母からの手紙

母親の失踪の原因は?心温まる短編小説です。

母からの手紙

父が亡くなったのは、一昨年のことだった。丁度2年が経過したことになる。
あの日も今日のように晩春の日差しが街並みを明るく照らしていた。
私は、4月に入り急に通勤客が増加した満員電車を鬱陶しく思いながら、駅前の雑踏を進んでいた。
この時期は、新しいスーツに身を包み、まるでファーストフードのマニュアルから抜け出てきたような男女が、慣れない足取りで、満員電車に吸い込まれていく。
その時、携帯電話が鳴った。父の死を知らせる連絡であった。
父は寡黙な男で、昭和を生きた典型的なタイプと言っていい。
60歳を過ぎた頃に、知人の勧めでたまたま受けた健康診断で癌が発見された。
まだ初期段階だったのが幸いし、しばらくの通院を経て、癌は完治されたものと信じていた。
次に痛みを訴えたのは、亡くなるわずか半年前のことだった。
その後の父の衰退は、見ている自分も本当に辛かった。
医者から父の余命を宣告された私は、このような連絡が来ることを覚悟し、心の準備をしていた。

私が生まれ育った町は、都心から電車に乗り1時間程度で行ける、いわゆる新興住宅街である。
一人っ子の私は、よほどこの土地が気に入っていたのか、結局のところ結婚して独立するまで、その家で両親とともに暮らしていた。
父は平凡なサラリーマンであったが、母は学芸員の資格を持ち、伝手を頼って、近くの博物館で働いていた。
寡黙な父と、意思が強く社交性が高い母は、まるで磁石のプラスマイナスのように引き付けあっていたようだ。

父の亡くなる時期と同じくして、母も定年退職で長年務めた博物館を辞めた。
夫を亡くし、無職になった母は、お通夜、お葬式等の一連のセレモニーを終えると、まるで魂を抜かれたかのように、父の遺品の整理を唯一の楽しみとして暮らしていた。
母の友人達も、母を元気づけようと家を訪れては、旅行の誘いをしてくれていたようであるが、母は、その重い腰をあげることはなかった。
私は、そんな母を見かねて、我々家族と一緒に住むことを提案したのである。
案の定、母は最初私からの提案を拒んでいたが、何回か説得するにつれて、孫と一緒に暮らす楽しみや、私の住むマンションから見る展望を気にいっていたこともあり、最終的に長年住んだ家を売り払い、父の思い出を断ち切るかたちで、私の家族の元に引っ越してきた。
私の家族は、妻の久美子と娘の靖花の3名で、娘はその頃、保育園の年長組に通う5歳児であった。
また妻は、女性ながら外資系の証券会社でディーラーを務める、母に勝るとも劣らない気の強い女性である。
私は妻に母を引き取る話をした際、きっと姑である母との同居はいやがるであろうと思っていた。
だが快諾してくれたのである。
きっと、仕事が忙しい彼女は、義理母に娘の面倒を見てもらえることを嬉しく思ったのであろう。
妻の実の母は健在だが、遠い九州におり、東京に出てくることはめったになかったのである。
私たち家族の住むマンションは、流行りのウォーターフロントにある高層マンションで、わずかなリフォームで二世帯住宅に変更可能な、やや広めの4LDKであった。
将来のことも考えて、母との同居を機に、せっかくだから二世帯住宅にリフォームしようと業者に見積もりを取ったのだが、思ったより費用がかかり、予算の問題もあって、限られた予算でセパレートできるのは、キッチンとトイレだけと、なんとも中途半端になることがわかった。
そのため、しかたなく現状の間取りのままで母を受け入れることとなった。

