明るい夜にはあなたの夢を
序章
さようなら。
碧海を焼き尽くす太陽よ。
あなたは信ずるには足りない。
真夏の太陽へ向かって真っすぐに伸びるやぐらの上で、無地の袴をきた男がぼんやりと空を見上げていた。あまりに何も表情が浮かばない。というか何も考えていなさそうな顔をしているため、その人は暇つぶしに空を見上げていると思われがちである。しかし実のところ久々の晴天にうきうきしてこのやぐらに上っているのである。ぼんやりと、無意識の状態でこの晴天の日を心行くまで楽しもうとしているのである。不思議な人であった。
一方その様子を、刀を携え、草むらの影から覗いているものもいた。息をひそめて気配を断ち、らんと光る目でやぐらの上にいる人を見ている。まるでやぐらの上の人物を殺しに来たかのような物腰だが、これはただの癖だった。
風の音しかしない。虫の音も、鳥の羽ばたきも今はなかった。
やがて草むらでゆっくりとまつ毛が下された。
一方は日の下に、他方は影の下に。一方は相手を見つけられるが、他方は見られていることすら気づかない。
まるで二本の川のように、互いの水の走る音に耳を澄ませ、焦がれるほどに追っている。やがて大きな営みに飲み込まれるまで、交わることはない。
やがて雉が一羽飛び去った。
「おーい。日暮―。今帰ったのか?」
「…うん。ただいま、潮村」
あなたが生き続ける限り、これから先も生きていられる。
どうかこの祈りがあなたにも届きますように。
日暮
薄明りの中を、目を細めてみると少し離れたところに男が一人、息を殺して身を隠しているのが見える。
山際がゆっくり白みはじめ、鳥の鳴く声もした。朝が来る。
男は警戒しながらも、そろそろと木の陰から体を見せた。闇の中に隠れるにしてはあまりに派手な色の衣に身を包んでいる。だが、袴には泥が跳ね、きっちり整えられていたはずの髪もぼさぼさになっていた。男は両手に抱えた風呂敷を胸元で強く抱きしめる。山際に朝の到来を見て、男は短く安堵の溜息をついた。
「まだだよ」
男の顔が安堵してゆるんだ表情のままでこちらを向いた。疑問符を浮かべた目が一瞬で恐怖にゆがむ。男の唇がわななく。
その目の向こうに自分の姿を見た。
「白…狐…」
草と水のにおいが一転して生臭い匂いに変わる。嫌悪感しかしない匂いだ。吸いすぎると心を蝕む。
懐紙で肩の血をぬぐって鞘にしまうと朝日が差し込んだ。息絶えて変わり果てた男にもまた。光が反射して神々しいほどだ。
男の傍らに落ちた風呂敷を拾い上げる。軽い。
中を見てはいけないと言われている。けれど、中身の感触は何かの書類のようだった。おそらく機密事項なのだろう。それでも、ただの紙切れだ。
「馬鹿馬鹿しい」
その包みを袂に落とし入れ、未だ夜空が広がる方へと歩みを進める。男を追いかけるより速く森を駆け抜ける。夜が完全にあける前に帰らなければならないからだ。
他の誰かに、この血塗れた姿を見せるわけにはいかない。
誰も通らない木立を抜けると幅の広い堀に行きつく。さらにその向こうに高い塀が立つ。囲われたその中には頑強な石を積み上げて作られた土壌の上にさりげなく細工が施された城が不気味に浮かび上がっていた。朝日と夕日が差し込むとき、前面が真っ赤に染まる。人はそれを美しいとたたえる。けれど自分はあの城が嫌いだと思う。
堀を渡る手段はなくとも、抜け道は存在する。この道は誰も知らない。王の部屋に直通する。「道」を下ると、上下左右歩きまわされ、どこを通っているのか皆目見当もつかない。
そしてやがて目の前に扉が現れる。
「遅かったな」
扉の向こうは適度に暖が取られ、朝日が差し込む。
「夜が明けたか…」
森で聞いたのとは別の種類の鳥が鳴く。
鋭利な目とつややかな黒髪。会うのは久しぶりなのにその目の強さはいささかも衰えることはない。
「お前は…身長と髪しか伸びていないな、冴。お前早くその血落としてこい。生臭くってかなわん。あ、頼んだやつを出していけ」
片手を差し出される。
「…むちゃくちゃ言って、臣下を困らせていなかった?」
渡した風呂敷を剥き、中の書類に目を落としたまま、顔を上げもしない。
