくつかの質問をした。僕は神奈川県に住んでいて、13歳で、中学校にあがったばかりだということ、10歳の妹がいて、庭でカメのモハヤを飼っていること、休日はほとんど図書館で過ごすことなどを話した。娘は15歳で、名前をジュンといい、学校には通っていないこと、料理は苦手で、木登りや魚釣りや狩りが得意なこと、スカートは一着も持っていないこと、そして秘密の特技があると教えてくれた。影男は黒いビールを飲みながら、僕らの話を、終始穏やかな表情で聞いていた。
料理はサラダ、前菜と続き、メインディッシュは予想通り、チキンレッグの香草焼きが出てきた。つけ合わせはほうれん草のソテーと、僕の大好きなマッシュポテトだった。僕はパンとマッシュポテトをおかわりし、さらにジュンが食べ残したチキンを分けてもらった。とっても美味しくて、いつもの倍は食べた。影男はすでに黒ビールを二杯飲み干し、赤ワインを飲んでいた。彼は酔い始めたのか、少しずつ饒舌になった。目を潤ませ、頬や鼻を朱色に染めながら、彼はここでの家族の出来事を、時にオーバーに、しかし的確に描写しながら、ユーモアを交えて語った。ジュンがのびやかに成長する過程を、彼がしっかり見守ってきたのがわかった。そしてそこには、常に公平で、おおらかな彼の視線が感じられた。
ジュンはそんな父の話を、時にちゃかしたり、ちょっと恥じらいだりしながら、にこやかに聴いていた。彼女の横顔は、本当に美しかった。
僕はこの親子をうらやましく思った。僕が思い描く、理想の親子だった。僕は自分の家族のことを思い出しそうになっては、何度もそれを消し去った。そうして二人のやりとりを見ながら、うっとりしていたかったのだ。
ジュンのお父さんは、お皿を下げた後、給仕さんを呼んだ。彼女は友世さんといって、母代わりとなって自由奔放なジュンを育てながら、このすばらしい料理はじめ、この家の家事を一手に引き受けてくれてはや9年になる。と、日頃の感謝を込めながら僕に紹介した。
友世さんは線の細い色白な女性で、年は僕の母より5、6歳年上と言ったところだろうか。穏やかで、控えめな印象だが、その笑い皺のある親しげな小さい目は、ジュンに負けないくらいすき通っていた。彼女の目は、どんなひどい嵐でも受け入れ飲み込んで、翌朝にはけろっと穏やかさを取り戻している、朝凪の海のような、爽やかさと広さを感じる眼だった。友世さんは清楚な笑顔で、何かお望みがありましたら、遠慮なくおっしゃってくださいね、と優しく声をかけてくれた。コロコロした、耳心地のいい声だった。
友世さんはレコードを交換し、クラシック音楽をかけた。一度台所に戻り、今度はデザートとティーポッドを持ってきてくれた。レモンの効いたレアチーズタルトに、いちごのアイスクリームが添えられていた。どれも今まで食べた中で一番おいしかった。そしてジュンの隣に座り、僕らと一緒にデザートを食べ、食後の紅茶を飲みながら話をした。
彼女はその瞳が讃えるとおり、ただ静かにそこに佇んでいるだけで、人を惹きつける何かを持っている人だった。彼女の居住まいや、清らかでゆったりとした手の動きを見ていると、まるで、時間の流れをゆるやかにしてしまう楽器を奏でているかのようだった。彼女がいると、僕の心は潮騒を聴いているように安らかになった。
ジュンのお父さんは、ワインを片手に、この世界のすばらしさを語った。それはここには光が届かないほど遠く、塵ほども小さい星たちに思いをはせるような、ロマンチックで、繊細で、壮大な想いだった。
友世さんが再び台所に戻ると、会話はいったん途絶えた。
窓の外は、すっかり日が暮れていた。壁に掛けられた時計は、11時を指していた。遠くからフクロウの声が聞こえ、夜風の冷めた空気が、窓ガラスに映った。父娘はまた談笑を始めた。ぼくはレコードから流れるまったりした古い音楽と、二人の弾んだ声をBGMにしながら、窓の外の気配を伺った。そう、いつも教室でそうしているように。