消沈していた母も、私たち家族との生活が始まると、みるみると元気を取り戻していった。
母が妻の代わりに近くの保育園まで娘の送り迎えに行き、またさらに休日は妻と一緒に料理を楽しそうにしている姿を見かけた。
しかし、残念ながらそのようなほほえましい関係が続いたのは、最初の1年ほどであった。
その後は、寝室で妻の母に対する愚痴を聞くことが多くなった。
「失礼だけど、お母様は自分勝手すぎます」
「最近お母様は物忘れがひどいようで、心配でなにもお願いができません」
自分勝手や物忘れがキーワードの愚痴とも文句ともつかない言葉を良く聞いた。
母からも時を同じくして、妻への小言を聞くことが多くなった。
「久美子さんは、道徳観念が低い、目上の人間を敬う気持ちがない」
「あの人は、私のやることにいちいち口を出してくる。自分ではなにもできないくせに」
母の妻に対するポイントは、「自分に構わないで」である。
ましてや、妻の親の教育がどうのこうのとなると、もうこれはタイムマシンでも発明しないと収拾のつかない話となってしまう。
気が重い。
やはり気の強いタイプが二人、それも嫁姑の関係で上手くいくはずはないか。
無理をしてでも、完全独立型の二世帯スタイルに改装しなければならないか。
ますます気が重くなった。
二人の間に入った私は、どちらから話を聞いても、曖昧な相槌を打つだけである。
それならそれで、私は二人とは無関係になりきり、客観的な視点で二人の行動を観察してみようという気持ちになった。
第三者的視点で二人を観察してみると、面白いことがわかった。
これは二人に特別に当てはまることではなく、人類に普遍的にいえることであるが、二人が指摘する内容は、相手のわずか一部分の特徴なのである。
パーセントでいえば相手のわずか10%程度の出来事が、まるでそれがその人間の全てであるように誇張されているのである。
人のことは言えないのだろうが、人間とはまったく自分勝手な生き物であると改めて痛感した。
客観的に見て、自分も全然できていないであろうことを相手にやるように要求したり、そのようなことを自分がやられたら、凄く怒るであろうことを、相手にやったりする。
また、人には長所も短所もある。
その長所や短所も違う人が見れば、180度逆転し、長所が短所に、短所が長所と感じることもある。
母には自分は一歩引き、他人を引き立てる思いやりもあるし、妻には弱き者を助けたいと思う慈愛の心もある。
しかしながら、女性は感情で動く動物であるともいわれている。
一概に理屈では割り切れない部分もあるのだろう。
考えても模範解答はない、しばらく私は曖昧さを磨き上げ、様子を見ることにした。

今年の夏は、家族全員で北海道旅行に行こう。そのように思ったのは、たまたま立ち寄った駅前のデパートで北海道フェアが開催されていて、そこに展示されていたポスターの写真があまりに美しかったからである。
多分、パッチワークの丘かなにかの写真だったと思う。
もちろん、母も一緒の旅行である。
二人の関係は相変わらずぎくしゃくしていたが、この旅行を機に、少しでも関係が改善されることを期待する気持ちもあった。
家族にそのことを相談すると、全員一致で賛成してくれた。
母も初めての北海道ということで、思いのほか喜んでいた。
それからは、北海道の地図を広げ、あそこに行きたいとか、ここのラーメンを食べたいとか言っては、旅行ルートを計画することが、食後の家族の日課になった。
結局、札幌に一泊し、富良野で二泊する三泊四日の日程に落ち着いた。
母と一緒の旅行で、あまりにハードなスケジュールは難しいと判断したからである。
私も北海道には学生時代に一度だけ行ったことがあるのだが、もう一度広大な大地に降り注ぐ夏の日差しを浴びてみたいという気持ちになっていた。

