語りあい(2)
いつか、どこかの、暇人達。その筆頭は僕だ…。
「俺は本物を知っている。だからそれ以外のものを定義できるのさ」
そういって、彼が僕の肩越しに何かを指差す。
「例えば、あれだ」
その指が示す方向に目を向けてみると、一つの紙束があった。二百枚くらいの比較的小さな紙から成っているらしく、近寄って手に取ってみると、紙の表面には数百枚の内一枚とて例外なく何やら文字がびっしりと羅列されていた。
「くだらんだろう。とてもくだらん」
どうやら、この紙束について言及しているらしい。
「これは何?」
「お前、わからんのか。それは××という代物でな、優れた○○に触れた低能どもが自分にも同様のことができるという恐れ多い誤解を抱いたその果てにひりだした糞の塊だ」
××?聞いたことの無い言葉だ。しかし、先に彼の放った「くだらない」という言葉の理由はなんとなく分かった。この××という紙束が○○というものに対して劣っているというのが、その理由らしい。しかし、そんな優越を語られても、僕には決定的に知識が不足している。○○ってなんだ?
そこで僕は、彼に質問してみる。
「君の言いたいことはなんとなくわかるけどさ、ちょっと待ってくれよ。僕はそもそも○○という言葉を知らないんだ。そこから教えてくれないか。その○○っていうのは、この××っていうこの紙束と何が違うのさ」
僕がそう言うと、彼は露骨に侮蔑の表情を僕に向けた。
「お前が何にも物を知らないということは知っていたが、まさかここまでとはな…。だが、まあいい、教えてやる」
そして彼は続ける。結局説明はしてくれるようだ。
「まあ○○も××も、表面に文字がびっしりと並んだ紙の束っていう点では同じだな。だが、その表面の文字の意味が決定的に異なっている」
「成るほど、つまり、その形状には差異は無いんだね。しかし、紙の表面にある文字が異なっているって?」
「文字は異なっていない。その「意味」が異なっているんだ。そこを間違えるな低能」
少し彼の辿りたがっている論旨から外れたらしい。僕にこの空間でこうして「本物」を教えようとする人は、決まってこういう時燻ぶった焚火のような怒り方をする。
「ごめんなさい」
何がその焚火に油を注ぐか分からない僕は、こういう時素直に謝ることをいい加減に覚えていた。
「次から気をつけろよ」
彼からお許しの言葉が出る。よかった、許してくれたようだ。
「それで…、ええと、どこまで話したっけ」
「○○と××の差異は、その表面に記された文字の「意味」にあるという所まで」
「ああ、そうか、そうだったな。…全く、お前が低能なことを漏らして俺に訂正をさせるから」
「すみません」
もう一度素直に謝る。そうすると彼は当然だというような顔をして、話の続行に移る。
「つまり、○○と××には形態としての差異は無く、そこに表される文字の「意味」にこそ差異がある。だが、その「意味」はどの様に異なっているのだろうか。お前には分かるか?」
いきなり彼は僕に質問を投げかけてくる。論点はそこにしかなく、その議論を彼が一方的に推し進めているのだから、僕に対するこのような質問に意味はないと思うのだが。
「ごめんなさい。それを聞こうと思っていた所なんだ」
ここで偽っても無意味だと思い、僕はありのままを彼に告げた。しかし、どうも彼にはその答えが気に入らなかったらしい。なぜなら
「ふむ、着眼点しか褒める所の無い回答をどうもありがとう」
という言葉で、またあの燻ぶった火のような怒り方をされたからだ。予定調和から外れることはどうあっても許されないことなのだ。なので僕は
「ごめんなさい」
とまたしても素直に謝った。
「いや、気にすることはない。ただ、その余りにも受け身な姿勢で生きてきたことが透けて見える発言は少々控えた方がいい。お前自身の品性の上昇は、その態度により停止してしまう。それはよくない」
「うん、わかった」
「さて、紙束の表面に記された文字の「意味」がどのように異なっているのかを、いよいよ教えてやろう」