しかし、ここは底冷えする寒々しい教室ではなかった。暖炉で暖められたこの明るい部屋は、辺りを支配する膨大な闇から僕らを守ってくれる、たったひとつ残された秘密基地のように思えた。ここは、とても親密な、僕がいるべき空間に思えた。僕は気がつけば、日の当たる場所にすっかり身を預けて午睡する猫のように、すっかり安心して、この場所に身を委ねることができた。この人たちを信じることができた。彼らの素直さや、快活さや、明るいぬくもりが、僕の体をぽかぽかと温めた。
目の前の窓には、寒々しいあの街でも、闇でもなく、朗らかな僕の顔が映っていた。
第十一章 ふたりの夜
食卓を離れたときは、もう12時を回っていた。僕はジュンの部屋に居候することになった。僕らは友世さんから小さな燭台とティーポットを受け取り、食卓に残った二人におやすみを告げ、ダイニングを後にした。
各々の部屋は、塔を隔てて反対側の建物にある。塔は通り抜け出来ないため、僕らは一度外に出なければならなかった。ジュンが燭台を持って先を歩き、僕はポッドやカップの入ったかごを持って後を追った。草むらを越え、丘を下がり、塔の下の川をまたいで通り、また丘を登って建物に辿り着くまで、僕らは無言だった。
ジュンの部屋は塔から二番目の部屋だった。ドアには鍵がなかった。中はロッジ風で、壁の木肌そのままの色と、カーテンや椅子の白と青の組み合わせが、さわやかな夏を連想させた。二間に分かれていて、今ぼくがいる場所には西側に机と本棚が、窓際には一人用のリラックスチェアが二脚と、小さなテーブルがあった。絨毯がひかれた奥間にはベッドとチェストが置かれ、窓側には白と青の縞模様のハンモックがぶらさがっていた。
ジュンは湖に向けられた掃き出しの窓を開けた。涼しい外気がすっと部屋に入ってきた。僕に椅子をすすめると、ジュンは奥の部屋に入って、仕切りのカーテンを閉めた。僕はかごを小さなテーブルに置いて、窓際の椅子に座った。外からは夏虫の鳴く声があちこちから聞こえた。湖は月明かりに照らされ、蓮の影の合間に月光の川をつくっていた。
僕はぶらりと外に出た。深呼吸すると、夜の匂いが肺いっぱいに入ってきた。腕を広げて伸びをしたら、あくびが出てきた。いつもならもうとっくに寝ている時間だ。僕はとたんに、体に心地よいだるさを憶えた。確かに、今日という一日はとても長かった。けれども、今日という一日は、いつからか僕を支配していたむなしさから、僕を解放してくれた。
霧は晴れた。と僕は声に出してみた。見上げると、そこには満天の星が輝いていた。
部屋に戻ると、ジュンは真新しい、青と緑のタータンチェックのパジャマに着替えていた。そして僕に水色のパジャマを渡し、奥で着替えるように言った。ジュンはチェアに寝そべると、指笛を吹いた。すると、昼に見かけた青い鳥が、三匹揃って部屋に入ってきた。どうやら、ジュンに飼われているらしかった。三匹は天窓の窓枠に止まり、ジュンに向ってチュンチュンと鳴いていた。
僕は奥の部屋に入り、ノリがついたパリパリのパジャマを着て、脱いだ服をたたんで、棚に置いた。ジュンのところに戻ると、彼女は鳥に向かって鳥の鳴きまねをしていた。僕は隣に座り、入れてあった紅茶に口をつけた。
彼女は鳴くのをやめ、僕に自分の家族のことをどう感じたか聞いてきた。とても魅力的な人たちだ、と答えると、嬉しそうに照れ笑いした。ほころんだ顔がたまらなく僕の胸をくすぐった。その笑顔で、父さんも友世さんも、あなたのことを気に入った様子だったわ、と言ってくれた。
それからしばらく沈黙が流れた。僕らは椅子を並べて、外の夜景を見ていた。
僕は、これから十年だって、二十年だって、こうしてジュンと、この景色を眺めていられる、と思った。その日々の生活を想像した。僕は、少々気が早いたちかも知れない。けれども僕は真剣にそのことを考えていたし、真剣にそれを望んでいた。その思いは今後もずっと続くし、より深刻に深まっていくと確信できた。
「もう寝ましょうか。」とジュンが言った。
彼女は僕にベッドで寝るように勧めたが、僕はハンモックで寝たことがないから、ぜひ寝てみたい、と話した。では一日ずつ交互に寝ましょう、という彼女の提案どおりにすることにした。
僕らは部屋に備え付けられている洗面台で顔を洗い、歯を磨いた。それからハンモックで寝るコツをジュンに教えてもらい、五回失敗してようやく僕はハンモックに乗ることができた。ジュンは僕に毛布をかけてくれ、燭台の火を消し、ベッドに入った。僕らはお休みと声をかけあい、眠りについた。
