塗り替えられた記憶
バケツを引っ繰り返したような雨が車体を叩いている。屋根から伝い落ちた大量の雨粒は重力に引き込まれるままにゆっくりと窓の上を流れていく。地面の上では雨が激しく踊っていて、無数の波紋が浮かんでは消えている。黒く濡れたアスファルトの上を蛇が這うように雨水が流れていき、至る所に水たまりを作っている。水たまりは濁った水を湛えているが、その表面には鉛色の空が映り込んでいる。空は黒くて厚い雲に覆われていて、遠巻きに眺めると、魚の鱗を何枚も張り合わせたかのように見える。雲の向こう側には太陽が隠れているはずだが、その相貌を覗かせる気配は一向にない。反対車線を何台もの車が通り過ぎた。水飛沫が舞い上がり、水たまりの表面に映った空の画は一瞬にして壊れた。吹き上がった飛沫は中空で制止したように見えて、次の瞬間には砕け散るように辺りへ飛散していた。路側帯の向こう側で傘を差して歩いていた老人が、水飛沫をまともに受けて不快な表情を露わにした。老人はカッターシャツの上にチェックのベストを羽織っているが、跳ね上がった雨水が血潮のように点々とこびりついている。老人と目が合った。縁のない眼鏡の向こうに皺に覆われた眼が見える。その奥では黄緑色の車が被写体として捉えられている。黄緑色の車は路面の水を弾きながら走っていて、後部座席にわたしを乗せている。わたしは窓ガラスに顔を埋めて老人の顔を見ていて、老人も同じようにこちらを見ているが、その視線はまるで表面だけをなぞっているようで、中にいる私までは捉えていない。ルームミラーとサイドミラーには老人の顔が映り込んでいる。車が排気音と水飛沫を上げて遠のくにつれ、それらは小さな点のようになり、やがて見えなくなった。
視線を車内に戻した。大量の雨がフロントガラスを叩き、その上でワイパーが小刻みに動いて、こびりついた雨粒を拭っている。ルームミラーには運転手の眼が映り込んでいる。疲れが滲んだ眼は一点を見据えたままで動くことはない。車内には重い沈黙が漂っているが、それはこの運転手のせいではない。きっと、わたしなのだ。周囲に沈黙を強いるような何かをわたしは抱えている。わたしという大きな沈黙を乗せて、車は目的地へ向かっている。フロントガラスの向こうにおぼろげながら大きな交差点が見えて、運転手が車体を真ん中の線に寄せた。方向指示器が点滅し、カッチカッチと耳障りな音を立てた。信号が赤から青に変わり、車は線に沿って大きく右折した。右折し終えると、左手にコンクリートの塀が見えてきた。繊維工場の塀で、剥げかかったインクで大きく社名が書かれている。そこを道なりに進んでいくと、尖った屋根の大きな建物が視界を覆い尽した。建物の塀にはプレートが打ちつけられてあって、「○○葬儀会館」という文字が見える。方向指示器が左方向に点滅して、車が車体を左に傾け、塀の中へと入っていった。塀の中には駐車場があって、一般車と社用車が白い枠に囲まれたスペースに停まっている。その一角に車は停まった。ドアが開かれ、湿気を含んだ冷たい空気が身体を包んだ。わたしは運転手に金を払うと、黒のパンプスに覆われた足を地面に下ろした。赤い傘を差して、眼前の建物を見上げた。尖った屋根を頭上に戴いた建物がケヤキの木に囲まれて突っ立っている。わたしはそこへ向かってゆっくりと歩き出し、扉の前まで行くと、傘をすぼめた。扉は木製で観音開きになっている。わたしは濡れた手で取っ手を掴んで手前に引いた。ぎいいいいいという蝶番の軋む音が聞こえ、湿った空気を掻き分けて扉が開いた。
その向こうは正方形の小さな部屋に通じていた。部屋は四方をクリーム色の壁で覆われ、床にはリノリウムが敷き詰められている。正面玄関の右側に縦長の机が置かれていて、喪服を着た男と女がパイプ椅子に座っている。頭の薄く禿げ上がった壮年の男性と、髪が肩くらいまで伸びた30代後半の女性で、そのいずれかは葬儀屋の職員で、もう一人は故人に近しい人間なのだと思う。2人は座った姿勢のまま蝋人形のように動かないでいる。表情は共に暗い。元気がないという意味ではなく、感情そのものを失ってしまったという感じだ。2人に声を掛けて、机上に置かれた名簿に自分の名前を書き込んだ。呪文のような耳障りな声が側面から聞こえてくる。