懺悔

懺悔

懺悔1-6話

ここは、釜山港のはずれ、今では使われなくなった古い倉庫が、何棟か並んでいる。
人の気配の感じられないその倉庫街で、さきほどから、壁にサッカーボールのあたる、単調な音が、響いている。
12歳のサンウは、その倉庫街の中にある、これもまた古いアパートに、父親のヨンソクと2人で暮らしていた。
母親は、サンウが小学校にあがる少し前に亡くなった。
周りには、住む人もない、倉庫街で、サンウの唯一の友達は、サッカーボールだけ...
小学校から帰るとすぐに、サンウはボールを持って外に出る
しかし、一緒に遊ぶ友達はいない...
夕方、日が落ちて、ボールが見えなくなるまで、ひたすら、壁にむかってボールを蹴り続ける。

サンウの父親は、そのあ たりの倉庫の持ち主である、キム・ソル親分の下で働いている
父親の仕事は、覚醒剤の運び屋だ、夜にまぎれて、漁船で港を出て、日本との国境あたりで
日本から来た漁船に積荷を渡し、明け方近くに港に戻ってくる。
だが、小学生のサンウは、父親がどんな仕事をしているのか、知る由もない。

仕事のない日は、ほとんど酒びたりで、昼過ぎに自転車で出て行くと、夜中まで帰ってこない
サンウはいつもおなかをすかして、父親の帰りを待っている
父親が、居酒屋で作ってもらった弁当が、いつもの、サンウの夕食だ
帰ってくるや否や、布団にもぐりこみいびきをかき始めた父親の横で、サンウは遅すぎる夕食を食べる
そんな生活が、母親が亡くなって以来、ずっと続いていた。

時 々、サンウは、優しかった母を思い出す
最初に浮かんでくるのは、いつも母の背中だ
日曜になると、母は、幼いサンウを自転車の後ろに乗せ、教会へ通っていた
サンウが生まれた頃、父の借金の取り立てから逃げるために
住所を転々としていたため、サンウに洗礼を受けさせていないことを
母は、とても済まながっていた
『サンウ、お前が小学校に上がる前には、洗礼を受けさせてあげるからね...』

サンウは、母が布団に寝ている姿を見たことがなかった
朝早くから起きて、父のための弁当を作り
サンウを自転車の後ろに乗せて、保育園に送ったあと、建設現場の下働きに出かけ
夕方サンウを連れて帰宅し、サンウと父の夕御飯の支度や洗濯、掃除を済ませ
今度は、居酒屋の皿 洗いに出かけていた
その頃の父は、今のような人様に言えないような仕事をしてはいなかった
キム親分の表向きの仕事、貸倉庫の管理をするために雇われていたのだ
その収入の大半は、自分の飲み代と、バクチに消えてしまっていたが...
貧しいながらも、母の温かい愛情に包まれて過ごしたあの頃が
サンウにとって、一番幸せな日々だった...

サンウが小学校に上がる2か月前...2月の寒い日曜の朝
いよいよサンウが洗礼を受けることになっていたその日
母は、嬉しそうにサンウの洗礼のための準備をしていた。
『ガタン!』というただならぬ物音に、驚いたサンウが、台所をのぞくと
母が床に倒れていた...
母の傍に駆け寄り、体をゆすって『母さん!』と何度も呼ん でみたが
母はピクリとも動かない...
幼いサンウにも、母の身に何か恐ろしいことが起こったのだということはわかった。
不安と恐怖で泣きながら『母さん』と叫ぶサンウの傍で
母の体はだんだん冷たくなっていった...
前夜から、酒を飲み、バクチをして、父親が夕方やっと家に戻ったとき
すでに母の体は冷たく硬直して、その傍で泣き疲れたサンウが丸くなって眠っていた...

母の亡くなった後、教会の牧師様がサンウに洗礼を受けさせるよう
父を説得に来たのだが、『そんなもんが何の足しになるんだ?』と父は一蹴し
結局、サンウは今も洗礼を受けてはいない。

1台のトラックが、たくさんの荷物を積んで、ボールを蹴り続けているサンウの前に止まった。
この辺 に他人がやってきたのをサンウが見たのは、物心ついてからほんの数回だ...
いぶかしがるサンウの前に、サンウよりも幾つか年上らしい少女がトラックから降りてきた
運転席には、サンウの父親と同じくらいの歳の
大きな男が座っていて
『ひでぇオンボロアパートだな、こりゃ』と悪態をついている
『でも、父さん、もう借金取りに追いかけられることはなくなるんだから、我慢しなくちゃ』
少女はそう言いながら、ボールを持ったまま呆然と事の成り行きを見ていたサンウに向かって
ニコッと微笑み、『あんた、ここに住んでるの?』と問いかけてきた。
突然の質問に、サンウは頷くのが精一杯だ。
『どの部屋?』

サンウの住むアパートは30年ほど前に建てられた古い2階建 てだ
母が生きているときは、見晴らしがいいから...という理由で(実際、見えるのは倉庫ばかりだったが)
2階の部屋に住んでいたのだが、母が亡くなったあと
夜遅くに酔っ払って帰ってきた父が、階段を踏み外して足を骨折して
しばらく階段を登れなかった時、1階の部屋に移って、そのままその部屋に住んでいる

サンウが自分の住む1階の部屋を指差すと
『じゃあ、うちのお隣さんなのね、他に住んでる人は?』
首を横に振ったサンウを見て、少女はちょっといたずらっぽく笑って
『ねえ...あんた、口がきけないの?』と言った。
『きける...』ムッとした顔で答えたサンウに
明るく笑いながら『あら、ちゃんとしゃべれるじゃない、私はチェヒ、イ・チェヒ
中2よ 、あんたは?』
『...クォン・サンウ...6年生...』
『じゃ、私が年上だわね、私のことはチェヒ姉さんって呼んで
あんたのことは、サンウって呼ぶことにするから
お隣同士、これから仲良くやりましょ』
握手を求め差し出されたチェヒの手を、握っていいものか...サンウが迷っていると
『あ~ら、サンウは恥ずかしがり屋なのね~じゃあ、あとでゆっくり話しましょ
私は荷物を運ばなくちゃ...』そういい残すと 
チェヒは、荷物を運ぶ為に父親の後について、部屋に入って行った。

残されたサンウは、しばらくボーッとして、少女が入って行った
隣の部屋を見つめていたが...
ようやく我に返り、ちょっと恥ずかしくなってきた...
『チェヒ姉さん... 』そう呟いてみる...
チェヒは、サンウが見てもわかるくらい美しい少女だったし
何より、父が帰ってくるまで、この人気のない倉庫街に
たった一人きりではなくなるんだ...と考えると、嬉しかった。   
                      

チェヒが引っ越して来た次の日の朝
母さんが自分を呼んでいる夢を見て、サンウは目覚めた...
『サンウ...サンウ...』いや...夢じゃない...
ドアの外で、遠慮がちに自分の名前を呼ぶ声がする
眠い目をこすりながら、ドアを開けると
そこにはチェヒが立っていた。
チェヒは、サンウに取引を持ちかけにやって来たのだった...
『ねえ、サンウは学校まで歩いて行くの?』
『...うん』
『ふ~ん...あのね、相談があるんだけど...』
例の、ちょっといたずらっぽい微笑みを浮かべながらチェヒは続けた
『昨日ここに来る前に、私が通うことになってる中学に行ってきたんだけど...
ここからだとずいぶん遠いから、父さんが自転車をもらってきたく れたの
でもね...実を言うと私、自転車こぐの苦手なんだ...
それでね...サンウ...私と取引しない?
自転車で二人乗りして、サンウの小学校まで行って、そこからは私が一人で乗っていく
帰りは小学校の前で待ち合わせて、一緒に帰る
もちろん自転車こぐのは、あんたよ...どう?』
サンウは、昨日会ったばかりのチェヒに、そんな取引を持ちかけられて戸惑ったが
歩くと1時間以上かかる学校までの道のりも、自転車なら20分ほどで行くことができる。
サンウにとって、損のない取引だということは
起きたばかりで、ぼんやりした頭でも理解できたが...
しかし、やはりちょっと恥ずかしくて、サンウはすぐに返事ができずにいた...
『ねえ!あんた、歩いていく つもりなら、早くしないと間に合わないよ
まぁ...自転車で行くのなら、まだ大丈夫だけどね...
どうする?早くどっちか決めて!』
『いいよ...』しかたなく、頷くサンウ...
『やった!OKね、じゃあ、取引成立だわね
サンウ、早く顔を洗っておいでよ、あと30分したら出かけるわよ
あんた、朝御飯は?』
『朝は、いつも食べない...』
『まぁ...お腹すくじゃない...じゃあ、私がおにぎり作って来てあげる』
そう言うと、チェヒは、急いで自分の家に戻って行った...

またもやサンウは、ぼーっとしていた...
まるで、竜巻みたいだ...
突然やって来て、言いたいことを言って、突然帰っていく...
しかし、ぼーっとしている時間はなかった
早く仕度をしないと、学校に間に合わない
相変わらず酒を飲み、夜遅く帰って、まだいびきをかいて寝ている父の横で
大急ぎで服を着て、顔を洗い、カバンを持った...
(しまった...)昨日も学納金を持って行ってないのはサンウだけだった...
毎月、10,000ウォンの学納金を学校に持っていかなければならないのだが
酔って帰った父に言っても、覚えているはずもない...
父の着ていた上着のポケットを探ると、10,000ウォン札が5枚出てきた。
その中から、1枚抜いて、残りをポケットに戻し、サンウはホッとした。
これで毎日先生に名前を呼ばれなくてすむ...

そうしていると、チェヒがやってきた...
『はい、サンウ朝御飯よ』
片方の手にカバンを持ち、もう片方 の手には
おにぎりとキムチののった皿をかかえている...

チェヒの父親が貰って来たという自転車は
相当に年季の入ったシロモノで、ながいこと放っておいたらしく
あちこちサビてはいたが、とりあえず動くようだった。
チェヒを後ろに乗せてこぎ出すと、キーッ、キーッとすごい音がしたが
しばらくこぐうちに、音もおさまり、ぺタルも軽くなってきた
(動けるようになって、自転車も喜んでるみたいだ...)
いつもは、一人で考え事をしながら歩く学校までの長い道を
今日はチェヒを乗せ、自転車で風のように走り抜ける...

何か、新しい事が始まる...
そんなワクワクした予感が、サンウの頬を紅潮させ
自転車をこぐ足にも力が入った
後ろでチェヒが『サン ウ~スピード違反よ~』と叫びながら
背中にしがみつく...
サンウの心臓が、急にドキドキ音をたてる
それは、自転車を急いでこいでいたためだけではなかった...
その心臓の音をチェヒに気づかれるのではないかとドギマギして
サンウは思わずブレーキをかけた。
倒れそうになる自転車を、慌てて片方の足で支える...
『もう!サンウ、スピード出し過ぎよ!私おしりが痛い、もっとゆっくりこいで!』
笑いをこらえながら、怒ったふりでチェヒが叫ぶ
サンウの顔も、自然と笑顔になった。

20分足らずで、小学校の前に着き、サンウは自転車から降りた。
そこからチェヒの通う中学校まで、自転車で2,3分だ。
『それじゃ、帰りにここで待ってて』チェヒはそう言うと
ヨロヨロしながら自転車をこいで、角を曲がり見えなくなった...

通学してきた同級生たちが、そんなサンウを驚きの表情で見ている
『サンウが笑ってる...』
『あの、クォン・サンウが笑ってるよ』
『へえ~』
小学校で、サンウはほとんど口をきかない
ましてや笑顔など見せたことは、たぶん1度もない
面白半分にサンウをからかった同級生が、いきなり殴られてからは
サンウに話しかけようとする者は、誰もいなくなっていた...
そんなサンウが笑顔で女の子を見送っているのだから
同級生たちが驚くのも無理はない...
『あいつ、中学生と2人乗りで来たんだぜ...』
『姉さんか?』『さあ?初めて見た顔だ...』
そんな囁きが聞こえてくる
サンウは、笑 顔を無理に引っ込め、仏頂面で校門を入って行った...

放課後、小学校の前でチェヒを待っているサンウを見つけ
同級生が3人、サンウをからかい始めた
『美人の姉さんを待ってるのか?』
『あの中学生、本当にお前の姉さんか?』
『もしかして、彼女なんじゃないの~』
『いいなぁ~モテモテだねぇ』
『俺たちにも、紹介してくれよぉ...』
初めは知らん顔をしていたサンウも、ついに堪忍袋の緒を切らせ
3人に殴りかかって行った。
先手必勝とばかりに相手の顔にパンチを喰らわせる
3人も応酬したが、サンウの敏捷な動きにはかなわず
鼻血を流しながら、捨て台詞を残して逃げて行った

ちょうどそこへチェヒがやって来て
『なんでケンカなんかするの!』とサンウ を咎めた
『ほら、血が出てるじゃない...これで拭きなさい』ハンカチを差し出す
ケンカしたときに引っ掻かれでもしたのだろう
サンウの頬から血が流れていた...
『いいよ、よごれるから...』
『よごれたら洗うからいいのよ、はやく拭きなさいよ』

そして、帰りは2人とも自転車には乗らず、おしながら歩いて帰った...
帰り道、チェヒとサンウはいろんな話をした
話してみると、2人の境遇は驚くほどよく似ていた

チェヒの母親も敬虔なクリスチャンで、日曜の礼拝にはかかさず教会に通っていた
しかし、チェヒが5年生の時に、交通事故で亡くなった
『ひき逃げだったの...今でも犯人は判らないままよ...』
もともとバクチ好きだった父親は、母親が亡 くなってから
酒を飲み始め、たくさんの借金を作って借金取りに追われ
キム親分を頼って、木浦から逃げて来たのだ
キム親分に借金を肩代わりしてもらい
親分の下で働くことになったのだと言う...
『この間、父さんと一緒に、キム親分のところに行ったの...
そしたら、私をジロジロ見ながら、いい娘がいるじゃないか...
あと5年もすれば...って言うのよ、なんかいやらしいオジサンだったわ...』
その時の事を思い出したのか、チェヒはしかめっ面をしながら
そんな話をした。

『ねえ、サンウ あんた自分の父さんみたいな人生を送りたい?』
急に真顔になって、チェヒがそう聞いてきた
『人生...?』
『あんたのお父さんみたいな大人になりたいかっ てことよ』
『いやだ、僕は大人になっても酒は飲まないし、バクチもやらない』
『私も、父さんみたいな人生は送りたくない、母さんが生きていた頃
いつも言ってた...神様に恥ずかしくない生き方をしなさいって...
私の父さんも、あんたの父さんも、きっと良くない仕事をしてるわ...
神様に恥ずかしい事をしてる...』
『でも...僕たちにはなんにもできないじゃないか...』
『勉強よ、うんと勉強して大学にいくの』
『そんなお金、ないだろう?』
『ううん、いっぱい勉強していい成績をとれば、奨学金で
高校へも大学へも行けるって
木浦で通ってた中学校の先生が教えてくれたの...
だから私、今一生懸命勉強してる...奨学金で大学に行って
はやく こんな暮らしから抜け出したいの...』
『僕は、勉強は苦手だ...』
『そんなことないよ、あんたはまだ小学生だから、今から一生懸命勉強すれば
絶対に大丈夫、授業をよく聞いて、家で何回も教科書を読んで
予習と復習をちゃんとやれば、塾に行かなくったって、参考書を買わなくったって
勉強できるようになるわ...
そうだ!サンウ、今日から一緒に勉強しよう!分からないところは私が教えてあげる
帰ったら教科書持って、私の家に来て一緒に夕御飯も食べよう!』
サンウの返事も聞かず、チェヒはそう決めてしまったようだ...
そんな話をしながら、2人がアパートに着いた時には、すっかり暗くなっていた。
秋の日暮は早い、アパートの敷地の片隅に植えられている金 木犀があたりに
いい香りを漂わせていた...


サンウとチェヒは、夜寝る時と、学校にいる時以外の1日の大半を
二人で過ごすようになった...

意外なことに、二人の父親も
はじめは、『クォンさん』『イさん』と呼び合っていたが
お互い、やもめの子連れという同じ境遇に、通い合うものがあったのか
サンウの父ヨンソクが、少し年上だったらしく
いつの間にか、『ヨンソク兄貴』『ジョンウ』と呼び合うようになっていた。
仕事がない日には、ジョンウのおんぼろトラックに乗って
二人で出掛け、夜遅く、ジョンウの酒酔い運転で帰ってくる
キム親分の仕事も、二人で行くことがほとんどだった
サンウは、それまで父の笑い声を聞いたことがなかったのだが
チェヒ 父子が引っ越してきてからは
時々、ヨンソクの笑い声を聞くようになった
(やっぱり、父さんもさみしかったんだ...)
サンウは、そんな父の姿を見るのがうれしかった...

すべてが、良い方向に向かっているようだった

ヨンソクもジョンウも、酒飲みは相変わらずだったが
昼間からバクチに明け暮れることが少なくなり
二人連れだって、映画を見に行ったり
釣りに出かけたりすることもあるようだった。

頭の回転の速いチェヒは,
ヨンソクに、サンウの食事の面倒をみる代わりに
月15万ウォンを払ってほしいと申し出た

チェヒの申し出は、ヨンソクにとっても、渡りに船の話だった
毎日、居酒屋のおばさんに作ってもらうサンウの弁当が
1食で5,000ウォン、1か月 で15万ウォン...
サンウがおなかをすかせて、自分の帰りを待つこともなくなる...
ヨンソクは、二つ返事でチェヒの申し出を承諾した。


ヨンソクとジョンウは、いつも居酒屋で食事を済ませるので
チェヒとサンウは二人で30万ウォンの食費を使えるようになった。
二人にとっては、夢のような金額だ。
しまりやのチェヒは、二人の食費を月15万ウォン以内にして
15万ウォンで、学納金を払ったり、どうしても必要な物を買い
残りを二人で貯金することにした。

サンウにとって、1番うれしかったのは
学校に弁当を持っていけるようになったことだ。
それまでサンウは昼食の時間になると
一人で学校の裏庭に行き昼寝をするか
寒い時には、図書室の書棚の隅で本を読んで 過ごしていたのだ。

サンウが学校で初めて、昼食の時間にカバンから弁当を取り出した時
クラス中がどよめいた...覚悟はしていたものの...
みんなが見守る中、サンウは、ぎこちない様子で弁当のふたを開け
いつもの仏頂面で食べ始めた。
クラスメイトたちは、興味津津だったが
誰もサンウに話しかける者はいない...
ヘタにからかったりしようものなら
拳が飛んでくるかもしれない...

本当は、弁当箱を抱えて、教室中を走り回りたいくらい
サンウはうれしかった...

チェヒが作ってくれた、たくあんとソーセージのキムパプともやしのナムル...
『サンウが学校で初めて食べるお弁当だから、頑張ってキムパプ作ったよ!』
朝、弁当を持ってきてくれ た時のチェヒの笑顔が浮かぶ...

チェヒは、サンウに、よく神様の話をした
『神様はね、どこにでもいらっしゃるの...
いつも私たちがすることを見守ってるのよ...
だから、もし悪いことをした時には
神様に謝らなくちゃいけない...
ただ謝れば良いってもんじゃないの
真剣に反省して心から謝らなくちゃ...
それを懺悔って言うの...
母さんはいつも教会に行って懺悔をしてた
何にも悪いことなんてしてないのに...って言ったら
母さん笑ってたっけ...
天に召されて、神様の御前に立った時
恥ずかしくないように...
神様のお顔を、まっすぐに見れるように...
毎日努力して生きて、少しづつでいいから
良い人間になりなさいって... 』

サンウは、母さんが生きているときに
どんなことを話していたか
よく覚えてはいなかったが
チェヒが神様の話をするときには
なぜかいつも、母さんを思い出した...

春が来て、サンウは中学生になり
チェヒは中学3年になった。

3年生になるとチェヒの勉強には、ますます拍車がかかった。
『私、どうしても高校に行きたいから
とにかく頑張らなきゃね...』
自分に言い聞かせるようにそういって
毎日、夜遅くまで勉強に励んでいた。
『私、お医者さんになりたいんだ...
田舎で、病院もなくて、苦しんでる人を
診てあげるような医者になりたい...
人の助けになれるような仕事がしたいの...』

そんな夢を話す時
チェヒの黒い瞳はクルクル と良く動き
少しうるんで、キラキラと輝いていた...
上気した頬は、ほんのりとばら色に染まって...

(チェヒ姉さんはきれいだ...誰よりも...)

チェヒは、自分を見つめるサンウの視線に気づくと
なぜか恥ずかしくて...
『バカね~、そんなにボーっとしてる暇があったら
単語の一つでも憶えなさいよ!』
そう言って、サンウの頭を小突いた...