・・・眠れない。ソワソワして落ち着かない。僕は眼を閉じて必死に眠ろうとしたが、まったく効果がなかった。それはベッドに比べ不安定なハンモックの寝心地のせいもあるし、夏虫やフクロウのまばらな鳴き声のせいもあるが、やはりジュンと同じ部屋に寝ているからだろう、と僕は思った。僕と彼女は体が平行になるように寝ていたので、僕は彼女の寝姿が見えないように、彼女に背を向けるように寝た。しかし、他のことを考えようにも、ジュンの小さな寝息や、寝返りを打つ衣ずれの音が聞こえるたび、その努力は無駄に終わった。
仕方なく、僕は体の向きを変え、ジュンを見た。彼女は片足を布団から出して寝ていた。初めてみる女の子の寝顔は、とても無防備な、というか、ちょっとゆるみすぎるくらいの、間の抜けた顔だった。暗闇で、ひとり笑った。
まもなくして、僕は眠りについたようだった。
第十二章 湖の暮らし
9月16日。
僕はハンモックから落ちて目を醒ました。正確には、起きた瞬間に落っこち、腰をしこたま打った。腰は痛かったが、こんなにぐっすり眠れたのは、本当に久しぶりだった。
外はすでに明るかった。ジュンはもうベッドにはいない。3匹の鳥(ジュンは昨日オオルリという鳥だと教えてくれた。)もいなくなっている。ジュンが外に出したのだろう。僕は彼女にドジを見られなくてホッとした。腰の痛みが和らぐのを待ってから、せっけんで顔を洗い、歯を磨いた。鏡に映った自分が別人に見える。頭も体も、これまでのけだるさが嘘のようにすっきりして、全身に生気がみなぎってきた。
ハンモックの下には、キレイに畳まれた青い半袖のポロシャツと、ジーンズが置かれていた。どうやら友世さんが持ってきてくれたらしい。代わりにカバンに仕舞ったはずの衣類がなくなっていた。僕は腰に負担がかからないよう、慎重に着替えた。用意された服は、測られたように僕にぴったりで、かつ僕の好みだった。
僕は小学校三年生まで母親に与えられた服を着ていたが、あまりに趣味が悪く、なぜかいつも一回り小さいサイズを買ってくるため、(今思えば、僕が成長期だったからかもしれない。)僕はお金だけ親にもらって、自分で服を買うようになった。初めて自分で買ったのが、紺色の半袖のポロシャツ(ボタンは黒で、肩章がついていた)と、ジーンズだった。懐かしさがこみ上げた。友世さんがお母さんだったら良かったのに、とジュンをうらやんだ。
僕は部屋を出た。空は快晴で、宇宙ほど高く、広い。丘のふもとでは、蓮畑と化した湖が、今日もその清らかな水を無数の花びらに捧げていた。
僕がダイニングに入ると、友世さんがすでに席を用意してくれてあった。僕が昨晩と同じその席に座ると、見計らったように友世さんが台所からやってきた。朝の挨拶を交わすと、彼女は柔らかな表情で、「昨日はよく眠れましたか?」と話しかけてきた。僕は静かに笑って、はい、うなずいた。彼女を見ると、僕はつい背伸びして、上品に振る舞いたくなってしまうと気づいた。
ジュンさんを呼んできますと言って、彼女はまた台所に消えた。しばらくして、庭に続く窓からジュンが入ってきた。つばの広い麦わら帽子に、涼しそうな淡い緑色のシャツに、ジーンズのホットパンツを履いていた。外で遊んで来たのだろう、すでに額に汗がにじんでいる。
「おはよう。よく眠れたようね。」椅子に座り、帽子を外しながら言った。
僕は彼女の寝顔を思い出した。自然に顔の筋肉がゆるんだ。
「うん、ハンモックは寝ている間は快適だよ。」と僕は答えた。彼女は小さく笑った。
友世さんが朝食を運んできた。食卓に朝日が差して、ぷっくりしたオムレツが、誇らしげに白いゆげを立てている。
「いただきまぁす!」とジュンが嬉しそうに食べ始めた。次から次へと大きな口の中へ、パンやらトマトやらを運んでいく。僕はそれを見て、食欲が湧いてくるのを感じた。おいしそうにご飯を食べる子が、僕は好きだった。友世さんも嬉しそうに、ジュンの食べっぷりを見ている。僕も僕にしては大きな声でいただきますと言い、ジュンに負けじと、もりもり食べた。