坊主の読経で、それは奥の扉から漏れている。机上にペンを置いて、2人に小さく会釈をし、読経のする方へ向かった。観音開きの扉を開くと、壮麗な空間が眼前に現れた。体育館ほどの大きなホールに黒い椅子がぎっしりと並べられている。背もたれから喪服を着た人間の頭が伸びていて、まるで黒い塊のようだと思う。人々はホールの右側と左側に分かれて座っていて、真中には道が出来ている。その上に光の筋が出来ている。天井には5本のラインが引いてあって、光はそこから届いている。道を辿っていくと袈裟を着た坊主が立っていて、丸められた頭の上で光は止まっている。坊主の眼前には大きな祭壇がある。木で象られた須弥壇の周りにはブーゲンビリアの花が添えられていて、それらに埋もれる形で故人の遺影が置かれている。アキラだ。写真の中の彼は、コカコーラのコマーシャルに出てくる子供のように、白い歯を見せて笑っている。それを見ていると、死んだこと自体が嘘のように思えてくる。扉を後ろ手に閉めて、黒い塊の方へ向かった。耳障りな読経の上を乾いたパンプスの足音がなぞる。参列者は葬儀に意識を集中しているようで、わたしの存在に気付かない。一番後ろの空いた席に座ろうとして声を掛けられた。声そのものは柔らかいが、艶やかな響きがある。わたしはその声を何度も聞いたことがある。声のした方に顔を向け、わたしは顔を曇らせた。真ん中の道を挟んで左側の椅子に由里子が座っている。由里子は、席を立って、わたしが居る方へ近づいてきた。
随分遅かったのね、そう言って、由里子は、わたしの隣に腰を下ろした。わたしは彼女の方を見ないで、道が混んでいて、と適当に言い訳した。そう、と耳元で声が聞こえて、生温かい風が肩にかかった。由里子が髪を掻き上げたのだろうと思った。彼女の髪は背中の真中辺りまで伸びていて、いつも身体に張り付いたようになっている。やたらと髪を伸ばしているのは、耳の裏側にある傷を隠すためだ。傷は昔の恋人からDVを受けて付いたものらしい。
ねえ、小枝子、と言って、彼女はわたしの膝に手を置いた。その指先にはエメラルドの指輪がはめられている。アキラから昔、贈られたものらしい。指輪は天井から零れる光を浴びて碧色に輝いている。碧色の表面にはわたしの顔が映っている。覇気のない眼をしていて、死人を見ているような錯覚を覚える。ずっと見ていると、膝の上で由里子の指が小刻みに震えるのが分かった。視線を指先から由里子の顔へ移した。喪服に身を包み、髪を背中まで伸ばした女が、こちらをまっすぐに見ている。その瞳には涙が湛えられている。わたしは、由里子の顔を正視できず、首元に目をやった。首元には真珠のネックレスが数珠つなぎにかけられている。喪服に合っていて、とても綺麗だと思う。ごめん、ごめんね、という震えた声が口元から零れる。どうして、謝るの? わたしは顔を上げて、思わずそう言った。謝らなきゃいけないのはわたしのほうなのに。そう言おうとするわたしを、彼女は、いいのよ、と言って制した。そんなことはもうどうでもいいの。
彼女が“そんなこと”という言葉で表現しているのは、わたしたちが過去に犯した罪のことだ。アキラは、由里子の昔の恋人だった。その恋人をわたしが奪った。簡単に言えば、そういうことになるのだろうけど、それは世間一般で言うところの“略奪愛”とは次元が異なる。正確に言うと、アキラには2人の恋人が居た。そのうちの一人が由里子で、もう一人がわたしだった。わたしたちは別の恋人が存在することを知らないままに、彼と交際していた。彼の秘密が明らかにされたのは去年の夏だ。わたしのお腹の中にアキラの子供がいることが発覚して、良心の呵責から彼は真実を吐露した。由里子とは中学時代から仲が良かったし、彼女を傷つけたくなかったので、わたしは、一人で子供を産んで育てていきたい、と彼に言った。彼はわたしの決断に耳を傾けず、自分が責任を取ると言った。後日、わたしたち三人の間で話し合いの場が設けられた。その席でアキラは由里子に別れ話を切り出した。由里子は最初こそ気丈に振舞っていたが、話がわたしの妊娠に及ぶと、感情を抑えられなくなり、ワイングラスを叩き割ったり、これ以上はないというような汚い言葉でわたしたちを罵ったりした。そのせいで話し合いは結論が出ないまま物別れに終わり、結果、アキラと由里子の関係は自然消滅的に絶たれた。
