あめんぼあかいな

【あ】雨おんな

ブーツにひたひたと水がはねた。
多分今この瞬間、泣きじゃくっているのは自分だけじゃないかと思えるような天気だった。
傘は持っていなかった。
バケツをひっくり返したような、というよくあるフレーズが浮かんでは消える。

いつもそうだ。私にとって大事な日には、決まっていつも雨が降る。
小学校の運動会は毎年雨だったし、
就活の面接も嫌味のようにどしゃ降りで、毎回髪がぼさぼさに広がった。

「雨は神様の涙」

と教えてくれたのは、母だ。

神様さえ殺したい気分。
今日もまた、面接に落ちた。
妥協しまくった会社に落ちるのは、気の強さを自負する自分にも衝撃だった。

「イノウエさん」

と、駅のホームで声をかけられた私には、
なぜ見知らぬ彼が私の名前を呼ぶのか、考える余裕もなくなっていた。

「イノウエさん、ごめんなさい。
僕がよく泣くせいで君に迷惑をかけてしまって。
君の涙の成分と僕の涙の成分がよく似ているみたいなんです。
だから雨がいつもイノウエさんに降ってしまう」

彼はそんなことを言いながら傘を差し出した。彼の目は私と同じに赤かった。

「この傘、涙が止まるおまじないです。もうすぐ僕は、泣きやみますから。
イノウエさんも元気になってください」

耳元で鼻水をすする音が聞こえたのは気のせいか。
裏側に青空が描かれた傘を持って、私はしばらく立ちつくしていた。

【い】いるところ

嬉しいときも悲しいときも驚くときも、イノウエさんはすぐに泣く。
部屋には常にティッシュの箱が積み上げられていて、あたしはそれをかきわけて歩く。
ごつごつした箱の角は足の裏に気持ちがいい。

今日のイノウエさんはにっこりして帰宅したので、あたしは心底ほっとして、
にゃあとイノウエさんにごはんをねだった。

(何かいいことあった?シュウショクが決まった?)

そう聞いても「はいはい、ごはんね」としか返ってこない。
彼女とあたしの言葉は違うのだ。
それがあたしにとっていいことであるときも、悪いことであるときも、
あたしがここを出て行く日は来ないだろう。

よく晴れたむせるような暑い日に、
死にかけたあたしをイノウエさんが見つけてくれた。

あたしは外から来たけれど、外で毎日イノウエさんに起きていることは、
あたしには一生わからない。言葉が通じたらきっといいお友達なのに。
あたしはこっそり寂しくつぶやいてみる。

神様って奴は本当にいるの?
だとしたら、彼はそこにいるだけの、たいした役立たずに違いない。

【う】うわの空

学校とバイト先を行き来する単調な日々。
僕はこの街の、小さな本屋でバイトをしている。
本が好きだからというありがちな理由で面接に通ったものの、
本というのは案外重いもので、3日目で腰が痛くなった。
それに好きじゃない本(例えば経済学とか教育論とか)まで整理させられるのは苦痛だった。

バイトのくせにもうやめたい。
ああ、3日坊主な僕。
こんなだから彼女もろくにできないのだ。

…空っぽだ。神様は僕に何もくれない。

クリスマスまでに出会いがなかったらバイトを辞めよう。
不純だが、僕は僕で、これ以上どうすることもできないと諦めていた。
僕はレジの前でぼうっと僕の人生について考えて過ごし、
時々お客さんを眺めて他人の人生について考える。
みんなつまらなそうな顔をしているな、と思って、自分はまだましだ、と思う。
そんな自分が嫌になったりする。

たった今自動ドアから入ってきた女のひとは、充実した毎日を過ごしているのだろうか。

他のひととは違い、傘についた水を丁寧に払ったようで、床が一滴も濡れないことに驚いた。
傘をたたむ瞬間、彼女が少し笑った気がした。

みんなうつむいて立っている。
憂鬱な雨音がする店内で、彼女以外に晴れやかなひとは見当たらない。

彼女はミュシャのきれいな画集を買っていった。
僕はその日、レジを7回も打ち間違えた。

【え】絵かきのうそ

いつものように姿勢を正して座っていた。
机も椅子も、小学校からもらったお古。駅から本屋にのびる道の街路樹のそば。
絵かきは似顔絵を描いてお金をもらう。
今日は天気が悪いせいか、人通りが格段に少ない。
朝やってきた家族連れの観光客の、小さな男の子を描いたきりだった。
もう店じまいをするべきだろうか。それともあと5分待とうか。
迷う間にも、木にくくりつけた頭上のビニールシートがばらばらと雨に音を立てた。

「こんにちは」

不意にかすれた声がして、絵かきは顔を上げ、「いらっしゃい」と反射的に笑った。「似顔絵かい?」

「はい。お願いします」

その女性は傘をたたみながらぎこちなく椅子に腰かけた。

さてどうしたものか、と絵かきは思う。
目のふちが赤く、まぶたはぷっくり腫れていた。ついさっきまで泣いていた様子だった。
特別美人なわけではないが、笑えばきっと素敵な女性なのだろう。

描いている間は話しかけない。そのひとの人生や生き方に口を出さない。
絵かきにはルールがあった。
けして何も聞きださず、めいっぱい想像を働かせて描く。
ひとの幸せな顔を描くのが絵かきの仕事。

「ありがとう」

「お元気で」

いつもの仕事のおわりの言葉だ。
手を振ってから絵かきは店じまいを始める。

早く帰って、ミュシャの絵の前でワインを飲もう。
今まで描いた絵の中で、とびきり一番の笑顔を描いたのだから。
あの女性に幸あれと今日は乾杯を。

【お】おしまいの日

「神様、あいつなんかね、死んじゃえば良いよ。
私のこと好きじゃないのにだましてたんだ」

僕が最初に話しかけられたのは、数年前の静かな夜でした。
しんじゃえしんじゃえと繰り返す彼女の声は、
怒って叫んでいるようにも、すすり泣いているようにも聞こえました。

それから毎日毎日、
イノウエさんは僕に話しかけました。
くまのヌイグルミを抱えて訴えるのが確かその時の彼女の祈り方です。
好きなひとがいると。何回恋をしてもうまくいかないのだと。本当に毎日。
僕にはなんにもできないのに。

祈りはイノウエさんだけじゃなくいろんな場所から聞こえます。
僕はただそれを黙って聞き続けます。
聞くだけです。
神様と呼ばれどんなに讃えられようとも、実のところひとの願いをかなえる力はありません。
やくたたず、というやつでしょう。
時々、誰も救えないことが、僕をかなしくさせます。

ねえ、もしかして君も泣いていますか?

そうでしょう。生きているものはみんな、
ゆるゆると泣きながら生きているんですよ。小降りとどしゃ降りの波はあるけれど。
当たり前すぎて忘れているだけなんです。

ご安心ください、君にも傘を渡しますから。元気になってください。
ただしごくごく普通の傘ですよ。君の中から取り出すんです。
誰でも持ってます。忘れてるだけ。



どんなにかなしくてもつらくても痛くても君の世界がおわるなんてありえない。

ライフ・イズ・ビューティフル。
君の持ってる傘の裏側にもほら、
青空が広がる。

あめんぼあかいな

あめんぼあかいな

すごく落ち込んだ日に、ふいに思いついた作品です。傘、いりますか?

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-13

Copyrighted
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  1. 【あ】雨おんな
  2. 【い】いるところ
  3. 【う】うわの空
  4. 【え】絵かきのうそ
  5. 【お】おしまいの日