「今日は釣りをしましょ。」とジュンは言った。
食後に友世さんから大きなバスケットを受け取り、外に出て、部屋がある建物の奥手にある林に向かった。その入り口には、黄色くペイントされた古びた小屋があった。中には壁や机の上にロープや木の板、釣り道具や工具などが並べられ、足元にはバケツやホースなどのほか、車輪や鉄パイプや、水道に使いそうな大きな部品のほか、小型のボートや滑り台が放置されていた。
僕らは小屋からハンモックと釣り道具を持ち出し、林を右手に下って桟橋に出た。そこで小型のボートに乗り込み、蓮花の咲きほこる湖を、ゆっくり奥へと進んだ。
蓮の茂みは、小さな生物の棲み家になっていた。トンボやカエル、アメンボやミズスマシ、水中にはゲンゴロウやメダカなどの小さな魚や、稚魚の群れが泳いでいた。湖底は最も深いところで4~5メートルほどあり、そこではフナやマスなどの大きな魚が、透き通った湖水の中をのびのびと泳いでいた。島と湖岸の真ん中あたりでボートを停め、つりの準備をしていると、挨拶をするかのように、昨日のあの巨大魚が真下を通っていった。この湖の主のような風格だ。
僕らは夕食になる魚を中心に釣った。中には金魚みたいに赤や黒い模様のついた鯉や、うろこが鎧みたいにゴツい、古代魚のような魚が釣れてしまうこともあった。まさしく入れ食い状態なので、僕らは夢中になって釣果を競いあっていたが、そのうち目当ての魚を先に釣った方が勝ちという新ルールで競ったりした。
友世さんが持たせてくれたバスケットには、温かい紅茶が入った水筒と、ハムやトマト、卵やレタスが挟まれたサンドイッチがたくさん入っていた。おなかがすくと、僕らは湖岸までボートを漕ぎ、木陰にラグを敷いてサンドイッチをほうばった。そこで今日の釣果や、ジュンの森や湖で出会った珍しい動物たちの話を聞いた後、ハンモックを吊るして午睡した。緩やかで、のんびりした時間が流れた。
昼寝の後、ジュンは森を案内してくれた。木はうっそうと茂り、木漏れ陽は白い光の柱となって、空中で群がる虫たちや、びっしりと蔦のはった木の幹や、生い茂る緑の中で慎ましやかに咲いている野花を照らした。
森の中では、あちこちで生物の気配がした。ジュンはそのたび耳をすませ、何の動物か言い当てた。森は豊かで、僕がこれまで見たどの動物園より、多くの動物が棲んでいた。ウリ坊四兄弟や、ウサギのおばあちゃん、鹿の親子、求愛活動をするクジャク、巣作りに夢中なお父さんアリクイに、木の実をほうばった食いしん坊なリス、警戒心ゼロで地面を歩くナマケモノなどだ。彼らを見つけると僕らは草陰にかくれ、じっと息をひそめて観察した。僕は新しい動物に出くわすたび、幼いほどはしゃぎ、胸をときめかせながら彼らの行動を見守った。いくら見ていても、ぜんぜん飽きなかった。ジュンも、真剣に目を凝らしていた。
僕らは、日が暮れるまでそんなことをして過ごした。
いつだったか、森の奥に、黒い馬の群れがいるのを見かけた。白く霞んだ森の中で、彼らのいるところだけ光が舞いおりていた。木漏れ日が、滑らかそうな毛並みの上で、きらきらと輝いた。彼らはお互いの顔をすりよせあったり、のんびりと草を食んだり、追いかけっこをしながら、光の中で戯れていた。おとぎ話にでも出てきそうな、そう、幻想のように美しかった。
僕がいつものように近づこうとすると、ジュンが僕を引き止めた。
「森の奥に入ってはいけないの。」どうしてかと尋ねると、森の奥に行ったら、戻ってこられなくなるからだと言う。僕はそれなら、印をつけながら進めばいい、と提案すると、彼女は僕の目をじっと見てこう答えた。
「森の奥は、違う場所なの。」と。僕はそれ以上質問するのをやめた。
それ以来、僕らが馬を見かけることはなかった。僕は時々ふと、呼び止められたような後ろ髪を引かれる感じがして森の奥に目をやることがあったが、そこには生き物の気配というものがまったく感じられなかった。
僕にとって、その透明で奥深い闇は、“無”へとつながる入り口だった。
第十三章 空を飛ぶ
そうして、来る日も来る日も僕はジュンとともに過ごした。