わたしはね、小枝子、あなたたちのしたことを忘れることはないだろうけど、それは決して許さないということではないの。わたしの手を握りしめながら、由里子はそう言ったが、わたしに許される資格などあるはずがなかった。どういう形をとったにせよ、わたしが彼女からアキラを奪ったことは事実だからだ。わたしには彼女と同じ場所で呼吸する資格すらない。ごめんなさい。わたしは、彼女の顔を見るのに耐えられなくなって、視線を前方に戻した。前方では黒い椅子が横一列に並んでいて、その上から人間の頭が突き出ている。その隙間からも人間の頭を垣間見ることができて、獄門台に並べられた生首を思わせる。生首の間を縫うように読経が押し寄せてくる。坊主の声で奏でられるそれは、壊れたスピーカーから溢れるノイズに似ている。読経が止み、坊主が参列者の方に向き直った。彼は小さく会釈すると、故人にお焼香をお願いします、と言った。それを合図に、前に座っていた人々が一斉に立ち上がった。黒いうねりが起きたようにわたしには映った。それからはまるで示し合せたかのように事が進んだ。ホールの右側と左側からそれぞれ参列者が出てきて、真中の道に列を作った。それはさながら、漆黒の葬列のようで、前列を先頭に祭壇へ向かって練り歩き始めた。わたしと由里子もその後に従った。人々の黒い背中を追いながら、由里子がわたしに訊いてきた。彼と最後に会ったのはいつなの? わたしは、覚えていない、と答えた。彼女は訝しげだったが、とぼけているわけではなく、本当に覚えていなかった。
最後に会ったのはいつかと問われれば、あの話し合いの日だと答えるしかない。あの日以来、わたしの記憶は曖昧だ。彼と交際を続けることになったのかどうか分からないし、お腹の子供がどうなったのかも分からないし、ましてや、彼がどうなったのかも分からない。だから、当然、此処にいる意味も、彼が死んでしまった理由も、わたしには理解できない。
どうして、彼は死ななければならなかったの? わたしがそう訊くと、由里子は、え?と声を漏らしてから黙り込んだ。そして、深い沈黙の後で、彼は殺されたのよ、と呟くように言った。
わたしは隣の由里子にゆっくりと顔を向けた。絹のようにきめ細かい髪の中から小さな横顔が覗いている。その中で光と影が同居している。光は白い染みのように鼻梁や口元に拡がり、影は黒い痣のように額や目の下を覆っている。殺された? 口から勝手に言葉が零れる。虚空に漂うそれは、虫の羽音より小さい。本当に何も知らないのね、そこで言葉を切って、由里子はわたしの顔を見た。眼窩にはめられた目は、よく磨かれたレンズのように透き通っている。わたしの意識はその中に吸い込まれた。暗幕を引いたように目の前が真っ暗になり、次の瞬間、わたしは暗い穴に引きずり込まれた。その中を物凄いスピードでわたしは移動している。自分が動いているというより、周りの風景が勝手に動いている感じだ。穴の底は見えない。漆黒の闇がどこまでも広がっているだけだ。風景が目まぐるしく動いて、闇が自分の身体を射し貫いていくような感覚を覚える。それはわたしの中で溶けて、紙の上に黒のインクを零したようにじわじわと広がっていく。瞼の裏側で黒い靄のようなものがゆらゆらと揺れ、やがて、それは一つの形を為した。街だ。夜に染まる街だ。大昔のモノクロ映画に出てくるような街が眼下に広がっている。わたしの意識がそこへ向かって降りるにつれて、街の風景が次第に色彩を帯びていく。群を為す建物、通り過ぎる車の車体、行き交う人々の衣服や皮膚、差している傘などが本来の色を取り戻していく。色付けが終わり、闇が完全に飲まれた瞬間、女の声がどこからともなく響いた。彼はね、刺されたのよ。それは耳の裏側で何度も繰り返された。刺されたのよ。刺されたのよ。刺されたのよ。刺されたのよ。刺されたのよ。刺されたのよ。さされたのよおおおおおおおおおおお。音割れした声は、獣の雄叫びのようになって頭の中を駆け巡り、鈍い響きを吐き出しながら段々と小さくなっていった。両の耳から手をどけて、目を開けると、そこには見慣れた街が広がっていた。都心から50キロほど離れた郊外の街だ。