北海道旅行は、天候にも恵まれ、順調に時間が過ぎていった。
母の強い希望を聞き入れて、あこがれの寝台車で、札幌まで向かったのだが、狭い社内でも妻と母は、仲良くおしゃべりを楽しんでいた。
札幌で、観光案内の雑誌に出ていたラーメンも無事に食べることができ、レンタカーも配車の手違いからワンランク上位の車種があてがわれ、妻も娘もその乗り心地の良さに感激していた。
富良野に泊まった2日目は、少し足をのばして、娘が行きたがっていた旭山動物園にも行くことができた。
私も童心に戻って、久しぶりに楽しんでいた。
最終日の午前中は、母は近くにある歴史博物館を見学したいと、一人でタクシーに乗って出かけて行った。
我々は、やはり近くにある有名なラベンダー畑に行き、美しい風景を堪能した。
残念ながら、ラベンダーの時期は過ぎていたらしく、畑にはラベンダーに色は似ているものの、明らかに違う花が、一面に咲き誇っていた。
その後、母とも無事合流し、一緒にこの旅行最後の昼食を楽しんだ。
母と妻もこの旅行中は、まったく揉め事もなく、事なきを得て、帰りの飛行機に搭乗すべく、空港のロビーまでやってきた。
そこで事件が起きたのである。
母はチェックインがすむと、フライトの時間までに、もう一度北海道の空気を吸いたいと、「先に搭乗口に行っていて」との言葉を残し、搭乗ゲートに入ることなく、一人で空港の外に出ていった。
私達は、そんな感傷にふける母を可愛らしいと思い、なんの心配もなく、先に手荷物検査を受けると、搭乗口の待合室へむかった。
待合室は多くの家族連れでごった返していた。あいている椅子を見つけ、妻と娘と離れた場所に一人座ると、自分はいつから母親が可愛いと思えたのだろう?そのようなこと、窓の外に広がる入道雲を見つめながら、ぼんやりと考えていた。
確か子供の力ではまったくかなわなかった父に、腕力で勝てると思えてきた頃と同じだった気がする。
時期を同じくして、今まで気にも留めてなかった母の人生について、少しは気にするようになっていた。
中学、高校と母との会話は減っていったが、この頃から、また話をする機会が増えていったような気がする。
その頃に、母から母の父親という人物の写真を見せられたことがある。
私が生まれたときには、すでに母方の祖父は亡くなっていたので、実際に祖父の顔を見たのはその時が最初なのである。
セピア色に古ぼけたその写真には、屈強な大男が映し出されていた。
トーキー映画に出てくる警官にあるような、天に向かって突き出た口髭をたくわえ、頑固な面構えで、撮影者を睨んでいた。
母から、私へと、この写真に写る男性のDNAは確実に受け継がれているのだと、そんなことを、考えていた記憶が蘇る。

「羽田行き112便は、最終搭乗のご案内をしております、お急ぎご搭乗ください」
そんなアナウンスが空港に響いていた。
出発間近というのに、母が搭乗口にやってこないのだ。
私も妻もうろたえていた。妻は全てのトイレを探しまわり、私は荷物検査のゲートまで戻ると、背伸びをしながら入場者を覗きこんでいた。
いよいよ間に合わないことがわかると、慌てて航空会社の係員に事情を説明し、搭乗機の変更をお願いした。
運良くその日の最終便に空席があり、4名分の変更ができた。
私も、妻も明日は用事があり、なんとしても今日中に東京に帰りたかった。
私達残された家族は、ただこの待合室で待つしかなかった。
母が、事故や事件に巻き込まれていないことを願いながら、ただ時間が過ぎていった。
しかし、なんという不幸であろうか、さっきまで楽しかった旅行が、一気に不安の渦に呑み込まれてしまったのである。

最終便はすでにフライト準備が整ったようである。
最初のコールがアナウンスされた。
その時、私の携帯電話に着信があった。
着信番号欄には「公衆電話」の文字が表示されている。
母からであることはすぐにわかった。
私は勢いよくその電話に出ると、
「どうしたのだ!皆心配しているぞ!」といきなり強い口調で怒鳴った。
少しの間があった後、母の以外にも明るい声が聞こえてきた。
「私のことは心配いりません。また連絡するので、先に東京に帰ってください」
そして、一方的に電話は切れた。
なんとも拍子抜けがした。
まったく悪びれる感じではないのである。
まるで近所のスーパーから電話をかけてきているようだ。
電話が切れた後、横に張り付いていた妻にその内容を伝えると、妻も怒るのではなく、きょとんとした表情になって、椅子に座りこんでしまった。