中学生になったサンウは、新聞配達のアルバイトを始めた
チェヒの自転車で、朝4時半に中学校の近くの配達所に行き
朝刊を配る、6時半までにすべて配り終わって
大急ぎで家に戻り、チェヒと一緒に朝ご飯を食べて
今度はチェヒを乗せて学校に行く
サンウが配達から戻るまでに、チェヒは二人分の弁当を作 って待っていた。

アルバイトの給料は月に20万ウォン程になった。
アルバイト先のおじさんから、初めての給料をもらった日
サンウは学校の帰りにチェヒを連れて寄り道をした
『ねぇ...どこに行くのよ
私、忙しいんだから
用事があるんなら、早くして!』
『わかったよ、ほんの少しだけ
付き合ってくれよ
すぐ済むからさ...』

サンウがチェヒを連れていったのは
中学校からさほど遠くない雑貨屋だった...
小さな雑貨屋の中には
女の子むけのかわいらしい小物が
所狭しと並べられ
学校帰りの女の子たちが品定めをしている...

『ねぇ~、これ見て~』
『キャ~、カワイイ!』
他愛ないおしゃべりをしながら、笑う女の子たち...

チェヒは 、学校で友達を作らなかった...
『どうせ、誘われても一緒に遊びには行かないし
付き合い悪い子だって言われるのわかってるから
はじめから友達は作らないの...
今は、勉強しなくちゃ...もうすぐ奨学生の選抜試験でしょ
それに、私にはサンウがいるから、さみしくない...』

だけど、今日は特別の寄り道...
サンウは、始めてもらった給料でチェヒにプレゼントをしたかったのだ...

『チェヒ姉さん、俺、今日初めて給料をもらったんだ...
だから、姉さんに何かプレゼントしたいんだ
姉さんの好きな物、買ってあげるから、選んでくれよ』

照れながらそう言うサンウの顔を見て
チェヒは、吹き出しそうになるのをこらえながら...

『そう、 それじゃ遠慮しない
う~ん...何を買ってもらおうかなぁ...
せっかくだから、う~んと高いもの...』

あわてたサンウが
『姉さん、俺の給料、20万ウォンしかないんだ...
あんまり高いと...』と小声で言うと
チェヒは、とうとうこらえきれずに吹き出した

『あはは,,,嘘よ、あんたって本当に素直でカワイイね
でも、その気持ちだけで十分...
それより、これから必要な物がきっとできるんだから
ちゃんと貯金しときなさい』

『ダメだ、これだけは譲れない
頼むから、何か選んでくれよ~』

そう言われて、やがて...チェヒが選んだのは
銅製の外国のコインをかたどったペンダント
どう見ても、男物のようだ...8,000ウォンの値札が付い ている

『姉さん、もっと高くてもいいから...
カワイイの選びなよ...』

『ううん、私、これがいい、このペンダント
これから私のお守りにするわ
サンウが初めての給料で買ってくれたものだって
絶対忘れない、大切にするからね
ありがとう、サンウ...』

二人は、近くの屋台でホットクを4つ買い
公園のベンチに座って、食べた...

サンウは幸せだった...
母さんが死んでから、こんな幸にせだったことはなかった...
そう考えながら、なぜか泣きそうになったサンウは
むせたふりをして、涙を拭った...


サンウとチェヒがどういう関係なのか
しばらくの間、生徒たちの間で取り沙汰されていたが
結局、二人は腹違いの姉弟らしいという結論に落ち着いたようだった。
それは、サンウとチェヒにとっても好都合だったし
誰も二人にそれを確かめることもなかったので
二人も、あえてその勘違いを正すことはしなかった。

栄養失調気味で、背も小さく痩せぎすだったサンウは
チェヒと一緒に食事をするようになり、成長期に入ったこともあるのだろう...
中学生になって、ぐんぐんと身長が伸び始めた
小学生のころは、チェヒよりも背が低かったのだが
いつの間にかチェヒを追い抜いている。

『サンウ!あんた生意気だわ!
姉さんより大きくなるなんて、いったいどういうこ とよ!』

そう言って、チェヒはサンウをからかった...

新聞配達と通学で、1日30キロ以上自転車を漕ぐため
体つきもがっちりと逞しくなって
もともと端正だった顔立ちに、精悍さが加わり
サンウは、少年から若者への端境期を迎えていた...


10月になって、今日はいよいよ奨学生選抜試験の日
昨夜、良く眠れなかったチェヒは
目の下にうっすらとクマをつくって
サンウのところへやって来た。
受験日は日曜だったので、サンウはチェヒを
試験会場まで送ることになっていたのだ。

『ねえ...もし、私より頭のいい人が
たくさんいたら、どうしよう...』
いつものチェヒらしくない、自信のない口調だ...

『大丈夫だよ、姉さんいつも1番じゃない か』

『でも、それはうちの中学の中だけのことよ...
今日は釜山中から受験生が集まるんだもの...
全学費免除奨学生に合格するのは
その中から、たった20人なのよ...』

チェヒの緊張を解そうと、サンウは自転車のスピードあげた

『やめて!サンウ!憶えてることが、全部消えそうよ
お願い、揺らさないで!もっとゆっくり静かにこいで!』

試験会場に着き、自転車を降りたチェヒの顔は
緊張のためか、心なし蒼ざめている。

『さあ、姉さん、頑張って!ファイティン!』

『サンウからもらったペンダント、ちゃんとつけてるから...
じゃあ、行ってくる...帰りにまたここでね...』
チェヒは、そう言うと、試験会場の中へ入って行った。

(強そうでも、やっぱり姉さんは女だ...
俺が、姉さんを守ってやらなくちゃ...)

いつもは強いチェヒの、そんな意外な一面が
なぜか、サンウにはうれしかった...

夕方、サンウが約束の時間に待っていると
試験会場から、チェヒがうつむいて出てきた...

『姉さん、どうだった?難しかったかい?』
チェヒの肩が、小刻みに震えている...
サンウはチェヒの顔を覗き込んだ...

そのとたん...『ジャーン!』 Vサインで笑っているのは
いつもの、明るいチェヒだ。
肩が震えていたのは、笑いをこらえていたためだった

『サンウ!できた!わからない所は無かったよ、OK!』

2週間後、全学費免除奨学生の合格通知が、チェヒのもとに届いた. ..



4月になり、チェヒは無事に女子高校に進学し
サンウは2年生になった。
しかし、あいかわらず2人で朝一緒に自転車で出かけ
チェヒを地下鉄の駅に送った後、サンウは中学校へ向うのだった。
帰りは、駅で待ち合わせ、二人で一緒に家に帰る...

高校生になり、地下鉄で通学を始めたチェヒは
よく、他校の男子学生に声をかけられるようになった。
もちろん、チェヒは、そんな男子学生など、相手にもしなかったのだが...

今日もサンウは、地下鉄の出口で、チェヒの帰りを待っていた。

階段を上がって来たチェヒに、一人の男子学生が
何やら声をかけ、いきなりチェヒの手を握った
その手を振り払い、行こうとするチェヒの肩を掴み
男子学生は、チェヒ の頬を平手で叩いた...

そのとたん、サンウは走り出し
その男子学生に殴りかかった

『サンウ!やめて!』

チェヒの止める声も、もう、サンウの耳には入らない...
無我夢中で、相手に馬乗りになり、殴り続ける
後から階段を上がって来た、5,6人の学生たちが
友達が殴られているのを見て、駆け付けて来た。

多勢に無勢、結局ボコボコに殴られたのは、サンウの方だった...

見物人が通報したのか、パトカーのサイレンが聞こえると
男子学生たちは、サンウに殴られ、気絶している友達を抱え
逃げて行った。
歩道に倒れこんだサンウは
『サンウ!しっかりして!』と叫ぶ、チェヒの声を聞いて
そのまま、気を失った...

次にサンウが目覚めたの は
病院の救急処置室のベッドの上だった...

最初に目に入ったのは、チェヒの泣き顔だ...

『あぁ、サンウ、目が覚めたのね...よかった...
馬鹿サンウ!、どれだけ私を心配させるのよ!』

涙でくちゃくちゃになったチェヒの顔を見て...

『ゴメン...』

サンウには、そう言うしかなかった...

チェヒの通う女子高の傍には、カトリックの大きな教会があった。
今まで、近くに教会がないと諦めていたチェヒだったが
その教会を知ってからは、時々サンウと一緒に通うようになった。
教会は、サンウが幼い時に母と通った、懐かしい教会だった...
幼かったサンウは、母と通った教会がどこにあったのか、覚えてなかったのだ。
祭壇に向かって、祈るとき、サンウは母さんが自分を見守っているような気持ちになった...

日曜には教会に集まり、みんなでキムパプ(韓国海苔巻き)を作って
孤児院へ、慰問に行くこともある。
身寄りのない子供たちは、それでも、みんな明るく素直で
他人には、あまり心を開くことのなかったサンウだったが
そんな子供たちを、自分の 弟や妹のようにかわいがった...

中2になったサンウは、チェヒの厳しい指導の下で
勉強させられるようになっていた。

『まず、自分がどんな大人になりたいか、目標をたてなきゃダメ
目標が決まれば、それに向かって頑張ろうって思えるからね...
サンウは将来何がしたいの?』

そう聞かれて、サンウは自分の想いをチェヒに打ち明けた

『姉さん、俺、先生になりたいって思ってる...
俺、子供が好きなんだ...
孤児院の子供たちを見てると、こんな子供たちの面倒をみてやりたいって...
そう思うんだ...』

『そう。。。それは素敵だわ...
サンウは優しいから、きっと立派な先生になれるよ...
さあ!そのためには、まず奨学金をもらえる ようにしなくちゃね...
大丈夫!サンウには、このチェヒ姉さんがついてるからね!ファイティン!』

小学生のころは、あんなに嫌いだった勉強が、理解できるようになると
どんどん頭に入ってくる。
元々、感が良く、物覚えもいいサンウだったが
経験に基づいたチェヒの指導は的確だったし
わからない所は、何度でも丁寧に教えてくれた。

サンウの成績はグングンと伸び
3年生になる頃には、いつも学年でトップをとるようになっていた。

『サンウ、あと5カ月だね...
あんた、よく頑張ったよ...この調子でいけば
絶対大丈夫!心配しなくても、このチェヒ姉さんがついてるんだから
どーんと大船に乗ったつもりで、安心しなさい』

2年前のチェヒの蒼ざめた 顔を思い出し、おかしかったが
チェヒに気づかれないよう、そっと笑いをかみ殺し
サンウは神妙に頷いた...



10月になり、サンウの試験も無事に終わって
後は、結果を待つのみ...
サンウには自信があったが...やはり結果を見るまでは安心できない...

チェヒと二人で学校から戻ると、ポストに1通の封書が...
奨学生選抜試験の結果通知だ...
用心深く封を開き、中身を取り出す...

『合格』

チェヒの喜びようは、自分が合格した時以上だった。

『やったね!サンウ!これで、あんたも高校へ行ける!
サンウは教師、私は医者、二人で頑張って
絶対に夢を叶えよう!』

窓の外の金木犀が、今年もたくさんの花をつけ
あたり一面に、 良い香りが漂っている...
サンウとチェヒが出会ってから、4度目の秋が訪れていた...


翌年、1992年2月...
明日は、ソルナル(旧正月)だ
数え年で、チェヒは19歳、サンウは17歳になる
春から、サンウもいよいよ高校生だ...

正月にトック(韓国の雑煮)を作ると言い出したチェヒは
サンウを連れて、街の市場へ買い物に出かけた。

今までは、正月といっても、普段と変わらない食事で済ませていたのだが
今年の正月は、チェヒがやけに張り切って
トックやチヂミを作って、父さんたちと一緒に食べようと言い出したのだ。

二人で、店をのぞきながら、食材を選んだ
こうやって、二人で正月用の買い物をするのは初めてだ。

サンウは、小さいころ母 さんが正月に作ってくれた
トックを食べたのを思い出しながら
色とりどりの餅や、果物が並ぶ店先をのぞいている...

チェヒは魚屋で、チヂミに入れるタコやイカを、真剣に吟味し
魚屋のおじさんとの値段交渉に余念がない...

『おねえちゃん、まだ高校生だろ?
しっかりしてるなぁ...よしっ!おおまけにまけて
これ全部で、10,000ウォンでどうだい?』

『オッケー、いいわ、じゃあそれください』

チェヒは、値段交渉の達人だ...
奮発して、焼肉用のサムギョプサル(豚の三枚肉)
サンチェとエゴマの葉も買った。

家に戻り、二人で料理の下ごしらえだ...
チェヒの包丁さばきは、なかなかのもので
すばやく、タコやイカをチヂミ用に小さく切り分 けていく
牛骨とトリガラでトック用のだしをとり
サムギョプサルを薄く切り、下味をつけ
ほうれん草とモヤシのナムルを作る...

下ごしらえも終わり
二人でテレビを見ながら、ラーメンを食べた...

ソルナルの朝、ヨンソクとジョンウは
今日は、家に居るようにと、チェヒに言われ
朝から起き、顔を洗い、ヒゲを剃って、スッキリとした顔で
チェヒの家の居間に座っている...
酒に酔っていない父の顔を、サンウが見るのは久しぶりだった。

台所で、料理の仕上げをしていたチェヒが
居間にやってきた...

『おじさん、父さん、私とサンウが
新年の挨拶をするから受けてください』

ヨンソクとジョンウは、かしこまって並び
サンウとチェヒから新 年の挨拶を受ける
サンウとチェヒは、並んでセペ(韓国式のおじぎ)をした。

ヨンソクは、下を向いている...
ヨンソクの手の甲に、ポツポツと水滴が落ちた...

ヨンソクは泣いていた...

『サンウすまない...こんな馬鹿な父親に
新年の挨拶をしてくれるなんて...
俺は、お前のことを、全然かまってやらなかったが
お前は、自分の力でこんなに立派になって...
うれしいよ...きっと、母さんも喜んでるだろう...』

それを聞いているジョンウの目にも、涙が光っている...

『いやだわ、おじさん...
今日は新年なんだから、明るくやりましょう
でもね、サンウは本当にいい子だわ』

『チェヒ、お前にはなんて礼を言っていいか. ..
言葉もないが...ありがとう...
お前がサンウの面倒を見てくれて
どんなに安心だったか...』

『おじさん、それはお互い様
私だって、サンウがいてくれて
どんなに心強いか...
さぁ、冷めないうちに食べよう!』

チェヒが腕を振るった料理が、食卓に並ぶ
トック、チヂミ、キムパプ、ナムル
奮発した、サムギョプサル...

『チェヒ、お前は俺にはもったいない娘だ
こうしていると、母さんが生きていたころの
正月を思い出すなぁ...』

鼻を赤くして、ジョンウが言う。

食事が終わるころ、ヨンソクが

『なぁ...ジョンウとも相談したんだが...
キム親分に借金を返し終わったら
俺達も、こんな仕事から足を洗って
二人で 、運送屋でもやろうと思うんだ...
バクチをやめて、今から少しづつ金を貯めれば
借金が終わるまでには、古いトラックの一台くらいは
買えるだろう...
二人で働いて、行く行くは車を増やして...
お前たちに、迷惑をかけないように
俺達は、俺達で頑張らんとなぁ...』
いつになく、真剣な面持ちでそう言った...

隣で、ジョンウも頷いている。

『おじさん...よかった...
借金が終わったら、ここを出てみんなで暮らしましょう
私は医者、サンウは教師、おじさんと父さんは運送屋
そうなったら、どんなにいいだろう!
広い家を一軒借りて、一緒に暮らせたら...素敵だわ...』

みんなで過ごしたソルナルは、サンウとヨンソク、チェヒとジ ョンウ父子にとって
久しぶりの幸せな時間だった...

夕方になると、ヨンソクが
『ジョンウ、ヘスクおばさんのところに、正月の挨拶に行こう!』
と言い出し
『そうだね、ヘスクおばさんは、身寄りのない一人暮らしだから
さぞかし、さみしい正月だろうからなぁ...』
ジョンウも相槌を打つ

ヘスクおばさんと言うのは
いつも、ヨンソクとジョンウが通っている
居酒屋のおばさんのことだ...

『ヘスクおばさんに挨拶に行くのはいいけど...
あんまり、飲んじゃ駄目よ
いつも、酒酔い運転で、危ないったらありゃしないんだから...』
そう言いながらも、チェヒは二人をにこやかに送り出した。

二人で後片付けをして
久しぶりのご馳走で、満腹に なったサンウは
横になって、テレビを見ているうちに
いつのまにか、眠ってしまった...

ふと目を覚ますと、蒲団が掛けられ
隣で、チェヒが編み物をしている...
外は冷たい風が吹いているようだが
ストーブをたいた家に中は、暖かい...

サンウは、気づかれないように
チェヒが編み物をする横顔を見つめている...

幸せだった...幸せすぎて、胸が痛くなるほど...
サンウは、このまま時間が止まればいいとさえ思った...
ずっと、こうしていられたら...

『あら...サンウ目が覚めたのね...
ふふっ...あんたったら、これ以上の幸せは無いって
顔して眠ってたわよ...』
サンウが、目を開けているのに気づいたチェヒがそう言っ た。

『...うん』

『もう12時過ぎだって言うのに、父さんたち
まだ帰ってこないね...
まったく、あの二人ときたら...
きっと、ヘスクおばさんのところで
潰れちゃってるんだわ...』

チェヒがそう言った時...

リーン...、リーン...

めったに鳴ることのない、チェヒの家の電話が鳴った...

『こちら、釜山中部警察ですが...
イ・ジョンウさんのお宅でしょうか...』

『はい...』

『失礼ですが...娘さんですか?』

『はい...』

『イ・ジョンウさんと、もう一人同乗の方が、事故に遭われて...
所持品の運転免許証でイ・ジョンウさんの身元が判明したんですが...
二名とも、救急車で、釜山大学病院に搬送されましたので
至急、病院のほうへ行ってください』

『事故って...怪我はひどいんですか?』

『容態については、こちらでは判り兼ねますので
詳しいことは、病院の方にお尋ねください』

事務的にそう告げると、一方的に電話は切れた...
チェヒは受話器を握ったまま、茫然としている

『姉さん、どうしたんだい?』

『あぁ...サンウ、どうしよう...父さんとおじさんが
事故に遭って、病院に運ばれたって...』
チェヒは、蒼ざめた顔でサンウにそう告げた。

『どこの病院?』

『釜山大学病院...』

釜山大学病院は、サンウの通う中学校のすぐ近くだ...


そこだけが赤いライトの点滅している
救急搬送口と書かれたドアから入ると
居眠りをしていた受付のおじさんに、イ・ジョンウの名を告げた...

『あぁ...イ・ジョンウさんね...係りの者を呼びますので、お待ちください』

やがて...白衣を着た男があらわれ
チェヒの前に立った...

『イ・ジョンウさんのお嬢さんですか?』

『はい...』

『...お気の毒ですが...お父さんは、こちらに運ばれて来た時には
すでに亡くなっておられました...』

『.....』
チェヒは崩れるように、その場に座り込んだ...

『もう一人、まだ身元は判っていませんが、同乗されていた方も...』

『クォン・ヨンソク...父です...』

『そうですか...お気の毒です...』

二人は、地下の霊安室へと案内された

人気のない、リノリウムの廊下に
足音だけが不気味に響く...

『こちらです...』

男は、霊安室と書かれたドアを開け、二人を招く...

1メートルほどの間隔をあけ、並んだベッドに
白い布を掛けられて、ヨンソクとジョンウは横たわっていた...

立ち尽くす二人に

『遺体の確認をお願いします...』

男は、ジョンウに掛けられた白い布の、顔の部分を捲る...
顔には大きな傷もなく、眠っているようなジョンウがそこにいた...

『こちらは...?』

次に男は、ヨンソクの顔を、サンウに見せる...
頭と、顔の半分を包帯に覆われているが...
それは、まぎれもなくヨンソクだった...

『父です...』

チェヒは、ジョンウの遺体に駆け寄り

『父さん!父さん...嘘でしょ...ねぇ...
起きてよ!酔って寝てるんでしょ...父さん!』

冷たくなったジョンウの顔を撫でながら、泣きだした...
サンウは、茫然とヨンソクの顔を見つめている...

(母さんを泣かせた、父さん...
俺をかまってくれなかった、父さん...
そんな父さんが、俺のために初めて泣いてくれたのは
ほんの何時間か前のことじゃなかったのか...?
これからなのに...みんなで幸せになろうって言ったのに...)

サンウの目から、涙が溢れた...


サンウとチェヒのほかに、誰も身寄りのないことを知った病院側が
二人を不憫に思ったのか...
病院葬の手配をしてくれたので、翌日には
ヨンソクとジョンウの葬儀の準備が整った...

