猫は死んでいた
2009年、高校の文化祭にて部誌掲載。
2010年11月21日、大阪芸術大学主催「"世紀のダ・ヴィンチを探せ!"高校生アートコンペティション2010」にて入選。
猫が死んでいた。灰色の猫の死体。だが、よく恐怖小説で描かれる醜穢な格好ではなく、形而上学的な死を単純に受胎しただけの静的な死であった。自分の帰る道に突然そのようなものが現れたから、僕は酷く自分が怖かった。西日を招く蝉の声がその恐怖を際立たせ、僕は緩やかに吹く風の寒さを感じながら猫の隣を通り過ぎて行った。すぐに暖房の効いた家に帰ることができると思うと、歩調が自然と速度を増す。二十数分歩き続けると、海が見えてきた。地平線の向こう側まで続いている海を視線が横切り、いつの間にか自分の両足は河川敷の上にあった。草は枯れ果て、河の水は芸術の域に達するまで澄んでいた。時間を忘れさせる空間。時間が分からない。時計など所持していないし、それ以前に自分の時間感覚など信じられない。大分歩いたが、もう少しで、ささやかではあるが、狭い部屋に帰れるのだ。そう念じつつ歩いていると猫に出会った。猫は僕の気配を感知したらしく、僕の方を振り向いた。その刹那から、睨み合う僕と猫。灰色の身体とその瞳は同化している、あるいは分離しているようだった。二つの眼がゆっくりと動く。僕が猫に対して何の攻撃もしないことに対して安心したようで、強張った緊張も徐々に解け、猫はトンネルの中に入っていった。僕は急いで後を追った。トンネルの中は暗かった。暗闇に紛れつつある猫を見失いそうになりながらも、橙色の光を辿るようにして狭い筒の中を漂流した。とうとう猫の存在が確認できなくなったと思ったその時、僕はトンネルから抜け出ていて、夕日の眩しい坂道で躓いて転倒してしまいそうになっていた。まだ近くに猫が歩いているかもしれない、だがその姿を眼にすることは叶わなかった。もう少しで帰宅できるという逸る心に急かされ、思考の方向を転換してまた歩き始める。気付けば烏は天高く赤褐色の空を遊泳し、彼ら(それら)と比較してみると僕は風景の中で非常に静的な存在であった。僕も彼ら(それら)に近づきたいと思って足を浮かせてみるが風の軌道には入り込めない。再び僕の身体が前傾姿勢になり、浮上したはずの足が何かを踏んだ。焦燥に駆り立てられて足を前に出すと、その正体が明らかになった。猫が死んでいた。灰色の猫の死体。だが、よくある突発的な死では無かった。あらかじめ形而上学的な単純な死が授与された状態でそこに存在していたからであった。早急に場から捌けようと一歩を踏み出した瞬間、それで生じた足音では無い物音が耳の後方から聞こえた。斜に歪んだ身体を翻すと、そこに倒れている猫の顔は、眼球が既に潰されていてその部分だけが際立っていた。だがそんなことが分かるはずはない。そんなはずはない。僕は猫の眼を潰したことがないからだ。猫の口角が何度か痙攣して、舌は何度か出入りを繰り返し、その内に身体の黒は深度を増す。何も視認できないはずの眼球が右往左往し、脚は宙を掻いていた。それは生の動作では無い。細い導線の縺れた操り人形のように、非自然的に動いていた。黒猫というパーツだけが時間の流れから遠く切り離されたもののようだった。蝉の声は一層張りを増して、とうとう、猫は立ち上がった。身体を大きく左右に振りながら、空気を嗅いで僕を探している。探りながら、しかし確実にこちらに近づく脚。僕は身体を退けようとしたが、青々とした草に足を取られ、地面に叩きつけられた。鼻孔に血が滲んでくるのが分かった。頭を起こすと、既に猫は僕の頭上で舞踊するように落下してきていた。しかしその猫の眼球は柘榴色ではなく、細い瞳孔だった。僕の真上に着地するかと思われた猫は、見事に身体を操り、赤黒い眼球に激突した。僕は起き上がると、彼ら(それら)の様子を見た。視力に損傷のない方に勝利があるのは明白だった。だがそう簡単には勝利を許さない。両者一歩も引かないまま闘争は続行し、僕は何もできずに彼ら(それら)を見守っているだけだった。その時、後方から、新しい猫が現れた。闘争を目撃するや否や、柘榴色を襲い始めた。夥しい数だった。地表はやがて黒い体毛で覆われ、風もないのに萱が擦れるような音が立った。太陽神への生贄のように、猫による色の濃い円が形成され、やがて骸と化した猫の姿が浮上した。今度は彼(それ)の身体全体が柘榴色だった。その時僕は全てを理解した。蘇生などありえない。ありえないのだ。一度終われば、それは終焉以外の何物でもないのだ。僕は激しく噎せてその場に嘔吐した。その音を感知したのか、何百、何千もの光る眼がこちらを向いた。僕を襲おうとしている。慌てて後ろに逃げる。陽炎で歪曲した砂利道が下っていた。だが僕は猫が来た方向を忘れていた。今僕は猫が来た方向に進行しようとしている。いけない。足が止まり、後ろを振り向く。一匹の黒猫が宙に舞踊していた。そして僕の頭に覆いかぶさった。倒れ落ちる。背中に嫌な感触があった。僕は既に円の中にいた。
僕は急いで坂道を駆け下りる。夕日はとうに遠き山に落ち、宵闇が忍びつつある。いつの間にか自分でも恐怖するほど呼吸が速くなっていた。どのくらい走ったのか分からないが、眼の前で猫が死んでいた。灰色の猫の死体。だが、よく恐怖小説で描かれる醜穢な格好ではなく、形而上学的な死を単純に受胎しただけの静的な死であった。自分の帰る道に突然そのようなものが現れたから、僕は酷く自分が怖かった。しかし、怖がる必要はない。そんなはずはないのだ! 僕は三歳の時に、事故で両眼を失ったのだ。僕はその見えないはずの眼で横たわった猫を凝視した。また動き出さないだろうか。期待と不安が半々だった。やがて体毛と闇とが同化する時刻になり、猫はゆっくりと動き出した。だがそんなはずはないのだ。猫は死んでいる。死んでいる。だから動き出さない、動きだせないはずなのだ。ならば、何故、生がここに存在するのか? 天を仰ぐ。一矢の飛ぶ如く空が開け、光が再現され、僕の眼の前で
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猫は死んでいた
文章の奥に潜む芸術性を追求した作品。とはいってもそこまで芸術性は深くないかもしれないと、読み返して思う。
「繰り返し」がある部分にお気づきだろうか。この文章全体のテーマでもあるが、途中まで読んで「あれ……?」と気づかれる方もいるかもしれない。
実はこれ、某氏のサウンドノベル風FLASHを参考にさせていただいた。とある一節にもろに出てしまっているが、どうかお許し願いたい。
当時の私にはこれが限界だったと思う。これ以上のものを書こうなら、きっと支離滅裂になってしまったであろう。
はたしてそれがいい結果になったか否かは、読まれた方に委ねられている。