母を残し、私達家族は東京に戻った。
それが正しい判断かはわからなかったが、もう母の言葉を信用するしかなかった。
それ以降、母からの連絡は途絶えた。
不思議なのだが、残された我々三人は、母の失踪を三面記事に出る事件のように騒ぎ立てることはなく、自然に母のいない生活を受け入れていった。
また三人の生活に戻り、妻はあまり母のことを話題に出さなくなった。
ただ、決して母の荷物を整理しようとはしなかった。きっといつ帰ってきても母が困らないようにとの優しさだったのだろう。
無論、東京に戻ってからしばらくして、警察には母の捜索願を提出していた。
しかし、警察からも母の消息を知らせる連絡は入らなかった。
でも私には不思議な感覚が残っている。突然いつも近くにいた人間がいなくなったのだから。
別に死んだわけではないが、そのことがさらに歯がゆさを増幅させる。
母は、私や妻に我々の計り知れない不満を抱いていたのであろうか?
あのような明るい別れの電話をかけてきた本意がまったく想像つかない。

すでに母が失踪してから5年の歳月が流れていた。
私も妻も中途半端な感情で、母のことをたまに思いだしながらも、普通の日常を過ごしていた。
娘も、自分の祖母は九州にしかいない。そんな様子である。
そんな5年目の夏の終わりに、突然、私宛てに一通の封書が届いた。
その日は、休日だったが、妻も娘もたまたま外出していて、私一人であった。
差出人の欄にはなにも書かれていない。
ただ、消印には「札幌」の文字が押されている。
私は胸騒ぎを感じ、封書を手荒く開封し、中味を引きだした。
そこにはもう一つ、きちんと封印された古びた茶封筒と、一枚の便箋、そして白い和紙でできた小さな箱のようなものが入っていた。その箱には小さな骨のような物体が一つだけ入っていた。
そして茶封筒には見慣れた母の文字で、私の名前が小さく書かれていた。
便箋には、
「長い間ご連絡をせずに申し訳ございませんでした。
貴方のお母様はひと月前に天国に旅立ちました、大変安らかな最期でした。
生前にお母様から頼まれていた手紙をお送りいたします」
それだけが、力強い文字で書かれていた。
そして、こちらにも住所や氏名は書かれていなかった。
唐突な内容に、頭を混乱させながらも、私の名前が書かれてある茶封筒を開けた。

「本当に心配をかけてすみません。
あなたや久美子さんは、なにがおこったか理解できずに、きっと困惑しているのでしょうね。
実はあの北海道旅行で、あなた達と別行動した時、一人で入った博物館で、私はある方に会ったのです。
その方は私がお父さんと結婚するずっと前、まだ女学校に通っているの頃に、近所にすんでいた大学生で、私の初恋の方だったの。
私が、学芸員の資格を取ったのも、その方の影響なのです。
二人ともすっかり年を取っていたけど、その方の優しい目を見て全てが蘇り、奇跡的な再開に運命を感じて、心が震えてしまいました。
その後、二人で近くの喫茶店に入り、色々これまで生きてきた人生の話をしたのです」
私はここまで読むと、古ぼけた喫茶店で、小さな丸いテーブルを囲んで話をする二人の姿を想像した。そこだけ時代が逆戻りし、母は着物をきた女学生に、相手はハイカラな学ラン姿に変貌した。母の顔はうっすらと赤らんでいるように見えた。