知らせを聞いたヘスクおばさんが
一番に駆け付けて来た

『あんたたちが、ヨンソクとジョンウの子供達かい?
申し訳ない...本当にすまない...
私が、あの時二人を帰さなければ
こんな事にはならなかった...
私が悪いんだよ...』
おばさんは、泣き崩れる...

『ヨンソクもジョンウも、優しかったよ...
私を母のように慕ってくれて...
昨日も、私が寂しくしてるだろうからって
二人で訪ねて来てくれたんだ...
泊まって行けって言ったのに
子供たちが待ってるからって...
借金が終わったら、二人で運送屋を始めるんだって
嬉しそうに話してたのに...』

ヨンソクとジョンウは、おばさんの店から帰る途中
急停車した前の車をよけようとハンドルを切り
道路際の電柱に激突したらしい...


ヘスクおばさんの他には、キム親分からの花輪が届いただけの
寂しい葬儀だった...

数日後...サンウとチェヒは、釜山港から船をだしてもらい
ヨンソクとジョンウの骨を、海にまいた...

『ねぇ...サンウ...
父さんもおじさんも、安らかな顔してたよね...
正月におじさんが言ってたこと...
あれは、懺悔だったのね...
あんたには、すまないって...
私には、ありがとうって...
父さんも...きっと神様は二人の罪をお赦しくださって
天国に連れて行ってくださったと思うの...
今頃、母さんたちと逢ってるかもしれないね...』

『うん...』

『あんな父さんだったけど、
私にはやっぱり、たった一人の父さんだった...
母さんの分まで、親孝行したかったのに...』

雨が近づいたのか、少し風が出てきた...
カモメの群れが、低く、海面すれすれに飛んでいる...

(もう、俺も姉さんも、身よりは誰もいなくなったんだ...
これからは、俺が姉さんを守ってやらなきゃ...)

サンウは、強く心に誓うのだった...


アパートに帰って、チェヒの家の居間に座り
あたりを見回す...
ヨンソクとジョンウは、サンウやチェヒといつもすれ違いの生活だったから
今までと何の変わりもない家の中...

『こうしてると、父さんたちが死んだのが、嘘みたいだわ...』
気が抜けたように、チェヒがつぶやく...

『私たち、ほんとうに二人だけになっちゃった...』

『うん...』

『二人の貯金...病院の支払いと、お葬式で
全部使っちゃったの...私たち、一文無しだわ...』

『大丈夫だよ、姉さんには俺がついてる
俺、高校行きながら、一生懸命アルバイトするよ
これからは、俺が、姉さんを守る!』

『なまいきね...』
泣きながら、チェヒが笑った...


キム親分の使いだという男が二人
アパートに訪ねて来た

『二人とも、キム社長がお呼びだ
俺たちと一緒に来てくれ...』

懺悔 7話

キム親分は、黒い革張りのソファーに、二人分のスペースをとって座っていた...
背の低い、太った男だ...

『チェヒ、お前には、以前会ったことがあったな...
ますます綺麗になったじゃないか
お前は...サンウだったな...
なかなか立派なもんじゃないか...
まだ、中学生だと聞いたが...そうは見えんな...
こんな立派な子供たちを残して
ヨンソクもジョンウも、さぞかし心残りだったろう...』

ソファーに寝そべった、猫の頭を撫でながら、キム親分はそう言った。

『キム社長、父達の葬儀のときには、花輪をいただいて...
ありがとうございました』
チェヒが礼を言う。

『ヨンソクも、ジョンウも良く働いてくれたからな...
ところで...親を無くしたばかりのお前たちに
こんな話をするのは、気が引けるが...
こういうことは、きちんとしとかんとな...
お前たちの父さんは、まだ私に借金があることを、知ってるかな?』

『はい...』

『で...それをどうするかと言うことなんだ...
ヨンソクとジョンウが、この書類にサインをしてるんだが...』

キム親分は、2枚の書類をサンウとチェヒに見せた...

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 私が、借金を支払えなくなった場合には
 私に一番近い血縁者が、間違いなく
 支払うことを、約束いたします
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そう印刷された文章の横に、
それぞれ、ヨンソクとジョンウの筆跡で、サインがしてある。

『はい、キム社長、私たち、高校を出たら
奨学金で大学に行きながら、アルバイトをして
少しづつでも借金を...』

『チェヒ...』

チェヒの言葉をさえぎって、キム親分が続ける

『チェヒ、私も遊びで金貸しをやってるわけじゃない
私が、金を貸した人間の事情を
いちいち理解してやっていたら、あっという間に一文なしだ...
お前は、頭のいい子らしいから、わかるだろう?
これは、大人の約束だ...お前たちにはかわいそうだが
約束は守ってもらわんとな...』

『社長、私はあと1年で卒業です。
そうしたら、社長の仰るとおり働いて、借金を払い終わってから
大学に行くことにします。
でも、サンウはあと3年、せめて高校を卒業するまで待ってあげてください
もう、奨学金を受けることも決まってるんです
お願いです...社長』

『わからんやつだな...』

それまでのにこやかな表情とは打って変わった
険しい顔つきになったキム親分は
立ち上がり、チェヒに向かって苛立ったように言った

『とにかく!チェヒ、お前には日本に行ってもらう...
私の義兄弟のカン・テヒョク兄貴が、博多で店を持ってるんだが
女の子をほしがってるんだ、若くてきれいな子をな...
ジョンウの借金は、テヒョク兄貴が肩代わりしてくれるそうだから
お前は、テヒョク兄貴に雇われると言うことになるな...
3000万ウォン...なに、一生懸命働けば、3年もあったら返せるだろう...
サンウ...お前はもう少しで、中学卒業だな...それまで、待とう
卒業したら、私のところで働いてもらう
行く行くは、お前の父親がやっていた仕事を お前に任せることになるだろう
話は、それだけだ...
分かっているだろうが...逃げようなんて考えを起こすんじゃないぞ...
逃げれば、私はどこまでも お前たちを追うからな...そのつもりで...』

キム親分は、鋭い目つきで二人を見た

『あぁ...チェヒ、お前の出発は5日後だ
日本に行ったら 住む所はテヒョク兄貴がちゃんとしてくれるから
とうざの着替えと身の回りのものだけ持っていけばいい
パスポートは、こっちで用意しておく、準備金としてテヒョク兄貴が
100万ウォン置いて行ったが...パスポートの申請や旅費を差し引くと
お前に渡せるのは50万ウォンだ、これで必要なものを買っておけ
5日後...来週の火曜、夕方6時に迎えをやるから
フェリー乗り場まで送ってもらうといい...
フェリーの出港は夜の8時だが、いろいろ面倒な手続きがあるからな
アパートは、そのままにしておいてかまわない
どうせ住むやつはおらんしな...
まぁ...ゆくゆくは取り壊す予定だが...
サンウ、お前はあのアパートに住むのか?』

『はい、チェヒ姉さんが戻るまで、あのアパートにいます』

『そうか...いいだろう、誰も居ないのも無用心だしな...
あそこに住むのなら、部屋代はいらん...
光熱費は、お前の給料から引くことになるがな...ヨンソクも
そうしていた...いいな』

『はい』

『話はそれだけだ...チェヒ、来週の火曜、時間を守れよ』

そう言うと、キム親分は部屋を出て行った...

親分の手下に、アパートの前で車から降ろされた二人は
呆然としたまま部屋に戻った...


『ねえさん、どこか遠くに逃げよう!
二人で働けば、なんとか食べていけるだろう?』

そう言うサンウに

『ダメよ!』きっぱりとチェヒは言った

『今逃げたら、これから先 私たちずっと逃げてばかりの人生を送ることになるわ
これは、神が与えた試練なのよ...
神様は、その人が耐えられるだけの試練をくださるって、神父様が言ってた...
だから、私たち頑張ってこの試練を乗り越えなくちゃ...
私、日本に行って働く!3年経って借金を返し終わったら
戻ってきて働きながら夜間高校に行くわ
働いてお金をためて、絶対大学にもいってみせる!
人生は長いんだから...たった3年くらいあっという間よ
サンウも、私が帰るまで3年、我慢して
その後のことは、またその時二人で考えよう』

(やっぱり、チェヒ姉さんは強いや...)

サンウは、逃げようなどと言った自分が、恥ずかしかった...


翌日、チェヒは高校に休学の手続に行き
中3のサンウは、卒業まで、もうほとんど学校に行くことが無かったので
二人は、チェヒの出発の日まで、一緒に過ごすことができた。

キム親分は、とうざの身の回りの物だけ持って行けと言ったが
日本がどんな所かもよく知らない二人にとって
いったい何を用意したらいいのか、見当もつかない
とりあえず、2.3日分の着替えだけをキム親分から渡された金で買い整えた

チェヒの住んでいた部屋に、サンウが住むことに決め
サンウの部屋から必要なものを持ってきたり
いらないものをサンウの部屋に片付けたり
二人で、部屋をきれいに掃除して
その合間にチェヒは、簡単に作れる料理のレシピを幾つか書いたノートを
サンウのために作ってくれた。
そんな作業に、丸二日かかって
チェヒの出発まで、残された時間は、あと三日...

翌日、二人は 教会の神父様に挨拶に行った
チェヒが日本に行くこと、サンウが中学を卒業したら
キム親分の元で働くことを話すと
神父様は

『君たちは、まだ未成年だ...未成年者を
親の借金返済のために働かせるというのは
法律違反のようだか...
もし、差支えなければ、私の知り合いの弁護士に
相談してみてはどうかな...』
心配そうにそう言ったが...

『神父様、ありがとうございます...
でも、いいんです...借金をしたままで学校に行くのは
私も嫌なんです。
どう言っても、父さんたちが借りたお金ですから
ちゃんと返すのが本当だわ...
私たち二人で借金を返し終わってから
すっきりした気持ちで 勉強したいんです』

きっぱりとそう言う、チェヒの顔を見ながら
神父様は静かに頷いた...

『そうか...もう決心してるんだな...
そうだな...これは神が君たちにお与えになった試練だろう...
頑張りなさい...そして、帰ったらまた、ここにおいで...
私は、いつも ここで待っているよ...
チェヒ、サンウ、神の御加護を...』

神父様はそう言うと、二人を抱きしめた。

次の日、二人は自転車でいろいろな所を回ってみた
二人が通った中学...
父さんたちが亡くなった病院...
買い出しに行っていた市場...
チェヒは、しっかりと覚えておきたかった

ヘスクおばさんのところへも挨拶に行った
ヘスクおばさんは、二人の話を聞いて
大声で泣き出した
『ああ...なんてことだろう...
まだ、子供なのに、かわいそうに...
神様はいないのかい...』

『おばさん、心配しないで...
サンウも私も大丈夫よ、帰ったらご飯食べに来ますから
それまで、おばさん元気でいてくださいね...』

おばさんは、泣きながら二人を見送ってくれた。

チェヒのペンダントを買った雑貨屋でサンウはアメジストの
小さなロザリオを見つけた、70,000ウォン...
どうしてもそれをチェヒにプレゼントしたくて
高校に入ってから、参考書を買うためにと、取っておいた
10万ウォン札で、サンウはそれを買った。
きれいな紫色のアメジストの玉の先に
銀の十字架がついている
十字架にもアメジストが埋め込まれ
中央にブリリアンカットの、イミテーションダイヤが埋め込まれている

帰り道...二人でよく行った公園のベンチで
サンウはチェヒにロザリオをプレゼントした。

『きれいね...』

そう言ってロザリオを見つめるチェヒの目に、涙が溢れた...
本当は、サンウも泣きたかった...
(でも...俺が泣いたら、姉さんはもっと辛くなる...)
そう思って、一生懸命涙をこらえた。

チェヒは、今まで着けていたコインペンダントをはずし
サンウの首にかけた...

『あんたから貰ったペンダント...
今までお守りにしてたけど...
今日から、このロザリオを着けるから
サンウは、このペンダントをお守りにして...』

そして、昔のように、ベンチに並んで座り
二人で、ホットクを食べた...

春はまだ遠く...
公園の周りに植えられた 桜の木には
つぼみさえ見えなかった...

月曜の夜...
明日は、いよいよ チェヒの出発の日...
チェヒは、サンウとの最後の夕食に
チヂミを作った...
二人とも話したいことが、たくさんあるはずなのに...
何と言っていいのか わからないまま...

『チヂミ...旨いな...』
『当り前よ!このチェヒ姉さんが作ったんだもの...』
そう言っておどけて見せるチェヒの心が
痛いほどわかり...サンウは、笑うことができずに
黙々とチヂミを頬張った...


出発の日、朝から雨が降っていた...

『私の代わりに、天が泣いてくれてる...』
チェヒは、アパートの窓から空を眺めた

『釜山と博多は、近いのよ...とても...
夜には、同じ月が見えるわ...
陸は海で離れてるけど、空は繋がってる...
サンウに逢いたくなったら空を見るね...』

『姉さん、三年なんてすぐだって...
大丈夫、姉さんなら やれるよ
なんたって、うちのチェヒ姉さんだもんね!』
サンウは、無理に笑顔をつくった...

『馬鹿サンウ!私のことより自分のことを心配しなさい...
あんたも頑張るのよ!三年経って、借金が終わったら
二人で高校に行けるように、ちゃんと勉強もしとくのよ...』

サンウの好きな、いつもの いたずらっぽい笑顔でチェヒがそう言った...


約束通りに、夕方6時に使いの男が車でチェヒを迎えに来た

『用意はできたかい?これ...あんたのパスポートと
フェリーの乗船券...ええっと...ああ...
博多に着いたら、船着き場に「チェヒさんようこそ」って書いた
札をもった姉さんが迎えに来てるから
後は、その人の言うことを聞けって...』

チェヒとそう変わらない年頃の、気のよさそうな顔をした小太りの若者だ...

『はい、用意はできています』

『じゃあ、行こうか...お前...サンウだったっけ?
お前も一緒に見送りに行くかのい?』

『はい』

男が運転する車で、3人は釜山港へ向かった...

『日本へ行くのは初めてかい?』
男がチェヒに話しかける...

『はい』

『俺は、去年の5月にキム親分のお供で、博多に行ったよ
きれいな街だったなぁ...
おいしいものもたくさんあるぜ...
もつ鍋...なんたって、あれはサイコーに旨かった...
ちょうど俺たちが行った時に「どんたく」って祭りがあっていて
すごかった、どこからこんなに人が来るんだってくらい
たくさん人がいて...びっくりしたぜ...』

下を向いたまま返事をしないチェヒを見て
男は神妙な顔になり
『日本人は、みんな優しいから...
あんたのことも きっと可愛がってくれるよ...』

それっきり、しんとしたまま 3人は釜山港に着いた...

出港は夜8時だが、遅くとも1時間前には乗船しなければならない

『俺は、その辺で食事してくるから...
サンウ、8時にここでな...』
そう言うと、男はターミナルビルの方へ歩いて行った。

あたりはもうすっかり暗くなっている...
サンウとチェヒは黙ったまま、港の明かりを映し出し
きらきらと揺らめく海を見つめていた...
言いたいことがたくさんあるのに...
口を開くと泣いてしまいそうな自分がこわくて
サンウは何も言うことができなかった...

『一人だからって、インスタントばっかり食べてちゃだめよ...
野菜をいっぱい食べて...
日曜には、布団を干すのよ...
部屋もちゃんと掃除して...
それから...それから...』
堪えきれなくなって、チェヒが泣き出した...

『必ず帰るから...あのアパートに必ず帰るから...
それまで待ってて、元気で待ってて...
向こうで落ち着いたら、手紙を書くわ...だから...』

顔をくしゃくしゃにして泣いているチェヒの肩が
小さくて、頼りなげで...
サンウは、思わずチェヒを抱きしめた...

『姉さん、大丈夫だ 俺、待ってるから
姉さんが帰ってくるまで、あのアパートでずっと待ってるから...』
それだけ言うのが やっとだった...

声を殺して泣いているチェヒの涙が、サンウのシャツの胸を濡らした...

『博多行きのフェリーに ご乗船の皆様は、出国手続きを
お済ませの上、至急ご乗船くださいませ』

アナウンスが流れ、日本にキムチ用の白菜を買い付けに行く
おばさん達が、慣れた様子で、次々とフェリーに乗り込んでいく。

『そろそろ行かなくちゃ...
サンウ、今度会うとき、今より痩せてたら、承知しないからね』

わざと怖い顔でそう言うチェヒ

『それは、こっちのセリフだよ、姉さんこそ
痩せてたら、帰ってきても知らないふりするぞ...』

『じゃあ、すごく太ってたら?』

『う~ん...やっぱり知らないふりするな...』

そして、二人は やっと笑った...

もう一度、乗船を促すアナウンスが流れ
二人は、ターミナルビルに向かって走った
途中、転びそうになったチェヒの手をサンウが握り
そのまま、ターミナルビルまで一緒に走った

出国手続きをするためのカウンターには
乗船券を持っていないと入ることができない
一緒にいられるのは、ここまでだ...

『じゃあ...行ってくるね...』

『うん...』

繋いだ手を離し、チェヒが、出国ゲートに入っていく...
チェヒの後姿が、とても小さく見えて
言葉もわからない国に、一人で行かなければならない
チェヒの不安を思うと、胸が締め付けられるようだった...

サンウは、フェリーの側まで戻り、甲板にチェヒの姿を探した
やがて、チェヒが甲板に現れ、サンウを見つけられずに
違う方向を見ている

『姉さん!ここだよ~!』

サンウが大声で叫ぶと、やっとチェヒはサンウに気づいて
手を振った

サンウも力いっぱい、大きく手を振る...

しばらくして、出港の合図のドラが聞こえ
汽笛が鳴った...
フェリーは、少しずつ港を離れ
手を振るチェヒの姿が、だんだん遠くなっていく...

ふと気付くと、先ほどのキム親分の使いの男が
サンウの後ろで、手を振っている...
二人は、黙ったまま、フェリーが見えなくなるまで
港に立ち尽くしていた...

『そろそろ帰ろう...』
そう言われて、サンウは振り返った

『俺、ヨンチョルって言うんだ...イム・ヨンチョル
20歳だ...お前は?』

『クォン・サンウ...今年17歳です』

『そうか...俺の方が3つ年上だな...
お前、もうすぐキム社長のところで働くことになってるんだろ?』

『はい...』

『うれしいなぁ...今、キム社長のとこで、俺が一番年下なんだ...
だからいつも使い走りばっかりさせられてる
お前がきたら、俺にもついに弟分ができるってことだな
サンウ、俺のことは、ヨンチョル兄貴って呼んでくれ』

『はい...』

『ここは寒いや...サンウ、早く車に乗ろう』

そういうとヨンチョルは駐車場に向かって走り始めた
サンウもその後に続く...

『あの人は、お前の姉さんかい?』

『いえ...いや...姉さんみたいなものです』

『ふーん...なんか訳ありみたいだな...
でも、きれいな人だ...
かわいそうになぁ...たった一人で...
俺もそうだが...こんな稼業をしてるやつは
みんな訳ありだ...キム社長は、気は短いけど
悪い人じゃない...親父と俺を救ってくれたのは
キム社長だ...たまに爆発することもあるけど...
まぁ...お前にもそのうちわかるさ...』

話している間に、車は、アパートに着いた

『サンウ、本当にこんなところに一人で住むのか?』

『はい...』

『寂しくないのか?俺には絶対に無理だな...
周りに、人っ子一人いないじゃないか...』

『はい、大丈夫です、小学1年の頃から、ほとんど一人でしたから...
今日は、ありがとうございました...』

『礼はキム社長に言ってくれ、俺は言われたことをしただけだ...
サンウ、いつから社長のとこに来るんだい?』

『中学の卒業式が終わったらすぐ...』

『そうか...困ったことがあったら、俺に相談しろよ
なんたって、初めての弟分だからな...じゃあ、またな...』

見かけどおりの気のいい男らしい...

ヨンチョルの車を見送って、サンウはアパートの部屋に入った...

明かりをつけて、部屋の隅に膝をかかえて座る...
チェヒのいない部屋は、なぜか見知らぬ場所のように
よそよそしい感じがした...

布団を敷いて横になる...チェヒが出発する前に
サンウのために洗濯して干してくれた布団...
チェヒと同じ石鹸の香りがする...

『チェヒ姉さん...』

そう呟いたとたん...サンウの目から、突然涙が溢れだした...
こらえていた涙は、堰を切ったように溢れだし...止まらない
やがて、サンウは小さな子供のように 声をあげて泣き始めた...
あの日...だんだん冷たくなっていく母さんの傍で
泣いたように...今は、チェヒの名を呼びながら...

サンウは、世界でたった一人きりになった気がした...
さっき別れたばかりのチェヒが、もう恋しかった...
寂しさと不安で、泣きじゃくるサンウは、まだ子供だった...
そうして、泣きながら サンウはいつのまにか
眠りに落ちていた...

