悲しい人形と壊れた人間の街1

悲しい人形と壊れた人間の街1

1 人形のあくび

 白い壁にだらんと寄り掛かった人形が、それまで閉じていた口を突然小さく開いた。木製の体から何か悪いものを追い出すかのように、そのまま顔のバランスを大きく崩して目一杯に口を開け、しばらくして気が済んだように口を元のように閉じた。
 大輔は人形を眺めて、もう一度そのあくびのようなものを待っていたが、人形は元々の使命を思い出したかのように、ただそこに置かれているだけだった。壁がくりぬかれただけの窓から、始まったばかりの朝の謙虚な光が滑り込み、人形の顔に小さな影を作っていた。異様さがようやく大輔に染み込むと、大輔は人形を手に取って立ち上がり、ぼろぼろの靴をひっかけて外に出た。

 黄色や桃色の建物に挟まれた石畳の道を歩き、存在意義を疑うほどに短い石のトンネルを抜けると、商いの雰囲気が少しだけ加わった。道の両側から幼い子供のようにひょっこりと顔を出した丸い看板が、小さな影を建物の壁に落としていた。
 クロワッサンの描かれた看板が見える前に、甘い匂いがふんわりと触れてきた。大輔は少し歩幅を大きくしてパン屋に向かい、薄緑色のドアをからんと開けた。橙色の光が詰まった店内は、片側にパンが行儀よく並び、その逆側には三つのテーブルが置かれていた。店主の定雄は大柄な体を小さくしてパンを並べ、一番奥のテーブル席には斉藤という名字の老夫婦が隣り合って座っていた。
「夜が明けたばかりだというのに、ずいぶん朝早くからやっているんだね」大輔は定雄の背中に話しかけた。「いつもより何時間も早いから、まだやっていないかと思っていたよ」
「ここは夜中でもやっている」定雄はパンを並べる手を止めた。
「夜中にクロワッサンを買う人はいるのかい?」
「いるわけないだろ」
「じゃあ、なんで店を開けているんだい?」
「パンが焼けるからだ。捨てるのはもったいないだろ」
「夜になる前にパンを焼くのをやめればいいじゃないか」
「それは俺にとって非常に難しいことだ。夜は何の前触れもなく突然俺の前に現れる」
 定雄はカップにコーヒーを入れ、クロワッサンと一緒に大輔に渡した。
「毎朝ここのパンが冷たい理由がよく分かったよ。ところで、訊きたいことあるんだ」
「なんだ」
「今朝、僕の人形があくびをしたんだ」大輔は手に持った人形を顔の体の前に掲げた。「突然、口を大きく開けて、しばらくして閉じた。どういう訳だか分かるかい?」
 定雄は目を細めた。「それは人形作りに訊いたほうがいい」
「そういえば、人形を渡された時に何かあったらすぐに来いと言われた」
「とにかくパンを食べだら人形作りの家に行ってこい」
「そうするよ」
 大輔はクロワッサンが載った小さな皿とコーヒーカップを持ってテーブル席に移動した。
「おはよう、二郎さん、絹子さん」
 斉藤夫妻がにこにこしながら白くなった頭を同時に下げた。
「お二人はいつもこんな朝早くからいるの?」
「大体はいますよ」二郎が言った。「君はいつもよりずいぶんと早く来ましたね」
「人形があくびをして、何となく家を出て来たんだ」
「ほう」二郎が頷いた。「君はこの町に来てどれくらいになりますかな?」
 大輔は少し考えてから「三ヶ月くらい。確か三十歳の誕生日に来た」と答えた。
「そうですか。君を初めて見た時は本当に疲れ果てていました」
「ここに来る前、とても長い距離を歩いて、その間に難しいことをたくさん考えていたんだ。そういえば、あの日もここでパンを食べた」
「ずいぶん元気になったみたいね」絹子が目尻の皺を深くして言った。
「三ヶ月、ほとんど何もしていないからね。昼も夜も大抵は座っているし、考えることは何もない。疲れさせる物事は僕に一切近寄らなくなった」
 大輔はクロワッサンをちぎって口に入れた。優しい甘さが口に広がり、鼻から心地よい香りが抜けた。苦いコーヒーを一緒に飲み込むと、体の真ん中が少し温かくなった。
「人形作りはもう起きているのかな」
「大丈夫。窓をノックすればすぐに出てきますよ」二郎が答えた。
「前から気になっていたんだけど、この町の人はみんな人形を持っているの?」
「彼が人形を作って、町に住む人に渡すんです」
「何で人形を渡すんだろう」
「それも彼に訊くといい」
 ガラスの外を見ると、石畳の道は先ほどよりも少しだけ光の反射を強めていた。
 大輔は最後のパンの欠片を口に運び、残りのコーヒーを流し込んだ。
「二郎さん、絹子さん、ではまた」大輔は立ち上がり、空になったコーヒーカップと小皿を片付けた。「定雄さん、行ってくるよ」
店主の定雄は軽く手をあげた。
 外の空気にはいくらかの温かさが芽生えていた。道の先に繋がる空はしっかりとした青色になり、小さくちぎれた雲がゆっくりと空を横切っていた。

悲しい人形と壊れた人間の街1

悲しい人形と壊れた人間の街1

大輔の人形が突然あくびをした。街の人形作りの家を訪れると、人形作りは街の人形が果たす秘密の役割を話し、大輔はあくびが人形によって奪われたことを知った。人形によって奪われたものを取り戻すために、大輔は老夫婦と共に街を出る。そして、バスに乗って辿り着いた街で、大輔は壊れた過去と鉢合わせた。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-01-13

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