ついに本題に入るようだ。その意気を表してか、彼の頬も少し紅潮しているように思える。
「その違いはな、…素晴らしいかどうかなんだ」
「…え?」
「理解できなかったのか?○○と××の違いは、その文字の意味が素晴らしいことを表しているかどうかってところにあるってことだよ」
性懲りもなく聞き返してしまった僕に、彼は今回ばかりは何故か親切に説明を加えてくれた。
「つまり…、○○と××は君自身がそれらをより分けていたということ?」
「いや、違う」
「どうして?」
「最初にいっただろう。俺は本物を知っていると。数多の○○と呼ばれる物に触れて、本物を知っている俺の意見はある種の普遍性を持つ。その普遍性に依り、俺の意見は単なる個人的見解を超えて、一つの定義の宣誓となるのだ」
突然、彼の弁舌は異常にその冴え具合を増す。恐らく、ここが彼の一番言及したかったところなのだろう。さらに彼は続ける。
「人は充分に大きな個体数を抽出した場合、ある程度均質化されていることは流石に分かるよな?つまり、それら人間がある特定の対象に触れた場合、その思考や嗜好はほぼ一つの形に収斂するはずなんだ。本物を知っている人間の集団が、本物、つまり優れた○○を優れた○○と定義づけることは普遍的な現象なんだよ。俺の抱く意見は、正しい人間の総意と等しいんだ」
「…要するに、「優れている」っていう意見は、それがどれだけ凡百の意見と化しているかってことをこそ尊重されるべきってことかい?」
「変に穿った見方をする奴だな。そうやって尊重された「優れている」という意見は、如何に自分を支える、自分が支えている人数が多いのかを表しているんだ。どれだけこの世の一なる価値観の醸成に貢献しているか、それをどれだけ円滑に進めているか。そこに価値を見いだせないのか?」
彼は心底分からないと言った表情で首をオーバーに振り続ける。僕は反駁する。
「でも、それは、○○自身の価値じゃない」
「そうだ。残念ながらそれは認めなければならない」
「なら、君は破綻している。○○自身の価値を認めることこそが至上でないのなら、××と○○の差異を定義すること自体に意味がない」
「いや、そうとも限らんさ」
彼はここで突然、我が意を得たりというような表情をする。どうやら僕の反駁が、彼の論旨においていい意味でフェイタルな部分を突いたらしい。
「○○の高い価値を共通認識とすることで、俺は一つの帰属を得る。つまり、その価値観を持って俺は大きな集団へ属することができるんだ。一なる価値観を持つ、その集団の中へ」
「それはおかしい。その理論は先程のプロセスを真逆からなぞっている。因果が倒立しているじゃないか」
「先程言及した過程が真に求められるのは、ただ原初の定義においてのみだ。一なる価値、何が素晴らしくて何が素晴らしくないかを真に決定する時だけだ」
「その時以外は、因果を逆転させてもいいというのか。なら、君の感性は一体何の為にあるんだ?○○は何の為に、××は何の為にこの世に生まれてきたんだ」
「ただのフィルターだよ。いや、アドミッションと言ってもいい。要するに俺の集団としての安寧を提供するために存在する、名刺代わりの被造物だ」
彼は全く悪びれもせず、持論を展開する。何故だ、何故そんなにも、価値を自分に還元できる。結局○○だろうが××だろうが関係ない。この人達にとっては全てが無価値なのだ。何一つ差異なんてない。そう決めているからだ。この人達自身が。
「そして感性は、もはやこの段階においては機能する理由を持たない。必要なのは知識と、集団帰属への渇望だけだ。自己を愛するその心だけなんだよ」
…なら、まさか、ああ、まさか…。
僕は恐ろしい可能性に気付いてしまった。この議論を最初から覆してしまうような恐ろしい可能性に。
僕は先程から打ち捨てられていた××を手に取り、彼に示しながらこう問いただした。
「それなら、まさか、君は、この本を……」
「ああ、面白くないらしいんだけど、どうなんだろうね」
語りあい(2)