懺悔 8話

チェヒが日本に発ってから一週間後
サンウは、中学を卒業した
卒業式が終わっても、名残惜しんだり、記念撮影をしたりして
なかなか帰ろうとしない同級生たちの間をすり抜け
サンウは自転車で、キム親分の事務所へ向かった

事務所の前に自転車を止めて 中に入ると
先日のイム・ヨンチョルがソファーに座って
テレビを見ながらラーメンを食べていた。

『やあ、来たのか!』

サンウの顔を見ると ヨンチョルは嬉しそうに声をかけた

『今、兄貴たちはみんな昼飯を食べに行ってるんだ
俺はいつも電話番さ...
来いよ、キム社長のところに連れていくよ』
ヨンチョルはサンウを促して
事務所の奥にある社長室と書いてあるドアをノックしようとして
手を止めた...

『サンウ、今何時だい?』

『えーっと...1時です』

『やぁ...そりゃ、マズイ...
サンウもう少し待て、...あと30分...
今ノックしたら、俺 社長に怒鳴られるんだ...
来いよ、サンウ...お前メシ食ったのか?
ラーメンならあるぞ』

そう言って ヨンチョルは
サンウのために もう一つラーメンを作ってくれた

ヨンチョルの屈託のない 笑顔を見ていると
サンウは、自分まで笑顔になるような...そんな気持ちになった...

社長室から、盛大に鼻をかむ音が聞こえる

『もう少しだな...』

ヨンチョルは、サンウの方を見て
意味ありげに微笑んだ...

『社長は、今 ドラマを見る時間なんだ...
貧しい家に生まれた男が、努力して金持ちになるって話なんだけど...
社長は、毎回見て泣くんだ
見てるときにジャマが入ると ものすごく怒るからなぁ...』

社長室から立て続けに鼻をかむ音が聞こえ

『お~い、ヨンチョル~!』
キム親分がヨンチョルを呼んだ

『ハイ!』ヨンチョルは大きな声で返事をすると
サンウの方を向いて 小声で

『入ったら、キム社長、今日からお世話になります
よろしくお願いしますって言うんだぞ』そう言った。

『変わった事はないか?』

『はい、サンウが来ています』

『おぅ、来たか 入れ!』

キム親分は、両肘机の上に足を乗せて
椅子に座っていた...

太って背の低い親分のその姿が
小学生のころ 図書室で読んだ
不思議の国のアリスに出てくる
ハンプティーダンプティーそっくりに見えて
サンウは、奥歯を食いしばって笑いを堪えなければならなかった。

『キム社長、今日からお世話になります よろしくお願いします』
さっき、ヨンチョルに言われたとおりに挨拶をした。

キム親分は、ドラマを見て泣いたのだろう...
鼻の頭と 目を赤くしていた

『サンウ、よく来たな 逃げるんじゃないかと心配していたが...
まぁ...そこに座れ...』

キム親分は、机の前にある応接のソファーにサンウを座らせると
さっき見たばかりのドラマの余韻に浸りながら話し始めた...

『きっと、お前は 私のことを恨んでるだろうな...
確かに...私のせいで お前は高校に行けなくなったし
チェヒは日本に行ってしまった...
しかし、それはお前たちの父親の借金のせいだ
みんなそうだが...金を借りる時には
泣いて私に頼むんだ...何とかしてくれと...
利息のことも、返せないときはどうなるかということも
ちゃんと言ってある
それなのに、返せと言うと 今度は鬼と呼ぶ...
私は、約束を守れと言ってるだけだ...
約束を守らないヤツにかぎって 自分がどんなに不幸な人間かを
嘆いて回るんだ...
いったい、被害者はどっちだ?
私か?それとも 借りた金を踏み倒すやつらの方か?
私は、金を払おうと本当に努力しているやつを脅しはせん
だが、逃げようとするやつは、容赦せん...
サンウ、お前は逃げなかったな...
私もお前と似たような身の上だ...
金の無い親のために 苦労して 学校にも行けなかった...
私は、金持ちになるために ありとあらゆる事をやったさ...
助けてくれた人もいたし、裏切ったやつもいた...
私は、とにかく自分の限界まで努力をした...
だから今があるんだ...ここにいる奴らも
みんな、お前と大差ない
お前だけが不幸だと思うなよ...
金がほしけりゃ、余計なことは考えず 精一杯働け
わかったな...』
キム親分は、満足そうに話し終わると

『お~い!ヨンチョ~ル!』

大声でヨンチョルを呼んだ

『お前、午後から集金だったな...
サンウを連れて行け』

『はい!社長、わかりました!』
ヨンチョルは そう言うと サンウの方を向いてウインクをした...

『サンウ、その制服はマズイな...
ヨンチョル、これで適当に見繕って
サンウに服を買ってやれ』
キム親分は ヨンチョルに10万ウォンを渡した。

『はい、わかりました!』
ヨンチョルは 親分から金を受け取ると
『サンウ行くぞ 社長、行ってきます』
そう言って、サンウを連れて事務所を出た。

『よかったなサンウ、今日は社長 上機嫌だぜ
10万ウォンなんて、めったにくれるもんじゃないぞ
お前の服を買って、余ったら 夜屋台に行こうや!』

ヨンチョルは、サンウを近くの洋服屋に連れて行き
服を選んでくれた

『いやぁ~お前、とても中学卒業したてには見えないなぁ~
俺より年上みたいだ...
背が高いし、ハンサムだしな~
この足の長さはなんだ!俺の1.5倍はあるぜ!
ウエストは、俺の方が1.5倍だけど...』

数枚買った洋服の中から
ヨンチョルが選んだクリーム色のYシャツと
グレーのズボンをサンウは身に付けた

『ひゅ~まるで俳優みたいだ!』

ヨンチョルは本当に人に良い男だった。
サンウが口をはさむ隙がないほど
一人でしゃべり、ニコニコしている...

『よし!サンウ集金に行こう!』
ヨンチョルはそう言うと
市場に入り口に車を止めて
市場の中に入って行った...
一軒のホットクを焼く店の前に立ち止まって

『まず...ここからだ、いいか、サンウよく見とくんだぞ』

そう言うと、店の奥に向かって
『おばさ~~ん!』と声をかける...

『ハイハイ...』
おばさんが、寝ぼけた顔で出てきた

『おばさ~ん、昼寝してる場合じゃないよ
商売しなくちゃ~』

『なんだ、ヨンチョルかい...
また、集金かい?
この間払ったばっかりじゃないの...』

『何言ってるんだよ~おばさん
先月も払ってないよ、今日払わないと...
俺じゃなくて、兄貴たちが集金に来ることになるよ...
俺は知らないぜ...いいのかい?』

『なに!まだガキのくせして、大人を脅迫する気かい!』

『違うよ~、忠告さ...兄貴たちが来たら
おばさんも、困るだろう?』

『あ~もう...ホットクも売れないってのに...
無いものは払えないよ!』

『おばさん、花札をやめればいいしゃないか』

『フン!大きなお世話だよ
...仕方がない...明日の花札の軍資金だったけど...』

おばさんはそう言うと
エプロンのポケットから、クシャクシャになったお金を引っ張り出し

『よく見なよ!5万、10万、15万、20万!
まったく!ひどいやつだよ!』

『おばさん、ありがと!また来月ね
今度は遅れずに払ってよ』

おばさんは、怖い顔をしてヨンチョルをにらんでいたが

『ホラ、これ持って行きな!』そう言うと
作りたてのホットクを2個、包んでくれた

『わぁ~おばさん、ありがと!愛してるよ!』

おばさんも、いつの間にか笑っている...

サンウは、二人のやり取りを感心して見ていた...

『どうだい、この要領で集金すればいいのさ
俺の担当は 小さい金額ばっかりだから
そんなに苦労は無いんだ』

『ヨンチョル兄貴、すごいですね!
集金した上にホットクまで貰えるなんて...』

『この市場の連中は、いい人ばっかりだからさ...
お前も そのうち慣れるさ...』

市場の中を ホットクを食べながら歩いていると
ヨンチョルを見つけた おじさんやおばさん達が
声をかけてくる...

『やぁ~ヨンチョル!元気か?』

『おじさんも、久しぶり!』

『ホラ、ヨンチョル!これ持っていきな!』
そう言って、揚げたてのテンプラをくれるおばさん...

ヨンチョルは市場の人気者らしい...

『ヨンチョル、もう一人は、新顔かい?
いい男じゃないか』

『そうさ、俺の弟分で サンウって言うんだ よろしくね』

『あんたより、そっちの兄さんに集金してもらいたいね
目の保養になる...』

『おばさん、そりゃひどいよ~
サンウ、俺のこと、ちゃんと兄貴って呼んでくれよ
そうじゃないと、俺が兄貴だって 誰も信じない...』

そんな風にしながら、10件ほどの集金を終え
二人は事務所に戻った

『ホゥ!新入りか?』
先に帰っていた兄貴たちが、サンウに話しかける

『はい、今日からお世話になります
クォンサンウです よろしくお願いします!』

『どうだい!このハンサムは!お前、年齢は?』

『今年、17です』

『ヤーヤーヤー!とてもそんな年には見えん
うちのNo1ハンサムボーイだな』

兄貴たちが騒いでいると...

『ヨンチョ~ル!』キム親分が呼んでいる

『はい!社長!』

『サンウも入れ!』

ヨンチョルとサンウが社長室に入ると
上機嫌の親分は

『ほぅ...なかなか似合うじゃないか...
それで、集金は?』

『はい、社長 予定の10件
全部集金しました お金はここに...』

そう言ってヨンチョルは、キム親分に
帳簿と金の入った袋を渡す

『よし!御苦労!』

『はい!』
二人が社長室を出ようとすると...
『おい、ヨンチョル!』またもや、呼びとめられた

『これで、みんなでサンウを歓迎してやれ...』
親分がヨンチョルに20万ウォンをくれた

『はい、ありがとうございます!
サンウお前も、社長にお礼を言え』

『社長、ありがとうございます!』

『もういい、行け!』

ヨンチョルが兄貴たちに手に持ったお札を
振ってみせる...

『兄貴~!社長がこれでみんなで
サンウの歓迎をしろって!ほら、20万ウォン!』

『おーありがたい!それじゃ、みんなで屋台に行くか?』


兄貴たちが4人にヨンチョルとサンウで6人...
屋台で、みんなにからかわれながら
(俺は、学校にいるより、こっちの方が好きだ...)
サンウは、そう思った...

みんな、明るい顔をしているが
それぞれに辛い思いをしながら
生きてきたに違いない...

(3年間、ここで働くのもそんなに悪くはないな...)


兄貴たちは、今度は自腹で別の店に行くと言い出し
サンウは、屋台で飲みすぎて 酔っ払ったヨンチョルを
自転車の後ろに乗せ 家まで送ることになった...

ヨンチョルの家は、キム親分の事務所から
そう遠くない場所にある 印刷屋だ

ヨンチョルをおぶって中に入ると
ヨンチョルの父親らしい男が
印刷機の前で 仕事をしていた
『あの...兄貴を送ってきました...』

『この、バカ息子!しっかりしろ!
そんなに酒に弱くてどうする!』

『あ...父さん...こいつクォン・サンウって言うんだ
俺の初めての弟分だからさ...父さんもかわいがってやってくれよ』

『まったく...しょうがないやつだな...』
そう言いながら、父親は ヨンチョルの頭を
優しく小突いた...

『サンウって言ったか...?
俺はヨンチョルの父親で イム・ドンチョルだ...
こいつは、いつまでも甘えん坊で...困ったもんだ
キム社長に迷惑かけてるんじゃないかと心配だが...』

『いえ、そんなことはないです
ヨンチョル兄貴は、ちゃんと仕事しています』

『そうか...サンウ、今度うちに飯を食いに来い
こう見えても俺は 料理自慢なんだ
旨いチゲを食わせるぞ』

『はい、ありがとうございます!』

『ヨンチョル!お前 さっさと布団敷いて寝ろ!』
ドンチョルはそう言うと 息子の頭をまた小突いた

『とうさん、やめてくれよ~
俺は、もう子供じゃないんだ~
サンウ、また明日な!』

ヨンチョルは、おぼつかない足取りで
奥に入って行った。

『まったく...しょうの無いやつだ
サンウすまなかったな...』

『いえ、じゃあ 失礼します』

『おぅ!また来いよ』

ヨンチョルの性格は、父親似らしい...

サンウは、アパートまで自転車で帰りながら
ほのぼのとした気持ちになっていた...

もし、父さんが生きていたら
いつか、あんな風に二人で話すことができたかもしれない...
最後の日のヨンソクの泣き顔が...ふと 頭をかすめた...

アパートニ帰ると 郵便受けに
1通の封筒が入っていた

『チェヒ姉さんからだ!』

サンウは、封を開けるのも もどかしい気持ちで
チェヒからの手紙を 取り出した...

懺悔 9話

『親愛なるサンウへ...          
フフフ...手紙なんて、書いたことないから...
書き出しは、こんな感じでいいのかしら?

サンウ、元気にしてる?
私が日本に来てから、今日で5日...
いよいよ、今日から仕事を始めたの
初めてのことだらけで、覚えるのが大変そうだけど...頑張るわ...
私の面倒を見てくれることになった
ソナ姉さんは、私より3つ年上だけど、もう子供がいるんだって...
2年前に、日本に来たらしいけど、別れた旦那さんが作った借金を
返すために、日本で働くことになったらしいの...
今年4歳になる息子を、お母さんにあずけてきたんだって...
辛いだろうな...私、ちょっぴり、自分のことをかわいそうだって思ってたけど
ソナ姉さんに比べたら、ずっと幸せかもしれない...
ソナ姉さんは、2年間で日本語をほとんどマスターしてるの
私も、帰るまでには、日本語が話せるようになるかな...

昨日、オーナーのカン・テヒョク社長に挨拶に行ったんだけど...
なんだか、いばったおじさんだった...私を品物でも見るみたいに
ジロジロ見て...ソルもいい子をよこしてくれたじゃないか...だって
失礼な奴!でも、一緒に働く日本人の姉さんたちは、みんないい人ばっかりで
私がお酒を飲まなくてもいいように、気を使ってくれたわ...
私、お化粧の仕方も知らないから...姉さんたちが教えてくれることになったの
お化粧した自分の顔を見た時、びっくりしたけど...
店では、このくらいお化粧しないといけないんだって...
サンウが見たら、きっと笑うわ...
そうそう!大切なことを忘れてた...お店では、ゲンジナって言う
お店だけの呼び名をつけることになってて...
この店は、日本人の客が多いから、日本風の名前をつけるように言われたの...
それでね...私、サンウの名前から一字もらってつけようと思って
ソナ姉さんに相談したら...『佑子』がいいって...日本ではユウコって読むらしいの...
佑子...名前を呼ばれるたびに、サンウのことを思い出すわ...いいでしょ?
名刺も作ってもらって、今日はお客さんに、“新しく入りました、佑子と申しますよろしくお願いします...”って日本語で挨拶したわ...ちょっと発音が変かもしれないけど...
ソナ姉さんは、ちゃんと言えてるって言ってくれた...ホントかなぁ...自分ではわからない...
早く、日本語覚えなくちゃね...
とにかく、私は元気でやってる...
この手紙が、届くころには、サンウはもうキム親分のところで働いてるかしら?
辛いかもしれないけど...私達より辛い人もたくさんいるから...
とにかく、借金を返し終わるまで、頑張ろう!
サンウ、ちゃんと食べてる?ラーメンばっかり食べてるんじゃないでしょうね?
そんなことしてたら、承知しないから!
サンウ、手紙をちょうだい、楽しみに待ってる、私もまた、手紙を書くから...
今、夜中の3時...奨学生選抜試験の勉強してた頃を、思い出すわ...
さて、そろそろ寝なくちゃ...じゃあね、サンウおやすみ...
                   日本から...チェヒ姉さんより』

チェヒの、イタズラっぽい笑顔を思い出しながら、読み終わったサンウは
思ったよりも明るいチェヒからの手紙に、少しほっとした...
(佑子...か...)
名前を呼ばれるたびに、サンウのことを思い出すと書いてくれた
チェヒの心が、サンウには、うれしかった...

早速、サンウは返事を書いた
キム親分のこと、ヨンチョルのこと、兄貴たちや、市場のおばさんのこと...
書きたいことは、いくらでもあった、書き終わった手紙は、便せん7枚にもなった
手紙を封筒に入れ、チェヒの日本での住所を書き終わると
そのずっしりと重い封筒を枕元において、サンウは部屋の灯りを消した...
チェヒが、すぐそばで、笑っているような...そんな気持ちになった...

翌日から、サンウは本格的に、ヨンチョルと一緒に集金の仕事を始めた
午前と午後に分けて、1日20件から30件を集金して回るのが、二人の仕事だ
ヨンチョルは、どこに行っても人気者で、集金にそう苦労はしなかった...

ある日、二人が午後の集金を終えて、事務所に戻ろうとしていた時
市場の入口でタバコを吸っている二人の男と、鉢合わせした
『まずいな...』ヨンチョルはうろたえたが、もう遅かった...
二人の男は、サンウとヨンチョルの前に立ちはだかり

『ほ~、たんまり集金したみたいじゃないか...俺たちにその金、貸してくれないかなぁ~』
チンピラを絵にかいたような仕草で、男たちは言った。

『この金は、駄目だ...金がいるなら、事務所まで借りに来い...』
集金の袋を抱きしめながら、そう言うヨンチョルの声は震えている

『困ったな...俺たちには事務所まで行く時間が無いんだよ...
その金を、回してくれると助かるんだが...』

そう言うと、片方の男がいきなりヨンチョルにひざ蹴りをくらわした
それを見ていたサンウは、考えるよりも早く、その男に飛びかかった
不意を突かれ、応酬する間もなく、男はサンウの拳を受け
地面に倒れた、その上に馬乗りになり、サンウは何度も男の顔を殴りつけた
気絶寸前の男を無理やり立ち上がらせ、膝蹴りを喰らわせる...
『サンウやめろ!死ぬぞ!』
ヨンチョルの声に、サンウは我に返った...
男の連れは、いつの間にか逃げていなくなっている
サンウは、顔中を血まみれにして気絶している男を、市場の裏のゴミ捨て場まで
引きずっていき、ホースで水をかけた...
気がついた男は、起き上がり、後ろも見ずにヨロヨロと逃げて行った...

『サンウ...お前...怖いな...』
茫然とサンウを見つめるヨンチョル...

(また、やってしまった...)

サンウは、カッとすると前後の見境がなくなってしまう自分が怖かった...
(チェヒ姉さんが、一番悲しむことだ...)

『兄貴...すみません...俺...』
『い、いや、お前が謝ることじゃない...お前は俺を助けてくれたんだからさ...
ただ...お前があんまり怖い顔してるから...びっくりしたんだ...
それにしても...サンウ、お前すごいや...あいつらは、いつもこの辺を
うろついてるチンピラなんだ...この間も兄貴が、集金の金をやられて...
いやぁ...それにしても、ホントにお前はすごいやつだ...』

返り血を浴びて、血だらけになっているサンウを
市場の裏口から、おじさんやおばさん達が、恐る恐る眺めている...

『兄さん、やるじゃないか...あいつらには、いい薬だよ!ざまぁみろってんだ!』
『そうさ、俺たちだって、売り上げを、どれくらいあいつらに持って行かれたことか...』
『ホントだよ!、あ~胸がスカッとした!』

チンピラ達が、戻って来ないのを確かめると、みんな口々に悪態をつきはじめた

『サンウ、グズグズしてたら、あいつら仲間を連れて戻ってくるかもしれないぜ
早く帰ろう...みんなも、早く店に戻った方がいいぜ...』
蒼ざめた顔をして、ヨンチョルはそう言うと、車に乗り込みエンジンをかけた

『フン!まったく...ヨンチョルときたら...弟分に助けてもらうなんて...
情けないったらありゃしない!』
ホットク屋のおばさんが、ぶつぶつと言いながら市場の中へ戻って行く...

サンウが助手席に乗ると、ヨンチョルは一目散に車を発車した

事務所に戻ると、血だらけのサンウを見て、兄貴たちが色めきたった...

『お前ら、やられたのか?市場のチンピラどもか!』
以前に、集金した金を横取りされたことのある ジヌク兄貴が、心配そうにヨンチョルに尋ねる

『違いますよ、俺たちが、あいつらをボコボコにしてやったんですよ!』

『ボコボコに...?ヨンチョル、お前がか?』

『い、いや...あのぅ...サンウが...
お、俺は、金を盗られまいと必死で...』

『サンウが...?』

『そうなんです!凄かったですよ!すごい形相で
チンピラをボコボコにしたんです!俺、殺しちゃうんじゃないかと
心配しましたよ...』
ヨンチョルが、さっきの出来事を兄貴たちに身振り手振りで報告していると...