僕らがずっと仲良しになって、お互いの秘密を教えるようになった頃、ジュンはとうとう、ないしょにしていた特技を披露してくれた。
それは、空を飛べることだった。
彼女は上着を脱ぎ、タンクトップになった。そして目をつむり、呼吸をととのえると、両肩から、彼女の倍ほどもある大きな、オオルリそっくりの青い美しい翼が伸びた。僕はしばらく呼吸をするのを忘れた。夢でも、こんなものは見たことがなかった。
すごいでしょ?と彼女は笑った。それから僕に背中に乗るよう指示し、彼女は丘から湖に向かって助走をはじめた。僕はぎゅっと彼女の胴体をつかんだ。体を浮かせながら何度か地面に足をついてバランスをととのえ、彼女は飛び立った。僕らの島をゆっくりと旋回しながら高度をとった。オオルリが僕らの周りを飛び交って、島に戻っていった。僕らはあっという間に湖を超え、森を飛び越えた。 桟橋につなげたボートや、湖の巨大魚や、きょとんとこちらを見ているウサギや鹿の群れが、どんどん小さくなっていった。
森の先は、一面すすき野原だった。彼女は超低空飛行で、野原を駆け抜けた。すすきがカサカサと音を立てて揺れ、僕らの道すじを描いた。強い向かい風に乗って、ジュンは大きく羽ばたき、雲の高さまで舞い上がった。しばらく雲の中をくぐって、僕らは雲の上にでた。太陽は、さんさんと輝いて、僕らの目を焼き尽くしそうだった。僕は片手で雲を握って、食べてみた。ひんやりしたほんのり甘い水蒸気が、口いっぱいに広がった。
僕らはまた雲をくぐって、だんだん高度を下げていった。丸い地平線の先には、海が見えた。雲の合間からぽつぽつ姿を現す陸地からは、一面緑の牧場が広がる半島や、ゆるやかな丘を形成している広大な砂漠、陸地の果てのような壮大な滝や、ジャングルが見えた。僕は恐さを忘れ、ジュンの肩越しで次々に現れ、移り変わっていくその眺めを、まばたきも惜しんで見続けた。
そして僕らの遊びには、空中散策が加わった。
僕らはこうして、晴れた日は湖や森の中で過ごし、ジュンの仕事がない日は空を飛んだりした。雨や雪の日は読書やゲームに興じた。冬は湖が凍るため、僕らには広大なスケート場が与えられた。春はベリー摘み、秋はきのこ狩りをしながら動物たちと戯れ、夏には、僕らは湖で泳ぐことを許された。僕らは水中で昆虫や小魚を観察したり、貝を採ったり、あの湖の主と並んで泳ぎ、巨大魚の優雅な泳ぎをまねたりした。
僕の体はどんどん成長した。背も伸びたし、全身の筋肉は怒張したように太くたくましくなり、体がひと回りもふた回りも大きくなった気がした。走るのも速くなったし、重たい物も持てるようになった。そのうち僕は体を鍛えることが楽しくなり、ジュンの部屋で腕立て伏せや腹筋など、筋肉トレーニングをするのが日課になった。僕はここで、新しい強健な皮膚をまとったような気がした。
僕は毎日、明日を夢見て眠り、そして新しい朝を迎えた。
もう、ミズキの夢を見ることはなかった。彼女の存在は、あっという間に記憶の彼方に追いやられていた。それはミズキだけではない。僕はあの世界―僕がここに来るまで生きていた世界―を、ほとんど忘れかけていた。また、ほとんど思い出しもしなかった。それはもう、僕にとっては過ぎ去った街であり、古い夢のようなものだった。
でも時々は、不安で眠れないこともあった。この夢が覚めてしまうのが恐かったし、今となっては、これが現実でないことが恐かった。僕はあの黒猫に眠らされてここに来たのだから、ここは夢であるはずだ。でもここは、夢にしてはリアル過ぎる。痛みだって感じるし、それに、ひとつの夢のわりにはずいぶん長い。あんまり長過ぎる。ここでは一秒も途切れることなく、現実と寸分違わず、時間が刻々と流れている。
そんな日には、黒猫の最後の言葉が、僕の胸に突き刺さり、僕を痛めつけた。彼は、あの図書館から誰も戻ってくるものはいないと言った。みなさん、ここで消えます、と。であれば、僕はもうここから元に戻ることはできないのか?あの時から、僕の身にいったい何が起きているのか?僕はあの世界で、ちゃんと肉体として残っているのか?それとも、黒猫に会ったこと自体が夢の中の出来事で、僕はまだ実は自宅のベッドで眠って、この夢を見続けているのか?