開発が盛んな新興住宅街で、真新しい家が犇めき合うように軒を連ねている。わたしはそれらを遥か上空から見下ろしている。四角い屋根や丸い屋根の建物が平面的に散りばめられ、細いチューブのような道路が縦横に張り巡らされている。それらは降り注ぐ大量の雨を浴びて、心なしか膨らんで見える。チューブの上を青い物体が移動している。点のように見えるそれは傘だ。傘の上で雨が躍っている。弾かれた雨粒が靴の上に落ちる。靴は男物の靴だ。わたしはそれを見たことがあるような気がするが、誰のものだったか思い出すことができない。男は靴の上の雫を蹴るように弾きながら、雨に煙る街を歩いている。その先には、わたしとアキラが同棲しているマンションがある。青い点はそこに向かって確実に動いている。よく見ると、その後ろで白い点も移動している。住宅街を囲む白い塀と重なって分かりにくいが、レインコートを着た女だと分かる。そいつは、歩く速度を徐々に速め、背後から青い点に覆いかぶさった。青い点と白い点が降りしきる雨の中で静止した。緩慢に時が流れた後で、白い点がゆっくりと後ろへ身を引き、それに呼応するかのように青い点が地面に崩れ落ちた。わたしは白い点と青い点が重なっている場所へ意識を移動させた。濡れたアスファルトの上に傘が横様に倒れていて、その中から黒い靴に覆われた足が伸びている。男の背中にはナイフが生えていて、傷口から血が溢れている。青い傘を払いのけて、わたしはスーツ姿の男の顔を見た。瞬間、わたしは口元を押さえた。アキラだった。アキラは目を見開いたまま、苦しそうに息絶えていた。わたしは、おそるおそる、後ろを振り返った。レインコートを着た女がこちらを見下ろしている。倒れている男だけが眼中に入っていて、わたしの存在には気付いていない。女はその場に屈み込むと、男の背中からナイフをゆっくりと引き抜いた。ナイフはその先端が朱に染まっていて、鮮やかな鮮血が糸を引いている。女がレインコートのフードを捲って、口の端を歪めた。その顔を見た時、わたしは胃からせり上がる吐き気を押さえこまなくてはならなかった。その女は、どう見てもわたしだったからだ。わたしは何度も首を振った。違う、違う……そんな、そんなはずないじゃない。アキラの死体とそれを見て嗤う女の顔が交互に映し出されて、わたしは絹のような叫び声を上げる。やめて、やめてよ。空を見上げ、声を限りに叫び続ける。大量の雨が顔を刺す。それらに混じって柔らかい声が空から降りてくる。小枝子、小枝子……。その声が身体の中に入っていき、再び、目の前が真っ暗になった。
小枝子、小枝子。由里子に肩を叩かれて、わたしは我に返った。どうしたの? 由里子が心配そうにわたしの顔を覗き込んでいる。ごめんなさい、わたしは絞り出すようにそう言って、額の汗を拭った。由里子がバックからセリーヌのハンカチを取り出して、わたしに貸してくれた。ありがとう。赤ん坊の肌のように柔らかい布で、わたしは汗を拭う。その様子を、由里子は好奇の眼差しで見る。汗を拭いながら、わたしは訊いた。どうして、彼は殺されなければならなかったの? 由里子は首を横に振って、分からない、と答えた。詳しいことは私には分からないの。ただ、これだけは言えるわ。そう言ってから、彼女は後を続けた。彼を殺さなければならない人間がこの世にいるとしたら、その人間は限られてくるわね。彼女の言った意味をわたしはすぐに理解した。しかし、それを口に出す勇気はなかった。
漆黒の葬列が大名行列さながらにホールの真中を練り歩いている。人間の体臭や香水の香りを撒き散らしながら、それは祭壇に向かっている。前方から、布切れを擦り合せたような音が聞こえてくる。女の啜り泣く声だ。女の泣き声は練り歩く人々の列に悲壮感を与える。人は大切な誰かが死んでしまった時、遣り切れない悲しさから涙を流す。それは、赤い血の流れた人間なら誰でも見せる正常な行為だ。しかし、わたしからは一滴の涙も流れていない。恋人の死が悲しくないというわけではなく、実感が湧かないだけなのだ。葬列は、祭壇に吸い込まれるようにゆっくりと進んでいく。祭壇の手前には、焼香台と遺体の収められた棺があって、それらを取り囲むように坊主と遺族が立っている。