『おーい!ヨンチョ~ル!何を騒いでる!サンウも来い!』
キム社長が、社長室から大声で二人を呼んだ

血だらけのサンウを見て、キム社長は驚いたが...
ヨンチョルの報告を聞いて、上機嫌になった
『なかなかやるじゃないか...あのチンピラどもも、少しは思い知っただろう
ご苦労!...それにしても...ヨンチョル、お前は情けない...
これからは、お前がサンウを兄貴と呼べ!』
『社長~それはないですよ~俺だって、金を盗られまいと...
こう...両手で集金袋をハッシと掴んで...』
『わかった、わかった、もういい...これで、二人で飯でも食え...』
そう言うと、キム社長は5万ウォン札を1枚、集金袋から取り出しサンウに渡した
『わぁ~、社長、ありがとうございます!』
ヨンチョルは、大喜びだったが...
サンウは、気持ちが重かった...
理性をなくすほどの怒りにまかせて、喧嘩をした後は
いつも、そんな気持ちになる...
チェヒとの約束を守れない自分が、情けない...

『サンウ、その格好で自転車で帰るのは、マズイ...
俺のうちに寄って、着換えろ、俺の服を貸してやるよ
ついでに、風呂に入れ、俺んちの風呂は、いいぞ~
日本風なんだ...親父の自慢の風呂だぜ
俺、今から親父に電話して、風呂にお湯を入れとくように頼むから...』


ヨンチョルの家に着くと、ヨンチョルの父ドンチョルが
台所でチゲを作っていた...
『よう!サンウよく来たな...この間約束した うまいチゲを食わせるからな...
先に、風呂に入れ...まったく、派手にやったもんだ...』

ヨンチョルから案内された風呂には、大きな湯船があり
サンウは、血のついた顔と体を洗い、湯船に体を沈めた...
サンウのアパートには湯船がない、体を洗うのは、いつもシャワーだ
チムジルバン(韓国の公衆浴場)へも行ったことの無いサンウにとって
湯船につかるのは、初めての体験だった...
綺麗なお湯が、なみなみと張られた湯船につかると
全身の緊張が解け、気持ちまで柔らかくなるような気がした...

風呂からあがると、チゲが出来上がっていた
『おっ、サンウ来たか、早く座れ、父さん、今日のサンウはすごかったぜ
チンピラどもを、グウの音もでないくらいに、ボコボコにしたんだ』
ヨンチョルは、また身振り手振りで話し始める...
ドンチョルは、サンウの顔を見て『サンウ...お前、ケンカが自慢か?』と聞いた
『いえ...』
『そうだな...たとえどんな理由があるにせよ、喧嘩は良くない
喧嘩して、いいことは一つもない...喧嘩してスカッとした...なんてやつは
弱いやつだ...サンウ、お前は嫌な気分だろ?』
『はい...』
『だったら、もう、するな...俺も、若いころ、よく喧嘩して
ヨンチョルの母親を泣かせたんだ...自分の大切な人を泣かせる男は
最低だ...だから、もう、喧嘩はするな...わかったな』
ドンチョルの目は、優しかった...
『なんだよ~父さん、向こうが喧嘩を売ってきたんだ!
サンウは、俺を助けてくれたんだぜ、礼を言うのが本当じゃないか!』
『バカ!喧嘩を売られたら、買わずに逃げろ...
逃げるが勝ちって言うだろ、怪我しなくて済む
敵に後ろを見せるな...なんて、馬鹿なやつの言うことだ...』
不満そうに口をとがらせて、ヨンチョルは、まだブツブツと言っている...
サンウにはドンチョルの言いたいことが、よくわかった...

『サンウ、今日は泊まっていけ...』
ドンチョルに勧められて、サンウはヨンチョルの家に泊まることになった
ヨンチョルと枕を並べて、布団を敷くとビールを飲んで酔ったヨンチョルは
すぐにいびきをかき始めた...
(この家は、暖かいな...)サンウは、ヨンチョルがうらやましかった...
そして、サンウは、チェヒがいなくなって以来初めて
幸せな気持ちで、眠りに落ちていった...

懺悔 10話

4月の終わりに、チェヒからの2通目の手紙が届いた

『サンウ、もっと早くに 手紙を書こうと思ったんだけど...
仕事から戻ると、眠くて...ごめんね...
心配しないで、私は元気よ!
前に手紙を書いた後、マネージャーさんから
私の働くお店のシステムを教えてもらったの...
私の時給は2千円、ウォンだと...2万ウォン
夕方7時から夜中の1時まで6時間で12万ウォン
一か月20日働くとして...240万ウォン!すごいでしょ!
でも、それから部屋代とか、光熱費とか、衣装代とかで
50万ウォン引かれて...残りが190万ウォン
食費や生活費で、ひと月最低40万ウォンは必要だから...
(博多は、釜山よりも物価が高いわ...)
最終的には手元に150万ウォン残るんだけど...
私の借金が、3,000万ウォンで、毎月10万ウォンに対して2千ウォンの
利息がつくらしいの...だから...3,000万ウォンの利息で60万ウォン...
元金が返せるのは、90万ウォンってわけ...
元金が減れば、その分利息も少なくなるってことね...
単純に計算すると...毎月90万ウォン返すとして...1年で1,080万ウォン...
3年経てば、返し終わるわ!

でもね...少しでも早く返したいから、私、昼間、近くのコンビニで
アルバイトをすることにしたの...時給6千ウォンだけど
朝10時から午後3時まで5時間働いて、1日3万ウォン...
20日で60万ウォン...これを全部借金の返済に入れれば...
毎月150万ウォン返せるわ!そしたら、2年もしなくて、釜山に帰れる!
そう考えたら、すごくうれしくて、ファイトが湧くの!

もしも、私のことを気に入って、指名してくれるお客さんができたら
そのお客さんの使ったお金の10%を貰えるんだって、そうしたら
もっと早く、帰れるかも...でもね、お客さんが、お金を払わないときは
指名された人のお給料から払わなくちゃいけないんだって...
どっちにしても、お店は損をしないシステムだわ...気をつけなくちゃ...

私の働いてる店は、中洲でも高級な店らしくて、お客さんも
わりと紳士的な人が多いの...
たまに、酔っぱらって、変なことをするお客さんがいると
すぐに『クロフク』って呼ばれてるお兄さんが助けに来てくれるから、大丈夫...

この間、休みの日に、ソナ姉さんに天神っていう町に連れて行ってもらったの
私の住んでる中洲から歩いてもそんなに遠くないところよ
とってもにぎやかで、綺麗な町だわ...
大濠公園っていうところは、桜(ポッコッ)の名所で、4月の初めにお店の姉さんたちと
お花見に行ったの、桜が満開で、中学の頃に遠足で行った
龍頭山公園(ヨンドゥサンコンウォン)を思い出しちゃった...
龍頭山公園の桜も、もう散ってしまってるでしょうね...
黄色のレンギョウ(ケナリ)、ピンクのツツジ(チンダルレ)...目に浮かぶわ...
中洲の川べりにある桜も、今は綺麗な若葉でいっぱいよ
7月になれば、釜山では、ムクゲ(ムグンファ~韓国の国花)の花が咲き始めるわね...
私も、ムクゲみたいに、強くならなくちゃ...
でも、やっぱり釜山がなつかしい...早く帰りたいな...

ソナ姉さんの借金は2億ウォンもあるんだって...今の店で働いても
利息を払うのが精いっぱいで、借金が減らないから
もう少ししたら、もっとお金になる仕事をするって言ってる...
体を売る、違法な仕事よ...
そんなことしちゃいけないって言ったんだけど...
このままじゃ、いつまでたっても、子供と暮らせないからって...
ソナ姉さん、本当に気の毒だわ...
姉さんの話を聞いてると、私の苦労なんて大したことないって思う...
頑張らなくちゃね!

初めは、佑子って呼ばれても、ピンとこなかったけど
最近は、慣れてきた...サンウ、佑子は頑張ってるからね
安心してちょうだい!

手紙、読んだわ...私が想像してたより、辛そうじゃなくて、安心した
ヨンチョルさんは、いい人ね...よかった...
キム親分も、見かけほど悪い人じゃないのね...安心したわ
私の今の心配は、サンウがちゃんと食べてるのかってこと...
それと...短気を起こして、喧嘩したりしちゃダメよ...
サンウは、すぐ手を出しちゃうから...かっとした時には
私の泣き顔を思い出して...私を泣かせるようなことは
絶対にしないでね...わかった?
まだまだ、朝晩は冷え込む時もあるから...
風邪引かないように...あんたは、丈夫そうなのに、すぐ風邪ひくんだから


明日もバイトがあるから、もう寝なくちゃ...おやすみ、サンウ
たまには、私の夢を見てくれてる?
私、この間、サンウの夢をみたわ...どんな夢だったのかって?
教えてあげない!フフフ...それじゃ、またね...
                  日本から...チェヒ姉さんより』


チェヒからの2通目の手紙が届いたのは、4月の終わりだった...
しまり屋のチェヒらしい、手紙の内容に、サンウは思わず微笑んだが...
早く釜山に戻るために、昼間も働くというチェヒのことが心配だった...


『姉さん、俺は、元気で暮らしてるよ...
ヨンチョル兄貴は、本当に親切なんだ、時々、家に呼んでくれて
兄貴の父さんの手料理を御馳走になってるんだ...
ドンチョルおじさんは、料理の天才だよ~
特に、おじさんのチゲは、絶品だ!姉さんにも食べさせたいなぁ~
ドンチョルおじさんと話してると...父さんのことを思い出すんだ...
父さんたちが生きていていたら、姉さんも日本に行かずに済んだし...
俺も今頃は、奨学金で高校に通ってるだろうな...
借金を返し終わって、姉さんは医者に、俺は教師に、父さんたちは運送屋に...
もし...そうなってたら...ヨンチョル兄貴の所みたいに...
俺も父さんと仲良くできていたかもしれない...
考えてもどうしようもないけど...時々そんな空想をするんだ...

姉さん...早く釜山に帰りたい気持ちはわかるけど...
あんまり無理するなよ...体を壊したら、どうしようもないじゃないか...
たくさん食べて、たくさん寝ろよ...
俺も、姉さんの言いつけをちゃんと守って、自分で料理もしてるよ...
この間、チヂミを焼きながらテレビを見てたら、うっかりしてチヂミが真っ黒焦げになっちゃった
休みには、ちゃんと掃除して、布団だって干してるよ...

最近、キム社長が出かけるときに、よく俺を連れていくんだ
この間は、コンピューターの会社に行ったよ、うちの事務所にも
コンピューターを入れるらしいんだ、社長は、俺にコンピューターの操作を覚えろって言ってる
俺もやってみたいんだ...勉強のつもりで、やってみるよ
社長のお伴をするときの俺の様子、姉さんに見せたいなぁ
ピシッとスーツを着て、ネクタイをしめて...
黒いベンツの後ろの席に社長と並んで座るんだ...
自分で言うのもなんだけど...映画スターみたいだぜ...ハハハ~

ヨンチョル兄貴と一緒の集金の仕事の時に、よく龍頭山公園の近くを通るよ
今年も桜がきれいだったなぁ...
兄貴は、花が好きで、いろんな花の名前を知ってるんだ...
雑草の名前だって、とてもよく知ってるよ...
子供の頃、植物図鑑を見るのが大好きだったんだって...
俺は、中学に通ってた頃より、今の方が好きだな...
ぜんぜん辛くないよ...だから、姉さんも俺のことは心配しなくていいから...
あんまり無理しないで、体を大切に...
俺は、姉さんが帰るまで、ちゃんと留守番してるからさ...

昨日の夜、なんとなく空を見たら、満月だった...姉さんも見てたらいいなって...思ったよ

おやすみ、チェヒ姉さん...

          映画スターみたいにかっこいい男 サンウより...』



季節が移り、秋も終わるころ...サンウは事務所での仕事にすっかり慣れていた
チェヒは、2週間に1度、必ず手紙をくれたし、サンウも同じだけの返事を書いた...

ヨンチョルと一緒の集金の仕事のほかに週2日、サンウはコンピューターの勉強をするために
ビジネススクールに通うようになった...
ビジネススクールでの勉強は、サンウの学びたいという欲求を満たすためには
絶好だった...

その頃...インターネットが世の中に普及しはじめ
パーソナル・コンピューター(パソコン)という呼称が、知られ始めたばかりだった
サンウは、ビジネススクールでの勉強に飽き足らず、コンピュータの専門書を読み
独学で、プログラミングの勉強も始めていた...

キム社長は、2台のパソコンを事務所に導入して、サンウにその管理を任せた
サンウは、キム社長の金融業の経理を処理するプログラムを制作し
苦手な帳簿から解放された社長は、大喜びだった...

『サンウ、3年経って、お前を手放すのが惜しいな...
ここに残れば、学歴など関係ない...働きに応じた報酬でお前を雇うが...どうだ?
私は、15の時から、必死で働いてきた...
金がなくて、高校へも行けなかったが、負けん気だけは強かったから
親の金で、悠々と大学に通う奴らに負けたくなかった...
同級生が、青春を謳歌して遊び呆けてる間にも、私は必死で働いた...
世間に威張れるような仕事ではないがな...
おかげで、人並み以上の金はできた、大学を出た同級生より
私の方が、ずっと金持ちだ...だがな...今になって、考えるんだ...
もうすぐ私は50になる...結婚もしなかった私には、この金を残せる子供もない...
そう考えると、虚しくてな...お前が、私の跡を継いでくれないかと...
考えたりもするんだが...』

『.....』

返事が出来ずに下を向いたサンウを見て、キム社長はさらに続けた...

『チェヒとの約束があるのは知っている...
お前が、こんな世界から抜け出したいと思っているのもわかっている...
しかし...サンウ...お前が思っている以上に、女は金に弱い...
チェヒも、金持ちの日本人に会えば、帰って来ないかもしれんぞ...』

『いえ、チェヒ姉さんは、そんなことはありません...
日本から帰ったら、二人で夜間高校に行く約束なんです...』

『そうか...私も、初めて好きになった女と約束をしたよ...
二人で一生懸命働いて、金を貯めて、花屋を開こうってな...
夜も昼も、3年間必死で働いて、やっと5,000万ウォン貯まった時...
その女は、金を持って消えた...
何年か経って、その女がソウルで金持ちの妾になったって噂を聞いた...
そんなもんだ...それ以来、私は女を信用しない、だから結婚もしなかった...
そのことに後悔はないが...跡継ぎがいないというのは、この年になってみると
虚しいものだ...まぁ、いい...お前が借金を返し終わった時に
もう1度、考えてみてくれ...後を継げば、私の財産はすべてお前のものだ
悪い話じゃないと思うがな...』


自転車で、アパートに帰りながら、サンウの心に不安がよぎった
チェヒ姉さんに限って、絶対にそんなことはない...
そう否定しながらも、1度芽生えた不安は、サンウの心の片隅に
小さな影を落とした...

早く3年経って、借金を返し終わればいい...アパートの部屋の窓から
空を眺めながら、サンウはチェヒのいたずらっぽい笑顔を思い出していた

金木犀が、今年もまた、いい香りをあたりに漂わせている...
チェヒと出会ったのも、ちょうど今頃の季節だった...

オリオン座が、中天で瞬いて...サンウは、泣きたいくらいに
チェヒに逢いたかった...

懺悔 11話

翌年のソルナル(旧正月)...サンウは一人、アパートの部屋でラーメンを食べていた
「チェヒ姉さんがいたら、叱られるだろうな...」 そう思いながら...
チェヒが日本に行ってからしばらくは、チェヒの作ってくれたレシピを見ながら
料理を作っていたが、一人で食べる食事は淋しく味気ないものだった...
仕事の時は、ヨンチョルと一緒に近くの食堂で昼食を食べた
食堂のおばさんは、二人が行くと、いつもおかずやご飯を大盛りにしてくれた
最近では、その昼食が、1日に1度のまともな食事になっていた

キム社長が、ソウルにいる先輩のところにソルナルの挨拶に行くために
事務所は3日間休みになった
一人アパートの部屋でソルナルを過ごしながら、サンウは去年のソルナルを思い出していた...

チェヒとサンウからセペ(韓国式のお辞儀)を受けた時のヨンソクの涙...
運送屋になろうと思うと語ったヨンソクの笑顔...
うたたねから目覚めて、編み物をするチェヒの横顔を見つめていた時の、完璧な幸福感...
...そして...薄暗い霊安室に横たわっていた、ヨンソクとジョンウの顔...

久しぶりに親子そろって迎えた幸せな時間は、数時間後に暗闇に包まれた...
あれから、もう1年経った...チェヒが日本に行ってから、もうすぐ1年経つ...
子供のころから一人には慣れていた...チェヒが引っ越してくるまでは
このさびれた倉庫街で、一人で過ごしていた...淋しかったのか?
今考えると、わからない...淋しさよりも、何に対してなのかわからない怒りが
いつも心にあったような気がする...めったなことでは喜怒哀楽を表わさない少年サンウの心は
怒りで満ちていた...チェヒに出会うまでは...
チェヒの優しさは、サンウの心から、怒りを去らせ、代わりに人に対する優しさと思いやりを教えてくれた...
チェヒの強さは、夢をかなえるための忍耐と努力を 教えてくれた...
チェヒは、サンウにとって、母さんであり、優しい姉さんだった...
そして...いつもそこでサンウは戸惑ってしまう...自分の気持ちが解らなかった...

そんなことを考えながら、ラーメンを食べた鍋を洗っていると
ドアをノックする音が聞こえる...『お~い!サンウ!いるのかい?』
ヨンチョルだ...
ドアを開けると、いつもの笑顔でヨンチョルが立っている
『サンウ、父さんがお前を連れて来いって、父さん朝から腕をふるって料理をつくったんだ
男3人でソルナルを過ごすのもいいじゃないか、早く行こうや!
着替えも持ってこいよ!今夜は3人で潰れるまで飲もう!』
サンウには有無を言わさず、ヨンチョルはキム社長から預かっている車にサンウを乗せて家に向かった

ヨンチョルの家では、台所でドンチョルが一人奮闘していた
『よぅ!来たか!ヨンチョル、サンウにビールでも注いでやれ
サンウ、もう少し待ってろよ...ドンチョル特製のズンドゥブチゲ(豆腐鍋)が
あと一煮立ちで出来上がるからな...』

テーブルの上には、既に出来上がった料理が、所狭しと並べられている...
ドンチョルが腕をふるっただけあって、どれもおいしそうだ...

『ホラ!サンウ、乾杯しよう!』
ヨンチョルがそう言って、サンウのグラスにビールを注いでくれた
『父さんの自慢料理に!俺たちの明るい未来に!
そして...いつか巡り合う、俺たちの花嫁に!カンパ~イ!』

『おい!ヨンチョル!あんまり飲みすぎるなよ!
料理を食べる前に、潰れちまうぞ!』
台所からドンチョルが叫ぶ...

『わかってるって!父さん、早くしてくれよ~
俺、ハラペコで死にそうだよ~』

『まったく...しょうのない奴だな...
ほ~ら、出来上がったぞ~』
湯気の立つ鍋をテーブルの中央に置いて、ドンチョルも席に着いた

『じゃあ、改めて乾杯といきますか!』
ヨンチョルは、父のグラスになみなみとビールを注いで
自分のグラスにもビールを満たすと
『父さんの健康に!俺たちの未来に!
そして、いつか巡り合う、俺たちの花嫁に!カンパ~イ!』

『おい!ヨンチョル、お前さっきから、俺たちの花嫁にって、何度も言ってるが...
好きな子でもできたか?』
うまそうにビールを飲みながら、ドンチョルがからかうように言った

『そ、そんなことないよ...ただ...いつかは俺だって結婚するだろ...?』
顔を赤くしながら、ヨンチョルはしどろもどろだ...

『おっ!お前、顔が赤くなったぞ...図星だな...』

『うるさいなぁ~、違うってば!』

『わかった、わかった、はやく食べよう、せっかくの料理が冷めちまう!』

さっきまで話す人もなく、一人でラーメンをすすっていたのが嘘のように
ヨンチョルの家はにぎやかだ...
ドンチョルとヨンチョルの会話は、いつ聞いても、まるで掛け合い漫才のようだった

『おい、サンウ、お前は好きな子がいるのか?』

不意を突かれて、あわてたサンウは、飲み込もうとしていたビールにむせて、せき込んだ

『おいおい、お前ら二人ともあやしいぞ~正直に話せ!』

少し酔ったドンチョルが、しつこく聞いてくる...
普段、自分のことはあまり話さないサンウだったが
酔いも手伝って、ドンチョルに話を聞いてもらいたくなった...