僕にはもう、どこからが夢で、どれが現実であるのかも分からなくなっていた。僕はそれを考え出すと、空間が歪んで渦をまきだして、立っていられないほどの強い目眩を起こした。
僕は出来るなら、ここが現実だと思いたかった。あの世界に戻りたくない。夢ならばずっと覚めないでくれ、僕はここにいたいんだと願った。そんな日は、眠るのがこわかった。
しかし現に、僕がこの場所から目覚めるということは起こらなかった。
これは、覚めることのない夢だった。
第十四章 覚めない夢
楽しい日々は、なぜこんなにも速く過ぎ去ってしまうんだろう。
もう、僕はジュンなしでは眠ることも、朝を迎えることもできなくなっていた。ジュンの存在はもはや、僕の中であまりに大きくふくらみすぎていた。
僕らの関係はいまだにプラトニックだった。僕はジュンへの想いを、その重みまでは悟られないように気を配った。それは単純に自分が傷つきたくなかったからだし、またもし彼女に受け入れられなかった場合、僕はこの世界をすっかり失うことを自覚していた。そしてそうするには、僕はジュンだけでなく、この世界のすべてを愛しすぎていた。この湖も、森も、友世さんも、あの影男ですらも僕は愛していた。(僕は今では彼を、本当の父親以上に慕っていた。)
一方でジュンも、僕の好意を柔和に受け止めながらも、これ以上関係が進むのを懸命に拒んでいた。ある時から、僕が触れようとすると、身を硬くし、僕の手を避けた。僕はその真意を、くみ取ることが出来ずにいた。僕らの間には、見えない蜘蛛の糸が張られていた。僕は、彼女に触れられないもどかしさに、身を震わせた。
しかしそんな状況に、僕はだんだん耐えられなくなっていた。毎日すぐそばで耳や目にふれる彼女の寝息や吐息や、肉づきのいい太ももや、成熟した胸や尻や、風に揺れる髪や、首筋を流れる汗が、いまや昼夜問わず僕を悩ませた。僕はボートの上で、あるいは森の中で、彼女を押し倒してしまいたかった。僕ははちきれそうな欲望を、ひとしれず夢の中で排出させるしかなかった。
そう、僕はまた、毎日夢をみるようになった。もちろんすべてジュンの夢だった。
ジュンはなぜ僕を受け入れてくれないのだろうか。僕は繰り返し彼女の背中に問いかけた。もちろん答えは返ってこない。しかし僕は、このことを誰にも相談できなかった。友世さんも影男も、僕らを黙って見守っている覚悟のようだったし、僕としても彼らに相談することで、今の関係性が変わってしまうのを恐れた。
僕は、最初に会ったとき、ジュンが話してくれたことを思い出した。ジュンは、この世界はあなたが作ったのよ、と言った。ではジュンも僕が作ったのだろうか?だとしたら、僕はひょっとして、ミズキの代わりとしてジュンを作ったのか・・・?いや。それでも今は、僕は間違いなくジュンを愛している。それに、おかしいじゃないか。本当に僕がこの世界の、ジュンの創造主だとしたら、僕は意のままにジュンと関係を結べたはずだ。しかし、現状はまったくちがう。僕が打ち破ることができない壁が、僕らの前に立ち幅かって、居座り続けている。もしかしたら、ジュンの気持ちや思想は、創造主である僕とは無縁に存在するのだろうか? それとも、彼女と僕が結ばれたとき、この世界に何か重大な問題が起こるのだろうか?
僕はこれまでのことを整理してみた。僕はあの光を思い出した。鈴の光。じいちゃんの葬式で見た光。とても懐かしい気がして・・・。葬式で見た、あの足・・・そうだ、僕はじいちゃんの死体になって、ここに流れ着いたんだった。そして体は塔に持っていかれて・・・。僕はぞっとした。全身の血が凍るほど、恐ろしい考えが浮かんだ。
でも、おそらくそれは現実だった。
とにかく。僕はこれ以上、同じことを繰り返したくなかった。ミズキに失恋した時のように、再び憂鬱な日々を送りたくなかった。もう現実を見ずに、夢に逃げ込むような彷徨った日々に戻りたくない。
僕はその一歩を、踏み出す決意をした。しかしそれは、僕を含めた、この小さな世界の均衡を、ともすれば損なってしまうかもしれなかった。もしそれによって―もちろん僕はそうするつもりは全くないが―ジュンを少しでも傷つけてしまったり、僕らの関係が終わってしまったのなら、僕は家族から追放されるか、どちらにしてもここから去らなくてはならないだろう。
しかし、僕にはもうすでに、他に選択肢はなかった。