「お前に言われることじゃないな。これ、読まなかったか?」
「読んでないよ…。それは人を殺してでも取り返す価値が、あった?」
返事をしない。
「葉!」
「うるさいな…。当たり前だ。感謝しているぞ、白狐。これからも期待している。今日はもう休んでいい」
口元だけで笑って、目の奥は笑ってなどいない。そのまま、もう興味を失ったかのように踵を返す。
その背に、静かに頭を下げた。
誰にも見つからないよう湯を浴びて、血のついていない衣に着替える。時刻は午前5時を回り、眠すぎて気持ちが悪い。
それでも安心できるところでなければ眠れない性分である。今度は城を正面玄関からでて、そのまま城下町を歩く。朝早くとも、すでに働き始めている人間は多い。朝ごはんの準備でもしているのか、味噌汁の匂いや、魚の焼ける音がする。足早に通り抜け、それはもう、かけっこほどの速度で駆け抜ける。そうして、城下の外れに位置する古くて大きな木造の館にたどり着いた。わずかに乱した息を肩で整え、門番に歩み寄る。二人のうち片方は新顔だったが、片方は顔見知りであった。
二言三言言葉を交わして門をくぐる。座敷に朝ごはんがあると言われたが、行く気にはなれなかった。ためらうことなく縁側から進み入り、ふすまを開ける。16畳ある床の間が広がっていた。布団が敷かれていなければとても広い。けれどここは大勢の人間が一斉に眠りにつく場所である。
その部屋の一番隅に、小さな風呂敷と籠が置かれていた。ゆっくり歩み寄って、傍らに腰を下ろす。昨日はこの荷物を潮村に託して、それからずっと起きていた。だから眠くて、もう瞼を開けていられないくらい。
まどろむような心地いい眠気に身をゆだねて、日暮は小さくため息をついた。
優しい時間は終わりを告げた。この一年日暮はこの国の姫を迎えに、遠い距離をたどっていった。姫様と二人で過ごした日々は、楽しかった。もう取り戻せないものというのは、光の速さで過ぎ去ってしまうのだと、初めて知った。
夢を見ている。永遠に姫様と全国を練り歩く夢を。
「日暮…」
そのまま逃げだすことも可能だったのだろうか。例えば、この声が届かないところに行ったとしても、それを惜しんだりしないだろうか。
「ひーぐーらーしー」
だから、帰ってきてしまったのか。
「おい、日暮起きろ。こんなところで寝ない、布団で寝なさい」
弾かれたように飛び起きると潮村がそこにいた。
いきなり眠りから覚めたものだから、すぐには焦点が合わなくなる。いや、視界が揺れている。
「なんでこんなところで寝てるの?日暮、いつ帰ってきたの?」
伸びた髪の先を、潮村がつかむ。肩の上までしかなかった髪は、肩の下まで伸びていた。
返事を返すことなく、ただぼんやりとその手を見つめていたら、そのまま手をつかまれ立たされる。
「ほれほれ、立つ立つ」
足の長さが違うから、自然早足になる。戸惑ったまま着いていくと日暮が返事をしなくても構わずに潮村は話しかける。
「日暮がここを発ったのは春だったから、まるまる一年経ったなあ。ほら、李の苗木をもらってね。花がついてるでしょ、でも実はまだ取れないんだ」
潮村は台所の引き戸を開ける。
「怜ちゃん、日暮が帰ってきたよ」
台所で片づけをしていた女が顔を上げる。
「日暮!」
持っていた皿を置いて駆け寄ってくる。満面の笑顔を浮かべて。
「まあまあ大きくなって…髪も伸びましたね、日暮。おかえりなさい」
「うん…ただいま怜」
「お腹がすいていますか、日暮?待ってね、今用意しますよ」
怜はいそいそと鍋を火にかける。
「今日はあなたが帰ってくると聞いたから、あなたの分も用意していたんですよ。ほら、座って」
食台の上に次々と小皿が置かれていく。箸を持ち、手を合わせる。そろそろとお椀を持ち口をつける。
「あちっ」
「相変わらず猫舌だな、はい、水」
潮村が横から水をくれる。息を吹きかけて、口に入れられるくらいに冷ます。
「姫様はどのような方でした?」
「…女の子だった。お転婆で、おしゃべりで、よく笑う」
「おかわいらしい方ですね」
怜が口元に手を当てて笑った。