『それが...自分でもよくわからないんです...
チェヒ姉さんは、小6の頃からずっと一緒にいて...本当の姉さんのように思っていたし...時には母さんみたいだと思ってたんです...
でも...姉さんが日本に行ってから...なんだか、自分でもわからないんですが...
時々、すごく心配になるんです...
姉さんが、日本で金持ちの男を好きになったらどうしよう...って
そう思ったら、居ても立ってもいられないくらい心配なんです...
考えてもわからなくて...自分の気持ちが家族に対するような愛なのか...
それとも、男と女の間にある愛なのか...自分の心なのに、自分でもわからない...』

サンウの告白を黙って聞いていたドンチョルは

『サンウ、それは男と女の愛だ!』

キッパリと、そう言いきった...

『家族への愛と、女への愛の違いを教えてやろうか...
男と女の愛にはな,,,いつも嫉妬と不安がついてまわるんだ...
いくら家族を愛していても、嫉妬はしない
不安になるのは、男と女だからだ...家族の愛は絶対に変わらない
血は水よりも濃いって言うだろ...たとえどんなにダメな家族でも
家族は家族だ...愛はなくならない...
しかし、男と女の愛は、他人同士の愛だ...いつ心変わりするかわからない...
だから不安になるし、嫉妬もするんだ...
サンウ、お前は今、間違いなく恋をしてるぞ...』

あらためてドンチョルにそう言われて、サンウは戸惑った...
俺は、チェヒ姉さんに、恋をしてる...そう思っただけで
心臓の鼓動が速くなるのが、自分でもわかる...
サンウが考えに耽っていると...
酔っぱらったドンチョルの矛先は、今度はヨンチョルに向けられた

『おい!ヨンチョル!お前も正直に言え!好きな子が、できたんだろ?』

ヨンチョルはそう言われて、顔を赤くしながら、話し出した...

『俺もさ...まだよくわからないんだけど...
サンウも知ってるだろ...市場の野菜屋の娘...ソヨンって言うんだけどさ...
父さんが病気で、高校に通いながら、母さんがやってる野菜屋を手伝ってるんだけど...
ソヨンを見てると...なんだか...こう...胸のあたりが、キュンとするんだ...
俺に出来ることなら、なんでもしてあげたいって、そう思う...
隣の魚屋の息子が、同級生でさ...
よく二人で楽しそうに学校の話なんかしてるのを見たら
やたらと腹が立つんだ...
父さん...それって恋だと思うかい?』

『おうよ!でかしたぞヨンチョル!それが恋ってもんだ...
そかし...ソヨンはお前の気持ちを知ってるのか?』

『いや...俺、こんな仕事してるし...
高校生の女の子から見たら、やくざとかわらないって思われてるんじゃないかな...』

『ば~か!男ならそんなことウジウジ考えてないで、さっさと好きだって言っちまえ!
話は、それからだ』

『なんだよ~父さん、人に話すだけ話させて、なんのアドバイスもなしかい?』

『当たり前だ!ソヨンを好きなのは、お前だろ?俺がアドバイスしてなんの役に立つ?
あ~久しぶりに飲んだら、酔っぱらったよ...
俺はもう寝るぞ...かたずけは明日だ...サンウ、風呂に湯を張ってるから入れ...
あぁ...過ぎ去りし青春の日々...戻ってはこないあの懐かしき青春...』
変な節をつけて歌いながら、ドンチョルは自分の部屋に引き揚げて行った...

ヨンチョルは、うつろな目で空(くう)を見つめながら...

『あぁ...ソヨン...お前はどうしてソヨンなんだ...』

どこかで聞いたようなセリフをつぶやいている...

『兄貴、俺、先に風呂に入っていいですか?』

『ああ...ゆっくり入ってこい...』

あいかわらずうつろな目で、ヨンチョルは椅子に座ったままだ...


湯船につかって、酔ってぼーっとした頭で、サンウはチェヒのことを考える...
「俺は、チェヒ姉さんに恋をしている...」いつからなのか...
サンウにもわからなかった...
チェヒが日本に立つ前の日、首にかけてくれたコインペンダント...
一度もはずしたことの無いペンダントを、右手で握りしめてみる...
あの日のチェヒの泣き顔が、昨日のことのように蘇ってきて...
サンウは、死ぬほどチェヒに逢いたかった...

「2年もしないで、帰れそうだって、姉さん手紙に書いてたな...
後1年...1年待てば、逢えるんだ...」

そうは思っても、今すぐチェヒの顔を見たいと言う気持ちは
なかなか消えなかった...

湯船に顔をつけて...サンウは自分にもわからないように、涙を流した...

懺悔 12話

チェヒが日本に行ってから、2度目の春が来た...

サンウは龍頭山公園(ヨンドゥサンコンウォン)の桜の花を押し花にして
チェヒへの手紙に貼った...

自分の、チェヒに対する気持ちに、はっきりと気づいてから
サンウは、以前のように長い手紙が書けなくなってしまった...
気持ちを表す言葉を、素直に書けない自分が もどかしい...

チェヒ姉さんは、俺のことをどう思ってるんだろう...
姉さんにとって、今でも俺は、昔のままの弟のような存在なのか?

日本に発つ日、堪えきれずに泣きだしたチェヒを
思わず抱きしめた あの時...守ってやりたいと思った...
チェヒの小さな肩...守ってやれない自分が、情けなかった...

恋しいと想う気持ちは、サンウが思う以上に大きな
不安と焦りを伴うものだった...


桜が黄緑の若葉に変わる頃
チェヒからの手紙が届いた...




『サンウ、きれいな押し花、ありがとう!
こっちも1週間前まで桜がきれいだったわ...

ソナ姉さん、3月の終わりに、とうとうお店を変わってしまったの...
今は、私一人でアパートに住んでる...
日本に来てから、もう1年...日常会話にはなんとか不自由しないくらい
日本語話せるようになったから、生活するのには困らないけど...
淋しくて...サンウに早く逢いたい...

でもね...サンウ驚かないで...
私、7月には釜山に帰れるわ!

借金は、あと1,000万ウォンくらい残ってるんだけど...
去年の10月くらいから お店に来るようになった
木村さんっていう おじさんがいて...
私を気に入ってくれて、お店に来たら必ず私を呼んでくれるの
会社を経営してるらしいんだけど、今度、韓国の会社と取引をするようになって
韓国語のできる通訳を探してるんだけど、見つからないんだって
それで、通訳が見つかるまで3カ月くらい働いてくれないかって頼まれたの...
まだ借金が終わらないから、無理だって断ったんだけど
木村さんが、借金を肩代わりしてくれて、その代わりに7月の半ばまで
木村さんの会社で仕事をしたら、それで借金無しにしてくれるって...
それでね...私、木村さんの会社に行くことに決めたわ!

心配しないで、木村さんは、見かけはちょっと怖いけど
とても優しくて、私を娘のようにかわいがってくれるの
死んだ父さんと同じくらいの年頃で...
私も、木村さんと話してると、父さんを思い出すわ...

4月いっぱいで、今のお店に借金を返して
5月から木村さんの所に行くことにした

でも、お店のみんなには、韓国に帰ると言うわ...
いろいろ言われると、木村さんにも迷惑がかかるといけないから...

お店を辞めたら、今のアパートも出なくちゃいけないけど
住むところは、木村さんが用意してくれるって...

新しい住所がわかったら、すぐに知らせるから待っててね

サンウ、あと たったの3か月!3か月でサンウに逢える!

サンウ、もう少しの辛抱よ...


追伸

一緒にいると、気付かないけど

離れてみて、はじめて分かることがある...

実はね...

サンウ...私、サンウを 愛してるわ...


                  日本から... チェヒより』







サンウが、書きたくても書けなかった言葉...
『愛してる...』

「本当なら、男が言うべき言葉じゃないのか...」
サンウは、自分の意気地の無さが 恥ずかしかった...

チェヒが、自分と同じように 想っていてくれたことは
天にも昇るくらいに嬉しい...

しかし...サンウは、不吉な予感がした...

1,000万ウォンの借金を、たった3ヶ月で 帳消しにしてくれるなんて...
そんな話...いつものチェヒ姉さんなら、そう簡単に信じるはずがない

早く釜山に帰ろうと、焦ってるんじゃないのか?
このまま、今まで通りに、今の店で働いても
あと7カ月もすれば借金は返せるじゃないか...

サンウは、すぐに返事を書いた...


『姉さん...本当は、俺が先に言うべきだったのに...
俺、意気地がなくて...ごめん...
ずっと、書きたかったんだ...でも、書けなかった...
今も...書きたいのに...やっぱり書けないや...
姉さんが、帰ってきたら、ちゃんと自分の口で言うよ...
俺って、本当に意気地無しだな...

姉さん、今の店で働いても、あと7カ月で
借金返せるじゃないか...

なんだか、嫌な予感がするんだ...

俺の嫌な予感は、けっこう当たるんだ...
だから、その木村って人の会社で働くのは、やめてほしい...
少しでも早く、姉さんに逢いたいのは、俺だって同じさ...
でも、焦って、素性もよくわからない人を、信用しすぎるのは良くないよ...
俺は、大丈夫、あと7か月なんて、あっという間に経つさ...
ちゃんと待ってるから、姉さん、無理はしないでくれ
いつものチェヒ姉さんらしくないよ...
うまい話には、必ず裏があるんだ...用心しないと...

淋しくて...いつも姉さんに逢いたくてたまらないけど...
姉さんに無理はしてほしくない...

いつも、空を見て、姉さんのこと考えてるよ...おやすみ、姉さん...

                  釜山から...サンウより』



それっきり...チェヒからの手紙がこなくなった...

5月になり、6月が過ぎ...7月に入っても
チェヒからは、なんの音沙汰もない...

サンウは、不安でたまらなかった...
あれから、送った何通かの手紙は
転居先不明のスタンプを押されて、サンウのもとに戻ってきた...

キム社長に訳を話し、チェヒが働いていた店の、カン・テヒョク社長に連絡をとってもらったが
4月の末に借金をすべて返して、釜山に帰ると、アパートを引き払った後の
チェヒの消息は、まったくわからなかった...
木村という男も、チェヒが辞めてからは、一度も店に来ないらしい...

『サンウ、私が言った通りだろう...
女は、そうなんだ...
たくさんの金を見ると、女は変わるんだ...
もう、チェヒとの約束は忘れろ...
忘れないと、お前が苦しいだけだ...
自分の将来のことだけ考えろ
以前、私が話したことを...考えてみないか?』

そんなことは無い...チェヒ姉さんにかぎって、絶対にそんなことは無い...

最後の手紙に書いてあった 『私、サンウを愛してる...』その言葉が
嘘であるはずがない...

眠れない夜が続いた...

そんなサンウを心配したのか...
『サンウ、久しぶりに家に来ないか?
父さんも、お前に会いたがってるよ...』
ヨンチョルが、サンウを家に招いてくれた

ドンチョルに会うのはソルナル以来だ...

久しぶりに会うドンチョルは、少し疲れた顔をしていた...

『おじさん、久しぶりです...ちょっと痩せたんじゃないですか?』

『うん...ここのところ、仕事が忙しくてなぁ...
ちょっと、疲れたかな...
サンウ...まぁ、座れ...チェヒ姉さんの消息がわからないそうだな...』

『...はい...』

『心配だな...何の手がかりもないのか?』

サンウは、チェヒからの最後の手紙のことをドンチョルに打ち明けた...

『...そうか...その木村って人の会社に行ったのは間違いないだろうが...
木村がどこに住んでるのかわからないのか?』

『はい...姉さんが働いていた店の社長に聞いてもらったんですが
去年の10月くらいから来るようになった羽振りのいい客という以外、わからないそうです』

『そうか...サンウ...お前、寝てないだろう?
クマが出来てるぞ...今日は、飲め...飲んで、酔っ払って、少しの間でも
チェヒのことを忘れろ!』

そう言うと、ドンチョルはサンウに焼酎をついでくれた

ドンチョルに勧められるまま、何杯も焼酎を飲み
サンウは、初めて酔いつぶれた
ヨンチョルに抱えられ、布団にねかされて、サンウはそのまま眠りに落ちて行った...


目の前をチェヒが歩いている...
『姉さん!』サンウが声をかけても、チェヒは振り向きもしない...
『チェヒ姉さん!』もう一度サンウが大声でチェヒの名前を呼んだその時...
一台の黒い車が、チェヒの横に止まり、ドアが開くと、チェヒは何のためらいもなく
その車に乗り込んだ...
『駄目だ!姉さん!行っちゃ駄目だ!』
サンウは、走ってその黒い車の後ろを追いかける...
体か思うように動かない...
車はスピードを上げ、あっという間に見えなくなってしまった...
サンウは泣きながらチェヒの名前を呼んだ...

いつの間にか、アパートの台所で、サンウは泣いていた...
サンウの横には、動かなくなった母さんが、横たわっている...
『母さん...』サンウは、動かない母さんの体をゆすりながら泣いていた...
『母さん、起きてよ...母さん...』


泣きながら...サンウは目覚めた...
あたりはまだ暗く、隣の布団で、ヨンチョルがいびきをかいて寝ている...

悲しみが...押し潰されそうな、得体のしれない悲しみが...
サンウの心を満たしていた...

喉が、カラカラに渇いて...
水を飲むために台所に行くと、暗闇の中で、テーブルに座り
ドンチョルが一人、煙草を吸っていた...

『サンウか...どうした?』

『喉が渇いて...おじさん、眠れないんですか?』

『あぁ...目が冴えちまってな...俺にも水を一杯注いでくれ...』

ドンチョルに水を注ぎ、自分のための水を、もう一杯グラスに入れて
サンウは、ドンチョルの横に座った...

『サンウ...お前は、えらいな...17やそこいらで、たった一人
あんな淋しいところで、ちゃんと生活してる...
もし、今、俺がいなくなったら...ヨンチョルは、とてもお前のようには生きられないだろう...
あいつは、いまだに甘えん坊だからなぁ...
あいつを生んですぐ、母親が死んで...あいつは、母親に一度も抱かれたことがないんだ...
それが不憫で...ヨンチョルを甘やかしすぎたからな...
ヨンチョルをおぶって仕事をする俺を見て、再婚を勧めてくれる人もいたが...
俺にはできなかった...
ヨンチョルの母親と俺は、孤児院で一緒に育ったんだ...
中学を出て、印刷会社で働く俺を、ずっと支えてくれた女だ...
10年働いて金をため、やっと独立できた時、結婚した...
これで幸せにしてやれる...そう思った矢先に、ウンジュ...ヨンチョルの母親の名前だが...
ウンジュは、心臓を悪くしたんだ...
ヨンチョルを身籠った時...俺はとめた...病院の先生からも出産は無理だと言われて...
なのに、ウンジュは俺の子を産みたいと...
ウンジュは...俺の生涯で、ただ一人の女だ...
だから俺は、再婚しなかった...
はたして、それがヨンチョルにとっていいことだったのか...
俺のわがままだったのかもしれない...
そう考えると、なおさら不憫で...甘やかしたんだ...
サンウ...ヨンチョルを頼む...仲良くしてやってくれ...』

薄明かりの中で、ドンチョルの目に、涙が光っていた...

『お前の社長、キム・ソルと俺は、中学の時の同級生だ...
俺は孤児で...ソルは父親が病気で...
二人とも金がなくて、学校に弁当を持っていくこともできなかった
だから、昼休みになるといつも二人でボールを蹴って遊んでたよ...
本当は、優しい、気のいいやつなんだ...
俺が独立して印刷所を開いた時、どこかで聞いて
ソルが祝いの花を持って来てくれたんだ...
その時、もうすでにソルはやくざの世界に足を踏み入れていた...
俺の印刷所が、左前になって...銀行からも融資を断られ...
もう、どうしようもなくなった時に、ソルが金を工面してくれたんだ...
おかげで、なんとか持ちこたえることができた...
だから、ソルには、足を向けて寝られないんだ...
ソルから頼みごとをされたら、断れない...』

ドンチョルは、いつになく饒舌だった...

『サンウ...チェヒのことを信じてるんだろう?
お前を裏切るような、そんな女じゃないと、信じてるんだろう?』

『はい...』

『それなら、最後まで信じろ...信じきるか...忘れ去るか...
二つに一つだ...そうしないと、お前が辛すぎる...
何か事情があるんだろう...きっと、逢える日が来るさ...
信じて待つんだ...いいな...』

サンウは、だまって頷いた...

『なんだか...しゃべりすぎちまったな...
サンウ、もうひと眠りしろ...俺も寝るよ...』

そう言って、椅子から立ち上がったドンチョルが
急に苦しそうに顔をゆがめ、胸を押さえてしゃがみこんだ...

『おじさん!どうしたんですか?!兄貴!兄貴!』

サンウは、大声でヨンチョルを呼んだ...

懺悔 13話

遺影の中のドンチョルは、明るく笑っている...

あまりにも突然だったドンチョルの死...

棺の横に、喪服を着て座ったヨンチョルは、いまだに父親の死が信じられないらしく
涙も見せずに、うつろな目をして下を向いている...

救急車で病院に運び込まれた時には、ドンチョルの心臓は
すでに動きを止めていた...

『ヨンチョルを頼む...』その言葉が、遺言になってしまった...

孤児だったドンチョルには、葬儀に駆けつけて来る身内もなく
弔問に来てくれたのは、キム社長と、事務所の兄貴たち...
そして、ドンチョルが買い出しに行っていた市場の人たちだった...
市場のおじさんやおばさんは、憔悴したヨンチョルの様子に
慰めの言葉も見つからず、静かに見守っている...

キム社長は涙を流していた...

『ドンチョルは、ただ一人、私が信じた友達だった...
3日ほど前に、ドンチョルが電話をかけてきたんだ...
息子をよろしく頼むと...今思えば、あれは私に対する遺言だったんだな...』

そう言いながら、ドンチョルの遺影を見つめている...


同い年の、二人の男...

イム・ドンチョルは、信じろと言い...キム・ソルは、忘れろと言う...

一人の女を、愛し続けた ドンチョル...

女の愛を、信じなかった ソル...

「俺は、やっぱり ドンチョルおじさんのように生きたい...
チェヒ姉さんの心を 信じたい...」
サンウは、そう思った...


ドンチョルの遺骨は、妻と一緒の共同墓地の納骨堂に納められ
1枚しかない 二人の結婚式の写真が飾られた...

その写真を見ながら

『父さんと、母さん...今、天国で逢って、幸せなんじゃないかなぁ...
二人に心配かけないように、俺もちゃんとしないとな...』
ヨンチョルは、顔を上げて、そう呟いた...



サンウにとって、不安な時間が過ぎて行った...

11月になっても、チェヒからは、なんの連絡もなかった...

「何か、悪いことに巻き込まれたのかも知れない...」
そう考えたら、居ても立ってもいられないほとの不安がサンウを襲った...

サンウの借金が終わるまでには、あと まだ1年以上かかる...
それまでは、釜山を離れることができない...

昼間は、仕事で体を動かしているから 気持ちも紛れたが...
夜、一人アパートに帰ると 不安で心が押し潰されそうになる...
その不安を忘れるために...サンウは夜の街をランニングした...
毎日、10キロくらい走って、くたくたになって家に戻り
シャワーを浴びると、布団に倒れこみそのまま眠った...

12月のはじめ、一緒に集金に回る途中で
『サンウ...俺、来月からソウルに行くことになったんだ...』
唐突に...ヨンチョルがそう言った...

『ソウルに...?』

『うん...社長の知り合いに、ソウルで印刷会社をやってる人がいて
そこで、印刷の仕事を覚えて来いって言うんだ
ドンチョルから、お前のことを頼まれたんだから
お前が身の立つようにするのが俺の責任だって...
俺が帰るまで、社長が人を雇って、工場を管理してくれるらしい
俺も、父さんが必死に守ってきた印刷所を、継いでやりたいんだ...
5年かかるか...10年かかるか...わからないけど
父さんの跡継ぎとして、恥ずかしくないように腕を磨いて
釜山に戻ってくるよ...戻ってきたら、また逢おう...
その時には、チェヒさんも一緒に...な...』

ヨンチョルは、今にも泣きそうな顔で、唇を噛んだ...

『兄貴...俺、借金を返し終わったら、博多に行って
姉さんを探そうと思ってるんです...
どんな結果になっても...姉さんに逢って
訳をきかないと...俺...ここから先に進めない...
姉さんは、俺を裏切るような女じゃない...きっと、何かあったんです...
俺が助けに行くのを、待ってるのかもしれない...』

『そうか...きっと逢えるよ...必ず逢える...
お前とチェヒさんの絆は、そう簡単に切れるものじゃない...』


1月の初め...ヨンチョルは、金海空港からソウルに向かう飛行機に乗って
旅立っていった...見送りに行ったサンウに、笑顔で手を振りながら...