参列者は、坊主と遺族に一礼してから、仏式の作法通りに焼香を行い、列から外れていく。遺影に深々と一礼してから出て行く者もあれば、棺の中の遺体に何やら話しかけて出ていく者もある。一人、また一人と列から外れていき、やがて、わたしたちに順番が回ってきた。わたしは由里子を見て、先に行くように勧めたが、彼女は首を振った。わたしは、前の人間がそうやったように、遺族と坊主に一礼すると、前に進み出た。祭壇の上にはブーゲンビリアに囲まれたアキラの遺影と仮位牌が置かれていて、それらを見上げる位置にわたしが立っている。額に収められた生前のアキラは、白い歯を見せて笑いながら、わたしを見下ろしている。どうして、あなたは死んでしまったの? 心の中でそう問いかけながら、わたしは遺影と仮位牌に深々と頭を下げ、それから焼香台の前に立った。台の上には香炉があり、その中で抹香が焚かれている。わたしは、右手の親指と中指と人差し指で抹香を掴み、深く頭を垂れた状態でそれを目の高さに上げ、静かに香炉の中に落とした。香炉の中には灰色の燃え滓が溜まっていて、中心がオレンジに染まっている。そこから白い煙がゆらゆらと立ち昇って天井まで伸びている。焼香を終え、列から外れようとすると、由里子が近寄ってきて、わたしに一本の花を差し出した。祭壇の上に飾られているのと同じ、ブーゲンビリアの花だった。アキラの好きだった花なの、棺の中に入れてあげて。わたしは、由里子から花を受け取ると、棺の前まで進み、穿たれた観音開きの小窓をそっと開いた。ブーゲンビリアの花が手から落ちたのと、女の喧しい嗤い声が頭の中で響いたのは同時だった。わたしは、棺に収められた“別の人間”を見て、背中に戦慄が走るのを感じた。棺の中に居たのはアキラではなかった。死に装束を着せられ、鼻や耳に綿を詰め込まれて横たわっていたのは、ほかならぬ“わたし”だった。わたしは、由里子の方にゆっくりと向き直った。由里子は口元の端を歪めて不気味に笑っていた。頭の中で彼女の声が鳴り響く。
(そうよ。思い過ごしよ。アキラじゃない。死んだのは……)
由里子の瞳の中に街の風景が映し出される。雨に彩られた街が俯瞰図として浮かび上がっている。その中で小さな赤い点と白い点が移動している。それらは次第にクローズアップされていき、その輪郭を露わにする。赤い点は赤い傘を差したわたしで、白い点はレインコートを着た女だ。それらが画面一杯に映り込んだ瞬間、目の前が真っ暗になった。闇が溶けるように晴れていき、周りの景色が形と色を為して眼前に浮かび上がる。街だ。雨に煙る街だ。しかし、今度は俯瞰図ではない。建物も、家の塀も、車も、すべてが立体的だ。降り注ぐ雨までもが長細い針のように見える。わたしは銀色の雨が降りしきる中を、赤い傘を差して歩いている。その背後から、雨を弾く音が聞こえてくる。誰かが追いかけてきている。振り返る間もなく、わたしはその誰かに覆いかぶさられた。その瞬間、激痛が背中に走った。わたしは傘を持ったまま、濡れたアスファルトの上に倒れた。背中にナイフが生えていて、穿たれた穴から温かい液体が溢れ出している。わたしは、最後の力を振り絞って、後ろを振り返った。レインコートを着た女がこちらを見下ろしている。女は、わたしの背中からナイフを引き抜くと、コートのフードを捲った。恐ろしく長い髪がその中から零れ落ちて顔を覆い隠した。女はいつもやっているみたいに髪を掻き上げた。重く垂れ下がった髪から小さな顔が現れた。由里子だった。由里子は口元の端を歪めて嗤うと、ゆっくりと口を動かした。それに合わせるかのように頭の中で声が響く。
(あなた……)
目の前が真っ暗になり、わたしは再び、現実に引き戻された。気がつくと、わたしは棺の中に寝かされていた。身体は死に装束に覆われて、鼻や耳には詰め物をされている。顔の真上には小窓があって、喪服を着た男女がこちらを見下ろしている。男の方はアキラで、女の方は由里子だ。アキラは沈鬱な表情を浮かべていて、由里子はその瞳に涙を湛えている。真上から小さな手が降りてきて、顔の傍にピンク色の小さな花が置かれた。由里子の顔が小窓一杯に映り込む。由里子は、流れ落ちる涙を指で拭い、口元を歪めた。ごめんね、小枝子。わたし、やっぱり、あなたを許せない。
(完)
塗り替えられた記憶