「…そうだ、ちょっと待ってて。持ってくる」
箸とお椀を置いて席を立つ。もう一度さっきの部屋に戻り、籠ごと手に取り戻る。
「まあ、何ですか、日暮」
「約束したから、いろいろ買ってきた」
籠を二人の前に置き、蓋を開けると二人が覗きこむ。
「…これは、何」
「これは、姫様の住んでいた町で見つけた。ねじを巻くとほら、動く。こっちは日にすかすと文様が変わる便箋。あと昆布とわかめ。それから去年の秋の紅葉。紙にはさんでいたから、崩れていないよ」
「…これはひょっとして、お土産?」
「ここを発つとき、約束したから」
「確かに、お土産を約束しましたね…」
怜は紅葉を手に取り、目を細める。潮村はねじを巻くおもちゃを見て何とも言えない表情をしていた。
「あと、これ」
日暮は昆布の下にあった綺麗な布の包みを取り出す。結び目をほどくと、中から精緻な細工が施された硝子のかんざしが出てきた。
「これは…?」
「姫様にお土産を見せたら、溜息をついた後、これを選んでくださった」
怜がかんざしをそっと手に取る。角度を変えるたびにさまざまな輝きを放つ。そのまま、髪にさす。
「…似合いますか?」
「うん。他にも違う色や形の細工のかんざしがあったけれど、怜にはこれがよく似合う」
「ありがとう、日暮」
遅い朝ごはんを済ませると手を合わせて席を立つ。もう一眠りくらいしたい。
「日暮」
潮村がまだ、日暮のお土産をいじりながら言った。
「今度どこかへ行くときは、僕にもお土産を選んできてくれ」
「いいけど…今のところ行くあてはないよ」
「約束だよ」
「日暮にお土産を選ばせるとこうなるとは…長い付き合いだけどこれは予想外だったな」
日暮が去った後、潮村はお土産の中のものをあれこれ確認していた。
「あの子は人にお土産を選んだことなんてないから…。たぶん自分の好きなものを私に分けてくださったのでしょう」
「そういえばあいつは花よりも、紅葉の方が好きだった…。それより僕はこれが気になって」
「ねじ式のおもちゃ、ですか?」
「あいつは今年16になる。けれど、今まで子どもらしく遊んだことは多分なかった。…どうして日暮はこれを選んだんだろう。面白いと思ったのかな」
生理現象からは逃げられない。
寝る前に厠に立とうと思いたち、方向を変える。あくびをかみ殺しているとどんどん騒がしい音が近づいてくる。
全員が一斉に眠る床の間よりも、ここにはもっと大きい部屋がある。
道場だ。
その前を通りたくなくて、手前で足を止める。遠回りになるが、向こうの道を行こう。
しかしけたたましい悲鳴と人影が、目の前を飛んでいった。文字通りである。突き飛ばされた男が大きく開いた戸から、地面へと落下した。
「…いってー…くそっ。ちょっとは手加減をしてくださいよ、隊長」
「馬鹿もーん!お前の修練が足りないからこうなるんだ」
「そんなこと言われても…あ」
頭をさすりながら起き上った男とまともに目が合う。すぐにでも逃げ出したかった。
「日暮!帰ったのか!」
「なに、日暮だと!?」
戸の陰から覗いた男は、日暮を見つけると、有無を言わせぬ力で道場内へつかみいれた。
「いやー久しぶりだな、日暮。待ちわびたぞ。おい、誰かこいつに木刀を持たせろ」
眠かった。そして厠に行きたかった。しかしこうなってはもう抵抗も無駄なのである。日暮はされるがままに運ばれていった。
ここは城下町外れにある館。中には60人近くにも上る屈強な男たちと、飯炊きの怜、そして医者の潮村が住んでいる。
そしてそれだけでなく、地下には重い頑強な鍵がかけられ、罪人が繋がれている。
ここは見回り隊。市中を見回り、治安維持に努める。ここに所属するものは帯刀を許可され、万一の場合には人を殺すことを許可されていた。
日暮はここに入って5年になる。同期で入隊したものは櫛の歯が欠けるようにぽろぽろといなくなる。
葉陛下が即位して5年。この国は未だ動乱の世を成していた。
日暮は刀を取る。平和であればそれに越したことはない。
けれどこの手を汚すことと、この平和が維持されることが本当に直結しているのか自信はなかった。
明るい夜にはあなたの夢を