また、一人になってしまった...一人には慣れているはずだった...
でも...人を愛する心を知った今は、一人で生きる淋しさが、辛かった...

「俺の愛した人は、みんないなくなってしまう...
俺は、一人で淋しさに耐えて生きる運命なのか...?
いや...違う...これは試練なんだ...
姉さんが、いつも言ってたじゃないか...
神様は、その人が乗り越えられるだけの試練を与えるんだって...
今を、乗り越えなくちゃいけないんだ...
そうじゃないと、未来に繋がる道を、見つけられない...」

サンウは、自分にそう言い聞かせながら、毎日を生きていた


再びめぐってきたソルナル...
サンウは、本当に一人きりだ...

時折、心が折れてしまいそうになる時には
いつも、チェヒの笑顔を思い出した...
いつの日か...チェヒと結婚して、幸せな家庭を持ちたい...
その想いだけで、サンウは一人生きる淋しさに耐えていた...

キム社長は、義理堅い男で
ソルナルには、毎年欠かさず 
世話になった先輩に挨拶するためにソウルまで出向く...

ソウルから戻った次の日
サンウは、キム社長から呼ばれた

『サンウ、今日は私について来てくれ...』

『はい、運転手に車を回すように言っておきます...』

『いや、今日は私が運転しよう...』

キム社長が自ら車を運転するのは珍しいことだ...

「跡継ぎになってくれという話だったら、きっぱり断ろう」

そう決心して、サンウは助手席に乗り込んだ

『刺身を食べに行こう、海雲台(ヘウンデ)に、うまい店がある...』

ふだん、あまり運転することの無いキム社長は
話もせず、運転に集中している...
1時間ほど走って、海雲台に着いた

キム社長が案内してくれた店は、高級そうな刺身専門店だ

予約がしてあったのか...
海の見える部屋に通され、テーブルの上には
活きのよさそうな刺身が、きれいに盛り付けられている

『サンウ、遠慮せずに食べろ...食べながら、私の話を
聞いてくれればいい...』

『はい...』

『お前は、私がどんな仕事をしているか、知っているな?
私は、お前に ヨンソクのやっていた
運び屋の仕事をさせるつもりだった...
だが、お前は、頭もいいし、度胸もある...
運び屋で終わらせるのはもったいない...
子供のいない私は、お前に後を継いでもらいたいと考えたこともあったが...
ドンチョルが死んで...自分の残りの人生を考えたときに...
もう、人に言えないような仕事から、足を洗いたくなったんだ...
一生、生活に困らないだけの金はある...
今まで、金をもうけることだけを考えて生きてきた...
だがな...使いきれないほどの金を貯めて、何になる...?
天国ってとこが、あるのかどうかわからんが...
今までしてきた悪いことの償いをしたい...
ドンチョルが死んでから、なんだか、気が弱くなってな...
仕事をやめるためには、いろんなことを片づけなきゃならん...
事務所の若い者達も、それぞれ身の立つようにしてやらんとな...
私の勝手でやめるんだから、世話になった先輩たちの仕事に支障が出ないように
段取りも付けないと...

お前は、チェヒを探しに日本に行きたいんだろう?
私は、女を信じなかったが...お前の、チェヒを信じようとする心が、うらやましいよ...
今考えると、一人の女を愛し続けたドンチョルは、幸せだったのかもしれん...
私は、間違っていたのかもしれないな...
これから、仕事をやめるまで、忙しくなるだろう...サンウ、手伝ってくれるな?
それが終わったら、お前はもう自由だ...好きなようにしていい...
日本へ行くのなら、手続きもしてやろう...博多での仕事先も頼んでやる
チェヒを探して、釜山に連れて帰ってこい...
信じて、信じて、それでも裏切られたら...サンウ...それはお前の人生の
物語のひとつなのかもしれんな...
私は、臆病だったんだ...たった1度裏切られただけで
信じることが怖くなって、逃げた...今更悔やんでも、しかたのないことだが...』

窓の外には、冬の海が広がっている...
風が強くなったのだろう、岩肌に打ち付ける波が
白い飛沫になって、はじけ飛ぶ...
キム社長は、黙ったまま、その光景を見ている...

金は使いきれないほどあると言う、キム社長...
それでも、人は幸せにはなれないのか...
海を見つめる、社長の顔が、サンウには淋しそうに見えた...

懺悔 14話

1994年9月、金曜日の午後8時、釜山港...
サンウは、日本に向かうフェリーのデッキに立っていた...

キム社長が仕事を辞めるための、めんどうな作業はすべて終わった

4人の兄貴たちは、キム社長からもらった退職金を持ち寄り
サンウの住んでいるアパートの近くの、キム社長の土地を借りて
小さな事務所を構え
3台の中古トラックを買い入れて、運送屋を始めた
運送屋の名前は、『ソルおじさんの運送店』
この名前を聞いた時
『やめろ!どうして私の名前なんだ?』
キム社長は抗議したが
『社長のおかげで始めることができた運送屋です
そのことを忘れないために、社長の名前をつけたいんです』
と、兄貴たちは頑として譲らなかった...
抗議しながらも、キム社長は本当は嬉しかったのかもしれない
『お前たち、困ったことがあったら俺に相談するんだぞ
自分の名前のついた会社を、潰すわけにはいかんからな...
ちくしょう!厄介なことになったもんだ!』そう言いながら、まんざらでもなさそうだった...

キム社長の裏の仕事...こちらの後継者探しは、難航したが
ようやく、キム社長の弟分で、今は釜山でカジノを経営している
ソン・ドンウクが引き受けることになった
ドンウクは、裸一貫で事業を始め、今では釜山で一番大きなカジノを経営している
律儀な男らしい...
キム社長には恩があるらしく
『兄貴にそこまで頼まれたら、断るわけにはいかないですね...』そう言って
しぶしぶながらも後を引き継いでくれることになったのだ...
キム社長は、兄貴たちとの話し合いのために
ドンウクと一緒に何度もソウルに飛び、ようやく裏の仕事の引き渡しも完了した

8月に満18歳になったサンウは、キム社長のはからいで、自動車の運転免許を取得した
『日本に行ってから国際免許に書き換えれば、日本でも運転ができるからな...
そのうちに、きっと必要になる時が来るだろう...』

子供のころから、孤独に慣れて 他人を受け入れることをしなかった自分のことを
これほどまでに考えてくれるキム社長の気持ちが
サンウにはありがたかった...
キム社長は、世間から見れば悪い奴なのかもしれない...
しかし...サンウにとっては、心を開いた数少ない人の一人だった...

キム社長は、サンウが日本に行って働くための段取りを
チェヒが働いていた店のオーナー、カン・テヒョク兄貴にたのんでくれ
表向き、サンウは、テヒョク兄貴が最近始めた
韓国語教室の講師として働くという名目で、就労ピサをとることができた
3年間は、ピサの書き換えなしに日本に滞在することができる

実際のサンウの仕事は、チェヒが働いていた店のウェイターだった
その店だけが、チェヒを探すための唯一の足がかりだ...


日本に立つ前日、事務所へ挨拶に行ったサンウに
キム社長は、1冊の預金通帳と印鑑とカードを手渡した
『日本の銀行に、お前の名義で通帳を作っておいた...
日本円で、お前の退職金が入れてある...
金は、いくら持っていても困ることはないからな...
印鑑は失くさないように気をつけろよ...
金を引き出す時には、そのカードを使うんだ...わかるか?
わからないことは、向こうでテヒョク兄貴に聞け
お前のことは頼んであるから...』

涙もろいキム社長は、ティッシュで目頭を押さえながら
鼻の頭を赤くしていた...

サンウが通帳を開くと、300万円の預金高が記載されている...
驚いたサンウは
『社長、こんなにたくさんの金を貰うことはできません
俺は、たった2年半しか働いてないんです』
そう言って、キム社長に通帳を返そうとした...

『うるさい!つべこべ言わずに受け取れ!』
通帳を強引にサンウの上着のポケットに押し込んで
キム社長は続けた...
『お前とチェヒがこんなことになったのは、私のせいだ...
チェヒが高校を出るまで待ってやれば
こんなことにはならなかった...
あの時は、テヒョク兄貴から頼まれた若いきれいな娘に、チェヒがぴったりだと...
たった3,000万ウォンの金は、私にとって、はした金だ...
しかし、テヒョク兄貴には義理がある...
兄貴の頼みを聞かない訳にはいかん...
だから、3,000万ウォンの借金を楯にとって、チェヒを日本に行かせた...
お前たちの事情なんて、これっぽっちも考えなかった...

その金は、私がお前たちにしてやれる
ただ一つの償いなんだ...黙って受け取ってくれ...
私にできることは金しかないんだ...
ドンチョルが死んでから、私は人間の幸せについて
ずっと考えた...金は余るほどあるのに...私は幸せじゃない...
どうしてなんだ?若いころは金がすべてだと思っていた...
だがな...年をとるに従って、そうじゃないことに気づき始めた...
どれだけ金があっても、私は孤独なんだ...
たった一人、腹を割って話のできるドンチョルも死んで
もし今、私が死んでも、心の底から悲しんでくれる奴はひとりもおらん
悲しい人生だ...それもこれもすべて身から出たさび
人を信じなかった自分のせいなんだ...
ひたむきにチェヒを信じるお前がうらやましい...
チェヒは、私を裏切った女とは違う...
悪い奴に騙されてなければいいんだが...
チェヒを見つけて釜山に戻るまで、お前たちのアパートは
今のままにしておく...
戻ったら、すぐに暮らせるようにな...』

初めて会った時、血も涙もない男だと思ったキム・ソル...
しかし、本当のキム・ソルは、少年のように純粋な心を持った男だった...



出発の合図が鳴り響き、フェリーは港を離れた
サンウは、埠頭で見送るキム社長と兄貴たちに大きく手を振った
キム社長が何か叫んでいたが、エンジンの音にかき消され
サンウの耳には届かない
港を離れたフェリーは、速度を上げ
埠頭に立つキム社長の姿も見えなくなってしまった...

だんだんと遠くなる釜山の夜景を眺めながら
サンウは、しばらくの間デッキに立っていたが
やがて、見えるものが真っ暗な海だけになると
荷物を持って船室に入った...

2等客室は、寝るためのスペースが1つずつ区切ってある大部屋だ
その中の一つに横たわり、サンウはチェヒのことを考えた...
「チェヒ姉さんも、こうやって日本に行ったんだ...」

キム社長は、日本まで飛行機で行くことをサンウに勧めた
『たった30分足らずで着くんだぞ、わざわざ一晩かけることはないだろう...』
しかし...サンウはチェヒが乗ったフェリーに乗って、あの日のチェヒの気持ちを
少しでも知りたかった...
父を亡くしたばかりで、たった一人、知り合いもいない日本へ行く
チェヒの心細さはどれほどだっただろう...

そして...木村...木村という男を探す以外、チェヒを見つける方法は無いように思えた...
「チェヒ姉さん、もう少しだ...絶対に見つけ出して、釜山に連れて帰ってあげるよ...」
単調な船のエンジンの音が耳について、なかなか寝付けなかったサンウも
いつの間にか浅い眠りに落ちていた...夢の中で、チェヒの笑い声を聞いたような気がした...


サンウが目覚めた時、すでに外は明るくなっていた
時計を見ると、6時を少し回っている
博多港へ着くのは、午前7時30分の予定だ
急いで洗面所で顔を洗い、荷物を持ってデッキに出た
フェリーの進む先にはまだ陸地は見えない...
それでもサンウは、デッキに立ってフェリーの進む方角に目を凝らした
釜山では、9月になっても猛暑が続いていたが、日本はどうなのか...
見渡す限り、青い空と海が広がっている、気温はまだそれほど高くはないようだ
正面から顔に当たる強い風が、サンウには心地よかった

1時間ほど経つと、前方にうっすらと陸地が見えてきた
日本だ...
「もうすぐだ...姉さん待ってろよ!必ず見つけ出すからな!」
チェヒの居所について何の手がかりもなかったが...
チェヒのいる日本に来れた...それだけでサンウは嬉しかった...
すぐにでもチェヒと再会できるような気がした...

近づいてくる博多の街は、都会だった
韓国を離れる時、少しづつ遠くなる釜山の夜景を眺めながら
自分の住んでいた街が都会だったんだと、今更のように思ったが
博多の街も釜山と同じくらい...いや、それ以上に大きな街のようだ...
そんなことを考えているうちに、フェリーは博多港に到着した...

入国手続きを終え、ターミナルビルから出てきたサンウの目に
“サンウ、博多へようこそ!”とハングルで書いたプラカードが飛び込んできた
かかえているのは、サンウとそう変わらない年頃の、若い男だ
サンウは、その男の前に行き、軽く頭を下げた

『やあ!お前がクォン・サンウかい?カン社長に言われてお前を迎えにきたんだ
俺は、パク・ジェファン、よろしくな』
愛想よくそう言うと、ジェファンは、プラカードを港のゴミ箱に放り込み
サンウに向かってついて来いという身振りをした
『車は、あっちの駐車場に止めてあるんだ、店は歩いてもそんなに遠くはないんだけど
カン社長が、車で行けって言うからさ...お前いくつだ?日本と韓国は歳の数え方が違うんだ、俺は、韓国流で言うと20歳、日本流だと19歳...1975年生まれだ』

『俺は、1976年です』

『そうか...俺がひとつ年上だな、俺は半年前に日本に来たんだ
やっと日本語も少しわかるようになってきた...
お前は俺と一緒に住むことになってるんだ、カン社長から聞いてるかい?』

『いや...まだ詳しいことは何も...』

『ふ~ん...俺も2.3日前に急に言われたんだ...一緒に住むことになるヤツが韓国から来るって
お前、どこから来たんだい?』

『釜山です』

『俺は、ソウルだ...俺の父さんと、カン社長が友達でさ、2.3年日本で働いてみろって...
これからは、日本語を話せたほうが何かと役にたつってさ...』

駐車場に着き、ジェファンは日本製の黒いセダンの前に立ち止まり、リモコンキーで車のドアを開けだ

『いい車だろ...カン社長の車なんだ...時々俺も運転させてもらえるんだ...
お前、運転免許は持ってるのか?』

『はい』

『そうか、それなら国際免許に書き換えれば、日本でも運転できるぞ
手続きは俺が教えてやるよ、とにかく...韓国人同士だ...仲良くやろうぜ...』

ジェファンは悪い男ではなさそうだった...
背格好もサンウと同じくらいで、韓国人離れした彫りの深い顔立ちをしている

『日本の女の子は、みんな優しいぜ...韓国の女の子みたいに喧嘩を吹っ掛けてきたりしないし...店の姉さんたちも親切だよ
こう言っちゃなんだけど...俺、店の姉さんたちのアイドルなんだ...
しかし...お前が来るとアイドルの座を奪われそうだな...
くやしいけど...お前、俺よりハンサムだしなぁ...』

あまり車を運転した経験のないサンウにもわかるくらいに
ジェファンの運転は下手だったが、自分の運転を棚に上げて
周りの車に悪態をつく...
『チクショウ!俺が通るってのに、なんでよけないんだよ!
ったく...博多の道は、一方通行が多すぎるよ...こんなに広い道なのに
なんで一方通行にする必要があるんだ?』
そうこうしながらも、やっと駐車場に着き、二人は車を降りた

『ここは中州って言うんだ、九州一の歓楽街だってさ
昼間は、ちょっと淋しい感じだけど...夜になったらすごく賑わうんだ
社長はまだ寝てるから、ここに車を置いて、アパートまで歩いて荷物を置きに行こう』

ジェファンとサンウは並んで歩き始めた

『日本は、初めてかい?』

『はい...』

『お前、まだ高校に通ってる年じゃないのか?俺が今年卒業したんだから...
お前は高3のはずだろ?』

『高校へは行かなかったんです』

『ふ~ん...そうか...そうだな...高校に行ったって、別になんてことないかもな...』

前から歩いてきた3人連れの若い女の子が、サンウとジェファンの顔を見て
何かヒソヒソとしゃべっている
すれ違ったとたん、女の子たちはキャァ~と甲高い歓声をあげ笑った...

『あの子たち、俺とお前をカッコイイって言ってるんだぞ...』
自信ありげに、ジェファンはそう言って振り返ると
こっちを見ている女の子たちに向かって、手を振った
女の子たちが、また歓声をあげる...

『ホラみろ...やっぱりな...』

ジェファンは少し自信過剰だが、人懐っこい明るい性格のようだった

15分ほど歩いて、アパートに着いた

サンウは、釜山で住んでいたアパートのようなところを想像していたのだが
アパートと呼ぶにはもったいないくらい立派な 5階建ての建物だ
ジェファンとサンウの部屋は最上階だった
エレベーターが無いので5階まで階段を上がる

『この階段さえ無かったら、ここは最高に住み心地いいんだけどなぁ...』

ジェファンはそう言いながら部屋のドアを開けた

広いダイニングキッチンに部屋が2つ、エアコンまで付いている
浴槽付きの風呂に水洗トイレ...
サンウの住んでいたアパートとは雲泥の差だ
ベランダからは、博多港が見える
そしてその向こうの海は、まっすぐ釜山に繋がっている...
直線距離にすると、200km程しか離れていないらしい

昨夜、キム社長や兄貴たちに見送られて釜山を出発して
まだ半日も経っていないのに
今は博多のアパートのベランダで海を見ている...
なんだか夢を見ているような気分になった......

(チェヒ姉さん、やっと来たよ...必ず見つけ出して
釜山に連れて帰るからな もう少し待ってろよ)

この街のどこかにチェヒがいる...
事情は分からないが、釜山に戻れなくなった理由があるに違いない
自分の口で チェヒに 愛してると言うために...
二人で釜山に戻って 幸せな家庭を作るために...チェヒを探し出す...
サンウが博多に来た理由は ただそれだけだった

その時のサンウには、これから始まる苦難の日々を知るすべもなかった...

懺悔 15話

店の始まる時間までまだ間があるから もうひと眠りすると言って
ジェファンが自分の部屋に戻ると
サンウは今日から自分が住むことになる部屋をゆっくりと見回した
六畳ほどの部屋に家具は何もない、窓には濃淡のある緑色のストライプのカーテンがかけられ
窓の上にはエアコンが取り付けられている
押入れを開けると、真新しい布団が一組入っていた

昨夜、船のエンジンの音と緊張とでほとんど眠れなかったサンウは
今日から始まる新しい仕事に備えて少し眠ることにした
海に向いた窓から、気持ちの良い風が入り、エアコンをつける必要はないようだ
日本に着いたという安心感だろうか...布団を敷いて横になり数分も経たないうちに
サンウは深い眠りに落ちていた...


『おい、サンウ...そろそろ起きろ、店に行く時間だ』ジェファンに起こされ
サンウは一瞬、自分がどこにいるのかわからずに戸惑った...

『...そうか...ここは日本なんだ...オレは日本に来たんだ...』
起き抜けでボーっとした頭にチェヒの顔が浮かんだ

サンウは飛び起きると、すぐに顔を洗い
シワにならないよう注意してバックに入れてきたスーツに着替えた
そのスーツは、釜山を立つ前にキム・ソルが誂えてくれたものだ
『日本に行って馬鹿にされないように、いいスーツの一着くらいは持っていけ』
そう言ってキム・ソルはスーツ、ワイシャツ、ネクタイ、ベルト、靴を
サンウには名前が思い出せない イギリスの高級ブランドの店で揃えてくれたのだった


昨日別れたばかりのキム・ソルの顔が、もう懐かしく思える...


『用意はできたか?』ノックもせずに部屋のドアを開けたジェファンは、スーツ姿のサンウを見て目を見張った
『サンウ...お前そのままホストになれ、絶対に中洲のナンバー1になれるぞ
うちの店でウエイターするのはもったいない...オレもビジュアルにはかなり自信があるけど...お前にはかなわないや...』
冗談とも本気ともつかないことを言いながらサンウを見ていたジェファンは
ふと我に返ったように時計を見て
『急げサンウ!社長は時間にうるさいんだ...社長のビジネスのモットーは
時間厳守と義理を忘れるな!なんだ...遅刻したらみっちり絞られるぞ!』そう言うと
サンウを急かし、大慌てで部屋を出た。

中洲は、朝歩いた時とは違う雰囲気を漂わせていた
これから出勤するのだろう...、綺麗に髪を整え、濃いめの化粧をした女たちが
足早に通りを歩いている.
ウエイター姿の男たちは看板を出したり、店の前を掃除したり、忙しそうだ
中洲の街全体が、始動開始直前の緊張感をみなぎらせている...