第十五章 赤いしみ
それは、朝から冷たい雨が降る冬の日だった。
僕らは雨の日はたいていそうするように、ジュンの部屋で窓際の椅子に座りながら、朝から読書をしたり、たわいのない話をしていた。履き出しの窓は下の方が曇り、水滴をつけていた。外から冷気が入り込んで、僕らの足元をそっと撫でた。
ジュンは冬になると、本来の色白い肌を取り戻した。今日のように寒い日には、ほっぺたを桃色に染め、唇はいっそう赤みが増し、熟れた果物を思わせた。彼女はこの日は白いタートルネックにグリーンの毛糸のカーディガンを羽織り、紺色のタータンチェックの巻きスカートを履いていた。これは、彼女が持っている唯一のスカートだった。彼女はスカートを履くと、いつもよりいくぶんしおらしく見えた。
午後になっても雨は降り続き、さらに冷え込んできた。彼女は友世さんが編んだ茶色いひざ掛けを足に乗せ、紅茶の入ったカップで手を温めたりしていた。こんな天気の日には、僕もジュンも自然に口数が減った。僕たちは長いこと読書に専念し、気がついたら夜になっていた。
僕の紅茶のカップは空で、紅茶の渋がカップの底で干からびていた。ジュンは紅茶のお代わりを持ってくるといって立ち上がった。僕はティーポットを持とうとする彼女の手を掴んだ。久しぶりに触れた彼女の手は冷たかった。僕が立ち上がると、同時に彼女は手を離した。僕は彼女の顔をまっすぐに見た。彼女は少し青ざめた顔をしていた。僕はたまらず、「そんな顔をするなよ」と言った。
もう後には引けなかった。
僕の気持ちに、君はとっくに気がついているだろう?僕は君に、自分を受け入れてほしいんだ。もしそれが無理なら、僕はここを出て行く。でも、もし叶うなら、僕は一度でいいから、君を抱きしめたいんだ。
僕の体は最後の一滴を目からこぼし、もう枯れてしまいそうだった。僕はグッと彼女の腕を引き寄せた。彼女は抵抗しなかった。僕はジュンの背中に手を回した。彼女の体は温かく鼓動していた。首筋から、彼女の発熱を感じた。
僕は彼女に血をささげ、
ジュンは、僕のために血を流した。
ごめんなさい、と彼女は言った。どうしたらいいか、私たちにはわからなかったの、と。僕はかまわない、と言った。そう、これは、僕が望んだことだったのだから。
僕はそのままベッドで目を閉じた。僕の体の下には、ジュンの血で出来たシーツの沁みが広がっていた。それはやがて川となり、僕の体を夜の海に葬り去っていった。僕の頭から、濁ったものが川に流れ出した。
窓の外では、雨は雪に変わり、その結晶は音もなく土に溶けて消えていく。
雪はどれほど降りつづけば、この地表にその色を残せるのだろう?
第十六章 夏の嵐の日
僕は、竹林の前に立っていた。
オレンジ色の光は、数メートル先でふわふわと浮いている。
うだるような暑さの中、
冷や汗はじりじりと日に焼かれている。
僕は身をよじりながら歩いた。
頭はぼんやりして、何も考えられない。
ただ光を追いかけたい衝動にかられていた。
それは、どんどん竹林の奥へ進んだ。
やがて丘を登り、あの釜の中へと消えた。
釜の中を覗いても、何も見えなかった。
僕は錆びついた梯子をつたい、下に降りた。
横穴はなく、壁一面真っ黒で、奥行きがわからない。
僕は平衡感覚を失い、めまいがした。
釜の底で仰向きに寝そべり、真ん丸い空を見上げた。
ちょうど黒い雲が太陽を隠したところだった。
夏の嵐だった。
雷鳴が轟き、大粒の雨が降ってきた。
僕があわてて体を起こした時、
梯子が僕を目がけて倒れてきた。
それは一瞬のことだった。
目を焼き尽くす強烈なオレンジの閃光に包まれ、
僕は黒い煙を吐いて、意識を失った。
僕の死体が見つかったのは、それから数ヵ月後のことだった。
その後も梅雨が明けるまで雨は降り続き、僕の黒焦げの遺体は、釜にたまった黒い雨水の中に沈んでいたために、発見が遅れたらしい。
第十七章 祝福
夜が明けた。
僕らはカーテンも引かずに、そのまま寝てしまったようだ。外は雪化粧された風景の上に、穴があいたように空虚な、淡い青空が見えた。
ジュンはまだ隣で眠っている。彼女の体からは陽だまりのような体温が感じられた。
僕はベッドから離れた途端、くしゃみをした。どうやら風邪を引いてしまったのかもしれない。僕はストーブの火をつけ、椅子の上で毛布にくるまった。
