電車

 決して明けることの無い深夜、一人の旅人が線路の上を歩いていた。
 辺りは街灯など決してあるはずもない山中。その線路はどうやら人跡未踏の地を力技で切り開いた跡に敷設されたものらしい。
 旅人の背負う荷物はとても大きい。リュックサックなのだが、その頂点は彼の頭上五十センチまではみ出しており、その最下点は彼のひかがみとほぼ同様の高さにかかっている。そして、その厚みは少なくとも一メートル程度はあるだろう。
 このような山中を一人で歩く際には、むしろ過度な装備は危険である。それなのにこのような重装備をしているこの旅人は、実は旅人などでは全くないのかもしれない。いや、あるいは単なる初心者が、荷物の加減も分からずむやみに重装備で山に入り、今は後悔することしきりなだけなのかもしれない。
 ともかく、全く明りの無いその線路の上を男(いまやその身分には些かの疑いが生まれてしまったので、以降彼をこう呼称する)が歩いている。
 足取りは目も当てられないほど緩慢としており、荷物の重さの故か、傾斜がそこまで大きくないのにもかかわらず、ひいひいふうふうと息も絶え絶えな有り様である。
 しかし、完全な暗闇のなか、靴底に伝わる枕木の感覚のみを頼りに定規で引いたようにまっすぐ前へと進む所をみると、存外に身体の感覚は鋭いといえるかもしれない。
 ところで、この線路の上では、不思議なことに、男が歩いていると時折、背後から眩いばかりの光が射すことがある。
 そのような時だけ、男の影の形に一部を黒く切り取られた線路の上面が光の中にあらわになり、男に足元の無機質さを教えてくれる。
 この時々背後から射してくる光のことを、男は便宜的に「電車」と心の中で呼称していた。なぜなら、その光は現れたあと、徐々に男に向かって迫り、最後には彼を追い抜いてどこかへ消えてしまうからだ。光は特に「電車」の前に向かって強く射しているようであり、男を追い抜かした後は、みるみるうちに小さくなって消えてしまう。その様は、正しく彼の思い描いている深夜の電車における光線の挙動である。
 しかし、と男は考える。何故、音がしないのであろうか。あのレールの継ぎ目ごとに規則的に響き渡る硬質な音や、ブレーキの耳障りな高音、機関部の擦れ合う心地よい和音が。
 そう考えて彼はふっと我に帰る。違う、逆だ。俺がアレを「電車」と呼んでいるからと言って、あれがより電車としての形態を模写する訳がない。いつだってそうではないか。
 だが、機械音のしないその光を、自分が「電車」と形容した理由には、少しばかり気を取られてしまう。一体、何故。
 そして、彼はふっとその答えに思い至る。
 そうだ、あの光が俺をすり抜けていくその瞬間、声が聞こえるからではないか。
 幼いころに、父や母と共に初めて電車に乗った、あの頃の俺の嬌声が。何もかもが珍しく、全てに対して愛を注げたあの時の、嘘偽りない感嘆が。
 そしてそれを見守る両親の温かい笑い声が。
 聞こえるからではないか。

 そう、
 「電車」が、
 俺を    追い抜かす  その

 一瞬に。

 …何故今、この瞬間に自分はその事実に気が付いたのだろう。何故、今でなければならなかったのだろう。何故、今までではいけなかったのだろう。
 そう問い続けながらも、しかし、最も重要な答えを見つけ出した彼は、おもむろに足を止め、レールに腰を下ろし、件の大きなリュックから手頃なナイフを取り出すと、なんでもないような動作で、それを自分の首に突き立てた。

電車

電車

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-13

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