『GRAND OBJECT(グランドオブジェ)』
薄紫色のネオンでそう書かれた店の前で足を止めると

『ここが今日からお前が働く店だ、中洲では客筋がいいと評判なんだぜ
医者や弁護士の常連が多いし、接待で使ってくれる会社も多いんだ
福岡に来た芸能人もよく案内されて来る
基本的に一見さんお断り、よほど有名人だったら別だけどさ
女の子達も、ここで働けるのは中洲では結構なステイタスなんだ』

ジェファンは得意そうにそう言った
そして社長のところに案内するからと店の裏口から
サンウを中に招き入れた


「社長室」と書かれたドアの前で立ち止まると、ジェファンはサンウに目で合図してドアをノックした

『入れ』中から声がして,
『失礼します』と言いながらジェファンはドアを開けた
『社長、サンウを連れてきました...』

部屋に入ると、大きな革張りのソファーに六十前後の男が座っている

『来たか!お前がクォン・サンウか...』
そう言いながら、サンウを頭のてっぺんからつま先まで
値踏みするようにジロジロと眺めた...

そういえばチェヒが初めて日本から送ってきた手紙にカン・テヒョク社長のことを
「なんだか、いばったおじさんだった...私を品物でも見るみたいに
ジロジロ見て...」って書いてあったな...
そんなことを考えながら

『クォン・サンウです
今日からお世話になります よろしくお願いします』と頭を下げた

『お前の事情はソルから聞いている...
チェヒはいい子だったんだが...どうしたものか...
悪い男に騙されていなければいいがな...
あの義理固いキム・ソルが 「俺の息子のようなやつだから、かわいがってやってくれ」と
言うほどだから、お前は信用できる男だろう...
お前が納得できるまでここで働くといい...』テヒョク社長はそう言うと
『おーい、ようこ!』大きな声で呼んだ

『は~い』社長室の奥から着物を着た美しい女性が現れ
サンウを見て『あら!やっと来たのね 私はグランドオブジェのママをやってる陽子です
チェヒのこと、心配だわね...あの子は頑張り屋だったし...てっきり韓国に帰ってるものだとばかり...
私にできることがあれば協力するわ あきらめないで探しましょう きっとまた会えるわよ』
少したどたどしい韓国語でそう言った

『仕事のやり方は、ジェファンに聞くといい...たまにはソルに連絡をしてやれよ...
ようこ、店の子達にもサンウを紹介してやれ 俺はちょっと出かけるからな...』
そう言いながらテヒョク社長は 上着を着て出て行った
キム・ソルとは対照的に痩せて背が高い
見た目は怖そうだが、あのソルが信頼している人間だから
きっと義理堅い男なのだろう...サンウはそう思った...
ソルも最初に会ったときは極悪人だと思ったが...本当は寂しがりやの人のいい男だった

『あらあら...今度はどこの店の女に通いつめてるのかしらね...
社長は、ホントに女好きなのよ...困ったもんだわ』ようこママは笑いながらそう言うと
サンウに向かって
『私は日本人だけど、社長に韓国語を習って少しは話せるの
いらっしゃい、店の女の子たちを紹介するわ』
社長室を出てサンウを店の中に案内した
ジェファンも後ろからついてくる...

店の中はまだ開店前だったが女の子たちはもう出勤していて
ようこママの姿を見ると
サンウにはわからない日本語で口々に挨拶した

ようこママも日本語で女の子たちにサンウのことを紹介して
言葉のわからないサンウは、頭を下げるのが精一杯だ

サンウの周りを囲んで、なにやらワイワイ言っている女の子たちの言葉を
横でジェファンが通訳する
『お前のこと、かっこいいってさ、何歳かって聞いてるよ...20歳だって言っといた』
『彼女はいるのかってさ...いるって言っといた とりあえずにっこり笑っとけ 
そうすればどうにかなる』

とりあえず...サンウは不慣れな愛想笑いを浮かべ、その場を切り抜けた

ジェファンの話によると
ようこママは、若く見えるが今年46歳、テヒョク社長の日本妻で
韓国の本妻も ようこママのことは知っていて
二人は時々連絡をとりあっているらしい

『結局、社長は二人に管理されてるんだよ...女って怖いよな』
そう言って ジェファンは笑った
『いつもしかめっ面で怖い顔してるけど、本当はいい人なんだ
俺のことだって、親父から頼まれて断れなかったんだよ
頼まれたら断れない性格なんだろう...』

「きっとオレのことも ソル社長に頼まれてことわれなかったんだろうな...」

サンウは一人きりだと思っていたが、考えてみると 辛い時にはいつも
サンウを助けてくれる人間が現れる

『神様の思し召し...』チェヒがいつもそう言っていた

そうだな、オレがチェヒ姉さんを探すために日本まで来たのも
神様の思し召しなのかもしれない...
きっと会える、会ってチェヒ姉さんに自分の口で『愛してる』と言える日が来る
そして二人で釜山に戻って幸せになるんだ...


そんな風にサンウの日本での生活は始まった


店での仕事はそれほど難しいものではなかった
ジェファンが言っていたとおり
グランドオブジェは客筋のいい店で
時々飲みすぎた客をかかえてタクシーまで連れて行くことはあったが
酔って騒ぎを起こすような客はほとんどいなかった
サンウの仕事は、開店前の店の掃除と閉店後のかたづけ
テヒョク社長は、サンウが少し日本語が分かるようになったら
ウエイターもやってもらうと言っていたが
それには もうしばらく時間がかかりそうだった

夕方6時に店に行き
ジェファンと一緒に掃除をして
開店してからは、バーテンさんの助手をしたり
店の女の子から頼まれたものを買いに行ったり
時々は飲み物を運んだり...
結構忙しく体を動かし
考え事をする時間はあまりなかったが
それがサンウにはかえってありがたかった

店の女の子達はみんないい人で
年下のサンウをかわいがってくれたし
ジェファンと一緒になって サンウに日本語を教えてくれたりもした


仕事が終わり、店を出るのは 深夜2時
ウエイターの制服を脱ぎジャージに着替えると
サンウは毎日深夜のランニングにでた
中洲から3キロほどのところに
チェヒが手紙で桜の花見に行ったと書いていた大濠公園がある
公園まで走り一周2キロほどのランニングコースを5周ほど走りそれからアパートに戻る

夜食を食べシャワーを浴びて布団に倒れこみ眠りにつく...
夢の中に毎日悲しい顔をしたチェヒが現れて、サンウに向かって手を差し伸べる
その手をつかもうとして、いつもそこで夢から覚めた

店が休みの日曜日には チェヒの姿を探し 博多の街を歩き回る 

チェヒに似た後姿を見つけて、 あわてて追いかけて 
前に回って 顔を見てがっかりする...
そんなこ とを何回繰り返しただろう...

懺悔 16話

サンウが日本に来て1年が経とうとしていたある日
ひとりの男が店にやってきた
開店して間もない時間に現れたその男は
落ち着か無げに店の中をキョロキョロと見回している

『まぁ...田村社長じゃありませんか!いらっしゃいませ、2年ぶりかしら...
うちをお見限りになったんだと思ってましたわ...お久しぶりです。』
その男を見た陽子ママが声をかけた

『いやぁ...ママに会いたかったんだが...前に来たとき
この店で会いたくない人を見かけちゃったものでね...』

『あら...どなたかしら...?』

『藤堂会の木村会長だよ』

『木村会長?』

『「知らなかったのかい?
北九州を取り仕切ってる藤堂会の木村会長を...』

仕事をしながら 何気なく二人の会話を聞いていたサンウは
木村という名前を聞いて耳をそば立てた

陽子ママもそんなサンウの様子に気づいて
『私が詳しく聞いてみるから 待ってなさい』
そうサンウに耳打ちし

田村という男を席に案内して一緒に座り、話し始めた

サンウは 早く陽子ママに話を聞きたくて仕事が手につかない...
ようやく店が終わり、女の子達がみんな店を出ると
陽子ママがサンウを呼んだ

『チェヒを連れて行った木村って人の素性がわかったわ
藤堂会の木村会長...そういえば私も、「藤堂会の鬼の木村」って聞いたことがある
でも、あの木村さんとは結びつかなかった...
藤堂会っていうのは北九州を取り仕切ってる組織なの
藤堂会が仕切ってるから、北九州には中国の蛇頭や韓国のマフィアも
おいそれと手を出せないっていうほどの力を持った組織らしいわ
藤堂会の本部は、北九州の小倉っていう町にあるの
ここからは車で1時間ちょっと離れた場所よ...
でもね...サンウ...相手が悪いわ...あなたが手出しできる相手じゃない...
下手にかかわると生命がなくなるような相手よ...』

陽子ママは気の毒そうにサンウの顔を覗き込んだ...

『...それじゃ、チェヒ姉さんは...?』
サンウは頭の中が真っ白になった
鬼と呼ばれるような男に連れて行かれたチェヒはいったいどうなったのか...

『でもね、木村さんはチェヒのことをとても可愛がっていたのよ...
まるで娘のように...チェヒをテーブルに呼んで二人で話をしていた
あの優しい木村さんが...まさか藤堂会の鬼の木村だなんて...
私、いまだに信じられない...
今日のお客さんは博多で建築会社を経営してる田村さんって人なんだけど
仕事のことで木村会長の怒りを買って、北九州には顔も出せないんですって
だから、ここで木村会長を見かけて びっくりしたって
木村会長が取り巻きも連れずに一人でしかも博多の店で飲んでるなんて
ありえないことだって...だから田村さんしばらくうちから足が遠のいていたんだって言ってたわ...』

『ママ...俺、北九州に行きます...俺が日本に来たのはチェヒ姉さんを探すためなんです
だめでもなんでも少しでも姉さんのことが分かるなら 俺、行きたいです...』

サンウが日本に来た理由を知っている陽子ママは
ため息をつきながら、サンウを見つめた...

『そうね...止めてもきっと行くんでしょうね...
わかったわ、テヒョク社長に話してみましょう...
北九州で働くところを紹介してくれると思うわ...』



一週間後...
サンウは博多から小倉に向かう新幹線の中にいた

あの後、テヒョク社長は陽子ママから話を聞いて サンウを止めた

『チェヒを連れて行った木村って男が藤堂会の木村だと知っていたら
お前を日本に来させなかった...俺も今まで危ない仕事をしてきた人間だから
藤堂会のことはよく知っている
今の木村会長は二代目会長だ...先代の会長は戦後の闇市を仕切って頭角を現し
建設会社木村組を作ったんだ、戦後の復興で儲けた木村組はいつのまにか
小倉の街を取り仕切る藤堂会というヤクザの組織になっていた...
しかし先代は人情のある人で、小倉では人望のある人物だった 
みかじめを取る代わりに小倉の街の秩序をきっちりと守っていた
だが、先代には男の子がいなかった、二代目の木村会長は婿養子なんだ
どこの出身なのか、それまで何をしていたのか誰も知らない 謎の男だ
10年ほど前に先代が亡くなり 二代目が会長に就任すると
それまで長年先代に仕えてきた舎弟頭が行方不明になり
身の危険を感じた先代の子分たちは散り散りに小倉を離れ 
藤堂会の上層部は一新した
小倉の小さな組織を傘下に入れ、その中から度胸のある人間を
ピックアップして組織固めをしたんだが
なにしろヤクザの掟を知らない素人に毛が生えたような奴らたちだ
ヤクザ世界の仁義なんておかまいなしに儲けになることなら何でもやる
覚せい剤の売買も先代は嫌ってやらなかったが
今では藤堂会の一番の収入源だ
藤堂会の邪魔をした人間がいつの間にか消えてしまうことは珍しくないことだ
だから二代目は鬼の木村と言われて恐れられてるんだ
サンウ、残念だが諦めたほうがいい...下手なことをすると命がないぞ...』

しかし頑として小倉に行くと言い張るサンウに
ついにテヒョク社長も根負けして、渋々ながら認めてくれた


サンウはキム・ソルに電話をかけ
博多を離れることになったと告げた

『お前がそう決めたのなら...止めたって無駄だろう...
ただ...無理はするな...チェヒがお前を待っているなら
必ず手がかりが見つかるだろう...時を待つんだ
焦って動いても決していい結果にはならん...わかったな
テヒョク兄貴に携帯電話を頼んでおいたから
それを持っていけ、俺がいつでも連絡できるように...』

大方の話をテヒョク社長から聞いていたキム・ソルは
サンウを止めはしなかったが、とても心配しているということは
サンウには痛いほどよくわかっていた...

新幹線は博多を離れ、サンウが考え事をする間もないくらいの時間で小倉に着いた

荷物は数枚の洋服と靴、それにキム・ソルから頼まれ
テヒョク社長が取り寄せてくれた携帯電話

釜山を出るときにキム・ソルがくれた300万円の入った通帳は
上着の内ポケットに入れてある
サンウはこの300万円に手をつけるつもりはなかった
チェヒと一緒に釜山に戻ったら、キム・ソルに返すつもりだった

一年間 グランドオブジェで働いて、貯めた金が日本円で100万ほどになっていたから
当座はそれでしのげるだろう...

小倉でのサンウの仕事場は、テヒョク社長の知り合いが経営しているクラブだ
アパートは店の近くにこれもテヒョク社長が手配して契約してくれた



陽子ママが書いてくれた地図は正確で
サンウは小倉で住むことになったアパートをすぐに見つけることができた
博多のときとは違い、木造二階建ての小さなアパートだ

働くことになっている『赤い靴』というクラブは地図を見ると
アパートからそう遠くない場所のようだった
荷物を置いて一休みすると、サンウは地図を見ながら
『赤い靴』に向かった

一年前、釜山から博多に来た時は、言葉も全く分からず
右も左もわからなかったサンウだったが
一年経った今は、日常会話には困らないくらい日本語がわかるようになっていた

初めて訪れた小倉の街は、博多に比べると道幅も狭く雑然としている...

この街の裏社会を取り仕切るという『木村』という男...
チェヒ を娘のようにかわいがって連れ去ってしまった『木村』という男...
チェヒを見つけ出すには、その『木村』に会わなければならない...
たとえ、逆らえば命がなくなるような相手だとしても
チェヒに逢えないのなら、生きている意味もない...
サンウはそれほどまでに思いつめていた
母であり、姉であり、そして初めて愛した女であるチェヒ...
今のサンウにとって、チェヒの存在だけが生きる意味になっていた...


夜の小倉は、中洲とは違った雰囲気を醸し出している...

この街は、なんとなく釜山に似ている...サ ンウはそう思った...

店での仕事は博多の時と大した違いはなかった
しかし...仕事を終え、深夜二時すぎに店を出ると
パトカーがあちこちを走り回って
酔っぱらいどうしの小競り合いは日常茶飯事だ

サンウが小倉に来て半年が過ぎたある日...
仕事が終わって店を出たサンウの耳に
大声で怒鳴り合う声が聞こえてきた
「また酔っぱらいの喧嘩か...」そう思いながら行き過ぎようとした時...
『俺を誰だと思っとるんや!藤堂会の田中やぞ!』
『おぅ、それがどうした!藤堂会がなんぼのもんじゃ!お前死にたいんか!』

『藤堂会』という言葉に、サンウは 思わず足を止めた
その時、胸ぐらをつか み合う男たちの間に
若い女が一人で割って入った...
『ちょっと、アンタ!こんなとこで藤堂会の名前を出すなんてバカじゃないの!』
『何を!このアマ!』男が若い女の髪を掴んだ...
その瞬間、サンウはまたしてもやってしまった...
考える間もなく、男に殴りかかっていた...
チェヒがいつも一番心配していたことだった...

ナイフを出し振り回す男に馬乗りになり殴り続けるサンウ...
誰かが呼んだのか、パトカーがサイレンを鳴らして走ってきた
『ちょっと、アンタ サツに捕まったら面倒よ!逃げて!』女の声に、我に返り見回すと
パトカーから降りた警察官が人ごみをかき分けやってくるところだった

反射的にサンウは走り出した...小倉の飲み屋街はゴチャゴチャして いて
狭い路地に隠れたら警察も追ってこれない...

警察をやり過ごすために路地に隠れたサンウの横に
突然さっきの若い女が現れた...サンウの後について走ってきたのか...息が上がっている
『アンタ、逃げ足が早いね...さっきは助けてくれてありがとう
あいつ、ナイフを持ってたようだけど...怪我はないの?』
女にそう言われて初めて右腕に痛みがあるのに気づいたサンウが見ると
着ていたジャージが破れ血が滴っている...

『傷、結構深いね...縫った方がいいかもしれない...家においで』
女はサンウの右腕を自分のハンカチで手際よく止血しながらそう言った
『いや、大丈夫です 家に帰って手当します』

『ダメよ、命の恩人をこのまま返したら私の面目が立たんのよ、とにかくうちに来て
私は木村美佳って言うの』

『えっ...藤堂会の木村...』

『アンタ藤堂会を知っとるんね...私の父は藤堂会の会長 
木村国泰よ...人に自慢できるような話やないけどさ...
とにかく、今日はうちに来て傷の手当をして』

運命の導きだろうか...考えもせずに助けることになった女が
あの木村の娘だったとは...
サンウは夢を見ているようだった...

半ば強引にタクシーに乗せられ、20分ほどで
木村美佳の家に到着した

それは家というより要塞と呼んだほうが似合うよううな建物だ
高く張り巡らされた塀の上には鉄条網が張り巡らされ
監視カメラや、赤外線報知機があちこちに取り付けられている


門の前でタクシーを降りると
男が二人、中から飛び出してきて
『お嬢さん、お帰りなさい』そう言いながら、美佳に向かって深々と頭を下げた

『今日は、私を助けて怪我をした 大切なお客をお連れしたから
パパに伝えて』美佳がそう言うと

『はい、分かりました!客人、どうぞお入りください』
二人の男は、サンウにまで深々と頭を下 げた

木村美佳に案内された部屋は
大 きなソフ ァーのある応接間だった...

『ちょっと待ってね、すぐに医者を連れてくるから』
美佳がそう言って部屋を出ると
サンウは部屋の中を見回した...
いかにも高級そうなソファーとテーブル
壁には多分有名な画家の描いたものだろう...立派な絵が飾ってある
「この家のどこかにチェヒがいるのだろうか...」
サンウはすぐにでもチェヒを探して回りたい衝動を抑えていた

数分後に、美佳が 白衣を着て眠そうな顔をした男を連れて戻ってきた


『どれ、ちょっと傷を拝見...そうですね...ちょっと深い傷のようだか ら
縫った方がいいでしょう』
男はそう言うと、慣れた手つきで傷を縫合した

『麻酔が切れたら、少し痛いかもしれませんが
とりあえず痛み止めをあげますから、痛みがひどい時は飲んでください
2、3日はあまり無理に動かさないでください。
抜糸は一週間後に...それでは』

来た時と同じように眠そうな顔で医者が出て行くと
美佳はサンウの正面の椅子に座って喋り始めた

『あの人、3年前まで九大病院の外科部長やったんよ
苦労してあそこまで登ったのに...落ちるのはあっという間なんやね...
何したんか私はよく知らんけど...医師免許を剥奪されたらしい
で、ウチのおかかえになって、ここに住んでるってわけ、いつも眠そうな顔しとるけど
腕は悪くはないみたい、ウチの者はけっこうお世話になっとるんよ...
ところで...まだ名前を聞いてないんだけど...ちゃんとお礼も言うてないし...』

『クォン・サンウです』

『え?』

『韓国人です』

『ああ、そうなん...クォンが苗字でサンウが名前?』

『はい』

『そういえば少し発音がおかしいと思ったんよ
日本に来てどのくらい?』

『1年と6ヶ月』

『それにしては日本語上手やね...
私は木村美佳...さっき言ったっけ...
歳は18歳...アンタ...いや、サンウさんは?』

『日本流だと19歳です』

『一つ年上やね...
パパはもう寝とるみたいやけん、明日紹介するね
私の恩人にパパからも挨拶してもらわんと...
とにかく今日は泊まっていって..
助けてくれて本当にありがとうございました
サンウさんが助けてくれんかったら、刺されとったかもしれん
私の代わりに怪我させてしもうて...ごめんなさい
じゃあ、客室に案内するけん、ついてきて』

『すみません...じゃあ今日はお世話になります...』

美佳のあとについて案内された部屋は
豪華な家具が置いてある一流ホテルのような部屋だった

『パパのお客が泊まる部屋なんよ、サンウさんは私の恩人やけん
パパも文句言わんやろ...明日の朝私がパパに話すけん
今日はゆっくり寝て、お風呂もあるけん 自由に使ってね
あ、でも今日はお風呂入らんほうがいいかもね
それじゃ、おやすみなさい』

懺悔

懺悔

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-16

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 懺悔1-6話
  2. 懺悔 7話
  3. 懺悔 8話
  4. 懺悔 9話
  5. 懺悔 10話
  6. 懺悔 11話
  7. 懺悔 12話
  8. 懺悔 13話
  9. 懺悔 14話
  10. 懺悔 15話
  11. 懺悔 16話