僕はまぶたの裏に、羊の群れを見る。雲のようにもくもくした羊毛に包まれた彼らは、列をなしてだらだらと広大な緑の丘を登っている。そして丘の先には、この湖が見える。紺碧の空を映した湖は、手にしたものの精気を吸い込んで光り輝く、宝石のようだった。やがて羊たちは湖にたどり着き、水を飲み始めた。僕は大きな魚になって、湖底からその様子を、まるで獲物でも狙うかのように凝視している。青い水ごと、彼らをごくんと飲みこんでしまいたい。
僕は転寝から目醒めたようにハッとする。心臓が、のど元でコトコトと細かくふるえる。
ジュンが、僕の名前を呼んでいる。僕はその音韻をしっかりと抱きしめ、肌になじませてから、彼女のそばに身を寄せ、彼女を優しく抱きしめる。彼女の目は一瞬、血のように赤く染まって、またすぐに元の深緑色に戻った。
「今日からは、あなたも私たち家族の仲間なのね。嬉しい。」彼女はきらきらとその目を輝かせながら言った。
僕らが食堂に入ると、影男も友世さんも、すべて知っている様子だった。僕らは祝福を受けた。影男は、その大きな体で僕を抱擁した。
「我が息子よ。さっそく今日から、私たちの仕事を手伝ってもらうよ。」と彼は言った。
朝食が澄んだ後、僕らは塔の中に入った。真ん中に据えられた大きな白い風呂釜の上に台が乗せられ、僕はその上で、両肩にジュンと同じ青い鳥のタトゥを彫られた。
そして、それからはジュンと毎日、仕事をしながら、空を飛ぶ練習をした。
両肩の左右に伸びる骨の先に意識を集中させると、そこから翼が生えるようになった。集中できないと、左右で大きさの違う翼が生えたり、左右で種類の違う鳥の翼が生えてしまったりした。翼がしっかり出せるようになると、今度は羽ばたく練習をした。腕・胸・肩の筋肉を重点的に鍛えながら、僕は力を入れすぎずに、なるべく優雅に飛べるようにジュンを手本にして翼を動かした。
僕は半年かけてそれらをマスターし、さらに助走をしなくても飛べるようになるまで、また数ヶ月要した。飛べるようになってからも、僕は高所恐怖症だったから、徐々に高度を上げて練習しなければならなかった。不自由なく飛べるようになるまで、およそ1年を費やした。
それから、僕は毎日仕事に勤しんだ。僕らは夕食時に父から配られたリストと彼ら(それは人に限らず、動物であることもあった。)の居場所が印された地図をもらい、空路を考え、翌朝から世界中を飛び回って彼らをさがしだし、彼らにしるしをつけることだった。そのリストは数名ですむこともあれば、数千人に及ぶこともあった。でもそのように人数が多いときは、たいていはその地区にすむ全員だったので、僕らは空からその地区全体にしるしをつければよかった。
しかし空を飛び回ることは、予想よりもはるかに重労働だった。風や天候を読むために、その土地の風土も頭に入れていないといけないし、もちろん体力に合わせてコースも考えておかなければならない。また、飛んでいる最中にも、湿度や風向きに常に神経を配らなければいけないため、戻ってきた時には体だけでなく、脳もどっぷり疲れていた。
僕とジュンは繁忙期には別々に仕事をしなければならなかったが、ほとんど一緒に飛ぶ事が出来た。いまやふたりで湖や森でのんびりする時間は少なくなってしまったけれど、それでも僕は、この世界で役目を果たすという充実感を得ることができた。それは僕の生きる喜びでもあり、ジュンをはじめ、家族全員が喜んでくれていることだった。僕らは、これまでと変わらず、いや、これまで以上に仲むつまじく、この小さな世界で幸せに暮らした。
ある時、僕らは霧の街に向かった。
そこにはどんよりと濁った小川がある以外、特に特徴のない狭い街だった。僕は赤い屋根の家で、片目がつぶれた緑亀にしるしを付けた。亀は僕の顔を見て、ぎょっとした顔をしていた。人間はほとんど気づかないが、動物たちにはどうやら僕らの姿が見えるようだった。
僕が飛び去ろうとすると、亀が声をかけてきた。
「お迎えありがとう。君が迎えにきてくれて嬉しいよ。」と。
僕は何のことか分からなかったが、亀は僕を見て、朗らかに笑った。
「幸せそうでよかったよ。」と亀が続けた。
「よかったら、君も僕らの庭においでよ。」そう言って僕は飛び立った。晴れ晴れとした気分だった。
下界の霧のカーテンに、僕の影が写った。それは、シルクハットに燕尾服を来た、僕の影だった。
青い鳥と死神の長い夢