「話を聞くとその方も奥様を亡くされ、一人で暮らしているとのことでした。
老楽の恋と笑われてしまうけど、残りの人生をその方とご一緒したいと心から思ってしまったのです。
お父さんは、きっと天国で怒っているでしょうね。
貴方からも謝っておいてください。
もちろんお父さんのことは今でも一番愛しています、そのことは信じてください。
この手紙をあなたが読んでいるということは、すでに私はお父さんの側に行っているのでしょう。
私の遺骨は、こちらの大地に眠れるように頼んでいます。最後まで我儘をすみません。
そして少しだけ、この手紙と一緒に遺骨を送るようにお願いしています。
それをお父さんの遺骨の中に入れてほしいのです。よろしくお願いします。
そして空の上から、お父さんに怒られながらも、あなたとあなたの家族の幸せを願っています。 最愛の皆さまへ、母より」

私は無性に外の風に触れたくなり、小さなひとかけらの遺骨を握ると、マンションを出た。
マンションの横に、近隣の運動施設まで続く、細い遊歩道がある。
私は、その道をゆっくりと歩いていた。
母も母親であると同時に一人の女性だったのだ。
当り前なのかもしれないが、私は今まで一度も母を女性として考えたことなどなかった。
父は天国で、やはり怒っているのだろうか。父は感情をあらわにするタイプではなかった。
両親が喧嘩している姿を見たのは、私の記憶では片手でも足りる程度だ。

妻は、母からの手紙を読むと、静かにソファーから立ちあがり、窓の外を見つめた。
しばらくの間、静かに時が過ぎた。
ふと妻は振り返り、私の目をしっかりと見つめて、
「あなたには悪いけど、同じ女性として、お母様の気持ちがわかるような気がします。
確かにお母様の最期を、見とることができなかったのは残念だけど、最高に幸せな人生の最後を過ごしたのだと思います。
私には真似は出来ないけど、本音はすごく羨ましいと思っています」
私は複雑な気持ちになった。父も天国で、母からの説明を聞き、同じように複雑な気持ちになっているのだろうか?

週末に、私は妻と娘を誘って父の眠る墓地までやってきた。
お盆を過ぎた墓地は、人影も少なく、線香の煙が立つ墓石はわずか数える程度であった。
郊外にあるこの墓地は、整備された公園墓地とはいかないまでも、きちんと菩提寺に隣接する自然と調和のとれた寺院墓地であった。
近くに雑木林があるせいか、夏の終わりを悲しむ蝉の鳴き声が妙に大きく響いていた。
自宅から近いことが大きなポイントであったが、両親はこの環境も大変気に入り、生前にこの墓地の一角を買っていた。
墓石は、妻の考えを取り入れ、横型で、大きく「風」と彫られている。
この墓地は、よく見かける、御影石を使った縦型の墓石が多いので、結構目立つ存在である。
住職に依頼し、我々家族三人の見守る中、たったひとつしかない母の遺骨を父の遺骨で一杯になっている骨壷に入れた。
その後、お経をあげてもらい、無事父の眠るお墓へと納骨は完了した。

私は、妻と娘を自動車の止まる墓地の駐車場へと先に行かせると、もう一度墓地の入り口に立って、父と母が眠る墓の方向を見つめて呟いた。
「お母さん、これで良かったのだね。
お父さんにこの5年間、お墓参りに来れなかった理由を、しっかり説明してあげてください。
そして、天国で二人仲良く過ごしてください」
ふと空を見上げると、墓地の向こうに広がる雑木林の上を、夏の終わりの入道雲が、強風を受けてその形を歪ませていた。
天空に広がる雲を見つめていると、やがてその一つが人の顔のように見え始めた。
私は、声をあげて笑いだした。
その雲は父の顔に変わり、生前の父がめったに見せなかった満面の笑みを浮かべると、
「私は母のことをちっとも怒ったりしていません。
お前も母をゆるしてあげなさい」
そのように私に優しく語りかけてくるのであった。

母からの手紙

こんな人生もいいな。人間は心が支配する生き物なのです。

母からの手紙

父の死をきっかけに、母親と同居を始めた家族。北海道旅行での母の失踪、その原因は昔のあこがれの方との再開でした。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-10-18

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